とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」813 アランドロン・フォーエバー!「地下室のメロディー」

2024-09-22 11:02:49 | 日記
亡くなったんですね。ああいう名優はもう出てこないでしょう。陰を秘めた鬱とした青年。悪役だが自然魅かれる。人間にはだれしも奥に悪の部分がある。それに絡みつく。しかもルックス完璧。不世出の俳優です。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

アランドロン・フォーエバー!「地下室のメロディー、Melodie en sous sol」ミシェル・マーニュ、Michel Magne


俳優デビュー
1957年の夏、女優のブリジット・オベール(英語版)から、「カンヌで映画祭が開催されるから歩いてみたら? あなたほどの美貌なら、監督の誰かから声が掛かるかもしれない」と言われたという。

それがきっかけで、帰国後パリで知り合ったジャン=クロード・ブリアリと2人で、カンヌを歩いてみると、過去にロック・ハドソンを発掘したハリウッドの有名エージェント、ヘンリー・ウィルスンに「君はいい体をしている…」とスカウトされた。


その3日後にローマのチネチッタ撮影所にて、映画『武器よさらば』撮影中のデヴィッド・O・セルズニックのスクリーンテスト(英語版)を受け合格し、アメリカ合衆国での成功に太鼓判を押され、英語の習得を条件に7年間の契約を持ちかけられる。しかし「私はフランス人なので、まずはフランスで勝負をしたい」と保留。

その後、女優エステラ・ブランの紹介で、イヴ・アレグレ監督の『女が事件にからむ時』(共演:ジャン=ポール・ベルモンド)でデビューした。


「Wikipedia」より

俳優時代
1959年、コメディ映画『お嬢さん、お手やわらかに!』がフランスで大ヒットした。同年、『恋ひとすじに』で共演した西ドイツの若手スター、ロミー・シュナイダーと同棲し婚約するも、1963年に破棄。

1960年、ドロンはパトリシア・ハイスミス原作、ルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』に主演した。ニーノ・ロータの曲と共に大ヒットし、世界的にその名を知られる。その後もクレマン監督作品など、数多くのフランス映画・イタリア映画・アメリカ映画に出演し、自身が出演する作品のプロデュースも手がけるなどして活躍。ルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』にも出演した。

その後も『シシリアン』『冒険者たち』『あの胸にもういちど』『さらば友よ』『暗黒街のふたり』『ボルサリーノ』『栗色のマッドレー』『地下室のメロディー』『レッドサン』『友よ静かに死ね』『ショック療法』『ル・ジタン』『アラン・ドロンのゾロ』ほか多数の映画作品に出演した。『暗殺者のメロディ』ではレフ・トロツキーを殺害する男を演じた。ジョゼ・ジョヴァンニ監督との名コンビは、よく知られている。音楽活動では1973年に、ダリダとアラン・ドロン『甘い囁き』がヒットした。

ヴェルヴェット・アンダーグラウンドとのアルバムがあるドイツ人モデル・歌手のニコとの関係も知られている。ニコは1962年にドロンとの子供である長男クリスティアンを生むが、彼は未だに認知をしていない。クリスティアンはドロンの実母に育てられた。

ロミー・シュナイダーと破局した後には、1963年、ナタリー・バルテルミー(本名はフランシーヌ・カノヴァのちナタリー・ドロン)と出会う。ナタリーはモロッコのカサブランカ出身で、育った境遇が似ていたことや、人生経験豊かなところに惹かれ、親しくなった。1964年にナタリーと結婚、息子アントワーヌ(後にアントニー・ドロンの名でデビュー)が生まれる。この年には3人でアメリカ合衆国のビバリーヒルズに滞在。いくつかの映画に出演したり、アカデミー賞のプレゼンターにも立った。ナタリー・ドロンは後に映画『個人教授』に出演した。

1966年フランスへ帰国。映画『サムライ』に出演したことにより、女優を続けたいと願うナタリーと対立し、やがて離婚。

その後、ミレーユ・ダルクと長い愛人関係にあった。1987年にオランダ人モデル、ロザリー・ファン・ブレーメン(フランス語版)と出会う。彼女とは籍は入れず、アヌーシュカ(英語版)とアラン・ファビアン(フランス語版)の2子をもうけるが、2002年に別れた。

2017年5月9日、今後出演する1本ずつの映画と舞台を最後に、俳優業から引退するとの意向を示した。(Wikipedia)





あちこち「SYOWA」(番外) こんな甲子園初めてみた...もう神の仕業 !

