とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 393 倍賞千恵子 / さよならはダンスの後に

2018-07-31 23:56:03 | 日記
清潔感溢れる庶民を代表する女優さんという印象で好感を抱いていました。歌手としてもとても澄んだ清涼感のある声質でいつ聴いてもさわやかな気持ちになります。


HAK651 さよならはダンスの後に 倍賞千恵子 (1965)1983-180309 vL HD



倍賞 千恵子(ばいしょう ちえこ、1941年〈昭和16年〉6月29日 - )は、日本の女優、歌手、声優。愛称は「チコちゃん」。
実妹は女優の倍賞美津子。弟は猪木事務所社長の倍賞鉄夫、日産自動車硬式野球部元監督の倍賞明。夫は作曲家の小六禮次郎。


来歴・人物

生い立ち

西巣鴨生まれ。東京都北区滝野川に育つ。戦時中は茨城県に疎開。北区立滝野川第六小学校、北区立紅葉中学校(現:北区立滝野川紅葉中学校)卒業。父は都電の運転士、母は車掌であった。

倍賞家

珍しい倍賞姓は秋田県鹿角郡(現:鹿角市)十和田大湯にルーツを持つ。先祖は佐竹藩に仕えた守衛で、先祖の一人に頭の良い人がいて書記に抜擢され、何かの賞を受けたのがこの姓の由来という。千恵子の父:美悦は当地の出身で、中学のとき東京に出て、数え年15のとき少年車掌の試験を受け合格した。母:青木はなは茨城県真壁郡大和村(現:桜川市)出身。母も小学校卒業後、東京で女子車掌となり美悦と知り合い結婚した。

SKD入団

幼少時は「のど自慢」荒らしとして知られ、みすず児童合唱団を経て、1957年、松竹音楽舞踊学校に入学。1960年、同校を首席で卒業し、松竹歌劇団(SKD)13期生として入団、若くして「逸材」と注目される。同期に榊ひろみ(松竹女優)、加藤みどり(声優)らがいる。学校時代の実習出演を経て、同年、グランドレビュー「東京踊り」で初舞台を踏む。この年から、主席入団生にフィナーレの先頭を切って大階段を降りる栄誉が与えられ、バトンガールに扮した倍賞がその初代を勤めた。

映画・歌手デビュー

1961年、松竹映画にスカウトされ松竹歌劇団を退団し、『斑女』(中村登監督)で映画デビュー。1963年、山田洋次監督の映画『下町の太陽』に主演して以降、山田作品に欠かせない庶民派女優となる。『下町の太陽』は映画・歌だけでなく、現在もそのフレーズ自体が倍賞の代名詞になっている。
1963年に『下町の太陽』で歌手としてもデビューし、第4回日本レコード大賞新人賞を受賞。NHK紅白歌合戦にも4年連続出場した(詳細は下記参照)。他のヒット曲に「さよならはダンスの後に」「おはなはん」「忘れな草をあなたに」(菅原洋一らとの競作)などがある。

山田作品の常連に

映画『男はつらいよ』シリーズでは渥美清演じる主人公車寅次郎の妹:さくら役を演じ、人気を不動のものにした。『男はつらいよ』で共演した吉岡秀隆とは現在でも親交が深く、北海道野付郡別海町の倍賞の別荘に遊びに来た際には、(吉岡に)マッサージを頼むほどの仲である。

『家族』をはじめ、『男はつらいよ』シリーズの合間を縫って山田が発表したオリジナル大作にも出演。特に『キネマの天地』までは全て主演かマドンナ役である。『男はつらいよ』シリーズ開始前の初期山田作品のほとんどでも倍賞が主演を務めており、延べ60本以上の作品に渡って、海外にも類を見ないほどの緊密かつ長期の監督・主演(または準主演)女優コンビを維持した(それでいて私的な交際の噂が立ったことは一度もない)。逆に他監督作品への出演は非常に少なく、悪女役への意欲も口にしていたものの映画では実現していない。松竹歌劇団出身ということもあり、コンサートなどでは思い切ったモダニズム志向も発揮している。

