とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 268 ヴィッキー=レアンドロス ♪L'AMOUR EST BLEU <邦題:恋はみずいろ>

2017-12-30 22:44:43 | 日記


ヴィッキー。と言ってもあまり記憶にないお方が多いのではと思います。しかし「恋はみずいろ」というタイトルは同世代の多くのお方が思い出されると思います。清楚な感じの歌声が私は好きでした。


ヴィッキー=レアンドロス ♪L'AMOUR EST BLEU <邦題:恋はみずいろ> (67)


ヴイッキー・レアンドロス(Vicky Leandros、1952年8月23日-)は、ギリシャ出身の歌手。


略歴

本名はヴィッキー・ヴァシリキ・レアンドロス・パパサナシュー(Βίκυ Βασιλική Λέανδρος Παπαθανασίου)。ギリシャのコルフ島生まれ。

幼少時から音楽家の父親によって歌とダンスのレッスンを受けていた。9歳の時に当時の西ドイツに移り、1964年、西ドイツでレコード・デビュー。アイドル・シンガーとして人気を博し、現在もドイツを基点にヨーロッパを中心に大御所歌手として活躍中。1967年、ユーロビジョン・ソング・コンテストでルクセンブルク代表として出場。「恋はみずいろ」を歌って4位を獲得した。

以後は世界的な活動を展開、1970年2月25日には初の日本公演を果たした。1972年、ユーロビジョン・ソング・コンテストでルクセンブルク代表として出場。「想い出に生きる」を歌って優勝を獲得した。その後もドイツやギリシャをはじめとしたヨーロッパを中心に音楽活動を続けている。

1982年から1986年にはギリシャ人実業家と結婚し一児をもうけ、その後ドイツ人エンノ・フォン・ルフィン(Enno von Ruffin)と再婚し二児をもうけたが2005年に離婚。 2006年にはギリシャの港町ピレウスの副市長に就任し、文化振興や国際交流に貢献した。


ヴィッキー=レアンドロス ♪Le temps des fleurs <邦題:悲しき天使>


評価

卓越した歌唱力と六カ国語を使い分ける語学力によって、ヨーロッパやアメリカ、カナダなどに活動範囲を広げた。フランス語の歌が主体だが、日本にも1968~1972年にかけて数回来日し、日本人が作詞/作曲した歌を日本語で歌ってヒットさせている。

あちちこ「SYOWA」 267 PAUL ANKA - DIANA HD

2017-12-29 23:54:47 | 日記
日本ではこの曲を誰が唄っていたか思い出せません。ポール・アンカの曲は日本語で随分当時歌われました。

PAUL ANKA - DIANA HD


ポール・アンカ(Paul Anka, 1941年7月30日 - )は、カナダ出身のシンガーソングライター。「ダイアナ」"Diana"で世界的に知られる。

人物・来歴

レバノンの正教徒移民の子としてオタワで生まれた。1990年にアメリカ市民権を得ている。ニール・セダカやデル・シャノンと共に、ポップスの草創期を代表するシンガーソングライターであり、その草分け的存在でもある。

1957年に自分の弟のベビーシッターへの片思いを綴った自作曲「ダイアナ」"Diana"でデビューする。この曲はいきなり、Billboard Best Sellers In Storesの1位にランクインした。その後、「君は我が運命」"You Are My Destiny"、「ロンリー・ボーイ」"Lonely Boy"などのヒットを飛ばす。

1960年代半ばからはヒット曲に恵まれず低迷するが、70年代にはトム・ジョーンズに「シーズ・ア・レイディ」を提供した。また1968年にフランク・シナトラにスタンダード「マイ・ウェイ」を提供する。これは、アンカがとあるシャンソンの曲(Comme d'habitude)の歌詞を英詞で書き直したものである。また、自身も1974年にオディア・コーツとのデュエット曲である「二人のきずな」"Having My Baby"を、Billboard Hot 100の1位にチャートインさせ、カム・バックした。

2002年にはドラマ「ゴールデンボウル」の主題歌に「君は我が運命」が起用され、劇中でもアンカの楽曲が何曲も使用された。
2005年、ハードロック、グランジ、ソウルなどの曲をジャズのアレンジでカヴァーしたCD『ロック・スウィングス』を発表した。
現在もラスベガスを代表するスターとして活躍している。

