1957年に自分の弟のベビーシッターへの片思いを綴った自作曲「ダイアナ」"Diana"でデビューする。この曲はいきなり、Billboard Best Sellers In Storesの1位にランクインした。その後、「君は我が運命」"You Are My Destiny"、「ロンリー・ボーイ」"Lonely Boy"などのヒットを飛ばす。
1960年代半ばからはヒット曲に恵まれず低迷するが、70年代にはトム・ジョーンズに「シーズ・ア・レイディ」を提供した。また1968年にフランク・シナトラにスタンダード「マイ・ウェイ」を提供する。これは、アンカがとあるシャンソンの曲(Comme d'habitude)の歌詞を英詞で書き直したものである。また、自身も1974年にオディア・コーツとのデュエット曲である「二人のきずな」"Having My Baby"を、Billboard Hot 100の1位にチャートインさせ、カム・バックした。
ダイアナ Diana(1957年)
お嬢さんお手やわらかに It's Really Love(1958年)
君はわが運命 You Are My Destiny(1958年)
クレイジー・ラブ(1958年)
あなたの肩に頬うめて Put Your Head On My Shoulder(1959年)
ロンリー・ボーイ Lonely Boy(1959年)
イッツ・タイム・トゥ・クライ(1959年)
パピー・ラブ Puppy Love(1960年)
恋の汽車ポッポ Train of Love(1960年)
マイ・ホーム・タウン My Home Town(1960年)
電話でキッス Kissin' On The Phone(1961年)
ハヴィング・マイ・ベイビー(1974年)
ワン・マン・ウーマン(1975年)
アイ・ドント・ライク・スリープ・アローン(1975年)
タイムズ・オブ・ユア・ライフ(1976年):ロジャー・ニコルズ作曲の名曲。最後のヒット。(Wikiより)
ザ・ロネッツ(The Ronettes)は、ニューヨーク出身の1960年代の女性歌手グループ。フィル・スペクターのプロデュースで知られる。
代表曲は、「あたしのベビー(Be My Baby)」「ベビー・アイ・ラヴ・ユー(Baby, I Love You)」「恋の雨音(Walking in the Rain)」「(The Best Part of) Breakin' Up」など。
リードシンガーのヴェロニカ・ベネット(別名ロニー・スペクター)が「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第69位にランクインしている。
そして、1963年にフィレスレコードからの彼女達の最初のシングル「Be My Baby」(邦題・あたしのベビー)がリリースされ、同年の8月にビルボードチャートで最高2位、イギリスでも4位の大ヒットを記録するに至った。
その後も「Baby, I Love You」「恋の雨音」など数多くのシングルをリリースしヒットを記録していたものの、1960年代中期には活動休止し、1966年夏、ビートルズ最後のコンサートツアーの前座として北米を周ったのを最後に、解散した。後に復活したものの、あまり人気が出なかった。
ニューヨークのウォルドルフ=アストリアでセレモニーに出席した。プレゼンターは、ロネッツの長年のファンと自任するキース・リチャーズ。ヴェロニカとネドラが、「Baby I Love You」と「Walking in the Rain」と「Be My Baby」を歌った。エステルは出席していたものの、1968年に芸能界を引退していたのと、すでに心身を病んでおり歌える状態ではなかった為にステージには上がらなかった。
2009年2月11日、ロニーが自身のHPで、姉エステルの死を伝えた。
チンクェッティは、1963年のカストロカーロ新人コンテストで優勝。1964年、16歳の時にサンレモ音楽祭で夢みる想い (non ho l'età) を歌い優勝、ユーロビジョン・ソング・コンテスト1964 に同じ曲で臨み、イタリアからの出場者としては初の優勝を果たしたことにより一躍有名となった。またユーロビジョン・ソング・コンテスト勝者としては初めてUKトップ75にチャート・インした。1966年には愛は限りなく (Dio, come ti amo) が世界的ヒットとなった。当時、カンツォーネ・ブームの日本では、ボビー・ソロと共に本国イタリアを凌ぐ人気となり、日本語の録音も残している。
ユーロビジョン・ソング・コンテスト1964では、「Oração」を歌ったポルトガル代表のアントニオ・カルバリオ(ポルトガル語版)の次、「Život je sklopio krug」を歌ったユーゴスラビア代表のサバフディン・クルト(英語版)の前である、12番目に登場した。投票結果は僅差であったが、この曲は49ポイントを獲得して出場16曲中の首位となった。
「夢みる想い」は、イタリアのみならず、ヨーロッパ大陸の他の国々、スカンディナヴィア、さらに全世界において、チンクェッティに相当の商業的成功をもたらし、様々な言語で、例えば英語版「This is My Prayer」、スペイン語版「No Tengo Edad」、フランス語版「Je suis à toi」、ドイツ語版「Luna nel blu」、日本語版「夢みる想い」が制作され、またさらに多くのアーティストたちによって、さらに多くの言語でのカバーが制作された。有名なブルガリアの歌手リリー・イヴァノヴァ(英語版)や、香港の歌手レベッカ・パン(英語版)(潘迪華)は、1964年のうちにこの曲をカバーした。
翌年のユーロビジョン・ソング・コンテスト1965で優勝したのは、ルクセンブルク代表として「夢見るシャンソン人形」を歌ったフランス・ギャルであった。
この年のイタリア代表は「Se piangi, se ridi」を歌ったボビー・ソロであった。