とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 648 天城越え 石川さゆり 昭和歌謡

2019-08-30 16:19:34 | 日記
いや、この歌手の唄は何度聞いても励まされます。某有名人もこの曲をいつも聴いて自身を鼓舞していたと聞きます。


天城越え 石川さゆり 昭和歌謡



石川 さゆり(いしかわ さゆり、1958年1月30日 - )は、日本のアイドル・演歌歌手・女優。本名・石川 絹代(いしかわ きぬよ)。熊本県飽託郡飽田村(現・熊本市南区)出身。堀越高等学校卒業。所属音楽レーベルはテイチクエンタテインメント、所属事務所は個人事務所さゆり音楽舎。

略歴

小学1年の時、島倉千代子の歌謡ショーに接し感動、次第に歌手を志すようになる。小学5年10歳の時に一家で横浜市神奈川区に転居、のち歌のレッスンを受け始める。

1972年、横浜市立城郷中学3年在学中の夏休みに、フジテレビ系列の「ちびっ子歌謡大会」に参加できなくなった友人に替わって参加し合格、ホリプロにスカウトされ芸能界入りを果たす。同年秋に放映されたフジテレビの連続ドラマ「光る海」では、沖雅也の妹役としてレギュラー出演していた。

1973年3月25日、「かくれんぼ」でアイドル歌手として日本コロムビアよりデビュー(キャッチフレーズは「コロムビア・プリンセス」)。しかし、歌手デビューから暫くは「花の中三トリオ」(森昌子・山口百恵・桜田淳子)の影に隠れた事も有ってか、大きな人気を得るには至らなかった。

1977年、前年1976年に発売されたアルバム『365日恋もよう』からシングルカットされた「津軽海峡・冬景色」で、大ブレイクを成し遂げる。同年末のTBSテレビ系「第19回日本レコード大賞」歌唱賞や、フジテレビ系列「FNS歌謡祭」グランプリ(ほか最優秀歌唱賞・最優秀視聴者賞も獲得)など数々の音楽賞を受賞、さらに「第28回NHK紅白歌合戦」へも念願の初出場となった。ほか、同1977・翌1978年発売のシングル「能登半島」「暖流」「沈丁花」なども続けてヒットする。

1980年代に入ってからも、「波止場しぐれ」「天城越え」「夫婦善哉」「滝の白糸」「風の盆恋歌」などと順調にヒット曲を世に送り出し、日本を代表する女性演歌歌手の一人となった。

また、刑事ドラマ「大空港」に女性刑事役でレギュラー出演し、大河ドラマ「功名が辻」に出演するなど、女優としても活躍している。
1981年、元マネージャーの馬場憲治と結婚。1984年2月に長女・佐保里を出産するも、1989年2月に離婚。

芸能界・歌手デビュー時からホリプロに所属していたが、個人事務所「株式会社さゆり音楽舎」を設立し1997年に独立。

1980年代後半にはカラオケボックス運営会社「カミパレス」の経営を知人と行い、国民銀行の融資のもとで30店舗ほど展開する実業家の一面もあった。しかし後に経営からは退き、カミパレスは1999年9月に破産宣告を受けた。経営破綻した国民銀行が1995年にカミパレス対して行った35億円の融資について、不良債権を引き継いだ整理回収機構が石川個人が契約した連帯保証の残金28億円余りの支払を求める損害賠償請求を提起。

2003年に東京地裁で一審判決が出たが、その内容を不服とした整理回収機構が抗告すると共に石川の自宅を一時差し押さえた。同年に10億円の賠償金支払いで決着している。

所属レコード会社は、デビューから20年間日本コロムビアに所属したが、1993年にポニーキャニオンへ演歌部門第1号として移籍。1999年に同社の演歌部門が撤退となり、2000年にテイチクエンタテインメントへ移籍し現在に至る。「津軽海峡・冬景色」など初期の楽曲の原盤権はホリプロが保有している。

好きな男性のタイプは、「年下より、ずっと年上の人がよい。いろいろ教えてくれる人の方がいい」と語っている(2007年放送「メレンゲの気持ち」より)。

2013年11月8日、女性演歌歌手の先輩として慕い続けた島倉千代子が75歳で他界。同年11月14日、島倉の葬儀・告別式で石川は後輩歌手の代表として「島倉さんの『さゆりしっかりしろ』という声が聞こえるようです。頑張ります」と涙声で弔辞を読んでいた。