田原俊彦が歌ってヒットし、日本歌謡大賞を受賞した「さらば‥夏」はポール・アンカの書き下ろし作品である。

ディスコグラフィ

シングル

ダイアナ Diana(1957年)
お嬢さんお手やわらかに It's Really Love(1958年)
君はわが運命 You Are My Destiny(1958年)
クレイジー・ラブ(1958年)
あなたの肩に頬うめて Put Your Head On My Shoulder(1959年)
ロンリー・ボーイ Lonely Boy(1959年)
イッツ・タイム・トゥ・クライ(1959年)
パピー・ラブ Puppy Love(1960年)
恋の汽車ポッポ Train of Love(1960年)
マイ・ホーム・タウン My Home Town(1960年)
電話でキッス Kissin' On The Phone(1961年)
ハヴィング・マイ・ベイビー(1974年)
ワン・マン・ウーマン(1975年)
アイ・ドント・ライク・スリープ・アローン(1975年)
タイムズ・オブ・ユア・ライフ(1976年):ロジャー・ニコルズ作曲の名曲。最後のヒット。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 266 Be My Baby  ザ・ロネッツ

2017-12-28 23:55:33 | 日記
60年代には綺羅星のごとくボーカル・グループが輩出しました。その中にあってややマイナーかもしれませんが、私の好きなグループです。アーテイスト然としていなくて愛くるしいところが好きです。


Be My Baby [日本語訳付き]  ザ・ロネッツ


ザ・ロネッツ(The Ronettes)は、ニューヨーク出身の1960年代の女性歌手グループ。フィル・スペクターのプロデュースで知られる。
代表曲は、「あたしのベビー(Be My Baby)」「ベビー・アイ・ラヴ・ユー(Baby, I Love You)」「恋の雨音(Walking in the Rain)」「(The Best Part of) Breakin' Up」など。
リードシンガーのヴェロニカ・ベネット(別名ロニー・スペクター)が「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第69位にランクインしている。

経歴

1958年、フランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズの楽曲「恋は曲者」のとりこになったヴェロニカ・ベネットが、実姉と年下のいとこを誘って結成した。メンバーは、リードシンガーのヴェロニカ・ベネット(Veronica Bennett;別名ロニー・スペクター(Ronnie Spector))(1943年8月10日生まれ)、ヴェロニカの姉のエステル・ベネット(Estelle Bennett)(1941年7月22日生まれ-2009年2月11日没)、そしてベネット姉妹のいとこのネドラ・タリー(Nedra Talley)(1946年1月27日生まれ)の3人。ヴェロニカとエステル姉妹の母親はアフリカ系とチェロキー族の混血で父親はアイルランド系、ネドラ・タリーの母親はアフリカ系とチェロキー族の混血で父親はプエルトリコ系。(英語版Wikipediaより)

最初はドリー・シスターズと名乗っていた、これはロニー達の祖母がいつまでもお人形さんのように可愛い姉妹(dolly sisters) でいて欲しいという、願いを込めてつけたものだった。しかし、ロニー達はすぐにロニー&レラティヴス(Ronnie & the Relatives)とグループ名を変え、その後ロネッツとするに至った。これは、ロニーの母親がロニーの名前をもじって付けたものだった。

そして、3人でペパーミントラウンジというクラブに遊びに行ったところ、3人ともかなり派手に着飾っていたため、ステージのダンサーと間違われステージに上げられてしまったことがきっかけとなり、ダンサーグループとして活動を開始、その後コロンビアピクチャーズ傘下のコルピックス(Colpix)レコードにスカウトされ、1961年にレコードデビューをする。しかしながら、ヒットに恵まれなかった。
そこでロニーの姉のエステルが、ダメ元でフィル・スペクターのプロダクションに連絡したところ、スペクターは会う事を承諾。そこで行われたオーディションでロニーの声にスペクターが興味を持ち、ロネッツは彼の持つフィレス(Philles)レコードと契約を交わす事となる。

そして、1963年にフィレスレコードからの彼女達の最初のシングル「Be My Baby」(邦題・あたしのベビー)がリリースされ、同年の8月にビルボードチャートで最高2位、イギリスでも4位の大ヒットを記録するに至った。
その後も「Baby, I Love You」「恋の雨音」など数多くのシングルをリリースしヒットを記録していたものの、1960年代中期には活動休止し、1966年夏、ビートルズ最後のコンサートツアーの前座として北米を周ったのを最後に、解散した。後に復活したものの、あまり人気が出なかった。