『男はつらいよ』シリーズにおける「明るいが優しく淑やかなさくら」のキャラクターに比べると、プライベートでの倍賞はもう少しチャキチャキとしている。倍賞の陽性の側面を引き出す企画として、山田の愛弟子高橋正圀はNHKテレビドラマ『ぼくの姉さん』二部作を書き下ろした。これは文字通り「妹」さくらとの対照を成しながら(夫も片や工員、片や美術教師である)共通点も非常に多いという、一種の変奏曲的な狙いとなっている。

渥美の死去は山田洋次から1996年8月6日の夜に電話で聞き、「しばらく信じられなくて、(作品は本人が)動いているから見るのがいやだった」と振り返っており、8月13日に開かれた「寅さんとのお別れの会」では、弔辞の後に「さくらのバラード」を献歌し、山田監督には「話が支離滅裂になったって、かまわない、途中で泣いてしまっても構わない。 とにかくあなたにとっての渥美さんへの思いを話せばいいんだから」と言われている。また、『男はつらいよ』全48作で共演した三崎千恵子が死去した際には弔辞を読み、三崎が病床で聴いていたという「忘れな草をあなたに」を歌った。

『男はつらいよ』以後

2004年には、宮崎駿監督のアニメ映画『ハウルの動く城』ではヒロインであるソフィーの声を担当し、主題歌『世界の約束』を歌っている。

長年、松竹専属の映画女優であったこともあり、テレビドラマへの出演が同世代の女優と比べて少ないが、フジテレビのコント番組『志村けんのだいじょうぶだぁ』に出演した折には『男はつらいよ』のパロディを演じ、重要な大ボケの場面を見事に決めて笑いを取ったり、コントの芝居上男装や不良役など普段の芸風からは想像つかない役柄も熱演しボケからツッコミまで幅広く対応したりするなど大女優らしからぬ気さくな一面と役どころの広い芝居ぶりを見せて視聴者からも好評で、回数こそ多くないがコントのオチを任されるほどの常連ゲストとして定着し『バカ殿』にもゲスト出演した。

映画『男はつらいよ』シリーズ終了後は、音楽に重点を置いた芸能活動をしている。歌謡曲からポピュラー/スタンダード、童謡・唱歌まで幅広いジャンルを歌いこなすことに加え、日本語の発音の美しさから歌手としての評価も非常に高く(藤山一郎も評価している)、現在でも精力的にコンサートを行っている。

乳癌発覚以後

2001年には、自身の胸のしこりから乳癌が発覚する。紫綬褒章を受章した2005年頃よりピンクリボン活動に参加し、シンポジウムなどにも参加している。その後、同じく乳癌を発症した山田邦子が立ち上げたスター混声合唱団のメンバーとしてもがんの啓発活動を始め、2008年4月に放送されたBS朝日『鳥越俊太郎の遺言 〜ガンと共に生きる〜』では、手術時の心境や夫の力添えについて公に詳述した。
2013年春の叙勲では旭日小綬章を受章した。
(「Wikipedia」より)

PSC様の西日本豪雨クリック募金にご協力ください。www.psc-inc.co.jp/index.html


あちこち「SYOWA」 391 もしも明日が/ わらべ

2018-07-30 00:36:35 | 日記
アイドル全盛時代にこういう素朴な唄で「欽どこ」からデビュー。たちまち大ヒットとなった。・・・で、今聴いていて、なんとも複雑な気持ちになりました。いや、ほんとはこれが唄というものの原点なんだと思いました。素朴すぎて、ああ、これがほんとの唄というもの・・・。聴いているうちに懐かしくなり、涙が・・・。ははっ、過ぎ去りぬ、わが清春時代は。


