とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 436 中山美穂 You're My Only Shinin' Star

2018-09-30 16:22:34 | 日記
台風の最中。だからこそ立ち向かうファイトが湧いてきます。
中山美穂と言えば、私はドラマで、個性的な、どちらかと言えば男前の演技が印象に残っています。でも、唄もいいですね。

中山美穂 You're My Only Shinin' Star


中山 美穂(なかやま みほ、1970年3月1日 - )は、日本の女優、歌手。80年代アイドル。身長158cm。血液型O型。
東京都小金井市出身(出生は長野県佐久市)。ビッグアップル所属。
作詞をする時は「北山 瑞穂」(きたやま みずほ)と「一咲」(いっさく)というペンネーム(アルバム『DANCE BOX』のブックレット末尾に「Issaque」との表記あり)を使用していた時期もあった。愛称は「ミポリン」。
実妹は女優の中山忍。

略歴

アイドル期

1982年、小金井市立緑中学校1年生の時に原宿でスカウトされ、モデルクラブ・ボックスコーポレーションに所属。雑誌『花とゆめ』や広告、ポスター等のモデル活動のほか、TDKカセット「スプレンダー」や明治製菓のCMに出演。ビジュアルでは昭和の歴代アイドルの中でもトップクラスという評価があり、この時期の活動がそれを根拠づけている。芸能活動が活発になってきた中学3年の時に東京都板橋区立板橋第五中学校に転校し、のちに卒業。高校は東京都立北園高等学校定時制に進学したが、芸能活動を優先するために1年二学期に中途退学した。

1985年1月、TBS系ドラマ『毎度おさわがせします』のツッパリ少女・のどか役で女優デビュー。 思春期の性をテーマにしたホームコメディードラマで、刺激的なシーンやセリフが多く、今までにないその鮮烈な内容が大いに注目されて大ヒットした。また彼女はドラマ開始時は無名な存在ではあったが、ドラマの要でもある役柄を当時14歳にして体当たりで演じきり、型どおりの清純派とは一味違ったキャラクターで一躍注目を集めた。

同ドラマ終了後、バーニング傘下のビッグアップルに移籍する。同年6月、シングル「C」でアイドル歌手としてもデビュー。同12月には、ヒロイン役で初出演した映画『ビーバップ・ハイスクール』が劇場公開されて大ヒット。また年末には、新人アイドルが豊作だった中で、その頂点に達する第27回日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞するなど幸運が続いた。また同期には森川美穂、本田美奈子、南野陽子、井森美幸、森口博子、斉藤由貴、浅香唯、おニャン子クラブ、中村繁之、芳本美代子、森下恵理、網浜直子、大西結花、いしのようこなど、のちにトップアイドルになる華々しい顔ぶれと並んでのデビューだった。それぞれ歌手、役者、タレント、モデルなどの道を進み活躍している。

1986年には前年以上の活躍を見せ、ヒット曲を連発。トップアイドル歌手として多くの歌番組に出演していくようになる。そしてこの頃から日立製作所や資生堂など大手企業のCM出演も多くなるなど、名前も全国区となる。1987年に放送された主演ドラマ『ママはアイドル』の役柄・中山美穂の愛称ミポリンが、実際の中山の愛称としても定着した。同年ブロマイド売上枚数が女性部門でトップになる。しかし、11月に溶連菌感染症に罹り、主演ドラマ『おヒマなら来てよネ!』(フジテレビ系)の撮影中断を余儀なくされ、当初の予定より1話減らした9話で完結することになった。

1988年に『第39回NHK紅白歌合戦』に初出場し、以後1994年の『第45回NHK紅白歌合戦』まで7年連続で出場した。
1989年1月、フジテレビ月9枠のドラマ『君の瞳に恋してる!』に主演。男性だけではなく女性からも憧れを誘う存在となって、以後、その月9枠の常連となり、主演が7作品と、女性では最多を記録している(男性を含めると木村拓哉に次ぐ第2位)。また、主演と主題歌を担当した作品も4作で、最多である。

