とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

静・常盤・巴

2013-05-29 23:36:18 | 日記
静・常盤・巴




 常盤御前(吉成葭亭)

 常盤は近衛天皇の中宮・九条院(藤原呈子)の雑仕女で、雑仕女の採用にあたり都の美女千人を集め、その百名の中から十名を選んだ。その十名の中で一番の美女であったという。後に源義朝の側室になり、今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、そして牛若(後の源義経)を産む。平治の乱で義朝が謀反人となって逃亡中に殺害され、23歳で未亡人となる。その後、子供たちを連れて雪中を逃亡し大和国にたどり着く。その後、都に残った母が捕らえられたことを知り、主であった九条院の御前に赴いてから(『平治物語』)、清盛の元に出頭する。出頭した常盤は母の助命を乞い、子供たちが殺されるのは仕方がないことけれども子供達が殺されるのを見るのは忍びないから先に自分を殺して欲しいを懇願する。その様子と常盤の美しさに心を動かされた清盛は頼朝の助命が決定していたことを理由にして今若、乙若、牛若を助命したとされている。(「Wiki」)






 『巴御前出陣図』 (蔀関月筆 東京国立博物館蔵)

 軍記物語『平家物語』の『覚一本』で「木曾最期」の章段だけに登場し、木曾四天王とともに義仲の平氏討伐に従軍し、源平合戦(治承・寿永の乱)で戦う大力と強弓の女武者として描かれている。「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹はいたはりあって、都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」と記され、宇治川の戦いで敗れ落ち延びる義仲に従い、最後の7騎、5騎になっても討たれなかったという。(「Wiki」)


 笙子さんの静御前の絵を見てから、私の記憶の中の上村松園の生涯、また、静御前の生涯を辿ってみました。そして、坂本さんに会いにご縁美術館に行きました。

 坂本さん、あの絵を見て、生意気ですが笙子さんの気持ちが分かるような気がしました。常盤御前、巴御前も同じですね。

 巴御前はどうしてですか。

 平家物語で読んだことがありますけど、義仲を護って戦って、終いには主人義仲の命により、味方の軍から離れて行きます。戦場で女を引き連れていたと敵に分かっては恥さらしになると気づいたからです。それからどうなったか、平家では分かりません。・・・身を引くことで主人を立てたからです。

 身を引くことですか。

 そうですね。・・・状況からして一人で味方から離れることは死に繋がる気がします。その後、本当に死んだのではないのかと思います。

 後日談を書いた史料もあるようですが・・・。

 それも見ました。密かに主人のことを案じている姿とか・・・。再婚したことを書いているのもありますね。

 ええ、私はそれこそ創作だと思います。仰るようにその後で死んだのかも知れないですね。

 私は常盤御前が好きですね。主人の死を知り、大和に逃れていく・・・、雪の中三人の子どもを連れて・・・。牛若はまだ乳飲み子です。この場面を描いた絵がたくさんあります。ということはそれほど絵にしたくなるような日本人の心をくすぐる何かがあったんだと思います。判官びいきに繋がる思いだと思います。

 清盛の情が結局自分の首を絞めることになった。

 歴史はそこの真実が面白いですね。

 したたかな女性の生きざまを感じます。人間は弱いようで強い。

 そういう轍を踏まないように頼朝は静御前の子を、ええ、義経のただ一人の子どもですね、それを奪い、葬り去る。静御前は極度の人間不信に陥るわけです。その静御前を松園は何度も描いたと言われます。松園は誕生2か月前に父を亡くしています。母仲子は女手一つで松園と姉、二人の娘を育て上げました。明治の女性が画家を志す・・・、世間では白眼視される訳ですが、母仲子は常に松園を理解し励まし支え続けた。最初は幸野楳嶺に師事しますが、後、鈴木松年や竹内栖鳳に学ぶ・・・、やがて27歳で妊娠。世間は父親は松年ではないかと騒ぐ・・・・。また、次々と傑作を発表して名声が高まるばかりなので、女の癖にと画家仲間から羨望される。しかし、母としても、画家としてもひるむことはなかった。息子の松篁はそんな中で成長していく・・・。

 子を奪われた静御前の気持ちが、母親になって改めて分かった・・・。

 ええ、その後、1934年、ずっと影で松園を支えてくれていた母が亡くなります。その2年後の1936年、61歳の松園は代表作となる『序の舞』を完成させます。それは女性が描く究極の女性像だった。

 ですから、笙子さんの決意の表明だと思います、あの絵は。

 そうだと思います。ポジティブに解釈した方が近いと思います。

 「願生此娑婆国土し来たれり」ですね。

 坂本さん、それ、どういうことですか。

 修證義です。道元の気持ちを表している言葉です。・・・人間は願ってこの世に生まれてきたという・・・。

 願って生まれてきた・・・。

 そうです。・・・坂本さんは、私の目をじっと見つめていました。

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白拍子

2013-05-27 16:44:21 | 日記
白拍子




 葛飾北斎 「白拍子図(仮題)」

北斎筆の白拍子図である。静御前を描いたものと思われる。筆致の確かさ、表情に漂う品格。白拍子図としてこれに勝るものはないのでは・・・。と私自身は思っている。




 上村松園「静」(1944年)


