新聞販売店の朝 三豊市の朝を支える人々2006
昭和30~40年代にAの家は産経新聞の販売店もしていました。屋根の上にはブリキの大きな看板が立ててあり、一目でわかりました。当時の商品は、米穀、肥料、タバコ、飼料、新聞と多岐にわたっていました。ですから、母親は過酷な仕事をこなしていました。バイクで国鉄駅まで新聞の荷物を取りに行き、広告を素早く挟み込み、まだ暗いうちに配達に出かけました。配達員を一人雇っていましたが、半分以上は母親が配達していました。
チラシ入れ
チラシは前夜にセットしてありましたが、当日の本紙に挟み込む作業は時間との戦いでした。Aと妻は勤めがあるので、しかも父親はできないし、祖母は家事で手いっぱいで当日の仕事は母親と雇いの人との二人の作業でした。雇いの人が急用で休まれると一人でこなしていました。休刊日は昔は年間2日しかなかったので、母親は休みなく機械のように働いていました。
大晦日は織り込みの量が多くて、家族みんなが手伝っていました。紅白歌合戦を横目で見ながらの作業でした。Aは商売をしている家に産まれたことを恨めしく思うこともありました。雨の日も、風の日も、雪が降ってもこの仕事はは続きました。母は並みの女性ではないとAは思っていました。
ところが、60代後半から母親にリュウマチの症状が現れ、次第に全身が不自由になりました。それでも、何のこれしきと頑張っていました。そして古希を過ぎると配達もままならなくなり、とうとう寝込んでしまいました。そして・・・死の床に・・・。
母が残したメモには自分の一生が書き綴られていました。その中に「自分は不幸な女だった」と記してありました。チラシ入れの映像を見ると当時の切羽詰まった日々の記憶がAには蘇ってきます。
東日本大震災被災地の若者支援←クリック募金にご協力ください。募金額ついに100万円を突破しました。
昭和30~40年代にAの家は産経新聞の販売店もしていました。屋根の上にはブリキの大きな看板が立ててあり、一目でわかりました。当時の商品は、米穀、肥料、タバコ、飼料、新聞と多岐にわたっていました。ですから、母親は過酷な仕事をこなしていました。バイクで国鉄駅まで新聞の荷物を取りに行き、広告を素早く挟み込み、まだ暗いうちに配達に出かけました。配達員を一人雇っていましたが、半分以上は母親が配達していました。
チラシ入れ
チラシは前夜にセットしてありましたが、当日の本紙に挟み込む作業は時間との戦いでした。Aと妻は勤めがあるので、しかも父親はできないし、祖母は家事で手いっぱいで当日の仕事は母親と雇いの人との二人の作業でした。雇いの人が急用で休まれると一人でこなしていました。休刊日は昔は年間2日しかなかったので、母親は休みなく機械のように働いていました。
大晦日は織り込みの量が多くて、家族みんなが手伝っていました。紅白歌合戦を横目で見ながらの作業でした。Aは商売をしている家に産まれたことを恨めしく思うこともありました。雨の日も、風の日も、雪が降ってもこの仕事はは続きました。母は並みの女性ではないとAは思っていました。
ところが、60代後半から母親にリュウマチの症状が現れ、次第に全身が不自由になりました。それでも、何のこれしきと頑張っていました。そして古希を過ぎると配達もままならなくなり、とうとう寝込んでしまいました。そして・・・死の床に・・・。
母が残したメモには自分の一生が書き綴られていました。その中に「自分は不幸な女だった」と記してありました。チラシ入れの映像を見ると当時の切羽詰まった日々の記憶がAには蘇ってきます。
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