衆道者の切腹
月も傾きもうすぐ空が白み始める。
「後れてもならぬ。名残りは尽きぬ、逝くか。」
死ぬる支度とて何ほどのこともなく、新しい下帯だけを互いに締めた。
「そなたはこれを。」
源吾が自分の脇差を差し出した。
「わしはそなたの短刀を使わせてもらおう。」
鞘のままに各々膝前に置いて、二人は向かい合って胡座を組んだ。
源吾にはすべてが夢のように思えた。俺は今衆道に殉じ、この若者に腹切らせるために死ぬる。生きたいと思って生きてきたのではなかった。心の底で腹切り死にたいと望みながらも果たせず、その機を求めて彷徨っていた。そしてやっと辿り着いた。何もかもが今終わる。これでいい、これであの方との約束も果たせる。
死を前にして胡蝶丸はすでに色稚児とは見えぬ。
「胡蝶よ、そなたはもうわしと同心。これは情死ではない、男として衆道契りに殉じて死ぬる。最期は刺し違えて共に逝こうぞ。」
「私は契りに殉じて切腹致します。」
しっかりした声で前を見て礼をした。か細く見えた身体も、頼もしくも凛々しく見えた。
胸元から腹を撫ぜ下ろすと、胡蝶丸は不思議にも懐かしい思いに捉われた。切腹する、今自分は腹を切る、そう言い聞かせて下腹を揉んだ。自分は今男子として死ぬる。色稚児と蔑すんだ者たちの顔が浮かんだ。かって見た腹切る若者を思った。あのように今死ねる。男の証しがすでに誇らしげに立ち上がっていた。鞘を払い刀身を懐紙で巻いた。息苦しい緊張にすべての筋肉が硬直し震えていた。息が出来なかった。大きく息を吸う。肌が紅潮していくのがわかる。張りつめた静寂の時が流れていた。
ぎこちない手の動きが、激痛への怖れと闘っているのをうかがわせた。細腰伸ばして腹を撫ぜ揉む姿はさすがに哀れとも見える。源吾は黙ってそれを見ていた。遠い記憶が浮かぶ。そうだ、やはりこれはあの時の俺だ。源吾は心の中で叫んでいた。あの時俺は恐ろしさにかられて逃げた。恐怖が蘇る。彼は自分を励ますようにふぐり袋を握り締めた。
胡蝶丸が意を決して突き立てる。虚しく肌を傷つけて刃先は跳ね返された。前に屈んで幾度か突き立てようと試みるが非力は覆えず、腕が震えてためらいの傷をつけるばかり。
「恥ずかしゅうございます、私にはやはり・・・。」
悔しさに涙がこぼれた。
「切れませぬ・・・。このような軟弱者、いっそ楽に殺して下され。」
膝を崩して嗚咽をもらした。
源吾が前の短刀を取る。布で巻き込み握り締めた。両膝立ちに伸び上がる。もう迷いはなかった。すべての筋肉に力を込めた。下腹を撫で揉む。一瞬懐かしい顔を見た。自分の前で見事に腹を切っていった人々が誘っていた。
「源吾、男子(おのこ)として果てよ。」
声が聞こえた気がした。
「見よ胡蝶。」
源吾が叫んだ。呼ばれて顔を上げる胡蝶丸。その刹那、源吾は両手で振りかぶった短刀を腹にたたきつけた。白い股間が一気に赤く染まっていった。
「後れるでない、造作もないこと。そなたの想いも見せてもらおう。」
苦痛に顔を歪めながら、前を睨んで声を震わせる。
「うむぅぅ・・・、さあ・・胡蝶・・・男子であろうが・・・。」
「源吾様・・・。」
伸び上がり、腹に突き立つ短刀を握ったまま源吾は目を離さなかった。しばらく二人は見詰め合った。
「契ったであろう、死に遅れては・・ならぬ・・・。」
逞しくも厚い胸板が震えて汗を噴く。
「契った・・・。死に遅れる・・・。」
胡蝶丸の心の中で何かが弾けた。不思議な光景が浮かぶ。周囲の人々が次々と腹を切っていた。男も女も腹切り悶えていた。源吾の中の記憶だと胡蝶丸は直感した。源吾が目で頷いた。
「そうだ、そなたはわしだ。あの時のわしだ。切れ、切るのだ。死に遅れてはならぬ。」
すべては錯乱の中の夢であったのかも知れない。
胡蝶丸は見詰め合ったまま膝立ちになる。操られているように両手で握り締めた刃を腹にたたきつけた。刃先は肌を突き破り臓腑までも貫いた。激痛が走った。
「あううううう・・・。」
唇を噛み締めて叫びをこらえる。腹に突き立つ刃を握って、膝立ちに若者の肉のすべてが震え痙攣していた。血がゆっくりと滴り始める。
「それで・・・よい・・。ようした・・・。」
二人はすべてを共有しているのを感じていた。心が通い合い一つになった。源吾が満足そうに顔をほころばせる。
「共に逝こうぞ。」
源吾の膝間はすでに血の池、腰を頼んで右に割いた。傷口が開いて、臓物さえもが溢れ垂れた。
「うむうううう、むうううう。さあ、わしに倣うて・・・。」
励まされて、胡蝶丸も腰悶えさせながら引き回す。
「あううう、うううう。」
身を捩じらせ、喘ぎ呻いた。
「胡蝶・・・。見事ぞ、見事な切腹ぞ。」
源吾がにじり寄り、胡蝶の腹に刺さった脇差を引き抜いた。胡蝶丸も源吾の腹から短刀を抜き出す。互いの胸に刃先を当てた。これが最期としばらく見詰め合う。
「逝こうぞ。来(こ)よ。」
胡蝶丸が見上げながら身を投げる。源吾が胸板突き上げると、骨を断ち肉を裂く手応えを感じて刃先は背までも貫いた。胡蝶丸の目が満足そうに腕の中で見上げていた。
「これで・・・、これでもう・・・。」
男として散る甘美な死が胡蝶丸に訪れようとしていた。突き上げる快感が全身を貫いた。何度も精を放つ。抱きしめられて、彼はゆっくりと闇に包まれていった。
刺し違えるはずの短刀が、胸肌を裂いただけで胡蝶の手からこぼれて転がった。胸に脇差を突き立てられたままの胡蝶を横たえる。血達磨になりながら源吾は死に切れぬまま残された。
「やはりわしは、楽には死ねぬか。胡蝶の顔を見ながら逝くのが幸せかもしれぬ。」
転がった短刀には手が届かず、脇差は胡蝶を貫いて抜きもならず。流れ出す血が力を奪っていく。やっとすべてが終わったと思った。激痛に襲われながら安堵で満ち足りた気分だった。意識が朦朧としていく。寄り添うて死が訪れるのを待つ。眠るごとくの顔を見ながら美しいと思った。見ているだけで心が安らぐ。
「待っていよ、わしもすぐ行く。もう離さぬ。そなたはわしをここまで導いてくれた。」
源吾は愛おしそうに髪を撫でた。二人の魂が溶け合う気がした。苦しみはもうなかった。安らかな静寂の中で気が失せていく。いつか外が白み始めた。