 吉野山 峯の白雪 踏み分けて 入りにし人の あとぞ恋しき
しずやしず しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな


 松園が繰り返し描いたという源義経の愛妾静御前の図。静御前は当代名うての白拍子だった。上の歌は、静御前が義経と吉野山で行き別れた後、捕えられて頼朝の命で鎌倉の鶴岡八幡宮に舞を奉納する際に、舞いながら詠んだものである。頼朝に媚びることなく、下手したら命に関わるなか義経を慕う歌を詠んだ静御前の姿である。

 「『義経記』によると、日照りが続いたので、後白河法皇は神泉苑の池で100人の僧に読経させたが効験がなかったので、100人の容顔美麗な白拍子に舞わせ雨を祈らせた。99人まで効験がなかったが、静が舞うとたちまち黒雲が現れ、3日間雨が降り続いた。静は法皇から『日本一』の宣旨を賜った。また法皇は、静を見て『カノ者ハ神ノ子カ?』と感嘆したと言う。その後、住吉での雨乞いの時に、静を見初めた義経が召して妾にしたという。」(Wiki)

 上の歌は「自分の名前『静』を『倭文(しず)』とかけつつ、頼朝の世である『今』を義経が運栄えていた『昔』に変える事ができれば、と歌っている。『伊勢物語』32段『古(いにしえ)のしづのをだまきくり返し昔を今になすよしもがな』を本歌とする。」
                                (Wiki)


 ご縁美術館に笙子さんの巫女の絵が十数作展示してあると聞いて、私は出かけました。他にも客が数人いました。坂本学芸員がすぐ出てきて、説明してくれました。ぐるりと一回りして作品をすべて見て、一つ不思議に思ったことがありました。

 巫女の舞姿がテーマで笙子さんの修業の賜物だと思います。お義父さんがご覧になると、喜ばれることでしょう。ただ、一作だけ、何でしょう、白拍子らしい絵がありましたが・・・。

 そうなんです。静御前を描いた作品ですね。お義父さんが以前来られて、笙子はどうして静御前を描いたのか分かりません、と仰っていました。ま、でもじっとその作品を見ておられました。

 巫女の絵は自画像のような雰囲気ですが、白拍子の絵は違うような・・・。

 畝本さん、よく分かりましたね。そうなんです。これはご自分で仰っていました。

 で、どなたなんですか。

 母だと仰っていました。

 ええっ、あの、お亡くなりになった・・・。

 そうです。母の姿を永遠に残そうとしたともとれます。

 そうかも知れませんね。

 劇団の郁子と琢磨君が後で来て、ああ、松江さんもご一緒でした、・・・郁子が、お父さん、静御前の舞を受け継いだのが出雲の阿国でないかという気がしてきた、と突然言いました。松江さんと琢磨君も納得した感じで、続いて新作劇の構想の話題になりました。

 ということはですね、坂本さん、阿国はかぶいていたと言われるけれど、実はかぶいていなかったということに、・・・モデルは静御前ですからね。実はこの前、笙子さんにお会いしたとき、湖笛で二人の阿国という劇の構想が温められているようで、もう一人の阿国として出演してくれと郁子さんに言われたとか・・・。

 そうですか、それは初耳です。それで、どうなったんですか。

 断ったそうです。お目出度のようで・・・。

 やっぱり、そうですか。

 笙子さんのお目出度は知っておられた・・・。

 そうです。以前、笙子さんのお姉さんが取材に来られ、そうとも取れることを仰っていました。

 坂本さん、二人の阿国という発想、どう思います。

 いやー、いいじゃないですか。面白いですよ。しかし、静御前と一緒に登場することはないでしょうね。

 それはないでしょう。・・・いや、あり得るこですね。

 そんな・・・。

 喜多川という曲者が指導してますからね。

 喜多川・・・。

 そうです。フェニックス喜多川です。

 会ってみたいですね。

 私もです。・・・二人の関心の対象はいつしか喜多川さんに向いてしまいました。

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二人の阿国

2013-05-24 11:30:12 | 日記
二人の阿国




 出雲の阿国像(京都市東山区 by 「Wiki」)

 最近、この像と同じ阿国像が地元有志の運動により、出雲市大社町の吉兆館に建てられた。

「伝承によれば、出雲国松江の鍛冶中村三右衛門の娘といい、出雲大社の巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったといわれている。」