70年代には、エステルとネドラに代わりチップ・フィールズとダイアン・リントンを新しいロネッツのメンバーとして活動していたこともある、74年にはダイアン・リントンに代わりデニス・エドワーズが加わり活動していた。
ヴェロニカは、1968年にフィル・スペクターと結婚。1973年に離婚した後、ソロ活動を開始した。

受賞歴など

2004年、ヴォーカルグループの栄誉の殿堂(Vocal Group Hall of Fame)入りを果たす。

ダーレン・ラヴ(Darlene Love)と共に、長期に亘ってロックの殿堂入りの資格があったにも拘らずそれが遅れたのは、ロックの殿堂の理事会員であるフィル・スペクターから執拗な妨害を受けたためであるといわれている。妨害の理由とされているのは、ヴェロニカとフィルが離婚したことや、未払いの著作権使用料を巡ってロネッツがフィルを訴えた(結局、ロネッツ側の敗訴に終わった)ことなどである。しかし2007年3月12日、フィルが殺人事件で起訴され100万ドルで保釈されている間にロネッツはロックの殿堂入りを果たし、

ニューヨークのウォルドルフ=アストリアでセレモニーに出席した。プレゼンターは、ロネッツの長年のファンと自任するキース・リチャーズ。ヴェロニカとネドラが、「Baby I Love You」と「Walking in the Rain」と「Be My Baby」を歌った。エステルは出席していたものの、1968年に芸能界を引退していたのと、すでに心身を病んでおり歌える状態ではなかった為にステージには上がらなかった。
2009年2月11日、ロニーが自身のHPで、姉エステルの死を伝えた。

あちこち「SYOWA」 265 GIGLIOLA CINQUETTI - NON HO L'ETÀ

2017-12-26 12:11:19 | 日記
このメロディーも忘れることができません。意味は分かりませんでした。容姿もこの度初めて見てびっくりしています。

GIGLIOLA CINQUETTI - NON HO L'ETÀ


ジリオラ・チンクェッティ(Gigliola Cinquetti, 1947年12月20日 - )はイタリアのポピュラー音楽の歌手。イタリア・ヴェローナ出身。20ヶ月年上の姉がいる。

略歴

チンクェッティは、1963年のカストロカーロ新人コンテストで優勝。1964年、16歳の時にサンレモ音楽祭で夢みる想い (non ho l'età) を歌い優勝、ユーロビジョン・ソング・コンテスト1964 に同じ曲で臨み、イタリアからの出場者としては初の優勝を果たしたことにより一躍有名となった。またユーロビジョン・ソング・コンテスト勝者としては初めてUKトップ75にチャート・インした。1966年には愛は限りなく (Dio, come ti amo) が世界的ヒットとなった。当時、カンツォーネ・ブームの日本では、ボビー・ソロと共に本国イタリアを凌ぐ人気となり、日本語の録音も残している。

また、伊東ゆかり、弘田三枝子などの日本人歌手が彼女の曲をカヴァーしている。1979年に結婚、翌年二人の男の子の育児に専念するため引退してローマに転居した。その後、1989年のサンレモ音楽祭に出場を契機に完全に復帰、1990年にはデビュー25周年ツアーを欧州で行った。1991年、復帰後初のアルバム「Tuttintorno」を発売。以後も1993年に来日コンサート開催、95年「Giovane vecchio cuore」でのサンレモ出場など、積極的に活動した。

2017年11月18日(土)、19日(日)に、24年ぶりとなる来日公演が決定している。(於:川崎クラブチッタ)

夢みる想い

歌詞の日本語訳はここをご覧ください

イタリア代表のジリオラ・チンクェッティがイタリア語で歌った。それまでのイタリア代表の楽曲と同じように、この曲は同年のサンレモ音楽祭で優勝した曲であった。当時のチンクェッティは16歳で、後にベルゲンで開催されたユーロビジョン・ソング・コンテスト1986で「あこがれ(フランス語版)」を歌い優勝した当時自称15歳、実際には13歳であったサンドラ・キムに次ぐ、史上2晩目に若いユーロビジョン・ソング・コンテスト優勝者である。

ユーロビジョン・ソング・コンテスト1964では、「Oração」を歌ったポルトガル代表のアントニオ・カルバリオ(ポルトガル語版)の次、「Život je sklopio krug」を歌ったユーゴスラビア代表のサバフディン・クルト(英語版)の前である、12番目に登場した。投票結果は僅差であったが、この曲は49ポイントを獲得して出場16曲中の首位となった。

