人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集2(10、11、12)

2023年10月28日 16時41分28秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 2-10「主は私の良き羊飼い」 1957年3月17日(日)
1957年3月17日(日曜日)、全本部教会


マタイによる福音書の25章29節から46節




<祈 祷>
御言葉でで命じられる言葉に従って、生まれ変わった者達が生まれ変わりの光を示すことができるように、また、お父様の意志に従って戦場に進軍しているあなたの真の戦士達の上に、永遠の勝利の盾を高く掲げることを許してください。
厳しい、混沌としたこの土地、罪と死の波が流れているこの土地、真の天国の思いを抱いている者達は、死を覚悟せずにはこの悲惨な土地から去ることはできません。一週間を過ごし、受けた傷を気にせずに、お父様の前に立っています。あわれみ深いお父様!私達にあなたの助けの手を差し伸べ、愛の手で包んでください。
お父様!これらは、あなたが探し求めていた息子と娘達です。どうか、この一時間、あなたの心にあった事情を彼らに語り、また命じてくださいと切に願っています。
これらの些細なもの達は、お父様が命じられた言葉に従って自分のすべてを明らかにし、この一時間でもあなたの前に贖罪の供物として差し出されることを望んでいます。私のお父様、この時間を無駄にしないでください。許し、またこれらを自ら守り、導き、立て、洗礼してください
暗闇のこの世界で天に向かって進むために努力し、亡くなった聖徒達を代わりに、生命の光を放つことができるように、そして罪悪の墓を掘り進むことができるように、私達に許してください、愛するお父様、切に願い求めています。今日は聖なる日で、すべての人々を祝福する日です。
この時、孤独なこの国に、哀れなこの国には進むべき道がないことを自覚しながら、お父様の前にひれ伏す多くの人々がいることを知るとき、お父様、彼らの進むべき道と行動すべき標準を示し、提供しなければならないことを感じます。
私達は、この国にお父様の導きが必要だと感じ、お父様の計画がこの国全体に及ばなければならないと信じています。最終的な使命を、ここに参加している息子達と娘達に委ねていただき、彼らが3,000万人の人々が迷子である中で目を覚まさせ、死の波に巻き込まれている哀れな異教民族まで目を覚まさせていただくことを許していただきたいと願っています。愛するお父様、切に願い求めています。
人間が立てた計画や人間が追求する目標がどれほど偉大であっても、それが天国を動かさない限り、何も実現しないことを知っています。人間の機構や人間の形式は、最後の審判の前で消え去るでしょうが、天国への誠実な心と天国への知識、そして献身だけが、審判の壇の向こうでお父様の愛の中に身を包み、賛美と栄光を受け取る日を許していただきたいと願います。お父様、天国への献身を心に秘め、天国のために忠実である忠実な息子達と娘となり、最後の審判の壇を越えて行けるように、お父様の内面の心に記憶される息子と娘として許していただくことを切に願います。
約束の御言葉と許された恩寵が注がれることを願いながらひれ伏しました。この一年も戦いの闘志を持つ子供達に、内外からの感動的な御業が現れて、その体と心を爆発させ、罪の要素を抑え、善の本質に変えて進むことができるように、愛するお父様、切に願い求めています。
今、私達は散らばった心を集め、傷ついた痕跡をお父様の前にさらけ出し、何もかも差し出す覚悟です。お父様、あわれみの手を伸ばし、勝利の膏を注いで包帯を巻いていただき、切に願い求めます。この一時間をお父様に託しました。悪魔が乗り越えることのないように、神が管理していただけるよう、切にお願いいたします。御名によって祈ります。アーメン。




<御言葉>
私が皆さんと共に考えようとしている言葉の題は『主は私の良き羊飼い』です。このような題名で少しだけお話しいたします。人間は堕落のために持つべき主人を持っていません。また、あらゆるものが主人を失ってしまったのです。今日、人間の信仰と主張の中で、真の主人から生まれたものは何もありません。人間がこのように不完全な状態にあるため、ここから脱却し、完全なものを探そうとし、不安から解放され平安を求めています。
人間は堕落により、生命と愛と希望の主人を失いました。もともと神様は人間を創造された目的は、人間が永遠の生命を中心に、永遠の愛の楽園で永遠の理想を歌って生きることでした。
しかし、人間は堕落により、それを失ってしまったため、神様は再びこれを見つけ出すために長い歴史を経て苦労されています。
また、すべての人間は、心に従わない体を心に従うようにするまで、真の心の所有者になる運命に置かれています。しかし、それは自然に行われるものではありません。死を覚悟し、多くの苦難と闘争の歴史を経なければならないのです。
それでは、このように宇宙的に遮られている運命の道をどのように突破すべきでしょうか?この運命の道は、私達人間がこれまで越えることができず、悲しむしかなかった一つの丘です。人間がこの運命の丘を越える前に、本来の真の主人、すなわち善と愛と理想の主人としての方を見つけることはできません。
そのため、そのような主人である神様は、本来の人間と一緒に楽しむために、一緒に生きるために、堕落した人々を再び引き上げる救いの計画を6,000年もの間に実現させたのです。
神様を中心にした本来の理想の楽園を憧れている私達ですが、私達は不完全であるため、完全な基準に到達するためには戦いの闘志を持つ私達自身であることを認識しなければなりません。また、周囲に立ちはだかっている多くの悪魔や邪悪な人々を見ている必要があります。
そしてさらに、私達は暗闇から引き上げるために、内外で努力している神様の優しい心情を見て、悪の力と闘い勝利することで、この全体の悲しみ、全体の怨みを清算できるような私達にならなければなりません。そうでなければ、私達は帰還の道をたどらず、帰還の道をたどらない限り、最後に真の主人として来られるお父様と向き合うことができなくなります。
神様は、堕落した人間を生命の人間として立てるために、すべての人間が永遠の主役に出会えるその一つの領域まで導く責任を持っています。そのため、神様は弱いし不完全な人間達に、生命の中心であり、また希望と愛の中心であるイエス・キリストを送られたのです。
しかも、神様は私達が迎えるべきその希望の中心を、歴史的な希望の終わりに行って迎えるべきではなく、むしろ私達の日常生活の中に現れて新しい命を吹き込み、神様の希望を達成する存在として立てられました。私達は、希望と生命の中心を私達の生活に据えられた神様の恩寵の前で一つになり、真の主役を迎え、神様の意志を実現しなければなりません。
この宇宙的な主役、宇宙的な生命の中心存在であるイエス・キリスト、つまり私達が進むべき道を導いてくれるイエス・キリストを捉えなければ、私達は希望も見つけられないし、生命や理想も見つけられません。
私達が希望の中心、つまり愛の中心であり生命の中心であるイエス様と一体になるためには、今まで神様が摂理される意志を実現するために戦ってこられたその内的事情や外的事情と通わなければなりません。そうでなければ、真の主役であるイエス様と一体になることはできず、創造主である神様とも一体になることはできません。
すべての人にとって、生命の主役であり、愛の主役であり、また理想の中心になれるイエス・キリストが、私達一人一人を見つけるためにどのような努力の道を歩まれたのか、皆さんは考えるべきです。
イエス・キリストはこの地に可哀想に生まれ、可哀想な生活を送られました。言葉にできない非難を受け、悪の勢力と闘われ、本当の味方を得られずに去られました。さらに、イエス・キリストは去られた後、今日まで何千年もの間、人間に苦しめられているサタンに立ち向かうために戦われているのです。私達が想像できないほどの悲しい心情の中でおられるイエス・キリストであることを皆さんは知るべきです。
この時、羊飼いが羊を分けて立てる言葉は、神様が最後の審判の時にすべての民を分け、良い者は右に、悪い者は左に別けるということを予告しています。そのような審判の日には、どの条件を基準にして右と左に分けるのか?イエス・キリストが生まれてから去られるまでの全生涯を基準にして審判の条件を設定することを理解しなければなりません。
では、イエス・キリストと一体になりたい私達はどうすべきでしょうか? 私達はイエス様の全生涯を見習い、彼と同じ道を歩まなければならず、彼が感じた内的および外的な心情を理解し、彼が考えたことを私達も考えなければなりません。また、彼の希望を私達自身の希望とし、彼の希望を私達自身の希望として受け入れなければなりません。
それができなければ、私達はイエス・キリストと一体になることができず、彼を私達の主役として受け入れることはできません。また、全人類の主役として、歴史的なサタンとの戦いに一人で責任を負って戦われているイエス・キリストを助け、彼に代わって戦い、彼の使命を引き受けられる人がいないなら、人間を救う神の意志は決して達成されないでしょう。その結果、人間は創造主である神を親としても受け入れられないでしょう。堕落した人間は、イエス・キリストを通じてのみ、神を受け入れることができるからです。
さらに、私達自身が堕落の支配下にあることを考えると、イエスが歩まれた全生涯と通過しなければならない歴史的な運命が私達に残っている場合、私達はイエス・キリストを主人として受け入れることができず、神を私達の永遠の父として受け入れることができないことを感じるべきです。
さらに、朗読した聖書には、イエス・キリストが飢え、渇いた、異国人として、裸、病人、刑務所に閉じ込められた状況についての言葉があります。そして、イエス・キリストが再臨し、右の群れに向かって、『私が苦しい時、あなた達は私を助けてくれました。』と言われることを予告しています。
この言葉は、イエス・キリストの存命時に彼に従った弟子達に伝えるための言葉ではなく、最後の審判を受けるキリスト教徒に対して示唆された言葉であることを皆さんは覚えておくべきです。
ここでイエス様が飢えたり、渇いたりしたことは、イエス様が言葉で表現できないほどの悲しい状況を象徴しています。また、イエス様は言葉で言い表せないほどの孤独を感じられたため、旅人としての状況を語られ、不当に苦しんだために刑務所に閉じ込められた状況を語られたのです。
再臨の主イエス様が終末にこれらの状況に直面されることを予告されたイエス様の生涯は、誰も共感することのできない中で、他の人には想像もできないほどの悲しみ、苦しみ、苦痛の道でした。イエス様は生まれてからこのような苦しい生活を送られたことを皆さんが理解するべきです。
このように苦しみを我慢しながら生涯を歩まれたイエス様と直接的な関係を結び、私達自身も彼が共感した悲しさや孤独を感じなければなりません。そうでなければ、私達は天国的な生活の道を歩まれた彼と何の関係もない立場となってしまいます。
地上で、イエス様は約30年にわたり、孤独で孤独で苦しい道を歩まれ、昇天してからも2,000年以上にわたり、孤独な道を歩まれてきました。しかし、イエス様は自分自身のためにこのような道を歩まれたわけではありません。堕落した私達人間のために、すなわち堕落した人間を神の前に立てるために、自発的にその苦しみの道を歩まれたのです。
イエス様は飢えたり、渇いたり、病気にかかったり、旅人となったり、拘束されたりしたことがありました。そして、これらの困難は外的な側面だけでなく、内面的な側面でもイエス様に影響を与えました。イエス様は神の計画を引き継ぎ、それを遂行しなければならなかったイスラエルの民において、神の生命が枯渇し、神の希望が枯渇したことを感じました。
そのため、この使命を果たすために、イエス様は一生懸命になり、旅人としてイスラエル中を巡り、ユダヤ人達を見つけ出しました。本来、ユダヤ人達自身がこのような道を歩むべきでした。しかし、ユダヤ人達がその道を進まなかったため、イエス様は彼らを代わりに捜し、誰も迎え入れない人々の中で、真の神の子娘と真の命と真の愛を探し、築こうとしました。
また、イスラエルの民は自身が苦しんで拘束される立場にあるべきでしたが、イエス様はその代わりとなって苦しみ、拘束された立場にいました。
このような生涯を歩んだ後、亡くなったイエス様は復活し、昇天しましたが、今もなお同じ心情で私達を探し続けており、それを理解すべきです。要するに、イエス様は喜びを享受し、自由に生活するわけではなく、この時代でも内外から強烈な飢えと渇きに苦しむ人々を同情し、真の生命の道を求めてさまよう聖徒達を懸念し、また彼らの代わりに囚われの立場にある者を思いやっており、この地を離れて天国にいるにもかかわらず、一瞬たりとも神と共に喜ぶことができない立場にいるということを理解すべきです。
イエス様は、愛する十二弟子とパンとぶどう酒を分かち合い、『ぶどうの木からこのように新しいものとして、天の父の国で共に飲むまで、もはや飲むことはありません』と言われました。これは、この世界のすべての人々が悲しみが解消されるまで、イエス様も平和を享受できないということを示す言葉です。私達は、自身の罪と愚かさによって、イエス様がより一層孤立し、苦しむことがないようにするために存在するべきではありません。
このような状況を自覚し、身をもってイエス様の苦悩を理解し、イエス様の代わりにサタンと戦い、勝利することで、神の心配事を解消しなければなりません。もし、私達がイエス様の代わりにこの地の人々を気にかける存在にならない場合、終末に再臨するイエス様に対面することはできないでしょう。
イエス様は、その苦悩に満ちた30年以上にわたる生涯と、その後の2000年以上にわたる長い神の計画を経て、悲しみと孤独と苦しみに耐えました。イエス様の情熱的な状況は、単なるイエス様だけに止めておいてはいけません。私達がそれを引き継ぎ、イエス様を守らなければなりません。そうしなければ、私達はイエス様の前で立つことができず、イエス様を主として呼ぶことはできません。それこそが、何よりも重要な仕事であることを理解しなければなりません。
真の主としてこの地に臨まれたイエス様ですが、イエス様は完全に主として受け入れられず、また神の計画を達成するために働かれています。なぜなら、まだ人々が悲しみ、苦しみ、孤独に閉じ込められており、神の計画が完全に達成されていないからです。イエス様は神の計画を完全に実現することによって、すべてを喜びとして判断できる立場にいないのです。
では、どのようにして栄光と喜びの真の主を迎えることができるでしょうか?まず、私達は歴史の過程に積み重ねられた主の悲しみを解消することによって、主を喜ばせることのできる存在にならなければなりません。それをしない限り、イエス様は私達を支配することはできません。そして、イエス様が私達を支配できない場合、神もまた私達を支配することはできないでしょう。
また、私達が完全にイエス様の支配を受けない場合、イエス様と完全な愛の結びつきを築くことはできず、したがってイエス様を真の主として受け入れることはできません。もしもキリストが苦しませ、孤独にし、苦しめ、縛る要因があなた自身に残っているのであれば、キリストが再臨される日、あなたはキリストの前で立つことはできません。
また、歴史を代わってイエス様の悲しみをあなたが担うことができない場合、あなたは歴史的な計画を担当し出てくるイエス様の前に被支配者として立つことはできません。
もしイエス様があなた一人を支配したいという希望があるなら、それは宇宙的な希望であるでしょう。また、イエス様が建てた計画がある場合、それも宇宙的な計画であるでしょう。さらに、イエス様が求める愛と栄光があるとしても、それはイエス様個人のためのものでなく、宇宙的な愛と栄光であるでしょう。
ですから、皆さんは今日、自分自身に悲しみがあるでしょうか?孤独や苦しみがありますか?あるいは、束縛されていることはありますか?宇宙的な主であるイエス様が、皆さんのために悲しみ、孤独、苦しみを受けておられるようなことはあってはなりません。なぜなら私達はイエス様と関係があるため、私達一人一人の小さな悲しみであっても、または苦しみであっても、それは個人にとどまらず、イエス様にまで及ぶものだからです。
私の悲しみが深刻になると、それはすべてのものを支配するイエス様の悲しみとなり、私が孤独を感じるなら、それはすべてのものの主であるイエス様の孤独となり、私が苦しみを感じるなら、それは宇宙を代表するイエス様の苦しみとなります。したがって、皆さんは自分の生活の中で悲しみや苦しみに立ち向かい、それを克服しない限り、宇宙的な主であるイエス様を生活の主として受け入れることはできません。そうなると、皆さんはイエス様が訪れるのではなく、サタンが侵入することになり、それを防ぐ方法がありません。
また、皆さんがイエス様の計画と一致しない場合、イエス様の悲しみが解消されず、サタンとの戦いで勝利を収めて栄光を天に還元できない場合、皆さんはイエス様の全体的な計画が伝えられなくなります。
イエス様は一つの悲しみを感じることで全体の悲しみとして心配し、そのために皆さん一人一人が一部であるが全体の一部であると理解する必要があります。それ故、個別の存在である皆さんが全体の基準を代表して完璧な基準に達しない場合、イエス様の全体の計画も達成されないことになります。言い換えれば、一人が完璧にならない限り、イエス様が設立し進めている全体の計画が実現しないため、また全体の計画が実現しない限り、イエス様は全体を代表する良い羊飼いとして私達を支配することはできないということです。
それによって、神の愛、神の希望、神の命が私達と直接的な関係を持つことができなくなります。イエス様は神の意志の前で希望の実現として、また宇宙的な命の実体、宇宙的な愛の実体として長い歴史の中で存在しています。
今日、私達はこの羊飼いの導きに導かれる羊として、彼が歩むならば私も歩み、彼が決定するならば私も決定し、また彼が喜ぶならば私も喜ぶ立場に立たなければなりません。そうでなければ、イエス様を通じて神の宇宙的な計画が成し遂げられないだけでなく、私を通じても成し遂げられないということです。
だから、皆さんが非常に小さな存在かもしれませんが、宇宙的な善き羊飼いの代わりに立って、彼を尊びながら生きなければならず、皆さんの生活の中で悲しみ、孤独、または苦しみがある場合でも、自分よりも大きな苦しみに立つイエス様の状況を考えて、その困難を乗り越えなければなりません。皆さんがそのような生活を知らない場合、皆さんは善き羊飼いとしてのイエス様の栄光の地位に参加できないことを覚えておかなければなりません。


<祈り>
天のお父様、あなたが永遠の命の主として、全てのものを完全に支配し、それらと一緒に楽しむことができる日が早く、急いでこの地に現れることを切望し、望みます。アーメン。
天のお父様、人間の堕落によって遠ざかってしまったあなたとの距離を縮めるため、永遠の善の支配者、そして永遠の至上の支配者として、イエス・キリストをこの地にお送りいただきましたが、あなたを代わりに真に受け入れなかった人々を許してください。
私達がイエス様を冷淡に扱ったことが、先祖達の欠如から生じたことを知っています。そして今日、私達はまだイエス様の悲しみが残っていることを知ります。どうか、善き羊飼いの使命を受け継ぎ、すべての創造物の前に立って、あなたの願いを実現できる私達になることを許してください。イエス様の願いをかなえることができる私達になることを許してください。あなたの命と愛、イエス様の命と愛を持って現れることができる私達になることを許してください。
もし私達がそうでない場合、キリスト・イエスが善き羊飼いとしてこの世に来られた悲しい状況を永遠に解決できないことを自覚し、私達の心の扉を開いてくださり、善き羊飼いの声を聞けるように導いてください。
悲しい父の状況を知り、孤独な状況を知り、努力される父の状況を知ると、身動きが取れなくなります。父よ、どうか私達が悲しみや孤独、労苦、苦痛をイエス様に託すために祈る、惨めな存在とならないように導いてください。
私達が今、サタンのあらゆる秘密、父の内面の状況、イエス様の内面の思いまで知ることで、父のその状況をお任せし、イエス様の悲しみ、孤独、苦痛、束縛を受け止め、無数のサタンと戦えるよう力を与えてくださいと、お願いいたします。お父様、切に希望し、求めます。
お父様、私達が懸念し、心を込めて努力するイエス様の姿を見ることができるようにし、イエス様が今日も私達の苦しい状況によって十字架にかけられる苦痛を感じているということを私達に気づかせてください。
私達が天に対して悲しみ、天に対して悲しい思いをし、天に対して孤独な立場にいるとき、イエス様がより大きな孤独、より大きな悲しみ、より大きな苦痛を感じることがあることを知らなかったことを認識します。
今、イエス様の苦痛よりも私の苦痛が大きく、イエス様の悲しみよりも私の悲しみが大きいし、イエス様の難しさよりも私の難しさが大きいかもしれませんが、むしろイエス様の悲しみを取り除くために努力でき、イエス様の孤独と苦痛を取り除くために努力し、懸念できる真の娘の姿となりますよう助けてください。そして、善き羊飼いに従い、善き羊飼いの真摯な心を慰めることができる私達の姿となることを許してください。私達が切に望み、求めます。
お父様、ここに集まったあなたの子供達は、今や歴史的な行進に全身全霊で参加しなければならないと理解しました。そして、私達には進むべき運命の道があることを理解し、戦わねばならない責務と使命があることを理解しました。私達が進む道には悲しみ、孤独、または苦しみがあるかもしれませんが、それらを克服できるように許してください。
目に見えないサタンが私達の生活に直接侵入して苦難や恐れを引き起こすかもしれませんが、これに立ち向かって黙々と戦って勝利できるように、イエス・キリストの代理の使命を果たす者達として私達を新たに立ててください。また、イエス・キリストの生涯を引き継ぎ、あなたの御業を達成できるように、私達全員の心と体をあなたの御心に従って差し出し、あなたの喜び、栄光、誇りとなり、あなたの御心に従い、あなたの御命令に従い、あなたの右手に座る子供達として立ててください。お父様、お願いいたします。アーメン。




文鮮明先生 御言葉選集 2 - 11. 私達は誰のために生きているのか (1957年 4月 7日)

私達は誰のために生きているのか 1957年4月7日(日)

聖書拝読 ヨハネによる福音書14章1節から20節

<御言葉>
私達は他の人々とのつながりなしに生活できません。個体も心と体が関係を築き、お互いに利益をもたらす立場をとる事によって存在します。このような立場は、家庭、国家、社会、国際社会、さらには宇宙全体に向けた『利益をもたらす生活』に発展しています。このような利益をもたらす生活は、宗教的に言えば神に仕える生活です。

自分自身を中心に据え、平面的な利益を追求できる基準を見つけ、さらには立体的な関係を築いて一つの中心を持つ基準を見つける必要があります。その後、家庭、国家、世界、宇宙的にも一つの中心とのつながりを持つ生活を送るべきです。このような利益をもたらす中心的な基準がなければ、私達人間は満足と幸福を得る事はできません。

歴史を担い、宇宙が追求する総合的な価値を持つその中心的な基準を見つけ、自己と生の関係を築かなければなりません。また、愛を中心に据え、力の根本と結びつけ、無限に受け入れ、無限に与え、周囲のすべての状況で証明できる存在にならなければなりません。

人間は長い歴史を通じて、自分を託す事のできる永遠に変わらない何かを探し求めてきました。私達は自分自身をそのものに委ね、永遠に神の愛を体験し、その愛を讃える事を望んでいます。したがって、人間は自分自身を永遠に保証できる中心的な存在を探しており、その中心的な存在は永遠の愛の主役であり、生命の主役であり、希望の主役でもあります。さらに、この主役は利益をもたらす生活の代表的な主役としても存在します。

しかし、このような利益をもたらす主役は心の願望と肉体の欲望を結びつけ、利益をもたらす主役であり、歴史を担い、宇宙的な全体性を負担し、代わりになる主役でなければなりません。もしあなたがこのような主役を見つけ、一体理想を築き、それを尊敬し、共に生きる環境を神的に構築できない場合、最終的には宇宙的な戦いと恐怖から逃れる事ができなくなるでしょう。

人間は堕落によって失ったこの永遠の中心的な基準を見つけ出し、それを追求しなければならず、この回帰の旅で戦いは避けられないものであり、個人から始まり、家庭、国家、世界に広がっています。この地上での平面的な戦いが終わった後、入念な戦いの時代が霊界とも戦う事になります。このとき、すべての人々は真の愛、真の命、真の希望の基準を見つけ、この試練と恐怖の時代を克服しなければなりません。

この愛、生命、希望の主役と永遠に共にいる条件を神の前に提示できない場合、すべての人間は恐れと審判の時を逃れる事はできません。

私達はまもなく、善と悪、右と左を判断しなければならない歴史の終わりを迎えるでしょう。そのとき、私達はどうすべきでしょうか? 私達は善と悪、右と左を判断できる基準となる一つの主役を見つけ、善悪の判断だけでなく、私達のすべての事がそれを中心に行われ、それによって私達の霊魂と肉体が一致しない限り、最終的な審判を免れる事はできないでしょう。

歴史上のすべての人々は、あらゆる価値の基準となるその一つの主役を望んで現れました。今、その望みが私達の目の前に達し、その一つの主役を中心に、歴史の前に全責任を果たした実績を示し、歴史に残るすべての人々の願いを実現し、さらには天の意志すらも達成できる存在であるべきです。

神の帰還の目的と人類の歴史は、一つの個人を中心に交差しています。この交差点は個人から国家、世界、宇宙に広がっています。したがって、あなたはあなた一人一人の生活が宇宙を代表する生活である事を認識する必要があります。

神は6千年間、あなたの内面を代表し、この交差点を越える存在を探しに来ました。しかし、もし神がそのような人を見つけて、あなたの内面を表現できず、そしてあなたの願いをこの一つの存在を通じて実現できない場合、神は常に超越神の立場に留まり、私達人間とは実体的な関係を持つ事ができなくなります。

人間は元々他者を思いやる事から生を始める中心とつながっていたが、堕落により、自己中心的な生き方に変わり、すべてを自己中心に考え、自己中心的につながろうとするようになった。

ですから、今、永遠の自由と平和を追求し続ける私達は、すべてを自分のためだけの事に結びつけようとする堕落を捨て、他者のために先になれる自己にならなければなりません。それによって、すべてが『私と他者の関係』を築き、永遠に進む事ができるようになるでしょう。キリストの神性と人性が実証的なものとして現れるために、すべての存在と他者との相対的な関係を築かなければなりません。

そして、このような関係は個人を超えて家庭、国家、世界、そして宇宙的に展開されなければならず、最終的にはこれらすべての包括的な関係は一つの中心的存在のために成立しなければなりません。このようにして、永遠に変わらぬその一つの存在の前で、私達の愛、生命、真理を捧げ、その価値である愛、生命、真理との関係を築き、それを受け継ぎ、感じる事ができる私達にならなければなりません。

この一つの存在、まさにその主役は、人間関係的な希望と天国的な希望、そして歴史的な生命と目的的な生命、歴史的な愛と目的的な愛を調和させ、結びつけてくださる方です。この方こそが再臨の主となるでしょう。

彼は6千年間、あなた方を探し求めている方であり、あなた方は彼の前に立つために真実的に、生命的に、愛に溢れてその資格を持たねばなりません。そして、この関係を宇宙全体にまで拡張し結びつけなければなりません。イエスは「私は道であり、真理であり、命である。」と言いました。それゆえ、私達一人一人が道であり、真理であり、命であるために、私達は宇宙全体を包み込み、共鳴する事ができるべきです。

個人、家庭、社会、国家、世界など、すべてを包括し、天の前に立つ事のできる方が、まさに '主' であります。彼は無限の希望を持ち、私達が想像できないほどの価値を持って現れるので、私達は不変の存在として宇宙的な目的を代表し、負う覚悟が必要で、最終的にはその方に立ち向かう事ができるようになるでしょう。彼こそが人間の愛、生命、真理の本質であり、私達も同じような愛、生命、真理を代表できなければ、あらゆるものの前に立つ事はできません。

このような立場を取るべきあなたの生活はどのようなものでしょうか?自己中心的に悩む人々がいますか?そのような人々は必ず目覚める日が来るでしょう。世界を足場とし、すべての事のために生きる人として、すべてを捧げ、すべてを捨てても喜びを感じるべきです。

あなたは、神の前に何かを捧げていますか?あなたの身体ですら宇宙に吸収される可能性がある事に気づくべきです。神はあなたが喜びをもって自分を捧げる事を望まれ、すべての創造物もそれを望んでいる事を知るべきです。


そのような存在にならなければ、何千年生きたとしてもすべての生き物と愛の関係を築く事はできません。完全に自己を忘れ、それにもかかわらず宇宙を所有している喜びを持つべきです。部分的であると同時に全体を代表したかのように、部分的なものを所有していると同時に全体的なものを所有したかのように喜ぶべき存在が、天には求められています。人々はこれまでに多くの犠牲を払ってきました。

つまり、この地で平和を実現した事はありません。しかし、あなたが神との関係を築き、彼の愛、生命、真理の価値を理解すれば、あなたは命をかけて戦う事になるでしょう。そして、それが無血革命の時代であり、宇宙的な永遠の平和を楽しむ時であるでしょう。その時を迎えるためには、すべてを捧げる事を知らなければなりません。

空白の場所は必ず埋められるものであるため、私達の一つの存在が自分の体を捧げるなら、その空白の場所には必ず他の何かが埋められるでしょう。今日まで、人類はこの事実を知らなかったのです。イエスも自分の体を捧げる事で、その空白の場所に十字架と救いの基準を設ける事ができました。





文鮮明先生の言葉選集 2 - 12. 神の正しい兵士になろう (1957年4月14日)
1957年4月14日(日)、前本部教会。
聖書拝読:テモテ2:1-13

<祈り>
東西の死の波が襲い、私達一人一人の生命の名前でこの死の波を止めなければならない最終的な責任が私達に残るとき、愛するお父様、私達自身が未熟で足りなく、不完全であることを認めることができるように許してください。

