二つの岩樋のこと
今書いておかなければ、という思いがあって、またまた次のようなモノクロ写真となってしまった。上は斐伊川から西の出雲市の高瀬川へ水を引く取水口の来原岩樋である。下は斐伊川から東の斐川町へ水を引く取水口の出西岩樋である。撮影は昭和48年。
この二つの岩樋は歴史的に重大な役割を担っていた。田畑の農業用水を斐伊川から引き込むことと、忘れてならないのは米などの輸送水路だったことである。この二つの岩樋は斐伊川を挟んで向かい合っている。その位置関係もまことに面白い。
出西岩樋の開削は、「今から約300年前の1685年(貞享2年)に松江藩の竜野九朗左ヱ門が責任者として掘り開いたと言われます。岩樋には入口と出口に水門があり、樋守(ひもり)(樋の水門番)が水門を上げ下ろしをして水位を調節して舟を通していました。このような水位の異なる川から移動させるために水門をつくる方法を『閘門(こうもん)式』といいます。」(出西岩樋の説明の案内板による)
一方、来原岩樋も同じ頃、元禄年間(1688~1704)に大梶七兵衛の孫大梶忠左衛門が掘った取水口で、やはり「閘門式」で米などの重要な輸送水路の高瀬川の入り口でもある。後、輸送水路として松江藩はこのルートに重点を置くことになる。
このことについて『斐川町史』に明快な記述がある。来原岩樋ルートが松江藩の輸送体系としてまことに合理的だったという。
(出西岩樋ルート)
雲南三郡→斐伊川→出西岩樋→出雲郷高瀬川→庄原川方→(外積に積換)松江御手船場→(外積に積換)大阪松江藩蔵屋敷
(来原岩樋ルート)
雲南三郡→斐伊川→来原岩樋→神門郡高瀬川→荒木川方→(外積に積換)大阪松江藩蔵屋敷
積み替えが一度で済むという利便性があったのである。また、その背景には「雲南三郡として最も重要な砂鉄の生産とその商品化の為の輸送を確保するという意味の政策転換」があったというのである。
この項まだまだ説明不足なので、今少し調べて補足したい。
今書いておかなければ、という思いがあって、またまた次のようなモノクロ写真となってしまった。上は斐伊川から西の出雲市の高瀬川へ水を引く取水口の来原岩樋である。下は斐伊川から東の斐川町へ水を引く取水口の出西岩樋である。撮影は昭和48年。
この二つの岩樋は歴史的に重大な役割を担っていた。田畑の農業用水を斐伊川から引き込むことと、忘れてならないのは米などの輸送水路だったことである。この二つの岩樋は斐伊川を挟んで向かい合っている。その位置関係もまことに面白い。
出西岩樋の開削は、「今から約300年前の1685年(貞享2年)に松江藩の竜野九朗左ヱ門が責任者として掘り開いたと言われます。岩樋には入口と出口に水門があり、樋守(ひもり)(樋の水門番)が水門を上げ下ろしをして水位を調節して舟を通していました。このような水位の異なる川から移動させるために水門をつくる方法を『閘門(こうもん)式』といいます。」(出西岩樋の説明の案内板による)
一方、来原岩樋も同じ頃、元禄年間(1688~1704)に大梶七兵衛の孫大梶忠左衛門が掘った取水口で、やはり「閘門式」で米などの重要な輸送水路の高瀬川の入り口でもある。後、輸送水路として松江藩はこのルートに重点を置くことになる。
このことについて『斐川町史』に明快な記述がある。来原岩樋ルートが松江藩の輸送体系としてまことに合理的だったという。
(出西岩樋ルート)
雲南三郡→斐伊川→出西岩樋→出雲郷高瀬川→庄原川方→(外積に積換)松江御手船場→(外積に積換)大阪松江藩蔵屋敷
(来原岩樋ルート)
雲南三郡→斐伊川→来原岩樋→神門郡高瀬川→荒木川方→(外積に積換)大阪松江藩蔵屋敷
積み替えが一度で済むという利便性があったのである。また、その背景には「雲南三郡として最も重要な砂鉄の生産とその商品化の為の輸送を確保するという意味の政策転換」があったというのである。
この項まだまだ説明不足なので、今少し調べて補足したい。