とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

真贋

2024-12-21 17:46:16 | 創作
真 贋


                            瀬本あきら

 Kという著名な美術評論家がいたとしよう。Kはあらゆる面での目利きであった。  

 ある日、友人に自慢げに文化財的価値のある軸物を見せた。ところが、その友人は、 

「こりゃ君、すまんけど、贋作だよ」と指摘した。筆遣い落款は似せてあるが、勢いとい

うか、魂が伝わってこない。この画家の作品は、実はたくさん俺も見てて、すぐに分かる、

と、そんな説明をした。

 するとK氏、突如顔が青ざめてきて、すたすたと奥の方へ入っていった。出てきたK氏

を見て、今度は友人の方が青ざめた。手に、鞘をはらった日本刀が握られていたからであ

る。友人は、思わず、「許してくれ」と叫んで、後じさりをした。K氏の目は空ろになり、

蒼然として佇んでいた。                             

 やにわに、その軸物を左手で拾い上げると、放り投げ、ばらりと広がった長い褌のよう

な軸面を、ばさっと真っ二つに切った。そして、拾い上げて、また空に浮かせ、刀を横に

払った。鈍い音がして、ゆらゆらと四切れになった軸が、友人の目の前に落ちてきた。 

 「ごめん。悪いことをいった」

 その友人は、初めて見た狂気の姿に圧倒されて、両手を突いて謝った。       

 この話を、何かの折に考えついた時見は、ときどきこの場面を自分がその場に居合わせ

たかのように鮮明に思い出すことができた。その都度想像が想像を産んでいた。    

 恐らく、その刃は、K氏自身に向けられたものであったのではないのか。常に「本物」

を求め、それが人物であろうが、美術品であろうが、求めたものに出会うと、無上の喜び

を感じ、様々な文章を産んだ。そういうK氏の真贋を見分ける美意識に喝をいれたのに違

いない。時見は、そう考え、納得していた。                    



 時見は、ある骨董市で円空佛を購入した。いや、骨董市というより、がらくた市といっ

た方がふさわしい店のたたずまいであった。ならんでいる品も、フリマに出した方がふさ

わしいものもあった。                              

 衝動的に手を伸ばして、財布の金をすべてはたいた。へそくりの金はそれですべてなく

なった。おまけに、その月の小遣いまで足してしまったから、その月は、何にも買うこと

もできなかった。                                

 それほどの目が自分にあったのか、というと覚束ない。ただ、円空という名前と、質朴

な表情に引かれただけだった。                          

 後になって、模刻ということが、現在行われているということが分かり、その作品をホ

ームページで見て、驚いた。そっくり、というより、より芸術的な彫面であった。   

 箱といい、包み紙といい、いや、何より像に時代がにじみ出ている。そう感じていたか

ら、江戸時代でも模刻が行われたのだろうか、と不安になってきた。しかし、K氏のよう

に、刃物でばっさり断ち割る勇気も出なかった。                  



「円空さんが仏像を刻んで祀ったために病気が治った、雷が落ちない、雨乞いに効き目が

ある、火事から守られた。飛騨・美濃地方にかずかずの伝説を残した円空は、寛永9年 

(1632)に美濃国(岐阜県)で生まれました。生誕地は羽島市内とも、郡上郡美並村

ともいわれています。若くして出家し、23歳のときに諸国遊行の旅にでました。造仏聖

として活躍をはじめるのは32歳の頃とされています。北は北海道から南は奈良県まで、

各地を行脚して修業を重ね、困窮にあえぐ人々の救済を念じて多くの仏像を刻みました。

生涯に12万体の造像を発願したといわれ、5千体あまりの円空仏が全国各地に現存して

います。                                    

 円空は、元禄8年(1695)7月15日、関市弥勒寺近くの長良川河畔で入寂します。

言い伝えでは、円空は長良川の岸辺に穴を掘らせ、節を抜いた竹を通風筒として立てると

穴の中に入り、鉦をたたきながら念仏を唱え、断食して即身成仏をとげました。円空入定

の地には山藤の蔓がからみついた巨木が鬱蒼と立ち、この蔓を切ると血が出ると伝えられ

ています。」                                  

       (ウエブマガジンVol.1008「岐阜の偉人伝ー円空ー」より引用)