あわれみ深いお父様よ!私達の状況を考えず、むしろお父様のあわれみによって生きている私達の状況を許していただきたいと切に願います。

暗い死の地にとどまる私達、霊の力と恵みなしには、お父様に栄光を返すことはできないことを知っております。お父様、約束された恩寵をこの時許していただき、計画の全体の意志を示し、私達に示してください。

足りない私達、どのようにしてお父様の前に立つことができるでしょうか?どのようにして天に顔を上げることができるでしょうか?私達は何度死んでも十分な存在ですし、罪の枠に閉じ込められ、審判の苦しみを受けるべき人間です。そのため、私達はこの時、お父様のあわれみの愛を求め、お父様の恵みを求め、自分自身を裁きの心でひれ伏し、すべてをお父様に差し出し、間違いがあればすべてを清算していただき、許しを得てください。そして、お父様の心に従って、天に向かって大きな恵みを呼び求める私達に導いてください。愛するお父様、切に願い求めます。

お父様!ここに集まったあなたの息子達、娘達をあわれんでください。他人でないこの道を見つけ出すために、心に悲しみが染み込んでいた記憶も持っています。心配と不安に取り憑かれた時もあることを知っています。お父様、この日この場所に座り、他人でない場所かもしれませんが、あなただけが認めることのできる恩寵が降りるように許してください。あなただけが私達を支え、慰め、導いていただけるこの時間を許してください。愛するお父様、切に願い求めます。

お父様、この地に住む何千万もの人々がお父様の怒りを感じることができるように許してください。お父様の悲しみとため息を感じることができるようにしてください。そして、困難な状況にある多くの人々をあわれみの恵みで愛してください、父よ、切に願い求めます。

お父様、過去に私達は真理と主張する言葉を多く聞き、自分の行動が正しいと主張する人々も多く見てきました。しかし、それらによって天国が築かれたことは一度もありませんでした。今まで無駄な言葉だけを聞き、無駄な行動だけを見てきた私達をあわれんでください。そして、この夜の会合であなたの歴史が現れるように許してください。困難な私達の体をよみがえらせ、あなたが命じ、望む意志に向かって走る私達になれるように、無限の恩寵が今日、この場に集まった私達に現れるように許してください、父よ、切に願い求めます。

無知無識の人々の中で天国の悲しみを通じて通じる者がいると言うならば、父よ、たとえ彼が何千万回も悲しみと困難に直面しようとも、彼は確かに勝利するでしょう。ここに集まったあなたの息子達、娘達が、心と体であなたの悲しみを感じさせて、地上で心配するあなたの心情を感じさせて、子供の役割を果たすことができるように、どうか許してください。切に願い求めます。

お父様、この一週間、傷ついた体と心のまま、私達はお父様の前に立っています。悪魔によってもたらされた罪の痕跡を消してください。私達の友達はここに集まった家族だけであり、私達の唯一の頼みの綱も私達だけです。地上で友達を持たずに孤独な私達を、この時間においてあなたの愛に包み込み、慰め、導いてください。どうか許し、励まし、隠れていた愛の恵みを豊かに分かち与えてください、愛のお父様、切に願い求めます。

この日は聖なる日ですので、多くの祭壇で民族を代表して祝福をください。あなたの愛を失った多くの教団の子供達の中でも、あなたの愛を取り戻すことのできる子供達がすぐに現れるように許してください、お父様、切に願い求めます。

お父様、この民族は無知で破滅の危機にさらされないようにしてください。自己を爆発させ、悪の拠点を排除し、お父様の慈悲と愛だけを憧れることができる恩寵を、この民族の上に現してください、お父様、切に願い求めます。

私達はこの時間、あなたの前にひれ伏していますが、お父様に差し上げる贈り物はありません。お父様、どうか許してください。生きるための肉の欲望以外には何もありませんが、この時間に悔い改めの心だけを持つことを許してください、お父様、切に願い求めます。集まった全体の心と体が、お父様が分け与えてくださる意志と愛の恵みに捉えられるように許してください、切にお願いいたします。

主の御名によってお祈りします。アーメン。


<御言葉>
この短いメッセージのタイトルは「神の軍隊になろう」というものです。今、「神の軍隊になろう」というタイトルでお話しいたします。

神は人類のために、歴史の過程を通じて、私達が考えもしない内的な戦いと外的な戦いを繰り広げてきました。つまり、見えない世界ではサタンと戦い、見える世界では善と悪の人々と戦っておられます。

今、私達が天に向かって神の意志を探りながら、神の内面的な計画を理解する責任を負っているのであれば、私達は神の内外の闘いの歴史を神に代わって受け入れなければならないでしょう。そうでなければ、この包括的な闘いは神が望むように人間を通じて勝利に導かれないことを皆さんは理解すべきです。

私達が神の意志を代わりに戦う天の軍隊になるために、どのようにすべきでしょうか?最初に、神の望みを中心に据えた考え方で一致しなければなりません。

神様は6千年間にわたり、その目的を達成するために何をしているのでしょうか?それは、罪悪の世界で生きている私達を、神の栄光の座にまで上げるためです。神はその計画を実現するために、多くの預言者と聖徒を犠牲にしながら、自ら思い悩み、計画を進めておられることを、皆さんは骨身にしみるほど感じなければなりません。そうしなければ、私達は神の計画を理解できないでしょう。

では、神様が望まれる希望の中心、神様が人間に探していただきたい総合的な計画の中心は何でしょうか?それは、万民を高い位置に置くことです。このために神様は今まで努力し、進展されてきました。

罪悪に陥り、サタンの誘惑にとりこになった弱い人間を救うために、神様はご自身の苦難を忘れ、長い歴史の中で尽力されています。神様の希望は、私達人間が神様の実在として神様の性質を持ち、すべてのものを支配しようとする神様の意志を受け継ぐ真の一人を見つけて立てることです。私達はこのような神様の心情を体験しなければなりません。

神様の意志を受け継ぐ真の一人を見つけて立てることは、神様の望む計画の中心として、すべての人が最終的にこの中心を完成させるために歩んでいくものです。この総合的な計画が私達に残っています。したがって、私達は一生涯にわたって、この神様の意志に感謝し、その意志に対する忠誠心を変わらず持つべきです。

世界でも、誰かが友達の成功のために、または友達を栄光の地位に立てるために、生命をかけて困難を耐え忍び、努力する場合、その友達はその人を一生の恩人と考え、その人に対する感謝の気持ちを忘れないことでしょう。

神様は、私達人間が身の程知らずな存在であるにもかかわらず、人間に栄光の栄光をもたらすために、人間達が自分に代わって内的な闘いをした結果、または知らず知らずのうちに努力をし、苦労をし、歴史の過程を通じて尽力してこられました。このことを、皆さんは心身にしみるほど感じなければなりません。

したがって、神の内面的な戦いが、あなた自身の内面的な戦いと一致し、神の外部的な戦いが、あなた自身の外部的な戦いと一致する中心が、あなたに結びついている必要があります。そうでなければ、神の戦士にはなれないことを覚えておかなければなりません。

私達はこのように宇宙的な戦いをしている神の前で、無礼な行為を繰り返してきました。今日、あなたはあなた自身のためにはどんな犠牲でも払えるはずです。しかし、このような宇宙の存在や人間、または霊的な領域にいる多くの霊的存在のためにどれだけ犠牲を払ったでしょうかを反省すると、私達は自分達の不足を痛感せざるを得ないでしょう。したがって、私達が敵対的な運命を共有しているなら、内面的にも外面的にも、すべての存在とすべての人のために自己を犠牲にできる心情を持つべきです。

神様は、このような無知な人々のために地上で中心的存在としてお遣わしになった方が誰であったかを知るべきです。それはまさしくイエス・キリストでした。

神の内面的な計画を代表し、立ち上がったイエス・キリスト、彼の希望の中心、彼の生涯の中心は、ただ神だけを中心にしたものでした。言い換えれば、イエス・キリストは神様が多くの苦労をし、忍耐をされたその忍耐の心情を見習い、あなたの栄光のためには働かない神様のその公的内容を見習い、また戦いたくない神様の原則的内容を見習い、すべての存在とすべての人の前で神を代わりに愛し、天国の権威を持つことができ、現れることを願ったのです。

それだけでなく、イエス・キリストは自分自身が感じる喜びや自分の持つ希望、自分の受け取る栄光が自身だけのものになることを望まなかったのです。イエス・キリストは自分の希望と栄光がすべての堕落した人々に実現し、現れることを願い、その目標の達成のために30年以上も努力されたことを皆さんは理解すべきです。

したがって、私達は天国の建設のための戦いを担当し、現れたイエス・キリスト、天上の中心に来た新しいイエス・キリストの姿を見習い、イエス・キリストが持つ思想のすべてを私達の思想として受け入れなければなりません。

もし私達がイエス・キリストの愛を見習い、永遠に向かって前進しないのであれば、神が望む希望が私達に結びつかなくなるでしょう。この事実を皆さんは心に留めておかなければなりません。

このような天の戦士としての戦いの道を通って、歴史の終わりに達することが私達の運命の道だと言えるなら、私達はこの運命の道を歩みながら、さまざまな悪条件に直面しなければなりません。また、見えない多くのサタンの陰謀があるでしょうし、地上では多くの人々の反対に直面することになるでしょう。

しかし、これらの戦いの中で、私達が神が許される自律性を備えて責任を果たす選民であるなら、私達は外部的には思想的な統一性を備えるだけでなく、実際の生活の中でも、神が耐え、イエス・キリストが耐えたようにどんな試練にも耐え、克服する人々にならなければなりません。

一時間の喜びで私達の体を包む不安を乗り越え、魂が喜びで満たされる希望を持つべきです。一日の運命としてだけでなく、一時間の運命でも永遠に守っていくべきです。私達は神とイエス・キリストとの不変のつながりと同じ期待を持つことによって、不変の中心を不変の目標として持つべきです。それを実現するには、不変の忍耐心を持つことが重要です。

今、私達の前には困難な試練が残っており、これらの試練は避けられないものになりました。イエス・キリストがこの地に来て、30年以上もの間、自分自身を捧げてこの試練を克服するために、死すら厭わず証言し、立証しようとし、それを成し遂げるために自己犠牲を払ったことを私達は見習わなければなりません。

さらに、神は私達の一つの存在を見つけるために6000年もの長い年月をかけて、多くの苦難に立ち向かい、多くの悲しみを経験し、愛する独生子まで十字架にかけても敵との闘いを止めず、計画を遂行し続けられたその神の忍耐を見習わなければなりません。

また、イエス・キリストも、神が内外の苦難に耐えて出ていらっしゃった御旨を受け入れ、無限の困難に対する忍耐の主人公としての資格を備えていたため、十字架に向かう決意をし、その道を切り開いて進むことができたことを理解すべきです。

もし、イエス・キリストが十字架にかかり、その苦難に負けて卑屈で臆病な人になったなら、イエス・キリストの十字架の使命は私達に永遠の命の道を示すことはできなかったことを理解すべきです。

イエス・キリストは、神の全体的な計画を引き受け、4千年の歴史を代表し、天の戦士としての役割を知っており、自分の命を犠牲にし、死を越える難局があっても、すべての苦難を耐え抜ける個性の持ち主でした。


イエス・キリストが苦難に遭ったのは、神が意図的に彼に襲いかかった結果ではありませんでした。イエス・キリストは、神がご自身のために4,000年間努力し、忍耐し続けられたその気持ちを十分に理解していたため、生命を失うことや死の難局が迫っても、それを避けようとしなかったのです。

そうしたイエス・キリストを模篆(もはく)して、天の戦士としての使命を担う私達も、数多くの困難が押し寄せても、それを回避せずに耐え、克服できる人々にならなければなりません。今後、私達には多くの闘いを戦わねばならず、国家的な闘いもあるでしょう。

さらに、天の戦士としての使命もあるでしょう。これらの闘いに立ち向かう態度は、どんな困難な戦いが待ち受けていようとも、その戦いを私達に任せる神の心情を理解し、耐え抜き、克服する忍耐力を持つことです。そうでなければ、私達は歴史の戦いを通じて勝利する神の協力者としての資格を持つことはできません。これを念頭に置かなければなりません。

今日、皆さんはイエス・キリストを信じている自分達を徹底的に分析し、検討し、宇宙に残された困難の責任をイエス・キリストと同じように果たせる人間になっているかを反省しなければなりません。神の御心に従わなかった結果、多くの人々に苦難の使命を負わせることになったイエス・キリストは、自分の時代における宇宙的な苦難を克服するために自己を犠牲にしました。そして、苦難を後続の聖徒達に受け渡すことを防ぐために、自分でその苦難を引き受けたのです。

終末に臨む今、宇宙的な苦難と闘いが進行中であるとしても、歴史を担当し、後代の運命まで担当したイエス・キリストが自己の時代の宇宙的な苦難を苦しい闘いの末に克服したように、皆さん自身も宇宙的な苦難を担当し、すべての条件をクリアし、サタンが非難できるすべての問題を解決するという信念を持って戦わなければならないでしょう。そうできない場合、神の使命を果たす者として、栄光の勝者として、神の前に立つことはできないことを理解すべきです。

そして、私達は宇宙的な戦いに忍耐を持ちながら立ち向かうことができると同時に、自己を捨てることのできる人々であるべきです。今こそ、非常に忍耐が必要な時期です。自己を中心に置いた固執や主張は許されません。もし私達が持つべき主張があるのであれば、それは神の御心を実現するための主張であるべきです。

したがって、私達は天の軍団として立つためには、自己を捨てることを学ぶべきです。イエス・キリストはこの地に降りてきたとき、神から栄光を享受する権利を持っていました。また、人間として感じるあらゆる感情を抱き、栄光を求める感情も持っていました。しかし、神の御心が実現される前には、神が祝福される前には、そしてこの地上のすべての人々が祝福される前に、イエス・キリストは栄光を享受できませんでした。

そのため、私達は、天の軍団として永遠の勝利の土台を築くためには、自己を捨てることを学ぶべきです。イエス・キリストは自己のためではなく、神の前に立ってすべての人を祝福し、すべての人が幸せになる日を迎えるために来られました。彼はそのために自己を犠牲にし、生涯を捧げたのです。

最後の戦いで勝つために、イエス・キリストが自己を犠牲にし、公正のために戦ってきたように、私達も個人的なものを捨て、神が喜ぶ法を確立することで、神に受け入れられる供え物になる必要があります。そうでなければ、イエス・キリストの願いを受け継ぐ勝者として地上に立つ資格を持たないことを理解する必要があります。

神は今日まで内的にサタンと戦い、外的には悪人と戦っていますが、それは無礼な戦いではなく、法に違反する戦いではありません。言い換えれば、神は天理法に背いて戦わないのです。同様に、イエス・キリストも天理法に背いた戦いはしませんでした。

したがって、終末に宇宙的な戦いを戦う際にも、天の法律を知っていることが重要です。この法律を中心に戦える人々となる必要があります。

あなたはおそらく知らないかもしれませんが、サタンも同様に無礼な法律を立てて、天理から逸脱した戦いはできないのです。したがって、回心の条件を設けてサタンと戦う際、人間が神の意志から逸脱すれば、サタンは非難することになります。それはイエス・キリストにも例外はありません。法律から逸脱した場合、サタンが非難するということです。

回心の戦いを通じて進む皆さんにとって、天の法律を確実に理解しなければ、神とイエス・キリストに代わる正兵として勝利の栄光を迎えることはできません。イエス・キリストの没後の2000年のキリスト教の歴史がこれを証明しています。

イエス・キリストと聖霊は、神の内なる計画に従って、天の法の条件を設定し、霊的にサタンと戦っています。しかし、地上の人々の中には、このサタンとの戦いで天の法に従って立ち向かい、神に認められる勇者がいないのです。つまり、この戦いにおいて、天を代表し、イエスを代表して天の法に従って戦う唯一の人物はいないため、イエス・キリストは嘆いているのです。

イエス・キリストが神の内面で何が起こっているのを理解できたのは、神がサタンとの戦いを40年間委ねられたためです。この戦いをイエスと聖霊が他の誰よりも深く理解しているからです。

したがって、イエスが霊的な戦いに取り組んでいる間、肉体的な外部の戦いは地上の聖徒達に委ねられています。したがって、この戦いを担当する私達は、イエスと神がサタンに対して天の法に従って勝利の条件を設定できるように、天の法に従って戦うための勝利の盾を持つ必要があります。

そうでなければ、神と人々はサタンとの戦いで永遠の勝利を収めることができません。また、あなた自身も約6千年間、見えない世界で神の法に立ち向かい、サタンの力に対抗する方法がないことを理解する必要があります。私達がこのサタンを阻止できない場合、地上のサタンとの戦いで最終的に敗北することを理解しなければなりません。

したがって、私達は神がサタンに立ち向かうために用いられ、イエス・キリストと聖霊がサタンに対して戦った天の法の条件を見つけて、それに従ってサタンと戦う基準を持たなければなりません。そうすることで、私達はついにイエス・キリストが耐え続けた気持ちを理解し、イエス・キリストの公的な生涯を体験することができるでしょう。しかし、サタンとの戦いにおいて天の法に従って戦える者にならない限り、まず神は私達を認めないでしょうし、さらにサタンから認められることはありません。

私達人間は、サタンが自身の敗北を認める日を地上にもたらし、この戦いを終結させなければ、6千年にわたる外部と内部の闘争が完全に解決されないことを理解しなければなりません。

私達が天の国を代表して立ち上がるための神の戦士であるならば、そのために必要な武器があります。この武器は暴力を行使する力や権限ではなく、神が人間を彼ら自身と同じ栄光の地位に上げて与える言葉です。ですから、あなたはこの言葉の武器を持ち、その言葉を取り込むべきです。そして、変わらない信仰をもってサタンすら認めることのできる勝利的な個性を持つべきです。これらのことを持っていない場合、私達が宇宙的な戦いを担当する神の戦士になることはできません。

さて、この戦いに立ち向かう皆さんは自己を省みて考えるべきです。それは、皆さん自身が6千年にわたる歴史を代表し、すべての困難を克服する資格があるかどうかです。また、皆さんはあらゆる自己中心性を捨て、神の義の法を立てて、義ではなければ行動しない者としてサタンに立ち向かえるかどうかです。

皆さんは、天を代表して戦って勝利する条件として、天の法的基準を持たねばなりません。これによって、自己を誇示しませんでしたが、見えない世界のサタンが最初に自分の勝利を証明できる神の子供となり、皆さんの対抗者である悪人達が逆に皆さんを神の子供として証明できるようにならなければなりません。それらの人々がなることで、長い戦いの経歴から抜け出し、神の栄光にふさわしい資格を持つことができることを皆さんは理解しなければなりません。

私達は神から召命を受けたとしても、神が私達一つ一つを召命したのではありません。それは宇宙的な人格を持つ者になることを望み、私達を召命したのです。そのような姿を持つ人間を見つけるために、神は6千年にわたって歴史し、統制してきました。

今日、これらの神の計画を理解したならば、皆さんはサタンとの宇宙的な戦いで前線に立つ人格を持たなければなりません。

そのような人格を持った後、皆さんは実生活で家族を天国の家族の位置に立て、さらに国民を意義の前に立て、さらには世界人類と千千万万の聖徒達を代表して出現できる姿として立つべきです。そのような天律の不変の法則を持って、天国建設のために働かなければならない責任が皆さんにはあります。

特に集まった皆さんは、神とイエス・キリストに代わる責任を負っています。この責任は何でしょうか?この世界には数多くの生命が存在し、その中でサタンの束縛から解放されずに苦しんでいる人々がいます。皆さんの責任は、神が望むように、これらの人々をサタンの束縛から解放し、永遠の神の子供にすることです。したがって、皆さんは身体と心を捧げて、これらの苦しむ人々を解放し、神の栄光の場所に昇華させるために戦わなければならない責任を持っていると確信し、一時間ごとに父の前に差し出す子供にならなければなりません。

一方、すべての被造物も、これまでの6千年間の闘いの歴史が終わり、神の栄光を受けた真の子供達が現れるのを待っています。皆さんはこれらの被造物の心情を感じなければなりません。そして、皆さんが神の栄光を達成するとき、その栄光の場所にすべての被造物も参加するべきです。

さらに、皆さんは霊的な世界にいる多くの霊的存在がため息と悲しみの中にいることを感じ、皆さんが勝利の基準を確立することで、彼らも勝利の基準を確立できるようにする恩恵を受ける必要があります。皆さんが永遠の勝利の基準を確立するまで、彼らの責任を担えるべきです。

皆さんは、このような責任を果たす神の子供にならなければなりません。皆さんが責任を負う前に、このような責任を負った方が神であり、この闘いを展開している方がイエス・キリストです。したがって、召命を受けた私達全員が、彼らに似るためにこの仕事に取り組み、神の子供としてこの宇宙的な責任を担い、この闘いで勝利するためにできる限りの努力をしなければならず、天の軍人としてこの宇宙的な責任を遂行できることを自覚しなければなりません。

この責任を果たすために、皆さんは無限の忍耐が必要です。 「たとえイエス・キリストが耐えないとしても、神様が耐えないとしても、私は耐え続けるでしょう」 という覚悟を持つべきです。

神様とイエス様が公正な律法を確立するために戦っているように、私達も一切の体面やプライドを軽視し、ただ天の律法を確立する責任感を持って立つことができる天の兵士としての責任を持つべきです。このような天の兵士が多く現れない場合、サタンを打ち倒すことはできないことを認識しなければなりません。

今日、この使命のために神様から選ばれた人々がすぐそこにいます。したがって、私達はサタンによって苦しむ多くの人々を神様の前に立てるために、耐え忍ぶ道でも死ぬ道でも何の条件にも恐れをなさず、ただ天からの命令に従順に立ち上がる真の兵士であるべきです。私達がこのような天の兵士とならない限り、私達は選ばれし者としての責務を果たすことができず、この地を永遠の勝利の地として回復することはできないでしょう。

私達が天の兵士として勝利することによって、神様は永遠に喜び、イエスと聖霊も永遠に喜び、私達も喜ぶことができる平和の時代がこの地に訪れることを覚えておかなければなりません。

<祈り>
 神様、あなたは善悪の司令官であり、唯一無二の私達の最高司令官であることを感じさせてください。6千年間にわたって変わることなく闘い抜いてこられた父様のか達を似せ、またイエス・キリストの情熱の歴史を見習い、あなたの体面を確立できるような私達の聖徒となることを許してください。

本日、戦いの過程に留まっている私達は、自分を中心に置いた神様になってもらうことを望み、自分を中心に置いたイエスと聖霊になるように祈ります。愚かな者としてのままでいないように目を覚まさせてください。

私達は天の戦いを代表し、その戦いで勝利できる天の兵士として現れなければならないことを理解しています。どの民族を中心にする兵士やどの世界を中心にする兵士としてではなく、永遠の天国の理想、変わらない愛、天の御心のために不変の悔い改めを守る天の兵士として許してください、父様、切に願います。

6千年にわたって耐え忍んでこられた父様が私達に命令を下すとき、私達があなたの心を理解できる価値のある人格者にならない限り、あなたが私達に命令を下すことはできないことを、私達はこの瞬間に知るべきです。

2千年間苦労されたイエス・キリストも、真実であり、公義であり、律法に背かない、天を代表できる不変の姿を持たない資格者ではなければ、直接命じられなかったことを、私達は知るべきです。

今、私達に残された宇宙的な願いがあるなら、それは私達が宇宙全体の責任を担う兵士になって、すべての被造物を解放し、人々を幸せにすることを知らせ、神の命令を受けて責任を果たし、その使命感に熱中できるようにしていただき、父様、切に願います。

私達は天の意志をこの地上に建てるために、天の律法を知り、宇宙の戦いの律法を理解し、変わらず中心となって、永遠の神の理想と栄光がすべての被造物に現れるまで、変わらず休むことなく、ただ闘うことしか知らない子供達になるように、お願いします、父様、切に願います。

すべてを超越し、父様の喜びと栄光のためにだけ死の道であろうともためらわずに進む天の兵士として導いていただくため、主の御名によってお祈りします。アーメン。



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御言葉選集2(8, 9)

2023年10月14日 15時06分15秒 | 学習
「文鮮明先生の説教集 2 - 8. 天国の鍵を私達は持たなければならない」
1957年3月31日(日曜日)、本部教会。マタイの福音書 16:13-20

<祈 祷>
今日、私達の前に現れたイエス・キリストの姿、神を代わりに示された方が、この場に集まった皆さんにも現れるように許して下さい。主よ、お与えいただいたみ言葉が、私達の心と魂の耳を通して聞こえるこの瞬間を許して下さい。イエス様のお言葉は、その時だけに関連するものではなく、今日の私達とも関係がある、歴史を超えたお言葉である事を悟らせて下さい。
ペトロに感じられたイエス様の優しい心情を、この瞬間私達も理解できるようにして下さい。ペトロがイエス様の心を知り、応答した時に、天の全体の計画を受け継ぐ事ができたように、今日この場に集まったあなたの息子と娘達も、お父様のみ言葉を伝える方の心情を理解し、思いやりのある場でみ言葉を聞き、み言葉に忠実に従えるように導いて下さい。
その時、神様が私達に全体の計画と復活の使命を引き継がせてくださる事を知らせ、また、み言葉を私達が聞く際に、み言葉を与える方の内なる心情を理解できるように許して下さい。神様の心情を理解するために、み言葉を理解する私達になるように、お父様、熱望しており、願っております。
今日お分けになるこのみ言葉が、私達と関係を築けるみ言葉となるように許して下さい。ペトロが「あなたこそがキリスト、生ける神の子です」と証言したように、私達も主を見つめ、喜び、主を証言できるように許して下さい、愛するお父様、熱望しており、願っております。
永遠にお父様のみ言葉と調和できる自己であり、お父様の前でも、主の前でも、聖霊の前でも、すべての被造物の前でも不足しない姿で現れる事ができるように、私達自身を見つめる助けを与えて下さい。
お父様、この瞬間に集まったすべての兄弟姉妹の心を導いて下さい。心と心が一つとなり、一つの祝福を共有でき、心と心が一つとなり、一つの愛を感じる事ができる全体的な歴史がこの瞬間に現れるように許して下さい。切望しております。
これまで持っていた私達の従来の考えを捨てる助けを与え、能力のあるお父様が私達を受け入れてくださり、復活の歴史が明らかになるように許して下さい。自己に従順できる心、自己を悔い改められる心、自己を悔い改められる心を持つようにして下さい。この瞬間に語る者と聞く者の心が一つになるように許して下さい。切望しており、願っています。
この瞬間に集まった私達を混乱させるためにサタンが行っている事を知らせて下さい。恵みの雰囲気が漂う場所ですが、常にサタンが狙っている事を知り、恵みが大きければ大きいほど、それに応じてサタンの行動も大きい事を知らせて下さい。久しぶりに参加した家族の中でも、たとえ一つの命でも、敵であるサタンを容認しないように許して下さい。切望しており、願っています。
お父様! 6千年にわたり、自分の側に引き寄せようとするサタンに誘惑され、憎しみを抱いた祖先達と同様に、私達もサタンに引き寄せられ、憎しみを抱かないように守って下さい。
ため息を繰り返す自分自身にならないように許して下さい。私達が原因で後継者達がため息をつく事がないように、自己保護できるこの時を許して下さい、お父様、切望し、願っています。
自己の体を謙虚に保ち、他の人と調和できる柔和な心を持ち、お父様にすべてを明け渡し、憐れみの恩寵だけを求める心を持つ事を許して下さい、お父様、切望し、願っています。すべてを委ねましたので、この時、お父様の御心だけを示して下さいとお願い申し上げます。主の名により祈ります。アーメン。

