「Wiki」では「プリンセス プリンセス(PRINCESS PRINCESS)は、日本のガールズロックバンドである。活動期間は1983年 - 1996年および2012年 - 2016年。女子のみで構成されたバンドの中で、商業的に日本で最も成功したグループである。ガールズバンドのパイオニアとなり、ヒット曲を連発。略称は『プリプリ』。」とあるので、ほとんど同じ時代のガールズバンドであります。私はどちらがどうだこうだと言える力はありません。どちらからも元気をもらっています。
SHOW YA - 限界LOVERS 1989年
来歴
ボーカルの寺田とキーボードの中村の所属していたバンド「メデューサ」が前身。のちにバンド名を「SHOW-YA」に変更する。 1982年、ヤマハ主催のバンドコンテストレディース部門で最優秀グランプリに輝く。この時には寺田だけが大手プロダクションやレコード会社からソロデビューの話が持ちかけられたことがあったが、寺田は「ソロは嫌。みんなでデビューしたい」と拒否。バンドとしてデビューする流れにはなったが、その後6人のメンバーの内、寺田と中村を除く4人が音楽以外の道に進むために脱退する。その後、メンバー募集によって、角田、仙波、五十嵐が順に加入する。
1985年8月、『素敵にダンシング (Coke Is It)』でデビューを果たす。しかし、当時は女性だけのロックバンドは珍しくて一般になじみが薄く、ミニスカートを履かせられたり髪を刈り上げられたりと、アイドルバンド路線で売り出されることになった。
1980年代後半、ハードロック路線に戻って自分たちの音楽を追求していたものの、セールスは伸び悩んでいた。それまで主に作詞を担当していた寺田はそれが自分のせいだと思い、7枚目のアルバム『Outerlimits』制作時、音楽家の安藤芳彦に作詞を依頼する。その際、寺田は自分の日記を安藤に渡し、それを基に詞を書いて欲しいと頼んだ。また、このアルバムから笹路正徳がプロデューサーとして参加する。
その結果、アルバムは約60万枚のセールスを記録する。30万枚を突破した8thシングル『限界LOVERS』や『私は嵐』のヒットも相まって、SHOW-YAのライブ本数やテレビ出演回数は激増する。さらに1987年から企画・主催を始めた女性アーティストのみを集めた野外イベント「NAONのYAON」では、ガールズバンドの認知度を上げることに貢献する。
1991年2月2日、ボーカル寺田がバンドを脱退する。多忙を極めたスケジュールにより引き起こされた喉を潰すなどの体調不良と精神的ストレスが原因であった。残されたメンバーは新しいボーカルにステファニー・ボージャスを迎えて活動を続けるが、1993年頃から活動が凍結状態になり、1997年 にボーカルがYoshinoに代わったものの、1998年9月に解散。
2005年、91年に脱退した寺田がバラバラになったメンバーたちのもとを訪れて一人一人に頭を下げ、5年かけてメンバーを説得し再結成を果たす。以降は数々のライブ活動、寺田恵子はNHK-FMの「私の名盤コレクション」のパーソナリティを務めるなど、精力的に活動を続けて今に至る。(「Wikipedia」より)
SHOW YA - 限界LOVERS 1989年
来歴
ボーカルの寺田とキーボードの中村の所属していたバンド「メデューサ」が前身。のちにバンド名を「SHOW-YA」に変更する。 1982年、ヤマハ主催のバンドコンテストレディース部門で最優秀グランプリに輝く。この時には寺田だけが大手プロダクションやレコード会社からソロデビューの話が持ちかけられたことがあったが、寺田は「ソロは嫌。みんなでデビューしたい」と拒否。バンドとしてデビューする流れにはなったが、その後6人のメンバーの内、寺田と中村を除く4人が音楽以外の道に進むために脱退する。その後、メンバー募集によって、角田、仙波、五十嵐が順に加入する。
1985年8月、『素敵にダンシング (Coke Is It)』でデビューを果たす。しかし、当時は女性だけのロックバンドは珍しくて一般になじみが薄く、ミニスカートを履かせられたり髪を刈り上げられたりと、アイドルバンド路線で売り出されることになった。
1980年代後半、ハードロック路線に戻って自分たちの音楽を追求していたものの、セールスは伸び悩んでいた。それまで主に作詞を担当していた寺田はそれが自分のせいだと思い、7枚目のアルバム『Outerlimits』制作時、音楽家の安藤芳彦に作詞を依頼する。その際、寺田は自分の日記を安藤に渡し、それを基に詞を書いて欲しいと頼んだ。また、このアルバムから笹路正徳がプロデューサーとして参加する。
その結果、アルバムは約60万枚のセールスを記録する。30万枚を突破した8thシングル『限界LOVERS』や『私は嵐』のヒットも相まって、SHOW-YAのライブ本数やテレビ出演回数は激増する。さらに1987年から企画・主催を始めた女性アーティストのみを集めた野外イベント「NAONのYAON」では、ガールズバンドの認知度を上げることに貢献する。
1991年2月2日、ボーカル寺田がバンドを脱退する。多忙を極めたスケジュールにより引き起こされた喉を潰すなどの体調不良と精神的ストレスが原因であった。残されたメンバーは新しいボーカルにステファニー・ボージャスを迎えて活動を続けるが、1993年頃から活動が凍結状態になり、1997年 にボーカルがYoshinoに代わったものの、1998年9月に解散。
2005年、91年に脱退した寺田がバラバラになったメンバーたちのもとを訪れて一人一人に頭を下げ、5年かけてメンバーを説得し再結成を果たす。以降は数々のライブ活動、寺田恵子はNHK-FMの「私の名盤コレクション」のパーソナリティを務めるなど、精力的に活動を続けて今に至る。(「Wikipedia」より)