とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 555 グラジュエイション/ 倉田まり子

2018-10-29 15:27:09 | 日記
録画の画面の背景が島根の津和野なのでびっくりしました。こういう一面もあったのかと改めて倉田まり子の知られざる一面を見たような気持ちになりました。津和野ということで一層親しみを感じました。石川ひとみ似ということが言われているとか。どちらもそんなことを言われていたのですね。

グラジュエイション 倉田まり子



坪田 まり子(つぼた まりこ、1960年11月20日 - )は、日本のキャリアカウンセラー、元歌手、元女優。本名は坪田 真理子(読みは同じ)。歌手・女優時代の芸名は倉田 まり子(くらた まりこ)。

来歴・人物

長崎県諫早市出身。日出女子学園高等学校卒業。1974年、TBSの番組『家族そろって歌合戦』が長崎県島原市で収録された際、それに出場したことをスカウトマンに見初められて高校1年のとき上京。NHKの人気歌番組『レッツゴーヤング』のサンデーズの一員として1978年4月からレギュラー出演(〜1981年3月)した。

芸名の「倉田」は、師匠で作曲家の当時レッツゴーヤングの司会を務めていた都倉俊一から一字もらった。1979年1月にキングレコードから「グラジュエイション」でデビュー。1979年8月に発表されたシングル3曲目「HOW! ワンダフル」のヒットにより人気を確立、第10回日本歌謡大賞放送音楽新人賞・第8回FNS歌謡祭最優秀新人賞・第21回日本レコード大賞新人賞などを受賞。また、石川ひとみに顔がよく似ている事でも話題になった。所属事務所はニューバンブー。

歌手活動の他は、あだち充原作漫画『ナイン』の声優、またテレビドラマ出演(『気になる天使たち』、『ちょっといい姉妹』等)などで活躍していた。しかし1985年に「投資ジャーナル事件」に巻き込まれたことがきっかけで、本人は関係を全面否定するも芸能活動から引退する事態に追い込まれた。

芸能界から引退後は、国際法律事務所の秘書、資格試験予備校LECの執行役員・講師を経て2003年に独立起業。坪田まり子の名でキャリア・カウンセラーとして、大学生への就職指導、企業・自治体向けのプレゼンテーション能力向上や営業力強化等の研修ビジネスを手がけ、各地での講演活動を行っている。2010年現在は東京学芸大学の特任准教授(キャリア支援担当准教授)を務める。

2015年現在、基本的に芸能マスコミとは距離を置く姿勢を取っている他、公式ホームページのプロフィールでは、芸能活動時代について直接触れていないが、一方では自身からのメッセージで、時折第三者的視点で当時を回想することがある他、ファンサイト主宰者らによる同窓会に参加するなど、当時のファンと交流を持つ機会もある。

また、楽曲については一部がCDなどで再発売され、活動当時の歌番組・ドラマなどの再放送についても制限されていない。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 554 石川ひとみ - まちぶせ T.U. Nu Disco VDJ Remix

2018-10-28 03:16:45 | 日記
一人でこういう迫力を持っているアイドルは数少ないと思います。松田聖子とはちょっと違う。倉田まり子似とか。そう言えば。とまれ昭和のアイドルはぐっと迫るものがありました。いや、勿論平成のアイドルもそういう歌手はいますが、あっと思う迫力を言っています。誤解なきように。


石川ひとみ - まちぶせ T.U. Nu Disco VDJ Remix



石川 ひとみ(いしかわ ひとみ、1959年9月20日 - )は、日本の歌手、女優。70年代アイドル。本名、山田ひとみ(旧姓石川)。愛称はひっちゃん。血液型はB型。


来歴・人物

生い立ち

愛知県海部郡美和町(現:あま市)出身。出生は名古屋市西区、伊勢湾台風が東海地方に上陸(昭和34年9月26日)した直前で、台風のさなかすやすやと眠っていたという。2歳の時に海部郡美和町に転居した。子どもの頃はおてんばな女の子だった。幼稚園(七宝幼稚園)時代には近所の男の子と田んぼの中で大喧嘩し、泥だらけになって帰宅したこともあった。

