とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

朝の蝶

2024-11-25 16:51:13 | 創作
朝の蝶

瀬本あきら

 年度末に、退職に関する引継ぎ事務が無事済んだ。

 「ここと、ここ。引継ぎ文書に判子をお願いします」

 後任の総務部長に、そう私は促した。新部長は捺印を済ますと、「長い間お疲れさまで

した」と労いの言葉をくれた。随分昔から勤務生活最後の瞬間の厳粛さを思っていたが、

あっけなくその時が過ぎ去った。そうして、文字通りあこがれの無職の生活が始まった。

 退職して一番したいことは、空を飛ぶことであった。いや、飛行機に乗ることである。

そうすれば、どこへでも行かれる。妻と二人で初めての海外旅行にも出かけられる。アメ

リカで仕事をしている娘にも会いに行かれる。その願いを叶えるためには、私の閉所恐怖

症を克服しなければならないという難しい問題が横たわっていた。

とまれ、さしずめ時間を気にせずゆっくり寝たいものだという願いもあった。ところが、

退職してからは、却ってすっきり安眠できない。ほとんど毎朝三時前後に目が覚める。そ

して目覚める直前まで見ていた夢のことを思い出そうとする。大体が過去の失敗や挫折に

関わる悪い夢である。それから、しばらく眠れないので携帯ラジオを点けてイヤホンで聴

く。寝ぼけているので放送の中味は記憶していても断片的である。

 数日前、また目が覚めたのでラジオを聴いていた。通信員か誰かが最近の珍しい出来事

についてレポートしていた。私の頭には「アサギマダラ」という蝶の名前と「渡り」とい

う言葉が断片的に記憶されていた。春は北上し、秋は南下するらしくその渡りのことをレ

ポートしているらしかった。私はぼうっとした意識でその二つの言葉を思い浮かべていた。

蝶が渡りをする、何だか聞いたことがあるな、と思ってイメージを作っていた。すると、

誰の詩だったか忘れたが、「春」という題名の一行詩をふと思い出した。

<てふてふが一匹韃靼(だったん)海峡を渡って行った。>

 「アサギマダラ」と「渡り」の二つの言葉が自然に「春」の詩に繋がったのである。韃

靼海峡というのは確か北海道より北の海峡である。春とはいえ寒々としたとした北の海を

一匹の色鮮やかな蝶が飛んでいる。私は頭の中でその姿を追っていた。

 そしていつのまにか、蝶は私だ、空を飛びたい気持ちが叶えられた、と思っていた。す

ると、私は深い孤独の闇に飲まれていった。私の体は空を飛んでいる。その浮遊感が心地

よかった。そして、何時の間にかまた寝入ってしまった。

 こんな日の朝は決まって頭痛がする。アサギマダラ。渡り。頭を抱えて起き上がると、

舌の上で何度もその言葉を転がしてみた。

 「海か……」

 突然私はそう呟いた。

 久しく行ったことがない。水平線を見ていると、心持ち曲線に見える。そして、丸い天

体である地球を思う。すると、今住んでいるところが世界のすべてではない、という思い

が病のように湧きあがってきて、虚無的な気持ちになる。また、海にいるのは人魚ではな

い、海にいるのは浪ばかり、という誰かの詩を思い出したりする。海の空への限りない呪

いを詠ったものだ。そうかも知れない。海は限りない空に制圧されているのだから。

 海を見ていると、そんなことも実感していたたまれない思いがすることもあるけれど、

その朝は少しばかり違うような気分がした。何か大きなものに動かされているような気が

した。

 海へ行こう。今朝は無性に海が見たくなった。

 自由な時間? 自由な時間が一時に襲い掛かると、何かしなければ、何かをと躍起にな

るのである。自由は明らかに人を強迫する。

 歯磨きをしていると、朝日に輝いている洗面所のガラスに鳥の影が写って消えた。鳥は

海を越えていく。私はすぐさまそう思った。海は春のべた凪だろう。

 身支度を整えていると、妻が訝るように、「どこへ?」と言う。

 「海だ。散歩してくる」と私。

 「散歩と言っても……」

 妻がそういうのももっともである。家から海まで三十キロ以上の道のりである。

 「変な気を起こさないでね。私たちこれからなんだから……」

 「これから?」

 「二人でどこへでも……」

 「そうだ、そうだ。分かっている」

 そう言い残して私は車に乗った。間もなく島根半島突端の日御碕に着いた。駐車場で車

を降りて、海への小道を歩き出してから、出かけるときの妻の言葉を私は反芻した。「変

な気?」。どういう意味だ。海とそれがどんな繋がりを持っているのか。私はただ夕べ見

た夢に出てきた海を確かめたいだけだ。妻は変に気を回す。それも悪い方へ。いや、そう

いう勘ぐりをする性癖は、私の性格が長年かかって作りあげたものかも知れない。私は、

妻と希望や夢などを語ったことがあるのか。勤めているときは妻がいつも私に気を遣って

いた。これからお互い自由に暮らしたい。しかし、私の自由は制限つきの自由だ。二人で

遠くへ出かけることも出来ない。まるで羽根がぼろぼろになった蝶だ。

 そう思っていると、岬の灯台が見えてきた。崖下ではかすかな波音がする。潮の香りが

鼻腔に染み込んできた。遠くでは漁船が沖へ急いでいる。と、不意に白い鳥が岬に続く道

路を横切って松林から海原へ出た。そしてあっという間にどこかへ消えた。朝の海は眩し

いほどに白く輝いていた。

 私は岩場に立った。水平線がぼやけて見える。思った通りのべた凪だった。波がかすか

に白く岸に打ち寄せるのが見えた。海が空を呪う? 私が今見ている海は山陰の海。日本

海。冬は険しい顔つきで岩を噛むが、春の海は穏やかである。その大きな器に私も抱かれ

ているような感じである。

 私は気持ちがうきうきしてきたので、岩鼻に腰掛けて足をぶらぶらさせた。すると、お

いおい、飛び込むのはまだ早い。心の中の誰かがそう囁いた。すると、また頭痛がぶり返

した。私は頭を抱えて崖下を見た。深い渕が物足りなさそうにのたりと広がっていた。足

をぶらぶら。このままずり落ちるかもしれない。自然にそういう感覚が頭をよぎった。足

をぶらぶら。

 すると、崖下から私を呼ぶ声がした。

 「おーい!」

 私は声のする方を目で探した。しかし、人影らしきものは見えなかった。しばらくする

と、今来た道から誰かががこちらに走ってくる。男のようだ。私はその姿を目を凝らして

見つめた。人影がしだいに近づき、座っている私にのしかかるように見えた。日焼けした

顔が引きつっていた。

 「早まるな!」

 私はぎょっとした。そして驚きのあまり、ほんとに落ちそうになった。もしかして、私

は本当に飛び出そうとしていたのかも知れない。そんな突拍子もない感覚にもなった。

 「間に合った!」

 男はぜいぜい言わせながら私を後ろから抱きかかえた。というより、愛撫といった感じ

であった。

 「あんたは、まだ若い。これからだ」と男は背後で言った。

 私は、その男の腕をほどくと、振り返って改めて男を見上げた。七十台前半と思われた。

土地の漁師かもしれないと思った。私は暫く弁解する気力を失っていた。内心のたりと広

がっている渕を飛び越えられると錯覚していたかもしれないからである。海上の浮遊。こ

れは甘美である。しかし、この男は必死に走ってきて、私を抱きかかえてくれた。ありが

たいことだ。

 「そんな風に見えたんだね」

 「当たり前だ!」

 「ぶらぶらさせていただけだよ」

 「ふざけちゃいけないよ!」

 「いやね。頭痛がね」

 「頭痛?」

 「頭痛が悪いんだよ」

 「何を言いたいのだ!」

 「いやね、気持ちが和らぐと思ってね。それで、ぶらぶらして……」

 「ばかばかしい!」

 漁師は怒りながら私を小道まで引っ張っていった。そして、何も言わずに帰っていった。

残された私は海を見つめて、また岩鼻に戻り、足をぶらぶらさせてみた。今の私はこうす

るしかない。誰にも理解されなくても。私はそう思って深い渕を見下ろした。しかし、ほ

んとに飛んだりしたらどうなるのか。私は次第に正気を取り戻しつつあった。漁師の言葉

通り、私はまだ若いはずだ。これからだ。私は抱きかかえられた時の漁師の体温を改めて

感じた。海を見たいという衝動は、気持ちの底の浮遊感に起因していたかもしれない。

それから土産物品店を歩き回った。どの店も閑散としていた。裏通りに出て、民家の間か

ら見え隠れする青い海を見ていた。子どもたちが不思議そうに私を振り返って見た。私は

何しにここへ来たのか?しきりに反問した。

 「おーい!」

 すると、また私を呼ぶ声がした。さっきの漁師だった。右手に大きな魚をぶらさげてい

る。

 左手に竹篭を持っていた。ゆったりとした足取りで私に近づくと、笑顔で言った。

 「元気出しなよ」

 「ありがとう」

 漁師は籠に魚を入れると、ソレッと言って私に手渡した。私は思わぬ戴きものをしたの

でとまどっていた。ずしりと重かった。中を覗いてみると、イシダイのようだった。

 「俺について来てくれないか?」と漁師は少し声を低くして言った。先ほどの笑顔は消

えている。

 「見てもらいたいものがある」

 「えっ、何ですか?」

 「いや、黙ってついて来てくれ」

 そう言って、岬の丘の上に向かって登り始めた。私は言われるがまま籠をぶらさげて、

熊笹の路を後からついて登った。

 数百メートル行くと、見晴らしのよい所へ出てきた。白い灯台が真下にあり、その遠く

に朝の海が広がっている。漁船の小さい影があちこちに見える。

 漁師は、その広場の隅の少し窪んだところへまた降りていく。私は何かがまた起こるの

ではと思いながらやはりついていった。すると二人は墓地に出た。そこには都合五十くら

いの墓石が立っている。漁師はその中の一つの前にしゃがんで、墓石を見つめたまま言っ

