とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 42 赤穂浪士 東映オールスター

2016-09-30 02:50:10 | 日記
 昔の俳優には独特の存在感がありました。

【1961年東映】赤穂浪士 予告篇





片岡 千恵蔵(かたおか ちえぞう、旧字体:千惠藏、1903年3月30日 - 1983年3月31日)は、日本の俳優。本名は植木 正義(うえき まさよし)。

戦前・戦後の長期にわたって活躍した時代劇スターで、同時代の時代劇スターである阪東妻三郎、大河内傳次郎、嵐寛寿郎、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた(これに月形龍之介を含めて「七剣聖」と呼ぶ場合もある)。出演作品は300本を超える。戦前は片岡千恵蔵プロダクションを設立し、稲垣浩、伊丹万作の両監督とコンビを組んで傑作時代劇を多く生み出した。戦後は東映の重役スターとなり、亡くなるまで第一線のスターで在り続けた。終戦直後のGHQ占領時代には、金田一耕助や多羅尾伴内などを演じ現代劇でも人気を得た。当たり役に『いれずみ判官』の遠山金四郎など。





大川 恵子(おおかわ けいこ、1936年7月26日 - )は、日本の女優。愛知県名古屋市出身。本名は加古 啓子(かこ けいこ)。愛知県立刈谷高等学校卒業。

1955年に名鉄デパートに入社するが、月刊誌『平凡』主催「ミス平凡」に選ばれ、1956年に東映ニューフェイスの第3期生となる。同期には里見浩太朗・桜町弘子・大村文武らがいた。芸名は当時の東映社長の大川博が命名したものである。黄金期の東映時代劇でお姫様女優として活躍。『姫君一刀流』は唯一の主演作である。1962年、時代劇ブームの去る前にサラリーマンと結婚、引退し映画界を去る。以降、マスコミに出ることはない。(Wikiより)

こういう姿を見ていると、Aはズシン、ズシンと胸に響くものを感じて痺れるのです。心の芯まで。特に大川恵子はすばらしく、当時理想の女性だと思っていました。若侍の姿には痺れまくっていました。・・・それも遠い人となりました。




あちこち「SYOWA」 41 Juliet /ダイナマイトしゃかりきサ〜カス feat.忍足亜希子&三浦剛(手話パフォーマンス)

2016-09-28 00:18:56 | 日記
Juliet /ダイナマイトしゃかりきサ〜カス feat.忍足亜希子&三浦剛(手話パフォーマンス)


忍足亜希子

青葉学園短期大学卒業。銀行勤務を経て、1999年に公開された映画『アイ・ラヴ・ユー』で日本最初の聾唖の主演女優として、オーディションで選ばれデビューする。
舞台『嵐になるまで待って』での共演をきっかけに交際していた演劇集団キャラメルボックス所属俳優の三浦剛と、2009年11月11日に入籍。2012年3月7日に第1子の女児を出産した。(Wikiより)

 Aは、映画『アイ・ラヴ・ユー』のキャンペーンで監督とともに来県されたとき、スデージで手話通訳を通してインタビューを受ける忍足亜希子さんを見て、あまりの美しさに衝撃を受けました。



 ステージの下に手話通訳のスタッフがいて、問われた言葉を忍足さんに伝えていました。それに応えて手話で気持ちを表現し、それをステージの上のスタッフが声で同時通訳しているようでした。監督もときどき発言し努力と才能を称えていました。
 Aは、そういう進め方にも新鮮さを感じていました。新しいタイプの女優の誕生だ !! そう思いました。

あちこち「SYOWA」 39 THE MIRACLE WORKER / アン・バンクロフト - 奇跡の人 1962

2016-09-20 00:32:19 | 日記
THE MIRACLE WORKER / アン・バンクロフト - 奇跡の人 1962


アン・バンクロフト。Aはこの女優を決して忘れません。アン・サリヴァンという偉大な女性を迫真的な演技で再現してAに見せてくれたからです。ヘレン・アダムス・ケラーはこの女性によって地獄のような世界から救われたのです。Aは父親のことを思い出しつつ映画を食い入るように見入っていました。(ヘレン・ケラー役をしているのはパティ・デュークです)


ヘレン・ケラー

 ヘレン・アダムス・ケラー(Helen Adams Keller、1880年6月27日 - 1968年6月1日)は、アメリカ合衆国の教育家、社会福祉活動家、著作家である。視覚と聴覚の重複障害者(盲ろう者)でありながらも世界各地を歴訪し、障害者の教育・福祉の発展に尽くした。