【80s】 懐い音楽 もしも明日が わらべ




わらべは、テレビ朝日系のバラエティ番組『欽ちゃんのどこまでやるの!?』から誕生した高部知子、倉沢淳美、高橋真美の3人から成る企画ユニットである。

登場背景

企画立案時、萩本欽一の担当番組、『欽ちゃんのどこまでやるの!?』、『欽ドン!』、『欽ちゃんの週刊欽曜日』各番組の視聴率が合計100%を超え、また『欽ドン!』より誕生したイモ欽トリオの『ハイスクールララバイ』が大ヒットしていた。『欽ちゃんのどこまでやるの!?』の1982年のリニューアルにあわせて、これまで人形、あるいは子役タレントが担当してきた萩本家の3人の娘たち(のぞみ、かなえ、たまえ)が高校生として成長することになったのをきっかけに、オーディションで選ばれた3人の若手女優によって結成された。当時はアイドル全盛期で華やかなアイドルが多くいた中で、素朴な雰囲気を醸し出し、注目を集めた。


歴史

1982年12月、坂本龍一編曲による最初のシングル「めだかの兄妹」がフォーライフ・レコード(現:フォーライフミュージックエンタテイメント)よりリリースされた。もともと番組のエンディングで、就寝するシーンの中で使われていた曲をリリースしたもので、番組の企画物であったことなどもあり、1983年のオリコン年間シングルチャート第3位のロングヒットとなり、番組を放送していたテレビ朝日以外の局の音楽番組にも多数出演した。

曲の内容は、『すずめ、こねこ、めだか』が成長したら何になりたいかを歌ったもので、パジャマにちゃんちゃんこの衣装で歌っていた。ただ、このシングルがあまりにも売れすぎたため、これが当時の物品税の課税対象となる歌謡曲扱いか、または非課税となる童謡扱いかで国税庁とレコード会社の主張が対立し、論争となった。

だが1983年6月に、のぞみ役の高部知子の、ベッドの上で喫煙しているとされる写真が写真週刊誌『フォーカス』に掲載された。当初は当面謹慎の後、復帰の予定で、事件直後に高部が番組に電話出演して反省の弁を涙ながらに語り、「めだかの兄妹」を合唱した回は、42%の視聴率を記録した。しかし2か月後に、写真を週刊誌に提供した高部の元彼の自殺により、遺族へ配慮しての番組降板、ユニットからも脱退となってしまう。その後、その出来事は『ニャンニャン事件』と呼ばれ、後年テレビ番組『夕やけニャンニャン』のタイトルに使用された。

1983年12月、2枚目のシングル「もしも明日が…。」がリリース。オリコン調べでは前作の「めだかの兄妹」を上回る売上を記録し、同社調べによる1984年の年間シングルチャート第1位となる大ヒット曲となった。
1984年12月、3枚目のシングル「時計をとめて」がリリースされた。オリコン週間最高6位・1985年度年間79位を記録したが、以前ほどの大ヒットとはならなかった。

1985年3月の番組のリニューアルとともにユニットも解散、脱退した高部も含め3人はそれぞれ女優・タレントとして数多くの作品に出演、また歌手としてレコードを出した。(「Wikipedia」より)






あちこち「SYOWA」 390 世界でいちばん熱い夏 - PRINCESS PRINCESS

2018-07-28 00:47:15 | 日記
画像が消されましたので、別の画像を共有させていただきました。・・・消さないで。

世界でいちばん熱い夏 - PRINCESS PRINCESS



プリンセス プリンセス(PRINCESS PRINCESS)は、日本の伝説的ガールズロックバンドである。活動期間は1983年 - 1996年および2012年 - 2016年。女子のみで構成されたバンドの中で、商業的に日本で最も成功したグループである。ガールズバンドのパイオニアとなり、ヒット曲を大連発。略称は『プリプリ』。

来歴

1983年

2月、ガールズバンド結成のための楽器ごとのオーディションがTDKレコード主催で行われ、5人のメンバーが選出されて結成。当初のバンド名は「赤坂小町(あかさかこまち)」。このバンド名の由来については、「当時のTDKレコードの所在地であった『赤坂』から」、「『漢字4文字のバンド名をつけてほしい』と依頼されたある雑誌編集者によって名付けられた」、「雑誌上での公募で付けられた」など多くの説がある。5月29日、銀座の山野ホールで初ライブを行う。
4 月から、西日暮里(東京都荒川区)で合宿生活を開始する。合宿開始当初(1983年ごろ)は、同じ事務所に所属していた木之内美穂とともに合宿生活をしていた。この合宿生活は2年4カ月にも及んだ。