た。

 「俺の家内と息子の墓だ」

 「えっ」

 「家内も息子もこの日本海で死んだ」

 私は、漁師の尋常ではない話し振りのために、言葉が出なくなっていた。

 「五年前だ。この沖合いで、家内と息子と三人で漁をやってたとき、隣の爺さんの船が

横波を食らって沈みかけていた。爺さんを助けようと、息子が先ず飛び込んだ。とっさの

ことだったので、俺は止めることも出来なかった。で……、二人とも浮き上がって来なか

った。」

 私はいよいよ黙してしまった。

 「それからといもの、家内は私を責め、自分も責めていた。狂ったようになって、あの

とき止めなかったことを悔やんでいた。そういう毎日が続いたので、私も家内も疲れ果て

てしまった」

 「……」

 「それから、二人で漁に出る度に、花束を投げてやった。許してくれ。そう祈っても、

どうにもならないことだが。それから、半年後、……家内は崖から身を投げて死んだ。今、

あんたが腰掛けていたあの崖から……。私も何度かあの崖に立って後を追おうと思ったが、

誰かが、止めろ!と言って止めるんだよ。だから、こうして生き延びている……」

 「えっ」

 私は体が硬直した。

 「線香も花も何も持ってきてないが、おまえさん、これも何かの縁だ、どうか墓を拝ん

でやってくれ。お願いだ」

 私は籠を傍に置いて、言われるがままひざまずいて墓石に向かった。二本の塔婆に戒名

が記してあった。私は般若心経を唱え、その戒名を読み上げながら供養を終えた。供養を

済ますと、早くして亡くなった両親や弟のことが思い出され、漁師が何だか他人でないよ

うな心地になってきた。

 「ありがとう。すまないね。そんなことまでして貰って」

 漁師は頭を下げた。

 「いや、これもご縁です。私こそ感謝しています」

 二人は並んで沖の白い海を眺めた。そして、私は再び籠を持った。ずしりと重く感じら

れた。



 家に着いたときは、昼時だった。

 「今までなにしてたの?」

 玄関で出迎えた妻が尋ねた。

 「ぶらぶらをやってきた」

 「ぶらぶらって?」

 「足をぶらぶらさせてた」

 「どこで?」

 「岩鼻に腰掛けて」

 「ええっ!」

 そう言うと、妻の顔が見る見る青ざめた。

 「蝶だよ。アサギマダラ」

 「何、それ?」

 「分からないならしかたがない」

 「で、この魚は?」と妻は竹篭を手に取って言った。

 「漁師に貰った」

 「どうして?」

 私は答えに窮した。いくら詳しく説明しても分かって貰えないことだと思ったからであ

る。私は妻にとっても、私にとっても、良いことをしたのではなかったかもしれないとも

思った。私は、改めて籠の中のイシダイを確かめた。いい色をしていた。私は、妻の手か

ら竹篭を取って、魚を数回持ち上げてみた。この重さ。漁師の笑顔。私は生きている。

 部屋に入ると、すぐさまアサギマダラの姿を見たいと思った。百科事典で調べると、ア

ゲハチョウによく似た模様がある美しい蝶だった。模様の部分はほとんどが水色で、下の

部分が鮮やかな紅色だった。私は死んで生まれ変わってもこんな素晴らしい蝶にはとても

なれないと思った。

 私はそういうことがあってから、ぶらぶらだけはもう決してすまいと思ったのである。

                                     (了)

同人誌「座礁」より転載 http://www.zasyo.jp/




残り火

2024-08-04 01:38:30 | 創作
残り火
                                 瀬本あきら



 台風一過。十月初旬。秋の宍道湖の澄みきった夕日の光が湖面をオレンジ色に濡らして

いた。私と高根佳代は「鴎」という喫茶店で長い時間向き合って話をしていた。ただ話と

いっても途切れがちで、顔をときどき向け合いながら次の言葉を探しあぐねていたのであ

る。しかし、その時間がとても私には心地よいものとして胸の奥底まで染み透ってきた。

言葉に詰まると、私は腕時計を覗いて時刻を確かめるような素振りをした。何度もそうし

ていたので午後四時からおよそ一時間半そこにいることを自然に理解していた。

 高根佳代は私と高校二、三年生のときの同級生で、大学卒業後は同じ県内とは言え、私

は斐川町、彼女は松江市に住んでいたし、勤務地もそれぞれがあちこちと移り変わってい

たので三十年以上もお互いの消息を確かめ合っていなかった。ときどき盗み見するように

顔を見ながら、私はその年月を越える何かが今の二人にあったのだろうかと思った。そう

考えながら、いや、現にこうして会っているのだから心を繋いでいた何かがあるのに違い

ないと自分に言い聞かせていた。

 彼女は高校時代はすべての男子の憧れの的であり、女子の羨望と嫉妬の対象であった。

というのは出雲地方では稀に見る美人であったからである。ふくよかな顔立ちで背が高か

った。いわゆるなで肩のなよなよとした体型ではなく、肩幅があり全体にがっしりとして

いた。私たちの若い頃は、ふっくらした顔立ちや体型に男子は憧れていた。男子が数人集

まるといつも彼女の噂話が始まった。当時は成瀬佳代と言った。

「おい、彼女今朝遅刻してきたけど、山ちゃん何も注意しなかったな。ぼうっとして座る

のを見てただけだった」

山ちゃんとは担任の山際聡教諭のことを指していた。

すると、他の者が待ってましたとばかりに言い出した。

「昨日の代数の時間に、均ちゃんがぐるりと教室を見回す格好をして、このクラスには美

人が多いね、男子諸君は楽しいだろう、なんて言ってさ。成瀬の他には美人なんていない

から、あいつのことを言いたかったんだ。あいつもきっと好きだぜ。」

 均ちゃんとは、池澤均助教諭のことである。

 続けて、その話に加わったある男子が最新情報を披露した。

 「聞け聞け! あっと驚くビッグニュースだ。我がクラスから大女優が誕生するかもし

れんぞ。じゃじゃじゃじゃん! 東映だよ、東映から引っ張られているそうだぜ」

 この話には教室にいた男子も女子も本当に驚いた様子でだれもが耳を傾けている様子だ

った。別のだれかが「おい、時代劇かよ? それとも現代劇かよ?」と聞き正した。

 「もちろん時代劇だよ」。その男子が答えると、へえーと言う溜息混じりの声が教室中

に響きわたった。

 私は授業開始の時刻を気にしながら、「女優」という言葉を聞いて体が痺れるほど不思

議な快感を感じた。そして、当時活躍していた私が好きなある時代劇の女優によく似てい

たので、こりゃ打ってつけだと思った。事実、日本髪の鬘が似合いそうな顔立ちだった。

 当時、彼女は実家の出雲市に住んでいて自宅から徒歩で通っていた。私はすし詰めの汽

車に揺られて通学していた。私はその話を聞いてから一層成瀬佳代に興味を持つようにな

った。教室で彼女の姿を見つけると、うっとりとしてじっと見つめていた。

 夏休みに学級キャンプをしようと話がまとまり、私はうきうきしてその日を待っていた。

ところが、当日の朝彼女は迎えのバスに乗らずにクラスのみんなに手を振って見送ってい

る。私はがっくりして、キャンプをしていても何も面白くなかった。その後も何とかして

声をかけようと努力したが、あまりにも美しすぎて近寄りがたかった。ただ、一度だけ、

「瀬本さん、いい人ね」と言われたことがあった。その日は体育の時間があり、生憎風邪

を引いていて見学をしていた。だから、終わっても着替えをする必要がないので、男子の

誰よりも早く教室に向かっていた。昇降口に差し掛かると、自分のクラスの下足箱の下に

女物のズックの下履きが片方落ちていた。誰だろうと思いながら拾い上げようとすると、

墨で「成瀬」と書いてあった。どきっとして私は拾い、悪いことでもしたように慌てて戻

した。そこへ彼女が現われた。私は硬直して彼女の顔を見つめた。

 「見てたわ。……ありがとう。悪戯されて困ってるの。でも、瀬本さんはいい人ね」

 このときが話すきっかけを作るいい機会だったが、「いい人」と言われて、もう何も言

えなくなっていた。

 ――実行に移すしかない。

 私は、決心した。

 明くる日、私は手紙を書いて内ポケットに忍ばせた。放課後、彼女の家まで行き、家の

ポストに手紙を入れておこうと計画した。その日は放課後が来るのが非常に遅く感じられ

た。やっと放課となると、彼女が帰ったことを確かめて出雲市の彼女の家に向かった。直

接渡したい気持ちが十分にあったが、家を確かめることも兼ねて歩いて出かけることにし

た。歩きながら私は恍惚としてきた。例えポストに入れることができなくても、家を見る

ことで十分目的は達成されると考えた。

 しかし計画に反して、手紙は持ち帰ることになった。

 卒業後は、二人はいよいよ遠く離れてしまった。彼女は東京の大学。私は福岡市の大学。

地理的な条件からして、私が島流しに遭ったような感じだった。大学の学部はあの噂にな

った女優関係の道とは縁がないようだった。

 そこで、手紙の遣り取りなら出来ないことはない、そう考え直した私は、先ず夏休みを

見計らって彼女に手紙を出した。内容は要するに交際して欲しい、ということであったと

思う。念のために返信用の封筒も準備して送った。ところが、届いた返事の差出人を見て

驚いた。素晴らしく達筆な字で父親らしい名前が書いてあったのである。表書きの宛名の

脇付けに「御直披」とあった。初めて目にする言葉だった。恐る恐る開封して読んだ。要

約すると、貴方の人柄は娘から聞いていてよく存じています、交際をということですが、

年頃の若者が二人で交流するとお互い不都合なことが起こりがちです、私も随分躊躇しま

したが、「手紙」だけなら本人もいいと言っていますので、しばらくの間付き合ってやっ

てください。と、そんな内容だった。

 ――やった!