小学6年(正則小学校)時にはソフトボールに熱中し、エースで4番を務めた。スポーツ以外では幼稚園の頃からピアノを始め、小学6年の昭和47年3月19日にCBCテレビの、のど自慢番組『どんぐり音楽会』に出場し南沙織の「潮風のメロディ」を歌い優勝し、それが初めてのTV出演となった[いつなにで?]。中学生(美和中学校)時代は軟式テニス部に所属。ダブルスでは前衛を務めた。当時から大きなひとみで、一際かわいらしさが目立っていて、男子生徒の間で早々に親衛隊が形成された。

名古屋短期大学付属高等学校(現:桜花学園高等学校)卒業。高校2年時、フジテレビ系で放送されていたオーディション番組『君こそスターだ!』でチャンピオンとなる。同番組のオーディション1週目では岩崎宏美の「ドリーム」を歌ったが、歌詞を間違えたため思わず「ごめんなさい」と叫んでしまい、収録のVTRを止めたことがある。

駅にあった東京音楽学院名古屋校の広告を見て同校に見学へ行ったが、その日は偶然入試の日だった。同校職員に「もしよければ受けていただいてもいい」と言われたため受験したところ、合格する。

デビュー〜ブレイク

1978年5月25日、キャニオン・レコードのNAVレコードより「右向け右」で歌手デビュー。
同年、全国58大学で構成される全国ビューティ・オール学生協会から「'78マスコット・ガール」に選ばれるなど、デビュー当時からルックスと歌唱力が高く評価され、大学生を中心に絶大な支持を得る。そのためか男性誌を中心に水着姿でのグラビア撮影が多かったが、石川は水恐怖症だったので芸能界入りするまでは水着を1着も持っていなかった。なお石川は、自らの水恐怖症の原因として、生まれて6日後に襲来した伊勢湾台風の影響を示唆している。

1981年には11枚目のシングル「まちぶせ」(三木聖子のカバー)がヒットする。それまでヒット曲に恵まれなかった石川は、同曲を最後の曲とするつもりだったという。同曲のキャンペーンで全国を駆け回り、「歌の楽しさを思い出して、辞めるのはやめようと思った」という。

「まちぶせ」がロングヒットを記録したため、次のシングル曲として予定されていた「にわか雨」の発売見通しが立たず、にわか雨の時期を過ぎてしまったということもあって発売見送りとなった。代わりに「まちぶせ」と同じく三木聖子のカバー曲である「三枚の写真」が発売された。この年、念願だった『NHK紅白歌合戦』に初出場を果たす。なお、「にわか雨」は2年後の1983年6月21日に16枚目のシングルとして発売された。

1979年から1982年までNHKの人形劇『プリンプリン物語』で声優として主役のプリンセス・プリンプリンの声を担当し、同局の歌番組『レッツゴーヤング』では太川陽介と司会を務めるなど、歌手活動以外でも活躍、『レッツゴーヤング』では1978年にサンデーズに加わった倉田まり子と顔が似ているとも言われていた。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 553 坂本九 上を向いて歩こう/ Kyu Sakamoto SUKIYAKI

2018-10-27 03:54:50 | 日記
九ちゃん、今どこで何をしていますか。素敵な笑顔で唄っていますか。


坂本九 上を向いて歩こう Kyu Sakamoto SUKIYAKI



坂本 九(さかもと きゅう、本名:大島 九(おおしま ひさし)、1941年12月10日 - 1985年8月12日)は、日本の俳優・タレント・歌手・司会者。神奈川県川崎市川崎区出身。愛称は九ちゃん(きゅうちゃん)。
妻は女優の柏木由紀子。柏木との間に娘が2人おり、長女は大島花子、次女は舞坂ゆき子。実祖父は茨城県田伏村(現:かすみがうら市)出身の漁師坂本金吉。またサックス奏者の阿部薫は甥(姉の息子)。
『上を向いて歩こう』や『見上げてごらん夜の星を』、『明日があるさ』など数多くのヒット曲を出し、全世界におけるレコードの売上は1500万枚以上に達した。また、映画や舞台の俳優、テレビ番組の司会など活動は多岐に渡り活動していたが、1985年(昭和60年)8月12日に起きた日本航空123便墜落事故で帰らぬ人となった。