2024-09-09 18:23:10 | 日記
かつての勤務校。32年前に甲子園に行かせてもらいました。しかし、今年の大社は驀進しました。改めて見ていて、またまた涙が出てきました。映像を提供していただいたお方に感謝します。

【こんな甲子園初めてみた...もう神の仕業としか思えない!!9回裏の大社高校の攻撃がとんでもない盛り上がりで甲子園が揺れた!】大社対早稲田実業

あちこち「SYOWA」812【中森明菜/名曲045】『十戒(1984)』

2024-09-02 01:01:43 | 日記
歌のベストテン。これを探していました。懐かしい。

【中森明菜/名曲045】『十戒(1984)』


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


中森 明菜(なかもり あきな、1965年〈昭和40年〉7月13日 - )は、日本の歌手、女優。本名同じ。1982年5月1日、デビュー。1980年代を代表する女性アイドル歌手であり、数多くのヒットナンバーを世に送った[3]。アイドルの当たり年と言われた1982年のデビューで、「花の82年組」の1人であった。また、コメディエンヌとしても活動していた。

東京都大田区大森生まれ[4]、清瀬市育ち[4][5]。清瀬市立清瀬小学校、清瀬市立清瀬中学校を経て、明治大学付属中野高等学校定時制中退。研音→コレクション→コンティニュー→N.A.P.C→楽工房→FAITH(ファイス)を経てHZ VILLAGE所属。所属レーベルはユニバーサル ミュージック ジャパンのPolydor Records(旧・UNIVERSAL J)内の私設レーベル歌姫レコーズ[6][7]。

概要
1981年7月11日、16歳の誕生日目前に出場した日本テレビ系列のオーディション番組『スター誕生!』で山口百恵の「夢先案内人」を歌って、合格[8]。これを機に、ワーナー・パイオニアとのレコード契約を締結した。

1982年5月1日、16歳の時にシングル「スローモーション」でデビューし、2枚目のシングル「少女A」がヒットした。

翌1983年には、「セカンド・ラブ」「禁区」などもヒット。1980年代のアイドルとしては松田聖子と2強を競った[3]。

以降も「北ウイング」、「飾りじゃないのよ涙は」など連続してシングルヒットを出し、1985年の「ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕」と1986年の「DESIRE -情熱-」で2年連続となる日本レコード大賞を受賞した[9][10]。弱冠20歳で歌手としてトップクラスの実績を収めていた。

1980年代のシングル総売上げは年間ベスト50位以内のものに限っても932.5万枚、年間50位以内ランクイン曲数は22曲と、どちらも当時の女性アイドル中で1位であった[11]。また日本レコードセールス大賞年間アーティストトータルセールス最高位の座を4回獲得している(1983年、1985年、1986年、1987年)。

女優としても、1985年1月公開の映画『愛・旅立ち』で近藤真彦と共に主演を務めたのを始め、1992年には連続テレビドラマ『素顔のままで』(フジテレビ系列)に安田成美とW主演。その後も1998年の連続テレビドラマ『冷たい月』(日本テレビ系列)で永作博美と共にW主演するなど活動を広げた。

2002年にはユニバーサルミュージックに移籍し、カバー・アルバム『-ZEROalbum- 歌姫2』を発表[7]。歌姫シリーズの第2弾として発売されたこのアルバムはヒットを記録する。以降、『歌姫3 〜終幕』、『フォーク・ソング〜歌姫抒情歌』などカバー・アルバムのシリーズ作をリリースする。2004年にはプライベートレーベル歌姫レコーズを設立した。

2010年10月、体調不良により芸能活動の無期限休止を発表。それ以降メディア出演はもとより、公の場へ一切姿を現していなかったが、2014年12月31日、第65回NHK紅白歌合戦にスペシャルゲストとして、ニューヨークのレコーディングスタジオから生中継で登場し、4年3か月ぶりに芸能活動の復活を果たした[12]。2015年1月には、シングル「Rojo -Tierra-」、カバーアルバム『歌姫4 -My Eggs Benedict-』をリリース。

2018年以降、再び芸能活動を殆どセーブしているものの、アルバム作品の発売など音楽活動は意欲的に取り組んでいる。

2022年8月、個人事務所HZ VILLAGEを設立と同時に、8月30日に公式Twitterを開始した。

2023年12月24日、公式YouTubeチャンネルの開設を発表した[13]。