 私は小躍りして喜んだ。高校一の美人と文通できる。そう思った。最初の返事に写真を

送ってくれ、と書いたら女友達と二人で写したものが送られてきた。私は少し不満だった

が、大事に額に入れて机上に飾った。ノースリーブのワンピース姿だった。高校時代とは

また違った美しさを発見し、有頂天になっていた。しかし、父親の言葉通り文通以上の事

態まで進展しなかった。彼女の手紙の文面から心の裏側が透けて見えていた。これ以上進

んではいけない、といつも歯止めをかけている様子だった。時々電話でも消息を確かめる

こともあった。そして、どちらからともなく手紙の遣り取りは途絶えた。

 「あの写真、まだ大事に持っているよ」

 私は薄明かりが照り返す湖面を見つめている彼女に突然そう言った。

 「ええ! まだ持っていらっしゃったの?」

 彼女は顔を赤くしてそう言った。しかし、それきりで続く言葉はなかった。私はあの若

い頃の姿を目の前の高根佳代にダブらせて見つめていたが、年齢からくる衰えをあまり感

じさせないほど艶やかな顔立ちだった。茶系のスーツを着て、首には薄い紫のスカーフを

していた。装飾品は何も着けていない。ただ、手首からのぞいている腕時計は形が派手過

ぎないセンスのいい品物だった。しかし、よく見ると何か思い詰めたものが漂っているよ

うな気がした。

 私は次の言葉を探してまた暫く黙って同じように湖の対岸の灯かりを眺めるともなく見

ていた。すると、硝子に映った彼女の視線が不意にこちらに向けられた。私は途端に四十

二歳のときの同窓会を思い出した。出雲市の体育館を貸しきって行われたその会は、私た

ちの期別同窓会が主たる担当者だった。だから、地元に残っているものは準備に苦労した。

何度も準備会をして、本番にはゆっくり酒を飲んでいる暇がないほどに忙しかった。

会が引けて誰もが退場するときも後片付けをしていた。すると、数メートル前を友達と連

れ立って帰ろうとしている高根佳代がいた。ああっと思っていると、ふと彼女が横を向い

て私を見、何か話したそうな顔をした。そして、また前を向き、何事もなかったように通

り過ぎて行った。私はそのときの一瞬の視線が心に焼き付き、ときどきその場面を思い出

して胸を熱くしていた。

 「ああ、思い出した。あの同窓会のとき、何か僕に話したかったのでは……?」

 彼女はやや動揺した素振りを見せた。それは何かを隠しているかのようだった。

 「いや、懐かしかったので、声を掛けたかったんですが、友達がいて……。失礼しまし

た」とは言ったもののまだ言い足りない感じだった。

 「あの頃貴方個人のことで何かあったんですか?」と私はすかさず尋ねた。すると彼女

は急に俯いた。

 「実は、主人を亡くしまして……。放送局のディレクターをしてたんですが……」

 「ええっ! それはお気の毒でした。それで、再婚はなさらなかったのですか?……い

や、大変立ち入ったことまで尋ねてしまって……」

 「いいえ、構いませんよ。……再婚ですか?……してません」

 彼女は過去を断ち切るようにきっぱりとそう言った。

 「じゃ、あのー……。申し訳ない。身上調査になってしまって。あのー、それで子ども

さんは居られるんですか」

 「はい、娘が二人居ましたが、二人とも嫁に出しました」

 「じゃ、あのー……、今は一人で住んでいらっしゃる……」

 私は自分でもおかしくなるほど気持ちが高ぶっていた。

 「ええ、一人住まいは気楽でいいですよ。寂しければ、娘と孫を呼べばすぐ賑やかにな

ります」

 「だから、私が手紙に書いた通りにこうして出かけて来れたんですね?」

 そう言うと、彼女は笑い出した。

 「そんなに簡単に女がのこのこと出かけませんよ」

 「いや、ご免なさい。私の言い方が悪かった」

 彼女はまた薄暗い湖の方をちらと見て、それから私の眼をじっと見つめた。私はどぎま

ぎしてしまって、見つめ返すことができなかった。

 「最後にし残したことがあると思ったからです」

 私の瞳の奥を見透かすような視線を向けながらそう彼女は答えた。

 「し残したこと……?」

 「ええ」

 「と言うと……?」

 「こうしてお会いしてお話しすることです」

 私はそう聞いてほっとした。次第に肩の力が抜けていく感じがした。

 「それから、最後、と言うと……?」

 そこまで問い詰めると、急に彼女は押し黙ってしまった。そして、きつい視線が急に緩

んで瞳に涙が滲んでいた。

 「何かあったんですか? よろしかったら誰にも話しませんので聞かせてください」

 暫くの間また沈黙が続いた。数分の間が長い時間に感じられた。そして、ハンカチを取

り出して瞼に当てながら答えた。

 「もう誰にも会えないと思ったからです」

 「もっと分かりやすく言ってください。お願いです」

 「……死ぬかも分からないからです」

 意外な言葉を突然聞いたので、私は顔が青ざめていくのが分かるほどの衝撃を受けた。

 「病気ですか?」

 「ええ、まあ、そんなとこです」

 「医者はどう言っているんですか?」

 「もう一年か一年半だと言ってます」

 「じゃ、癌ですか?」

 「いや、違います」

 「じゃ、何ですか?」

 「貴方には言わないほうがいいでしょう。ただこうして貴方に会ってお話しできればそ

れでいいんですから」

 彼女はハンカチをバッグの中にしまうと、またもとの表情に返っていた。

 「ところで、貴方の方はいかがですか?」

 「いや、歳相応の病は持っています。でも、すぐに命に関わることはないようです」

 「それは何よりです。で、ご家族は?」

 「祖母と両親が死んでしまいましたので、妻と息子、それに祖父です。娘は最近県外に

嫁ぎました」

 「息子さんは独身ですか?」

 「ええ、遅い子どもでして、まだ大学生です」

 すると初めて笑顔が出てきたので、私は安心した。

 「それでは、これからがお楽しみですね」

 私は時計をまた見た。六時半を少し回っていた。コーヒーと一緒に頼んだ食べかけのサ

ンドイッチが干からびたようになっていた。店のウエイターがじっとこちらを見ていた。

 「奥の座敷で食事しませんか。もうこんな時間になってしまって」

 すると、意地悪そうな笑顔が彼女の顔に湧きあがってきた。

 「奥さんに叱られますよ。平日に夕食食べたりして遅く帰ったりすると」

 「いや、今日は遅くなるから夕食はいらないと言って出てますから」

 「ほんとは、怖いんでしょ?」

 「いや、それほどでもないですよ」

 「もし、私が今夜引き止めたら貴方どうします?」

 唐突にそう言われて、私は咄嗟にいろいろな妄想が頭を駆け巡った。

 「冗談でしょう。おどかさないでください。心臓によくない」

 「いいえ、本気ですよ」

 さっきの意地悪そうな笑みは消えていた。

 私は答えをはぐらかすように彼女を奥の座敷に誘った。座卓の上には和食と洋食のメニ

ューが置いてあった。壁にモネの「日傘の女」の絵が飾ってあった。この部屋の雰囲気に

は不似合いだった。ウエイトレスが注文を取りにきた。二人とも和定食を注文した。手拭

を使いながら私はそれとなく全く違うことを聞いてみた。

 「モネの絵好きですか?」

 「ええ、大好きです。県立美術館でも見ましたし、東京でも何回も見ました」

 「この壁の絵ですが、もう二枚よく似たものがありますね」

 「ええ、顔が描いてないのと右向きのでしょう?」

 「どれがすきですか?」

 「やっぱりこれかしら」

 ここで話題を戻せば私は窮地に追い込まれることになる。そう考えて、彼女の立場を顧

みることなく続けて尋ねた。

 「どうしてですか?」

 一瞬彼女の顔がまた翳ってきた。

 「どうしても貴方は答えさせたいのですね」

 しまった、と思ったがもう遅かった。

 「この奥さん何て言ったかしら……、この後死ぬんですね、二人の子どもを残して。そ

の予感が表情に表われている……」

 「ごめんなさい。悪気はありません。」

 間もなく注文した定食が運ばれてきた。どうぞ、と勧めると遠慮がちに彼女は食べ始め

た。目の前で家族以外の女性が食事をする様子を見ていると、可愛らしいと言っていいか、

哀しいと言っていいか分からない混乱した気持ちが襲ってきた。傍に寄って抱きしめたい。

そんなことも考えさせた。彼女は箸を休めると、独り言のように言った。

 「手紙、そう、手紙をこんな時期になって私に出そうと思ったのはどうしてですか?」

 さっきの話題から逸れているので私はほっとした。

 「貴方と同じですよ。し残したことです。いや、そんな言葉で表現できないような一種

の寂しさからです」

 「貴方の場合、これからじゃないですか。みんなに頼りにされている。これは大変なこ

とで、これこそ生きてるっていう実感ですよ。私の場合とは違う」

 「……いや、同じですよ」

 「どうしてですか?」

 「私は長いトンネルの中に居るんです。しかも、機械になって走っている」

 「というと……?」

 「私は閉塞した場所が苦手なんです、電車みたいなところが。だから、遠くへ出かけな

いことにしています。出かけたことがありますが、乗り物の中はもう地獄です。仕事は営

業ですから、ハンディーが大きい。もうがむしゃらにやってるけれど、この不景気ですか

ら何時首になるか分からないんです」

 私は必死になって説明しようとしたが、言葉が旨く出て来なかった。私はまだ地獄のよ

うな状況から完全に抜け出ていなかった。しかし、そのことを伝えようとする努力は彼女

にとって意味があるのかとも思った。ただ、し残したことについてもっと説明する義務は

あった。

 「そうだったんですか。何にも苦労がないように見えましたけど……」

 「何度も止めようと思いました。二十年近くもそういう状況でしたから、人との距離が

広がってゆくだけで……」

 「分かる、分かる」

 私はこの言葉をじっと待ち望んでいた。だから、そう言われて初めて心をすべて開くこ

