静・常盤・巴
常盤御前(吉成葭亭)
常盤は近衛天皇の中宮・九条院(藤原呈子)の雑仕女で、雑仕女の採用にあたり都の美女千人を集め、その百名の中から十名を選んだ。その十名の中で一番の美女であったという。後に源義朝の側室になり、今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、そして牛若(後の源義経)を産む。平治の乱で義朝が謀反人となって逃亡中に殺害され、23歳で未亡人となる。その後、子供たちを連れて雪中を逃亡し大和国にたどり着く。その後、都に残った母が捕らえられたことを知り、主であった九条院の御前に赴いてから(『平治物語』)、清盛の元に出頭する。出頭した常盤は母の助命を乞い、子供たちが殺されるのは仕方がないことけれども子供達が殺されるのを見るのは忍びないから先に自分を殺して欲しいを懇願する。その様子と常盤の美しさに心を動かされた清盛は頼朝の助命が決定していたことを理由にして今若、乙若、牛若を助命したとされている。(「Wiki」)
『巴御前出陣図』 (蔀関月筆 東京国立博物館蔵)
軍記物語『平家物語』の『覚一本』で「木曾最期」の章段だけに登場し、木曾四天王とともに義仲の平氏討伐に従軍し、源平合戦(治承・寿永の乱)で戦う大力と強弓の女武者として描かれている。「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹はいたはりあって、都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」と記され、宇治川の戦いで敗れ落ち延びる義仲に従い、最後の7騎、5騎になっても討たれなかったという。(「Wiki」)
笙子さんの静御前の絵を見てから、私の記憶の中の上村松園の生涯、また、静御前の生涯を辿ってみました。そして、坂本さんに会いにご縁美術館に行きました。
坂本さん、あの絵を見て、生意気ですが笙子さんの気持ちが分かるような気がしました。常盤御前、巴御前も同じですね。
巴御前はどうしてですか。
平家物語で読んだことがありますけど、義仲を護って戦って、終いには主人義仲の命により、味方の軍から離れて行きます。戦場で女を引き連れていたと敵に分かっては恥さらしになると気づいたからです。それからどうなったか、平家では分かりません。・・・身を引くことで主人を立てたからです。
身を引くことですか。
そうですね。・・・状況からして一人で味方から離れることは死に繋がる気がします。その後、本当に死んだのではないのかと思います。
後日談を書いた史料もあるようですが・・・。
それも見ました。密かに主人のことを案じている姿とか・・・。再婚したことを書いているのもありますね。
ええ、私はそれこそ創作だと思います。仰るようにその後で死んだのかも知れないですね。
私は常盤御前が好きですね。主人の死を知り、大和に逃れていく・・・、雪の中三人の子どもを連れて・・・。牛若はまだ乳飲み子です。この場面を描いた絵がたくさんあります。ということはそれほど絵にしたくなるような日本人の心をくすぐる何かがあったんだと思います。判官びいきに繋がる思いだと思います。
清盛の情が結局自分の首を絞めることになった。
歴史はそこの真実が面白いですね。
したたかな女性の生きざまを感じます。人間は弱いようで強い。
そういう轍を踏まないように頼朝は静御前の子を、ええ、義経のただ一人の子どもですね、それを奪い、葬り去る。静御前は極度の人間不信に陥るわけです。その静御前を松園は何度も描いたと言われます。松園は誕生2か月前に父を亡くしています。母仲子は女手一つで松園と姉、二人の娘を育て上げました。明治の女性が画家を志す・・・、世間では白眼視される訳ですが、母仲子は常に松園を理解し励まし支え続けた。最初は幸野楳嶺に師事しますが、後、鈴木松年や竹内栖鳳に学ぶ・・・、やがて27歳で妊娠。世間は父親は松年ではないかと騒ぐ・・・・。また、次々と傑作を発表して名声が高まるばかりなので、女の癖にと画家仲間から羨望される。しかし、母としても、画家としてもひるむことはなかった。息子の松篁はそんな中で成長していく・・・。
子を奪われた静御前の気持ちが、母親になって改めて分かった・・・。
ええ、その後、1934年、ずっと影で松園を支えてくれていた母が亡くなります。その2年後の1936年、61歳の松園は代表作となる『序の舞』を完成させます。それは女性が描く究極の女性像だった。
ですから、笙子さんの決意の表明だと思います、あの絵は。
そうだと思います。ポジティブに解釈した方が近いと思います。
「願生此娑婆国土し来たれり」ですね。
坂本さん、それ、どういうことですか。
修證義です。道元の気持ちを表している言葉です。・・・人間は願ってこの世に生まれてきたという・・・。
願って生まれてきた・・・。
そうです。・・・坂本さんは、私の目をじっと見つめていました。
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常盤御前(吉成葭亭)