「夢みる想い」は、イタリアのみならず、ヨーロッパ大陸の他の国々、スカンディナヴィア、さらに全世界において、チンクェッティに相当の商業的成功をもたらし、様々な言語で、例えば英語版「This is My Prayer」、スペイン語版「No Tengo Edad」、フランス語版「Je suis à toi」、ドイツ語版「Luna nel blu」、日本語版「夢みる想い」が制作され、またさらに多くのアーティストたちによって、さらに多くの言語でのカバーが制作された。有名なブルガリアの歌手リリー・イヴァノヴァ(英語版)や、香港の歌手レベッカ・パン(英語版)(潘迪華)は、1964年のうちにこの曲をカバーした。

翌年のユーロビジョン・ソング・コンテスト1965で優勝したのは、ルクセンブルク代表として「夢見るシャンソン人形」を歌ったフランス・ギャルであった。
この年のイタリア代表は「Se piangi, se ridi」を歌ったボビー・ソロであった。

チンクェッティは、後にユーロビジョン・ソング・コンテスト1974にも出場し、「夢はめぐり来て(英語版)」を歌ってABBAの「恋のウォータールー」に次ぐ2位に入り、ローマで開催されたユーロビジョン・ソング・コンテスト1991では、トト・クトゥーニョとともに司会を担当した。1974年には、「夢はめぐり来て」の英語版「Go」が全英シングルチャートで8位まで上昇し、彼女が「ワン・ヒット・ワンダー」(一発屋)ではないことを証明した。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 264 高英男/雪のふるまちを

2017-12-25 17:40:35 | 日記
雪の中を歩いているとこの唄を思い出します。悲喜こもごもの過去の映像が心の中を通り過ぎていきます。永遠の心のふるさとを感じさせます。

高英男/雪のふるまちを


高 英男(こう ひでお、本名:吉田 英男、1918年10月9日 - 2009年5月4日)は、樺太(現・サハリン)出身の日本の歌手、俳優。日本におけるシャンソン音楽普及の第一人者であり、フランス国内でも活躍。独自のムードを醸し出す歌手・俳優として知られた。経済学者で日本大学第4代総長の呉文炳は従兄弟にあたる。


略歴

大正7年(1918年)10月9日、樺太泊居町で生まれる。8人兄弟の末っ子だった。生後すぐ、母方の伯母の嫁ぎ先へ戸籍上だけ養子に。高は実家の姓で、大陸名のような名前だが日本人である。実家・養家は共に製紙工場を経営しており、王子製紙の創立者の一人である。
11歳のとき、勉学のために樺太から単身東京へ出され、下谷の従弟のもとに身を寄せる。吉田の家が、浅草でも知られた顔だったため、映画・舞台を自由に見て回れた。

本人曰く「《樺太の自然児》として育った子供が、急に人と人の関係が複雑な芸能界のウラみたいなトコで過ごすようになっちゃったんだから、こりゃあ変な男が出来ないはずがないですよ(笑)」
父親は医者にさせたく獨逸学協会学校中等部入学、卒業後武蔵野音楽学校へ進学。同級に木下忠司、大谷冽子がいる。入学後、先輩の紹介で、ディナ・ノタルジャコモにベルカント唱法を習う。
昭和11年(1936年)、初舞台。ソロで3曲歌う。またその頃、コーラスグループ「コーロエーコー」に入団。最年少団員だった(なお最年長は東海林太郎)。

武蔵野音楽学校入学後、一年強で日本大学へ転学。当時既に歌で稼いでいたため、学校側がうるさく言ってきていたのと、徴兵を遅らせるため、当時殆ど無い音楽科がある日本大学へ移ったというのが真相である。
日本大学では、学生仲間でタンゴのバンドを結成し、ヴォーカルを担当。日大の後輩には、西村晃、三木のり平、小林桂樹などがいる。
昭和17年(1942年)、日本大学卒業。即、徴兵。大学出なので幹部候補生ということで少尉になるも、肺結核に罹り、即除隊。療養の傍ら、慰問に参加。