とができると思った。

 「自分は何をして来たか、誰と歩いてきたか、と思って周りを振り返って見たとき、ぞ

っとするときがある。誰もいないような気がして……」

 私は高根佳代に出した手紙の内容を思い出していた。すると、我ながら惨めな思いがし

た。私個人の現実とは何の繋がりもない一人の女性に突然会いたいと言って泣き付いたの

だから、完全な人生の敗北者である。

 彼女はまた一箸つまんで食べると、ハンカチを口に当てた。

 「貴方にもう一つ言い残したいことがあります」

 「えっ、何ですか?」

 「父のことです」

 「お父さんが……」

 「ええ、ずっと死ぬまで私を拘束してきました。貴方から届いた手紙だって先に見てた

んですから」

 「ああ、分かりました。それでお父さんが返事を書かれたんですね?」

 「ええ、そうです。東京の大学に決めたのもいろいろな友達から遠ざけるためでした」

 次は何が出てくるか、という不安が頭をもたげた。しかし、予想外の言葉が飛び出して

きた。

 「本当は女優になりたかったんです」

では、あの噂は本当だったのだと私は思い、今度は身を乗り出すような感じになった。

 「親戚に東映のある監督さんと懇意にしている方がいて、その方が推薦してくださいま

した。一度監督さんにお会いしたところ、非常に気に入っていただきました。大川恵子に

匹敵する素質があるとまで言われて、大学時代に端役で出演したこともあります。大川橋

蔵さんの時代劇でした」

 「それで……?」

 「その親戚の方が父を説得しようとしました。ところが、頑として受け付けなかったの

です」

 「大川橋蔵の映画に出た……」

 「ええ、台詞なしの端役ですから大川橋蔵さんとお話をする機会はなかったんですが、

近くで演技を見て勉強していました。大川恵子さんの気品のある演技には引き付けられま

した。私は到底あんな俳優さんにはなれないと思いながら、それでも密かにライバル意識

を感じていました」

 私は憧れていたスターの名前が出てきたので夢見ごこちになっていた。

 「ええ。それから結婚だって、一方的な押し付けでした。その映画に関係のあるスタッ

フが父のお気に入りでした」

 「それが、亡くなった貴方のご主人?」

 「そうです。でも仕事が仕事ですから、過労で早死にしました。もともと性に合わない

仕事を背伸びしていたんですね。それから間もなく父が死にました」

 私は同窓会のときの彼女の視線をまたここでも感じた。父の束縛そして死、夫の死。苦

渋に満ちた生活の始まりである。私の父は早死にしていたが、彼女の父のような束縛はし

なかった。

 「父は六十歳半ばで死にました。夫は四十歳半ばです。私が四十二の厄歳の頃です。私

の本当の人生はそこから始まったと思っています。子どもを女手ひとつで育てながらの生

活は苦しかったですが、本当に生きているという実感がありました。保険の勧誘もしまし

た。夫の親友の紹介で放送局の臨時職員もしました。でも、その頃には今度は私が病気に

なっていました。やっと解放されたと思った矢先でした。人生は先が読めないですね。そ

れでも娘を嫁がせてほっとしていました。今度は自分の始末をするだけだ、と思っていま

した。もちろん寂しい気持ちもありました。でも、一人で居ると、すべて成し遂げたとい

う充実感が支えになりました。ところへ、貴方から手紙が来たのです。ああ、大変なこと

をし残していた、と思いました」

 「そこまで思っていただいて、感謝しています」

 私はまた時計を覗いてみた。八時を少し過ぎていた。残りの料理を急いで食べ始めると、

彼女は、じっと私の箸先を見つめていた。食べないんですか、というと、もうお腹がいっ

ぱいです、と言って箸を付けようとしなかった。

 食事が終わると、アフターコーヒーが出てきた。マグカップのような大ぶりの器だった。

彼女はコーヒーは美味しそうに飲んだ。私もコーヒーは中毒気味なので一気に飲み干した。

そして彼女が飲み終わるのを待っていた。ほんとにお腹がいっぱいなんですか、もう少し

残りを食べて帰りませんか、というと飲みながら首を横に振った。そのとき唇を突き出し

て一瞬目を閉じた。その仕草がとても艶っぽかった。飲み終えると、その口許から溜息を

漏らし、ああ、美味しかった、ご馳走様でした、と言ってにこっと微笑んだ。

 「ここまで電車で来られたでしょう?」

 「ええ」

 「じゃ、私が車でお宅まで送ります」

 そう言うと、彼女は突然声を立てて笑い始めた。

 「誘惑しようと思ったのに」

 「ああ、そうでしたね。今夜はそのお気持ちはお預けです」

 「もう会えないかもしれませんよ」

 彼女はハンドバックから鏡を取り出すと、口紅を使った。その姿を私は目に焼き付ける

ようにじっと見つめていた。

 「……いや、きっとまた会えます。それを祈っています」

 外に出ると、「喫茶店鴎」と書いた看板が照明で明るく浮き出ていた。建物は和風の作

りなので、その輪郭は暗くなった宍道湖の背景と程よく溶け合っていた。私が先に乗りエ

ンジンを掛けヘッドライトを点けた。すると、彼女は助手席にするりと入って座った。

松江市に向かって走りながら、両サイドにときどき浮き出てくるコスモスの花をわたしは

見つめていた。私のし残したこと。私は何度となくその言葉を反芻していた。さっきその

言葉をきちんと説明しようとして、とうとう曖昧なままにしてしまった。家族が身近に居

るかぎり際限なくその中身が出てくる。ただ、高根佳代に対してし残したことというと何

だろうか。今日会って自分の苦悩の一部は話すことができた。当初考えていたことのほと

んどは成し遂げることが出来た。しかし、彼女につられて不意に口にした「し残したこと」

とは何か。お前は自分の人生を自ら限りあるものにして、この女性に命を捧げようとして

いるのか。私は走り去る民家の明かりを過去の夥しい禍根と罪障のように思いながら見送

っていた。車は松江市の市街地に入っていった。

 「どこの町ですか?」

 「法吉町です」

 「分かりました。近づいたら通りを教えてください」

 指示通り進めてゆくと何度も通ったことのある道に出てきた。県営住宅が見えてきた。

そして、私の妹が嫁いでいる家の前を通りかかった。

 「せっかくの機会ですから、是非私の家に上がってください。取り散らかしていますが

……。ああ、映画に出たときの写真をお見せしますよ」と彼女は焦ったように私を誘った。

 私は即座にいい返事をしたかったが、さっきの誘惑という言葉がまた心に絡み付いてき

たので話を逸らした。

 「体、大事にしてください。まだまだ長生きできますよ」

 「ええ、ありがとう。でもね、今度再入院することになったらもうお仕舞いです。今こ

うしていられることが不思議です。今のところ通院だけですから」

 「これから私が貴方を支えますから」

 自分でも驚くような言葉が自然に出てきたことに私は慌ててしまった。そして突然「し

残したこと」の内容をしっかり掴んだような気持ちになった。

 「ずっと、ずっと死ぬまで支えてください」

 「ええ、約束します。だから、今夜だけは失礼します」

 すると彼女は右手を伸ばして私の左ひざに置いた。温かい体温が伝わってきた。

 「瀬本さん、実はね、私車持ってるのよ。今日は家に置いてきた」

 「ああ、そうでしたか」

 「貴方を誘惑したかったの」

 「作戦不成功ですね」と言って微笑んでちらと彼女の顔を見た。視線を逸らすように彼

女は外の景色を眺めるような素振りをした。

 「ずっと、ずっと……ね」

 「ええもちろんです」

 道が急に狭くなり、車庫が見えてきた。

 「ああ、ここです。ありがとうございました」

 「じゃ、私はこれで……」というと、彼女の右手が今度は私の左手を握り締めた。

 「お願いですから、せめて玄関まで入ってください」

 「はい、分かりました」

 私は素直に従うことにした。玄関の鍵を開けると、彼女は電灯を点けた。私は急に開か

れた秘密の世界に入り込んだような気持ちになった。あまり広くはないが、綺麗に掃除が

してあって、灯かりに玄関ホールの床が輝いていた。私はあっと驚いた。さっき喫茶店で

見たのと同じ「日傘の女」の絵が正面の壁に掛けてあったからである。

 「モネですね」

 「ああ、この絵ですか。思い出しました。モネの妻のカミ―ユですね。さっき私も驚き

ました」

 「何か思い出があるんですか?」

 「ええ、死んだ主人が大事にしていたものです。複製でもなかなかいい出来のものです」

 「ご主人がですか?」

 そう言いなから私は深い罪意識を感じた。彼女は夫のことをいまだに強く愛しているの

ではないのか。そこへ私がずかずかと入っていくことは出来ない。そう思った。

 「今日はこれでお別れですね。きっとまた来てください。……私が生き続けていたら」

 「そんな言い方はしないでください」

 「じゃ、今日の最後のお願いを聞いてください」

 そう言いながら、彼女は私に寄りかかってきた。

 「この日を待っていました……」

 私は初めて高根佳代の体を立ったまま抱きしめた。それをモネの絵が見下ろしていた。

カミ―ユ。カミーユ。私は彼女の髪の匂いを嗅ぎながら幾度となく呟いていた。

 もしも。もしも・・・・・・。限りなくもしもという言葉を使うことが許されたら、私は別の

大きな世界が現出すると考えた。帰りの車の中での想念である。

 もしも、彼女が病気でなかったら。もしも、女優になることが許されていたら。もしも、

私が手紙を出さなかったら。もしも、今日泊まっていたら。もしも、彼女が別の男と結婚

していたら。もしも、私が病気でなかったら。もしも、……。

 湖面の月明かりがほの白く見え隠れしていた。私は心の火を温めながら車を西へと走ら

せた。                                   (了)                               