80年代後半に最も活躍した女性アイドル四人(中山美穂、工藤静香、南野陽子、浅香唯)は当時女性アイドル四天王と呼ばれていた。別冊宝島の調査によると、1980年代のシングル総売上げは年間ベスト50位以内のものに限っても245.6万枚と当時の女性アイドル中5位であった。年間ベスト50位以内ランクイン曲数10曲と当時の女性アイドル中3位であった[6]。

歌手と女優の両立

1990年代に入り、1980年代にデビューした多くのアイドルが女優もしくはバラドルへと転向を図る中、年1本の連続ドラマ、映画、CM、アルバム発売、コンサートツアーと、歌手業と女優業の両立を維持する。
1992年10月、中山美穂&WANDS名義でリリースした「世界中の誰よりきっと」が180万枚を超える売り上げ(オリコン最高位1位)の大ヒットを記録。

1993年1月よりデビュー以来初めてとなる3カ月の長期充電期間に入る。ロサンゼルスに滞在してボイストレーニングやダンスレッスンを受けるが、4月リリース予定であったNHK連続テレビ小説『ええにょぼ』の主題歌「幸せになるために」のレコーディングは充電期間前に済ませていた(当時のレギュラーラジオ番組「P.S. I Love You」内での本人談)。3月末に帰国し4月、読売巨人軍の開幕戦の始球式で投手役を務める。デビュー以来初めて女優活動を休止し歌手活動メインの1年を過ごした。

1994年2月、「ただ泣きたくなるの」が100万枚を超える売り上げ(オリコン最高位1位)を記録し、自身単独名義での初ミリオンヒットとなる。前出の『世界中の誰よりきっと』と合わせると2曲目のミリオンヒットとなり、80年代デビューの女性歌手でミリオンヒット2曲は初の快挙で、現在までにこの快挙達成は中山美穂と今井美樹の2人だけである。

1995年に映画『Love Letter』(岩井俊二監督作品)に主演し、各映画祭で主演女優賞を受賞。
1996年11月、シンガーソングライター岡本真夜とのコラボレーションにより「未来へのプレゼント」をリリース。
1997年公開の映画『東京日和』(竹中直人監督作品)がロングランヒットを記録。また、映画賞で主演女優賞を受賞。

1998年秋クールの連続ドラマ『眠れる森』(フジテレビ系)に主演。SMAPの木村拓哉と共演し、最高視聴率30.8%を記録。
1999年9月にリリースした「Adore」が、現時点での最後のシングル発表曲である。以後、歌手活動を休止している。
2001年春クールの主演ドラマ『Love Story』の平均視聴率が20%越えを達成。これにより1980年代、1990年代、2000年代の三世代で主演ドラマ平均視聴率20%越えを達成した唯一の女優となる。同じく10代、20代、30代での主演作品としても平均視聴率20%越えを達成した唯一の女優となっている。


角松 敏生(かどまつ としき、1960年8月12日 - )は、シンガーソングライター、ミュージシャン、音楽プロデューサー。東京都渋谷区代々木出身。身長169cm。血液型A型。日本大学鶴ヶ丘高等学校、日本大学文理学部卒業。

人物

1981年、20歳でプロデビュー以来、約30年に亘りシンガーソングライターとして自身の名義による多くの作品を発表し、例年の全国ツアーなどライブ活動もしている。その傍ら、1980年代半ばから杏里や中山美穂といった他アーティストへの楽曲提供と、それに伴う音楽プロデューサー業も手掛けている。1997年、長万部太郎名義でのバンド活動およびプロデュースした「WAになっておどろう」(AGHARTA(アガルタ)とV6が同時期にカバー)が一般的に知られる。他アーティストへのプロデューサー業で数々のヒット曲を生み出したのに比べ、本人名義としては一般的な認知を得られるほどのヒット曲を持っていないことを自身でかなり気に掛けていて、今後の目標のひとつにその達成を掲げたいと、近年はライブのMCやインタビューなどで表立って言及している。