ホームページの様々な記述を貪るように読んだ時見は、この簡潔な文章に心を捉えられた。

達意の文章でさりげないが、これ以上削ることができないほど切り詰めた表現の中に、円

空の人物像を鮮やかに浮かび上がらせている。                   

 円空の父は不明、母親は円空五歳のとき、長良川の大洪水で溺死している。12万体も

の仏像を彫ろうと発願したのは、その母の菩提を弔うためだったと言われる。     

 様々な表情の像がある。少し意地の悪そうな顔。憤怒の表情。慈愛に満ちた表情。おど

けた表情。鬼気迫る形相。どれもこれも、円空の心そのもの、という気がする。中でも、

目元、口元に笑みをたたえた、思わず誘われてこちらも微笑む感じの面相は、円空佛独特

のもののようで、時見の家の作もその微かな微笑が決め手であった。         

 言い伝えられているように、この笑みは、亡き母の表情を擬したものに違いない、と時

見は感じていた。すると、各地を聖として遊行し、夥しい作佛をなし、貧しき民を救い、

布施行を成し遂げたその先に見えるものは、死ではなかったか。母とともに「生きる」た

めには、「死」しか残されていなかったのではないのか。              

 母が死んだ長良川の河畔で、即身成仏を遂げたことでそれは立証できるのではないのか。

その死に方も、母の懐に抱かれたいという気持ちの表れではなかったか。時見は、そう考

えた。                                     

 立ち枯れの樹木、流木、木っ端、丸太、太木、細木。なんでも彼は彫り付けた。身の丈

もあるような大作もあるが、ほとんどは、木っ端佛と呼ばれるように小さいものである。

しかも、背面がない。彼は、材木を鉈で割り、皮相部に彫り付けた。しかも、いろいろな

彫具を使わず、鉈か何かで一気に彫り上げたという。                

 だから、一見荒削りで、刻んだ線も無造作で、全体的に素朴で、見方によっては、未完

成と思える。しかし、じっくり見ると、無駄な線は一本もないことに気付く。時見が、家

の作品に引かれれた一因もそこにあった。だから、模刻と断じがたく思うこともあった。

 時見の円空佛は、十一面観音像である。その頭部に頂く化仏は、下の慈顔と対照的で、

まことに愛くるしい表情の修業僧を思わせるものを感じていた。これも、円空独特のもの

のようであった。十一面観音像といえば、フェノロサが絶賛した大和聖林寺の像が印象に

残っていた。金箔がところどころ剥げ、染みもあちこちに出ていた。しかし、気品の高さ

は比類なきものを感じさせた。若い頃大和を旅して、たくさんの御仏を拝んだことが思い

出された。今、仏像に関心を抱く素地は、あのころに出来たものであった。聖林寺のもの

と比較すると、円空の像は、対極に位置するもののように思われた。事実、円空佛は、子

どもが玩具としてもてあそんでいたものもあるようである。また、佛体を削って煎じて服

んでもいたという。時見は、これは、円空佛の庶民性を物語るエピソードとして特筆すべ

き事柄、と解釈していた。                            

 蓮座に立っている立像は、円空佛の基本型だと、時見は理解していたが、時見が、写真

で見ると、必ずしもそうではないようである。岩座に乗っかっているものなどがあり、一

概に言えない。千変万化。時と場所によって各様の姿を現す。時見の家の像は、蓮座の下

にごつごつした岩座が彫してあった。                       

 そして、遊行の旅である。旅を続けた1660年代から1690年代は、江戸幕府の体

制が確立し、異教に対する圧力が加わる宗教にとっては厳しい時代であったといえる。と

ころが、円空は自由に旅を続けることができた。それは、一所不在の「聖」という下級の

僧侶だったからだといわれている。北は北海道から、南は近畿まで何度か旅を繰り返し、

随所で造佛した。しかし、中国地方にまで足を伸ばしたという記録はないようである。 

 すると、島根でこうして仏像を見ることができるのは、まことに稀有な出来事である。

逆にいうと、贋作の根拠にもなる。時見は、そこのところが喉元につかえて不快であった。



 さて、当の円空の人物像であるが、時見は、ある図書館の美術雑誌で画像を見ることが

できた。                                    

 館内のパソコンで検索すると、「円空」というキーワードで数十冊。「円空佛」という

語では、実に百冊近い数に昇った。                        

 「人物画が見たいんです」                           

 そういうと、中年の司書は、ムックの雑誌を持ち出して見せてくれた。       

 キャレルデスクで他人の視線を遮りがら、その像を凝視し続けた。         

 「・・・・・・意外だ」                               

 自然にそういう言葉が、転がり出てきた。                    

 12万体の造佛を発願し、あらあらしくまた素朴な像を彫り出した人とは思えない、静

かな面立ちであった。                              

 細面で鼻筋が通り、切れ長の眼をした色白の老僧であった。払子を両手で持ち、何か言

い出しそうに心持口を開けていた。少しの俗塵をも感じさせない聖人そのものの姿であっ

た。                                      

