われらしんじんのこども

真人幼稚園の子どもたちの日々の様子や、
  楽しいエピソードなどをお伝えしています。

育てる、ということ。

2007-06-15 13:33:33 | Weblog
『育てる、ということ。』

 あじさいが色づき始めた初夏の園庭のあちらこちらで、いま様々な植物が花をつけています。その中のいくつかは子どもたちが大切に育てているものですが、たとえばどんなものがあるのかというと・・・。
 ジャガイモ、これは年長組が育てています。ジャガイモの花は薄紫色であまりジャガイモらしくない花が咲きます。ではジャガイモらしい花とはどんな花かと訊ねられてもよくわかりませんが、とにかくジャガイモのごつごつした感じとは違う可憐ではかなげな花なのです。それから花が咲くのはまだ先ですが、プランターに植えた稲も太陽の光をたっぷり浴びてぐんぐん伸びてきています。
 次にきゅうり。これは年中組の子どもたちが育てています。きゅうりは元気な黄色で花びらも大きく、いかにも瓜の花といった感じがします。このほかにプチトマトも育てていますが、やはり元気な黄色の花をつけています。
 年少組の子どもたちは野菜を育てる活動はありませんが、それぞれのクラスごとに種を植えた朝顔の双葉がちょうど顔を出してきていて、それを毎日嬉しそうに眺めたり、水やりをしたりしています。全クラスが毎年植えているこの朝顔ですが、その種は代々先輩たちが育て、種をとってそれを植え、秋にまた種を取るというのを繰り返してきた歴史ある種たちです。(もちろん、それだけでは足りないので少しずつ買い足してはいますが)
 これはとりもなおさず、いのちはつながっているのだということを彼らに気づかせたいからなのです。それはけっして特別なことではなく、たとえば花壇に咲く一本の朝顔にもいえることなのだと。
 秋にこの朝顔の種を取る作業を子どもたちとしていていつも思うのですが、子どもたちはみなこの作業をとても嬉しそうに、またとても根気強く取り組む姿が見られ、いつものように元気よく遊ぶこことはまた違った意味で子どもたちの心をしっかりとつかんでいるようです。つるの先の丸い殻に包まれた種は4粒がひと組になっていて、それを指の腹でそっとつぶすように割って出します。うっかりするとスルスルと手のひらから滑り落ちてしまうので、子どもたちはみんなとても注意深くおこないます。
 そんな時の、息をころして粛々と種を取る子どもたちとの、わずかではあるがしんとした時間が、わたしにはかけがえなく尊いものに感じられるのです。子どもたちの手のひらにのった種の一粒一粒はとても小さくて、とても儚い存在であるようにも見えますが、じつは偉大な命のかたまりなのですね。それはまぎれもなく生命の源であり、朝顔の新しい可能性を宿しているのです。そして命は人も生き物も植物も、みんな同じであるということ。命の重さは形や色や重さといった単に物質の重さとは違うのだということ。あるいは、いのちはいのちを糧として養いあい、生かしあっているのだということ。そのことを私はぜひ子どもたちに伝えたいとおもっています。それが育てるということの最も重要な意味であり、栽培・飼育活動の持つ大きな役割なのではないでしょうか。どうぞ園においでの際には子どもたちの花壇もちょっとのぞいてみてください。  

 さて、あさってはいよいよ子どもたちも待ちに待った運動会がおこなわれます。子どもたちはどの学年もこれまで運動会に向けて様々な活動をおこなってまいりました。どうぞ保護者の皆様、当日はご家族お揃いでお楽しみにお出掛けください。そして、全ての子どもたちに熱い声援をお送りいただけますようお願いいたします。


【今日の一枚】
通園バスのガレージでリレーをする子ども達。連日のようにこんな光景が繰り広げられました。しかもよく見ると、年中と年長が一緒になった混成チームで競いあっています。そう、これこそがしんじんの子ども達の底力を支えている秘訣なのですね。

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