1984年

3月21日、TDKレコードより、シングル「放課後授業」でデビュー。この頃、奥居は「ヴォーカル&ベース」から「ヴォーカル&ギター」に、渡辺は「ギター」から「ベース」に、それぞれパート変更する(パート変更の時期は、富田によると「放課後授業」のリリース前、渡辺によると同シングルのリリース後とされており、ライブ年表によると、「放課後授業」発売の約1ヶ月半後の1984年5月8日のシャープ会館イベントがパートチェンジ後の初ライブとされている)。

1985年

事務所が与えるアイドル的な仕事に違和を覚えたことや、音楽性の違いから、所属事務所をTDKレコードから音楽座(ミュージカル劇団音楽座とは別の事務所)へと移籍する。ここでバンド名を「JULIAN MAMA(ジュリアン・ママ)」に改名する。JULIAN MAMA時代はシングル、アルバムのリリースは無かった。

1986年

5月、バンド名を「PRINCESS PRINCESS」へと改名し(名づけ親はムーンライダーズの岡田徹)、ミニアルバム『Kissで犯罪(クライム)』でCBSソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)よりデビュー。この『Kissで犯罪』のプロモーションビデオを事務所関係者が見たことがきっかけで、シンコーミュージックが彼女らへの接触、移籍交渉を開始することになる。

8月、シンコーミュージックで移籍のためのオーディションが行われるが、この時点では移籍には至らなかった。音楽座サイドがプリプリを手放そうとしなかったことや、オーディションを見た社員の反応があまり良くなかったことが理由であった。だが当時シンコーミュージックの社員で、後に彼女らのマネージャーになった「市ヤン」こと市村恵美子は、彼女らのライブを生で見て「このバンドはいける」と思い、社長の説得にあたった。
11月、所属事務所であった音楽座との意見の相違などもあり、音楽座との話し合いをへて音楽座からシンコーミュージックに移籍する。

1987年

4月、ファーストシングル「恋はバランス」が発売される。この曲は、作詞は中山が担当したが、作曲は鈴木キサブローによるものだった。当時メンバー内では、部外者が作曲した作品をリリースすることについての抵抗がかなりあったらしく、以後はメンバー自身が作詞・作曲した曲をリリースすることにこだわり続けた。

1988年

3枚目のシングル「MY WILL」が、スポーツ用品店「ヴィクトリア」のCMソングに起用されたことをきっかけとして注目を集め、フジテレビの夜のヒットスタジオDELUXEに初出演を果たす。初登場時は電飾を使ったセットが用意され、これは彼女らに余計に緊張を与えたという。またこの番組は、渡辺にとって昔からの憧れの番組であり、また「何度出ても緊張する番組だった」と後に語っている[8]。
2月、後にバンドの代表曲の1つとなる4枚目のシングル「19 GROWING UP -ode to my buddy-」をリリースする。この時期からたびたびテレビドラマやCMのタイアップに起用されるようになり、バンドの知名度、CD売上も上昇していく。

4月、結成当初から目標の一つとしていた渋谷公会堂ライブを行う。チケットは発売開始からわずか2時間で完売し、これを聞いたマネージャーの市村はメンバーより先に泣いたというエピソードがある。この頃からライブ会場をライブハウスからホールへと移行させていく。
5月、5枚目のシングル「GO AWAY BOY」リリース。資生堂夏のキャンペーンソングに起用される。続く6枚目のシングル「GET CRAZY!」も月9テレビドラマ『君が嘘をついた』の主題歌に起用された。
11月、4枚目のアルバム『LET'S GET CRAZY』リリース。収録曲の「M」は後にリリースされるシングル「Diamonds」のカップリング曲にもなり、バンドを代表する曲の一つとなる。