雪の日

2024-07-24 01:31:29 | 創作
雪 の 日

                       瀬本あきら
________________________________________

 ある土曜日の朝、姉の徳子からメールが届いた。章一が開いて見た。

 連日の寒さで、城田湖が全部凍ってしまいました。湖が凍るのは、二十年ぶりというこ

とで、こんな山地でも観光客が絶えません。みなさんお揃いでおいでください。湖の上を

歩きましょう。

 そういう内容であった。

 姉のところまでは、同じ県内とは言え、雪道のこと、ほとんど一日がかりの難儀な行程

であった。

 山陰本線から支線に乗り換えて、章一は中国山脈の高地の沢田町に向かった。

 移りゆく雪景色を眺めながら、姉の若いころの出来事を思い出していた。

 姉とは言っても一回りも違ったので、早死にした母の姿を思い重ねていた。姉は姉で母

親として章一に接しているようであった。父は、四十九日が済んだら、さっさと再婚して

しまった。義母は、章一に対しては、殊更冷たく当たったわけではないが、産まれた子ど

もにこころの大部分を奪われていた。父は、母親の違う三人の子どもの中で、どう振舞っ

てよいか、いつも迷っていた。その挙動が姉のこころに棘をさした。だから、父の反対を

押し切って、半ば駆け落ちでもするように中国山地のある農家の長男と一緒になった。

 いきさつからして、徳子からの便りは、すべて章一が読むことを意識した内容になって

いた。「みなさんお揃いで」と記してあるが、実質は、章一ひとりを指していた。



 馥郁と匂いなき香り氷湖の芯   麦城



 母方の従兄が詠んだ句を、章一は突然思い出した。城田湖は、出雲地方で言う「堤(つ

つみ)」の少し大きいくらいのもので、そこから流れ出る水は、巨大な滝となって尾瀬川

の源流となっていた。しかし、凍結したため、滝の水は涸れていた。かわりに氷湖が忽然

と姿を現したのである。「匂いなき香り・・・・・・」。章一は、氷湖を前にしてその言葉をか

み締めていた。

 凍結した水面の対岸には、人影がたくさん動いていた。もう、夕方であるのに、一向に

その数が減らない。

 スケートをしているもの、氷に穴を開けて釣りをしているものなどと思い思いの姿で湖

面と戯れていた。

 章一は、ケイタイを取り出し、姉にメールを送った。

 「城田湖に着きました。章一」

 そう書いて送った。

 すると、姉から「待ってたわ。すぐそちらに行くからね」という返事のメールが届いた。

 やがて、雪原の彼方から人影が近づいてきた。確かに姉であった。人影が大きくなると、

手を振りながら駆けてくる。

 目の前に、コートを雪塗れにした姉が姿を現した。

 去年産まれた子どもの姿が見えないのを章一は気遣った。

 「里ちゃんは」

 「里子は、うちの人と遊んでるわ」

 徳子はそう答えた。

 「久しぶりね。みんな元気」

 「なんとかね」

 「お父さん、何か出るとき言ってなかった」

 「いや、何も・・・・・・ああ、そうだった」

 と章一は言いながら、コートのファスナーを開け、内ポケットから一枚の写真を取り出

した。徳子の七五三の祝いのときの写真だった。

 「これ、黙って出してくれたんだ」

 「どういうこと、急に・・・・・・」

 徳子は、父親の意図を計りかねるように、眉根を寄せた。

 「俺もどういうことだか分からない」

 「でもね、この写真、家を出るとき持って来たかったの。写真らしいものってこのくら

いだからね」

 徳子は、懐かしそうに写真を見つめていた。

 「お父さんは、もう許そうって思っているかもしれないよ。姉さんのこと」

 「・・・・・・」

 「何しろ包丁をお父さんに突きつけたんだから」

 「もう、その話は止めて」徳子は、章一の口を手袋の手で塞いだ。



 冬の一日は短い。徳子夫婦が住んでいる離れの座敷に通されると、四囲はすっかり暮れ

ていた。夫の雅男は、章一に挨拶すると同席を遠慮するように里子を負ぶって奥の部屋に

入っていった。炬燵を挟んで姉弟は、久しぶりにお互いの顔を改めてみつめた。エヤコン

の音が沈黙する二人の間の空間を埋めていた。

 徳子は、写真を取り出すと、じっと見つめていた。そして、決断したように大きく息を

吸い込んでいった。

 「もう、章ちゃんは子どもじゃないんだから、言ってもいいかなって思う」

 「何のこと」と章一。

 「いやね。いままでこのときをじっと待ってたの」

 「・・・・・・」

 「さっき、うちの人が気を利かして出てったのも、気配を感じてたからだと思うわ」

 「気をもませないでよ。はっきり言ってよ」

 章一は、じれったくなっていた。

 「いやね、もったいぶるわけじゃないけど、ほんとに、このときを待ってたの」

 「だからさぁ、どんなこと。きっぱり言ってよ」

 「・・・・・・写真のことよ」

 「写真がどうしたの」

 「私の子どものころの写真帳、と言っても、ほんの数ページのものなんだけど、その中

の七五三の記念写真が、突然抜き取られたの。・・・・・・そうね、私が二、三年生のころかな。

咄嗟にお父さんに違いないって思ったわ。そのころ、お母さんとの仲はあまりよくなかっ

たの。」

 「そのことと写真とどんな関係があるの」

 徳子は、また息を吸い込んだ。

 「初めて言うけどね、私、夜二人でひそひそ話しているのを隣の部屋で聞いてたの。内

容はよく分からなかったけど、お父さんがお母さんをひどく責めていることだけはよく分

かったわ。疑っているようだったわ。確か浮気とかなんとか言ってたわ」

 「それで・・・・・・」章一は身を乗り出した。

 「離婚した昔の亭主と逢ってるんじゃないかって・・・・・・、たしか、そんなことも話して

たみたいだったの」

 「そのことと写真のことは、どうつながるの」

 「お父さんは、私を実の子どもとして認めたくなかったみたい」

 「・・・・・・」

 「だから、写真を抜き取ったんだわ」

 「ほんと」

 「そう言われると自信ないけど、お母さんがあくる日から元気を無くしてたから、相当

なショックだったみたい」

 「・・・・・・」

 「お父さんは、そうして疑ってばかりいたから、お母さんの命を縮めることになったん

だわ。許せないわ」

 「・・・・・・」

 「そして、死んだら待ってましたとばかり再婚したんだから」

 章一は、ふと、徳子が持っている写真の角が擦り切れているのに気が付いた。長い間、

父は身に付けて離さなかったのではないのか、と思った。これは、どうしてだ。憎い娘で

あれば千切って捨ててもいいではないか。そういう思いが込み上げてきた。

 「そりゃ、みんな誤解だよ。姉さん考えすぎだよ」

 徳子は、睨み付けながら言った。

 「私の勘に狂いはないわ。そうでなければ、どうして実の父親に刃物を突きつけたりす

るものですか」

 「・・・・・・」

 「・・・・・・でもね。こうして写真を返してくれたところを見ると、お父さんは、前のお父

さんじゃなくなってるわ。そりゃよく分かるけどね」

 徳子は興奮から泣き出した。



 襖を開ける音がしたので章一が振り返ると、里子が小さな顔をのぞかせていた。後ろに

雅夫の姿も見えた。

 徳子は、突然のことなので、顔を伏せてしまった。

 章一は、気まずい空気をはぐらかすように、立ち上がって里子の体を抱き上げた。する

と、奇声を発して喜んだ。人見知りをする様子は少しも見せなかった。雅夫にひょいと里

子の体を預けると、章一はまた炬燵にはまった。雅夫も里子を抱いて仲間に加わった。里

子は、悲しげな顔の母親を見て、膝を求めて徳子のところに移った。

 里子は「ママ、ママ」としきりに甘えたような声を出した。

 「里子は幸せになってね」と徳子が言うと、「おいおい、ここの家に来て、君は不幸せ

になったの」と雅夫が言った。

 「いや、そういう意味じゃないのよ。ちょっと、沈み込んだものだから」

 「ここで、二人がどういう話をしていたのか。僕は大体察しがついている。徳子に今ま

でさんざん言われてきたからね」

 雅夫は、落ち着いた口調でそう言った。

 「章一には今日初めて言ったわ」

 「話してなかったの」

 「ここに来るまでは、話せる状況じゃなかったからね。ここに来てやっとふんぎりがつ

いたみたい」

 「でも、いつも言ってるように、そりゃ想像の域を脱していないことだろ」

 「あなたも誤解とでもいいたいの」

 「今になったら、それはどっちでもいい話じゃないか。私は、お前の父親が、もう一人

現れても、どうとも思わない。どちらも父親と思うよ」

 「人のことだと思って、無責任ね」