<御言葉>
皆様にお伝えしたい言葉のタイトルは「天国の鍵を私達は持たなければならない」です。今回、このタイトルで皆様にお話しいたします。
この地上の人々はこれまでに天国を望んできました。歴史の進行に従って、人々は環境的にも世界的にも、あらゆる面で天国の理想がこの地で実現する事を望んで生きてきました。また、神も天国が成就する事を望んで計画し、出てこられました。したがって、私達が実現すべき天国は神の望みであり、同時に人間の望みの中心でもあり、すべての被造物の望みの中心でもある事を理解しなければなりません。
しかし、永遠の理想である天国の中心であり、永遠の希望の中心であるのにもかかわらず、私達はむしろ自分達を嘆かなければならない立場にいます。
このように、私達と天国との距離が遠くなるほど、私達は天国に反対する邪悪な要素に浸る事になり、善の理念を尊敬しても、その理念は私達と関わる事ができなくなり、愛の本質を尊敬しても、私達はその本質と関係を持つ事ができなくなります。さらに、こうなると善を行おうとする願望が熱心であっても、天国との関係を持つ事ができなくなります。
このように、天国は神を中心とした世界であり、私達は天国を築くためには神との結びつきを持つ必要があります。また、神も全ての世界と調和できる天国の理念を達成するために計画しており、それには人間との関係も必要です。
しかし、私達が希望する天国は遠く、私達が住んでいる世界は罪と邪悪の世界であり、私達は神との関係を持ちたいと願っても、その能力を持っていません。
しかし、私達が神との関係を持ち、天国が実現する事を望むなら、天国と私達の結びつきは切り離す事のできない運命的なものであり、私達の時代や場所に限定されたものではなく、永遠のものです。人々が常にそのような天国の理念と理想を感じている事から、神を中心にし、永遠の天国がすでに私達との結びつきを持っていた事が分かります。
イエス・キリストがこの地に来て30年以上にわたり、涙を流しながら苦難の道を歩みながら語りかけた目的は何でしょうか?それはまず、人々に神との結びつきを回復させるためであり、次には人々に天国を紹介するためでした。
イエス・キリストは天国を紹介する際、真実としてその言葉を伝えました。つまり、真実として天国を紹介しようとしていました。神は、人間と永遠に変わらない結びつきを持つための言葉、この地に天国の理念を築くための言葉を、イエス・キリストを通じて人々に授けました。真実を通じて神と人間の関係を回復し、真実を人々に示すためにやって来たのです。したがって、神と人間の関係を築くために来られ、真実の言葉を宣言し始めたイエス・キリストは、神と人間、そしてすべての生き物が望む天国を築くために真実の言葉を宣言し始めたのです。
しかし、イエス・キリストは神と人間の結びつきを回復するために真実を宣言しても、真実と結びつくべきイスラエルの民はイエス・キリストを信じなかったため、イエス・キリストの宣言の目的は達成されなかったのです。これからも、イエス・キリストが宣言した真実の言葉が100%人々に伝わらなかった事が分かります。それは当時の人々がイエス・キリストを信じなかったため、イエス・キリストは彼らに真実を比喩や象徴的に、または含みのある形で紹介するしかなかったからです。したがって、この地に住む多くの人々は、歴史の進行に従って隠された真理の扉を見つけ出すために多くの知識を駆使してきたのです。
今や歴史の終末が近づいており、人々が内外から探し出してきた霊的なものと真理が出会う時が来るでしょう。また、多くの人々がイエス・キリストを信じる真の信者となり、イエス・キリストの心に隠されていた真理も完全に紹介されるでしょう。
したがって、天に向かって進む皆さんは、現在どの道に進んでいるのでしょうか?これまで外部の真理と内部の真理は異なる方向から確立されてきましたが、今はこれらの真理が一つの焦点を中心に一体化できる時です。このように、真理を中心にした神の計画は、歴史の進展に合わせて補完されてきたのです。
では、これまで人々が望んできた再創造の歴史が完結すると、何が起こるのでしょうか?まず、全ての生き物と人間が望む天国の理想を実現できる宇宙的な結びつきを持つ真理の中心が現れます。そして、その中心を持って天国が建設されるのです。もしもそのような真理の中心が現れない場合、神の全体的な天国の理念は実現されないでしょう。
その後、真理の中心による真理の運動が起こり、真理が発見されると、どのような運動が起こるでしょうか?それは生命の運動です。この生命の運動は、生命を中心に据えた統一の歴史として、一つの天国を実現できる天的な力の中心として表れ、このような世界に全ての生き物を導くでしょう。
このように、真の真理が現れた後、統一的な生命の運動が起こり、この運動の後に統一された愛の世界が実現されるでしょう。そうでなければ、私達が望む天国は建設されないでしょう。
では、私達が望むその希望の天国はどのような世界でしょうか?その世界は神が楽しむ事ができる場所であり、イエス・キリストと聖霊が楽しむ事ができる場所であり、無数の聖徒が楽しむ事ができる場所です。同時に、すべての生き物が調和する事ができる場所です。それゆえ、その場所は愛を中心にし、調和する世界であり、生命を中心にし、調和する世界であり、真理を中心にし、調和する世界なのです。これを理解する必要があります。
したがって、神はそのような天国を建設するために最初に人間を通じて起こした運動は何でしょうか?それは真理の回帰運動、すなわち言葉を通じた真理の回帰運動でした。言葉を通じて真理の回帰運動が起こる必要があるのは、言葉を通じてのみ生命の歴史が進行し、生命を通じてのみ愛の運動が現れるからです。
アダムとイブが堕落したときも、言葉を信じなかったために堕落しました。言葉を信じなかったために、言葉の根源である生命と、生命の根源である神の愛を失ったのです。これがアダムとイブが誤った事です。したがって、アダムとイブが犯した誤りを宇宙的に、また全体的に清算しない限り、私達が望む天国、私達が求める理想郷は見つける事ができません。
このような目標を達成するために、長い年月をかけて父、子、聖霊が行動してきました。この三位一体の神のうち、聖霊は人々を真理に導くために行動しています。それゆえ、聖書に「真理の霊が来ると、彼はあなた方を真理のあらゆる点に導くでしょう...」(ヨハネ16:13)と書かれています。このように、聖霊は真理の使命を担当し、行動しています。
聖人イエスはどのような使命を担当していますか?それは生命の主人公として行動しています。そのため、「私は道であり、真理であり、命である。わたしを通じて来ない者は、父のもとに行く事はできません。」(ヨハネ14:6)と言われています。
イエス・キリストはこのような生命の目的を設けるために現れました。では、私達が真理を通じて生命を見つけるために最終的に見つけなければならないものは何でしょうか?それは愛です。私達は聖霊の愛、キリストの愛、そして神の愛に到達しなければなりません。この観点から、三位一体の性格を象徴的に表現すると、父は愛、子は生命、聖霊は真理で表現できるでしょう。
したがって、イエス・キリストが「あなた達は私を誰だと思いますか?」と尋ねたとき、ペテロは「あなたはキリスト、生ける神の子です」と答えました(マタイ16:16)。ペテロのこの答えは、イエス・キリストの真の性格の実在性についての発言であり、それはキリストとして油注がれた方、生ける神としての方、肉体と心を持つ実在体であるという言葉です。
ペテロがイエス・キリストを生ける神の子と述べた事から、私達はペテロがイエス・キリストの内面の気持ちだけでなく、神の全体的な内面の気持ちを知り、神の律法を通じて判断の基準を持つ事ができる事がわかります。したがって、イエス・キリストはこのようなペテロに天国の鍵を託したのです。神と人間と全ての生き物を象徴的に表現すると、神は愛、人間は生命、そして全ての生き物は真理で表現できます。
では、真理の鍵を持つ私達はどのように真実を見つけるべきでしょうか? 何よりも、イエス・キリストと聖霊、神の心に合致する真理の鍵を持つ必要があります。この鍵を持たなければ、肉体の成長はできません。また、真理の中で聖霊との関係を築く事はできません。
今まで信者達が真実を見つけるために苦闘してきた目的は何だったのでしょうか?それは天国の鍵を見つける事でした。そのためにはまず、真実の鍵を見つけなければならない事を理解する必要があります。今日、この世には多くの真理があるように思われますが、天国の真理の扉を開く事ができる真実の鍵を持つ真実はありません。
もしもこのような真理を持つ人がいるのであれば、この真理を知る者には自然に神の愛が注がれるでしょう。そして、私達の中で誰かが神の真理を中心に据え、神の生命と神の愛が注がれる場所に留まるなら、全ての生き物はその人を除いては神との関係を築く事ができなくなります。
したがって、ある存在が神を通じて真実を持ち、神を通じて生命を持ち、神を通じて愛を持つ中心に立つと、彼は全ての生き物の希望の中心であり、神の望まれる希望の核心の存在となり、全ての生き物はその中心の存在から離れなくなります。
この基準から神の真理を語るならば、神の実在の生命を証明でき、実在の神の愛を示す事ができ、実在の神の真理を表現する事ができます。この意味で、イエス・キリストが「私は道であり、真理であり、生命である」と言われたのです。
神はあなたの望む天国を実現する中心的な存在を設けるために歴史を進めてこられました。ですから神によってこの地に立てられるその方は、まず神の真理、生命、愛を受け入れるでしょう。そして次に、愛、生命、真理の実体として立つ事になります。このように神の愛と真理と生命を中心にした人間の基準を完成させるために、神は長い歴史を経てきました。
もしも皆さんが体と心が一体となった実体として神の代理として現れるそのような中心的な存在になれなければ、皆さんは神が築こうとしている天国とは何の関係も持たなくなります。そして、この地の諸民族が望む天国、生き物が望む天国は決して築かれる事はありませんという事を皆さんは理解するべきです。
今日、私達は多くの真理が存在し、多くの生命が存在し、多くの愛が存在するかのような、つまりこれもあれもが同じようで、混乱の時代を生きています。それでは、このような時代に生きる私達はどのようにすべきでしょうか?
今、皆さんは自分自身を全ての生き物の前に晒す時が来たのです。それを晒す前には本性を回復し、成長させる事はできません。皆さんの心の中に悪の要素があるならば、今が実を結ぶ時であり、その悪の要素をそのまま晒し、取り除かなければなりません。その時から新しい出発が始まるのです。そして善の要素があるならば、それを通じて神との関係を築きながら、本性を成長させるためにますますその善の要素を追求し続ける必要があります。それをするためには努力が必要です。
しかし、時が終わりに近づくにつれて、私達人間は探したいものが増えます。つまり、地上のすべてを知りたい、所有したい、すべてを成し遂げたいという欲望が自然と増えるのは、認知が発達し、理性と知恵が高まるためです。
このような状況に直面した私達は、まずすべての人を尊重する人になるべきです。その後、本性の心を持ち、自分自身が地上のどんなものとも交換できない尊い実体であり、すべての生き物と交わりながら自己満足できるようになるべきです。このような心を持つ者こそ、イエスが望まれた復活した人であり、天国の住民と言えます。
終末に立つ私達、審判の日を前にする私達にとって、問題となるのは私達の実績や栄光、理想ではなく、心を中心にして真の自己を見つける事が問題です。
いつか内面の真理は必ず現れ、内面の生命と愛も必ずこの地に現れるでしょう。しかし、人間はこれまで、真実の真理、真の生命、真の愛を区別する事ができない無知な存在である事を知る時が来たとき、他の方法がないので、自分の持っている知識の枠組みで探そうとし、自分の持っている生命の感覚で感じようとし、自分の持っている愛で評価しようとしてきましたが、区別できなかったのです。
同様に、終末に真の真理、生命、愛がこの地に現れても、人々はそれを見分ける事はできません。あなた方は、知識を追求する前に、まず本質を理解するための努力をする事を知るべきです。
そのため、終末に立つあなた方は、頭に油を注ぎ、密室に入り、世俗的な関係と結びつきを断ち切り、心で神と結びつかなければならず、生死の判定を下し、真理の灯りを照らして、「愛の行進を続けるため、すべてを私の永遠の生命、真理の中心、愛の中心として立てた。」と神に誠実に告げる、神の子供にならなければなりません。そうでなければ、天国は私達と関係を結ぼうとする事はできません。これは天の法則がそのようになっているためです。
電流が極から極へ流れると思っているかもしれませんが、実際には極から極へ流れています。天地の本質がそのようになっているため、万物も神に向かって進み、神と結びつくようになっています。したがって、神と人間の断絶されたつながりも、神の側から最初に続けていただけないのです。それゆえに神は私達を迂回して私達を押し進める立場に立たれたのです。
イエスと聖霊が働いており、いますが、あなた方の前に来て引っ張る役割は果たせません。押し進む愛をしており、その愛を受け入れる必要があります。これは見えないため、人々はよく理解していない事です。
現在は終末が近づいている時であるとしても、焦らずに心を落ち着かせるべきです。その時、どれほど生活条件が良く、他の人に嫉妬する事がないほど繁栄している立場にあっても、それに反比例して心の苦しみが増大する事を理解すべきです。
では、終末が近づいている今、どのようにすべきでしょうか?宇宙の中心が現れるとき、あなた方はその到来に備える心の準備をしなければなりません。つまり、宇宙の中心であり、基点であるキリストをあなた方の心に受け入れなければなりません。
あなた方がキリストを実際に心に受け入れると、キリストの内部で感じる気持ちは永遠の命の柱となり、永遠の真理の礎となり、愛の旗を掲げる拠点となります。真理の中心は他の場所にあるのではなく、私達の心の中にあるものです。
あなた方の中で主の心を持ちたいと思う人はいますか?十年にわたる負担を一瞬で捨て、一生をかけて築いたすべての努力を一瞬で放棄できる覚悟がある人なら、終末の審判の恐れを乗り越える事ができるでしょう。私達の師も他の場所にいるのではありません。天国も別の場所にありません。私達の心が真理の師です。イエス・キリストよりも近いのは私達自身の心である事を理解しなければなりません。
たとえ私達に何もなかったとしても、宇宙の神秘と歴史的な伝統を代わりに真理を持って生きるとき、神は私達の心に宿り、喜ばれ、私達も喜びます。私達はその真理を持つために努力しなければなりません。そうでなければ、神を礼拝できないでしょう。神の視点から宇宙のすべてを捉えると、宇宙の生命、真理、そして愛を感じる事ができるでしょう。この事実に気づくと、あなたはその位置から真理の究極の内容を理解し、生命の本質を理解し、愛の理想的な刺激を感じる事ができるでしょう。
そして、私達がイエス・キリストから受けた福音、イエス・キリストが教えた真理、イエス・キリストの生命の要素を確実な心の基盤として受け入れると、どんな宇宙的な邪悪な要素が侵入しようとも、それを排除する事ができるでしょう。そうできれば、私達にはため息や苦しみが問題になりません。また、私達自身にため息や苦しみが残っていても、私達はそれらを克服できるでしょう。
神の生命と神の愛を排除できるものはこの地上には何もありません。そして、私達が真理に近づくほど、真理に没頭するほど、その真理はますます取り戻す事のできない中心になるでしょう。何度も混乱する地であっても、宇宙が突如として破壊されようとも、そのような中心を確立した人は絶対に変わる事はなく、動揺する事もないでしょう。
しかし、あなたがそのような中心を心に受け入れる準備ができていない場合、どんなに真理が現れてもそれを知らず、真の生命が現れてもそれを知らず、真の愛が現れてもそれを知らなくなるでしょう。この観点から見ると、今日のキリスト教が真理、真の生命、そして真の愛を追求するなら、最後まで自己を捨て去り、誰も奪う事のできない心の中心を確立する宗教でなければならない事がわかります。
これまで地球は新しい大陸が発見されてますます広がっていると思われていましたが、逆に日が経つにつれて狭く感じられています。言い換えれば、文明が発展していない時代には世界は広く感じられましたが、歴史が進行し文明が発展するにつれて、世界はますます狭く感じられるという事です。こうした事象を見ると、真実の歴史を経て成し遂げられる理想的な世界は、すべてが直接的な関係を持つ宇宙的な時代である事がわかります。したがって、あなたの心に結実しなければならない天国の基準、すなわち天国の生命と天国の愛は、あなた自身から結実しなければなりません。
真理と生命と愛は同じ家庭のようなものであるため、真理には必ず愛と生命が伴うべきであり、愛にも生命と真理が伴うべきです。生命を見つめるときも同様です。そこにも愛と真理が伴うべきです。
真理と生命と愛がなぜこれほど結びついているのか?皆さんが知っているように、存在するためには必ずしも中心を持ち、上下、前後、左右がある必要があります。存在するものは、何であれ、これらの3つの領域から逃れる事はできません。
これが存在の基本的な形です。このように3つの要素が結合して統一的な形を成していますが、力が逆順に進行すると本来とは異なる力の作用が現れるのです。したがって、もともとは愛と生命と真理の一神であるにもかかわらず、堕落した後、人間が愛と生命と真理がバランスの取れた三角形を形成できない場合、神は調和を実現できなかったという事です。これを理解する必要があります。
しかし、アブラハムを選んで3つのポイントが連結し、すなわち3つのポイントが一直線の形を取る事により、神が立つための基準が設けられました。そして、イエスと聖霊が愛と生命と真理を代わりに表すとき、その基準は方向性を持って地上とより近くなる事ができました。
言い換えれば、直線上に滞在しているときは遠くにいるが、曲線を形成すると距離が近づくという事です。この意味で、イエスと聖霊は神と人を結ぶ橋の役割を果たしているのです。
天国への回帰運動での重要な点は何か?それは神の恩寵に直接触れられなかった人々が、イエスが来られる事によって神と人の直線的な関係が曲がり、神の恩寵に触れる事ができるようになった事実です。
そして、イエスは私達に神が遂行できる実質的な内容を持たせ、人々を神と一体化し、神の外的な作用体となる事ができるようにしました。これを実現するために来られたのがイエスです。この事を考えると、遠くの場所から天国の理念を見る必要がある人々にとって、前後、左右、どこにでも近くにいるイエスと聖霊の愛は宇宙的な福音であるに違いありません。
誰もが宇宙の中で最も貴重な力を抱えるようになると、宇宙の原則に従って宇宙の力と調和できる生命の力がその人に訪れるものです。そうして、その希望的な生命体として、四方向をつなげる愛の感覚を感じる事ができるようになります。愛は互いを調和させ、統合体を形成する作用をもたらします。
したがって、これまで真理の神として現れていた聖霊、生命の神として現れていたイエス、そして愛の神として示されていた神を遠くから見てきましたが、今後は私達の心に受け入れなければなりません。それでは、どのようにして聖霊とイエスと神を私達の心に受け入れる事ができるでしょうか。これが問題です。
神とイエスと聖霊をあなたの心に受け入れるには、自己中心的な頑固さを捨てなければなりません。あなたはこれまでに自己中心的な頑固さを持つ傾向が多かったかもしれません。これがあなたの敵です。あなたはこれを悔い改める必要があります。今日まで、人々は敵が外にいると考えてきましたが、最大の敵はあなた自身であり、あなたの家族です。
私達はどのみち私達に与えられた運命の道を歩まなければならないため、私達は自己中心を超えて環境を通じて国や世界を越えて天国とのつながりを築かなければなりません。私達はこの道を生きて歩むべきであり、それができない場合でも死ぬべきです。何百万年かかっても、私達は運命の目的を達成するために進むべきです。
このような運命からどのように逃れる事ができるでしょうか?この地上で、私達は責任を果たさなければなりません。そして、あなたの中にはまだ何らかの悪意、嫉妬、妬みが残っていますか?それらが残っている場合、自身の罪を決して贖う事はできず、そのような運命から逃れる事はできません。それでは、イエス・キリストは30年以上の間、何をしていたのでしょうか?木工師の家庭で育ちながら、初期の段階で言葉のない生活を送ったイエス・キリストでした。彼は何の闘いを繰り広げたのでしょうか?イエスはマリアの家庭でヨセフを助け、その家計を支える生活的な戦いをしましたが、これは生計のための戦いではなく、自己内部で自己を完成させるための戦いでした。ヨハネの福音書を見ると、イエス・キリストは人の意志によって遣わされたのではなく、神の意志に従って遣わされた事が分かります。
今、復活しようとするあなたに対抗する敵であるサタンを防ぐ武器を持っていますか?これは重要な課題です。しかし、あなた自身ではそのサタンを防ぐ事はできません。あなた自身は無力なので、常に危機にさらされる事になります。
そんなあなたが今、どのようにして敵の侵略を防ぐ事ができるでしょうか?イエスと聖霊を通じて、敵の侵略を防ぐ事ができます。イエスと聖霊はあなたを支援するだけでなく、あなたが独立を望んでいる事を望んでいます。そして、イエスと聖霊はあなたを通じて天と地を結びつける事を願っており、今日の人々がそれを実現できない事に悲しんでいます。
すべてが統一されると、宇宙全体が人間を中心にし、前後、左右、上下の関係を築く事ができ、人間を解放する事ができるでしょう。しかし、人間がこれを達成しないために、天敵の敵意は現在も天と地に満ち溢れているのです。あなたが感じるべきものがあるなら、それは天敵の敵意です。そして、あなたはそのような敵意を解消するために罪と闘わなければならないのです。すべてを捨てなければならない時が来るでしょう、それが終わりです。
そのような終わりに神の意志はどのように現れ、神の真理、愛、生命はどこに現れるでしょうか?それはすべての人間の希望であり、中心を求めるべき場所です。したがって、あなたがその場所を知らない場合、心を立て直し、磨きながら準備しなければなりません。そのように準備を進めていると、その場所に行こうとしなくても、いつかは自然とその場所に行く事ができるようになるでしょう。
それでは、何が真実で、何が偽りなのかをどのように見分ける事ができるでしょうか?その際、神も真実と偽りを教えてくれません。神が何かを真実と教えた後は、その逆を偽りと教えてくださる必要があります。したがって、人間自身が見分け、自身で決定し、自身で探し求めなければなりません。そのために、あなたは知恵のある五人の賢い乙女が主を迎える準備をし、十九節における聖書の言葉の意味を学ばなければならないでしょう。
しかし、あなたがまだそのような心の準備をしていない場合、真理の中心がこの地に現れ、すべてを捨てるように求められるとき、真心以外のすべてを捨てる準備ができていなければなりません。そのような一つの中心を築き、その上に天国を探し求める事が必要です。
しかし、真理を見つけたいと思うなら、どんな言葉でも聞いてはいけません。真実の言葉だけを聞くべきです。それでは、どのような言葉が真実の言葉でしょうか?誰が聞いても、自分自身でも気づかないうちに悔い改めの心が生じ、自分自身でも気づかないうちにその言葉に引き寄せられ、その言葉を消そうとしても消せない言葉があれば、それが真実の言葉です。それが天人の本性に基づく真理の言葉なのです。
あなたがイエス・キリストの言葉を聞くとき、その言葉を天人を代表する真理の言葉と信じ、心の奥に深く刻む事ができるようになるべきです。その言葉はあなたにとって生命の言葉となるからです。しかし、その言葉を聞くと、時には生命の言葉として受け入れられ、時には信じ難い言葉として考えられる事もあるでしょう。
したがって、終わりには本質的な心で宇宙的な真理、宇宙的な生命、宇宙的な愛の中心に立たなければなりません。この完全な中心がまさにイエス・キリストでした。
一つの中心があれば、その中心を中心にして回っている相対的な存在が必ず存在します。陽子を中心に電子が回っているのと同じように、神と人との関係も同じです。私達人間の心は電子のように神の心の中心と関係を持ち、それに作用しているため、神は人間に対して回復の秩序を行う事ができるのです。
こうした事を考えると、私達が一人で真理の言葉を探求するなら、そこで神の生命が活動し、神の愛が動いている事を感じ、真理の道を通じて神の生命と愛を探求する道が、自己の価値となり得る道である事がわかります。
パウロの言ったように、私達が内なる神の愛によって世界の光になる事も、真理が永遠に変わらない中心を持っているためです。