発表する曲は海・夏・リゾートを連想させる曲(特に初期)や中期以降では深遠な恋愛観・精神世界・喧騒な夜の都会を連想させる曲が多く、曲の作り込みに強いこだわりを持つ事からSNSやメディアでは音楽職人と称されている。角松自身の音楽スタイルは、自身が尊敬している山下達郎や大瀧詠一等の影響でシティポップ・ニューミュージックを基調とする一方、R&B・ファンク・ソウル音楽等のブラックミュージックの要素を巧みに取り入れている事から、久保田利伸・SING LIKE TALKING・TUBE・大沢誉志幸・安全地帯等後進のミュージシャンやバンドにも影響を与えている。
乱視が有り、青年時代からメガネを着用している。(「Wikipedia」より)


あちこち「SYOWA」 435 菊池桃子 - 雪にかいたLove Letter

2018-09-30 00:29:13 | 日記
アイドルという印象しか持っていなかったが、政治の世界でも活躍しているということを知り関心を深めました。ストーカーされた・・・、いや、このことはよしましょう。いや増す魅力に魅かれています。


菊池桃子 - 雪にかいたLove Letter



菊池 桃子(きくち ももこ、1968年5月4日 - )は日本の女優、歌手、タレント[1]、大学教員[1]、ナレーター。80年代アイドル。
2012年(平成24年)に法政大学大学院政策創造研究科で雇用問題を専攻し、修士号を取得。同年から母校の戸板女子短期大学の客員教授に就任し、労働分野の講義を担当。所属事務所はパーフィットプロダクション。一男一女の母。元夫はプロゴルファーの西川哲。婦人雑貨「Emom(エマム)」「korpiko(コルピコ)」のブランドアドバイザーも務めている。菊地は誤記。血液型はB型。愛称は「桃ちゃん」。


人物

東京都品川区出身。日出女子学園高等学校、戸板女子短期大学被服科美術コース卒業、法政大学大学院政策創造研究科政策創造専攻修士課程修了(指導教授は諏訪康雄)、修士(政策学)。

菊池の叔母が青山で飲食店を経営しており、レジ横に家族や親族の写真を飾っていた。たまたま来店していた音楽関係者がその中の一枚、菊池が微笑んでいる写真に目を留め、その場で菊池の名前や年齢、事務所に所属していないかなど身上を聞いたという。叔母を介し、後日スカウトされる。芸能界入りに関して、菊池の父は学校に行かせること・学業に支障が出ないスケジュールであることを条件とし、本人の希望を優先に承諾した。

元来、大人しい性格の菊池が芸能界に興味を示したのは「見てみたいと思った」程度の好奇心からなる軽い気持ちであり、芸能界に対して強い憧れや目標とする芸能人が存在したわけではないという(考古学者になることが長年の夢であった)。デビュー以前、度重なるオーディションに「自分には向いていない、辞めたい」と思ったと後年、述懐している。

別冊宝島の調査によると、1980年代の年間ベスト50位以内ランクイン曲数5曲と当時の女性アイドル中7位であった。
愛犬家で動物好きである。富士山に造詣が深い。読書家であり(英字書を含む)手工芸や料理が趣味。独身時代は自宅で懐石料理やシチューを数日煮込んで作るほど熱中していたという。

2012年8月より、母校である戸板女子短期大学の客員教授に就任。雇用政策(キャリア教育)について講義を受け持っている。
1991年を最後にソロとしての歌手セールスは行っていなかったが、2014年にデビューから30周年を迎え、4月30日にセルフカバー・ベストアルバム『青春ラブレター 〜30th Celebration Best〜』を発売。5月24日・25日には記念ライブ『菊池桃子30thAnniversary Concert「青春ラブレター」』を開催した。

1982年 - デビュー前の準備の一環として作曲家・アレンジャーである神山純一の自宅スタジオにて歌唱レッスンを始める。初めて神山宅を訪れた際には住所のメモだけで他の情報がないままでの初対面であり、玄関で出迎えたのが神山夫人である元女優・夏純子だったため、なんて美人な奥さんなんだろうと思うと同時に「TVで見たことある人だ!」と、とても驚いたと後述している。また、音楽に関することであれば、歌唱も楽器も神山が全ての質問に明確に回答を示す百科事典のような存在となったため、自分の知らなかった新たな世界が広がっていく感覚が嬉しかったとも明かしている。