 どこからそういう力が湧いてくるのか、不思議な気がした。            

 蝉の声を聞きながら外に出ると、不意に名前を呼ばれた。振り向くと、先程の司書が、

駆け寄ってきた。                                

 「あの、・・・・・・よかったらアクセスしてみてください」              

 渡された用紙には、ホームページのURLがぎっしりプリントアウトしてあった。  

 「あっ、どうも」                               

 時見は、改めてその女性の顔を見た。                      

 整った顔立ちが、すずやかに笑った。                      



 帰ってから、その用紙の中の一番上のURLにアクセスしてみた。「円空の恋」という

タイトルが出てきた。                              

 「恋・・・・・・」                                 

 図書館で見たすっかり煩悩を抜き去った顔と旨くダブってこなかった。       

 もどかしそうにページを開いて見ると、尼僧の像が浮かび上がってきた。      

 墨染めの衣に頭巾。                              

 どうして、あの司書は、このメモを私にくれたのか。               

 そして、どうしてこのページのURLをトップに置いたのか。           

 などという思いと、円空の恋人という想念がない交ぜになって、しばらくぼんやりその

像を見つめていた。                               

 しかし、最後のページの説明を読んで、その思いは霧消した。           

 その後の研究の結果、不動明王の眷属「矜羯羅童子」だと分かった。        

 そのように記してあった。尼僧ではなかったのである。しかもそのページは、ある美術

館のホームページの別館であることも分かった。                  

 しかし、長い一生の間、色恋と全く無縁であったとは思えない。時見は、そう勝手に思

うことにした。                                 

 それから、そのページの管理人にメールを送った。

 「・・・・・・写真を送信しますので、その真贋を鑑定してやってください。       

よろしくお願いいたします。・・・・・・」                       



 数日して、返信メールが届いた。                        

 「歌人としての円空をご存知ありませんか。歌集も出しています。仏像の背面にも記し

てあるものがあります。お調べください。また、円空と称する僧は、数人いたという説も

あります。また、鉈彫り仏像は平安時代からありました。              

 写真拝見しました。円空らしい彫りですが、写真だけでは鑑定できません。しかし、ど

ちらにしても、真贋を超えた立派な作品と思われます。大切になさってくださいませ。 

 お気持ちに添うお返事ができませんでした。悪しからず、お許しください」     

 時見は、しばらく呆然としていた。                       

 「円空が、数人いる。なんということだ」                    

 時見は、真っ暗闇に放り出されたような、しかも、無知を笑われたような気持ちになっ

た。と同時に、真贋に拘る自分の姿があさましく思われた。             



 二、三日後に、気を取り直してお礼のメールを送った。              

 その返事のメールの送り主は学芸員をしている感じであった。           

 文面には、真贋に拘る自分の目をさましていただいた、といった意味のことを書いた。

それから後は、床の間のガラスケースに納めた木彫りの仏像を見つめる目が変わった。合

掌、低頭して、願わくは、あの画像の円空仏師の作であって欲しい、と祈った。それは、

真贋という視点からの祈りではなかった。円空仏師に対する崇拝からの祈りであった。 

 そして、ときどき女性学芸員のメールの文面を読み返しながら、その女性の面立ちを想

像していた。時見は、そのとき、いつも身ぬちの芸術への思いに対して、突きつけられた

鋭い刃を感じていた。                              

 ────会ってみたい。                            

 時見は、その度にそう呟いた。                      (了)


(注) この作品を書くに当たって、各種の「円空」に関するHPを読んで参考にしまし
    た。                                  
    特に、上記の「岐阜の偉人伝 ─円空─ 」のサイトの記事はこの作品の重要な
    モチーフになっています。                        
    最後に記し、深く御礼申し上げます。 

                    ウエブ同人誌「座礁」より転載                  


2024-12-21 17:16:28 | 創作


                                  瀬本あきら

 下手な三段謎である。『わかば』と掛けて何と解く? 女優田中裕子さんと解く。……

してその心は?