では、私達はこの邪悪な世界でどのようにして善悪を判断し、真理を追求すべきでしょうか?自己を中心におく心を捨て、常に謙虚にならなければなりません。聖書でも、高ぶる者は自己を低くするべきだと言っています。人間の本質は霊的なものです。
そのため、天国に行くと、人間の本質が他者のために存在するようになっている事をより実感するでしょう。しかし、なぜ人間は自己中心的な心ですべてに取り組んでいるのでしょうか?これはすべての人間が天人を裏切った堕落した天使、言い換えればサタンとの血縁関係を持っているからです。
したがって、私達は神の本質を失い、望まないサタン的な本性が私達を支配するようになったのです。しかし、私達は謙虚な心を持ってすべてに臨むべきです。もし天的な高貴な品性を持つ人間が、低い品性の者に支配されようとすれば、彼は滅びる事になります。彼は自分が持っているものすべてを奪われる事になります。したがって、聖書では終末には持たざる者から取り上げられ、持っている者に与えられると言われています。
終末は高慢な人々が増え、自己中心的な世界観を持つ人々が増える時期です。真実が現れる前に偽りが現れるでしょう。堕落した世界では、歴史的な事実として偽りが真実のように現れる事がありました。また、宇宙的な統一の理念が現れる前に、世界を混乱させるさまざまな形の偽りの真理が多く現れるでしょう。
そして、統一的な生命運動が起こる前に、さまざまな形の偽の生命運動が行われ、真の愛の運動が始まる前に偽の愛の運動が行われるでしょう。
歴史の流れを見ると、理性哲学が登場した後に生命哲学が登場しました。将来的には愛の哲学も登場するでしょう。それでは愛の哲学の基準は何でしょうか?人間か、真実か?人間は今後、この種の問題を悩む事になるでしょう。
しかし、私達はこの哲学を知らなくても、誠実な心と生きた心を持って他人の事情を理解できれば、どんな人でも愛する事ができ、その人の心に共感する余裕を持つ事ができます。したがって、あなたは悪い人であっても、良い人であっても、他人の事情を理解できる人になるべきです。
神はどのような方かと言うと、すべての人の内面をよく理解しておられる方です。そのため、悪い人であっても許して下さいます。あなたはこれを知る必要があります。あなたもこの内面的な基準に到達すれば、すべての人と親しくなる事ができます。つまり、悪人であっても、その人の事情があなたの心に映し出されると、その人を理解するようになるという事です。
神の全体的な本質を模倣するために、私達の体と心はこの地球上の誰とも調和できる必要があります。もし数人とも調和できない場合、私達は天と地の非難を受ける事になるでしょう。
では、イエス・キリストはどのような方でしょうか? イエスはこの地、この堕落した世界にイーストをもたらした方です。イーストとは何でしょうか? 聖書の言葉を通じて多くの情報を知っているでしょうが、イーストは調和し変容させるための素材です。そして、ここでイエスがイーストとして来られたと言う事は、イエスが堕落した人々を本来の人間性に変える使命をもって来られた事を意味します。
私達が他の人と調和できない心を持っている場合、私達はその心を動かして、すべての人に完全に一致する私達の心を修行しなければなりません。そうしないと、サタンは終末に私達を審判台に立て、「あなたはこんな欠点があるのではないか?」と言って、そこでできなかった事を非難するでしょう。
この目標を達成するまで、私達は真の自由を楽しむ事もできず、他のどんな希望も実現できません。したがって、人々は堕落性をすべて清算し、すべてを捧げる事によって、宇宙の神秘と通じる事ができる愛と善の本質と要素を備え、神と心の一致を実現し、愛と善の要素を一つの心の中で作用させるための瞬間を待ち望んでいます。言い換えれば、自分の生涯で愛の理想を完成させ、真実の前に人格の完成者となる事を願っているのです。
現代の人々は一般的にこの広大な宇宙を支配しようとしていますが、それは自己破壊を招く事です。それゆえに私は古くから、「宇宙を支配しようとする前に自己を完璧にしろ」というスローガンを私の生活の指針としてきました。実際、キリスト教の信者にとって、このスローガンは何よりも重要です。
このような内容を備え、宇宙を支配できる性格を持つ聖徒が存在するとき、つまり宇宙を支配できる支配力を持つようになるとき、初めて神が踏み越えて進む事のできるショートカットが確立される事になります。この基準を完成させると、初めて創造本来の価値を持っていると見なす事ができます。そのため、イエスは「全世界を得ても、自分の命を失ったなら、何の益になるでしょうか?」と述べました。今日、これらの価値を持つ真の人が登場しなければならない歴史的な時期である事を忘れてはなりません。
その人がこうであるから、私もこうできるという考えを持たず、あなた方はイエス以上の条件を設定できなければなりません。また、天と地の支配権を持っていても、意志のためにはそれを一瞬で放棄できなければなりません。それが一見捨てる事にしか見えないかもしれませんが、実際にはすべてを見つける事ができ、より大きなものを得る事です。
私達に侵入してくる敵は、私達が真実を理解しないようにし、生命と愛に向かう道を塞いでいます。しかし、そのような敵は他の場所にいるのではなく、あなた方自身に存在しています。したがって、何か誤った事があっても、他人を非難する前に、あなた方自身がその事を起こしたのは自分の過失だと考え、自己責任を取ろうと努力すべきです。
あなた自身に不平があっても、それを自分で解決しようとしなければなりません。そして、あなたが家庭だけでなく国の悲嘆にも対処しようとする意志を持たなければなりません。私達の国の苦難を自分の問題と感じ、涙を流す事ができる人々が、3000万人の国民のうち300万人でもいれば、私達の国は生き残る事でしょう。
私達はこの国がこのようになったのは私の責任だと言えるし、世界中がこのようになったのも私の責任だと言えるべきです。イエスを信じるキリスト教徒の数が1000万を超え、10億を超える全世界の人々がキリスト教徒になる事を願う神の前で、私達は恥じるべき存在である事を認識しなければなりません。私達はこのような神の希望を実現しなければならない場にいる事を自覚しなければなりません。
また、神は宇宙全体を創造しましたが、それらは完成しなかったため、神は彼らから怨みを持っており、栄光を受けないでいる事を知らなければなりません。したがって、あなたは神を受け入れる事ができる性格を持つ神の真の子供とならなければなりません。
このような宇宙的な神の悲しい気持ちを理解し、それから彼の前で頭を下げる牧者と羊飼いになるでしょう。もしもそのような牧者と羊飼いがこの地に現れるなら、彼らを中心に新しい宇宙の歴史が展開されるでしょう。
さらに、天律に代わる真理運動、天律に代わる生命運動、天律に代わる神の愛運動が、彼らを通じて起こるでしょう。今日の韓国の人々の中で、このような真理運動が現れるべきです。私達自身がそのような精神的な基準を持つようになったら、神も無視しないでしょう。このような生活を送った後、他の人を通じて自分の人格と価値を発見しようと努力しなければなりません。
イエス・キリストと聖霊は人類を代表してそのような道を歩んだ人々です。したがって、私達はイエス・キリストと聖霊の意志を手本にし、真の聖徒として生きなければなりません。
そうでなければ、悪の実を結び、サタンとの関係を断つ事はできず、人格を完成させる事もできず、また神はあなたを真の子供として立てる事ができません。皆さん、イエス・キリストはかわいそうな人でした。彼はこの地上で最も幸福な人と見なす事ができます。天国の王子としてこの地に来ましたが、不信心なユダヤ人達によってさまざまな陰謀と苦難を受け、後には十字架にかけられました。
このような事実を考えると、皆さんの心と体が快適な場所にいる事はできません。もしもあなたが心身ともにこのようなイエス・キリストの悲しい状況を感じない場合、イエス・キリストを信じているとは言えないでしょう。
もし、あなたが神の悲しい気持ちを理解できれば、千万年の涙を流しても足りないと感じるでしょう。また、イエス・キリストを失った神の悲しい気持ちを感じれば、一生涙を流しても神の気持ちに達する事はできないでしょう。それだけ私達は神に対して感情的な借金を抱えているのです。
このような感情的な負債を背負ったまま、つまり自分が間違っていながらも「父なる神だから許してくださるだろう」と厚かましい人々が多い事です。神はこのような人々も許し受け入れてくださるかもしれませんが、同時に苦痛を感じる事でしょう。したがって、あなたは自分の誤りを謝罪する前に、自分が恥じるべきであり、謙虚な心を持つべきです。
あなたが神の苦しい気持ちを共感すれば、神は苦しみを忘れ、涙であなたを受け入れてくださるでしょう。また、あなたは希望を持ち、天律の道、真理の道を求めていますが、神はあなたに対して心配しています。そんなあなたには神の愛と命の恵みが注がれるでしょう。もし、あなたがこのような生活をしていない場合、そのような自分を心配するべきです。
皆さん、兄弟や同胞を責めないで下さい。世界や神を責めないで下さい。責めるのであれば、自分を責めて下さい。他人を責める前に、神を責める前に、自分自身を責める必要がある事を皆さんは知るべきです。そのような気持ちを持ったイエス・キリストは、苦難に満ちた30年以上の生涯を経てゴルゴダの丘で十字架を背負う運命にあったが、その立場からも神を責めず、黙って神の意志を遂行する自分の責任を心配する心を持って帰られました。そのため神はイエス・キリストを復活させたのです。
そのような感情はサタンの世界では見つける事ができず、サタンの側からは夢すら見ないレベルの感情であり、それによりイエス・キリストはこの世界の中心となりました。皆さんも同様です。皆さんの信仰の段階でもサタンの世界の誰かよりも優れていなければなりません。内面の感情と精神を比較すると、彼らが追随できないほど高い感情と精神の調和を持たなければなりません。その条件を根拠に、皆さんは復活の力の中に入る事ができます。
イエスは死の谷を越えても、自身の個人的な救いを心配せず、残された宇宙的な責任を自分で負う覚悟を持って進む事を知りました。
イエスは十字架で国のために祈り、死んででも責任を果たす意思を持っていただけでなく、死を超えて神の御心を心配しました。だからこそ、神はそのようなイエスを復活させる事ができたのです。したがって、復活したイエスに対してサタンは嘲笑できなかったのです。皆さんも同じような価値観を持った人格者になれば、サタンに嘲笑される事はありません。
天国の住人は、愛、生命、真理の完成者です。そのような皆さんがなると、宇宙的な真理の中心が現れるとき、皆さんはその真理の中心と自然に一体化できるでしょう。また、光が明るい場所でも暗い場所でも違いなく輝いているように、真理の光も世界中のあらゆる場所を照らし出すでしょう。今日の皆さんは、個々の責任と、皆さんが存在する環境で担当している責任の価値を理解しているかもしれませんが、社会的責任や国家、世界的責任については知らないかもしれません。また、皆さん自身が世界的な使命を帯びている事さえ知らないかもしれません。それならば、天から与えられた使命と責任を持つ人々がなぜ一体になれないのでしょうか?それは自己を中心にし、天律に立ち向かおうとするからです。
そのため、皆さんは謙虚で柔和な心で天律の法に従い、それに従って自分が感銘を受けながら、神が喜ばれる道、神の道を歩む事によって、本質的にはすべての人と調和できるようになるべきです。
皆さんが神だけでなく、すべての人と調和し、すべての人に吸収される本質的な要素を持つ立場に立つと、過去から感じ、知っていたすべての概念から脱却し、真理に到達できるでしょう。
人間の本性には神の愛、命、真理が存在しています。そのため、自分の愛と真理に対立する愛、命、真理の内外の形態を持つ中心存在が現れると、自動的に彼と調和する事になります。その理由は、人間が相対的に創造されたからです。本性が追求する希望の真理、つまり永遠で変わらず、唯一の理念にふさわしい自分の心と体として、自分自身を超えて宇宙と関係を築けるからです。なぜなら、自分自身も創造の理念に相対的に反応し、喜びをもたらすようにされているからです。
そのため、私達が「ありがとう」と言える環境、つまり自分自身を中心にし、理想的な世界を構築すると、私達の喜びはすぐに天国の喜びとなり、天国の喜びは私達の喜びとなり、永遠の神と交流できる関係が築かれる事になります。そのような永遠不変の愛、命、真理の中心として、神の子として、全体を代表して歌える皆さんがいなければ、皆さん自身を通じて宇宙を主宰するために存在している天国の理念を実現する事はできないという事を知るべきです。
しかし、そのような存在になると、最終的にはどうなるでしょうか?まず第一に、イエス様に対応するのと同じ立場から、皆さんも神様に対応できるでしょう。第二に、イエス様と聖霊の立場から家族を愛する事ができ、第三に、神様がイエス様を愛されたように、皆さんもすべての人々と愛を共有できるようになるでしょう。そして、真理と命と愛の存在になると、神様を代わりに考え行動できるようになります。皆さんがそのような存在になると、個人を中心に見た場合、上下にあるのと同じように、上下にある宇宙と世界、国、社会、家庭が皆さんを中心にし、自動的につながるでしょう。
このような真理、生命、愛の中心的存在になると、これまで悪者とされていた人々さえも許す事ができ、すべての年長者は自分の親と同じように感じ、すべての同年代の人々は自分の兄弟と同じように、すべての若者は自分の子供と同じように考える事ができます。
つまり、皆さんが宇宙的な天国の理念を代わりにできる存在になり、神様の愛、命、真理の運動を展開するならば、平和の世界がこの地に築かれるでしょう。そのため、自分の親だけが親でなく、自分の兄弟だけが兄弟でなく、自分の子供だけが子供でない事を意味します。
皆さんがすべての人を自分の親、兄弟、子供として見る事ができる人格を持つようになれば、死者の世界で苦しむ人々を見る際、涙なしには対処できなくなり、兄弟や若者を見る際にも、彼らを救おうとする責任感を持って涙を流すようになるでしょう。本当にそのような存在になるなら、そのような存在を中心にしてこの地に天国が築かれるでしょう。

<祈 祷>
この6千年のすべての内容と、お父様の内面的なご事情が、これらの人々にすべて伝わらなかったのではないかと心配しておりますので、お父様、これらの人々をあなたのふところに抱きしめて、すべてを理解できるように許して下さい!そして、これらの人々が心に理解した事があれば、これを最後まで責任を持って受け止める事ができるように許していただきたいと願っています。
お父様、主は与える者の責任がこれほど貴重である事を感じると同時に、受け取る者の責任もそれに引けを取らないほど貴重である事に気づかされ、むしろ与える者よりも受け取る者の責任がより重要である事を認識するようになりました。
主は時期が一時である事を知りつつ、受け取る時は永遠を持って受けなければならない事を知っており、天から一時に与えられたその真理を永遠に保存できる私達になる事を許して下さい。また、一時に授かった命を永遠に保存できる私達になるように許して下さい。一時に授かった愛を永遠に保存できる私達になるように許して下さい。それによって私達は神の真の子供達になる事ができるという事を、お願いし、切に望んでいます。
過去に私達は多くの教えを受け、多くの生命と愛の恩恵を受けましたが、今この瞬間、私達の心は空虚です。空虚な私達の心を満たして下さい。そして、これまで何十回も天を背信した事を、今この時点で懺悔します。お父様、お許し下さい。切にお願いし、望んでいます。
その結果、真理の鍵を見つけ、生命と愛の鍵を見つけて、残された宇宙的な真理と生命と愛の扉を開き、天の中心においておられる神様の内面的な事情を解き明かす事ができる子供達になれるようにして下さい。信じられる真の子供の地位に進む事ができるように、お願いし、切に望んでいます。
残っているすべての事を明らかにし、不足しているすべての事を満たして下さい。そして、永遠の天国が完全に実現される日まで私達を導いて下さい。切にお願いいたします。
すべての御言葉を主の名によってお祈り致します。アーメン。





「文鮮明先生の言葉の選集 2 - 9. 結ばれたものを解こう(1957年3月24日)」

結ばれたものを解こう 1957年3月24日(日曜日)、本部教会。 マタイによる福音書18:15-20

(御言葉)
神の愛は互いに調和する場所に実現されます。個人的なレベルでも、神の愛は心と体が調和する中で実現され、その中で私たち自身が中心に置かれ、兄弟姉妹や仲間たちと調和し、さらに家庭と家庭、国と国、世界と天が互いに調和する場所に神の愛は実現されます。

すべての創造物が神の愛を中心にして調和し、永遠に喜ぶための善の基準を確立していれば、すべての創造物の間に隔たりは存在しなかったでしょう。しかし、人間の世界では、神の愛を中心にして調和しなかったため、個人は心と体が調和しない状態に陥り、さらに隣人、種族、国々間でも調和しなかったため、国と国、世界と天も調和しなくなりました。

神の帰還の目的は、調和しなかったこの創造の中で、調和をもたらす存在を確立し、彼を中心にして天の愛の範囲を拡げ、個人、家庭、国、世界、天との間に存在する障壁を取り扱うことです。

調和可能な存在を確立することが帰還の歴史の目的です。帰還の歴史の一つの成果として、または創造の前に愛の標準と中心として現れ、地上で結ばれた障壁を解消するために来られたのがイエス・キリストでした。そのため、全人類はイエス・キリストを通じてのみ、堕落による原罪、すなわち堕落の条件を解消できます。その理由は、人間自身が地上で堕落の条件を設定したため、人間自身がそれを解消しなければならないが、堕落した人間自身ではそれを解消できず、メシアを通じてのみ解消できるからです。

人間はイエス・キリストと一体となり、アダムによって生じた天地の敵意を解消し、喜びを天に還すべきでした。しかし、イエス・キリストの死によって、その意志は地上で実現されないままに残り、イエス・キリストは死後も今日まで、皆さん一人一人を通じてこの使命を果たすことを望まれました。イエス・キリストの望む存在である皆さん一人一人の行動は、絶対に皆さん一人一人を中心に置かれた個人の行動ではなく、6,000年にわたって結ばれた天の計画を解決するための歴史的な成果としての行動であることを認識すべきです。

このような存在として、皆さんは祖先、イエス、聖霊、神の無限のため息が結びついていることを知る必要があり、4,000年にわたる神の敵意を代表したイエス・キリストの望みと、2,000年にわたる聖霊の望みが結びついていることを知るべきです。

したがって、個人的には兄弟姉妹、国と国、世界と天との間に結ばれたすべてのため息の壁を解消しない限り、イエス・キリスト、聖霊、神に結びついた歴史的なため息は解消されず、神は私を通じて愛することができず、喜ぶことはできません。皆さんは、この偉大な歴史的な使命の手がかりを、皆さん一代一代で皆さんの生活と一生を通じて解明し、さらには子孫を立てて最終的な完了を達成する覚悟がなければなりません。

天地に結ばれた計画を解消する方法を教えてくださったのは、イエス・キリストでした。イエス・キリストは、自分が神の4,000年のため息を解消しなければならない存在であることを知り、天と地に結びついたすべての状況を解消するために熱心な生涯を送られました。さらに、イエス・キリストの生涯は、自己中心的な生活ではなく、アダムによって結ばれたあらゆる状況を解決することに全力を注いだ生活でした。イエス・キリストは人類の堕落と同時に、サタンが本来の場所から離れてしまったため、本来の場所に戻す使命を果たすべく来られたのであり、それはサタンが地上で罪を犯したため、地上に戻す必要があることを理解されたからです。

人間は誤りから堕落しましたが、それでも神は彼らを再びあなたの愛を受ける子供として立てようとし、それが神の計画であり、新しい時代に残された使命であるとしています。

この大局的な使命を果たすために、あなたがたはイエス・キリストと共に責任を担わなければならず、そのためには神の4,000年のため息を身につけ、生前のイエス・キリストの心情と、復活後の今日まで2,000年続いたイエス・キリストと聖霊の熱意を理解できなければなりません。

6,000年にわたる歴史を結実させる責任を担って進むなら、あなたたちはイエス・キリストや先達たちの努力を超える努力をしなければなりません。それができない場合、あなたたちは自分自身の本来の位置を永遠に見つけ出すことはできません。なぜなら、神はイエス・キリストを見つけるために4,000年もの歳月を費やし、一つの花嫁を立てるのに2,000年かかりました。したがって、あなたたちも自分自身の存在を見つけ出すために、6,000年間にわたる神の苦労と全体的な計画を抱き続けて現れなければ、あなたたちの存在を決して見つけ出すことはできないでしょう。

自分自身を見つけるために戦わなければならないということです。そして、戦う際にはまず自分自身と戦わなければなりません。イエス・キリストもサタンに打たれる前にまず自分自身を打たれ、それによってサタンすらも打つことができたのです。私たちもサタンが私を打つ前に、私が自分自身をまず打ち、そしてサタンと戦わなければなりません。

このような試練と苦しみの道を歩むためには、誰かが私を理解してくれる仲間が必要です。イエス・キリストは十字架の上で捨てられましたが、神と聖霊はイエス・キリストを理解していました。ある時点で、神自身があなたを知らないかもしれません。そのとき、あなたを理解してくれる同志が必要であり、人々があなたを拒絶するとき、あなたを理解してくれる神の代わりとなる存在が必要です。したがって、イエス・キリストは2人が共に祈ると、天の父がそれを叶えると言われました。

神はイエス・キリストにその使命を委ね、安心されました。同様に、あなた方もイエス・キリストと聖霊の意志を受け継ぎ、イエス・キリストと聖霊を安心させる責任があります。神が私の父となり、イエス・キリストと聖霊が私の救い主となるために、あなたはその苦悩を引き受け、天の使命を遂行するための主人公として立たなければなりません。私たちは兄弟の重荷を肩に載せることが難しいのに、6,000年にわたって進んできた神の重荷を引き受けることは一層難しいでしょう。

しかし、この主人公が地上に立てられることを天が望み、イエス・キリストと聖霊が待望し、すべての創造物が願ったことです。そのため、このような主人公が2人で共に祈る場所に神は同行せざるを得ません。そして、このような主人公が多ければ多いほど、その民族は天の大きな使命を引き継ぐ民族となり、最終的には世界中の祝福の源となるでしょう。

この交差点(終末)で、皆さんが善を選び悪を克服し、サタンの支配を打破し、天の意志を代表する中心を築くために、天が同行し、束縛から解放される場所を作れば、天は縛られず、そして永遠に天の真の子女として宇宙を代表することができるようになります。


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御言葉選集2(7)

2023年10月09日 15時45分38秒 | 学習
「文鮮明先生御言葉選集 2 - 7. 犠牲となった世界を越えよう 」
1957年 3月 10日, 前本部教会. 御言葉拝読:ロマ書 12:1-12 

<祈 祷>
お父様、6千年にわたるお苦労の中で示された神の意志が、今日、私達の生涯全体を計り直す時である事を私達は忘れません。お父様!今、この瞬間、私達の身体と心が完全にあなたに似ていなければならない時である事を知ります。私達が永遠のあなたの腕に包まれ、あなたの意志が達成されるために何千万もの人々を愛されたあなたの気持ちを受け継ぎ、また私達がそのような父の気持ちを持って現れなければならない時である事を認識させて下さい。
この地は、あなたが苦労され、血を流された地であり、また人間にとって困難な十字架の道、世界的なゴルゴダの場所である事を知っています。お父様、今日私達がどのような立場にいるかを自覚させて下さい。イエス様が30年以上にわたり努力された足跡を私達が辿っている事を認めるならば、私達が生活している環境や、何を望み、何を祈るべきかを確実に自覚させて下さい。
今、残された十字架の闘いが私達の目前に迫っているこの時、私達個々としてこのすべての苦痛と怨みを排除できる自覚を持たなければならない事を知っています。天よ、この時、私達を慈悲深く見守って下さい。自分の不足を感じさせ、自己評価が足りない事を自覚させ、自分が不完全である事をため息つかせ、父の前で悲しみの涙を流す事ができるこの時を与えて下さい。お父様!どうかこの国民に哀れみを示して下さい。この国民の恐れを取り除き、この国民の罪を消し去り、この国民の暗闇を払いのけて下さい。
光の谷へと導く事ができる、父の力強い手が速やかに三千万の人々の中に現れるように許して下さい。そして、眠っている全世界の人々を目覚めさせ、歴史の過程を通じて神聖な歴史を支えてきた千千万の聖徒の願いを私達を通じて解決し、残す事ができるようにして下さい。愛するお父様、熱望し、望みます。
お父様、この時、あなたの前で謙虚になりました。私達は自分を中心にし、どんな主張も立てないように許して下さい。ただ幼い子供のような心で、あなたのひざまえに伏し、あなたの慈悲深い手を握りしめ、あなたの愛の腕に包まれる事ができるように許して下さい。そして、そのような神の賜物を尊重し、あなたに崇拝する心を許して下さい。
すべてを捧げ、自己を捧げる事で、自分自身に対するサタンの非難の余地を一切残さないように導いて下さい、お父様。熱望し、願います。お父様、この日は聖なる日であり、あなたの祝福を受ける日です。国民の代表として集まる多くの宗教団体の上に祝福を注いで下さい。孤独な祭壇を担当しているあなたの息子と娘にも一貫した神の賜物を許して下さい。終わりに向かうこの時に、彼ら全員が共通の目的を証言し続ける事ができるように許して下さい。すべてを支配して下さい。主の御名によってお願いいたします。アーメン。

<御言葉>
平和の心を持って一生を過ごす事が本来の人間の生き方でした。しかし、現代の人々の心には平和がありません。また、自由を中心に据え、永遠の理想の中で生きるべき人々の心にも、天国と共に楽しむ事のできる自由や理想はありません。
そのため、現代の世界中のすべての人々は、いつか完全な自由、理想、平和が実現する事を願っています。これはこの地球に住むすべての人々の切望です。このような完全な自由、理想、平和の世界は、本来の人間の望みであり、それは結局、皆さん自身が体と心を中心に置いて実現しなければならないものです。
さらに、皆さんは自身を中心に据え、家庭でそれを実現しなければならず、社会、国家、世界でも実現しなければなりません。ただし、天と地が一体となり、平和の歌を歌い、自由の歌を歌い、理想的な愛を楽しむ事のできるそのような世界を実現しなければなりません。
そのような世界を実現できない場合、人間は真の喜び、真の解放、真の栄光を味わう事はできません。では、なぜ人間はこのように不幸な運命に見舞われたのでしょうか?それは堕落の結果から来ています。したがって、現代の世界中の人類は、このような対立と闘争を乗り越えなければならず、苦痛と涙の山を越えなければならない運命になり、皆さんも今日、同じような困難な生活を送っている事を実際の生活を通じて感じているでしょう。
人間が望む世界と現実は、その距離が遠く、心はその世界を求めつつも、現実から逃れられないため、人々は苦痛の生活を避ける事ができないのです。ある人が論理的で倫理的な法律を制定し、その法律に従って人々が過ちを悔い改め、考える事ができるようにする事によって、人間が望む理想の世界を実現できると主張しても、それは理論的で論理的なものに過ぎず、実際の生活で人間の理想的な幸福の世界を実現する事はできません。多くの先人達の努力がそれを証明しています。
したがって、私達には終わりに向かって進むべき道と、越えなければならない高い山が残されています。それは永遠の平和、自由、理想を実現できる犠牲の道であるのです。
その高い山を越えるためには、心に永遠の自由をもたらし、永遠の天国の希望を代わりに持ち、永遠の天国の平和を代わりにもたらす一つの中心が現れなければなりません。もしもそのような中心的存在が現れなければ、天と地は永遠の平和、自由、理想を決して実現できないでしょう。それでは、この一貫した6千年の歴史の進行はどのように続いていくのでしょうか?
神とサタンと人間を中心に、どの条件が設定されているか、これが犠牲の高い山なのです。6千年の経緯を振り返ると、旧約聖書時代にはすべての創造物を通じて犠牲の高い山を越え、新約聖書時代にはイエス・キリストの実体を通じて犠牲の高い山を越えたのです。
では、今後の新約時代では、どのような基準で犠牲の高い山を越えるのでしょうか?聖徒、つまり皆さん自身を通じてそれが実現されるのです。このように全体的な神の計画が犠牲を中心にして進行すると考えると、旧約時代はすべての創造物を通じて犠牲の高い山を越えなければならず、新約時代はイエス・キリスト、すなわち神の子を中心にして犠牲の高い山を越えなければならない事がわかります。しかし、現在の新約時代では、新郎と新婦の名前を代わりに持つ事ができる皆さん自身を条件として、犠牲の高い山を越えなければなりません。
皆さんがそのような犠牲の高い山を越える前には、この地上で真の平和、自由、理想の世界は実現されない事になります。
では、6,000年にわたる人類の歴史は何でしょうか? それは形は多様で範囲は広いものの、この6,000年の神の計画の歴史は、最終的には完全な自由、完全な理想、完全な平和を楽しむ事のできる真の人間を見つけ出すための神の努力の歴史なのです。皆さんは原理を通じてこれを理解しているでしょう。
本来、人間はエデンの園で神を中心にし、永遠の自由、理想、平和を楽しむべきでしたが、人類の祖先であるアダムとイブが堕落したため、その本来の世界は崩れ去りました。しかし、堕落したアダムとイブの子孫である私達にも、本来の世界を追求する本質があるため、神の望む世界に向かって進んでいます。私達の望みは変わる事なく、達成しなければならない理想です。
それでは、神がその努力の計画の中で見つけ出そうとしている中心的存在は何でしょうか? それは堕落に関係のない、本質的な真のアダムとエバです。
皆さんも原理を通じて知っているように、人類の真の親となるべき神の子女であるアダムとエバは、堕落によって真の親になれなかったため、本来の歴史とは何の関係もない堕落した人類の先祖となってしまいました。私達は、このように堕落したアダムとエバによって堕落の血縁関係を断ち切り、本来の真の親を迎える日を迎えなければなりません。
もしもその日が訪れない場合、つまり、天と地を動かす事のできる中心的存在、そしてその中心的存在を中心に共に動ける存在が現れない場合、天と地が一つの目的を追求しない限り、この地上には真の自由、平和、理想が実現されないでしょう。そうなれば、人間は宇宙的な運命の循環と帰還の歴史から逃れる事はできません。
もしも皆さんが神の愛を受けたいと望むなら、皆さんは6,000年にわたる神の計画が努力の歴史である事を理解し、また、自身もそのような努力の道を歩まなければならない事を理解しなければなりません。
そして、全体の神の計画が犠牲の高い山を越えるための歴史のプロセスであるならば、皆さんも創造物を条件として犠牲を捧げた旧約時代と同様に、創造物を条件として生活の中で犠牲を捧げなければなりません。
その次に、イエス・キリストがこの地に来て、自己犠牲の高い山を越えなければなりません。そして、その後、皆さん自身を条件として、その犠牲の高い山を越えなければなりません。
このような状況から、神は私達に栄光として臨む事はできないのです。また、平和、自由、理想として臨む事もできません。むしろ、私達に犠牲の高い山を越えさせ、私達を探しに来るしかないのです。現代のイエスを信仰する聖徒達は、この事実を知らないかもしれません。
イエス・キリストがこの地に来たとき、イスラエルの民が信じなかったため、イエス・キリストはその時代のどの民よりも低い立場で生活しました。
イエス様は、イスラエルの民が創造物を犠牲として捧げるのではなく、信仰をもって神を信じ、国民全体が神に帰依する事を望まれましたが、イスラエルの民がこのような神の計画を理解せず、イエスを信じなかったため、彼らは神の計画から外れ、その恨みは今日の私達にも及んでいるのです。
神様が私達に訪れるために、どのような位置にいる必要がありますか?まず、すべての創造物を代替する物質的なものを克服しなければなりません。したがって、イエスは福音が貧しい人々に伝えられるだろうと言いました。次に、私達は自分の子供達を愛する事ができなければならず、最終的には自分の身体さえ犠牲として捧げる事ができなければなりません。これが私達が克服しなければならない犠牲の頂点です。
今日のほとんどの信者は、私達がこの犠牲を克服しない限り、天が私達に訪れ、私達との関係を確立するのは知らないでしょう。神様があなたをそのような道に立たせるとき、あなたはその道を自信を持って進む必要があります。
6,000年の歴史は単なる歴史ではなく、宇宙の帰還の歴史であり、個人の帰還の歴史です。したがって、宇宙の歴史に責任を持つ中心として不変の姿を持つ事ができない場合、天に代わって立つ事ができない場合、歴史の頂点を越える事はできず、神意の法に従う立場には立てない事です。昔のアブラハムの例を見て下さい。
アブラハムは、神の言葉に従って、それまで住んでいた愛しい故郷であるカルデアのウルを去らなければならない立場にいました。つまり、肉体を中心とした物質的な苦しみに耐えなければならなかった立場を考える必要があります。
自分の体を掻きむしっても、まったく崩れ果てたヨブは、決して神を非難せず、黙って熟考し、その苦しみを超えて神の側に立ち、病人の心情を理解する事もできました。ヨブがそうであったからこそ、彼は失ったものと子供達を取り戻し、さらに大きな祝福を天から受けたのです。
イエス・キリストも福音を伝える道に出る際、ますます自身のすべての環境を捨てました。つまり、彼が30年以上も生活してきた自分の家庭環境を捨てたのです。その後、彼は神の王子の立場や、人類の永遠の真の親の立場を捨てたのです。
このように、イエス様は自分の体、自分の家庭、自分の民族、自分の希望さえも捨てなければならない十字架の道でさえ絶望せず、最初に神の前に立つ意思、神との約束を実現する唯一の道だけを見つめて、望まない者の足跡でしたが、希望を持ってゴルゴタの道を超えたのです。
アブラハムは、カナンの地を望んで自身のすべてを捨てて出発したため、彼の子孫達は神の祝福を受ける事ができました。同様に、イエス・キリストも自身の愛する両親、親戚、民族、国をすべて捨てました。そのため、一定の期間が経過した後、それらすべてを再び見つける日が訪れる事になり、それがまさに「再臨の日」なのです。
したがって、再臨の日を契機に、再び来られる主がこれらすべてを回復される事を理解する必要があります。
歴史の過程で多くの預言者とイエス・キリスト自身がこのような道を歩まれたので、私達はどうすべきでしょうか?まず第一に、私達は歴史を代表できる神の象徴として立たなければなりません。そして、今日の最終段階で、イエス・キリストのように、国、教会、全土、そして世界のために犠牲の道を歩み、またアブラハムやヨブのように、全歴史を負担し、苦難の道を歩まなければなりません。そうしない限り、私達は犠牲の頂点を越えた勝者にはなれません。
では、最終段階に立つ私達にはどのような贖罪の使命があるのでしょうか?まず、物質的な贖罪の使命があるでしょう。真の霊的な恩寵を受けると、それに比例して物質的な贖罪の使命があります。したがって、神の意志を達成し、神のために立つ場所を見つけるためには、自分が地上で望んでいた物質的な条件をすべて捨てる事が必要です。
もし、あなたがたがこのような立場を取れないのであれば、あなたは絶対に旧約聖書時代と新約聖書時代を経て、契約の時代に進む事はできません。将来、物質的な試練が訪れるでしょう。個人を中心に打たれる時期がやってくるでしょうし、民族や国家を中心に打たれる時期もやってくるでしょう。
したがって、個人的にも、または民族、国家、そして世界的に、このような物質的な困難に直面する日が、必ずやこの地上に現れるでしょう。そのような時に、最も深刻な困難に直面する民族が存在するでしょう。その時、その民族の悲しみはその民族によるものではなく、6,000年の歴史を代表して受ける悲しみであり、苦しみはその民族によるものではなく、神の歴史的な苦しみを代わりに受けるものでしょう。
しかし、そのような極端な苦しみと悲しみの中で、世界を救うものは物質ではなく人間である事に気付くと、その民族は犠牲の頂点を越える事ができるのです。それは物質的な犠牲が救いを成し遂げるのではなく、神の子であるイエス・キリストが救いを成し遂げるからです。したがって、今日、皆さんは物質だけに執着し、それを生命よりも尊重する場合、犠牲の頂点を越える事はできない事を理解する必要があります。
終末に物質的な試練があるでしょうが、その時には天を訴える民族が審判を受け、個人でも審判を受ける事になるでしょう。これが中心となる原則を持つ支配者である神です。したがって、苦しみや物質的な困難に直面しても、あなたは物質に執着する事はできません。そして、イエス・キリストのように物質を超越しなければなりません。そうしなければ、あなたの道は閉ざされる事でしょう。
これまで、皆さんはイエス・キリストを代表して教会の指導者達を信じ、頼りにしてきましたが、これは永遠のものではありません。回心の過程において、再臨まで、皆さんは十字架の教義を中心に信仰してきましたが、今後、世界的な回帰の段階に進む際には、これまでの信仰と頼りにするだけでは足りないという事です。
それでは、その時にどうすればいいでしょうか?その時には、皆さんはイエス・キリストを通して神が認める事ができる自己を見つけ出し、確立しなければなりません。そうしなければ、終末の審判の頂点を越える事はできません。
したがって、イエス・キリストは「終わりの時には、あなたの頭に油を塗り、密室に入り、祈りなさい。」と言われたのです。神を求めて歩む皆さんにとって、物質は敵となりやすいものです。そして、その次には、愛する子供や愛する夫婦が敵になりやすいものです。
そのため、イエス様は「あなたの家族があなたの敵である。」とも言われました。ここに神の悲しい悲しみが結びついており、今日、私達の信者達の悲しみも結びついています。これが終末の聖徒達が全般的に超越しなければならない難関なのです。皆さんはこれを理解する必要があります。
その次に、自分自身さえも拒絶し、超越しなければなりません。イエス様もゲッセマネの園で十字架を目の前にして、「父よ、父には万事能がある。この杯を私から取りのけて下さい。しかし、私の望みではなく、父のみ事ばが行われますように。」と祈りました。このような過程を経て、イエス様は自分自身を貶め、拒絶する立場を通過したのです。
したがって、皆さんは自分が持っているすべての希望、喜び、信仰、感情など、これまで所有してきたすべてを一度に捧げ、超越しなければなりません。
言い換えれば、旧約聖書時代は物質的な条件を持って犠牲の頂点を超え、新約聖書時代はイエス・キリストへの信仰によって犠牲の頂点を越えましたが、契約の時代では個人が犠牲の頂点を超えなければならないため、あなた自身が6,000年の犠牲の歴史を代わりに果たす事ができる必要があります。
つまり、あなたが父の前に立ちたいのであれば、あなたは所有している物質、愛する子供、妻、そしてあなた自身を含めてすべてを一つの犠牲として差し出さなければなりません。このような道を進む事で、あなたは歴史的な犠牲の頂点を越える事ができ、その後で初めて神との関係を持つ事ができる事を確実に理解しなければなりません。
他人が否定し、反対するかもしれないこの道を進むあなたは落胆してはいけません。また、この道を進む際に、自分の所有物に対する欲望、子供への期待、愛する夫婦、そして自己への執着心を奪われる過程があるかもしれません。その時、あなたはそのような執着心に固執して、世界を超越しようとしてはいけません。物質、子供への愛、そして自己中心的な希望など、人間的なすべての条件を断ち切る時に、あなたは世界的な犠牲の頂点を超える事ができるのです。
なぜそのような道を進まなければならないのかというと、これまでの回帰の歴史は犠牲の歴史であり、また犠牲の歴史は分かつ歴史であり、分かつ歴史は打つ歴史であるからです。ですから、あなたがたが最後の難関を越えなければならないとき、あなたがたが信じ、従ってきたイエス・キリストが皆さんを打たれ、導いていた聖霊が皆さんを打つでしょう。また、あなたがたが希望として信じてきた神も、世界も皆さんを打つでしょう。こうして天が打ち、地が打つ歴史があっても、最後まで残る事ができないならば、皆さんは決して神の前に立つ事はできないでしょう。
この立場から勝利する者だけが地上で至高の王以上のものを代わりにでき、天国に行っても主の栄光を楽しむ事ができる事を、皆さんは理解しなければなりません。
今日、この国は苦しむ立場にある事が分かります。神の計画からすれば、これは個人が合う時であり、国民と国と世界が合う時です。しかし、皆さんは自分が合っていると嘆いたり、天を訴えたりしてはいけません。この国が合っていると嘆いてはいけません。世界が合っている時が来ても、天を訴えてはいけません。
唯一持っているべき心情は、崩れたり死んだりしても、天だけを頼りにしようという心です。このような心を持って、あなたは個人の十字架を越えなければならず、国家の十字架、国の十字架、世界の十字架を越えなければなりません。こうして世界的な十字架の頂点を越えた後、あなたは栄光で来る再臨の主を迎える事ができるのです。その時が人々が希望する再臨以上のものが実現する時期なのです。
このような世界的な犠牲の頂点を越えた後、あなたは神の愛、神の自由、神の平和、神の理想を所有できます。なぜなら、そのような頂点を完全に越えられない人に神の愛、自由、平和、理想を与えると、サタンが中傷し、その愛、自由、平和、理想が破壊されるからです。したがって、神は世界的な犠牲の頂点を越えられない人に神の愛、自由、平和、理想を許容しなかったのです。
ですから、今、意志を持って進む皆さんは、この宇宙的な犠牲の頂点を越えたかどうか、自問自答しなければなりません。
回帰の歴史を振り返ると、アブラハム時代に「十一族」が始まり、レビ族を中心にして12部族として形成されたユダヤ民族も十一族を捧げ、今日の世界のキリスト教徒も十一族を捧げています。しかし、10の中で1は全体の中で特別な存在であるため、今日のあなたが大韓民国およびキリスト教界において、この特別な地位に立てない限り、イスラエルの中心部族であるレビ族と同じ立場から天を見上げる事はできません。
あなたがそのような地位に進む事を望むのであれば、あなたはすべてを捨てる覚悟がなければなりません。また、世界と天国を求めるのであれば、あなたのすべてを捨てる冒険をする必要があります。このような高みがあなたの前に残っています。したがって、私達を導く神もこの高みを越えるために試練を私達に与え、十字架の頂点を越えさせるのです。しかし、あなたはそのような十字架の頂点が審判の条件として現れるとしても、その頂点を克服できる準備がなければなりません。
このような人々は一つにまとまり、ふたりが一緒になり、一つの祭壇を築かなければなりません。レビ族が12部族に分かれたイスラエル民族を導き出し、イエスの後にはイエスを中心にし、レビ族と同様の使命を果たすキリスト教教団が形成され、世界的な祭壇として拡大されたように、今日でもレビ族と同じ使命を果たす世界的な祭司の宗教が存在しなければならないのです。
そのような宗教に参加したい人々は、先述したように犠牲の頂点を越えなければなりません。ユダヤ民族が心を込めて天に犠牲を捧げた事で犠牲の頂点を越える事ができたように、終末に主の前に立つ選ばれた者として存在したいのであれば、心を込めて犠牲を捧げて犠牲の頂点を越えなければなりません。その後、祭司の使命を代わりに果たし、神の恩寵を受け、神の栄光、自由、平和、理想を実現できるようになるのです。
したがって、あなたは特に警戒しなければなりません。神があなたの財産を試すとき、あなたは神に対する忠誠心を変えてはならず、周囲の環境を完全に断つ事ができる人にならなければなりません。これらの原則を理解すれば、神が打たれる前にあなたが最初に自分の財産を捧げられるべきであり、神が断たれる前にあなたが最初に子供や配偶者との愛を捧げられるべきであり、さらにはあなた自身をも捧げられるべきです。そのような人になれるなら、あなたは6,000年の犠牲の頂点を一度に越える事ができるでしょう。
これらの犠牲の頂点を越えた人々がこの地上に多く現れる事を神は切望しており、今日のあなたがどのような立場にいるのか、自己を確認できるようになるべきです。
実際に、あなたがたが物質を神の前に捧げ、そしてあなたがた自身を含めて神に捧げ、供え物の山を越える事ができるのであれば、あなたがたはこの地上でサタンの訴えを受けずに、知恵をもって父の許しを受けて楽園に入る事ができるでしょう。これを心に留め、私達一人一人が与えられた使命を最善の方法で果たすために最善を尽くす事を願っています。共に祈りましょう。