2015年12月30日、TBSテレビ「第57回日本レコード大賞」において日本作曲家協会奨励賞を受賞した。

2018年3月、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞したのに続き、翌2019年5月、紫綬褒章の受章が日本国政府より告示された。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」(番外) SARD UNDERGROUND 「負けないで」 LIVE 19.2.3

2019-08-27 11:51:25 | 日記
やっ、驚きました。やりましたね。・・・比べて聴くと・・・。いや、意気込み大評価です。

SARD UNDERGROUND 「負けないで」 LIVE at hillsパン工場 19.2.3


SARD UNDERGROUND(サード アンダーグランド)は、日本の女性歌手・ロックバンド。所属レコード会社はGIZA studio。



略歴

Being Group傘下のGIZA studioで、メジャーデビューを目指して個別にレッスンを受けていた。 そんな中、ZARDの作品に共鳴したボーカル・神野友亜、ベース、コーラス・杉岡泉美、ギター、コーラス・赤坂美羽、キーボード・坂本ひろ美で、スタジオに入りZARDをカバーする日々が始まる。 ZARDのプロデューサーであり、Being Groupの創設者である長戸大幸の耳にスタッフからメンバーの真剣な様子が伝わると、長戸大幸は、“ZARDの作品を後世に伝えていってくれる存在”として、彼女たちが表舞台に立てるように力を貸していくことになる。

そしてバンド名は、“ZARD”の“Z”を反転させ、“SARD UNDERGROUND”と名付けられた。
2019年2月3日には、ZARDのカバーでの初LIVEを大阪で開催。

YouTubeに彼女たちがUPしていたLIVE映像を観た仙台放送のプロデューサーから 毎年仙台で開催されている“東北・みやぎ復興マラソン”のイメージソングになった。

長戸大幸プロデューサーをはじめ、実際にZARDの制作にかかわってきたスタッフの後押しを受けて 2019年9月18日にZARDのトリビュートカバーアルバムでメジャーデビュー。

メンバー

神野友亜
ボーカル担当。

赤坂美羽
ギター、コーラス担当。

杉岡泉美
ベース、コーラス担当。

坂本ひろ美
キーボード担当。                               (「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」(647) おニャン子クラブ - じゃあね (ファイナルコンサート)

2019-08-26 16:11:37 | 日記
当時の顔ぶれに興味津々です。すごいメンバーですね。


おニャン子クラブ - じゃあね (ファイナルコンサート)



おニャン子クラブ(おニャンこクラブ)は、1985年にフジテレビのテレビ番組『夕やけニャンニャン』から誕生した女性アイドルグループ。


概要

1985年4月1日、フジテレビのバラエティ番組『夕やけニャンニャン』開始とともに番組内のアシスタントとして同時に芸能界デビューし、3ヶ月後の1985年7月5日に発表したデビューシングル「セーラー服を脱がさないで」がヒットしてブレイク。以降、おニャン子クラブとしてのグループ名義、メンバーのソロ名義、グループ内で作ったユニット名義などで、シングル、アルバム、ビデオソフト、写真集を絶え間なくリリースし続けてヒットさせ、1980年代(元号では昭和60年代に男女雇用機会均等法が成立してバブル世代の女性が社会進出した時期)のアイドルシーンを席捲していった。

しかし、1987年8月31日の『夕やけニャンニャン』の番組終了に伴い、翌9月に解散コンサートを行って、わずか2年半の期間でその活動が閉じられた。

2年半の間にメンバーの加入と脱退が頻繁に行われていたので、メンバーの顔ぶれは常に流動的であった。結成時は11人で、解散時は19人が在籍していた。

おニャン子クラブのメンバーには会員番号が与えられ、『夕やけニャンニャン』内であろうと他局の番組であろうとも、自己紹介の際には必ず名前の前に「おニャン子クラブ会員番号××番」を付けて名乗っていた。そのため、解散後も芸能界に残るなどした著名なメンバーは名前とともに会員番号もセットにして覚えられている。会員番号の振り分けは、結成時の11人はくじ引き順で、それ以後は加入順(加入が同時の場合はエントリーNo.順)。脱退した者の番号については欠番とした。解散時、会員番号は52番まで行っていた。