 妻がNHK連続テレビ小説『わかば』を今朝も視ていた。飯を食べながら視ていた。私

は続けて視ていないので、ひとつも面白くない。『さくら』、『まんてん』、『こころ』、

『てるてる家族』、『天花』、『わかば』。短期間でタイトルが次々変わるので、何が何

だか分からなくなる。しかし妻は頭がいいから、よく切り替えが利く。しかもこまめに視

ている。

 まあいい。私は退職後再就職したが、向こうの都合で解雇された身だ。暇を持て余して

いる。しばらく付き合うか。そう思って一緒に視ていた。すると、いやいや私は暇ではな

い、という気持ちが込み上げてきた。そうだ、一年と二ヶ月の女の子の孫がいる。だから

孫の両親が出勤した後の子守りは大変である。私たち夫婦はまた新婚時代に返ったような

忙しさを味わうこともある。しかし、今、その孫は二階で朝食後の睡眠を楽しんでいる。

そういうときは家の中はまことに静かなものである。そんなこんなで、私はテレビを視な

がら『わかば』というタイトルと田中裕子さんを変な方向から繋げてしまう奇妙な想念に

取り付かれていたのである。

 ……してその心は? 銃後の女の哀しみ惻々と……。

 第二作目の『二十四の瞳』の映画は昭和六十二年に公開された。主役の大石先生は田中

裕子さんが演じた。昭和二十九年制作の第一作の主演は高峰秀子さんで大ヒットしたので、

田中裕子さんも演りにくかっただろうと思っていた。ところが、封切りされた作品を視る

と、シャキシャキして飛んでいるといった高峰秀子の大石先生とはまた違うおっとりとし

た感じの包容力のある女性教師像を作り上げていた。これは立派だと思った。キャストが

違うと人物が別物になる。そういったことをまざまざと見せ付けられた思いがした。

 壺井栄の原作はよく知られている通り、反戦思想に裏づけされている。これは夫の壷井

繁治の影響が背景にある。プロレタリア文学の色彩が底に流れている。小豆島の岬の分教

場に赴任してきた大石久子先生が十二名の子どもたちと運命的な出会いをするが、時勢は

次第に軍国主義の思想に染められてゆく。そして戦争。成人した島の男の子たちは出征し

て帰らぬ人となってしまう者が出てくるし、同窓生でも目が見えなくなって帰ってくる者

も出てくる。女の子たちも厳しい社会環境の中で苦しみぬいて生きてゆく。死んで行く者

もいる。久しぶりに同窓生が集まって恩師を囲む会を催すが、大石先生は時局の荒波に飲

み込まれていく教え子たちの生き様を悲しむ。彼女自身も夫を戦争に奪われ、子どもも病

で失っていた……。

 実は、私は昭和六十三年に小豆島のロケ現場を見に行ったことがある。映画が公開され

た直後だった。オープンセットの分教場、昭和初期の町並みなどを映画のシーンを思い出

しながら私は見て回った。セットの分教場は本物の分教場から少し離れたところに設えて

あった。校庭から瀬戸内海の青い海が見えた。その海は「泣きみそせんせ」と呼ばれるよ

うになっていた母を学校まで舟で送っていった息子「大吉」の海である。その色がいつま

でも私の記憶の底に漂っていた。

 十五分の放送時間はすぐ終わる。私はドラマを視るともなく視ていたので、食事はすで

に終わっていた。妻は終わると同時に食べ終えて片づけを始めようとする。私の心の中の

海が突然揺らいだ。

 「……泣きたくなったらいつでもいらっしゃい。一緒に泣いてあげる」

 突然私がそう言った。すると、ぎょっとしたような目つきになって妻が言う。

 「えっ? 何ですか? ……気持ち悪い」

 私はそのとき頭がぼやけたようになっていた。だから、恐らくトロンとした眼で妻を見

ていたのだろうか。それは自分で分からないが、今言った言葉が胸のうちで反響していた。

 「……一緒に泣いてあげる」

 もう一度言うと、妻は手を休めて、私の前の椅子にどかっと座り込んだ。

 「ちょっと、あなた、気がおかしくなったんじゃない?」

 そう言われて、はっと私は我に返った。

 「いや、ごめん、台詞だよ。台詞を急に思い出したんだ。田中裕子の台詞」

 「台詞?」

 「そうだよ。田中裕子の『二十四の瞳』」

 「『二十四の瞳』? それがどうしたの?」

 「その中の名台詞だよ。ぐっとくる……」

 私はまだほろ苦い余韻を味わっていた。

 「それとさっきのドラマとどういう関係があるの?」と妻はいつもの突っ込みを始めた。

