とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」604【高画質】 久保田早紀 - 異邦人 (シルクロードのテーマ)

2019-02-15 00:43:57 | 日記
不思議な世界観を現出した名曲ですね。この映像は永久保存版です。


【高画質】 久保田早紀 - 異邦人 (シルクロードのテーマ) 【夜のヒットスタジオ 生演奏】



久米 小百合(くめ さゆり、旧姓:久保田(くぼた)、 1958年5月11日 - )は、日本のシンガーソングライター、キリスト教音楽家、日本バプテスト連盟加盟教会の教会員である。東京バプテスト神学校神学科修了。
1979年から1984年までは久保田 早紀(くぼた さき)として活動していた。


久保田早紀としてデビュー

1979年に短大を卒業すると、その年のうちに三洋電機がタイアップに付いてデビューが決まる。
デビュー曲の候補には『白い朝』、『夢飛行』、『25時』の3曲があり、『白い朝』はゆったりとした感じの曲だった。三洋電機の意向により『白い朝』に決定した後、CM映像がアフガニスタンで撮影されたことや、当時流行していたエーゲ海・地中海などの異国情緒などが意識されて、歌詞・曲ともに大幅なアレンジが施された。そして最終的に、音楽プロデューサー・酒井政利の判断で『異邦人』と改題され、「久保田早紀」のアーティスト名で、1979年10月1日にレコードデビューした。なお、『異邦人』には「-シルクロードのテーマ-」というサブタイトルが付されている。

タイアップされたカラーテレビのCMが放送されるにつれ、そのオリエンタルで神秘的な曲調や歌声に注目が集まり、じわじわと売り上げを伸ばしてブレイク。12月13日に、「ザ・ベストテン」に第5位で初登場した際にはその美貌にも注目が集まる。12月27日には第1位を獲得、1980年1月17日まで3週間連続(正月休みを挟み実質4週)で1位の座に留まり、その後3月6日まで12週の長きにわたり連続ベストテン入りする大ヒットとなった。同年12月に発表したファーストアルバム『夢がたり』もヒットし、一躍話題のニューミュージック歌手となる。金子らの方針もあって、当時のテレビ出演時にはピアノ弾き語りのスタイルを通した。

デビュー後

2作目のアルバム『天界』(1980年6月)では、引き続き得意のオリエンタル・エキゾチック路線を狙う。
3作目のアルバム『サウダーデ』(1980年11月)では、ファドへの憧憬から現地レコーディングを敢行し、前半の5曲(LP盤のA面)は、ファドミュージシャンたちの演奏をバックにしたポルトガル録音版となっている。
子供の頃に日曜学校に通うなど、キリスト教に親しむ環境はあったが、ポルトガルでのレコーディングから帰って来ると「もう一度教会に通ってみたい」と思うようになったという。

1981年の『オレンジ・エアメール・スペシャル』は、これまでとは曲調をがらりと変えた、夏らしいポップな曲で、「キリンオレンジ」のCMにも採用された。
同年、めじろ台のキリスト教会でプロテスタントのバプテスマ(浸礼での洗礼)を受ける。
その後はヨーロピアン調の曲なども手がけ、シンガーソングライターとしての活動を続けたが、「異邦人の久保田早紀」のイメージはぬぐえず、デビュー時のインパクトに勝る活動はできなかった。

「久保田早紀としてはもう十分に活動した」との思いもあり、音楽家の久米大作との結婚をきっかけとして、1984年11月26日東京・九段会館でのフェアウェルコンサートを最後に芸能界を引退。商業音楽活動を中止する。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 603 花街の母④(エピソード入り) 金田たつえ (1973)

2019-02-12 00:05:23 | 日記
花街ものはこの曲も大好きです。ある物語が綴られています。「エピソード」を聴くと、今まで私が考えていた物語とは違ってきましたが、しかし、この唄は不滅の説得力を持っています。


KAN734 花街の母④(エピソード入り) 金田たつえ (1973)1979・180824 vL HD



金田 たつえ(かねだ たつえ、本名:梶原 たつえ、1948年(昭和23年)4月12日 - )は、演歌歌手。北海道砂川市出身。


経歴

1961年、日本民謡協会全国大会で「江差追分」を歌い優勝。1965年(昭和40年)上京、同年17歳で所属事務所の社長と結婚。1969年、「江州音頭」「河内音頭」を発売し、民謡歌手としてデビュー。

1973年に「花街(はなまち)の母」で演歌に転向。発売当初は大阪地区限定の自主発売という厳しい条件付だったにもかかわらず、歌詞が自身の人生と似ているところがあるということから「何年かかっても、この曲は必ず世に出したい」と決心する。

そして、地道な努力が実を結び、発売から6年目に全国的な大ヒット曲となり、15年間で250万枚以上を売り上げた。1979年には『第30回NHK紅白歌合戦』に初出場。多くの賞を受賞し、テレビドラマ化、映画化もされた。

毎年の大晦日の『年忘れにっぽんの歌』にも出演している。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」602 笹みどり 下町育ち