 徳子は、そう言ったきり、何も言わなくなった。

 章一は、この部屋の雰囲気と自分の家の雰囲気を比べていた。何かが違う。ここには何

かがある。家にはないものが。義母と父と腹違いの妹。そして、仏壇には、早死にした母

の遺影。なんとちぐはぐなことか。そう思っていた。

 「章一さん、せっかく遠くまで来て頂いて、すみませんね。徳子もこれですっかり気持

ちが落ち着くと思います。私は、あなたのお父さんに謝らなければなりません。それをし

ないと心が収まらないのです。なにしろ大事な娘さんを奪ってしまったのですから」

 「お兄さん。とっくに父は貴方のことを許してますよ」

 「そうだといいのですけどね」

 「もう、昔の話はよしましょう。・・・・・・今夜、城田湖の夜の風景を見に出かけましょう。

不思議なものが見られますよ」

 「不思議なもの」

 「ええ、実に不思議なものです。ただし、深夜ですよ」

 「ぜひ見せてください」



 その夜、章一は雅夫の案内で城田湖に出かけた。夜気は、急激に体温を奪い、体が硬直

してくるのが感じられた。粉雪が舞っていた。

 二人は。昼間賑わった西岸に腰を下ろして、湖面を見つめた。月光に照ら

された氷湖の湖面は、さまざまな色に変化した。それは、この世のものではないような鬼

気迫る色合いだった。

 「ぼつぼつ始まりますよ」

 「えっ、何が、ですか」

 「ええ、黙ってじっと湖面を見つめていてください」

 章一は、いわれるまま、湖面をじっと見詰めていた。すると、底の方が、ぼっと明るく

なってきた。そして、その光が湖面一帯に溢れ出た。それは、氷湖が巨大なサーチライト

に変貌したような不気味な現象だった。

 「この土地では、水神さんの光と呼んでいます。この光に向かって祈るとすべての願い

叶えられると信じられています。章一さん。願い事を唱えてください」

 そう言われた章一は、咄嗟のことで言葉が即座に出てこなかった。

 「綺麗ですねえ。しかし、これは目の錯覚じゃないでしょうか」

 「そうかもしれません。土地のものでも見たことがないという人の方が多いのですから」

 章一は、いろいろ角度を変えて見つめてみた。すると、ぱっと消える瞬間もあった。

 「見る角度、それに月明かりですか、そういうことが原因でしょうか」

 「ええ、そうかもしれません。でも、貴方も私も、錯覚にせよ同じ体験をしました。こ

れは、奇縁です。徳子も見えたんです」

 「なにかが繋がっているんですね」と章一は補った。

 章一は、全くの異次元にさまよい出たような気持ちを処理できなくなっていた。いまま

でのことが、今日のことが、今起こっていることすべてが、幻覚のようにも感じられた。

 「さあ、帰りましょう」

 雅夫は章一を促した。二人は、月影を踏みながら歩き始めた。章一は、父に、義母にた

くさんのことを言いたい気持ちになっていた。それは、さっき光に向かっていい損ねた言

葉であった。





まつぼっくり

2024-07-13 18:58:42 | 創作
まつぼっくり



                 瀬本あきら

 「お清、松の実を食べると体に精がつく。お前も食べなさい。最近、何か元気がない」

 秋も深まったある日、旦那さまが私に仰いました。自分の家の小庭にあるまつぼっくり

しか考えつかなかったので、私はヤニくさい小さい実、しかも羽が生えて飛んでゆく実の

ことを仰っているのだと思い込み、旦那さま、食べられるのですか、と聞き返しました。

 すると、表座敷の茶箪笥の中から小さい壷を取り出してきて蓋を開け、これだよ、と私

の目の前に近づけなさいました。玄米より一回り大きい木の実がぎっしり詰まっていまし

た。旦那さまはにこりと微笑んで、さあ、と私に勧めなさいますので、私は一粒つまんで

掌に乗せ、しばらくためらっていました。さあ、さあ、と旦那さまはまた私に勧めなさい

ました。怖々私が口の中に入れると、旦那さまはまた満足げに微笑まれました。前歯で二

つに割り、続いて奥歯で噛み砕くと、やはり、仄かなヤニの匂いがしました。それから、

じわっとしつこくない甘味が口中に広がりました。私も微笑むと、旦那さまは今度は、美

味しいかい、とお尋ねになりました。私は、ええ、初めての味です、と答えました。

 「お清、これは、中国から取り寄せた松の実だよ。もう、かれこれ、二十年も食べてい

る」

 旦那さまは、だから、六十路半ばになっても病気一つしたことがない、と付け加えて仰

いました。江戸時代から続いている呉服商の仕事はもうとっくの昔に若旦那に任せておら

れましたから、ご隠居の生活は私の目には安穏な日々に映りました。しかし、時々落ち着

かなくしておられることもありました。それはどうしてなのか。私の知るところではあり

ませんでした。私は勧められるままに松の実をほつりほつりと食べていました。そのうち

に、外は秋の夕暮れが迫っていて硝子障子越しに寂しげな光が差していました。

 「お清、今夜は泊まってくれないか。お前に話したいことがある」

 私は、久しぶりのその言葉に戸惑いました。しかし、話したいこと、とは何だろうとふ

と思いました。

 「……話したいこととは、……旦那さま、何でございましょう。お亡くなりになりまし

た奥さまのことと、もしや、関わりのあることでは……」

 少しも思い詰めたところがありませんので、亡くなったお方のことを言い出した私は、

後悔していました。旦那さまの眼を見つめていると、さもしいところもないようで、ただ

虚ろとしか言いようのないお顔でした。話したいこと。そう言えば、私にも話したいこと

がありました。私は、気づいていたのです。私のお腹の中のことです。旦那さまの子ども

が……。今夜はそのことをお話するよい機会かもしれない、と思いました。

 「……話したいこともあるし、してやりたいこともある」

 「……私に何を……」。私は、旦那さまが今更何を、といよいよ詮索したくなりました。

ところが、その気持ちを見抜いているように、素早く仰いました。

 「お前の部屋の手鏡だよ、お清。もう大分長い間、磨いてないね。器量良しがそんなこ

とではいけないよ」

 えっ鏡、と思わず口にしそうになりました。しかし、ぐっと言葉を呑み込みました。そ

う言えば、蒔絵の化粧箱にしまってはいましたが、手鏡の曇は気になっていたものの、長

らくそのままにしておいたのでした。それをよくご存知の旦那さまは、何度か出して見て

おいででしたのでしょうか。私は特に不愉快な気持ちにはなりませんでした、いつもの潔

癖症の所為だと思うことにしました。

 「いやね、ちかごろお前の口許に心なし精気が感じられないから、自然と思ったことな

んだよ」

 気にしないでくれ、と付け加えて仰った旦那さまの顔には、はにかみが見られ、心に浮

かんだままを仰っているように思えました。それにしても、あの化粧箱は、亡くなった奥

さまの形見。舶来の手鏡も、櫛も、笄(こうがい)も。そっくりお前にやるから、気に入

ったら使っておくれ、とどんと私の前に持ってこられた時、奥さんとの過去を断ち切るた

めの決意のようにも思えましたが……。私は躊躇しましたが、その箱を、結局使わせてい

ただくことにしました。

 身の回りのお世話は殊更厳しい仕事ではありません。食事はすべて台所方の皆さんがや

ってくれていますし、ただ私はお傍に居てお茶を淹れたり、布団を敷いたり、お召しかえ

を手伝ったりの毎日でした。夜になると、私には六歳と三歳の子どもがいますので、姑に

世話ばかり掛けてはいけませんから、暗くならないうちに帰らせていただいていました。

ところが、稀に、泊まってくれと頼まれ、月に何度か泊まることがありました。亭主はど

こに行ったか、皆目分かりません。そのことを私自身への口実にして、旦那さまに請われ

るまま夜伽をしました。これもお勤めだと思うようにしていました。そんな夜は、家には、

お玉さんが手土産を持って断りに行ってくれました。……しかし、明くる朝になると、最

初のうちはそれでも亡くなった奥さまや子どもたちのことを思ったりして、重苦しい気持

ちになりました。奥さまが生前私に仰っていたとおりになりつつあったからでした。

 「……お恥ずかしいことです。そこまでお気づきでしたか」

 私は、それ以上何も申し上げることができませんでした。

 「だから、今夜は、鏡と櫛と、それから、いろいろと私に掃除をさせておくれ」

 「もったいないことでございます。それでは、私は帰らせていただいても……」

 私が申しますと、いや、お前にいてほしいのだ、と仰いました。

 「そうでございますか。それではお言葉どおり……」

 そう言いながら、ふと不安が過ぎりました。実は、その化粧箱の底が二重になっていて