昭和20年(1945年)暮れにNHKの出演テストに合格、翌年よりNHK音楽番組に引っ張りだこ状態で出演。その頃、NHKで三浦環の最期の録音に偶然立ち会う。また、その頃葦原邦子との仕事がきっかけから中原淳一に目をかけられるようになり、中原プロデュースのもと売り出して行く事になる。演技の基礎は中原と交遊の深かった杉村春子から学んだという。
中原とは終生まで親密な付き合いがあり、晩年は高が館山の別宅で面倒を見ていた。中原の妻である葦原邦子やその子らとも親しい。ただし、中原の長男中原洲一は高に対して複雑な思いがあったことを自身の著書で記している。

昭和26年(1951年)、フランス・パリへ留学。ソルボンヌ大学に学ぶ。
昭和27年(1952年)、帰国。帰朝リサイタルでは、フランスから持ち帰った『愛の讃歌』『ロマンス』『詩人の魂』などを日本人では初めて披露する。また、このときの中原淳一の発案で、日本人のシャンソン歌手第一号となる。昭和28年(1953年)、キングレコードから『枯葉/ロマンス』でレコードデビュー。
またこの年、作曲家の中田喜直からの指名で『雪の降る町を』を吹き込む。その後も『詩人の魂』『セ・シ・ボン』『パダム・パダム』など、シャンソンを次々吹き込む一方、日本劇場等の舞台にも多く出演する。日劇では昭和56年の閉館まで、トップスター扱いでほぼ毎年出演し、活躍する。

昭和33年(1958年)、再びパリへ行き翌34年帰国。昭和36年(1961年)へ三度パリへ行き、大手プロダクションと8年間の長期契約を結んだ。そのため、1年のうちは10ヶ月はフランス、2ヶ月は日本で仕事というかたちを昭和44年(1969年)まで続け、日仏両国で精力的に活動する。パリではラジオのレギュラー番組も持ったほか、ジョゼフ・コスマやダミアなどとも親交を結び、多くの大劇場に出演しトリを飾るなどしている。昭和44年末に、心臓の調子が思わしくなくフランスでの契約を更改せず帰国、日本での歌手活動に専念。

昭和47年(1973年)春に、日本での契約を終えてフリーになっていたこともあり、再びパリへ行き、フランスでの歌手活動を始めるも神経性狭心症で倒れ、無念の帰国。以後約1年半に渡り、千葉県館山で療養生活を送る。昭和48年末から歌の仕事を徐々に再開。心臓の持病の為、この時期から俳優の仕事は一切断り、歌手業に専念。
昭和49年(1974年)に再起リサイタルを自身の憧れであった帝国劇場で行い大盛況を収める。以後、帝劇では五年連続でリサイタルを行い、いずれも大盛況を収めている。

昭和52年(1977年)から昭和61年(1986年)まで日本歌手協会理事を務める。
昭和57年(1982年)、国立劇場でポピュラー歌手としては初のワンマンショウ開催。なお、国立劇場では昭和62年(1987年)にも大劇場でリサイタルを行っている。

昭和60年(1985年)、63年(1988年)と心筋梗塞で倒れ大手術を受けるも奇跡的に回復し復帰している。またこの頃から平成5年(1993年)頃まで、淡谷のり子とジョイントショーを度々開催。
平成元年(1989年)、紫綬褒章受章。
平成3年(1991年)、日本シャンソン協会設立時には淡谷のり子と共に名誉顧問就任。
平成4年(1992年)、フランス芸術文化勲章シュバリエ章受章。
平成7年(1995年)、勲四等旭日小綬章受章。
平成8年(1996年)、歌手生活六十周年記念リサイタル開催。

生涯を通じ、結核、狭心症、心筋梗塞…の病魔に襲われ、晩年は老衰から歩行困難となるなど、健康状態は決して良好では無かったが、その影を全く感じさせない華やかなステージを繰り広げ、晩年も自身の老いを逆手に取るような飄々としたトークで聴衆を沸かせ続けた。その姿は「まさに歌が命を支えている」と永六輔から評されている。
平成15年(2003年)ゆうばり国際ファンタスティック映画祭で出演作『ゴケミドロ』の上映に参加、クロージングセレモニーにて「雪の降る町を」を熱唱。

平成21年(2009年)5月4日午前9時40分、肺炎のため死去。90歳。生前最期のステージは2008年11月26日の「三越ポピュラー・ハイライト2008」。同年12月21日には東京ビルで開催されていたイベント『光と音のシンフォニー「ライティング・オブジェ 2008」』(自身の作による絵画を出品していた)に来場するなど元気な姿を見せていたが翌09年2月より体調を崩して千葉市内の病院に入院し、闘病生活を続けていた。(Wikiより)