とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 244 【1972年9月29日】 日中国交正常化 田中角栄・周恩来両首相が握手

2017-10-31 14:54:24 | 日記
私が中国語を学びたいと思うようになった動機は、当時の日中の政治的・経済的な関係の前進が背景にありました。ただ、その語学とは関係のない方向に私は進んでしまいました。


【1972年9月29日】 日中国交正常化 田中角栄・周恩来両首相が握手



日中国交正常化(にっちゅうこっこうせいじょうか)とは、1972年9月に日中共同声明を発表して、日本国と中華人民共和国が国交を結んだことである。

これにより、中華人民共和国建国23年を経て両国間の懸案となっていた正式な国交がない状態を解決した。1972年9月25日に、田中角栄内閣総理大臣が現職の総理大臣として中華人民共和国の北京を初めて訪問して、北京空港で出迎えの周恩来国務院総理と握手した後、人民大会堂で数回に渡って首脳会談を行い、9月29日に「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)の調印式において、田中角栄、周恩来両首相が署名したことにより成立した。またこの日中共同声明に基づき、日本は中華人民共和国と対立関係にあり、それまで国交のあった中華民国に断交を通告した。

成立は田中内閣であるが、それまでに自民党は勿論、社会党、公明党、民社党もそれぞれの立場で訪中して日中間の意思疎通に重要な役割を果たし、また経済界、スポーツ界(卓球・バレーボールなど)など、多くの地道な関係改善努力の積み重ねにより成立したものである。


経緯

米中接近

中華人民共和国が1949年10月に建国されてから、東西冷戦の時代に入ったが、1950年にイギリスが、1964年にフランスが承認して国交を樹立していた。折しも1950年代後半頃から中ソ対立が激しくなり、一方で米ソ協調路線となり、フランスの独自外交とアメリカのベトナム戦争への介入、中華人民共和国の文化大革命など、それまでの東西対立とは違って60年代後半は国際情勢が複雑で多極化していた。1969年春に中ソ間で国境線を巡る武力衝突事件が起きて、中華人民共和国がソ連を主な敵とする外交路線を取り、また混乱していた国内の文化大革命が落ち着き始めてそれまでの林彪らの文革派から周恩来が実権を回復していた頃から、積極的な外交を展開するようになった。1970年10月にカナダ、12月にイタリアと国交を結び、この頃からアメリカへの働きかけが水面下で始まっていた。

1971年3月に名古屋市で開催された世界卓球選手権に文革後初めて選手団を送り、当時のアメリカ選手団を大会直後に中華人民共和国に招待するピンポン外交が展開されて後に、7月にアメリカのヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官(当時。後に国務長官)リチャード・ニクソン大統領の命を受けてが北京を秘かに訪問し、中華人民共和国成立後初めて米中政府間協議を極秘に行った。そして7月15日に、ニクソン大統領が翌年中華人民共和国を訪問することを突然発表して、世界をあっと驚かせた(第1次ニクソン・ショック)。このニクソン大統領の中国訪問は翌1972年2月に行われた。

この当時アメリカにとっては中華人民共和国をパートナーとした新しい東アジア秩序の形成を模索するもので、中華人民共和国と対立するソ連のみならず、中華人民共和国が支援していた北ベトナムに対しても揺さぶりをかけることで、膠着状態にあった北ベトナムとの和平交渉を促進することも目的であった。1965年から武力介入して泥沼化したベトナム戦争を抱えて複雑な状況の中で米国としても主導権を持って外交を積極的に推し進めるためには、ソ連と対立しつつ北ベトナムを支援していた中華人民共和国を承認することが必要であることをニクソン自身は大統領になる前から考えていた。

また前年に国際連合での中華人民共和国の加盟をめぐって賛成票が多数となり(米国の重要事項案も可決されて三分の二以上の賛成票ではないので加盟は実現しなかった)、この年秋の国連加盟が確実視されていた。また大統領選挙で公約したベトナム戦争からの名誉ある撤退を進めるためにも北ベトナムを支援する中華人民共和国との交渉が必要なことであると認識していたことで、ニクソンの突然の中華人民共和国訪問が実現した。