 「いや、関係はまったくない。ただ、田中……」

 「……裕子を見ていて、いつものように飛躍したんですね?」

 「まあ、そういうことだ」

 やっと理解して貰えた、という安堵感で私は嬉しくなった。

 ところが、妻は冷たい視線を送りながら、「痴呆は御免ですよ」ときっぱりと言い放った。

 そして、茶碗などを流し台に移し始めた。

 私は、自分の部屋に戻ると、『現代日本文学全集』の中の「二十四の瞳」を探し出し、

大石先生の台詞を一つひとつ当たってみた。

 ところが、どこにもその台詞らしきもの出てこないのである。第二作目の映画の極めつ

けはその台詞にあると信じていたので、私は少なからずうろたえた。いや、どこかにある

はずだ。いや、ないかもしれない。私は混乱してきた。……痴呆は確実に進行している。

私はそう思って、少し深刻になってきた。

 そこで、ビデオレンタルの店でまた借りてきて、飛ばし飛ばししてすべてを視聴した。

裏通りで大石先生と女の子の教え子がひそやかに話している。ここだ、ここだ、と思った。

「……一緒に泣いてあげる」

 大石先生は、確かにそう言った。私は、ほっとした。

 しかし、原作にないということは、脚本段階で作られたものに違いない。私はそう思っ

た。脚本担当は、第一作、第二作ともに木下惠介氏である。第二作では脚本の書き換えが

なされたかどうかは分からない。どちらにしても名台詞を旨く作ったものだ。私は疲れ果

てた頭でそう思った。やはり、青い海の色が見えていた。女は大きな海だと思った。生き

物はすべて海から産まれ出た。……一緒に泣いてあげる。海はすべてを包み込む。

 それから、ふとまた思い出し、レンタル店で黒澤明脚本の『一番美しく』というモノク

ロ映画のビデオを借りてきた。そして、これまた飛ばし飛ばしして「問題」のシーンを確

かめた。

 この映画はいわゆる国威発揚、戦意高揚のために制作されたものである。

 敗戦色濃い昭和十九年。奇しくも私が生まれた年である。女子挺身隊として平塚の精密

機械の軍需工場に徴用された若い女性たちが、献身的にお国のために働く姿をドキュメン

タリータッチで描いている。挺身隊が担当していたのは兵器の照準器のレンズを作る作業

である。女子挺身隊は、毎朝工場に出かけるときは鼓笛隊の隊列を組んで行進する。その

姿がりりしい感じがする。主人公はその隊長として信頼されている責任感の強い女性であ

る。その隊長である主役渡辺ツルは矢口陽子さんが演じている。後で彼女は黒澤明氏と結

婚することになる。

 ある日、出来たレンズの目盛りを顕微鏡のような器具で修正していた隊長は、隊員の報

告により未修正の一枚があることに気づく。その日他の隊員と一緒に修正したレンズは夥

しい枚数である。責任感を感じた隊長は工場の者が止めるのも聞き入れず、一人で再検査

を始める。徹夜に等しい労働を繰り返すのである。疲労困憊する体に鞭打って。そして、

過酷な労働の結果やっと見通しがたつ。明け方帰ろうとすると、別室で男性の工場の責任

者が待っていて、よく頑張ったねと声を掛けて慰労する。

 「美しい」のはその一途な責任感だろう。一枚でも焦点の狂ったレンズが戦闘機や兵器

の照準器に取り付けられれば、大切な戦闘手段を失うことになる。その一枚を探すことが

お国のためになる。だから、時間との闘いだし、我が女の命を燃やし尽くすことにもなる。

そうした熱情が視ている者の胸を打った。

 そうだ、「わかば」……。「わかば」が「問題」である。「わかば」というと唱歌を私

は思い出す。唱歌の「若葉」は昭和十七年に作られている。「あざやかなみどりよ、あか

るいみどりよ、鳥居をつつみ、わら屋をかくし、かおる、かおる、若葉がかおる」。私は

昭和十九年生まれである。小学校のころ沢山唱歌を歌ったが、その中でもこの「若葉」が

一番好きであった。初夏の緑に覆われた平和な村々の情景が頭の中に広がってきた。その

唱歌をこの映画の中で聴くことになるとは夢にも思わなかった。

 隊長とともに働いていた隊員の中で病気や怪我で倒れる者も出てきた。隊員の間に感情

の行き違いが生まれ、ぎすぎすした雰囲気になっていった。その上、レンズの紛失。隊長

の命を掛けた奮闘。隊員は夜になると宿舎の庭に整列した。そして、何とその「若葉」を

斉唱したのである。私は衝撃を受けた。ここで「若葉」が……? どうして? どうして?