1989年

1月、女性だけのバンドとして初の日本武道館公演を行う(翌年より正月に公演が行われるようになり、以後1996年まで毎年行われた)。
4月、7枚目のシングル「Diamonds」をリリース、オリコンチャート1位を獲得し、ミリオンセラーを記録する。同曲の大ヒットとともに一躍トップアーティストの仲間入りを果たし、人気は頂点に達する。同曲では第22回日本有線大賞も受賞し、NHK紅白歌合戦からも「Diamonds」での出演のオファーが来たが、スケジュール上の都合で辞退する。
このブレイクをきっかけに「Diamonds」発売以前にリリースされていた曲も注目されるようになる。7月、既にEP盤として発売されていた2ndシングル「世界でいちばん熱い夏」がCD化され、オリコンチャートで1位を獲得。カップリング曲の「世界でいちばん熱い夏(平成レコーディング)」は、ライブで演奏していたアレンジをレコーディングしたものである。
6月1日発売のユニコーンのアルバム「服部」に奥居がPSY・SのCHAKAと共にコーラスで参加。

8月、西武球場で初のスタジアムライブを含む「夏祭りだよ! 全員集合」(ライブ)が行われる。
11月、5thアルバム『LOVERS』リリース、オリコン・アルバムチャートで初の1位を獲得し、ミリオンセラーとなる。中山が亡き父へのメッセージとして作詞した「パパ」、ポップなナンバー「パレードしようよ」などが収録されている(ちなみに、「パレードしようよ」の歌詞の最後に出てくる「パレード1991」というのは、「その頃には結婚できたらいいな」という願望から出たフレーズである)。

夜のヒットスタジオ騒動 1989年10月18日、生放送の『夜のヒットスタジオSUPER』第1回目で、新しく司会として起用された加賀まりこが、奥居に対して「ブタ」「生理中なんじゃないの」という発言をする。これに対し奥居は、同日番組終了後に生放送されたTBSラジオ『ポップン・ルージュ』で加賀の言動に激怒する。メンバーの恋人の存在が写真週刊誌に掲載された直後の同年11月15日出演時では、生放送中に加賀がそのことに打ち合わせなしで言及し、奥居がその夜の『ポップン・ルージュ』内で再び激怒。その後メンバー全員が『夜ヒット』への出演を拒否する事態に発展し、その後同番組に出演することはなかった(だがレギュラー放送終了後、1993年3月31日に放送された特番では病欠中だった今野を除くメンバー4人で生出演し、また1994年10月12日放送の特番には「夜ヒットの思い出」として奥居がVTRでコメント出演をしている)。

再結成

2012年

1月6日、東日本大震災をきっかけに再び集結、復興支援として、1年間の期間限定で16年ぶりの再結成を発表(実際にはその前年、2011年からリハーサルは行われていた)。
3月20日、再結成後の初公演は幕張メッセで開催された東日本大震災復興支援チャリティーコンサート『ALL THAT LOVE -give & give-』。米米CLUB、TM NETWORKとともに参加。当日の模様はWOWOWで中継された。

4月6日、公式facebook開設。
6月27日、2枚組ベスト「THE REBIRTH BEST 〜再会〜」発売。
7月 - 8月バンドとしては初めての夏フェスに出演(全国4ヶ所)。
11月3日 - 24日、ライブツアー「PRINCESS PRINCESS TOUR 2012 〜再会〜」を、仙台サンプラザホール(11月3日・4日)、日本武道館(11月20日・21日・23日・24日)にて開催。

12月23日・24日、追加公演「PRINCESS PRINCESS TOUR 2012 〜再会〜 "The Last Princess"」を東京ドームにて開催。女性バンドとしては史上初の公演だった。また、12月24日の公演はWOWOWで中継された。
12月30日、第54回日本レコード大賞に出演、特別賞を受賞。
12月31日、第63回NHK紅白歌合戦に出演(初出場)。(「Wikipedia」より)


あちこち「SYOWA」 389 岩崎宏美 聖母たちのララバイ.flv

2018-07-26 00:16:41 | 日記
私は当時この歌詞にいたく感動していました。自分と重ね褪せて聴いていたからでしょう。・・・こういう母性的な恋人がいたらすぐに飛んでいきたいとも思っていました。