このニクソン訪中の時に周恩来との数回の会談の中で日米安保条約は対中華人民共和国のものでなく、「対ソ連が中心でかつ日本の軍事力を抑えて日本の軍事大国化を防ぐ目的のものであること」とをキッシンジャーが説明して周恩来も理解を示した。このことは後に日中国交正常化の障害を1つ取り除いていたことになった。

佐藤内閣

佐藤首相は、池田前首相の立場とは少し違って、政権発足当初は二つの中国を前提とせず、国府の国連での議席を守ることでは前政権と変わらないが、中華民国を正統政府と見なすという現実的対応を前提にして、将来両国がお互いを承認する方向を模索するものであった。しかし時代はベトナム戦争の激化と中ソ対立や文化大革命の混乱で、池田内閣の時代と違い、佐藤首相が積極的に日中接近に打って出ることはそもそも不可能であった。そして、佐藤内閣の大きな課題は沖縄返還であり、日中関係は停滞していた。

そして1970年代に入る頃にこの米中間の対話開始と急速な接近で、当時西側の主要国で中華人民共和国との国交が正常化していない国は日本と西ドイツだけで、他の英仏伊加がすでに承認していたことは、「日本外交が取り残されている」との認識が一般にも広がっていった。一方、当時の自民党内ではまだ東西冷戦の思考から抜け出せず、また中華民国を支持する勢力があり(源田実や浜田幸一なども親中華民国派であった)、様々な権益が絡んでいた。

また当然のことながら、中華民国と中華人民共和国の両政府はともに、他国による中国の二重承認を認めないために、佐藤首相の外交は60年代の冷戦思考そのままのものであった。1971年3月に訪中した藤山愛一郎は周恩来首相の言葉から米国が先行して米中対話を行うことを危惧する旨を外務省に伝えているし、福田赳夫は「中国問題では米国が日本に相談に来ている」と語っていた。それが「ある日の朝、目を覚ませばアメリカと中国とが手を握っていた」ことで右往左往することになった。

1971年秋に国連総会で中華人民共和国の加盟を審議した際には、日米とも加盟そのものには反対せず、しかし中華民国を排除しようとすることは重要事項であるとして前年までの方向と全く違う考え方の「逆重要事項案」と、中華人民共和国の常任理事国入りを認めつつ中華民国の議席も維持する「複合二重代表制決議案」の2つの案を共同提案国として提出したが、まず逆重要事項案が否決されて、複合二重代表制決議案は自然消滅となり、中華人民共和国の加盟と中華民国の追放を求めた「アルバニア案」の採決で日米とも反対したが結局賛成が大きく上回り、加盟と追放が決定された。この時のアメリカ国連大使のジョージ・H・W・ブッシュは国連総会の質疑で反対の論陣を張った(皮肉にも後に事実上の米国大使館である北京の米中連絡事務所の所長を務める)。

アメリカは反対を唱えながらもこの時すでにキッシンジャーが訪中して翌年のニクソン訪問の実務的な協議をしていた。中華人民共和国の国連加盟が実現して中華民国が国連を脱退した頃に、佐藤内閣でこの年7月まで官房長官を務め、当時自民党幹事長であった保利茂は東京都の美濃部都知事が訪中した際に極秘に周恩来首相宛てに1971年10月25日付けで1.中国は1つである、2.中華人民共和国が中国を代表する政府である、3.台湾は中国国民の領土であるとし保利自身が訪中して両国政府間の話し合いを進めたい旨の親書を渡した。これは直後に明らかになり、キッシンジャーならぬミノベンジャーだと言われた。しかしタイミングが国連総会で日本が逆重要事項案に賛成し、中華人民共和国加盟/中華民国追放のアルバニア案に反対していた時であったため、周恩来首相から「まやかしで信用できない」と一蹴されている。この時に結果は不首尾であったが保利がそれまでの中華民国支持の立場から中華人民共和国との国交正常化へ立場が変ったことは、自民党内での親中華民国派と親中華人民共和国派との力関係に変化が生じることとなった。

1971年には、日本の財界首脳が訪中団を送り込んだ。1971年9月に佐伯勇を中心とした関西財界訪中団が、同年11月には永野重雄日本商工会議所会頭と木川田一隆経済同友会代表幹事を中心とした東京財界訪中団が訪中し、北京の人民大会堂で周恩来総理と会談した。このとき周総理は永野重雄に「これで日中関係、完全に修復しました。我々は今後いかなる日本人も歓迎する」と言ったといわれる。日中国交正常化は、こうした日本財界主流による訪中の成果の上に成ったものという評価もある。