<祈り>
まず最初に、私達が召命を受けて、宇宙全体の秩序の意志の前に立たされ、全体の目的を達成するために生きなければならない事を忘れないように、お願いします。
今日、公共の秩序の道に進んだ私達が供え物の山を越える事ができなく、あなたが私達の周りに存在するものを断ち切られたにもかかわらず、私達は自己に失望し、自己を嘆き、自己を非難した事を忘れないで下さい。
愛する天のお父様、私達が物質的な山と人間的な山を超えるとき、あなたがこれを打たれても、私達がそれを受け入れる事ができるように許して下さい!私達が持っているすべてを収穫されても、私達の命が続く限り、それを感謝しなければならず、私達の周りにある愛を打たれても、命が続く限り、感謝しなければならず、私達の体を打たれても、命が続く限り、感謝できるようにして下さい。私達がこのようになれるように、導いて下さい。
古代の預言者達と過去の祖先達の足跡を私達も学び、進む事ができるように私達を導いて下さい。アブラハムも、ヨブも、イエスもこのような道を歩まれました。今日、私達もこのような道を歩むべきです。お父様、どうか長い時間を要せずに私達を導いて下さい。
必然的に迫っている憎しみの山を越えるための準備を整え、あなたが非難し、打たれても一人で感謝し、越える事のできる善の祭壇を築いて、栄光の主を高めるための天国の忠実な奉仕者として私達を許して下さい、お父様、切に願います。
お父様、今日、この祭壇を担当している私達を慰めて導いて下さい。聖所と聖なる所に囲まれた壁を宇宙的に開ける事のできる真の子供達にして下さい。そのような道で出会い、打たれたとしてもその苦難を乗り越え、永遠にあなたの前に立つ事ができる勇者達に私達を性別にして下さい。
敵が妨げる供え物の山を越え、家庭を導き、家庭の山を越え、国を導き、国の山を越え、さらには世界を導き、世界の山を越えて、天国に達し、永遠にお父様に真の命、真の平和、真の喜び、真の栄光を備えた者達として、自信を持って訴える事のできる子供達に私達を導いて下さい、お父様、切に願います。
すべての御言葉を主の御名でお願いいたします。アーメン。


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聖歌

2023年09月16日 16時15分39秒 | 学習

文鮮明師が作られた詩です。
この詩に曲が付けられて聖歌となりました。


1.復帰の園 (1949年)

1.
千歳の願い荒れの園に   勝利の基を求めて
尽くし来られた血のみ跡  これが父の賜う愛
これが父の賜う愛

2.
幸の花咲く自由の道    楽しい望みの花咲きて
喜びうれしい園の香り   これが父の望む理想
これが父の望む理想

3.
咲きそむ自由 幸の園    うれしく楽しい父のもと
とわに生きゆく花の園   これが父の願う園
これが父の願う園

4.
永久の願いのこの理想   父が立てたもう本然の国
たのしく香りて誉れ帰せ  これが父の創る善
これが父の創る善


---------------
2.聖苑の恵み (1953年)

1. 限りなき恵みは我に与わる
 永遠(とわ)の生命(いのち) 喜びなり
 我今 楽しく常に讃(たた)えん
 栄光を高く捧(ささ)げまつれ

2. 一つの喜びわが胸に得て
 理想(のぞみ)を立て 常に歌わん
 我今 楽しく常に讃えん
 栄光を高く捧げまつれ

3. 永遠の生命 我に溢れて
 万(よろず)の祝い ただ誉(ほ)め奉れ
 我今 楽しく常に讃えん
 栄光を高く捧げまつれ

4. 選ばれし恵みに我感謝して
 誠を尽くして 御前にひれ伏(ふ)さん
 我今 楽しく常に讃えん
 栄光を高く捧げまつれ

---------------
3.聖励の新歌 (1950年)

1.
創られしこの地にわれ生まれ
自由と幸のため 選ばれて
真理で求めし聖励のみ旨
この身供(そな)えて成し遂げん 成し遂げん

2.
強く呼びたもう聖励の声
新エデンの知らせを述べ伝え
建設集(つど)いにこの身を捧げ
自由の国を成し遂げん 成し遂げん

3.
成さばや新たな主の家庭を
父の訪ねたもう永久(とわ)の理想
主のみ言(ことば)をあまねく伝え
新天新地を成し遂げん 成し遂げん

4.
わが主の立てたもう一つの義に
新しき歴史は始まりぬ
栄光の理想なる善(よ)き父母に侍(はべ)り
平和の秩序を打ち立てん 打ち立てん

-------------------
4.栄光の賜物 (1950年)

1.
はるかに輝く栄えの光
強く生きよ自由の生命(いのち)
この地の果てまで目覚め立て
生命の光 永久(とわ)にあり
生命の光 永久にあれ

2.
呼びて求むる栄えの主よ
大いなる姿は 天地(あまち)を抱き
「蘇(い)きた生命はいずこに」と
尋(たず)ぬる君を如何(いか)に迎えん
尋ぬる君を如何に迎えん

3.
死から蘇きたこの我(われ)は
蘇かしたお方に抱(いだ)かれて
永久(とわ)の愛と恵みの声
いついつまでも喜びを
いついつまでも讃(ほ)めまつれ

4.
栄えに入るのも主の恵み
愛に満つるも主の恵み
崇め崇めて奉(まつ)れども
足らぬこの身を如何にせん
足らぬこの身を如何にせん


---------------------
5.勝利者の新歌 (1947年)

1.
ホザナの栄光を求めしわれら  迎えよや新たなる栄えの生命を
約されしみ旨をわれらは成して 自由と幸の歌 喜び歌い
自由と幸の歌 喜び歌おう

2.
暗き闇夜を切り開き      輝く朝は来た新しき夜明けが
鳴らせ高らかに平和の鐘を   自由と幸の歌 喜び歌い
自由と幸の歌 喜び歌おう

3.
新しき生命受けしわれら    誇りていざ歌え新しき歌を
選びたもうみ業を讃えよ高く  自由と幸の歌 喜び歌い
自由と幸の歌 喜び歌おう

4.
創りし主のみ旨尋ねしわれら  天なる美と愛 輝かさん
和動の花園をわれらは求め   自由と幸の歌 喜び歌い
自由と幸の歌 喜び歌おう


------------------
6.悩める心に (不肖年)

1.
暗き力がわれを襲い     思い乱るる弱きわれ
おのが思いのみわずらいて  罪はわが身に生まれ出ずる
罪はわが身に生まれ出ずる

2.
訪ねしわが主のみ声聞けず  無知なるわれはかたくなに
おのが喜びに歩みしに    主は泣き十字架に帰りたもう
主は泣き十字架に帰りたもう

3.
長き闇世を救わんため    険しき荒れ野を歩みつつ
死すべきわれらを訪ねたもう わが主の恵みにいかにこたえん
わが主の恵みにいかにこたえん

4.
栄えの君にまみえんと    罪のこの世と闘いて
苦しみあえぎつ歩みきた   わが身に主は今語りたもう
わが身に主は今語りたもう

5.
栄えのこの日を讃め歌わん  永世極楽四方に満ち
罪とが深きこの身にも    新たなる生命みなぎれり
新たなる生命みなぎれり

6.
おおわが新婦よ来たりしか  岩山荒れ野にわれを訪ね
苦しみ耐えきし汝が姿    この日を願いて耐えきしか
この日を願いて耐えきしか

7.
いざいざ来たりてともに讃えん 汝がため備えしこの日まで
秘めきし宝たえなる愛     汝がため備えし真の愛
汝がため備えし真の愛


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7.統一勇士の歌 (1962年)

1.
心情の因縁で世界は生き    一つに結ばる本然の縁
永久に授受するわれらの故郷  幸の礎のもと千代に生きん
われらは誇れる統一の勇士   強く愛して勇み進まん

2.
永久の心で光彩を放つ     創られし万物の栄光の灯台
生命があふれる本然の人格   理想の価値で花咲かせん
われらは誇れる統一の勇士   強くみ旨立て勇み進まん

3.
秩序の基に真実を立て     永久を約する変わらぬ価値
高く立てらる真理のしるべ   揚々たる善き日をほめ讃えん
われらは誇れる統一の勇士   強く叫びて勇み進まん

4.
東方に明ける輝く文化     全ての民は同胞と
願いし善き父母永久に侍り   誓いて成さん一つの世界
われらは誇れる統一の勇士   強く理想に勇み進まん


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9.朝日に輝く (1959年)

1.
朝日に輝くわが山河
友よもろともに勇み立ち
生命のみ声の満ちあふる
自由の天地に仕えまつれ

2.
果てなき大地よ豊けき地
身も霊もすべて捧げまつり
天地よろずを神に帰し
勝利のみ旗をかざし進め

3.
み父に召されし若き日を
力の限りに戦わん
天なる兵士よ奮い立て
永久の理想を打ち立てよ

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御言葉選集2(5,6)

2023年09月02日 15時19分05秒 | 学習
イエス様は短い瞬間の生活の中にも、神の愛を中心とした本質が現れており、それは小さなことであっても、大きなことを代わりに果たす不変の決意の体現のような形を持って生きられましたことを理解する必要があります。

イエス様の30年以上にわたる生涯を振り返ってみると、イエス様は全体の生涯を捧げて何を成し遂げようとされたのでしょうか?イエス様は人間として備えるべき品質、心、意志、行いにおいて、歴史を代わりにして神に捧げられる唯一無二の犠牲者として来られ、去られましたことを理解する必要があります。

したがって、私達がイエス様を信じている者、イエス様の意志に従って歩んでいる者、イエス様の心に似せるために努めている者、イエス様の品質を求めている私達自身は、どれだけの日々を意志のために駆け抜けたでしょうか?どれだけ私達の心と意志、品質を父なる神に捧げたでしょうか?こうしたことを反省する必要があるでしょう。

皆さんは、心からの真意に従って生きたいと思い、天から授かった天心の品質を自分のものにしたいと願うでしょう。そうであるならば、品質と心を通じて表れるこの意志を確立し、天倫の意志を代わりに達成しなければなりません。しかし、今まで誰もそのような使命を果たすことができなかったために、神の悲しみはここに結びついてしまいました。

今、皆さんが意志を持っていると仮定するならば、その意志は心のためのものであるべきであり、品質のためのものであるべきです。皆さんが心を持つとしたら、天倫の意志に向かって進むことができる心であるべきですし、品質を持つとしたら、その品質を基盤にして神の全体的な姿を代わりに表現できる能力を持ち、宇宙の愛を守る人格を形成できるはずです。







文鮮明先生御言葉選集 2 - 5. 天が望む良い実りが得られますように  (1957年 3月 3日)
1957年3月3日(日) 本部教会 
聖書拝読 : ガラテヤ6:1-10


「祈り」
愛されるお父様!いいえ、行くことを望まない場所、行くことができない孤独な帰還の道のりにおいて、堕落による運命の重荷を引き受け、行く者は果たして誰でしょうか?

かつて人類の祖先の堕落により、お父様は怒りを抱かれるようになり、人々の心にも憎しみが残るようになりました。また、ユダヤ民族の不信仰の罪により、この憎しみは世界中にまで広がってしまったことを知っております。このように憎しみの訴えが天地に響いている今、私達に進むべき道をお父様が開いてくださることを切に望み、願っております。

お父様が導かれる道を歩むためには、まず私達の命が休息できる場所を見つけなければなりません。そしてその後、私達の体と心があなたの安息の場とならなければなりません。そして私達が求めるお父様の愛が私達の体と心に宿るべきであることを知っております。慈悲深いお父様、愛のお父様、寛容なお父様、私達の中においでになり、あなたの御心を示すために尽力される私のお父様よ!この取るに足らない群れが、汚れ、傷ついた体と心をそのまま抱えて、恥じ入りもせずお父様のひざの前に出て参りましたが、容赦してくださいませんか。

お父様が私達を赦してくださらない限り、私達の進むべき基準を示してくださらない限り、私達のような哀れな者は存在しません。お父様! ここに集まった群衆は、お父様が望まれるように生きるため、天を仰ぎ見ながら熱心に願い求める子ども達であり、生涯の選命を歩むために全てを捧げても、厳しい風に煽られる幼い子ども達であります。

お父様よ!私達にとって、永遠の理想もお父様であり、永遠の希望もお父様であり、永遠の命もお父様でした。今日の私達が直面する状況をご存知で、私達の望む全ての願いをご存知のお父様、直接的な導きがなければならないことを私達に示してください。

まず、お父様の導きを受けるための本質的な要素を備えた私達になり、お父様の言葉と使命の中で私達の体と心が捕らわれることを許してください。そして、私達があなたの栄光の前で屈することができないような直接的な力の導きが現れるようにしてください。また、私達の全てを主管して、お父様が容認できない罪の根を私達から取り除いてください。愛するお父様、切に願い求め、願っております。

死の波が私達を襲おうとしています。このすべてをお制止いただき、私達を摂理の組織として、あなたが導かれる道の基盤となるものにし、私達全員があなたの側に立ち、悪に立ち向かい勝利する種族となることをお許しください。

この日は聖なる日です。広く存在する子女達が、あなたの前に礼拝するために集まる場所ごとに、あなたの慈悲と愛の手を示してください。

急ぎ選ばれた者達を呼び寄せ、6千年にわたり父なる神の前に敵対の立場にある悪しきサタンと戦い勝利し、帰ってくることができるあなたの真の子女達となるために、一堂に集まることをお許しください。そして、一つの意志、一つの愛、一つの心を共有し、互いに譲歩し、和解し、助け合える私達となり、あなたの望まれる喜ばしい楽園を築くことができるように許してください。切に願い求め、祈っております。

お父様と共にいてくださり、過去の一週間、あなたが許容できない不完全さが私達にあったとしても、お許しください。また、私達の内に秘められた個人的な憎しみがある場合は、それを取り除いてください。自己中心的な心、意志、考え、信念が残っているでしょうか?お父様よ、あなたの力として現れ、ただあなただけが支配し、説明し、私達全体の心を再び形作り、あなたの姿に似た私達となれるようにお許しください。切にお願い申し上げます。

残りの時間もただあなたに委ねます。誠意をもって、意志をもって、この場に臨む時間を通じて私達を導き、導いてください。あなたの御名においてお祈り致します。アーメン。

<御言葉>
神様はすべてのものを創造されたのは、神様が善の本質となる人間とともに、それらを見て楽しむことのできる日を迎えるためでした。しかし、人間が堕落によって神様を喜ばせることのできる善の実を結ばなかったため、神様の意志や万物の希望はかなえられず、人々の望みも叶わなかったです。そのため、この世界のすべての生命は、常にその善の実が現れることを願っていました。さらに神様も、人間達が善の実を結ぶことを望んでおり、そのために今もなお計画を進めておられます。

善の実を求める神様

神様の心を探ると、その中には神様の悲しみがあり、神様の関心が残っており、今日の人々に対する神様の計画が続いていることがわかります。そのため、私達は神様がまだ創造の理想である善の実を見つけ出そうとしていることを理解できます。

今日、私達信者が、このような神様の立場から立ち、神様の内なる心情を共感し、神様の望むとおりに収穫され、神様が誇りに思える善の実の一部とならなければ、神様の意志が成就せず、神様の失望と悲しみを取り除くことはできないことを皆さんも理解しておくべきです。

神の悲しみとは何でしょうか?それは、すべての創造物が善を追求できるように正しい方向性を持ち、すべてのものを支配できる善の実現体である真の人間が存在しないことです。したがって、人間は神の前で生け贄となり、天の父の内面を表現できる善の実現体となるべきです。その中でも、神の祝福を受ける最も代表的な人物が現れるべきです。

現代の私達の信仰する聖徒の中からこのような人物が出てこない限り、神がイエス・キリストをこの地に遣わし、神の計画を成就させる意味も、イエス・キリストが聖霊を送って業をなす意味も全て虚無になるでしょうし、先人達が苦労の中で闘いながら勝利の日を待ち望んできたそのすべての努力も虚無になるという事実を皆さんは心に留めておく必要があります。

それでは、今日の神が求めているものは何でしょうか?終わりの時の全ての民を代表して、善の実体を具現化した一人が裁きの前に立ち、「神の願いはこうであります。善の実体理想を達成することです。そのような実体を具現化した私をご覧になり、天の御心を解き放ち、裁きの行為を停止してください」と言える一人の人物を神は探し求めているのです。

このような神の心にかなう善の実体を築き上げることができないのであれば、神にとって喜びもありえず、したがって栄光も享受することはできません。神に喜びがない限り、すべての創造物にも喜びはあり得ず、神が栄光を享受できない限り、どの人も栄光を享受することはできないのです。このような運命の中で、人生の道を切り拓いて進んでいく使命が今日のすべてのキリスト教徒にあるのです。

この立場から、神の意志の前に、先人達の前に、そして真の宇宙的善の実現体を収穫されるお父様の前に、私は立ち上がり、神と同じ心情で万物を見つめ、神の計画を思いやることができる存在としての私自身にならなければならないのです。しかし、本当に今この時、私自身は神が求める内なる基準にかなう善の実現体として現れたのでしょうか?私達はこれを自問し、自己反省すべき時が来ています。

現在の時は、人類の堕落によって悲しまれる神が6千年の歴史の後、審判という条件を設けて、異なる御園で善の実を収穫しようとする審判の時であると言えます。

聖書には「人は何を蒔くかにかかわらず、同じように刈り取られるでしょう。」(ガラテヤの信徒への手紙 6:7)という言葉があります。

神はアダムとエバを創造した後、彼らに愛を注ぎ、代わりに秘かなる知識と善を取り戻す日が永遠に続くことを願われました。この神の意志と希望は絶対に達成されるべきものでしたが、アダムとエバの堕落によってそれは実現されませんでした。そのため、神はその希望の実現のために、4千年にわたる歴史を経てイエス・キリストを果実として送られることとなりました。

神の意志を実現するためにお送りになったイエス・キリスト

このイエス・キリストはどのような方でしょうか? イエス・キリストは天の意志と地の意志を解決し、善の実体となることのできる方として来られました。そのため、神の前で誇りに満ち、天を代表し、地を代表することができる、神が望まれた理想的な善の実体としてこの世においでになり、生涯を通じて本来の善の収穫物となり、神にささげることが彼の使命でした。そのような使命を持っておられるキリストは、人間の不信仰のためにゴルゴダの丘で十字架を背負い、犠牲の供物となったことによって、実現できなかった善の収穫が行われるべき方となったのです。

そのため、イエスは未だ実現されていない神の意志を抱え、神の本来の意図が再び地上で成し遂げられることを願い、長い年月を通じて祈り続け、この意志を成し遂げるために必ず再臨されることを私達は理解する必要があります。

このようにイエス・キリストは、神の善の対象として救済されるべき民のために来られました。そのため、彼にはこの地に来て悪魔を追い払い、滅ぼすと同時に、神の代理人として神の理想を実現する使命がありました。そして、イエス・キリストは神の目にかなう喜びをもたらす人生の過程を進むべきでした。したがって、イエス・キリストはその使命を果たすために帰られるのではなく、生きている間に達成されなければならないものでした。

イエス・キリストが生きておられる間にこれらのことを成し遂げていれば、今日、私達は再臨を待つ必要がなく、その時点ですでにイエス・キリストを中心にした人生の過程を通じて、神の目的である善の収穫が達成されていたことでしょう。もしそうだったら、キリスト教徒は2千年間、再臨を待ちながら苦労し、祈りの生活をする必要はなかったでしょう。

今日、私達はイエス・キリストが神の使命を遂行するためにこの地で歩まれたその足跡を見習いながら、イエス・キリストが設定した目標と生まれた目的の両方を必然的に実現しなければなりません。今、私達は生命を捧げてでも神の意志を実現しない限り、神は私達を善の実現体として収穫することはできないことを理解しなければなりません。

神は人間を霊的な世界だけで生きる存在として造ったのではなく、この地上で実体を持ち、霊と肉が調和する生活を送るように創造しました。それは人間の霊が神とともにいて万物を支配し、肉体において霊的な存在と肉体的な存在が調和することを可能にするためでした。これが創造の法則です。したがって、4千年の歴史の後、善の実現体としてこの世においでになったイエス・キリストも、ただ霊的な王だけでいてはならないことを理解するべきです。

