主として絵についてのネット・オークションを10年くらい見ていると、大体の絵のパターンが分かってきて、刺激が徐々に鈍感になります。ところがある日Aは上のような人物画に出会い、相当なインパクトを受けました。
えっ、何だこれは、ヴァイオリニスト !? すごい迫力だ。Aはとてもびっくりして作者を見ました。久保守。何、久保・・・。タイトルは「諏訪根自子像」。諏訪・・・。誰だ !! Aがすぐ飛びつくのはいわゆる「Wiki」。
調べてみると、この人物画は、肖像画の傑作のベストテンに入っていると言います。具体的には、ある年の日経朝刊の文化欄で美術評論家・勅使河原純が
「一世風靡の女十選」と題して、9人の女優と一人のバイオリニストをモデルにして10人の画家が描いた肖像画を紹介したそうです。メンバーは、小倉遊亀の越路吹雪、梅原龍三郎の高峰秀子、小磯良平の八千草薫、北沢映月の山本安英、宮本三郎の雪村いづみ、伊東深水の小暮実千代、守屋多々志の松井須磨子、大山忠作の有馬稲子、久保守の諏訪根自子、横尾忠則の桃井かおり。欲しい !! 入札を始めましたが、゛とんどん値上がりして高嶺の花。諦めて、久保守を調べました。音楽に相当の関心を持ち、滞欧期(昭和4年渡仏)には人物画を多数描いたという。
(東京文化財研究所のHPより抜粋)
独自の詩情の漂う画風で知られた東京芸術大学名誉教授の洋画家久保守は、11月29日午後3時10分、呼吸不全のため静岡県沼津市の聖隷沼津病院で死去した。享年87。明治38(1905)年2月27日、札幌区に生まれる。同45年札幌区立北九条尋常小学校に入学し、大正3(1914)年同区立西創成尋常小学校に転校。同7年同校を卒業して北海道庁立札幌第一中学校に入学。課外クラブで林竹次郎に師事し、また三岸好太郎、俣野第四郎らを知った。この頃の作品には草土社の影響が見られる。同12年札幌第一中学校を卒業し、画家を志して上京。本郷絵画研究所、ついで川端画学校に学び、同13年東京美術学校西洋画科に入学。岡田三郎助教室に学び、また石井鶴三の指導を受けた。
昭和2(1927)年第5回春陽会展に「森の家」で初入選する。同4年生涯師とあおぐこととなった梅原龍三郎の知遇を得る。同年3月東京美術学校を卒業。翌4年3月渡仏し、アカデミー・グラン・ショーミエールに学ぶ一方、ルーヴル美術館でヴェラスケス等古典絵画の模写を行なう。また、ドイツ、オランダ、ベルギー、イギリス、スペイン等を訪ね、同年冬、カーニュで片山敏彦、中村博と共同生活を送った。同6年春イタリア各地を巡り、フレスコ画の質感に共感を覚え、後の制作への一指針を得た。同年10月帰国。まもなく北海道美術協会会員となる。渡仏中も春陽会展への出品を続けていたが、帰国の翌年、梅原龍三郎の勧めにより同会を退いて国画会に参加。同年の第7回国画会展に「巴里サン・ミシェル橋」「ノートルダム・ド・パリ」等滞欧作10点を出品して同会会友に推される。同12年、同会の会友制が廃止されたのに伴い国画会同人となる。同13年第2回新文展に「かんな」を初出品し入選。後、同14年第3回新文展に「群鶏」、同15年紀元2600年奉祝展に「甕」、同16年第4回新文展に「石庭」、同18年第6回新文展に「三つの林檎」を出品するなど、国画会の他に官展にも出品した。この間、同17年第6回佐分賞受賞。同18年国画会会員となり、同19年6月東京美術学校油画科講師、同年8月同科助教授となった。
戦後は国画会の他に日本国際美術展、現代日本美術展、国際具象美術展に出品。同48年以降は国際形象展に招待出品した。同41年
東京芸術大学教授となり、同47年停年退官、同年5月国画会をも退き、以後は団体に属さず、個展、国際形象展、在住地の世田谷美術展等に出品。同57年から毎年、東京日本橋三越で「久保守展」を開催した。同59年東京芸術大学名誉教授となる。同60年11月、静岡県伊東市八幡野立土にアトリエを建てて転居。同61年6月、郷里の北海道立近代美術館で「形象のソリスト-久保守展」が開かれ、初期から昭和50年代までの作品が展示された。初期には自然を再現的に描写する写実的作風を示し、
滞欧期には人物画も多数描いたが、昭和30年代に入ると、静物画、風景画が多くなり、人物は幾何学的形体にデフォルメされて画面の一構成物として登場するようになった。色彩も梅原が初期から認めた独自の調和を持つパステル調の明るく淡雅なものへと変化した。
代表作に、画家が少年期から好んだ音楽に関連する題材を描いた「残響」等がある。
Aは次に諏訪根自子の人物像を探りました。
諏訪根自子 Nejiko Suwa_"Perpetuum Mobile" ペルペテウム・モビール#Ries#