1972年1月の施政方針演説で佐藤首相は「中国は一つであるという認識のもとに、今後、中華人民共和国政府との関係の正常化のため、政府間の話し合いを始めることが急務である」として中華人民共和国との国交正常化を目指す意向を示した。
NHKの取材により、佐藤は任期中の国交回復を目指して密使を送り込み、中華人民共和国と中華民国との間で連絡を取っており、国連総会での日本の反対があっても交渉は進んでおり、ニクソンに続き国交回復交渉を直接行うため北京を訪問しようとしていたことが明らかになった。その後、総理の座を狙う自民党内勢力からの横槍が入り計画が頓挫したこと、総理の座を譲ろうとしていた福田赳夫を中国側関係者に引き合わせていたことが明らかになった。

田中内閣

1972年7月5日に自民党総裁選挙で総裁となり、7月7日に内閣総理大臣に就任した田中角栄は就任前から日中関係の打開に積極的な姿勢で、就任した7月7日の首相談話で「日中国交正常化を急ぐ」旨を語り、すぐに異例なことに直後の7月9日に周恩来は「歓迎する」旨を明らかにした。7月16日に社会党の佐々木元委員長が訪中した際には「日本の田中首相の訪中を歓迎する」メッセージを示し、そして7月25日に公明党の竹入委員長が訪中して27日から3日間延べ10時間に渡って周恩来首相と会談して、中華人民共和国の考え方の内容が示された。帰国後の8月4日に田中首相と大平外相にその内容を書いたメモを手渡している。この竹入メモには「国交回復(正常化)三原則を十分理解する」「唯一合法政府として認める」「共同声明で戦争状態を終結する」「戦時賠償を放棄する」「平和五原則に同意する」「覇権主義に反対する」「唯一合法政府として認めるならば復交3原則の台湾に関する部分は秘してもいい」「日米安保条約を容認する」等の内容で、田中首相はこれを読んで北京に赴くことを決意した。

この時から中華人民共和国側も田中内閣での国交正常化に本腰を入れ、当時上海舞劇団団長として来日していた孫平化中日友好協会副秘書長と肖向前中日備忘録貿易弁事処東京連絡処首席代表の2人が8月15日に帝国ホテルで田中首相と会談する場が設けられて、その場で田中首相は自身の訪中の意向を初めて公式に伝え、中華人民共和国側から正式に田中首相を本国へ招待することが伝えられた。ここから、日本国と中華人民共和国との交渉がスタートした。

日中国交正常化交渉

ここで田中首相は、アメリカよりも早く日中国交正常化を果たすことを決断した。このとき日本はニクソン訪中の後に日中関係の正常化へ動いたにもかかわらず、アメリカよりも先に中華人民共和国を承認したのは日本の戦後政治史において例外的なことではあるが、ただし田中首相は就任後7月19日にアメリカのインガソル駐日大使にその意思を伝え、8月31日と9月1日にハワイで行ったニクソン大統領との会談でも確認しており、訪中前にアメリカにとってはすでに織り込み済みの話ではあった。

1972年9月25日、田中首相は秋晴れの北京空港に日本航空の専用機で降り立ち、自ら中華人民共和国を訪問した。ニクソン訪中から7ヶ月後であった。同日午後から第1回会談が行われた。出席者は日本側が、田中首相、大平外相、二階堂官房長官、高島条約局長、橋本中国課長、栗山条約課長など8名。中国側は、周恩来首相、姫鵬飛外相、廖承志会長、韓念龍外交部副部長、張香山顧問など8名。この席でまず共同声明の形で国交正常化を行うこと、中華人民共和国側が日米安保条体制を是認すること、日本側が日華平和条約を終了させることが確認された。夜の晩餐会では、周恩来首相は「双方が努力し、十分に話し合い、小異を残して大同を求めることで中日国交正常化は必ず実現できるものと確信します。」と挨拶して、一方田中首相は「過去に中国国民に多大なご迷惑をおかけしたことを深く反省します」と挨拶した。