底の底には、奥さまの懐剣が隠されていたのです。私がそれに気づいたのは、一年前です。

きっちりとしていた底に、少しばかりの隙間が出来、何か布のようなものが見えました。

鋏の先でこじ開けてみますと、美しい袋に包まれた刀が出てきました。抜いてみますと、

少しばかり曇っているものの、冷たい光を放っていました。……もしや……。私は、旦那

さまがそれに気づいていなさるのでは……、と思い始めました。そうだとしても、旦那さ

まは、その懐剣をどうなさるお積りなのか、私には想像もつきませんでした。それが奥さ

まの守り刀だと知っているのは、旦那さまと私とお玉さんだけです。この老舗に奉公に上

がった当初、新参者の私に、女の使用人はすべて辛く当たりました。身に覚えのない言い

掛かりをつけられたり、汚い仕事は全部私に回されたりで、本当に気の休まる暇もありま

せんでした。おまけに、奥さまは、私に優しくして下さる旦那さまの振る舞いを毎日のよ

うにご覧になっていて、激しく嫉妬されているようでした。時々私をお部屋に呼びつけら

れ、お前が来てからこの家の女たちの働きぶりが悪くなった、それも、お前が旦那さまに

可愛がられていることが原因だ、だから、別の支店に行って貰ってもいいんだよ、と強い

語調で罵られ、仕舞いには奥さまは懐に手を入れ、お前がここから出て行かなければ、私

にも相当の覚悟がありますよ、と鋭く睨みつけなさいました。懐に短刀を隠し持っておら

れる。その時私は恐ろしさから、体が金縛りに遭ったようになりました。その後で、旦那

さまにも呼ばれ、とにかく辛抱してくれ、志乃には私がきちんと謝っておいたから、と言

われました。旦那さまに刀のことを申し上げますと、あれは、志乃がいつの間にか古道具

屋で買い求めたもので、私も実はしばらくしてから分かった、と仰いました。

 奥さまはそれからというもの、私のことを隈なく観察なさっていて、私は恐れを我慢で

きなくなっていました。

 「お清、お前は、私の代わりにこの家に納まろうってのかい。先刻お見通しだよ。そん

なことさせるものかい」

 そう言って、繰り返し私に迫ってきて、しまいには泣き出し、辺りのものを投げつけた

りなさるのでした。声を聞きつけて、旦那さまが駆け込んで来られ、おい、志乃、いい加

減にしろ、どうすれば気が済むんだ、と仰ると、奥さまは、追い出してよ、この小娘、と

叫ぶように仰るので、もうどうにも手が付けられない状態でした。私の心はどうか、と省

みてみますと、奥さまが仰る企てなど微塵もないという潔白さがやはり厳としてありまし

た。だから、旦那さまのお心にすがって奉公を続けることが出来たのです。

 それから数年経ちました。奥さまは次第に顔色が悪くなり、秋の陽が西の空に滑り落ち

るように命が危なくなりました。床についてしまわれた奥さまは、ある日、私に仰いまし

た。

 「お清、あの懐刀を持っておいで」

 「何になさるのですか」

 「お前が、私のとどめを刺してくれないと、私は死ねないよ」

 青ざめた顔で眼だけは鋭く輝かせてそう仰いました。その言葉は今でも忘れることがで

きません。

 「奥さま、そんなに私を憎んでおられるのなら、懐刀を持って参ります。奥さま、貴女

が私を刺してくださいませ。お願いでございます」

 「お前がそういう覚悟なら……」

 奥さまが起き上がろうとなさるので、看病していたお玉さんが止めに入りました。私は、

何時の間にか、奥さまを追い詰めた張本人になっていたのでした。奥さまが息を引き取ら

れたのは、それから間もなくのことでした。

 懐刀はどうなったか。日が経つにつれ、旦那さまにも私にも、探そうという気力が失せ

ていました。



 その日も、いつものとおりお玉さんが私の家まで使いに立ちました。私は、風呂から上

がり、家に居る時よりもずっと早い夕食の膳につきました。旦那さまのご飯をよそって差

し上げると、いつものとおり、にこりともせず受け取って、ゆっくりと食べ始め、ときた

ま咳払いをなさいました。私は、旦那さまが食べ終わるのをいつものとおりじっと待って

いますと、不意に私を横目でご覧になり、お前も一緒にお食べ、と仰いました。お世話を

するのが私のお役目でございますから、と申しますと、今夜は特別だから、と仰いました。

 「特別と仰いますと……」と私はすかさず尋ねました。

 「いや……、何となくそんな気がしただけだ」

 旦那さまはちらとまた私をご覧になり、小さい咳をなさいました。

 下座の私は、その「特別」という言葉に突き動かされて、食事を共にすることにいたし

ました。食べ終わると、片付けをし、床を並べて敷き、その化粧箱を持ち出して、姿を整

えました。

 手提げ行灯に火を灯し、その灯かりに照らされながら床に滑り込みました。ところが、

旦那さまは、入ろうとなさいませんでした。じっと光の中で私の顔を見つめておられたの

です。

 「お清、お前は、いくつになっても綺麗だ」

 「いや、旦那さま、歳は争えません」

 旦那さまは、思い出したように立ち上がって化粧箱を持って来られ、灯かりの下で開き

なさいました。

 「鏡、櫛……みんな綺麗にして上げるからね。……志乃のこと、お清は決して忘れてい

ないだろうね。悪い女だったね。恨んでいるだろうね。……しかし、お清、ほんとに悪い

のは私だよ。そのことを……、ちゃんと言いたかった。お前に……、それから、志乃にも」

 私は、起き上がりました。ちゃんと旦那さまと向かい合って、言葉をすべて漏らさず聞

きたかったのです。

 旦那さまは、古い布を懐から出して、鏡を丁寧に磨き始めなさいました。その手を見つ

めていると、昔、こうして奥さまが磨いておられた姿が蘇ってきました。そして、思いも

しなかった言葉が口を突いて出てきそうになりました。いやいや、旦那さま、一番悪いの

は、他でもない私です、奉公を止めてしまえば、こんなことにならなくてもよかった……、

それに子どもまで……。

 「旦那さま……」と私は、ほんとうに話しかけました。

 「おやおや、この曇はもう取れなくなっている」

 旦那さまには、聞こえなかったようでした。外は風が吹いていました。

 それから、しばらく磨いておられたその手が、ぴたりと止まってしまいました。

 「ああ、思い出した。あの刀、どこへ隠れてしまったのかね。今も志乃を守っているだ

ろうかね」。その言葉は、独り言のようにも聞こえ、私は返事を躊躇っていました。

 私は急に頭に血が上ってきて、混乱し始めました。旦那さまが、底を開いて、刀を取り

出しそうに思えたのでした。旦那さまのその日のご様子からしますと、刀を手にして何を

真っ先になさるのか、私には不思議と想像できました。その刀は、先ず私の胸を貫き、続

いて、旦那さまの喉笛を欠き切ってしまうでしょう。そうとしか、私には思えない雰囲気

でした。「特別」な日、という意味には恐ろしい覚悟が秘められているという直感があり

ました。私の過去のすべての罪障が襲い掛かり、死という償いを求めているような気持ち

で、私も最後の覚悟をしていました。

 「それからね。お前の連れ合いは、今どこで何をしているだろうかね。済まないことを

してしまったね。私が仲を断ち切ってしまった……」

 突然のことで、一層混乱しそうになりました。私の罪は限りなく湧き上がってくるよう

な気がして眩暈を催し、旦那さまの顔が、遠のいたり、また近づいたりしました。

 「旦那さま、私にお話しいただいたことはよく分かりました。もう、それでお仕舞いに

していただけませんでしょうか」と、私は咄嗟に懇願しました。すると、「ああ、そうだ

ったね。どうぼやいても、もう取り返しがつかないことばかりだからね」と仰って、また

鏡を磨こうとなさいました。私は、鏡を強く引っ張って取り、畳に置きました。すると、

驚いたような顔で私をご覧になります。私は、続いて旦那さまの両手を握りしめ、私の布

団まで力いっぱい引いて行こうとしました。旦那さまは、急に我に返ったような顔になり、

促されるまま私の布団の中に入り込んで、私を強く抱きしめなさいました。私は、先程の

妄念を振り切る思いで、旦那さまに身を預けていました。

 それから、しばらく経つと、旦那さまは、私の横で軽いいびきをたてて寝入りなさいま

した。私は、旦那さまと私の着物を直しながら、また、刀のことを思いました。

 隠しておこう。そう思い立って、化粧箱のところへ行き、中のものを取り出し、底を開

いてみました。すると、底には何も入っていません。私は、目を疑いました。もしや、旦

那さまがどこかへお隠しになったのでは、と思いました。

 私は、気づかれないように布団から抜け出しました。そして、違い棚の地袋や天袋、そ