2019-02-09 17:22:03 | 日記
昭和世代がテレビ画面に釘付けになる歌手の一人です。昭和はいい。素直にそう感じさせる歌手です。「花街育ち」という言葉も痺れますね。画面をよく視ると、目が潤んでいます。情感が籠っています。


笹みどり 下町育ち



笹 みどり(ささ みどり、1947年10月3日 - )は、日本の演歌歌手。本名:村上 勇喜子(むらかみ ゆきこ)。


経歴・人物

神奈川県足柄下郡湯河原町出身。

1965年、テレビドラマの主題歌『女の舞台』を歌ってデビュー。続く『下町育ち』が大ヒットとなり、自身の代表曲となった。さらに『女の絶唱』『男の償い』『母子舞い』などを歌い、「テレビ主題歌の女王」と呼ばれる。

1966年、『下町育ち』で「第17回NHK紅白歌合戦」に初出場した。

1976年、公演先の福岡県北九州市にてクモ膜下出血を発症し、その翌年には側脳室内頚動静脈奇形という病気で倒れて歌手活動を休止、以後、リハビリに励む。

1983年に奇跡のカムバックをとげ、『浅草しぐれ』をヒットさせた。1985年には歌手生活20周年記念アルバムをリリース。1995年、歌手生活30周年記念リサイタルを開催し、記念CDを発売。

現在も活躍を続けている。2010年1月26日に「NHK歌謡コンサート」(NHK総合)に出演、『下町育ち』を熱唱。曲紹介前のトークコーナーでは小田切千(NHKアナウンサー)とのやり取りで、トレードマークとも言える独特の笑い声を随所で出し、笹とレコード会社(クラウンレコード)が一緒で同期デビューだった美川憲一からは「この人ホントに笑い上戸なのよ」と茶化されていた。

2014年1月21日、「ありがとう浜村淳です」(MBSラジオ)に出演。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 601 大人になれば 大場久美子

2019-02-07 00:03:32 | 日記
典型的なアイドル。素直な可愛さが大好きでした。でも・・・精神的に苦しんでいたのですね。テレビで初めて知りました。いや、そういう私も同じ症状で苦しんでいた時もありました。いや、今も続いています。だから、余計に好きになりました。

大人になれば 大場久美子



大場 久美子(おおば くみこ、1960年1月6日午前4時27分 - )は、日本の女優、歌手。70年代アイドル。心理カウンセラー。埼玉県川口市出身。三人兄妹の長女(兄一人、弟一人)。オフィスキコ所属。


略歴

1960年1月6日 埼玉県川口市に生まれる(後に鳩ヶ谷市であった市域で育つ)。

1970年 友人の応募で東京宝映テレビのオーディションに合格。同社が主宰する劇団・「劇団フジ」に入り、児童タレントとして活動。
1974年 日本テレビ系列のテレビ番組「愛の山河」に出演。テレビデビューを果たす。

1975年 NETテレビ(現・テレビ朝日)「あなたをスターに!」で特別賞を受賞したのをきっかけに、芸能プロダクション「ボンド企画」にスカウトされ、芸能活動を開始。(この時は、堀越高校在学中だった。)

1977年6月5日 東芝EMI(現:ユニバーサルミュージック)より『あこがれ』で歌手デビュー。翌月公開の東宝映画『HOUSE/ハウス』では準主役に抜擢され、女優としても本格始動する。「一億人の妹」というキャッチフレーズの下、その後立て続けにシングル曲を生み出した。

1978年 同年6月12日から翌年9月24日まで約1年3ヶ月間放送されたTBS系のテレビ番組「コメットさん」(第2期、全68話)で2代目コメットさんを務め、全国的にその名が知れ渡り、ブロマイドが爆発的に売れ、一躍トップアイドルになる。
1979年3月5日 7枚目のシングル「スプリング・サンバ」発売(オリコン最高位44位、シングル売上3万枚)。これが最大のヒット曲となり、彼女の代表曲となる。

1979年10月19日 「さよならコンサート」を日本武道館で開催。「私は女優の世界にお嫁に行きます」との言葉を残し、歌手としての活動を一旦終了した。記者会見の際になぜ歌手業をやめるのかとたずねられた際に「私は音痴だから。」と自ら発言し物議を醸した。ただし、後のインタビューでは「歌手活動は最初から数年(2年程度)で止めるつもりだった」とも述べている。

1984年7月25日 10枚目のシングル「悲しみ貯金箱」発売。明確な表明をしないまま、なし崩し的に歌手活動を再開した。
1984年 同年発売の写真集『大場久美子』でヌードを披露した。
1987年 実家がもらい火で全焼する。

1990年 サイドビジネスで京都市でレストラン『ホワイトバス』の経営を始めるが、経営不振で2年後に閉店する。
1992年 当時の所属事務所ボンド企画が倒産。これを受けて、翌年、個人事務所「オフィス大場」を設立。彼女の母親である大場タカ子が事務所のマネージャー等を務めて、母親と二人三脚で活躍する。