バンド時代

高校に上がると、当時不良の音楽で、一部の最も流行に敏感な若者たちに流行り始めていたロックン・ロール(当時は総じてロカビリーと言われていた)にさらに熱を上げ、初めて立川の将校クラブでアメリカ人を相手に人前で歌う。その時に歌ったのがエルビス・プレスリーの「Hound dog」リトル・リチャードの「Send me Some Lovin'」だった。

1958年5月、日本大学高校[3]在学中にバンド・ボーイを経て、当時ロカビリーバンドとして活動していた井上ひろしとザ・ドリフターズ(後の桜井輝夫とザ・ドリフターズ、現在のザ・ドリフターズ)に加入し、ボーカル兼ギターを担当。8月26日にはロカビリー歌手として第3回日劇ウエスタンカーニバルに初出演し、新人賞を受賞する。

半年後(11月)芸能界の苦しさも経験し、母親の反対を押し切って入った芸能界が、どうも間違いだったと思い始めていた坂本は、学校を休学して芸能活動をしていたので「芸能界を一旦休業して学業に専念する」と引退してしまった。しかし渡辺美佐の妹曲直瀬信子は、坂本家まで通い、坂本と、母親を強く説得。そして初代ドリフターズのリーダー岸部清も説得し、事実上の引き抜きという形でドリフターズを脱退。 12月に水原弘の抜けたダニー飯田とパラダイス・キングの一員としてビクターレコードと契約。1959年6月に「題名のない唄だけど」でデビューしたが、ヒットしなかった。

無名時代、平尾昌章、ミッキー・カーチス、山下敬二郎などが出演した、日劇ウエスタンカーニバルに事務所の意向を無視して無理やり出演。バックでギターを弾いていたが、当初は知られることがなかったがのちに上記の新人賞を受賞している。
ダニー飯田とパラダイス・キング加入でヒットしてテレビに出る以前のライブ時代の九は、新品のギターを叩き壊すなどのパフォーマンスもする、パワフルでワイルドなロックン・ロールスタイルだった。

ソロに転向、そして世界的スターに

1960年7月に、東芝音楽出版(東芝レコード)に移籍。同年8月に、移籍後第1弾シングルとして発売した「悲しき六十才」が10万枚を売り上げ、初ヒットとなった(この曲は、日本航空123便墜落事故の慰霊式における鎮魂曲となる)。

1961年の「上を向いて歩こう」は日本国外でも大ヒットし、作詞の永六輔、作曲の中村八大と合わせて六八九トリオと呼ばれた。中でも1963年には、SUKIYAKIというタイトルでアメリカでもっとも権威のあるヒットチャート誌『ビルボード』の "Billboard Hot 100" で、3週連続1位を獲得、キャッシュボックス(Cash Box)誌でも4週連続1位を獲得。 "Billboard Hot 100" で1位を獲得した東洋人及び日本人アーティストは、2010年まで坂本だけである(2010年にメンバー全員がアジア系アメリカ人であるファーイースト・ムーヴメントが同チャートで1位を獲得し、2018年にはメンバー全員が韓国人のBTS(防弾少年団)がアルバムチャート「Billboard 200」で1位を獲得した。)。この曲は後に英語歌詞が付いたが、1位を獲得したのは坂本の歌う日本語版であり、その点でもこれまで唯一の例である。

ヒットに伴い、1963年、坂本はスティーブ・アレン・ショーに招かれ渡米する。エド・サリヴァン・ショーにも招かれたが、自身が主役の映画刀を抜いての撮影スケジュールと合わず、エドのほうは出演は叶わなかった。渡米の際、キャピトル社長一家、当時のニューヨーク市長、クインシー・ジョーンズ、ディズニーランド副社長や多くのアーティストや著名人と対面しており、空港には1万人のファンが集まるなど、今では考えられないほど歓迎された日本人だった。 そのため後年亡くなるまでの間、坂本はプライベートで外国に行ってアーティストのショーを観客席で見ていても、「kyu sakamotoが来ている」と必ず司会者に紹介されていた。