1983年10月 - 1984年3月 - ニッポン放送『学園バラエティ パンツの穴』に生徒役で出演し、芸能活動をスタート。

1983年11月 - 学研のアイドル雑誌『Momoco』のイメージガールとなり、創刊号の表紙を飾る。

1984年3月17日 - 映画『パンツの穴』でスクリーンデビュー。ヒロインを演じて注目される。

同年4月21日 - 『青春のいじわる』でアイドル歌手デビュー(トライアングルプロダクション、VAP)。
キャッチフレーズは「It's Real Fresh 1000%」。第26回日本レコード大賞新人賞受賞、日本レコードセールス大賞女性新人賞受賞。ブロマイドの年間売上が1位に。ただし最優秀新人の選考対象とされることについては全て辞退した(辞退理由は「気持ちの整理が付かないから」というものだった。実際は菊池のレコードを製作販売していたバップレコードは日本テレビ系列のための諸事情と言われる。授賞式は海外・サイパンでの仕事のため欠席、ファンへの感謝の手紙がバップ社員より代読された。この年、最優秀新人賞に選ばれたのは岡田有希子)。

純派アイドルとして人気を博し、1985年に行われた日本武道館でのコンサートは、武道館においては当時の時点で最年少公演記録となり、ビートルズの公演の観客動員数を抜き(二万二千人超)、九段下駅から日本武道館へと長い行列が出来、話題になった。入場できなかった観客も一万人超とされ伝説となっている。

4枚目のシングル「卒業-GRADUATION-」から「アイドルを探せ」まで7枚連続オリコン一位の売り上げを記録した。この記録は、1985年から87年にかけてオリコンチャートの上位をおニャン子クラブ関係の曲が独占する中での記録である。
1986年、エランドール賞新人賞受賞。

シングル「夏色片想い」発売キャンペーンとして全国25万人握手会を行う(実際には27万人を動員した)。
1987年、第10回24時間テレビ 「愛は地球を救う」のチャリティーパーソナリティーをつとめ、武道館での出演の他、国連国際居住年親善大使としてアフリカ取材も行った。

1988年2月 - 記者会見を行い、ロックバンド「ラ・ムー」を結成、自らがメインボーカルを担うと宣言した。シングルをリリース、ライブも行ったが興行的には失敗。1989年のシングルリリースを最後にバンド活動は凍結。事実上解散となった。以降、菊池は歌手業を抑えて女優業にシフトチェンジする。

1994年8月8日 - 1993年に「フジサンケイクラシック」のプロアマ戦で一緒にラウンドを回ったことが縁で交際をしていたプロゴルファーの西川哲との婚約を発表。1995年4月24日に挙式をする旨を記者会見で明らかにした。

1995年 - 3月3日、西川側から結婚を無期延期する旨を伝達される(西川と西川の父・西川幸男の確執が原因などの憶測)。結婚延期を撤回して欲しいと菊池は西川の父に懇願したというが「ひいては菊池の将来のためでもある」と受け入れて貰えなかった(西川の父は菊池を大変気に入っていたという)。その4日後、菊池は心労から体調を崩して吐血。十二指腸潰瘍穿孔の診断を受け、約4週間の入院治療を受けることになった。倒れた菊池を案じた西川の父は二人の入籍は認め(挙式は西川がゴルフで結果を出してから)、菊池の快復を待って5月に日取りを決めた。これらの出来事があって、西川は一念奮起して練習に身を入れるようになる)。

1995年7月、「日経カップ 中村寅吉メモリアル」で2年ぶり3度目の優勝を果たし、晴れて挙式の条件がクリアとなった。

1995年5月1日 - 入籍。
1996年2月6日 - 高輪プリンスホテルで挙式。西川の師匠であるプロゴルファー・青木功が媒酌人を務めた。挙式後の会見で妊娠4カ月であることを明かした。

1996年8月7日 - 長男を出産。
2001年10月18日 - 長女を出産。

2008年3月31日 - TBSの生活情報番組『はなまるマーケット』の月曜レギュラーとなる。
2008年5月28日 - 14年ぶりとなる鈴木雅之とのコラボレーションシングルとなる「恋のフライトタイム〜12pm〜」をリリース。
2009年1月4日 - テレビ朝日『人生の楽園』のレギュラー(ナレーション)となる。