岩崎宏美 聖母たちのララバイ.flv



「聖母たちのララバイ」(マドンナたちのララバイ)は、1982年5月21日にリリースされた岩崎宏美の28枚目のシングルである。規格品番SV-7209。


解説

原題は「聖母の子守歌」。前年9月に開始した日本テレビの2時間ドラマ枠『火曜サスペンス劇場』のエンディングテーマ(主題歌)であった同曲は、当初エンドロール用に放送される1コーラス分のみが制作されただけであった。ゆえにそれ以外のパートは製作・録音されておらず、発売の予定も立っていなかった。しかし、放送後に視聴者から作品化の要望が殺到したため、番組内のマスターテープを元に録音したものを製作し、抽選による視聴者200名のプレゼントとした。ところが、35万通を超える応募はがきが殺到し、過去に同様の企画を行った『西遊記』エンディングテーマ「ガンダーラ」の10万通を大きく上回ったため正式なレコードとして発売されることとなり、レコード会社間での紆余曲折の後、当時岩崎が所属するビクター音楽産業(現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)でフルバージョンの制作が行われた。

発売2週目にしてオリコンシングルチャートで1位を獲得。岩崎自身1975年の「センチメンタル」以来約7年ぶり、通算3作目のチャート1位シングルとなった。セールスとしてもオリコン集計では80万枚を超え、累計では130万枚を超える大ヒットを記録し、同年のオリコン年間シングルチャートでは3位を記録した。

またこの曲でTBS『ザ・ベストテン』には、「すみれ色の涙」以来3作ぶりにランクイン(通算14週間)を果たす。また、同番組で1位(通算5週間)を獲得したのも、同曲が唯一であった。

同年11月には第13回日本歌謡大賞を受賞。年末の第24回日本レコード大賞にも期待が高まったが、楽曲前半のメロディーが映画『ファイナル・カウントダウン』の劇中BGMの「ローレル&オウエンス」 (Laurel And Owens) および「ミスター&ミセスタイドマン」 (Mr.and Mrs.Tideman) のメロディーと酷似していると、抗議のため来日した同曲の作曲者から指摘される。

本曲作曲者の木森敏之がこの類似点を盗作と認めたため、作曲クレジットが木森と、盗作された上記楽曲の作曲者であるジョン・スコットとの併記という共作クレジットに修正された。この結果、外国人作家が製作した楽曲を対象外とする当時の日本レコード大賞の基準に該当し、大賞どころかノミネートにも至らなかった。最終的には作曲者のクレジットがジョン・スコットとの併記となったが、現在でも木森単独の作曲とする資料や、コンピレーション盤が複数存在している。当初4月21日発売と発表されていたが、1か月延期になった。初回盤にJohn Scott作曲・編曲とクレジットされているものが存在するなど、対応が当初混乱していた。因みにJASRAC作品データベースでは作曲:木森敏之として登録されている。

翌1983年の春には、第55回選抜高等学校野球大会の入場行進曲に採用された。岩崎宏美の楽曲としては、1976年の「センチメンタル」以来7年ぶり2度目の選曲である。

この曲のオリジナル・キーはBm(ロ短調)で、最高音がDであり、これは当時の岩崎の地声の音域ギリギリであった。そのため、テレビやライブ等生で歌う際は半音下げてB♭m(変ロ短調)で歌っていた。オリジナル・キーのカラオケを使用して歌う場合には、サビでファルセットを用いていた。これが当時オリコン誌上で、「半音下げたりファルセットを用いたりすると緊張感に乏しく、良い歌に聞こえない」と論争を呼んだ。その後現在に至るまで、B♭mで歌っているが、1985年頃から、半音下げたキーでもサビにファルセットを用いるようになった。アルバム『誕生』以降の別バージョンは、全てファルセットを用いて吹き込んでいる。

1993年10月27日にはCDシングルとして再発されたが、その際は本作と入れ替わり2代目『火曜サスペンス劇場』主題歌となり、後にヒットした「家路」とカップリングして収録している。

作詞の山川啓介は「作詞はどなたかのピンチヒッターみたいだった。カラオケまで全て整って僕に回ってきた。(詞の意図は、)サスペンス劇場だから、そのまま終わるより、安らかな気持ちで眠りについてほしい、うなされたりすると困るから。」と説明。(「Wikipedia」より)