また、この「上を向いて歩こう」は1964年に米国内でのレコード累計販売枚数が100万枚を超えたため坂本は日本人初の「ゴールドディスク」を受賞した。

「上を向いて歩こう」の世界でのヒットにより世界的に名前が知られたことで、国際的な活動も多かった。1964年の第18回オリンピック東京大会のウェルカムパーティーにゲスト出演し、「サヨナラ東京」「君が好き」を歌った。
資金難だった東京パラリンピックをチャリティコンサートで寄付金支援した。

1970年の日本万国博覧会で若手芸能人の万国博委員に起用される。さらに、読売テレビ『クイズEXPO'70』の司会にも起用された。
タレントとして、テレビの司会や映画、舞台でも活躍した。また、「あゆみの箱」運動、手話を広げる運動、障碍者福祉関係の慈善活動に積極的に参加していた。

1971年12月8日に女優の柏木由紀子と結婚。 (「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 452 銀河鉄道999 演奏:ゴダイゴ

2018-10-26 01:18:14 | 日記
ゴダイゴという名前が長年気になっていました。下の解説で初めてしりました。後醍醐天皇に所縁の名前とか。・・・このバンドは現実から離れた異空間を創出した点で既成のグループとはかけ離れています。異空間を駆け巡るフワッとした温かみを感じていました。


銀河鉄道999 演奏:ゴダイゴ



GODIEGO(ゴダイゴ)は、1975年 に結成された日本のバンド。日本のプログレッシブロックバンドの草分け的存在。1970年代後半から1980年代前半にかけてヒット曲を連発し、日本の音楽界に多大なる影響を与えた。2006年に恒久的な再始動を宣言し、2017年11月現在も活動中。


来歴

1975年、ミッキー吉野がスティーブ・フォックス、浅野孝已、原田裕臣、タケカワユキヒデ等と共にゴダイゴを結成。
1976年、アルバム『GODIEGO (組曲:新創世紀)』でデビュー。本アルバムは、日本発売のアルバムで日本のレーベルからでた初めての全曲英文歌詞のアルバムとなる。サトリ等、日本人が英語の歌詞を歌い発売したアルバムはあるが、それらは海外発売であり、日本向けではない。

NHKのテレビドラマ『男たちの旅路』の音楽を担当。
1977年、アルバム『DEAD END』を発表。NHKのテレビドラマ『男たちの旅路』第二部第二話「冬の樹」で、熱狂的なファンがいるロックバンド「ゴダイゴ」として出演・演奏。

1978年にはテレビ番組『西遊記』のエンディングテーマ「ガンダーラ」、そして同主題歌「モンキー・マジック」を発表し、1979年にはユニセフ国際児童年協賛曲である「ビューティフル・ネーム」、同名映画の主題歌『銀河鉄道999』、そして『西遊記II』のエンディングテーマ「ホーリー・アンド・ブライト」を発表した。「ガンダーラ」と「モンキー・マジック」は、7週間にわたり2曲同時にトップ10にランクイン。また「ビューティフル・ネーム」「ハピネス」(タケカワのソロ名義)「はるかな旅へ」「銀河鉄道999」の4曲が同時にトップ20にランクインするなどヒットを連発した。注目すべきは、とりわけ低年齢層に支持されたことである。

人気を博した彼らだったが、スティーヴ・フォックスが宣教師になるために脱退した1980年春ころから徐々に人気に陰りが出始め、1985年に解散する。当時、公式には「インターミッション(活動休止)」と呼称しており、後にミッキー吉野は「当時『解散』が流行っていたので使いたくなかった」と語っている。