という疑問が私の心の中に染み付いた。私の好きな唱歌がこの映画では、テーマ曲として

挿入されている。黒澤明はどうしてこの歌を採用したのか? 私はずっとこの疑問をあた

ためてきた。望郷の歌か、それとも……。

 それを歌った場面の正面には「ふるさとの土」と題する木製の看板のような詩碑が建て

られていた。土からすべての恵みは生まれ、父祖伝来の日本の国土もその土の上に築かれ、

人間の歴史も土とともにある。内容は定かではないが、そういうことが記してあったと思

う。そう言えば、隊員はその寮に入るときに、一握りの「ふるさとの土」を持参して庭に

敷き詰めていた。すると、「若葉」は国土の繁栄を祈る賛歌かもしれない。そして、隊長

が身を挺して仕事をしている夜中に、宿舎に残っている隊員がその歌を歌ったということ

は、隊長の志気を称え、無事を祈る気持ちの表れであろうか。

 誰か専門家に尋ねれば明快な解答をするだろう。しかし、私はいかなる解答も受け付け

ないほどの衝撃がトラウマのようにへばり付いていた。だから、テレビドラマのタイトル

でも、私の感受性は即座に反応するのである。許せないことはない。問題は、爽やかな初

夏の風景を歌ったこの歌と映画の国粋主義の中で健気に闘う銃後の女の闘志と哀調にはマ

ッチしないと思ったのである。映画の最初に出てくる「討ちてし止まん」の切迫した言葉

と穏やかな「若葉」の曲調は調和しない。そして、作品の底に流れている戦時体制の中で

のヒューマニズムも私にはどう理解していいか分からなかった。もしかして、黒澤明氏は

豊かで平和な国土への回帰の願いをこの歌に密かに託したかもしれない。しかし、それは

私の憶測にすぎない。

 「おい! 『わかば』はもしかして哀しい物語なのか?」

 古いビデオを視始めた私から逃れて洋間に移っていた妻に大声で問いかけた。

 「何言った? 聞こえない」と妻が隣から問い返してきた。

 私は居間から出て行って妻の前のソファーにどんと座った。

 「『わかば』はもしかして哀しい物語なのか?」

 「もうやめて」

 そう言って妻はそっぽを向いた。

 「だから、『わかば』というドラマは……」

 「あなた! そんなに気に掛かるのなら、続けて視さいよ!」

 「飛び飛びに視てるけどさぁ……」

 「もう何にも言わないで!」

 「『わかば』というのは女の子の名前だろ? 原田夏希とかいう女優が演ってる……」

 「当たり前じゃないの!」

 「その女の子がもしかして哀しい運命を背負っているとか……」

 私は執拗に聞いた。

 「どうしてそんなに拘るの?」

 「いやね、『若葉』という子どもの歌があるだろ。そのことと繋がってきてさ……」

 「それで、どうしたの?」

 「『若葉』は明るい歌だと思っていたけどさ。黒澤の映画では切実な祈りの歌になって

いる……」

 妻は、とうとう黙って俯いてしまった。

 「黒澤の『一番美しい』では、大地への祈りの歌もしくは鎮魂歌として歌われている」

 「……」

 「それが謎なのさ。その訳が知りたい」

 妻は「謎」と聞いて、頭を挙げた。

 「謎だか何だか知りませんが、そのこととドラマは、全く関係ありません!」

 仕舞いには怒りだした。

 「だから、『わかば』という言葉の響きが私を刺激したんだよ」

 また、黙ってしまった。妻の体全体からぐっと重いものが私に押し寄せてくるような気

持ちがした。

 「私が一番好きな唱歌なんだよ」

 「あなたの仰っていることは、少しも私には通じません」

 「だからさ……」

 妻は立ち上がって言った。

 「こりゃだめだ」