イエス・キリストは愛する弟子達に、天と地の法則の秘密を明らかにし、教えたいという熱い願いを持っていました。しかし、当時、イエス・キリストのこの熱望を理解し、その意志を引き継ぐ適切な人物がいなかったのです。そのため、勝利の時を望みながら進んでいくイエス・キリストには、語ることのできないほどの苦悩が心に押し寄せていたことを理解する必要があります。

人間のために来られ、人間とともに共感しようとしたイエス・キリストが、人間に対して共感を伝えることができなくなったため、神はイエス・キリストがこの地の人間と共感するために願っており、そのために2千年という長い時をかけて御業を遂行されているのです。

アダムの堕落から約4千年の歴史が経過した後、イエス・キリストはついに神の意志を成し遂げるためにこの世に宇宙的な善の実体として来られました。そのために多くの犠牲を払い、神を奉仕するために自己を捧げられました。また、私達にとってイエス・キリストは苦難と苦しみと労苦の象徴です。イエス・キリストが残したすべての善の実りを私達は霊的な側面だけで求めてはいけません。それは「あなたが地上で何を束ねるかは、天でも束ねられ、地上で何を解くかは、天でも解かれるでしょう」(マタイ 16:19、18:18)というイエス・キリストの言葉と合致するものです。

私達には、個々のものではない共通の願いがあります。それは神の願い、イエス・キリストの願い、聖霊の願い、そして先人達の願いが交わっています。神は6千年の歴史を通じて、人々が自己認識して善の犠牲として差し出せる日を待ち望まれてきました。その理想が成就される時が再臨の時であり、今がその時なのです。

善の根源、愛の根源、命の根源

それでは、善の実現体として収穫されるために来られたイエス・キリストがなぜ帰られた後、再臨を望み、この地上の人々に実践的な信仰を要求し続けているのかを理解しているならば、あなたは試練や苦難、闘いが前に立ちはだかっても、この道を最後まで進み抜く覚悟を持って戦い続けるべきであり、また、自己中心的な生活ではなく、この世界の人々のために行動する必要があることを理解するでしょう。

しかし、これまで人々は自己中心的な生活を送り、自分だけのために行動してきたため、神はそのことを嘆かれています。今日、私達にはそのような生き方をしてはいけないということです。

一日一日の短い生活を通じては自分を中心に置き、行動することができるかもしれませんが、一生を通じて自己を中心に置く基準を見つける必要があります。言い換えれば、日々の生活を通じては直接的に全ての関係がうまくいくかもしれませんが、一生を通じて自己を中心に置いて生きる人がいれば、その人は神に善の実を捧げることはできません。

したがって、あなた方は一生を通じてイエス・キリストと神の親子の関係を結び、その中心を見つけるために苦難を耐え、すべての困難を乗り越える土台を築かなければなりません。もしあなた方がそのような基盤を築かない限り、希望し、イエス・キリストが望まれてきた善の実りをこの世で得ることはできません。あなた方自身だけの人生の過程では、善の基準を確立することはできません。

なぜなら、この世界には良い言葉があり、善良な人々が存在するように見えますが、まだ善の源であり、善の父となる人は現れていないからです。愛や善、命などと言ってはいますが、彼らは皆、自分自身の人生を基準にして話しているのです。善の根源、愛の根源、命の根源が、自分の心を通じて、体を通じて、生活を通じて、一生を通じて自分に入ってきて、自分がその本質と調和できる基準となるまでは、善の実体にはなり得ないのです。

イエス・キリストは宇宙の万物、つまり無数の宇宙の創造主として来られましたし、この世界のすべての生命の源となられた方であることを理解すべきです。そのため、イエス・キリストはこの地上で真の命の根源を見つけることができなかった人々に対して、善の源となってくださりました。また、イエス・キリストは神の計画が不透明な人間社会で、神の意志を実現するための基準を導くためにこられました。

イエス・キリストも霊的な側面と肉体的な側面を持っておられたため、内的で霊的な出来事と外的で肉体的な出来事があったでしょう。したがって、その生涯においても内的な生活と外的な生活があったでしょう。イエス・キリストはこのような生涯を通じて内外の調和を持ち、生命の中心軸を設定し、この地上で神の意志を実現するための基準を確立し、希望された目標を達成するために活動されました。

イエス・キリストはその使命を果たすために適切な生活を送られましたが、その目的を完全に達成されなかったため、再び来られるために2千年を待つ必要があったのです。もし当時その目的が完全に達成されていたならば、聖霊とイエス・キリストと神は私達と共に生活していたことでしょう。

今日、私達が神とイエス・キリストと聖霊から受け継がなければならないものは何でしょうか?この世の人々は、イエス・キリストが望まれて立てられた具体的な善の理念を受け継ぎ、それが自身の体と心に通じ、神の心にまで通じる善の概念、善の宗教、善の基準を確立しなければなりません。そのようなイエス・キリストの善の理念の根底にあるものを持つと、どれだけ切り取られても新たな芽が出ることができるようになります。

私達信者は、そのような善の根底が何であるか、神の愛の根底が何であるか、神の命の根底が何であるか、そして神が立てた計画の根底がどこにあるかを理解しなければなりません。そのような根底を失った人々の人生では、時間性と空間性を超えることはできません。しかし、今日私達が時間と空間の制約を受けている立場から、これを超えて善との永遠の関係の中で生きることができる善の根底を見つけ出すならば、私達は時空の世界を超越することができるでしょう。

同じ根から同じ実を結ぶ

善は始まりと終わりが一つとして現れるものです。そのような立場から、神は「私はアルファとオメガであり、始まりと終わりです。」と語られました。これは根源となる善の本体と地上的な実体が調和するとき、根源となった神が永遠の命を持つならば、私達のような枝葉であるものも永遠の命を持つようになり、神が永遠に善であるならば、私達も永遠の善となり、神が永遠に喜ばれるならば、私達も永遠に喜ぶことができるということです。私達がそのようになれていないのは、神の地上的な実体となることができなかったからです。

ですから私達は、善の親であるイエス・キリストと聖霊を信じ、新たな生まれとして、彼らと一体となり、神の内的であり霊的な理念を外的で実体的な活動に表現していく必要があります。

今日、私達が善の実体となるためには、再臨する主と一体的な関係を持つ必要があります。言い換えれば、神と一体となった心情を持ち、この地上においてお越しになる主を信じて迎え入れる人は、その主と同じ善の実を結ぶことになるのです。そのような事実を知らず、その基準を見つけることができない者は、永遠の喜びや永遠の命、そして永遠の愛を見つけることはできません。

私達はこのような道を見つけ出し進んでいかなければならない運命を持っています。この道はイエス・キリストが人々に示そうとしたが、達成できなかった道であり、イエス・キリストが去った後、現在までに2千年以上にわたって数多くの預言者達が切り開いてきた道です。

現在、私達は終わりの時が近づいていると言っているこの時に、皆さんにとって何がすべきことなのでしょうか?それは善の収穫の実体となることです。もし皆さんが善の根源であるイエス・キリストによって収穫される一つの実体として立つことができなければ、皆さんはイエス・キリストや聖霊、そして神とは何の関係も持たなくなるでしょう。

人間がどのようにして善を失うようになったのかは、昔のアダムとエバの立場を振り返って見ればわかります。アダムとエバはこの地上で人類の祖先として負うべき責任を忘れました。この宇宙的な使命を果たさなかったために、彼らは善の根源を失い、その後の子孫達に対して道を外れた生活を送らせる結果となりました。

こうして自らの責任を忘れ、その責任を果たすことができなかったため、アダムとエバは堕落してしまい、すべての人々も堕落の重荷を背負うこととなりました。そして、それぞれが背負うようになったこの重荷、全ての生命に影響を及ぼすこの重荷を解くことが帰還の歴史です。

アダムとエバは、神が設けた天律という法の中心を守ることにおいて、どのような干渉も受けることはありませんでした。ただし、神との絶対的な関わりだけを持ち、誰であろうと天の法を守り、委ねられた責任を果たす高貴な位置にいました。

アダムとエバだけでなく、天使達にも守るべき天律の法と進むべき道、担うべき責任と使命がありました。しかし、彼らはこれを忘れて行動したために堕落が生じました。こうして堕落の影響によって人間が背負うこの重荷を、イエス・キリストがおいでになって受け、解き放ちたいと願っています。私達にも、イエス・キリストを通して解かれるべきこの重荷が、聖霊と協力して解くべき責任として残っています。

私達がこのような責任を持つ終わりの時代の聖徒であるならば、自己がイエス・キリストと結びつき、聖霊と結びつく心情の中で、彼らと同じ内容の責任を担い、日常生活や社会生活、または理想的な概念までもがこの基準に従って進行する必要があります。神は人間に祝福を与えて、その実りが実現することを長い歴史の間、願っておられます。そしてイエス・キリストを通じてその御心を達成しようとされましたが、イエス・キリストが十字架にかかり、その御心を完全に達成できなかったため、再びその御心を達成するために歴史を進行中です。この過程で、サタンはこれを妨害しようとする戦いを続けています。こうしてサタンの挑戦に立ち向かいながら進むことが、堕落によって生まれた帰還の道です。

もしアダムとエバが堕落しなかったなら、個々の人の責任は個人が背負うだけで終わっていたでしょうが、彼らが堕落したために、すべての人間には自分が負うべき責任が加わると同時に、サタンとの戦いに立ち向かう責任も加わることになったことを知るべきです。つまり、堕落がなかったなら、人間は自らが担った責任だけを果たすことによって神の喜びを自分の喜びと感じ、実りの体現を実現できたでしょう。しかし、人間が堕落したためにサタンと戦わなければならない責任も背負うことになったのです。これが人間の運命です。

自分が背負う帰還の重荷、この重荷を背負い進むためにも、天地万物の苦難を経験しなければなりません。ここには自己を狙う敵、サタンが存在するため、これらも打ち破らなければならないのが人間達です。イエス・キリストが戻られたことで、神の希望が絶たれました。しかし、イエス・キリストを代わりにし、イエス・キリストが達成しようとされた生涯の目的を達成した勝利の実体が現れ、神が直接、彼らの頭に手を置いて、「あなたは永遠に私の愛する子です。」と祝福を与える日まで、私達はどの宗教を通じてでも、彼に出会い、彼を迎えるための扉を開かなければならないのです。私達はまず、宇宙的な力を育てる必要があるでしょう。

今日、私達には国家的な回復の過程、世界的な回復の過程において、歴史を超越する神の善の実体であるイエス・キリストと関係を築く使命があります。また、回復の責任を担い、その善の実体と関係を築き、天のために戦う息子や娘とならなければなりません。そのような人は終わりの時代に差し掛かっても、何の条件もなしに審判を受けることになります。

また、私達がイエス・キリストと友達になるためには、彼が成し遂げられなかった仕事を成し遂げ、彼の生涯の間に彼が望まれた御心を担う位置に立たなければなりませんが、今まで自分がそのような使命を果たしてきたかを反省する必要があります。イエス・キリストが再臨するまで、霊的なイエス・キリストと聖霊はこの世界の堕落した人間を新生させ、本来の命に戻す歴史を進めています。そのような過程を経た人は審判の時を順調に通り抜けることができ、神はその審判を充分に押しのけてくださることになります。

したがって、私達は自分達が創造的な生命の道を歩み、善の実体としての実りを実現しなければ、主が憐れまれた苦しみよりもさらなる苦しみを感じることになることを認識しなければなりません。

一粒の種さえも秋に収穫し、寒い冬を越えて春を迎えて初めて芽を出すことができます。同じように、終わりの時代に生命の本質を立てるために努力する人々には、一方で生命の本質と善の本質を混乱させる力が働くことになります。すなわち、大荒れの嵐が天地に吹き荒れる冬があるように、終わりの時代を迎えた人々にも生命の血が凍りつき、聖霊の働きが停滞し、社会の活動が麻痺する局面が訪れることになるのです。

そのような世界を通り抜け、それに勝ち得た実績を持ち、天国的な中心と生命と愛と善の根源と調和した実体を備えていなければ、世界全体が恐怖に取りつかれ、中心を失い、混乱に陥ることになるでしょう。

そうなれば、二つの習慣が混在している人々は、分別力のある視野を混乱させ、その中でサタンが現れ、人々の生命を奪おうとする恐怖の時代となるでしょう。そのような時に備えて、私達は確固たる中心を築き、そうした要素を克服し、すべての敵意を解消する生命力を備えなければなりません。

こうして神の愛の膝の中で実を結ぶ生命を見ない限り、それは成長している状態で春や夏を迎えるのではなく、秋や冬を迎える立場となることでしょう。今、人々は6千年にわたる歴史を経て宇宙的な善の収穫の時に差し掛かっています。

このような時、皆さん自身が善の種となる可能性を持つキリストの神授された資質、すなわち神の意志に適った人格を備え、また責任を果たす能力を持つ実体でなければ、新しい季節を迎えて永遠の不滅の命の種としてまかれることはありません。

したがって、私達は困難な状況が生じた際には、神の立場となって嘆き、天に対して憂い、天に対して心を寄せる姿勢を持ち、神に対して「父よ、私は他人の願わない不快な仕事を担当する者となります」と祈ることができる子女となるべきです。

善を築き、求めて行く神

6千年にわたり、父、子、聖霊と闘い、また神の計画を見守りながら攻撃の隙間をうかがっていたサタンは、今日では自身の味方を総動員して一斉に攻撃しようとしています。そのような時にこれに立ち向かい、阻止できる子女達がこの地に現れましたか!そうでないため、神とイエス・キリスト、そして聖霊の憂いがこの地に充満しているのです。

このような場で、私達が本当に創造的な理想を打ち立て、出て行く神の意志を理解するとしたら、本当に堂々と立ち上がり、自信を持って前に出ることができるでしょうか?私達はこれでも足りず、あれでも足りないと感じながら、神の使命を担い、また4千年にわたる歴史を担い、戦ってきたイエスと聖霊の立場から、何百万のサタンを自信を持って撃退できる力を備え、6千年間の闘いの歴史を終わらせようとするイエスと聖霊のサタンに対する戦いに参加し、いつの間にか勝利の分かれ道を広げていかなければなりません。

今までこうした風土を築く任務を担うことができる人々はいくついましたか?そうした人々がいないため、神の深情を理解していないのが今日の聖徒達の現状です。

今、ここに集まった皆さん!他人ではない道、他人が行くべきではないこの険しい道を歩むために私がお導きする気持ちを理解していただきたいと願います。皆さんができる限り、どうかどうか神が望まれる場所まで進み、責任を果たせる人々となってくださることを願います。また、神がイエス・キリストを通して遂行しようとされる意志が残っている限り、その意志を成し遂げるために最後まで責任を果たせる人々となってくださることを願います。

皆さんは互いに兄弟姉妹のように愛し合い、励まし合い、互いに責任を担っていける人々となり、個人的な責任、民族的な責任、そして世界的な責任を全うする必要があります。

こうなれば個人的に不足感を感じることがあっても、皆さんが深刻で熱心な心情になったときでも、仲間達が救ってくれることで、神の手が届かずに望むことが実現される喜びを味わうことができるでしょう。今、神がそのような人に感じさせてでもあなたの意志を知らせてくださる時です。

これまで6千年間にわたって忍耐し、受け入れてこられた神の意志を成し遂げるために働いている最中に苦難に見舞われたとき、「私を助けてください」と懇願できる仲間達を多く持っている人は、神の支えを受けることになります。

今日、神が支えられないことはもちろん、イエス・キリストや聖霊さえも支えられない立場にある人を通じて意志を達成する必要があるため、この地上の人類を見ることができない神の多くの心を知る人がいれば、涙を流しながら悲しみを分かち合うでしょう。しかし、そのような心情を持つ人でも、天地の神の悲しみには届かないでしょう。このような宇宙的な対立の根源が残っていることすら、人々は知らないのです。

皆さんは自分の力で神の前に進むことができない場合、忍耐強い仲間達に頼って進むことを知っているべきです。人々が良い友達、良い先生、あるいは良い牧師に出会いたいと思っているのも、実際には良いものと良くないものを区別し、宇宙的な良い成果体と関係を結び、悪いものからは別の道を選び、足跡を急がせることを望むからです。

自分の決意、信仰、生活を通じて、他の人々に神の国を感じさせることができれば、そのような生活を見た人々もそれを追随するようになります。イエス・キリストが神に従って犠牲にされたように、皆さんも神の業を行う人、つまりそのような牧者や指導者に従う必要があります。しかし、あなたを導く人が神の意志に反している場合、あなたがその人を代わりに天に忠実でなければならず、イエス・キリストを代わりに祭壇を担当し、自分自身が犠牲にならなければならないことです。このようにして責任を果たす場を通過していかなければならないのです。

皆さんは今、自分が背負っている重荷がどれほど重いかを理解する必要があります。今でも聖霊には悲しみが残っており、イエス・キリストと神にも悲しみが残っています。したがって、私がこの悲しみを和らげることができる存在になれない場合、私は天の父の前で恥じるべき存在になるでしょう。

神が導く道を開く人

今、私達の努力はこれまで神、イエス、聖霊が戦ってきた努力を上回り、善の結実として収穫される可能性が見え始めています。したがって、私達がそれに相応しい存在にならない場合、神は再び悲しい出来事を経験されることになるでしょう。

自分の責任を果たせずに悲運な歴史が続いているにもかかわらず、この事実を知らずに眠っている多くの人々がいます。しかし私達は神に対して、「父よ、誰がこの仕事の責任を負うでしょうか?私は最初にあなたの意志を知りましたので、私だけでもこの仕事の責任を負いたいと思います。」と言えるようにし、またそのような決意を持つことが重要です。このようにして、地上で実際に暗黒の勢力と平面的な戦いをし、そして立体的にサタンと戦ってきたのが、これまでの聖徒達の歴史でした。

今日、人々はさまざまな宗教を信仰しています。そして他人に自分が信仰する宗教を奨めていることもあります。しかし、その信仰の内容を見ると、常に善と正義を築き上げると同時に、攻撃してくるサタンの勢力を防ぎ、自己を破壊しようとするどんな邪悪な挑戦にも折れない信仰が求められています。そのような信仰の実体をもって結実すべきは、皆さん自身です。

イエス・キリストは歴史的なあらゆる罪の歴史を一代で清算し、新たな歴史の起源を成し遂げるための責任を一人で担当し、神の国を建設するためにイスラエル民族の守護者として、神に「敵の罪を私に負わせてください」と祈りながらその意志を実現しようとしました。

イエス・キリストのそのような意志は、今日まで世界中で広がっています。今日でも韓国の教会を代表して、「神よ、私にこの世界のすべての罪を許し、命を捧げて敵であるサタンと戦えるようにしてください。」と祈り、立ち上がれる息子や娘が多ければ、神の計画の歴史的進展は、この国を通じて成し遂げられるでしょう。

私達は他の人々が知らない中で、神の事情と意志を理解したなら、責任感を持って、ゴルゴダの丘で倒れることがあっても、再び立ち上がって歩んでいたイエスの運命の道を歩み、十字架の道を模範にして勝利を勝ち取って行くことができる、神の真の息子や娘になるべきです。

そして、私達は今、この国を代表してこの道を歩むべきです。進んで世界を代表して、最終的な審判の場に立ってもいい、私達がなるべきです。皆さん、私達の教会が孤独な道を進むとしても落胆しないでください。私達が罵られ、犠牲を強いられ、自分自身が死ぬ場所に立たされるかもしれませんが、そのような私達のおかげで、この国が生きる道があるのであれば、私達は喜んでその道を進むべきです。この道だけが、この国と私達自身の生きる道です。また、それは私達が果たすべき責任を果たし、神が私達に訪れる場を整える仕事です。

イスラエルの民が犯した罪を神の前で完全に償い、人間の前で完全に償い、またサタンの前でも完全に償っておいた後に、イエスの復活があったように、今日、私達にも乗り越えなければならない荷物があり、達成すべき目的が残されており、進むべき道が残されています。どんな反対があろうとも、私達は死を覚悟し、変わらない姿勢を持ち、―もう一度言いますが、「天地が変わろうとも、私だけは変わらない! 天地が動こうとも、私だけは動かない! また天地が混乱しようとも、私だけは混乱しない! この世界に、私に設定された中心が揺るがすことのできる、どんな創造物もない。」―私達はこのような変わらない自信と責任感を持った生け贄とならなければなりません。

私達がそのような生け贄としての責任を果たす姿勢を持つとき、宇宙的に経験すべき苦難を引き受ける条件が整い、ようやく望んでいたイエス・キリストを迎えるための最初の試練を乗り越えることができます。そして苦難と罪の世界を処理する基準を持つとき、イエス・キリストはようやく全ての人々の前に現れるでしょう。その後、全人類がこの地上で天倫(てんりん)を確立する責任を果たしたと見なすことができるのです。

歴史を超越した善の結実体

私達は、この国を責任を果たす国として立て、その目標を実現するための努力を歩み続けてきました。

しかし、私達がこのような道、つまり帰還の道を進む中で、私達の生活環境には闇が残っている場合、悪の本質、死の要素が潜在的に現れることになります。その闇は虚飾(がいしょく)する場所に現れます。したがって、虚飾は自己を破壊するものです。皆さんはそのような虚飾のために自らを破壊する立場に立ってはいけません。

天理の前でぞんざいに通り抜けようとすると、決して通過できません。それっぽいものを持っていても通過できません。そのような立場はかえって自己を罪の中に引きずり込むものとなります。それは自己を欺くものであり、聖霊やイエス・キリスト、そして神さえも欺くものであり、さらには全ての生きものをため息をつかせる要因となります。

したがって、皆さんがこのような場に立った経験があるなら、真の命令に従って恥じ入り、罪の意識を感じるべきであり、その後、神の前、イエス・キリストの前、聖霊の前、そして全ての生き物の前で、自分自身を映し出すべきです。自分の行動と生活が非の打ちどころのない姿で表れるようにしなければなりません。そのためには、虚飾を避けて自己を破壊しないような生活をすることが必要です。また、互いに依存し合おうとすることも悪の要素です。皆さんは自己を頼りとしようとする気持ちを抑えて、悪の要素が内に充満することを避けなければなりません。

イエスを見つめ、信じ、従うことは簡単なことかもしれません。しかし、斜めから侵入してくるサタンの挑戦をどうやって阻止するか、それは容易な問題ではありません。サタンの挑戦を排除するためには、まず自己がどんな挑戦にも破壊されないほど強くなければなりません。そのためには、天に向かう中心を自己の内にしっかりと築くために怠らない心が必要です。

こうして自己を破壊しない生活を送り、確信を持っているならば、ようやく神が人類に接近しようとする道が開かれるでしょう。このような使命を持つ皆さんは、今やその使命を軽視してはなりません。責任が残されている限り、どんな困難にも打ち勝ち、責任を果たすべきです。戦わなければならない運命が残されている限り、死を覚悟して戦わなければなりません。

今、皆さんがイエスが追求した善の目的が何であり、どのようにしてそこにたどり着けるかを知っているならば、そのような道を進むために、心と体、そしてイエスと聖霊の望みに相応しい生活を送るべきです。

そうしたあなたが、右側にはイエス・キリスト、左側には聖霊を立て、神の前で「神の父よ!私は父の望まれる御旨を遂行するためにサタンと闘い、勝利しました」と言えるようになるべきです。それによって神は、彼を通じてこの世の人々の前にイエス・キリストと聖霊の理想を立て、新しいあなたの使命を委ね、そして実現させるでしょう。その結果、神はイエスと聖霊を天国で安息させ、この地上においてその御旨を達成することができるでしょう。

地上の人々が証人として立つ者であるからと言って、そのまま彼が神の御旨を遂行する代表的な存在として立てられるわけではありません。まず最初に、イエスと聖霊が彼を通して喜び、そして彼が担った使命のために歩むことができるようになる必要があります。まだ達成すべき御旨が残っている限り、その御旨は必ず代表的な一人から立てられ、その一人から発した御旨が全体を通じて実を結ぶと、ひとつの宗教として結実し、その宗教を中心として先覚者達が集まるでしょう。

こうして選ばれた中心的人物に従って、永遠で宇宙的なカナンの福祉へ向かうことができるようになれば、それがまさにイスラエルの選民としての責任を果たすことになります。そのときに神は、宇宙的な怨みが漂うこの地上において、サタンの勢力を排除し、イエス・キリストと聖霊とともに願いがかなった喜びを享受し、すべての人々に神が感じる喜びを分け与えることができるでしょう。その結果、人類の中にある怨みまで和らげられることになるでしょう。

あなたは歴史の中で、全体が超えなければならない一つの難関を越え、また恨みが解けることを望み、それらが解決されて神に感謝し、礼拝することができるような位置まで進んで、歴史を超えた善の実体として結実しなければなりません。その結果、最後の日には、言葉に尽くせない恐怖と闘い疲れた怨み、つまり神とすべてのものと人類の怨みを担い、解決することができるあなたになっていただきたいと願います。


<祈祷>
 これらの若者達をお呼びになり、宇宙的な善の実を求めて努力されるお父様!私達は、それぞれがお父様の導きによって宇宙的な運命において善の実を結ぶべき立場にありながら、その事実を認識せず、想像すらしなかったことをお許しいただきますように。

今日まで私達は、この一つの道を歩みながら、図々しさもなく、嫌悪感もなく、傲慢で他人を軽視することもなく、自分自身の存在を忘れ、自分の責任を忘れた者でした。しかし、今私達は心と体が一つになった後、良心に引け目を感じずに立ち上がることができるその存在を通じてのみ、善の実が成されることが天人の道であることを悟りました。お父様、私達がその外道を歩むことができるように、私達の魂を目覚めさせ、導いてください。

もしご覧になると、ふさわしくない内容があれば、それを整えてください。それによって、ただお父様のためになる心情だけが私達の胸に迫り、お父様の心情が私達の生活を若々しくし、お父様のご心情が私達を導いてくださいますように。私の父よ、私達は孤独な息子や娘であり、また、すべての人々が果たすべき分を担当した者です。どうかお父様、私達の心を慰めてください。今日この時まで、お父様が一緒におられたことは、永遠の善の実体を備えるためであり、真理の主となられたイエス・キリストの導きを通じて私達をお父様の前に引き寄せるためであることを知っております。

それを成し遂げるためにお父様は努力され、歴史を進められてきましたが、私達はこれまでどのような生き方をしてきたかというと、何の意味もない日々を浪費しました。また、私達が責任を持とうとしたことや、理想的だったことはすべて虚しいものであり、自分だけのためだったことでした。

お父様、そのような私達ですが、今、あなたの業を託して励ましてください。また、お父様の歴史によって私達を再び立ち上げてください。この地で平凡な生活をしている私達に恵みを与え、立体的な存在となるあなたが来る主を迎えるために、百万のサタンの束縛から解き放たせ、永遠の勝利の基準となる子供達として私達を立ててください。

託された責任を果たし、お父様の前に勝利と解放と自由の国を築き上げて捧げる者となり、全世界がその前に頭を下げる喜びの日を達成できる者が、このつまらない存在の中から一人でも現れるように許してください。

統一教会の信徒一同が、この民族と共に、このような使命を果たせるよう助けてください。また、この地上にあなたが広げられる全体のご意志を、民族的にも世界的にも明らかにして、百万のサタンを追い払い、あなたの願いが成就するまで責任を果たせるようにしてください。お父様、熱心に願い、求めます。

今日のこの言葉によって、これらの人々に永遠の命を備えさせ、この言葉が心身に響き、思考と概念を刺激する言葉となり、信仰と生活を支配し、神を喜ばせることが永遠の生命の目標になるよう、彼らの心を動かしてください。これらの願いを込めて、すべての言葉を、主の名によって祈ります。アーメン。




文鮮明先生のお言葉選集 2 - 6. どのような復活を達成しようとしているのか? (1957年3月6日)
1957年3月6日(水)、全本部教会
コリント人への手紙一 15:35-44


<祈祷> 私のお父様! 初めに、お父様は善の意志をお持ちになり、すべてのものを創造されました。本質と性質の基準として、変わらぬ姿でおられました。しかし、人々はそのような父の善の相手として差し上げることができず、父の理想を達成することができませんでした。善良な良心の基準から遠く離れてしまったことを知っています。また、これが天とすべてのものの嘆きであったことも知っています。

お父様、私達には永遠の善の基準を生命を捧げてでも求めなければならない運命の道が残されています。この道を最後まで歩む使命が残されています。どうか大いなる力で、この道を歩むことができるようにお許しください。

肉体を通じて押し寄せる悪の要素が善を目指す心の道を遮っています。お父様、この闘いにおいて、善を目指す私達の心が肉体の制約に打ち勝って敗北する様子にならないように、お導きください。

ただ心を導く善の力と愛の力に導かれて、お父様を求め、変わらぬ姿として存在することができるようにし、永遠に分離することのできない永遠の実存として、父の形に似せ、永遠にお父様を敬うことができるように、お願いいたします。