解散後、ミッキーはゴダイゴの精神を引き継いだ2枚のアルバムを発表した。これらアルバムには、浅野やスティーブも参加している。
ゴダイゴは、一般にはポップなヒットメーカーとして印象が強いが、実は正統派ジャパニーズロックバンドとしての評価が高い。1977年のアルバム『DEAD END』は当時の閉塞感、1979年のアルバム『OUR DECADE』は「1970年代」をテーマに制作された。

ミッキーは15歳でザ・ゴールデン・カップスに加入し活動した後、バークリー音楽大学に留学。スティーブも同大学に在籍したことがある。浅野は、14歳でバンド活動を開始し、エムそしてイエローといったバンドで若いころから活躍していた。トミーは幼い頃からドラマーとしてステージで活躍し、タケカワは10歳の頃から作曲活動を始める。メンバーは皆、幼い頃から才能を発揮していたのである。
1999年、ゴダイゴが再結成された。外国籍メンバーの滞在ビザの関係もあり、1999年に3か月間限定であった。年末にはNHK紅白歌合戦に出場し、「ビューティフルネーム」を披露した。翌2000年は、前年のツアーで廻れなかった西日本でライブを行った。その後もテレビ番組やイベントの出演などで散発的に再結成したが、外国籍メンバーの代役を他のミュージシャン(村上秀一など)が務めることもあった。

ゴダイゴ結成30周年にあたる2006年、奈良・東大寺でオリジナル・メンバーによるコンサートが行われ、恒久的な再始動が宣言された。この年、マキシシングル2枚とDVD1枚をリリースした。

2007年3月16日、東京芸術劇場で、ゴダイゴを始めとする総勢80人のミュージシャンによる「2007 TOKYO 新創世紀」が行われた。このライブは、東京芸術劇場にとって初めてのロックライブとなった。8月16日には神宮外苑花火大会にライブ出演。1曲目から「モンキー・マジック」を披露し大歓声を浴びると、タケカワは「気持ちは花火かもしれないけれど、ゴダイゴを楽しんでね」と語り、「ビューティフル ネーム」「ガンダーラ」「銀河鉄道999」などヒットナンバー全6曲を披露した。

2014年には、1980年から1985年にかけてスティーヴ・フォックスに代わりベースを務めた吉澤洋治が、正式メンバーとして復帰した。担当楽器は、ギターとベースである。2006年のゴダイゴ再始動後も、ゲスト出演することはあったが、正式メンバーとして復帰するのはゴダイゴが活動休止となった1985年以来である。

2015年11月1日に中野サンプラザで行われた『新制!ゴダイゴ プレミアムコンサート2015』では、初代ドラマーの浅野良治が背広姿でステージに登場した。タケカワは良治を含め、自らを「7(なな)ダイゴ」と紹介した。
グループ名の由来の一つに後醍醐天皇がある。ミッキーの本名が吉野→吉野朝廷→後醍醐天皇と連想でき、子供のころから好きだったからとのことだ。

英語表記では“GODIEGO”となる。「DAI」ではなく「DIE」という表記を思い付いたのはスティーブである。「生きて、死んで、また生きる」つまり不死鳥、復権した後醍醐天皇、七転び八起き、あるいは輪廻転生がイメージできることからミッキーも同意したという。また「GOD」「I」「EGO」と分けると、「神」「自分」「エゴ」という意味にもなる。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 451 アイ・ジョージ 硝子のジョニー  

2018-10-24 02:52:15 | 日記
カーネギー・ホール公演で軍歌「戦友」を唄ったという話を聞いて感激した記憶が鮮明に残っています。風貌がとても迫力があり、歌唱力も抜群の当時としては珍しい国際的な歌手でした。・・・すごく力強い。


アイ・ジョージ 硝子のジョニー  (懐メロ)



アイ・ジョージ(1933年9月27日 - )は日本の元歌手、俳優。本名、石松 譲冶(いしまつ じょうじ)。
芸名の由来は本名の石松譲治から苗字のイニシャル(「I」)から取ってアイ・ジョージとしている。