2010年3月31日 - 『はなまるマーケット』の月曜レギュラーから水曜レギュラーになる。
2011年3月23日 - 『はなまるマーケット』を卒業(後任はいとうあさこ)。
2011年7月30日 - 文化放送『菊池桃子のライオンミュージックサタデー』のメインパーソナリティとなる。
2012年1月28日 - 西川哲と離婚していたことが判明し、菊池本人が同日、所属事務所を通して離婚を正式発表した。具体的な理由については明かされていない。

2012年2月28日 - 『週刊朝日』3月9日号で離婚前から特定疾患シェーグレン症候群を患っていることを明かした。
2012年3月25日 - 法政大学大学院政策創造研究科政策創造専攻修士課程修了、修士号(政策学)取得。研究分野は「雇用政策を踏まえた人々のキャリア形成」。

2012年8月1日 - 母校・戸板女子短期大学の客員教授に就任。キャリア教育の講義を担当中。
2013年4月16日 - 労働者が自分の働き方を主体的に選べる「キャリア権」の普及を目指すNPO法人「キャリア権推進ネットワーク」が発足、理事に就任。


2014年4月30日 - 23年ぶりのアルバムCD『青春ラブレター 〜30th Celebration Best〜』をソニー・ミュージックレーベルズ(エピックレコードジャパンレーベル)から発売。
2015年10月23日 - 「一億総活躍国民会議」の民間議員に起用。
2015年12月17日 - 単行本『午後には陽のあたる場所』を発売。初の書き下ろし著書。
2016年7月 - 文部科学省 初等中等教育局 視学委員就任。
(「Wikipedia」より)






あちこち「STOWA」 434 薬師丸ひろ子 Woman ~Wの悲劇より~

2018-09-27 00:11:48 | 日記
大人の薬師丸ひろ子像。それを感じさせる映画そして主題歌。アイドルとして見られていた領域からの脱皮を遂げた記念的な作品です。


薬師丸ひろ子 Woman ~Wの悲劇より~



『Wの悲劇』(ダブリューのひげき)は、1984年12月15日に公開された日本の青春映画。監督は澤井信一郎。薬師丸ひろ子主演。カラー・108分。併映は原田知世主演の『天国にいちばん近い島』。15億5000万円の配給収入は1985年の邦画で4位となった。
夏樹静子の小説『Wの悲劇』が原作とクレジットされているが、小説は本映画中で上演される舞台劇の原作という形になっており、ストーリーはその舞台を演じる女優の成長と恋を描いた青春映画である。
作品および監督の澤井、主演の薬師丸、助演の三田はこの作品で数々の賞を受賞し、特に、薬師丸ひろ子がアイドルから大人の女優に成長した映画としても有名である。また、薬師丸による主題歌もオリコンチャート月間1位を記録するヒット作となった。


作品解説

原作の小説とは設定が違い、舞台女優を志望する女性が劇団のスキャンダルに巻き込まれ、それをチャンスと逆手に取り成り上がっていくストーリー。原作小説のメインストーリーは映画内の劇団が公演している舞台のストーリー(劇中劇)となっており、映画内に原作ストーリーをそのまま内包した形で展開している。こういう構成になったのは、澤井信一郎に監督の依頼する前に、ミステリーの謎解きの説明が映画的でないという理由で既に何人かの監督に断られていて、澤井は原作を劇中劇にして、劇団の研究生の青春映画にすることを条件に引き受けたため。『麻雀放浪記』のシナリオを手伝ったことで縁のあった和田誠からの「謎解きミステリに名画はない」との言葉も後押しした。また、劇団という設定について監督の澤井は、スターである薬師丸にオーディションで落ちるという役を与えることで人生経験を積ませたかったと述べている。別説として、黒澤満プロデューサーによれば、原作は冬の山荘の話なのに撮影が夏になるため映画の設定を変更し、角川春樹が原作者の夏樹静子を説得したと話している。