 1887年、ヘレンの両親は聴覚障害児の教育を研究していたアレクサンダー・グラハム・ベル(電話の発明者として知られる)を訪れ、ベルの紹介でマサチューセッツ州ウォータータウンにあるパーキンス盲学校の校長マイケル・アナグノスに手紙を出し、家庭教師の派遣を要請した。3月3日に派遣されてきたのが、同校を優秀な成績で卒業した当時20歳のアン・サリヴァン(通称アニー)であった。サリヴァンは小さい頃から弱視であったため(手術をして当時はすでに視力があった)、自分の経験を活かしてヘレンに「しつけ」「指文字」「言葉」を教えた。おかげでヘレンは、あきらめかけていた「話すこと」ができるようになった。サリヴァンはその後約50年にもわたって、よき教師として、そして友人として、ヘレンを支えていくことになる。(Wikiより)


 1887年4月5日、サリバンがケラー家にやって来て33日目。サリバンはヘレンと散歩中に井戸へ寄った。そしてヘレンの手に水を注ぎながら「w-a-t-e-r」と指文字(指話法)で何度も綴っていると、突如としてヘレンは言葉と物を結びつけ、すべての物に名前があることに気づいた。2歳から5年間身を置いた暗闇に光が差した!ヘレンはポンプなど数語を尋ねた後、サリバンの方を向いて名前を聞いた。手の平に綴られたのは「t-e-a-c-h-e-r 」。“先生”の名の通り、サリバンは人生の先輩として、全存在をかけてヘレンに向き合っていく。「water」を理解した同日夕刻には、「give」「go」「baby」「door」「open」「come」など30もの単語を覚えていた。
「言葉の存在を最初に悟った日の夜。私は嬉しくて嬉しくて、ベッドの中で、この時初めて“早く明日になればいい”と思いました」(ヘレン)。翌朝の様子をサリバンはこう記す。「彼女は妖精のようにベッドから跳ね起きると、手当たり次第に物の名前を尋ね、一語学ぶ度に感激して私にキスしました」。3カ月後には300個以上の単語を記憶し、「very」という言葉を知った時は、「very happy」のように他の単語を組み合わせて表現することに夢中になった。(「あの人の人生を知ろう~ヘレン・ケラー編」http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/keller.html より)

最後の場面。水汲み場で「ウォー !!」という獣のようなくぐもった叫び声をあげるヘレン。「ウォーター」という言葉を初めて覚え、それを自分の声で発音しようとしたのです。すべてのものに名前があることを知らされた瞬間でした。ここから新しい世界が開けていくのです。その陰にサリバンの血のにじむような努力があったのです。



あちこち「SYOWA」 38 Brenda Lee - I Left My Heart ❤ in San Francisco

2016-09-16 04:03:19 | 日記
Brenda Lee - I Left My Heart ❤ in San Francisco


「想い出のサンフランシスコ」。歌っているのはブレンダリー。この世界的な歌手の生声をAは学生時代に小倉市民会館で聞くことができました。この映像も日本公演のときのものだと思われます。


『想い出のサンフランシスコ』(原題:I Left My Heart in San Francisco)は、1953年にニューヨーク市ブルックリンでジョージ・コウリーとダグラス・クロスによって書かれたポップス曲である。トニー・ベネットのトレードマークとなった歌として知られている。

この曲は、コロムビア・レコードから発売されたベネットのシングル曲『Once Upon A Time(昔々)』のB面に収録されたものだった。『想い出のサンフランシスコ』はビルボード・ホット100で19位まで上昇した。その後、同名のアルバムが発売された際に収録されている。この曲はサンフランシスコ市によって公式に認められている賛歌の一つである。

この歌は無数のアーティスト達に歌われてきた。フランク・シナトラ(1962年)、ジュリー・ロンドン(1963年)、ブレンダ・リー(1963年)、アニタ・ブライアント(1963年)、ジャン&ディーン(1963年)、テレサ・ブリュワー(1964年)、ペギー・リー、イタリア人歌手のミーナやディーン・マーティンなどである。(Wikiより)

 Aはトニー・ベネットという歌手は知らなかったので、ブレンダ・リーのオリジナル曲だと思っていました。経緯はともあれ、ブレンダ・リーの曲は彼女独特のハスキーな声と黒人歌手のようなフィーリング、そして伸びやかなメロディーラインはAの心をひきつけました。友達のS君と並んで座って聞いていましたが、二人とも陶酔してしまい、コンサートが終わるまで一言も口を利きませんでした。演奏の奏者はすべて向こうから来た人たちでした。中にうっとりするような美男子がいて、Aはその顔もじっと見ていました。
 島根から小倉に来た甲斐があったと会場から出て最初に思いました。何だか島流しに遭ったような気分を拭い去ることが出来なかった私たちでしたが、こういう都会での経験がそういう感情を和らげてくれました。反面、苦しい家計をやりくりしてAを大学に入れてくれた両親にすまないような気もしていました。