26日の午前中の外相会談で「戦争状態の終結」「国交回復三原則」「賠償請求の放棄」「戦争への反省」の4点に関する基本的な見解を提示した。午後の首脳会談で周恩来首相から前夜での「御迷惑」発言と午前中の高島条約局長の「日華平和条約との整合性」発言で厳しく指摘を受けた。これを受けて夕方に日本側からの提案で急遽外相会談が開かれ、「台湾は中国の一部」とする中華人民共和国側に対して「不可分の一部であることを再確認する」「この立場を日本政府は十分に理解し、ポツダム宣言に基づく立場を堅持する」旨の案を提示した。

27日の午前中は万里の長城などへ見学に行き、夕方から首脳会談を行った。前日の厳しいやり取りから一転して穏やかな雰囲気で始まった。全般的な外交問題や政策についてが話題となり、中ソ間のことも話題となった。また尖閣列島について田中首相から出されたが周首相から「今、話し合っても相互に利益にはならない」として、それ以前のまだ正常化に向けて残っている案件の処理を急ぐこととなった。夜に田中首相・大平外相・二階堂長官の3氏は毛沢東の私邸を訪ねて、この時に毛主席から「もうケンカは済みましたか」という言葉がかけられた。この日の深夜に外相会談が開かれて、戦争責任について「深く反省の意を表する」という表現で、戦争状態の終結については「不正常な状態の終結」という表現にする案でまとまった。

28日の午前中は故宮博物館を見学して午後の首脳会談で、大平外相から日本と中華民国の関係について今回の共同声明が発表される翌日に終了すること、しかし民間貿易などの関係は継続される旨の発言があり、周首相は黙認する姿勢を示した。

そして9月29日に日本国総理大臣田中角栄と外務大臣:大平正芳が、一方中華人民共和国国務院総理周恩来と中華人民共和国外交部部長:姫鵬飛が「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)に署名し、ここに日中国交正常化が成立した。日本が第2次大戦後、戦後処理に関する国際文書の中で歴史認識を示し、戦争責任を認めたのはこれが初めてのことであった。

なお、当時はまだ戦後30年も経過しておらず、交渉には日中戦争の傷が影を落としていたが、周恩来は「日本人民と中国人民はともに日本の軍国主義の被害者である」として、「日本軍国主義」と「日本人民」を分断するロジックによって「未来志向」のポリティクスを提唱し、共同声明を実現させた。この論理によれば、抗日民族統一戦線の戦いをどれほど賛美し、日本の軍国主義の侵略をどれほど非難しても、それは日本との外交関係にいささかもネガティヴな影響を及ぼすものではないとされる。この「未来志向」の政治的合意は現在にも引き継がれている。

それから6年後の1978年8月、福田赳夫政権の下で日中平和友好条約が調印された。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 243 【1972年5月15日】 沖縄返還 東京、那覇で復帰式典

2017-10-30 15:26:33 | 日記
沖縄が正式に日本国になった日。忘れません。当たり前のことがなかなか実現しなかつた裏には激しい闘いがあったことを思い出させます。元「沖縄研究同好会」の一員としてこの日は忘れません。

【1972年5月15日】 沖縄返還 東京、那覇で復帰式典



沖縄返還(おきなわへんかん)は、1972年(昭和47年)5月15日に、沖縄(琉球諸島及び大東諸島)の施政権がアメリカ合衆国から日本国に返還されたことを指す。日本国とアメリカ合衆国との間で署名された協定の正式名称は「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」である。 日本の法令用語としては、沖縄の復帰(おきなわのふっき)という。


1969年(昭和44年)に行われた日米首脳会談で、ベトナム戦争終結とアメリカ軍のベトナムからの撤退を公約に掲げ前年の大統領選挙に当選したリチャード・ニクソン大統領が、ベトナム戦争の近年中の終結を考えて、安保延長と引き換えに沖縄返還を約束したが、公選の行政主席である屋良朝苗や復帰賛成派の県民の期待とは裏腹に、アメリカ軍基地を県内に維持したままの「72年・核抜き・本土並み」の返還が決定し1971年(昭和46年)沖縄返還協定調印、その後1972年(昭和47年)5月15日に日本へ復帰した。