おニャン子クラブのメンバーは生放送である『夕やけニャンニャン』の出演に際して、大半は高校生や大学生などの学生であったことから各々の定期試験中は番組出演を控えて欠席した。

また、番組側が斡旋した仕事(ドラマ撮影など)で欠席する場合もあった。そのため、『夕やけニャンニャン』を含めて、おニャン子クラブ名義での活動は必ずしもメンバー全員が揃っていたわけではなかった。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」646 杉山清貴&オメガトライブ サマー・サスピション

2019-08-21 22:55:38 | 日記
敢えて昭和に入れたい。・・・またアップできた喜びとともに。

杉山清貴&オメガトライブ サマー・サスピション




オメガトライブは、主に1980年代に日本で活躍したバンドで、プロデューサー藤田浩一の指揮のもと、作曲家林哲司並びに和泉常寛、アレンジャー新川博などの制作陣を中心としたプロジェクトの総称(計3回)。ボーカルは杉山清貴、カルロス・トシキ、新井正人と変遷した。夏・海・リゾートをテーマとした作品の数々は『サザンオールスターズ』や『TUBE』などとともにサマーソングのヒット曲として知られる。


概要

杉山清貴をボーカルとするアマチュアバンド「きゅうてぃぱんちょす」は1980年の第19回ヤマハポピュラーソングコンテスト入賞後、メジャーデビューのオファーを受けながらもオリジナル楽曲の完成度に納得できず、誘いを断っていた。藤田浩一はポプコン入賞以降同バンドに注目しており、デビューの条件としてプロによる提供楽曲の演奏を提示、バンドはこれを受け、「杉山清貴&オメガトライブ」と名を変え、1983年4月にレコードデビューした。

藤田は、1980年代に角松敏生やオメガトライブ、菊池桃子を擁していた芸能事務所トライアングル・プロダクションのオーナーであり、藤田のタッチする作業は作詞家や作曲家、アレンジャーとのプリプロダクションからレコーディング・スタジオでのミュージシャンへの指示、エンジニアへの注文、レコード・ジャケットの決定からマーケット戦略まで多岐にわたっており、全ての最終決定権は藤田にあった。

名称の名づけ親はDJのカマサミ・コング。メンバーは候補に挙がっていた中の「タイクス」という名前を気に入っていたが、藤田が「オメガトライブ」に決めたという。「オメガトライブ」とは、「オメガ」(Ω, ω)=ギリシャアルファベットの最後の文字(「最後」を意味する)と、「トライブ」=民族を合わせて、「最終民族」という意味がある。詳細は後述。

「オメガトライブ」というプロジェクト

杉山清貴&オメガトライブのメンバーは、後日「”オメガトライブ”は、バンドでは無く、プロジェクトであり、自分達はその一員であった。」と答えている。

藤田が考えるオメガトライブというプロジェクトを、林哲司主導の元で楽曲制作を行った。またレコーディングはプロのスタジオミュージシャンが演奏していた為、ボーカルの杉山以外のメンバーはレコーディングの収録には関わっておらず、アマチュアバンド「きゅうてぃぱんちょす」のメンバーは、バンド名や製作した楽曲を全て捨て、「オメガトライブ」を演じるバンドになった。バンドは名付けられ、オリジナル作品は製作出来ず、作品は準備され、演奏はスタジオ・ミュージシャンの演奏をなぞる。ビジュアルイメージは絶えず「海」「夏」「リゾート」がつきまとう。

その為、メンバーは「与えてもらって、それを売らなきゃいけないっていう使命感が物凄くあって、その使命感の中で疲れ果てて」しまい、メンバー同士でツアー中の飲みの席で「年内(1985年)一杯で解散すること」をメンバーだけで決意、その意思を社長に報告し、1985年12月24日で解散となった。解散を切り出したのは杉山、解散に賛成は廣石と大島と吉田、反対は高島と西原であったが、最終的に満場一致での解散となった。その後、杉山はソロへ、高島と西原は「1986オメガトライブ」の一員となった。(「Wikipedia」より)