何と素晴らしい美貌のヴァイオリニストではないですか。知らなかった。感動しやすいAはしばし見とれていました。また、演奏も素晴らしい。いよいよ彼女にものめりこんでいきました。
(諏訪根自子について「Wikiより」)
1920年(大正9年)1月23日 - 2012年(平成24年)3月6日)は、日本の女性ヴァイオリニスト。本名:大賀 根自子。可憐な容姿であったことから国民的な人気を得て「美貌の天才少女」と一世を風靡したほか、ヨーロッパに渡ってベルリン・フィルなど各地の交響楽団と共演を果たして国際的に活躍した。
ベルギーの駐日大使バッソンピエールが彼女に注目し国王らも歓迎したため、外務省が後援して1936年ベルギーに留学、1938年パリに移って、原智恵子の紹介でカメンスキーに師事するが、翌年第二次世界大戦が勃発。しかし帰国せず、ドイツ軍によるパリ占領後もとどまって、
1942年田中路子を頼ってドイツに移り、クナッパーツブッシュ指揮のベルリン・フィルと共演、ゲッベルスからストラディヴァリウスと伝えられるヴァイオリンを贈られる。以後ベルリンとパリを往復するが、パリ滞在中、ノルマンディー上陸作戦があり、パリを脱出してベルリンへ向かい、スイスで演奏会を開いたりするが、ベルリンが陥落してアメリカ軍に拘束され、米国を経て帰国する。
何と、何と、映画にもなりそうな人生ではないですか。それにしても、田中路子とはどんな人物なのか。ますます興味津々。
(田中路子について「Wiki」より)
田中 路子(たなか みちこ、1909年7月15日 - 1988年5月18日)は、日本の女優、声楽家。その生涯の半生以上を欧州で過ごした。「MICHI」の愛称でドイツ語圏で有名だった。
1909年に、東京府神田区(神田鈴木町17)で日本画家・田中頼璋の一人娘として生まれる。17代目中村勘三郎とは根岸小学校の時に同窓だったことがある。小学校卒業後文化学院に入学したが、雙葉高等女学校(現雙葉中学校・高等学校)に転校。関東大震災後に母方の実家である広島市へ移住し、広島英和女学校(現広島女学院中学校・高等学校)に転学した。広陵中学(現・広陵高校)のエース銭村辰巳に初恋をした。4年後帰京し、東京音楽学校(現・東京芸術大学)へ入学。両親は1930年、広島市の饒津神社近くに家を買い隠居した。
東京音楽学校声楽科本科在籍中に齋藤秀雄と不倫の噂が立ち、いたたまれなくなった路子は近衛秀麿の薦めもあってウィーンへハープを学ぶ予定で留学、1930年に渡航する。 ウィーン国立歌劇場でマリア・イェリッツァのサロメを聴いて感動し声楽に転向、ウィーン国立音楽大学声楽科に入学。
後見人の駐墺日本公使夫妻や下宿先の男爵夫人公使の計らいで、
ウィーンの社交界にデビュー。時の財政界の重鎮で40歳年上のユリウス・マインル2世(オーストリア大手コーヒー商の2代目)と出会い、結婚。夫の支援を得て、その後はウィーンを中心に歌手・女優としても活躍、戦争の色濃くなってきた1937年にはその活躍の場を英仏に拡げる。
女優として、また恋多き女性として、早川雪洲やカール・ツックマイヤー、リヒャルト・タウバー等、多くの演劇人らと交際を続ける中、ドイツ人のシャンソン歌手で俳優・演出家ヴィクター・デ・コーヴァと運命的な出逢いを遂げ、1939年(1941年とも)にマインル2世と離婚、同年にマインル2世を仲人に迎えデ・コーヴァと再婚する。同時期にベルリンに住んでいた邦正美によると、デ・コーヴァとの結婚に際し、アーリア人の混血を望まないヒトラーから路子の避妊手術を条件とされ、二人はそれに同意したという。
二人は第二次大戦中から戦後の混乱期に、ヒルデガルト・クネフ等多くの文化人を自邸に擁護し、後年同邸は『ベルリン・平和の島』と伝説に謳われた。
戦後、日独間の民間大使としても活躍し、数回の帰国凱旋公演を行う。大賀典雄、小澤征爾や若杉弘を初めとして、欧州の楽壇へ広く日本人の音楽家を紹介した功績も大きい。ヘルベルト・フォン・カラヤン、カール・ベーム等とも親交が篤く、またヴィリー・ブラント、ヘルムート・シュミットの両元ドイツ首相とも交友があった。1950年には、早川雪洲に対し、1937年の在仏時に渡した毛皮や宝石の代金4万ドルの返還を求めて裁判を起こした。
えっ、田中頼璋(島根県出身の日本画家、Aの敬愛する画家です)の娘さん !! しかも小澤征爾を欧州楽壇へ紹介した !! ・・・どんどんAの興味・関心の世界が広がっていきました。
すごいことだ。1枚の絵からAは素晴らしい経験をし、知識を広げることがでまきした。
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