腹切りの宿縁
源吾が戻ってきた時はもうとっぷりと暮れていた。若者は部屋の隅にうずくまって待っていた。飛びつくように抱きついた。
「遅うなった、すまぬ。灯りもつけなんだのか。」
「もうお戻りにはならぬかと思うておりました。」
彼は嬉しそうに笑いながらも目に涙を浮かべていた。
「戻らなかったらどうする心算であった。」
源吾は宥めるように抱いてやる。
「よほどに心細かったであろう、もうどこにも行かぬ。酒を少し手に入れた。」
灯りの下で、酒は心を和ませた。
「共に死のうとするに、迂闊にもそなたの名前を聞いていなかったな。」
「胡蝶丸と申します。あなたの名前は存じておりました。」
顔を上げて、若者が苦笑しながら答える。
「胡蝶丸、胡蝶丸・・・。よい名だ。」
口の中で何度も名前を繰り返して源吾も笑った。
「置き捨てにされたかと思いました。」
胡蝶丸が下を見たままに言った。
「私一人が足手まとい、あなた様一人ならどのようにも落ちられようと思えて。お許し下さい。」
「わしは夕刻、そなたを落とせる道を探しに山を下った心算であった。そのわしが命惜しさに逃げようとして、そなたの名前を聞き忘れたのに気がついた。」
源吾も下を向いて顔を見なかった。
「それゆえお戻りなされたのか。」
「ひと時とはいえ、わしはそなたを捨てようとした。すまぬ・・・。」
源吾は苦いものを呑み込むように酒をあおった。
「途中、囚われた若者が嬲(なぶ)られ殺されるのを見た。聞けば明朝、総攻めと決まったとか。残る者は一人も生かすなとの厳しい下知が下されていた。そなたが惨くも殺されるのを思い描いて、共に死ぬると約したことを思い出した。そなたをあのように死なせとうはないと思うた。」
「私ごときと死ぬためにお戻り下されたのか。私などはいつどのように果てようとも・・。お逃げなさればよろしかったろうに。」
手に持つ酒を呑んで一息ついた。
「待つ間(ま)に思うておりました、昨夜の事昼の事。あなたとは前世からのご縁、私はきっと、あなたに会うために生まれてきたと思いました。置き捨てられたとも思いました。悲しゅうございました。」
源吾には辛い言葉だった。
「もはや生きる望みは捨てました。死ぬるならせめて惨めには死にたくはないと思いました。お戻りにならぬならそれも前の世からの決め事、かなわぬまでも一人で腹を切ろうと思いました。私には主(あるじ)もなく義理もなく、あなた様への想いの証しに腹を切ろうと。」
涙が溢れた。胡蝶丸は下を見て顔を上げなかった。
「過ぐる日に、わしは落城の憂き目を見、主(あるじ)殿や側小姓、女までもが見事な最期を見ながら、命惜しさに城を落ちた。気の迷いとはいえ、またもそなたを捨てようとした。今度こそ侘び共々、わしも必ずそなたと共に腹を切る。」
顔を上げて源吾が言った。胡蝶も顔を上げて見詰め合う。
「わしもそなたとは前世からの因縁、宿縁としか思えぬ。逃げようとしたわしを許してくれるか。」
胡蝶丸がにじり寄り、源吾の膝に身体を投げた。
「このようにお戻り下された。もう離しませぬ。」
彼は泣きながら逞しい腰にしがみついた。
「惨めには死ぬまい、共に最期を飾り、腹切り死のうな。」
源吾は、柔らかい背を優しく撫でた。