 そう言うと、すっと玄関の方へ出て行った。しばらくしてドアを立てきる大きな音がし

た。私の海は大きなうねりを見せ始めた。

 取り残された私は、一人で、「あざやかなみどりよ、あかるいみどりよ、鳥居をつつみ、

わら屋をかくし、かおる、かおる、若葉がかおる……」と歌った。すると、海の波が静ま

り、若葉の爽やかな色が頭に浮かんできた。そして、先ほどの妻の言葉がひょいと頭から

胸の芯まで降りてきた。

 「チホウハ ゴメンデスヨ」

 私はそうかもしれないと思って急に不安になった。不安になるとじっとしておられない

ような気持ちに追い込まれた。しばらく時間を持て余していると、二階の方から子どもの

泣き声が聞こえてきた。

                                     (了)
ウエブ同人誌「座礁」より転載


あちこち「SYOWA」(番外) 1985-1995 中山美穂CM集

2024-12-11 17:30:49 | 日記
私は中山さんの「タン塩」のCMを突然思い出しました。お亡くなりになったというニュースを知った直後です。
突然の知らせ。コンサートを予定していたとか。病気ではない。えっ、そんなところで。恐ろしい出来事だ。
フアンの一人としてできることは、映像をアップすることしか。謹んでお悔やみ申し上げます。

1985-1995 中山美穂CM集


中山 美穂
別名義 北山 瑞穂、一咲
生年月日 1970年3月1日
没年月日 2024年12月6日(54歳没)
出身地 日本の旗 東京都小金井市
死没地 日本の旗 東京都渋谷区
国籍 日本の旗 日本
身長 158 cm
血液型 O型
職業 女優、歌手、 アイドル
ジャンル 女優:映画、テレビドラマ、舞台
歌手:アイドル歌謡曲、J-POP
活動期間 1982年 - 1984年:モデル
1985年 - 2024年:女優、歌手、タレント
配偶者 辻仁成(2002年 - 2014年)
著名な家族 中山忍(妹)
事務所 ボックスコーポレーション(1982年 - 1984年)
アイズ/ウェーブ(1984年 - 1985年)
ビッグアップル(1985年 - 2024年) (Wikipediaより)



あちこち「SYOWA」818【雨音はショパンの調べ】小林麻美

2024-12-02 17:56:42 | 日記
【雨音はショパンの調べ】小林麻美


イタリアの男性歌手ガゼボの歌唱による1983年の楽曲「アイ・ライク・ショパン / I Like Chopin」「雨音はショパンの調べ」は日本語カバー曲のタイトル。
小林麻美によるカバーとして1984年4月21日にCBS・ソニーから発売された。

作詞:Gazebo, P. L. Giombini 日本語詞: 松任谷由実
作曲:Gazebo, P. L. Giombini

ばやし あさみ
小林 麻美
本名 田邊 稔子(たなべ としこ)
(旧姓:小林)
生年月日 1953年11月29日
出生地 日本の旗 日本、東京都大田区
出身地 日本の旗 日本、福島県郡山市
職業 モデル・元女優・元歌手
ジャンル テレビドラマ、映画
活動期間 1970年 - 1991年、2016年 -
活動内容 1970年:ライオンのCMに出演しデビュー
1971年:ドラマ『美人はいかが?』で女優デビュー
1972年:「初恋のメロディー」で歌手デビュー
1977年:資生堂を中心にモデルとして活動
1980年:映画『野獣死すべし』
1981年:映画『真夜中の招待状』
1984年:「雨音はショパンの調べ -I Like Chopin-」で歌手としてヒットを放つ (Wikipedia より)