長い歴史の過程を経て罪と戦いながら、私達は傷だらけになりました。罪の根は私達の骨と肉に刺さっています。これを取り除く責任が私達にあるのですが、私達は非常に力不足で御座います。命の権限をお持ちになるお父様、能力の権限をお持ちになるお父様、創造の権限をお持ちになるお父様、取るに足らない私達の心と体に再び能力の手を差し伸べて、死の影に囚われたすべての悪の要素を取り除いてください。そしてその一つの中心から刺激を受けて勝利の心を起こすことができる、天からの直接的な生命の歴史をこの時に現してくださいと、切に願い求めます。

そのようにして私達自身から復活の力を引き出し、私達が置かれている環境でその一つの中心を代表して復活の歴史を興すことができる、あなたの子女としての資格を持つことをお許しくださいと、お父様、熱く願い求めます。

不完全な場所にいるからといって、ため息をつく私達にならないように導いてください。完全な場所に向かって走り抜ける努力の中で、この道を遮る敵であるサタンとの闘いに勝利することで、あなたの真の子女の資格を得ることができるように許してください。そして何百万ものサタン達の前で誇れる、あなたの子女としての私達を導いてください。そうして天の軍の天使達が持つ武器を私達が代わりに持ち、何百万ものサタンと戦って勝利することを許してくださいと、愛する父よ、切に願い求めます。

お父様、この瞬間、わずかな仲間があなたの前で、自分達の不足を告白するために膝をついてひれ伏しています。私達には相応しくないものがあるかもしれませんが、自己嘆きができる悔改の心を与えてください。また、理解できる知恵の心を与え、善悪を識別できる目と心を持たせてください。

そのため、私達が正しく見ることができ、理解できるように、この一時間、あなたの直接的な歴史を私達に共に示してくださいと、切に願い求めます。今、この一時間は、あなたの前で真摯な心だけを差し出せる、真摯な供犠の時です。何も差し出すものがないかもしれませんが、本来の心情だけを全うして差し出せるようにお許しください。

罪に染まった体から悪の要素を取り除いてください。率直に自己をあなたの前にさらけ出し、あなたの命令に従い、あなたが望まれる意志に適った体と心となるようにしてください。愛するお父様、切に願い求めます。この日の夜にも、周囲に広がって孤独な祭壇を築いている数多くの子女達に、あなたが約束された恩寵を均等に注いでください。終末を迎えて告げられたあなたの意志を成し遂げる感動的な歴史と感銘を与える歴史、そして権能ある歴史が、あなたの子供達が滞在する場所ごとに現れるように許してください。また、真摯な祭壇を見つけるために孤独の中で祈りの祭壇を築いている子女達が多いことを想像しますので、早く彼らがあなたの許しを受けて進むべき道を見つけられるよう、あなたが命じて一つの場所に集まるようにお許しください。そして彼らが永遠にあなたの勝利の旗を掲げて進むために足りないことがない子供達に導いてください、愛するお父様、切に願い求めます。

この一時間、天の祭壇に礼拝するために集まる場所ごとに、あなたの聖なる霊の働きが共に有ってください。感動的な歴史と悔悛の歴史を示すことで、終末にこの国に委ねられた使命に耐えるための祭壇を導いてください。

残された時間もあなたの御心に従って導いていただくことを祈りながら、あなたの名によって祈りました。アーメン。


<祈 禱>

今日、皆さんにお伝えする言葉の題は「あなたはどのような復活を達成しようとしていますか」です。アダムとイブが堕落したことにより、私達人間はお父様の愛から遠ざかりました。しかし、堕落する前のアダムとイブは、堕落すると神を楽しむものから、神が変わって恐れの神になり、理想の神が判決の神に変わることを知りませんでした。

そして、堕落の子孫である私達にとっては、神を恐れのお父様としても、理想のお父様としても扱える時が必ず訪れるでしょう。神は人間がその道に見合ったようになるように、何度も摂理の出来事を起こしたのは、人間に神が理想のお父様として立つためでした。

しかし、サタンの支配下にある者達にとって、神は判決の神であり、恐れのお父様として現れることになります。

したがって、私達が神を理想のお父様として受け入れるためには、人間の堕落によるお父様の苦しみを私達が共感し、お父様と同じ立場になってお父様と共に生活できるつながりを築かなければなりません。そうしないと、神は私達に理想のお父様として現れることができず、また、創造の理想の主人公としても現れることができないのです。

このように、私達が理想の神を受け入れるために進むべき旅において、サタンとの戦いの試練を経ぶ必要があります。これは堕落した人々にとって避けて通れない必然的な悔悛と回心の道なのです。

つまり、自分自身が理想を追求し、世界の人々を恐れの判決から救うための戦いの道を歩まなければ、お父様の理想を見つけることができないことを皆さんは理解すべきです。

そして、復活は自然法則のように行われるのではなく、自分自身が恐怖を克服し、闇の力を打ち砕く場所から復活の歴史が成り立つのです。闇の苦難を勝ち抜いた復活の霊だけがお父様の理想に立ち向かうことができることを皆さんは心に留めておくべきです。

神は自身の計画を達成するために6,000年という長い歳月をかけて歴史を進めています。したがって、私達はこの地上に住むお父様の希望の実現として、真実の本質を持ち、悪と戦って勝利した復活体と一体となり、お父様の理想を実現するためにお父様と一体になるべきです。

そうすれば、お父様と私達の心は一つの愛を感じ、創造の理想に戻るためのお父様の摂理を遂行できるでしょう。それ以外の場合、神が6,000年間かけて下された摂理は未完成のままとなります。そのため、私達は戦いの試練を経なければならない宿命に置かれています。

この戦いの試練では、堕落した人間の力ではサタンの勢力を破壊することはできないため、神はサタンを破壊できる主役としてイエス・キリストを送られたのです。

したがって、イエス・キリストはこの地に来て30年以上の短い生涯を過ごしましたが、平和と喜びの日を迎えることはありませんでした。つまり、彼の足跡を辿れば、サタンとの戦いで涙を流した痕跡が見られることを私達は知ることができます。

今日、私達は日常生活でイエス・キリストの悲しい家庭生活を振り返るべきです。そして、生涯を捧げて闇の罪悪を打破するための戦いを展開しながら、天の前で熱心に祈り求める聖徒達になるべきです。

イエス様がこの地に来て30年以上も苦労の道を歩まれた理由は何でしょうか。それは、堕落後にサタンの支配下で眠っている人々を完全に目覚めさせ、神が支配する自由な環境に導き、堕落しない真の人間、つまり本来の人間に戻すことによって、喜びと栄光の場を築くためでした。

そのため、イエス様の生涯で感じられたすべての感覚、または受けた衝撃や刺激は、一日の中でだけ留まったものではなく、限られた時間内にとどまったものではありませんでした。

彼の視点や歩みが当時の時間内のものであったとしても、彼の目的と理想は永遠のお父様の心にある愛と結びつけるためのものであり、彼はお父様の悲しい心情と一体になるために献身的な心情を持っておられたことを皆さんは知るべきです。

イエス様はお父様の愛と理想に共感する心を持って生きたため、彼の知識や感覚など、すべてはお父様の愛と理想から外れたものではなかったことを皆さんも感じるべきです。

したがって、イエス様がお父様の愛を中心にし、お父様の理想を抱き、生涯の試練の中で戦いの道を切り開いたのは、霊的な部分と肉体的な部分を含めて復活し、成熟し、完成する帰還の道を全うし、堕落しない本来の人間の姿を見つけ出すためでした。そのため、イエス様はサタンの勢力に対して一人で戦ったのです。

イエス様は宇宙的なお父様の理想に立ち向かい、お父様の愛を身に纏い、全宇宙の主役として、すべてを復活させて神に捧げる基準を確立するために生涯を捧げて戦いましたが、イスラエルの民は彼を信じなかったため、人間を霊的・肉体的に復活させるお父様の理想を実現することはできず、彼は帰って行かれたことを皆さんは知るべきです。

イエス様がこの地に生まれ、十字架にかかり、3日後に復活されるまでの生涯は、今日の私達の生涯の試練がどのように展開されるかを示し、宇宙的な歴史の進行において、いつかは終末の時期を経なければならないことを示しています。

そのため、私達自身もイエス様のように十字架の道を歩み、サタンと戦わなければなりません。また、イエス様が望まれた理想と愛を私達自身が受け継がない限り、私達はサタンを打ち破ることはできず、イエス様を通じてお父様の理想を実現することはできないことを皆さんは知るべきです。

イエス様は霊的な部分と肉体的な部分を含む完全な復活の実体を持ち、お父様の体となり、全人類に対して指揮を執れる宇宙的な復活の出来事を地上で遂行すべきでした。しかし、十字架で復活の道を選ばれたため、霊的な復活だけが実現された主役として歴史を進めており、霊的な復活の目的を地上で実現するために聖霊を通してこの仕事を行っています。

したがって、今日、私達がイエス様が望む宇宙的な復活の基準を超えるためには、まず、私達が地上でお父様の摂理を代行する聖霊と永遠の関係を築かなければなりません。

そして、失った復活の理想を再び見つけ出すために、聖霊と私達が一体となり、イエス様が戦った戦いを代わりに戦わなければなりません。そうしなければ、私達は十字架を越えて復活されたイエス様が神から復活の恩寵を受けた場所まで進むことはできないのです。

イエス様が再びこの地に来られる際には、2,000年前に来られた経路を繰り返すべきではありません。再び来られる彼は、復活の栄光と天の支配権を持ち、サタンと戦って勝利し、数え切れない聖徒達から崇拝される存在として前進しなければならないことを皆さんは知るべきです。

イエス様の復活後、聖霊には地上でのイエス様がサタンと戦った使命を代わりに果たすべき第二のサタンとの戦いが残っており、イエス様と同じ立場で歴史を進めているのです。

そして、今日まで、クリスチャン達を通じて世界的なキリスト教的な形を築き上げる歴史を進めています。そのような歴史が実現すると、イエス・キリストが十字架を背負ってサタンと戦って勝利されたように、聖徒達と聖霊が一体となり、聖霊と教会が一体となってサタンと戦い、勝利できるようになるのです。

私達は自分の体を生け贄としてささげ、サタンに勝利したキリストのようになるだけでなく、生きている体として、国民をまとめ、世界をまとめて勝利すべきであったイエス様を代わりにする真のクリスチャンとして成長しなければなりません。そうしなければ、私達はイエス様を十字架に追いやる罪を償い、生きて勝利を収めることはできません。

復活の道を歩む私達は、自分の不足を認識し、ため息をつきながら自問しなければなりません。「私は何者か、私自身はイエス様が人類の復活のために戦ったサタンと、また、2,000年間にわたり真剣に戦ってきた聖徒達の世界的な十字架を代わりに持つことができるだろうか?」という問いかけをしながら助言しなければなりません。

終わりの日に私達がお父様の前に立つとき、神は「あなたは復活の栄光のためにどのような生活をしましたか?」と尋ねられるでしょう。その質問に対してためらわずに答える覚悟が私達には必要です。そうでなければ、私達はお父様の理想とは無関係な自分自身となってしまうでしょう。

私達が十字架の厳しい道を歩む場合、私達の中には自分の体を調べつつ、イエス様を追いかけた12人の使徒のように、再び同じことをしないと自信を持って言う人はいないでしょう。

この終末時代の歴史の過程にある私達は、自分自身が復活にふさわしい生活をどれだけ送ってきたかを冷静に分析しなければならず、また、お父様の愛をどれだけ感じ、お父様の理想、すなわちお父様の意志を実現できる自分自身であるかを問いかけなければなりません。

このような立場にある私達自身が、イエス・キリストと聖霊が6,000年の間に解決しようとしていたその十字架の道を堂々と歩むことができる自信を持てない場合、つまり、自分自身が体を支配できず、自分の体が環境を支配できず、心を中心にして永遠に変わらない姿として、サタンからの恐怖を防ぐ能力が霊的な部分と肉体的な部分を合わせて備わっていない場合、イエス・キリストが30年以上も十字架の道を越えて帰られた後、聖霊を送って2,000年間労苦された意志を実現できないことを私達は覚えておかなければなりません。

したがって、終末において、この宇宙的な恐怖の扉を打ち破り前進しなければならない私達には、どのような態度を持つべきでしょうか?皆さんは次のような決意をするべきです。

まず第一に、イエス・キリストの生涯を代わりにできる人々にならなければなりません。イエス様が内面的な復活を達成しようとした心の奥底を見ると、彼はこの世に生まれてから、十字架にかけられるまで、ただお父様のみ旨を達成するために30年以上の生涯を過ごしたに過ぎませんでしたが、彼は運命を迎える瞬間まで、自分の生涯に後悔することはありませんでした。

イエス様は死を嘆き、自分自身を非難することはありませんでした。むしろ、帰られながらもお父様の前で謙遜な心を持っておられたことを皆さんは理解するべきです。

自分の命を捨て、天の御心のために帰られたとしても、「私は父の御心のために堂々と勝利的な死の道を進むでしょう」という態度で、自分を忘れるような心情を持っていたため、その死に対する責任は神が代わりに負って下さることになったのです。

したがって、私達が聖霊の協力を得てキリストの姿を代わりに持つとき、終末の審判の門を通り抜けるために知るべき重要なことは、イエス・キリストが十字架の道を歩いて勝利したその使命を代わりに歩むことが必要だということです。

イエス様は30年以上にわたり、お父様の御心の前で立ち、サタンと戦いながら、一度も自分を主張したことはありませんでした。また、自分に喜びがあっても、それを一人で楽しむことはしませんでした。そして、勝利があったとしても、それを自分の個人的な勝利だと感じたり、その出来事を自分だけが負担したと思うことはありませんでした。

イエス様は十字架にかかり、運命の瞬間まで全ての時間を神に捧げました。そして、神から授かった使命が地上に残ることを心配し、死ぬ瞬間まで唯一お父様の御心を達成しようと努力されました。また、イエス様は敵であるはずの者達まで救うべきだという責任を感じ、彼らのために祈られたことを知っているべきです。

私達が信仰の生活を送りながら復活の恩寵を受けたとしても、自己中心ではなく、イエス・キリストのような心情を持たなければなりません。また、イエス様が行われた多くの奇跡にも理解を示す必要があります。

では、このように苦労の道を歩み、復活の栄光を得た主の前で、私達はどのような姿で現れるべきでしょうか?ここには三つの形態があります。

まず、イエス様が死の道を躊躇せずに歩み、全人類の罪を贖い取ったように、誠実さと、自分は不足しており、決して主の前に立つ資格がないと言う人がいます。言い換えれば、この地に残された罪を背負い、疲れ果てて倒れながらも戦い、涙を流し、自己をささげて死ぬことができる忠誠心を持ちながら、お父様の前で「私は自分があなたの前に立つ資格がない、何度でも死ぬべきです。」と謙遜な心を持つ人がいるでしょう。

そして、神が見ると、顔を上げる勇気を持てない恥ずかしい心と、何も動かない微細な気持ちで、お父様の意志だけを求め、天の栄光を望まない人がいれば、神はその悲しい心を喜びの心に変え、不足があっても不足ではなく、むしろ慰めてくださるでしょう。

私達が天の前で忠実に全身を捧げ、死に向かって進む生ける犠牲物として、天の前で自信を持って立つ責任を果たしたとしても、自身の不足を認めながら心配の念を抱くと、神様はその心配する心に栄光を注ぎ、悲しむ心に慰めを与えてくださるでしょう。言い換えれば、そのような人々は栄光の復活を受けるためにはそのような人々であるべきです。

2つ目は、「私は天のために心を尽くし、天のために行くべき道を全うし、これ以上は父の聖なるものを受けることができるだろう。」と自分を信じてお父様の前に立つ人がいるかもしれません。

本来、人は天に向かって進む道で、行くほど不足を感じるものです。そして、自身の不足や不完全さを感じることで、自身の不足を補完できる道が生まれるのです。

しかし、この世界にはかつて天の前で認められ、天のために努力し働いたことから、父の前で「私はイエス・キリストの行った道をこのように歩んで、父の前に来ました。」と言いながら顔を上げ、自信を持って話す人がいるかもしれませんが、このようなタイプの人が歩んだ道は、イエス・キリストが行った道とは異なるため、あの国に行っても、十字架の門を完全に越えられなくなるでしょう。

第三に、天の前でも人の前でも、そして天国の数え切れない聖徒や天使の前でも立つことのできない、天の敵の立場にいる人々、イエス・キリストの意向とは何の関係もない人々も、死後に復活を受けるでしょう。

第一のタイプの人々は栄光の復活を受け、第二のタイプの人々は恥ずかしい復活を受け、第三のタイプの人々は死の復活を受けることになります。終末には、これらの三つのタイプの復活があるでしょう。

では、今日、皆さんはどのような復活の道を歩んでいますか?皆さん自身を分析し、まだ清算すべき条件が残っていることを発見した場合、それを大胆に清算する必要があります。そして、自分は足りなくて神様の前に立てないという気持ち、行けば行くほどますます足りないことを感じる心情で、頭を下げて犠牲の努力をしなければなりません。そうしないと、皆さんは永遠のお父様の愛を中心にした理想の園で、お父様の造られた万物を遺産として受け取り、永遠の幸福を楽しむことはできません。

最初のタイプの人々が主の前に立つと、その心は深い海に沈むかのように見えますが、最終的には栄光と希望に満ちた心となるでしょう。希望と栄光の心を持って主を迎える第二のタイプの人々は、最終的には深い海に沈むことになります。そして、第三のタイプの人々は、イエス・キリストに対して悲しむこともできず、天とのつながりも望むこともなく、永遠に天とは無関係な死の復活を受けることになるでしょう。

それでは、自分がどのような復活のタイプに属しているかを知った後、皆さんはどのように行動すべきでしょうか?喜びの顔か、嘆きの顔か、どのような表情を持つべきでしょうか?

皆さんは、最初のタイプのように、2千年以上にわたり期待し、夢見てきた主を迎える場合でも、謙虚で感謝の涙を流す聖徒であるべきです。また、第二のタイプのように、主に会った後に悲しむ立場になって、主の前で頭を下げるべきではありません。

そして、皆さんは第三のタイプの人となり、夢の中でもイエス・キリストや神を崇拝できない立場になってはいけません。このような人は希望があるとしても、その希望は自身から生まれ、自身で終わるものであり、彼はどれだけ地獄で苦しもうとも、それ以上は考えられないでしょう。

これを考えると、今日、キリストの福音を信じている私達、つまり復活の計画を達成しなければならない私達は、地獄に行って主の栄光の座に参加できるとしても、謙虚に頭を下げ、謙遜な心で仕えることができるべきです。

私達は、そのような心を持ち、また主の憐れみと父の愛をもって、キリストの復活の栄光を望むお父様の理想を実現するために敵と戦って勝利しなければなりません。もしこの仕事を地上で完結できない場合、冥府に行ってもそれを償わなければならない運命にあるでしょう。

ですから、今日、私達は信仰生活を送る中で完全に自己を忘れ、献身的でありながらも不足を感じ、犠牲を払いながらも不足を感じ、死の場面でも自己を責めることができなければなりません。私達は、天の前で何も誇りを持たない、本質的な人間として、永遠のお父様の復活の理想を達成できることを知らなければなりません。

このような心で生活する人々は、父から恩寵を受けたとき、父を代わって自己を立てようとして、もしかしたら天の前で立ち止まり、恥じたり悲しんだりしないかもしれないと心配することになります。そして、受けた恩寵が大きいほど、それに比例して自己の不足をより大きく感じる人、また受けた恩寵が貴重だと感じるほど、それに比例して父の前で身の程知らずなほど不足を感じる人がいる場合、サタンもその人を試そうとしても試せないのです。

このように、復活の栄光を求めて天の愛を中心にし、自分自身が体と心で天の理想を満たし、父の前で感謝できる日を見つけない限り、神が望む復活の理想を完成させ、お父様の理想とお父様の愛を中心にして永遠の幸福を楽しむことはできないことを、皆さんは理解しなければなりません。

したがって、皆さんは日が経つにつれて自己の不足を感じるべきです。神はこのような人々を中心にして復活の業、新たな創造の業を行うということを、骨身にしみる思いで感じなければなりません。そうでなければ、主が再臨されたとき、誰もが行けない栄光の座に行くことはできません。皆さんはこのことを理解し、この時から新たな決意と覚悟をもって、闇の世界に真の光を証するために献身的な立場に立ち、キリストの復活の栄光を示す生活を送ってください。


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ヨブ記(抜粋)

2023年08月30日 11時01分51秒 | 学習

 ウヅの地にヨブという名の人があった。その人となりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。
彼に男の子七人と女の子三人があり、
その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭で、しもべも非常に多く、この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった。
そのむすこたちは、めいめい自分の日に、自分の家でふるまいを設け、その三人の姉妹をも招いて一緒に食い飲みするのを常とした。
そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが「私のむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った。
ある日、神の子たちが来て、主の前に立った。サタンも来てその中にいた。
主は言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。
主はサタンに言われた、「あなたは私のしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。
サタンは主に答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。
しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。
主はサタンに言われた、「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」。サタンは主の前から出て行った。
ある日ヨブの息子、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいたとき、使者がヨブのもとに来て言った、「牛が耕し、ろばがそのかたわらで草を食っていると、シバびとが襲ってきて、これを奪い、剣をもって僕達を打ち殺しました。私はただ一人逃れて、あなたに告げるために来ました」。
彼がなお語っているうちに、また一人が来て言った、「神の火が天から下って、羊およびしもべたちを焼き滅ぼしました。私はただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。
彼がなお語っているうちに、また一人が来て言った、「カルデヤびとが三組に分れて来て、らくだを襲ってこれを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました。私はただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。
彼がなお語っているうちに、また一人が来て言った、「あなたのむすこ、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいると、荒野の方から大風が吹いてきて、家の四すみを撃ったので、あの若い人たちの上につぶれ落ちて、皆死にました。私はただ一人逃れて、あなたに告げるために来ました」。
このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、そして言った、「私は裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。
すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった。

 ある日、また神の子たちが来て、主の前に立った。サタンもまたその中に来て、主の前に立った。
主はサタンに言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。
主はサタンに言われた、「あなたは、私のしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、私を勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。
サタンは主に答えて言った、「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。
しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。
主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。
サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。
ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。
時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。
しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。
時に、ヨブの三人の友がこのすべての災のヨブに臨んだのを聞いて、めいめい自分の所から尋ねて来た。すなわちテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルである。彼らはヨブをいたわり、慰めようとして、たがいに約束してきたのである。
彼らは目をあげて遠方から見たが、彼のヨブであることを認めがたいほどであったので、声をあげて泣き、めいめい自分の上着を裂き、天に向かって、ちりをうちあげ、自分たちの頭の上にまき散らした。
こうして七日七夜、彼と共に地に座していて、ひと言も彼に話しかける者がなかった。彼の苦しみの非常に大きいのを見たからである。
   ・
   ・
   ・
 こでヨブは主に答えて言った、
「私は知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。
『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。それゆえ、私はみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました。
『聞け、私は語ろう、私はあなたに尋ねる、私に答えよ』。
私はあなたの事を耳で聞いていましたが、今は私の目であなたを拝見いたします。
それで私はみずから恨み、ちり灰の中で悔います」。
主はこれらの言葉をヨブに語られて後、テマンびとエリパズに言われた、「私の怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、私のしもべヨブのように正しい事を私について述べなかったからである。
それで今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、私のしもべヨブの所へ行き、あなたがたのために燔祭をささげよ。私のしもべヨブはあなたがたのために祈るであろう。私は彼の祈を受けいれるによって、あなたがたの愚かを罰することをしない。あなたがたは私のしもべヨブのように正しい事を私について述べなかったからである」。
そこでテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルは行って、主が彼らに命じられたようにしたので、主はヨブの祈を受けいれられた。
ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。
そこで彼のすべての兄弟、すべての姉妹、および彼の旧知の者どもことごとく彼のもとに来て、彼と共にその家で飲み食いし、かつ主が彼にくだされたすべての災について彼をいたわり、慰め、おのおの銀一ケシタと金の輪一つを彼に贈った。
主はヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。
また彼は男の子七人、女の子三人をもった。
彼はその第一の娘をエミマと名づけ、第二をケジアと名づけ、第三をケレン・ハップクと名づけた。
全国のうちでヨブの娘たちほど美しい女はなかった。父はその兄弟たちと同様に嗣業を彼らにも与えた。
この後、ヨブは百四十年生きながらえて、その子とその孫と四代までを見た。
ヨブは年老い、日満ちて死んだ。

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御言葉選集2(4, 5)

2023年08月21日 13時44分24秒 | 学習
心情は良心を通じて現れるものです。心情の本質は良心の根源にあるため、心情の本質が外面に現れると言うのは適切ではありません。しかし、心情は絶えず外面的に影響を及ぼし続けています。

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たとえば、地球は一見して静止しているように見えますが、実際には太陽を中心に回転しており、また月も地球を周回しています。同様に、天性の本質と良心も同じような関係を持っています。イエス様が語られたすべてのことは、形のない神を代表する御言葉であり、天性的な人格と人性的な人格、または天命的な人格と実生活的な人格を表す天性の全体的な秩序を代表する御言葉であることを理解する必要があります。4千年の歴史の中で、多くの預言者が天性の秩序を確立するために努力しましたが、イエス様は神様の全ての性質を最も多く具体化された方でした。

イエス様は歴史の中で初めて神様の性質を象徴的に示され、その実りをもたらした初めの実体でした。そして、イエス様が来られる前から、多くの人々は良心を基盤にして人間の道徳を確立し、生活してきました。

しかし、彼らは神様が望む最高の良心の基準を確立されたイエス様に出会うことで、4千年ぶりに神様の前に真の犠牲を捧げることができるようになりました。また、イエス様の福音の中に現れた御言葉は、神様の理想と一致し、達成しようとしていたものでした。また、イエス様は血統的に見ても、歴史的に見ても、過去に現れたどの人にも見ることのないような血統を引き継いで生まれた方です。したがって、私達キリスト教徒であり、天に向かって真理の道を歩もうとする私達が、そのような事実を理解し、全体的な責任を担う必要があるでしょう。

また、皆さんは約30年にわたる神様を中心に置いた真心の生活の中で休む暇のなかったイエス様の生涯、歴史と天宙を代表して純粋な犠牲者として生きたイエス様の生涯を手本にするべきです。それでは、約30年間こうして生きたイエス様はどのような方であったでしょうか? 彼は天宙的な愛の基準でした。イエス様は心と愛と知恵と力を傾けて、本性の人倫の教えを確立し、天倫に向かって進むために、神様の愛を手に入れようと努力されました。

また、イエス様が天国でも全ての人々を代表し、総合的な善と正義の基準を確立し、悪魔と立ち向かう力を持つことができたのは、地上において心情と愛と力を全うする生活によって、体と心が善の実体として完成したからでした。

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だからこそ、皆さんもイエス様と一体になるためには、心を全うし、愛を全うし、知恵を全うし、力を全うしなければなりません。その時に初めて、私達はイエス様の立場に立つことができ、イエス様の力によって神の愛を感じることができます。ですから、私達は自分自身の心情を全うし、心を全うし、愛を全うし、力を全うして、父なる神に捧げられる供え物とならなければなりません。

イエス様が4千年の歴史と全ての人々を代表して神に喜ばれる供え物、生ける祭壇の供え物、純粋な供え物として献げられたように、皆さんもまたイエス様に対して純粋な供え物として差し出されるべきです。

そして、皆さんは自分達の生活と人間性、そして神の御心を全うしなければならず、目的を達成するためにこの地に来られたキリストを代表し、天の苦しみを共有し、イエス様が感じられた天国的な愛の心情を感じ取り、備えられた教会から受け入れられなかった者達を探して、人々に寄り添うす必要があります。それによって、あなたがたがそのような人になれば、神様の怒りを解消するだけでなく、人類を救うために来られたイエス・キリストの怒りをようやく解消することができるのです。

愛のイエス様はこの世において、裏切りや背信を犯す人々を訪ねて自身の理念を議論する必要がありました。そのため、私達、背信した先祖を持つ私達は天を裏切り、逆らってきた歴史を遡って「お父様の御心はこれではないでしょうか? この身を受け取ってください!」と言うことができなければなりません。

神様はこうして歴史を代表し、立ち向かうことができる純粋な供え物、触れたことも見たこともない純粋な供え物として捧げられる人を求めていることを皆さんは知らなければなりません。

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皆さんが人生を全うしても、現在の皆さんの人生は悪魔の支配を受け入れている人生であり、心を全うしても、悪魔のささやきに従う心であり、心情も同様です。そのため、終末に立たされる皆さんは必ず悪魔的な人生と心を変えなければなりません。人生観や世界観も変えなければならないでしょう。それはこれまでの信仰観では悪魔に打ち勝つことができず、悪魔の誹謗の条件に縛られた舞台を通過できないからです。イエスが純粋な備え物として十字架に戻られたことは、最初で最後でもあります。これはイエス様が皆さんの性格や心、心情をこの世の人々に紹介されたことです。