内閣総理大臣・佐藤栄作はニクソンとの取り決めで、非核三原則の拡大解釈や日本国内へのアメリカ軍の各種核兵器の一時的な国内への持ち込みに関する秘密協定など、冷戦下で東側諸国との対峙を続けるアメリカの要求を尊重した。なおアメリカ軍がベトナムから全面撤退したのは、沖縄返還の翌年の1973年(昭和48年)3月29日であった。

また、日本への返還に際し、日本政府は返還協定第7条にもとづき「特別支出金」として総額3億2000万ドルをアメリカ政府に支払った。西山太吉は実際の支出総額が5億ドルをはるかに超えて、密約として処理されたと主張している。「特別支出金」の内訳には、琉球水道公社や琉球電力公社、琉球開発金融公社のほか、那覇空港施設や琉球政府庁舎あるいは航空保安施設、航路標識などのアメリカ軍政下で設置された民生用資産の引き継ぎの代金1億7500万ドルが含まれていた。日本政府は取り決めに従いこの対価を支払った。


沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律に基づいて1972年(昭和47年)6月25日に沖縄県議会選挙が行われた。また、他の46都道府県同様に沖縄県庁や沖縄県警のほか、各自衛隊(航空自衛隊・海上自衛隊・陸上自衛隊)なども置かれたが、自衛隊は旧日本軍の後身と見られたことから、隊員が住民から迫害を受けたほか、住民票を交付されなかったり、隊員の子弟が学校に入学できないなどの人権侵害を含む社会事件が発生した。また近年においても、県内のマスメディアで自衛隊を恣意的に扱っているなど、差別的な感情があるとする意見もある。

また、1978年(昭和53年)7月30日には車両の通行が左側通行に切り替えられ(730)、本土同様の道路交通法が適用されるようになった。
返還後は道路・病院・学校など公共投資に力が入れられ、また数々の優遇税制や特例や諸税の免除が実施され、本土並みの生活水準への到達が官民一体となって目指されている。精力的な公共投資によりインフラ面では、ほぼ本土並み(軌道交通を除く)となったものの、産業の育成が立ち後れ、国内外の大規模な製造拠点の誘致にも至っていない。返還から40年以上経つ現在でも、1人あたりの県民所得が2008年(平成20年)までは最下位で、それ以降も、全国下位のままである。

返還前は就職難から県外への移住者が多く、人口が減少していた時期もあったが、復帰後は逆に本土からの移住者(Uターン者を含む)が大幅に増え、2010年度(平成22年度)の合計特殊出生率は1.87人と、沖縄県の出生率が比較的高いこともあいまって人口は堅調な増加が続いている(沖縄県の人口統計を参照)。特に2000年代(平成12年-平成21年)後半からは、子育て世代の若い夫婦や定年後の中高年を中心に、沖縄移住がブームとなっている。

2005年(平成17年)以降、日本の人口は減少しているが、沖縄県が人口減に転じるのは2025年頃と、日本の全都道府県で最も遅いと予測されている。一方で経済体質は、2017年(平成29年)に至るまで、公務員と公共事業とアメリカ軍基地、観光業が柱となっており、多くの安定した雇用を確保することが出来る、大規模な製造業などの有力な地域産業は依然十分に育っていない。

ただし、2008年(平成20年)のリーマンショック以降の製造業の衰退のため、本土各県の所得水準の低下が著しく、相対的に沖縄県の所得水準が上がりつつあり、2009年(平成21年)には県民所得最下位から脱却した。また、沖縄県では他府県から離れた沖縄の地理的条件が不利になりにくいIT産業・コールセンターの振興に力を入れており、沖縄県出身者の地元志向の強さを狙って、人材流動の激しい本土ではなく、沖縄でのIT開発拠点を作ろうとする動きも一部に見られるようになってきた。

2012年(平成24年)にNHKが実施した、沖縄県民を対象にした世論調査では、本土復帰についてと肯定的な回答(「非常によかった」「まあよかった」)が合わせて78%だった。

課題

沖縄返還は実現したものの、課題は多く残されている。2010年(平成22年)現在も米軍専用施設面積の約74%が沖縄県に集中し、沖縄本島の19.3%が基地に占められる(県全体の基地の割合は10.7%)。たびたび引き起こされるアメリカ兵による事件が日米地位協定によってうやむやにされることも県民感情を逆撫でする。1995年(平成7年)の沖縄米兵少女暴行事件の際は大規模な抗議行動が行われた。2009年(平成21年)に成立した鳩山由紀夫政権(鳩山由紀夫内閣)は、宜野湾市市街地にある普天間基地を県外に移転することを事実上の選挙公約としたが、就任後は鳩山首相の発言が二転三転し、最終的に公約を破る形で辞任している。