1933年、香港(当時は英国領)生まれ。父親が日本人(石油会社の役員)で母親がスペイン系フィリピン人。外地生まれで、なおかつ混血児であったこともあり、戸籍上は1940年4月15日生まれ・父方の祖父母の第三子として届出がなされているそうである。

三歳の頃に母を亡くす。父の仕事の都合で、香港、大連、上海、マニラを転々としながらも不自由ない裕福な幼少時代を過ごす。
1943年、父がバタヴィアへ出征することになり、父方の祖母と大阪へ渡る。1944年、香川県へ集団学童疎開。

1945年3月、大阪に一人残っていた祖母が空襲で亡くなったため、事実上孤児となり、長野県飯田市の果樹園へ引き取られる。父方の親類が長崎にいたそうだが、付き合いは無く、また8月9日の原爆投下によって全員亡くなったそうである。
1948年、消息不明だった父が南方での服役を経て復員。果樹園を出、父との同居を夢見ながら、大宮のパン屋に住み込みで働く。だが、その3ヵ月後、刑務所生活で体が弱っていた父はあっけなく亡くなった。それから6年間、パン屋・菓子屋・運送屋・ボクシング選手・競輪選手・ハンコ屋等さまざま職業を転々とする。

1953年、流し(米軍キャンプでも歌っていた)に転向していた頃、仲間に勧められ、テイチクレコードの歌手採用試験を受け合格し、黒田春夫という芸名で「裏街ながしうた」でデビューした。

「第二の田端義夫」というキャッチフレーズで歌謡曲歌手として売り出すテイチクと、ジャズ歌手として売っていきたいジョージの主張が食い違ったこと、レコードも売れなかったことから、歌謡曲である「心の十字路」、バッキー白片とアロハ・ハワイアンズの伴奏による「オー・ハッピデー/涙のチャペル」など数枚を吹き込んだだけで、テイチクを退社し、再び、流しの歌手として日本各地を回る。

1959年、大阪最大のナイトクラブである「クラブ・アロー」に、外人歌手の代理として出演依頼が来てステージに立ったところ、そのステージが大盛況であったことから、支配人である古川益雄に見込まれ、アロー専属歌手となる。その頃、森繁久彌に見込まれ、森繁劇団の大阪・新歌舞伎座公演に流し役で出演。

1959年12月、トリオ・ロス・パンチョスの日本公演の前座歌手となり、改めてアイ・ジョージとしてデビュー。同じ前座だった坂本スミ子共々大いに売り出す。そして再びテイチクとレコード契約を結ぶ。
NHK紅白歌合戦には1960年から1971年まで12回連続出場。


1961年にはドドンパ・ブームを起こす。フィリピン起源のオフ・ビート・チャチャチャを、比人バンドが持ち込み、それにジョージの仲間であるクラブアローのバンドマンが目を付け、計画的に流行させたものである。ただ、三拍目を三連音符に換え、ドドンパと命名したのはジョージである。このことを考慮すると、アイ・ジョージはドドンパの生みの親といっても過言ではない。
1963年、民音公演で「戦友」を反戦の意味合いで歌唱。これによって当時の学生が反戦の象徴曲として歌い始め、やがて当時軍人だった世代も巻き込み、軍歌ブームが起きる。

外国曲を中心に歌っていたが、オリジナル曲では1961年には自作曲「硝子のジョニー」、1965年には純然たる歌謡曲「赤いグラス」を志摩ちなみとのコンビで歌い、ヒットさせている。特に「赤いグラス」はカラオケのデュエット曲の定番として長年親しまれている。

1963年10月8日から10日にかけて日本人初となるアメリカ合衆国ニューヨーク市のカーネギー・ホール公演を果たす。当時は実力充分な一流歌手で無ければ、容易に舞台に立つことが出来ず、カーネギーの舞台に立つことは素晴らしい名誉だった。当時は大成功と報道されたが、実際のところ、内容は素晴らしかったが興行的には失敗に終わった。

1969年にはスペイン人等を集めたバンド/ザ・ジャパニーズを結成(「Wikipedia」より)