1993年6月17日 東映ビデオから7月9日発売予定だったVシネマ『スキャンダラス・ボディ』の劇中におけるヌードシーンの吹き替えをめぐって発売中止を求める裁判を起こした。結局、当該のシーンを大幅にカット、追加撮影を行う等の処置を施し、同年9月25日に発売された。

1994年4月12日 サイドビジネスで経営していたレストラン『ホワイトバス』の負債の残金1億400万円を返せないことから、同日、自己破産申告が認められた。
1999年6月18日 母のタカ子死去(享年62)。 
2000年2月1日 6歳年下のダンサー兼振付師の高橋てつやと結婚。

2000年 林寛子、あべ静江、沢田亜矢子と共に自称“熟女ユニット”『女盛りゲザデレタ』を結成。同年6月21日、シングルCD「Animal Blood」をリリースした。
2005年12月25日 高橋てつやと離婚。理由は多忙によるすれ違い生活や、当時彼女が患っていた「パニック障害」の影響等である。

2008年1月18日 この日に放送されたフジテレビ「独占!金曜日の告白」にて、8年間パニック障害に悩まされていたことを、初めて公に告白。放送後、大反響を呼んだ。
2008年2月23日 「KUMIKO OHBA 35th Anniversary Live」を東京で開催。ライブ中、単独コンサートとしては30年ぶりに「コメットさん」の衣装を披露する。

2009年10月3日 認知行動療法を学び、日本推進カウンセラー協会の心理カウンセラーの資格を取得する。
2011年5月19日 10歳年下の会社員の男性と再婚したことをブログにて公表。
2012年4月4日 活動に協力している「一般社団法人UKC JAPAN(現・J-Taz'sアニマルシェルター)」のために、28年ぶりに11枚目のシングル「ボクの命〜20キロ圏内のペット達の想い〜」を配信限定で発売。

2014年 7月8日 林寛子とコンビを組み、アマ名義で「キングオブコント2014」(第7回大会)に参加を表明。『○1○2』(マルイチマルニ)というコンビ名で出場したが、2回戦で敗退となる。
10月7日 この日発売の「週刊アサヒ芸能」で35年ぶりの水着姿を披露。その後も「週刊ポスト」などで披露する。
2015年 12月18日 フットリーディングアドバンスセラピスト(足底反射療法士)の資格を取得する[注釈 12]。
12月31日 父の宣夫死去(享年84)。

2016年 9月 浦安市の会員制美容室の一角を借りて、フットリフレクソロジーサロン『和萌憂つぼ』のビジネスを始める(2017年10月に閉店)。
12月22日 音楽健康指導士2級の資格を取得する。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」600 さらば愛の季節 : ヒデとロザンナ~Full version

2019-02-06 00:37:51 | 日記
いよいよ600回。感激です。
この回にふさわしい曲を選びました。仲のいい夫婦。羨ましいです。デビュー当時びっくりしました。日本語が上手な外国人とのデュエット。結婚するとは思っていませんでした。・・・ロザンナは日本に溶け込もうとして努力したようです。でも、夫の死。・・・この映像を見つめていると、どうしてか涙がポロポロ溢れてきました。


さらば愛の季節 : ヒデとロザンナ~Full version


ヒデとロザンナは、日本の歌手、のちに結婚して夫婦デュオとなった。


概略

水木英二としてのソロ時代~ボサノヴァ・デュオ「ユキとヒデ」を経た出門英が、1968年にイタリア出身の少女ロザンナ・ザンボンと「ヒデとロザンナ」を結成。デビュー曲のB面だった『愛の奇跡』に火がつき大ヒット、一躍売れっ子歌手の仲間入りを果たす

。1970年に発売された『愛は傷つきやすく』が初のオリコンシングルチャート1位を獲得。売上枚数も『愛の奇跡』を上回る大ヒットとなり、その年のNHK紅白歌合戦に初出場を果たす。以降も『ふたりの関係』、『望むものはすべて』、『追想』などヒット曲を生む。

1975年2月に結婚。二男一女に恵まれる。長男は音楽家・画家の士門(しもん)、クリエイター集団風の人、三味線ユニットエツナブメンバー。次男はミュージシャン、バンドsmorgasメンバー(MC)の来門(らいもん)で2008年2月、大麻取締法違反で警視庁碑文谷警察署に現行犯逮捕されるも後に不起訴となる。

長女はモデルの万梨音(まりおん)、2004年6月結婚、出産。

1990年6月17日、ヒデが結腸がんで47歳で逝去。

本土復帰前の沖縄県で放送されていたテレビ番組にヒデとロザンナがゲスト出演した際、アシスタントとして出演していた少女の写真をマネージャーが持ち帰った。その写真がCBS・ソニーの関係者の目に留まり、歌手デビューするきっかけとなった。その少女が、のちの南沙織である。

紅白歌合戦には白組エントリーとなった。(「Wikipedia」より)