復帰時に経済の「本土並み」がスローガンとして掲げられたが、振興政策は公共事業を中心とした建設業の投資に偏り、道路や箱物ばかりが立派になったと揶揄される。日本で最も安い地域別最低賃金が設定されている県のひとつで、失業率と人口あたり倒産件数は全国最高レベル(ただし人口比の起業件数も全国で最も多い)。本土からの移住者が増えているにもかかわらず、1人あたりの県民所得は全国最低となっている。ただし、2009年(平成21年)に限っては高知県のほうが低くなっている。

かつて本土復帰運動と同時に、琉球独立運動が存在した。現在でも独立運動は存在するが、県民の間で大きな支持を得るには至っていない。2006年(平成18年)の沖縄県知事選で琉球独立党(現・かりゆしクラブ)の候補は6,000票ほどを獲得したにとどまった。

また、2005年度(平成17年度)より毎年実施している世論調査で、2007年(平成19年)に琉球大学法文学部の林泉忠准教授が行った調査によると、独立の是非を問う質問に「独立すべき」と答えたのは20.6%、2005年度(平成17年度)は24.9%となった(詳細は当該項目を参照の事)。

2017年5月の沖縄タイムス、 朝日新聞などによる沖縄県民への協同調査による「日本へ復帰してよかった?」との質問に対して、「よかった」が82%で、「よくなかった」は5%だった。「よかった」の年齢別内訳は、18歳から29歳では90%を超え、30代で86%、40代と50代で84%、60代は72%、70歳以上は74%で若い世代ほど本土復帰を肯定的に評価している。過去の調査では1981年4月で62%、87年9月で84%、92年4月で88%、97年4月で87%、2002年4月で87%、2007年4月で89%、2012年4月で83%が日本への復帰に「よかった」と答えていた。(Wikiより)



あちこち「SYOWA」 242 田端義夫「島育ち」

2017-10-26 15:53:53 | 日記
この唄もほぼ同時に聴きました。ベテランの歌声にも独特の異文化を感じていました。

田端義夫「島育ち」


田端 義夫(たばた よしお、1919年(大正8年)1月1日 - 2013年(平成25年)4月25日)は、日本の歌手、ギタリスト。本名は田畑 義夫(読み同じ)。第二次世界大戦前から21世紀初頭まで現役歌手として活躍した。愛称はバタヤン。水平に構えて持つ、アメリカのナショナル・ギター社製エレキギターと威勢のよい挨拶がトレードマークであった。

三重県松阪市生まれ。
3歳の時に父を亡くし、大正14年(1925年)に一家とともに大阪に出て行く。小学校3年の半ばで中退。赤貧のため慢性的な栄養失調であった。トラコーマにかかり徐々に右目の視力を失う。
13歳より名古屋の薬屋やパン屋、鉄工所などで丁稚奉公。その間に見たディック・ミネのギターを持ちながら歌うステージに感動し、みずから音の出ないギターを作っては河原で歌い、次第に流行歌の世界に傾倒していく(ベニヤ板の板切れで作った音の出ないギターを“イター”と呼んでいたという)。
昭和13年(1938年)、ポリドールレコードの新人歌手北廉太郎の宣伝のため「伊豆の故郷」を課題曲とした新愛知新聞社主催のアマチュア歌謡コンクールに出場することを姉から勧められ、優勝する。
ポリドールの勧めで上京し、鈴木幾三郎社長宅の書生となる。その時に知り合った同じ鈴木宅の書生が、「オースッ!」と挨拶することにヒントを得て、後にステージに出演する際に、田端義夫のトレードマークとも言うべき威勢のいい挨拶が生まれている。
昭和14年(1939年)、同じく新進作曲家の倉若晴生の手による「島の船唄」でデビュー。当時は同じ会社の先輩に倣って、眼鏡をかけ、いがぐり頭の新人歌手として登場している。デビュー曲が当時レコード販売会社の組合で制定していた《ぐらも・くらぶ賞》を受賞するという快挙に恵まれ、その後も「里恋峠」、長津義司昨曲「大利根月夜」、「別れ船」「梅と兵隊」とヒットを続け、同じ会社のスター東海林太郎、上原敏と並ぶヒット歌手の地位を築いたのである。
昭和16年(1941年)、日本橋きみ栄らとともに中国大陸に戦地慰問にも赴くが、その後は主に国内の軍需工場や基地を中心に終戦まで慰問活動を続けた。