「慶長8年(1603年)春に北野天満宮に舞台をかけて興行を行った。 男装して茶屋遊びに通う伊達男を演じるもので、京都で大変な人気を集めた(「当代記」)。同年5月には御所でも「かぶき踊り」を演じた。阿国は四条河原などで勧進興行を行った。なお、阿国の踊りをややこ踊りとする他、念仏踊りと記した史料もある。」

「阿国自身は慶長12年(1607年)、江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、消息がとだえた。慶長17年4月(1612年5月)に御所でかぶきが演じられたことがあり、阿国の一座によるものとする説もある。」

「没年は慶長18年(1613年)、正保元年(1644年)、万治元年(1658年)など諸説あり、はっきりしない(二代目阿国がいたのではないかという説もある)。出雲に戻り尼になったという伝承もあり、出雲大社近くに阿国のものといわれる墓がある。また、京都大徳寺の高桐院にも同様に阿国のものといわれる墓がある。」(「Wiki」より)


 私は笙子さん夫婦のことが気になり、久しぶりに千年椋の木のある氏神様を詣でました。本殿を拝み、椋の木を見上げると心が静まってきました。社務所を覗くと笙子さんがいました。

 あっ、畝本さん、・・・。不意に入ったので驚いた表情でした。

 よかった。今日はお休みですか。

 いえ、長期休暇です。

 えっ、もしかてお目出度。

 そうです。

 えっ、そりゃおめでとうございます。ご主人、あ、もちろんご両親も、お喜びですね。

 ありがとうございます。

 いや、私は何の用事もありません。ご神木を拝みにきました。

 椋の木ですか。・・・畝本さん、ご神木はもう一本あるんです。私もここに嫁いで初めて知りました。

 ええっ、それは初耳。

 裏山の楠木です。これも数百年は経つそうです。・・・本殿の前から樹のてっぺんが見えますよ。・・・そう言われて私は外に出て見ました。

 ああ、あの樹ですね。なるほど大樹ですね。・・・すると、ご神木が二本ということですね。

 そうです。中から笙子さんがそう言いました。

 それで、お話ししたいことが・・・。私は急いで中に入りました。

 ご神木が二本でしょ。そのことを郁子さんにお話ししたことがありますけど、その後で電話があって、・・・。

 どういう・・・。

 湖笛で二人の阿国という企画があるらしいのです。事実、阿国が有名になると、いろいろな国で阿国を真似た歌舞伎が上演されたそうです。

 そうですか。それで・・・。

 私がちょうど出雲大社の巫女の仕事をしていますので、共演してくれと・・・。

 ええっ、すごい企画じゃないですか。

 でも、断りました。・・・お腹の子どものことを考えました。

 ・・・。

 そしたら郁子さんは、何年でも待つとか仰いました。で、困っているんです。

 ご主人は・・・。

 絵の仕事はどうするのかと・・・。

 ・・・。

 絵と掛け持ちということになると、どちらもだめになってしまう気がします。・・・私はこれも喜多川さんの発想だなと気づきましたが、暫く何も言えなくなりました。

 
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 楠木の大樹

上のの写真は「ガルテン・ブログ」より引用 多謝


お礼の踊り

2013-05-20 23:45:51 | 日記
お礼の踊り






 長崎くんちで出雲阿国をイメージした衣装で踊る藤間流の踊り方。唄と三味線の「地方」も一緒に回り、座るときは地面の上に直接座るそうだ。長崎くんちは諏訪神社の秋のお祭り。そこででこういう踊りが行われていることを初めて私は知った。(写真転載多謝)


 冴子さんから久しぶりに電話がありました。いつもと違い、声が上ずっていて、私も知らず緊張しました。

 長崎くんちご存知ですか。

 ああ、知ってます。確か秋祭りではないかと・・・。

 そうです。それにならって、湖笛のメンバーによるお礼の踊りがありましたけど、ご覧になりました。

 いえ、いつあったんですか。

 今日です。市内3か所で・・・。

 知らなかった。・・・で、どんな踊りですか。

 盆踊りです。出雲音頭と山崩し・・・。郁子さん、大変な人気でした。後ろからは見えないくらいで、私はかき分けて前に出て見ました。

 町通りで踊ったんですね。

 そうです。だから、大変な人出でした。

 見たかった。

 郁子さんはこれで舞台俳優として立派にやっていけます。・・・見ててそう思ったので、自分のことのように嬉しかったです。

 いや、私もそう感じていました。・・・何かが乗り移っていると・・・。

 口上も素晴らしかった・・・。2代目としての自信に満ちていました。

 スタッフ、わけても喜多川さんの指導の賜物ですね。

 松江さんも、・・・千恵子さんも三朗さんも・・・、京子さんも、笙子さんも・・・、みんなでよくここまで・・・、そう思って感激しました。西日本の公演、大丈夫だと確信しました。

 そりゃよかった。・・・私は、街中の公演を想像しながら、湖笛の再スタートを喜んでいました。

長崎くんちの写真・リンク多謝
 
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