常盤は近衛天皇の中宮・九条院(藤原呈子)の雑仕女で、雑仕女の採用にあたり都の美女千人を集め、その百名の中から十名を選んだ。その十名の中で一番の美女であったという。後に源義朝の側室になり、今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、そして牛若(後の源義経)を産む。平治の乱で義朝が謀反人となって逃亡中に殺害され、23歳で未亡人となる。その後、子供たちを連れて雪中を逃亡し大和国にたどり着く。その後、都に残った母が捕らえられたことを知り、主であった九条院の御前に赴いてから(『平治物語』)、清盛の元に出頭する。出頭した常盤は母の助命を乞い、子供たちが殺されるのは仕方がないことけれども子供達が殺されるのを見るのは忍びないから先に自分を殺して欲しいを懇願する。その様子と常盤の美しさに心を動かされた清盛は頼朝の助命が決定していたことを理由にして今若、乙若、牛若を助命したとされている。(「Wiki」)
『巴御前出陣図』 (蔀関月筆 東京国立博物館蔵)
軍記物語『平家物語』の『覚一本』で「木曾最期」の章段だけに登場し、木曾四天王とともに義仲の平氏討伐に従軍し、源平合戦(治承・寿永の乱)で戦う大力と強弓の女武者として描かれている。「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹はいたはりあって、都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」と記され、宇治川の戦いで敗れ落ち延びる義仲に従い、最後の7騎、5騎になっても討たれなかったという。(「Wiki」)
笙子さんの静御前の絵を見てから、私の記憶の中の上村松園の生涯、また、静御前の生涯を辿ってみました。そして、坂本さんに会いにご縁美術館に行きました。
坂本さん、あの絵を見て、生意気ですが笙子さんの気持ちが分かるような気がしました。常盤御前、巴御前も同じですね。
巴御前はどうしてですか。
平家物語で読んだことがありますけど、義仲を護って戦って、終いには主人義仲の命により、味方の軍から離れて行きます。戦場で女を引き連れていたと敵に分かっては恥さらしになると気づいたからです。それからどうなったか、平家では分かりません。・・・身を引くことで主人を立てたからです。
身を引くことですか。
そうですね。・・・状況からして一人で味方から離れることは死に繋がる気がします。その後、本当に死んだのではないのかと思います。
後日談を書いた史料もあるようですが・・・。
それも見ました。密かに主人のことを案じている姿とか・・・。再婚したことを書いているのもありますね。
ええ、私はそれこそ創作だと思います。仰るようにその後で死んだのかも知れないですね。
私は常盤御前が好きですね。主人の死を知り、大和に逃れていく・・・、雪の中三人の子どもを連れて・・・。牛若はまだ乳飲み子です。この場面を描いた絵がたくさんあります。ということはそれほど絵にしたくなるような日本人の心をくすぐる何かがあったんだと思います。判官びいきに繋がる思いだと思います。
清盛の情が結局自分の首を絞めることになった。
歴史はそこの真実が面白いですね。
したたかな女性の生きざまを感じます。人間は弱いようで強い。
そういう轍を踏まないように頼朝は静御前の子を、ええ、義経のただ一人の子どもですね、それを奪い、葬り去る。静御前は極度の人間不信に陥るわけです。その静御前を松園は何度も描いたと言われます。松園は誕生2か月前に父を亡くしています。母仲子は女手一つで松園と姉、二人の娘を育て上げました。明治の女性が画家を志す・・・、世間では白眼視される訳ですが、母仲子は常に松園を理解し励まし支え続けた。最初は幸野楳嶺に師事しますが、後、鈴木松年や竹内栖鳳に学ぶ・・・、やがて27歳で妊娠。世間は父親は松年ではないかと騒ぐ・・・・。また、次々と傑作を発表して名声が高まるばかりなので、女の癖にと画家仲間から羨望される。しかし、母としても、画家としてもひるむことはなかった。息子の松篁はそんな中で成長していく・・・。
子を奪われた静御前の気持ちが、母親になって改めて分かった・・・。
ええ、その後、1934年、ずっと影で松園を支えてくれていた母が亡くなります。その2年後の1936年、61歳の松園は代表作となる『序の舞』を完成させます。それは女性が描く究極の女性像だった。
ですから、笙子さんの決意の表明だと思います、あの絵は。
そうだと思います。ポジティブに解釈した方が近いと思います。
「願生此娑婆国土し来たれり」ですね。
坂本さん、それ、どういうことですか。
修證義です。道元の気持ちを表している言葉です。・・・人間は願ってこの世に生まれてきたという・・・。
願って生まれてきた・・・。
そうです。・・・坂本さんは、私の目をじっと見つめていました。
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