時々思い出して心の底で口遊む唄です。終戦の前年に生まれ、戦後の混乱した時代の中で育った私は、言葉は悪いですが、流行歌のように子どもの頃唄っていました。シベリアという地名も知ってはいましたが、そこでどんなことが起こっていたか、当時は分かりませんでした。ただ、故国へ帰りたいという切ない思いが少年の心に染み込んでいきました。
異国の丘
『異国の丘』(いこくのおか)は、シベリア抑留の兵士の間で歌われていた日本の歌謡曲の楽曲であり、およびそれをモチーフとして1949年(昭和24年)に製作・公開された日本の映画である。
歌謡曲
作詞作曲
増田幸治作詞(佐伯孝夫補詞)、吉田正作曲。
1943年(昭和18年)に陸軍上等兵として満州にいた吉田正が、現地で療養中、部隊の士気を上げるため作曲した「大興安嶺突破演習の歌」が原曲である。戦後、シベリアに抑留されていた兵士の間で歌われ、抑留兵のひとりだった増田幸治が作詞した。非常に強い望郷の思いを歌っている。原題は『昨日も今日も』である。
歌唱
竹山逸郎、中村耕造の歌唱で、1948年(昭和23年)9月、ビクターレコードから発売された。
経緯
昭和23年8月、NHKラジオの素人のど自慢でシベリア復員兵の中村耕造が、よみ人しらず「俘虜の歌える」と題して歌った。しかし、よみ人しらずで歌ったため伴奏のアコーディオンがついていけなかったこともあり、その回は鐘ひとつ(不合格)で終わったという。しかし、その後(翌週とのこと)、再びこの曲を歌う者が現れた。その際は、アコーディオンがその曲を知っていた(前回よみ人しらずで歌ったため)こともあり鐘三つで合格したのだが、「この曲は一体何の曲?」と話題となり、NHKがラジオにて作曲家をさがし始めることとなった。
しかし、募集直後から「私が作曲した」と偽ったものが何人も応募し、作曲家探しは混乱を極めてしまった。
一方、同月、2月に舞鶴港へ復員し、静養の後、入隊前の会社に復帰した吉田正がその話をたまたま聞き、NHKへ名乗り出たことにより、正式な作曲家が確定。翌月補作詞した後この曲が世のものとなり、また吉田正が大作曲家としての足がかりとなった。
名曲として様々な歌手によって歌い継がれており、シングルとしては1961年に三浦洸一のカバーが発売されている(レコード番号:VS-601)。(「Wikipedia」より)
異国の丘
『異国の丘』(いこくのおか)は、シベリア抑留の兵士の間で歌われていた日本の歌謡曲の楽曲であり、およびそれをモチーフとして1949年(昭和24年)に製作・公開された日本の映画である。
歌謡曲
作詞作曲
増田幸治作詞(佐伯孝夫補詞)、吉田正作曲。
1943年(昭和18年)に陸軍上等兵として満州にいた吉田正が、現地で療養中、部隊の士気を上げるため作曲した「大興安嶺突破演習の歌」が原曲である。戦後、シベリアに抑留されていた兵士の間で歌われ、抑留兵のひとりだった増田幸治が作詞した。非常に強い望郷の思いを歌っている。原題は『昨日も今日も』である。
歌唱
竹山逸郎、中村耕造の歌唱で、1948年(昭和23年)9月、ビクターレコードから発売された。
経緯
昭和23年8月、NHKラジオの素人のど自慢でシベリア復員兵の中村耕造が、よみ人しらず「俘虜の歌える」と題して歌った。しかし、よみ人しらずで歌ったため伴奏のアコーディオンがついていけなかったこともあり、その回は鐘ひとつ(不合格)で終わったという。しかし、その後(翌週とのこと)、再びこの曲を歌う者が現れた。その際は、アコーディオンがその曲を知っていた(前回よみ人しらずで歌ったため)こともあり鐘三つで合格したのだが、「この曲は一体何の曲?」と話題となり、NHKがラジオにて作曲家をさがし始めることとなった。
しかし、募集直後から「私が作曲した」と偽ったものが何人も応募し、作曲家探しは混乱を極めてしまった。
一方、同月、2月に舞鶴港へ復員し、静養の後、入隊前の会社に復帰した吉田正がその話をたまたま聞き、NHKへ名乗り出たことにより、正式な作曲家が確定。翌月補作詞した後この曲が世のものとなり、また吉田正が大作曲家としての足がかりとなった。
名曲として様々な歌手によって歌い継がれており、シングルとしては1961年に三浦洸一のカバーが発売されている(レコード番号:VS-601)。(「Wikipedia」より)