劇中劇の外枠部分のストーリーはアーウィン・ショーの短編小説『憂いを含んで、ほのかに甘く』を参考にしていて、それを翻訳者常盤新平が盗作呼ばわりするなど議論が起こった。これに対し、小林信彦はキネマ旬報で「ヒントを得ることは盗作ではない。これを盗作とすれば、日本映画の大家の名作、現代日本文学の代表作の幾つかが、盗作になってしまう。」と援護するコラムを書いた。また、映画評論家の蓮實重彦や脚本家の野上龍雄も擁護した。結局、訴訟には至らず、毎日新聞も盗作でないと判断し、毎日映画コンクール脚本賞受賞の運びとなった。澤井監督は、この騒動で角川や原作者の夏樹静子に迷惑をかけ申し訳なかったとインタビューで答えている。

劇団の演出家役で蜷川幸雄が出演し、実際に劇中劇の演出も担当している。また、当時テレビで活躍していた芸能レポーターの梨元勝、福岡翼、須藤甚一郎、藤田恵子が、静香のスキャンダルと舞台『Wの悲劇』の突然の主役交代を追及するレポーター役で出演している。名優藤原釜足の最後の出演映画でもある。

ストーリー

三田静香(薬師丸ひろ子)は劇団「海」の研究生で、女優になるために努力を重ねる20歳の女性。そんな真摯な静香を公園で見初めた森口(世良公則)は元劇団員の26歳、今は不動産屋の社員をしている。

静香は劇団の次回公演『Wの悲劇』の主役選考オーディションに臨むが、同期のかおり(高木美保)が役を射止め、静香は物語の冒頭でひとことだけ台詞のある端役(兼プロンプター)を担当することになった。オーディションに落ちて落ち込む静香に、森口は俳優時代の心理的な苦悩を語る。そして、森口は、静香がスターになれなかったらという条件で結婚を申し込み、反対に静香が役者として成功した場合はサヨナラの意味も込めて楽屋に大きな花束を贈ることを約束する。

そんな静香に、危険な第2のチャンスが待っていた。『Wの悲劇』公演のため大阪に滞在中、看板女優である羽鳥翔(三田佳子)のホテルの部屋で、羽鳥のパトロンの堂原(仲谷昇)が腹上死してしまったのだ。スキャンダルになることを恐れた羽鳥は、たまたま部屋の前を通った静香を呼び寄せ、身代わりになることを頼む。その見返りとして、続く東京公演でかおりを降板させ、静香を主役へ起用させることを約束する。

舞台への情熱が勝った静香はその申し出を承諾し、羽鳥の代わりにスキャンダルの当事者としてマスコミの矢面に立つ。
そして、静香にとって初めての大舞台となる、東京公演の幕が上がる。羽鳥の後押しもあって、静香はステージの上で全身全霊で役柄を演じきり、観客や団員達の賞賛と祝福を受ける。しかし栄光もつかの間、新しいスターを取材しようと集まった報道陣の前に真相を知ったかおりが現れ、事の全てを暴露、静香を刺殺しようとするが、森口が静香を庇って刺される。一夜の名声から再びスキャンダルの汚名をかぶった静香だが、同時に自分の道は舞台にしかないことを確信する。静香は女優として再起することを誓い、森口に別れを告げる。そんな静香の去り際を、森口は拍手で見送る。
(「Wikipedia」より)



あちこち「SYOWA」 433 一青窈 - ハナミズキ

2018-09-26 00:56:01 | 日記
この唄も敢えて・・・。私の大好きな唄です。人柄が唄に滲み出ていて平和な気分になります。歌詞もそういう願いを唄っています。名曲だと思います。


一青窈 - ハナミズキ



一青 窈(ひとと よう、1976年9月20日 - )は、女性歌手・作詞家・俳優。
姉は、歯科医師・舞台女優・エッセイストの一青妙(ひとと たえ)。


来歴

中国語の漢字名は顏窈(イエン・ヤオ)で、「顏」は父親の姓。「一青」は母親の姓。
台湾で生まれ、幼稚園卒園後に父を台湾に残し、母・姉と日本で生活することとなる。小学生2年の時に父が癌で死去。以降、母の姓の一青を名乗る。小学校高学年の頃に宮沢賢治の詩に触発され、詩を書き始める。初等部から森村学園に通い、美術部とバスケットボール部に所属、生徒会では書記を務める。高校生の時に母も癌で亡くす。