終戦後、レコード販売を止めていたポリドールを辞し、昭和21年(1946年)にテイチクに移籍。累計180万枚を売り上げた「かえり船」のヒットを出す。戦前の流れを組むマドロス歌謡で人気を博し、「かよい船」「たより船」長津義司作曲「玄海ブルース」と昭和20年代を代表するスター歌手として岡晴夫、近江俊郎らとともに戦後三羽烏と呼ばれた。
スクリーンにおける活躍は早く、昭和15年(1940年)に松竹映画「弥次喜多六十四州唄栗毛」に旅人役として出演したのを皮切りに、戦後は、大映映画「淑女とサーカス」「肉体の門」、新東宝映画「底抜け青春音頭」「アジャパー天国」など、喜劇映画を中心に多くの出演作品を残している。

1960年、山口組組長田岡一雄らとの会食中、店に偶然居合わせた明友会構成員にその場で歌うことを要求され、これに端を発して山口組組員と明友会構成員との殴り合いが起き、両組織の全面抗争に発展する(明友会事件)。殴り合いは田端と田岡の面前で行われたが、両者が直接殴り合いに加わってはいない。この頃は暴力団関係者と芸能人の付き合いは問題とされておらず、制作や興行を仕切る暴力団関係者との関わりなしでの芸能活動は困難な時代であった。

昭和30年頃からはヒットが出ずに低迷の時期が続いた。昭和37年(1962年)、ポリドールから13年前に波平暁男の歌で発売されたものの奄美大島のみで歌い続けられていた「島育ち」(有川邦彦 作詞・三界稔 作曲)を、会社の反対を押し切ってレコーディング。田端の地道な活動が功を奏し、「島育ち」は40万枚を超える大ヒット。カムバックを果たし、昭和38年(1963年)にはNHK紅白歌合戦に初出場した。

「新曲を出し続けることが、現役歌手の証し」と、その後も精力的に歌手活動を続け、「十九の春」「昭和三代記」「百年の愛」と平成になってからも新曲を出し続けた。
一方、公演に訪れたアメリカ・ラスベガスのスロットで大金を掴むという話題も振りまいた。

平成元年(1989年)には勲四等瑞宝章を受章。
平成7年(1995年)には林伊佐緒に代わり、日本歌手協会の5代目会長に就任。平成16年(2004年)からは名誉会長の座にあった。
平成9年(1997年)には、ロック・バンドソウル・フラワー・ユニオンの別動チンドン楽団ソウル・フラワー・モノノケ・サミットと、宮崎県の高千穂でジョイント・コンサートをおこなっている。

平成13年(2001年)12月には、BEGINの比嘉栄昇が作詞・作曲して田端に提供した「旅の終わりに聞く歌は」を発表(「島唄2」からシングルカットされた「涙そうそう」のカップリングとして)。
平成19年(2007年)には、1980年代までのレコーディングマスターや、未発表曲を元にしたアルバムがGEMより発売。手書きの歌詞カードなど田端の思い入れの込められた作品で、現役ぶりをアピールした。

かねてより「90歳までは歌う」と公言しており、平成21年(2009年)の元旦(田端の満90歳の誕生日)に歌手生活70周年を兼ねた記念アルバムがテイチクより発売。語りおろしメッセージを収録し、健在であることを示した。
平成25年(2013年)4月25日、肺炎のため東京都内の病院で死去。94歳没。
生前にレコーディングした楽曲の総数は約1200曲に達した。没後に2013年度日本作詩大賞・テレビ東京特別賞と第55回日本レコード大賞特別功労賞が贈られた。
戒名は「随心院歌岳義峰大居士(ずいしんいんかがくぎほうだいこじ)」。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 241 島のブルース 「三沢あけみ」