れから机の引き出し、文箱などを探しましたが、どこにもありませんでした。ううっ、と

いう旦那さまの声がしましたので、私は慌てて旦那さまの布団の中に潜り込みました。す

ると疲れがどっと襲ってきて、いつしか私も寝入ってしまいました。

 ……暗い暗いところを私はさ迷っていました。そして、やっと我が家に辿り着きました。

戸を開けても、誰もいません。子どもたちは、お義母さんは、どこに行ってしまったので

しょう。仕方がないので、私は、一人布団を敷き寝ました。旦那さまの家で寝るのとは違

い、久しぶりに伸び伸びとした気分になりました。でも、私の体は子どものように小さく

なっています。屋根もトタンで覆ってあり、天井がなく、風の音が響いています。しばら

く私は寝入っていました。すると、コトンという音がしました。少し経つとまた、コトン

という音がしました。何だろう。確かめようと私は外へ出ました。暗かった空から月が顔

を出しました。地面を見ると、幾つものまつぼっくりが落ちていました。拾おうとすると、

聞き覚えのある声がしました。振り返ると、行方が分からなくなった佐市が私を見下ろし

ていました。お前は、どうして私を裏切ったんだ、あんな、じじいといい仲になりやがっ

て、と私を厳しく責め立てます。何とでも言ってください、仕事もろくにしなかった癖に、

暮らしていけたのは、あなたが憎んでいる旦那さまのお陰だよ、そりゃ、私は罪を犯した

極悪人だわ、でも、子どものことはいつも考えていた。善人ぶるなよ、その子どもが、何

の金で養って貰っていたか分かったとき、お前をどう思うかだ、胸が痛まないのか、そう

だ、俺の子どもとは限らないしな。私が足に取りすがろうとすると、すっと、佐市の姿は

消えました。また、まつぼっくりが一つ落ちてきました。……まつぼっくり。ああ、そう

だ。私は急に旦那さまがどうなったか不安になりました。お店に帰らなくては、早く帰ら

なくては。小さくなった体では、気が急くだけで足がはかどりません。私は走り続けて、

息が苦しくなりました。

 夢を見ていたのでした。ひどい汗をかいていました。旦那さまは……、と思い隣の布団

を見ると、誰もいません。私は縁側に出ました。

 ……ああ、旦那さまがこんなところに。出てみると、うつ伏せになって倒れていらっし

ゃいました。力を込めておこそうとしますと、血糊がべっとり手に着きました。ああ、旦

那さま。そう叫んで、右手を見ると、あの見えなかった刀を固く握り締めていらっしゃっ

たのです。

 「お玉さん。お玉さん」。私は必死で夜中の廊下を走って行きました。旦那さまを殺し

てしまったのは私だ。それから、奥さまも……。走りながら、そういう思いが胸を激しく

締め付けました。お玉さんの部屋の近くまで行くと急に腹が痛みだし、粘液のようなもの

を吐き出しました。そして、私は前のめりにどっと倒れてしまいました。気が遠くなって

いく私の意識の中に、お玉さんの声が微かに聞こえてきました。        (了)



パイナップル

2024-07-07 23:44:33 | 創作
パイナップル

                                 瀬本あきら

 終戦前後の話である。

 甘いものをあまり口にしたことのないぼくたち子どもは、お菓子と言えば、煎餅、ポン

菓子、煎り豆などを食べて、これがおやつというものだと満足していた。

 だから、バナナなるものを初めて食べたときの感激は忘れることができない。

 「おいおい、そげに、いっぺんに食べたらすぐなくなってしまーが」

 終戦直後、私たち兄弟に、真っ黒に変色した奇妙なくだものをくれた父の知り合いのお

じさんが、そういって注意した。

 「まずのー、先っぽをがじっと噛んで、たっぶり食べて、そーから、じわじわと食べー

もんだわや」

 二本目は、言われるままに初めはがじっと噛み、後では、しゃぶるように味わって食べ

た。独特のねっとりとした甘味が口中に広がった。こんな果物がこの世にあったのか。そ

う思って、子どもながら生きていてよかったと思った。

 戦争中のことは、昭和18年生まれのぼくには、あまり記憶にない。母から後になって

聞いたが、空襲警報のサイレンが響きわたると、どこにいても、とことこ歩いて帰り、防

空壕に隠れたそうだ。だから、戦争がどういうものであり、日本が終戦後どうなったか、

などという知識は、主に父から聞いていた。

 その父は、二回応召し、初めは浜田連隊で軍事教練を受けて、満州に出征した。なぜそ

の後帰還することができたのか、いつ帰還したのか分からない。二回目は、九州のある基

地に配属になったと聞いている。父の話では、あまり実戦の体験はなかったそうだ。主計

の試験に合格し、糧秣の管理をしていたそうだ。陸軍主計伍長。この言葉は、戦争の話の

ときには必ず出てきた。軍曹になりそこなったことを悔しがっていた。だから、前線では、

死線をさまよっている兵士が多い中、豊かな物資に取り囲まれて暮していた。考えられな

いことである。冬、ビールが凍って瓶が割れ、たくさんだめにした、という話も聞いてい

た。戦地にビールがあったなんて初めて聞いて驚いた記憶がある。それから、たくさんの

中国人の苦力(クーリー)を使っていたこともよく話した。

 終戦後は、その仕事の縁からか分からないが、地元の食糧営団に勤務していた。

 その父が二回目の応召から無事帰ってきたときの様子を今でもはっきり思い出す。とい

っても、これは、母から聞いた話を実体験の映像として記憶しているだけのことなのだが。

 昭和20年の何月ごろだか分からない。ぼくと母は、母の実家でしばらく泊まっていた。

ところへ、藁半紙にくるんだ包みが届いた。開けてみると、缶詰だった。紙も何も張って

ない。缶きりで開けてみると、ひまわりのような形をした丸い黄色なものが入っていた。

 「パイナップルだ」

 母は、叫ぶように言った。

 その言葉も、私は初めて聞く言葉であり、鼓膜の響きとして今も感覚に残っているよう

な気がする。パイナップル。これは、今は亡き母が発した言葉なのだが、なんだか天上か

ら響いてくるような澄んだ声なのである。

 皿に一枚乗せてもらい、滴るシロップとともに、口に運んだ。

 果肉が繊維質で、歯ごたえがあった。

 甘い。これは甘すぎる。途端にそう思った。

 栄養価のないものばかり食べていた人間が、突然、高濃度のカロリー源を与えられたよ

うな感覚で、食べ物という認識は生まれなかった。この独特の感覚も、後で食べたパイナ

ップルの味を、そのときの味にタブらせて記憶しているのであろう。

 そのとき、

 「お父ちゃんのお土産だよ」

という母の言葉を聞いた。

 「お父ちゃん」。何度となく母に尋ねた言葉である。そして、忘れかけていた言葉であ

った。その言葉を久しぶりに聞いたぼくは、咄嗟にその意味を理解しかねた。

 「お父ちゃんだよ」

 母は、もう一度繰り返した。ぼくは直感的に父親という存在が分かりかけてきた。「お

父ちゃん」。物まねのように繰り返して、顔の輪郭を形作ってみる。

 しかし、ぼんやりした形しか浮かんでこない。今でも、そのときの感覚を造形してみる

が、やはりはっきりしない形をしている。これは、当然のことである。しかし、この空想

の物語は、当時の私の存在証明となって心の深くに残っている。



 母と二人、帰り道を急いでいる。母は、ぼくの手を千切れんばかりに引っ張る。田舎の

川土手の路は、果てしなく続いている。ぼくが母と並んで歩けたかも分からないが、コス

モスか何かの花がたくさん土手には咲いているのである。ときどき遠くの国道を砂塵を巻

き上げて進駐軍のジープが走り抜けた。

 「お父ちゃん、家で待ってるから、早く、早く」

 母の顔は、なんだか怖そうに引きつっている。ぼくの中で造形された映像の物語は、こ

うしてほとんどの部分は鮮明に動いてゆくのである。

 そして、玄関に佇む母。こわごわ戸を開ける母。

 それから、最後の映像は、直立不動で敬礼する父の姿が映し出される。

 「陸軍主計伍長、瀬本幸吉、ただいま帰りました」

 初めて見る父の顔。輪郭だけの顔。

 ぼくの映像は、いつもそこで途切れてしまう。母が、そのときどう言ったか、ぼくは、

どういうふうにしていたか。まったく映像が作れないでいる。

 父帰る。その瞬間の感覚は、曖昧模糊としている。ときとして、そのときの父の顔が、

仏壇の中年の遺影とダブって見えるときもあった。

 それから、ぼくが、学校に通うようになってからも、パイナップルはそんなにちょくち

ょく食べたわけではない。

 ……バナナとパイナップル。その舶来の食べ物は、ぼくたち終戦直後に育った人には、

なにか特別の思いが貼り付いているのである。