半年の浪人期間を経て、AO入試で慶應義塾大学環境情報学部(SFC=湘南藤沢キャンパス)に入学。慶應義塾広告学研究会、ジャズ研究会、K.O.E.(アカペラサークル)に所属し、ストリートライブを行うなどした。K.O.E.で現ゴスペラーズの北山陽一と出合い、自作の詩を見せたところ「お前の詩は面白い。FAXしてくれたらいくらでも曲を付けるから歌え」と提案され、以降自分の詩で歌うこととなった。

その後、福祉イベントで歌っているところをスカウトされ、2002年に「もらい泣き」でデビュー。同曲がヒットし、ファーストアルバム『月天心』で大ブレイク。数々の音楽賞や新人賞を受賞する。2003年、第54回NHK紅白歌合戦に初出場。2004年、「ハナミズキ」が大ヒット。映画『珈琲時光』主演で女優デビューし、日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。2006年、初のベストアルバムを発表。

2006年、日本人アーティストとして初めて、カーボンオフセットライブを逗子海岸の音魂 (Otodama Sea Studio) で行い、現在(2009年)まで毎年継続している。ベストアルバム『BESTYO』の初版もカーボンオフセットしている。台湾でもCD・DVDが発売されており、『もらい泣き』『大家』『月天心』のジャケットは台湾オリジナル仕様となっている。台湾のキリンビールのCMにも出演し、台湾の愛唱歌『望春風』が使われた。

2008年12月には、岩松了演出の音楽劇「箱の中の女」の主演を務めた。

2007年1月、写真週刊誌『フライデー』およびそれを後追いした一部スポーツ紙・週刊誌などで、小林武史との不倫疑惑が報じられた。
2015年4月27日、ギタリスト・山口周平と結婚し、妊娠4カ月であることを、マスコミ各社宛ての直筆メッセージで明らかにした。11月8日、第1子男児出産を公表。 2017年2月27日、第2子妊娠が公表された[7]。7月上旬に第2子女児を出産。同年、デビュー15周年を迎えシングル「七変化」を、オールタイムベストアルバム「歌祭文 ~ALL TIME BEST~」をそれぞれリリースした(10月11日)。

「ハナミズキ」は、一青窈の5枚目のシングルであり、代表曲の1つ。2004年2月11日コロムビアミュージックエンタテインメント(現・日本コロムビア)より発売。初回盤モノクロジャケット仕様。

アメリカ同時多発テロ事件発生時、ニューヨークにいた友人からのメールをきっかけに、一週間ほどで書いた詞であった。作詞当時は、A4用紙3枚程で「テロ」・「散弾銃」といった言葉があり、一青いわく「挑戦的な詞」であったという。その詞を削っていって「君と好きな人が百年続きますように」の言葉にたどり着いたのは、一青自身も不思議に思っているという。
PVでは、歌詞に合わせて手話を取り入れている。第58回NHK紅白歌合戦では、大学生時代のサークルの友人と共に手話を行いながらの「ハナミズキ」を披露した。
タイトルの元となったハナミズキは、彼女が学生時代よく行った、世田谷区内の二子玉川にある「ドッグウッドプラザ」にちなんでいる。

初めて発表されたのは、リリースの約1年前の2003年4月に池上本門寺で行われた初の野外ライブ・「月天心~しゅるり」であった。発表当時は、3番の歌詞の一部は歌唱前に読まれていた。なお、その模様はライブDVD「姿見一青也」に収録されている。
2004年のライブツアー「てとしゃん」での機材輸送トラックのコンテナにハナミズキの通常版ジャケットからの写真があしらわれていた。2004年のライブツアー最終公演で来場者3700名にハナミズキの苗木をプレゼントした。