2017-10-26 15:32:39 | 日記
この唄の歌手は突然私の前に現れて、こういうスタイルでこういうリズムの唄を唄う独特の雰囲気から日本人でありながら異文化にさらされたような心地よい違和感を体験しました。えっ、奄美。随分南じゃないか。このころから日本の南に関心を持つようになりました。沖縄研究同好会に参加して知識だけは膨らんでいきました。沖縄はどうして日本に復帰しないのだろうか。そんな気持ちも湧いてきました。

島のブルース 「三沢あけみ」


三沢 あけみ(みさわ あけみ、1945年〈昭和20年〉6月2日 - )は、日本の演歌歌手、女優。本名は宮下 登志子。

長野県伊那市に生まれる。
第7期東映ニューフェイスに合格。同期には宮園純子・三島ゆり子・結城美栄子がいる。東映へ入社し、1959年、NETのテレビドラマ『笛吹童子』で女優デビュー。1961年に映画デビューし、時代劇で活躍する。

1963年、ビクターレコードより「ふられ上手にほれ上手」で歌手デビューするが、色気がありすぎるとして放送中止という憂き目にあってしまう。しかし、続けて発売した「島のブルース」が大ヒットし、同年12月の第5回日本レコード大賞で新人賞を受賞。さらに「第14回NHK紅白歌合戦」にも初出場を果たした。歌手を本業とするため東映を退社するが、以後も映画やドラマに出演することはある。

1970年代頃の一時期、歌手活動に行き詰まりを感じ、結婚と前後して活動を大幅に縮小した。離婚を機に歌手活動を本格的に再開し、1979年に「わかれ酒」をヒットさせて第一線へと返り咲く。その後も「恋しくて」「渡り鳥」などのヒットを飛ばし、現在まで安定した人気を保ち続けている。


参考までに奄美の歴史を紹介します。

アメリカ占領時代

1945年(昭和20年)9月2日、米軍によって本土から分割され米国民政府の統治下に置かれた。同年9月22日に行われた現地守備隊と米第10軍とで交わされた降伏調印式の際、日本軍守備隊は米軍側が用意した降伏文書に奄美群島が「Northern Ryukyu(北部琉球)」と書かれていることを発見、日本から分割する意図を悟り、鹿児島県所属であることを訴えて調印しなかった。これには米第10軍司令官が譲歩し、鹿児島県奄美群島であることを確認した後に降伏した。

1946年(昭和21年)2月2日、正式に日本からの行政分離が連合軍総司令部から発表され、米国民政府の命令により本土出身者が公職から追放、本土に強制送還となった。空席となった役職には地元出身者が就任し、10月3日に臨時北部南西諸島政庁が成立した。1950年(昭和25年)11月25日に奄美群島政府に改称。しかし民選で選出された知事は日本復帰を公約に掲げた人物であったため(他の民政府も同様)、不快を感じた米国民政府は権限の縮小を決意し、1952年(昭和27年)4月1日には首班が米国民政府任命である琉球中央政府及び奄美地方庁を設立して民政府の権限を縮小、後に廃止した。

それらの米国民政府の政治的動きや、沖縄戦で疲弊した沖縄本島への資金集中、本土との分離により換金作物や物産の販売経路の途絶などにより経済が疲弊し飢餓の兆候さえ出てきていた奄美群島の住民は不満を増大させた。分離直後から始まっていた奄美群島祖国復帰運動は激しさを増し、日本復帰を願う署名が1951年(昭和26年)2月19日より始まり、署名は最終的に14歳以上の住民の99.8%に達し、マハトマ・ガンディーの非暴力運動にならい集落単位または自治体単位でハンガーストライキを行い、小中学生が血判状を提出する事態も発生した。復帰運動の指導者に奄美大島日本復帰協議会議長の泉芳朗や、ロシア文学者の昇曙夢などがいる。

日本国との平和条約の1952年(昭和27年)4月28日発効によって日本の主権が回復することが決まると、アメリカは基地が少なく復帰運動の激しい奄美群島の統治を諦め、1952年(昭和27年)2月10日にトカラ列島が[3]、残りの奄美群島も1953年(昭和28年)8月8日のダレス声明による権利放棄を受け、12月25日に返還された。クリスマスであったことから、米国は「日本へのクリスマスプレゼント」として返還を発表した。

米軍占領・軍政時代を「アメリカ世(あめりかゆ)」とも呼ぶ。(Wikiより)