2004年のアテネ五輪女子マラソンで金メダルを獲得した野口みずきの名前の由来であったことも手伝って、2000年シドニー五輪(高橋尚子がマラソンにおいて金メダルを獲得)の時のhitomiの「LOVE 2000」に続く、金メダルソングとしても話題となった。
オリコンの週間シングルランキングでは125週連続チャートインし、累計136週のチャートイン。カラオケランキングでは90週連続でTOP5入りとなるロングヒットを記録。2007年度の年間ランキングでは6位。

表題曲は日本音楽著作権協会(JASRAC)の著作権使用料分配額(国内作品)ランキングで2005年度の年間9位、2013年度の年間10位、2015年度の年間5位を獲得した。

また、歌手の間でも歌われることも多く、2006年の鎌倉でのライブイベントで共演した森山良子に絶賛された。また作曲者のマシコタツロウをはじめ、徳永英明の『VOCALIST』、甲斐よしひろの『10 Stories』といったカバーアルバムに収録されている。またラジオ放送で福山雅治がギターでの弾き語りもした。

2006年12月のよみうりランドで行われた初のフリーライブ「BESTYO Free CONCERTYO」の当日の天気は曇り空であったが9曲目の「ハナミズキ」のサビを歌い出した途端、空が晴れ日光が一青をスポットライトのように照らし、幻想的な雰囲気になったという。
2009年11月に、この唄のイメージを実写化した映画が制作されると発表された。2010年8月に公開され、興行収入27億円を超える大ヒットとなった。

2015年7月29日に、リリースされた一青にとって2作目となるカバーアルバム「ヒトトウタ」でも、「ハナミズキ」はセルフカバーされ、母校の森村学園の生徒と一緒に歌い上げた。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 432 紙ふうせん・・冬が来る前に

2018-09-25 04:24:48 | 日記
フォークの名曲の一つ。何度聴いても新鮮で胸が熱くなります。永遠の名曲です。

紙ふうせん・・冬が来る前に



紙ふうせん(かみふうせん)は、1974年(昭和49年)に結成された日本のフォークグループである。近畿地方を中心に息の長い活動を続けている。

概説・歴史

フォークグループ赤い鳥のメンバーであった平山泰代(1947年(昭和22年)3月28日 - 、広島市生まれ)と後藤悦治郎(1946年(昭和21年)4月29日 - 、兵庫県尼崎市生まれ)は、同グループ解散直前に結婚し、解散後に夫婦デュオ「紙ふうせん」として活動を始めた。 二人は高校時代同級生(兵庫県立尼崎北高等学校)であったが、ほとんど交流がなく、大学入学後に再会した。ちなみに、平山は武庫川女子大学、後藤は京都外国語大学である。

1977年(昭和52年)には「冬が来る前に」でメジャーヒットを飛ばし、紙ふうせんの代表曲となった。曲を自作するだけではなく、フォークの原点を探ろうと、民謡等各地の伝承歌の取材を続けており、近年は合唱曲としても有名な赤い鳥時代の「翼をください」、「竹田の子守唄」、「赤い花白い花」(芹洋子の歌でもヒットした)、紙ふうせん以降は「いかつり唄」「霧にぬれても」なども有名な他、1979年(昭和54年)にスタートした朝日放送テレビ(ABC)の情報番組『おはよう朝日です』の初代主題歌「朝(あした)の空」は、15年間にわたって使用された。

2005年(平成17年)にはNHK教育TVの『趣味悠々〜紙ふうせんのあの素晴らしいフォークをもう一度』の講師として出演。後藤悦治郎は蕎麦通としても知られ、また、熱心な阪神タイガースファンで関西に移って一番良かったのは後楽園球場から遠くなったことだと音楽番組の中で冗談を飛ばしている。西宮市甲子園口に在住で関西テレビ『よ〜いドン!』で月亭八光が訪問している。

なお「冬が来る前に」の大ヒットで、フジテレビ『夜のヒットスタジオ』(1978年(昭和53年)2月13日放送)に出演した時は、サプライズで大村崑夫婦から花束をもらっていた。またTBSテレビ『ザ・ベストテン』(1978年3月9日放送)では、この日8位にランクされたのが唯一の出演となった。(「Wikipedia」より)