イエス様は歴史を代表し、すべての存在に代わって神が価値を見出すことができる存在であり、神様に真実であると認められ、神様に喜ばれ、愛される存在でした。皆さんはイエス様から、悪魔の誹謗を受けることのない、悪魔の所有物にならない人生を感じることがあるでしょう。そのような人生を感じた場合、皆さんはイエス様の真の人生を理解できるようになるでしょう。また、そのような心を感じた場合、皆さんはイエス様の内面的な状況を理解できるようになるでしょう。

そして、イエス様の人生と内面的な状況を理解しようとする人がいれば、神様はその人に対して働かれることができるのです。このようにして、探し求めるべき驚くべき歴史的な天宙の焦点、越えなければならない天宙的な関門があることを人々は知らないのです。そのため、イエス様の望みである純粋な供え物として捧げられることを望む希望が残されていますが、今こそ私達キリスト教徒がその希望をどのように見つけて達成するかが問題となっています。

今日、皆さんがこの希望を見つけようとするなら、過去の不足を認識する必要があります。そして、その不足を神に告白しなければなりません。悔い改めても、涙を流して再び流さなければならず、30年以上も涙を流し続けたイエス様に代わりに涙を流す心が必要です。

また、皆さんはイエス様が30年以上にわたり、一心不乱にただ一つの御心を成就するために食べ、飢え、一身に力を尽くした希望の生活を見習うべきです。そして、死の道を歩む事となったイエス様の哀れな心情を感じる必要があります。

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イエスは地上の信じない人々のために悔いの涙を流す生活を送られました。それだけでなく、天国にまで行かれて涙を流し続けた事実を皆さんは知らなければなりません。このようなイエスの内面的な感情を通じて、内面的な性質の理念を理解し、内面的なイエスの生活の姿を理解し、涙を流してもまだ足りないと感じる必要があります。また、涙が流れて、骨と肉が融けるような悲しい心情を受け継ぎ、心情を通じて、心と心情を通じて、イエス様のすべての愛と人格を通じて表現できるようになるとき、そこから皆さんは天的な関係を中心にしてイエスと一体となることができるでしょう。

そのような心情を感じる皆さん方なら、死の淵から救ってくださったイエスに対して感謝の気持ちを感じるでしょう。そしてその感謝の心を皆さん方の心と体に満たしても、地上や天空に満たしても足りないと感じることになるでしょう。

それでは、イエスはどれだけの悲しみを感じられたでしょうか。皆さんはそれをよく知らないかもしれません。イエス様はアダムの罪と共に失われた天地が崩れるような悲しみを和らげるために、そして人間を探し求める神様の意志を代わりに実現するために来られましたが、自分を送り出されたその方の目的を果たすことができなくなったとき、アダムと共に失われたものを、神様が感じた悲しみを感じられたのです。

今日、歴史的な贖罪を成し遂げなければならない人々は、神様を失っても悲しみを知らない人々になり、花婿であるイエスを失っても悲しみを知らない人々になりました。また、自分には神様の悲しみを慰める責任があることも知らない人々になりました。皆さんもそのような立場にいるのであれば、皆さんがお父様を呼んでも神様は現れる事はないでしょう。

だからこそ、イエス様の御言葉が虚無の御言葉ではないことを理解する必要があります。イエスは真に神に対して「私の父」と言ったように、心を尽くし、意志を尽くし、性格を尽くす人がいれば、天と地が感動するでしょう。

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従って、皆さんは歴史を超えてイエス様と聖霊の心情を同情すると同時に、6千年前に神様が悲しんだ心情を同情して神様を慰める真の子女となるべきです。そのような人となることで、イエス様が望んだ愛が実現されることを皆さんは理解する必要があります。今日、私達は個人的な価値観と歪んだ人生観を持って天を直視しています。

しかし、本当に心を尽くし、思いを尽くし、愛を尽くし、力を尽くす私になれば、お父様を呼ばなくてもお父様が訪れ、主を呼ばなくても主が訪れて私を抱きしめてくださるでしょう。

そうした状況で、皆さんがお父様の愛を感じると、心と体全体がその愛に浸り、喜びに満ちた場に入ることができることを意味します。また、そのようなお父様の愛と心情を通して、鉄が磁石に引かれるように、皆さんも神様に似た存在になることでしょう。その時には、愛を中心とした関係によって、この世界のすべての人々の前に愛の実体として現れようとされたイエス様の約束された王国の理念を実現できるでしょう。そのような人が三人でもいたならば、イエス様の時代における人類の完全な復活の歴史は始まることができたでしょう。


イエス様は、「他人を自分自身よりも愛しなさい」と言われた言葉を抱え、4千年にわたってイエス様を立てるために努力された神様に代わり、イエス様と聖霊に代わる三人の人々が、神様の心情のために死ぬ覚悟をもち、イエス様を信じて従っていたなら、悪魔は自然に服従することでしょう。

それゆえ、イエス様は三人の弟子を呼び寄せ、難しいときでも幸せなときでも、これらの弟子達を連れて歩かれたのです。しかし、このような三位一体の歴史を代わりに成し遂げるためのこの天的な御心の意図に無知な弟子達は気づかなかったのです。ですから、皆さんは知恵を持つ必要があります。神様の愛の知恵と知識を備え、天的な内容を明らかに知ることができるような知恵ある人々とならなければなりません。また、イエス様に従いながらも、イエス様の深い意図を理解できなかった使徒達と同じ立場には立たないようにしなければなりません。

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私達は主に呼ばれ、選ばれた教会と神様の意志の前で、一生を捧げて天の栄光を現すことのできる人になるべきです。そのときに初めて、イエス様の望みであった天国が地上に現れ、地上で悪魔を自然に屈服させることができるでしょう。同様に、神様と共に楽しむことができ、神様の愛を独占することができる子ども達が現れ、悪魔からも崇拝されるようになることを望みながら、三位一体は歴史を作り、多くの先達者達が努力してきたのです。


そのため、天の数々の聖人と天使達、地上の聖人達によって、天に対する心情を中心にし、悪魔を屈服させて天の栄光を讃わせ、復帰の目的のために地上に彼らを動員することができる一つの人格の実体が地上に現れなければなりません。

そうすることで、イエス様の望みと愛を実現し、地上での永遠の神様の愛の主管の中で喜びを感じることができるようになります。



<祈り>
 嫌な立場で偏った生活をしているにもかかわらず、自分自身はそうではないと思っているかわいそうな私達に、この時を通じて自己を知らせていただけるようにお願いします。お父様! 私達はいつか自分の心と意志と力をお父様に捧げたことがあったでしょうか? 人類、民族、国家、世界、天宙を代表してそうしたことはなかったのです。もしそうだとするなら、自分を悔い改め、お父様の前で自分の不足を感じることのできる子供達となるようにお許しください。


今、私達は分かりましたので、私達のすべての生活を誠実に捧げるべきでしょうし、私達に備わっているすべての力を捧げるべきであり、私達の身体と心を捧げるべきであり、私達の心情を捧げるべきでしょう。


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神の意向を理解しながらも、私達はまだ足りないところがありますが、天に捧げるべきものを使い果たしてしまい、無頓着な生活を送ってきました。私達の不足をお赦しください。


これからは、私達は天の意志を成し遂げるために努力されたイエス・キリストを見習って、心の面で全てを純粋なものとしてお父様の前に差し出すことを約束いたします。愛するお父様、私達を祝福し、切に願います。


お父様! この日から、イエス・キリストの心を見習い、生と死を問わずに天を慕い求めるイエス・キリストの心情を体感する者達となることをお許しください。


新たな愛を中心とした天の心情と御心を見習う私達が、愛を中心に据えたイスラエルとなるように導いてください。愛を中心にした天国の生活を営み、天を宿すことができるようにしてください。それは天が楽しむことであり、同時にイエスと聖霊が楽しむことであり、多くの聖徒が楽しみ、全地のすべての万物が永遠に楽しむことのできる理想の世界を築くための聖徒として、真の勝利の花嫁となるために悟ることができない者達として目覚めることなく、願っております。


今こそ、私達が悔い改めて涙を流すなら、世界的に涙を流すように導いてください。心を尽くすなら、天宙的に尽くし、御心を尽くすなら、天宙的に尽くし、心情を尽くすなら、天的なものとなり、それでも足りないと感じさせながらも、私達を導いてください。


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また、私達は純粋なものとして差し出す生活を送り、個人的なものを集めて種族、民族、国家、人類を代表して捧げる栄光を得ることができるように導いてください。新しい心と体を整えて、お父様の前に進むことができるように導いてください。熱望して、すべてのことをお願いいたします。アーメン。








文鮮明先生御言葉選集 2 - 5. 天が望む良い実りが得られますように (1957年 3月 3日)
1957年3月3日(日) 本部教会
聖書拝読 : ガラテヤ6:1-10


<祈り>
愛されるお父様!いいえ、行くことを望まない場所、行くことができない孤独な帰還の道のりにおいて、堕落による運命の重荷を引き受け、行く者は果たして誰でしょうか?


かつて人類の祖先の堕落により、お父様は怒りを抱かれるようになり、人々の心にも憎しみが残るようになりました。また、ユダヤ民族の不信仰の罪により、この憎しみは世界中にまで広がってしまったことを知っております。このように憎しみの訴えが天地に響いている今、私達に進むべき道をお父様が開いてくださることを切に望み、願っております。


お父様が導かれる道を歩むためには、まず私達の命が休息できる場所を見つけなければなりません。そしてその後、私達の体と心があなたの安息の場とならなければなりません。そして私達が求めるお父様の愛が私達の体と心に宿るべきであることを知っております。慈悲深いお父様、愛のお父様、寛容なお父様、私達の中においでになり、あなたの御心を示すために尽力される私のお父様よ!この取るに足らない群れが、汚れ、傷ついた体と心をそのまま抱えて、恥じ入りもせずお父様のひざの前に出て参りましたが、容赦してくださいませんか。


お父様が私達を赦してくださらない限り、私達の進むべき基準を示してくださらない限り、私達のような哀れな者は存在しません。お父様! ここに集まった群衆は、お父様が望まれるように生きるため、天を仰ぎ見ながら熱心に願い求める子ども達であり、生涯の選命を歩むために全てを捧げても、厳しい風に煽られる幼い子ども達であります。


43


お父様! 私達にとって、永遠の理想もお父様であり、永遠の希望もお父様であり、永遠の命もお父様でした。今日の私達が直面する状況をご存知で、私達の望む全ての願いをご存知のお父様、直接的な導きがなければならないことを私達に示してください。


まず、お父様の導きを受けるための本質的な要素を備えた私達になり、お父様の言葉と使命の中で私達の体と心が捕らわれることを許してください。そして、私達があなたの栄光の前で屈することができないような直接的な力の導きが現れるようにしてください。また、私達の全てを主管して、お父様が容認できない罪の根を私達から取り除いてください。愛するお父様、切に願い求め、願っております。


死の波が私達を襲おうとしています。このすべてをお制止いただき、私達を摂理の組織として、あなたが導かれる道の基盤となるものにし、私達全員があなたの側に立ち、悪に立ち向かい勝利する種族となることをお許しください。


この日は聖なる日です。広く存在する子女達が、あなたの前に礼拝するために集まる場所ごとに、あなたの慈悲と愛の手を示してください。


急ぎ選ばれた者達を呼び寄せ、6千年にわたり父なる神の前に敵対の立場にある悪しき悪魔と戦い勝利し、帰ってくることができるあなたの真の子女達となるために、一堂に集まることをお許しください。そして、一つの意志、一つの愛、一つの心を共有し、互いに譲歩し、和解し、助け合える私達となり、あなたの望まれる喜ばしい楽園を築くことができるように許してください。切に願い求め、祈っております。


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お父様と共にいてくださり、過去の一週間、あなたが許容できない不完全さが私達にあったとしても、お許しください。また、私達の内に秘められた個人的な憎しみがある場合は、それを取り除いてください。自己中心的な心、意志、考え、信念が残っているでしょうか? お父様、あなたの力として現れ、ただあなただけが支配し、説明し、私達全体の心を再び形作り、あなたの姿に似た私達となれるようにお許しください。切にお願い申し上げます。


残りの時間もただあなたに委ねます。誠意をもって、意志をもって、この場に臨む時間を通じて私達を導き、導いてください。あなたの御名においてお祈り致します。アーメン。




<御言葉>
神様はすべてのものを創造されたのは、神様が善の本質となる人間とともに、それらを見て楽しむことのできる日を迎えるためでした。しかし、人間が堕落によって神様を喜ばせることのできる善の実を結ばなかったため、神様の意志や万物の希望はかなえられず、人々の望みも叶わなかったです。そのため、この世界のすべての生命は、常にその善の実が現れることを願っていました。さらに神様も、人間達が善の実を結ぶことを望んでおり、そのために今もなお計画を進めておられます。


神様の心を探ると、その中には神様の悲しみがあり、神様の関心が残っており、今日の人々に対する神様の計画が続いていることがわかります。そのため、私達は神様がまだ創造の理想である善の実を見つけ出そうとしていることを理解できます。


今日、私達信者が、このような神様の立場から立ち、神様の内なる心情を共感し、神様の望むとおりに収穫され、神様が誇りに思える善の実の一部とならなければ、神様の意志が成就せず、神様の失望と悲しみを取り除くことはできないことを皆さんも理解しておくべきです。


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神の悲しみとは何でしょうか?それは、すべての創造物が善を追求できるように正しい方向性を持ち、すべてのものを支配できる善の実現体である真の人間が存在しないことです。したがって、人間は神の前で生け贄となり、天の父の内面を表現できる善の実現体となるべきです。その中でも、神の祝福を受ける最も代表的な人物が現れるべきです。


現代の私達の信仰する聖徒の中からこのような人物が出てこない限り、神がイエス・キリストをこの地に遣わし、神の計画を成就させる意味も、イエス・キリストが聖霊を送って業をなす意味も全て虚無になるでしょうし、先人達が苦労の中で闘いながら勝利の日を待ち望んできたそのすべての努力も虚無になるという事実を皆さんは心に留めておく必要があります。


それでは、今日の神が求めているものは何でしょうか?終わりの時の全ての民を代表して、善の実体を具現化した一人が裁きの前に立ち、「神の願いはこうであります。善の実体理想を達成することです。そのような実体を具現化した私をご覧になり、天の御心を解き放ち、裁きの行為を停止してください」と言える一人の人物を神は探し求めているのです。


このような神の心にかなう善の実体を築き上げることができないのであれば、神にとって喜びもありえず、したがって栄光も享受することはできません。神に喜びがない限り、すべての創造物にも喜びはあり得ず、神が栄光を享受できない限り、どの人も栄光を享受することはできないのです。このような運命の中で、人生の道を切り拓いて進んでいく使命が今日のすべてのキリスト教徒にあるのです。


この立場から、神の意志の前に、先人達の前に、そして真の宇宙的善の実現体を収穫されるお父様の前に、私は立ち上がり、神と同じ心情で万物を見つめ、神の計画を思いやることができる存在としての私自身にならなければならないのです。しかし、本当に今この時、私自身は神が求める内なる基準にかなう善の実現体として現れたのでしょうか?私達はこれを自問し、自己反省すべき時が来ています。


現在の時は、人類の堕落によって悲しまれる神が6千年の歴史の後、審判という条件を設けて、異なる御園で善の実を収穫しようとする審判の時であると言えます。


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聖書には「人は何を蒔くかにかかわらず、同じように刈り取られるでしょう。」(ガラテヤの信徒への手紙 6:7)という言葉があります。


神はアダムとエバを創造した後、彼らに愛を注ぎ、代わりに秘かなる知識と善を取り戻す日が永遠に続くことを願われました。この神の意志と希望は絶対に達成されるべきものでしたが、アダムとエバの堕落によってそれは実現されませんでした。そのため、神はその希望の実現のために、4千年にわたる歴史を経てイエス・キリストを果実として送られることとなりました。


このイエス・キリストはどのような方でしょうか? イエス・キリストは天の意志と地の意志を解決し、善の実体となることのできる方として来られました。そのため、神の前で誇りに満ち、天を代表し、地を代表することができる、神が望まれた理想的な善の実体としてこの世においでになり、生涯を通じて本来の善の収穫物となり、神にささげることが彼の使命でした。そのような使命を持っておられるキリストは、人間の不信仰のためにゴルゴダの丘で十字架を背負い、犠牲の供物となったことによって、実現できなかった善の収穫が行われるべき方となったのです。


そのため、イエスは未だ実現されていない神の意志を抱え、神の本来の意図が再び地上で成し遂げられることを願い、長い年月を通じて祈り続け、この意志を成し遂げるために必ず再臨されることを私達は理解する必要があります。


このようにイエス・キリストは、神の善の対象として救済されるべき民のために来られました。そのため、彼にはこの地に来て悪魔を追い払い、滅ぼすと同時に、神の代理人として神の理想を実現する使命がありました。そして、イエス・キリストは神の目にかなう喜びをもたらす人生の過程を進むべきでした。したがって、イエス・キリストはその使命を果たすために帰られるのではなく、生きている間に達成されなければならないものでした。


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イエス・キリストが生きておられる間にこれらのことを成し遂げていれば、今日、私達は再臨を待つ必要がなく、その時点ですでにイエス・キリストを中心にした人生の過程を通じて、神の目的である善の収穫が達成されていたことでしょう。もしそうだったら、キリスト教徒は2千年間、再臨を待ちながら苦労し、祈りの生活をする必要はなかったでしょう。


今日、私達はイエス・キリストが神の使命を遂行するためにこの地で歩まれたその足跡を見習いながら、イエス・キリストが設定した目標と生まれた目的の両方を必然的に実現しなければなりません。今、私達は生命を捧げてでも神の意志を実現しない限り、神は私達を善の実現体として収穫することはできないことを理解しなければなりません。


神は人間を霊的な世界だけで生きる存在として造ったのではなく、この地上で実体を持ち、霊と肉が調和する生活を送るように創造しました。それは人間の霊が神とともにいて万物を支配し、肉体において霊的な存在と肉体的な存在が調和することを可能にするためでした。これが創造の法則です。したがって、4千年の歴史の後、善の実現体としてこの世においでになったイエス・キリストも、ただ霊的な王だけでいてはならないことを理解するべきです。


イエス・キリストは愛する弟子達に、天と地の法則の秘密を明らかにし、教えたいという熱い願いを持っていました。しかし、当時、イエス・キリストのこの熱望を理解し、その意志を引き継ぐ適切な人物がいなかったのです。そのため、勝利の時を望みながら進んでいくイエス・キリストには、語ることのできないほどの苦悩が心に押し寄せていたことを理解する必要があります。


人間のために来られ、人間とともに共感しようとしたイエス・キリストが、人間に対して共感を伝えることができなくなったため、神はイエス・キリストがこの地の人間と共感するために願っており、そのために2千年という長い時をかけて御業を遂行されているのです。


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アダムの堕落から約4千年の歴史が経過した後、イエス・キリストはついに神の意志を成し遂げるためにこの世に宇宙的な善の実体として来られました。そのために多くの犠牲を払い、神を奉仕するために自己を捧げられました。また、私達にとってイエス・キリストは苦難と苦しみと労苦の象徴です。イエス・キリストが残したすべての善の実りを私達は霊的な側面だけで求めてはいけません。それは「あなたが地上で何を束ねるかは、天でも束ねられ、地上で何を解くかは、天でも解かれるでしょう」(マタイ 16:19、18:18)というイエス・キリストの言葉と合致するものです。


私達には、個々のものではない共通の願いがあります。それは神の願い、イエス・キリストの願い、聖霊の願い、そして先人達の願いが交わっています。神は6千年の歴史を通じて、人々が自己認識して善の犠牲として差し出せる日を待ち望まれてきました。その理想が成就される時が再臨の時であり、今がその時なのです。


それでは、善の実現体として収穫されるために来られたイエス・キリストがなぜ帰られた後、再臨を望み、この地上の人々に実践的な信仰を要求し続けているのかを理解しているならば、あなたは試練や苦難、闘いが前に立ちはだかっても、この道を最後まで進み抜く覚悟を持って戦い続けるべきであり、また、自己中心的な生活ではなく、この世界の人々のために行動する必要があることを理解するでしょう。


しかし、これまで人々は自己中心的な生活を送り、自分だけのために行動してきたため、神はそのことを嘆かれています。今日、私達にはそのような生き方をしてはいけないということです。


一日一日の短い生活を通じては自分を中心に置き、行動することができるかもしれませんが、一生を通じて自己を中心に置く基準を見つける必要があります。言い換えれば、日々の生活を通じては直接的に全ての関係がうまくいくかもしれませんが、一生を通じて自己を中心に置いて生きる人がいれば、その人は神に善の実を捧げることはできません。


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したがって、あなた方は一生を通じてイエス・キリストと神の親子の関係を結び、その中心を見つけるために苦難を耐え、すべての困難を乗り越える土台を築かなければなりません。もしあなた方がそのような基盤を築かない限り、希望し、イエス・キリストが望まれてきた善の実りをこの世で得ることはできません。あなた方自身だけの人生の過程では、善の基準を確立することはできません。


なぜなら、この世界には良い言葉があり、善良な人々が存在するように見えますが、まだ善の源であり、善の父となる人は現れていないからです。愛や善、命などと言ってはいますが、彼らは皆、自分自身の人生を基準にして話しているのです。善の根源、愛の根源、命の根源が、自分の心を通じて、体を通じて、生活を通じて、一生を通じて自分に入ってきて、自分がその本質と調和できる基準となるまでは、善の実体にはなり得ないのです。


イエス・キリストは宇宙の万物、つまり無数の宇宙の創造主として来られましたし、この世界のすべての生命の源となられた方であることを理解すべきです。そのため、イエス・キリストはこの地上で真の命の根源を見つけることができなかった人々に対して、善の源となってくださりました。また、イエス・キリストは神の計画が不透明な人間社会で、神の意志を実現するための基準を導くためにこられました。


イエス・キリストも霊的な側面と肉体的な側面を持っておられたため、内的で霊的な出来事と外的で肉体的な出来事があったでしょう。したがって、その生涯においても内的な生活と外的な生活があったでしょう。イエス・キリストはこのような生涯を通じて内外の調和を持ち、生命の中心軸を設定し、この地上で神の意志を実現するための基準を確立し、希望された目標を達成するために活動されました。


イエス・キリストはその使命を果たすために適切な生活を送られましたが、その目的を完全に達成されなかったため、再び来られるために2千年を待つ必要があったのです。もし当時その目的が完全に達成されていたならば、聖霊とイエス・キリストと神は私達と共に生活していたことでしょう。


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今日、私達が神とイエス・キリストと聖霊から受け継がなければならないものは何でしょうか?この世の人々は、イエス・キリストが望まれて立てられた具体的な善の理念を受け継ぎ、それが自身の体と心に通じ、神の心にまで通じる善の概念、善の宗教、善の基準を確立しなければなりません。そのようなイエス・キリストの善の理念の根底にあるものを持つと、どれだけ切り取られても新たな芽が出ることができるようになります。


私達信者は、そのような善の根底が何であるか、神の愛の根底が何であるか、神の命の根底が何であるか、そして神が立てた計画の根底がどこにあるかを理解しなければなりません。そのような根底を失った人々の人生では、時間性と空間性を超えることはできません。しかし、今日私達が時間と空間の制約を受けている立場から、これを超えて善との永遠の関係の中で生きることができる善の根底を見つけ出すならば、私達は時空の世界を超越することができるでしょう。


善は始まりと終わりが一つとして現れるものです。そのような立場から、神は「私はアルファとオメガであり、始まりと終わりです。」と語られました。これは根源となる善の本体と地上的な実体が調和するとき、根源となった神が永遠の命を持つならば、私達のような枝葉であるものも永遠の命を持つようになり、神が永遠に善であるならば、私達も永遠の善となり、神が永遠に喜ばれるならば、私達も永遠に喜ぶことができるということです。私達がそのようになれていないのは、神の地上的な実体となることができなかったからです。


ですから私達は、善の親であるイエス・キリストと聖霊を信じ、新たな生まれとして、彼らと一体となり、神の内的であり霊的な理念を外的で実体的な活動に表現していく必要があります。


今日、私達が善の実体となるためには、再臨する主と一体的な関係を持つ必要があります。言い換えれば、神と一体となった心情を持ち、この地上においてお越しになる主を信じて迎え入れる人は、その主と同じ善の実を結ぶことになるのです。そのような事実を知らず、その基準を見つけることができない者は、永遠の喜びや永遠の命、そして永遠の愛を見つけることはできません。


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私達はこのような道を見つけ出し進んでいかなければならない運命を持っています。この道はイエス・キリストが人々に示そうとしたが、達成できなかった道であり、イエス・キリストが去った後、現在までに2千年以上にわたって数多くの預言者達が切り開いてきた道です。


現在、私達は終わりの時が近づいていると言っているこの時に、皆さんにとって何がすべきことなのでしょうか?それは善の収穫の実体となることです。もし皆さんが善の根源であるイエス・キリストによって収穫される一つの実体として立つことができなければ、皆さんはイエス・キリストや聖霊、そして神とは何の関係も持たなくなるでしょう。


人間がどのようにして善を失うようになったのかは、昔のアダムとエバの立場を振り返って見ればわかります。アダムとエバはこの地上で人類の祖先として負うべき責任を忘れました。この宇宙的な使命を果たさなかったために、彼らは善の根源を失い、その後の子孫達に対して道を外れた生活を送らせる結果となりました。


こうして自らの責任を忘れ、その責任を果たすことができなかったため、アダムとエバは堕落してしまい、すべての人々も堕落の重荷を背負うこととなりました。そして、それぞれが背負うようになったこの重荷、全ての生命に影響を及ぼすこの重荷を解くことが帰還の歴史です。


アダムとエバは、神が設けた天律という法の中心を守ることにおいて、どのような干渉も受けることはありませんでした。ただし、神との絶対的な関わりだけを持ち、誰であろうと天の法を守り、委ねられた責任を果たす高貴な位置にいました。


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アダムとエバだけでなく、天使達にも守るべき天律の法と進むべき道、担うべき責任と使命がありました。しかし、彼らはこれを忘れて行動したために堕落が生じました。こうして堕落の影響によって人間が背負うこの重荷を、イエス・キリストがおいでになって受け、解き放ちたいと願っています。私達にも、イエス・キリストを通して解かれるべきこの重荷が、聖霊と協力して解くべき責任として残っています。


私達がこのような責任を持つ終わりの時代の聖徒であるならば、自己がイエス・キリストと結びつき、聖霊と結びつく心情の中で、彼らと同じ内容の責任を担い、日常生活や社会生活、または理想的な概念までもがこの基準に従って進行する必要があります。神は人間に祝福を与えて、その実りが実現することを長い歴史の間、願っておられます。そしてイエス・キリストを通じてその御心を達成しようとされましたが、イエス・キリストが十字架にかかり、その御心を完全に達成できなかったため、再びその御心を達成するために歴史を進行中です。この過程で、悪魔はこれを妨害しようとする戦いを続けています。こうして悪魔の挑戦に立ち向かいながら進むことが、堕落によって生まれた帰還の道です。


もしアダムとエバが堕落しなかったなら、個々の人の責任は個人が背負うだけで終わっていたでしょうが、彼らが堕落したために、すべての人間には自分が負うべき責任が加わると同時に、悪魔との戦いに立ち向かう責任も加わることになったことを知るべきです。つまり、堕落がなかったなら、人間は自らが担った責任だけを果たすことによって神の喜びを自分の喜びと感じ、実りの体現を実現できたでしょう。しかし、人間が堕落したために悪魔と戦わなければならない責任も背負うことになったのです。これが人間の運命です。


自分が背負う帰還の重荷、この重荷を背負い進むためにも、天地万物の苦難を経験しなければなりません。ここには自己を狙う敵、悪魔が存在するため、これらも打ち破らなければならないのが人間達です。イエス・キリストが戻られたことで、神の希望が絶たれました。しかし、イエス・キリストを代わりにし、イエス・キリストが達成しようとされた生涯の目的を達成した勝利の実体が現れ、神が直接、彼らの頭に手を置いて、「あなたは永遠に私の愛する子です。」と祝福を与える日まで、私達はどの宗教を通じてでも、彼に出会い、彼を迎えるための扉を開かなければならないのです。私達はまず、宇宙的な力を育てる必要があるでしょう。


今日、私達には国家的な回復の過程、世界的な回復の過程において、歴史を超越する神の善の実体であるイエス・キリストと関係を築く使命があります。また、回復の責任を担い、その善の実体と関係を築き、天のために戦う息子や娘とならなければなりません。そのような人は終わりの時代に差し掛かっても、何の条件もなしに審判を受けることになります。


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また、私達がイエス・キリストと友達になるためには、彼が成し遂げられなかった仕事を成し遂げ、彼の生涯の間に彼が望まれた御心を担う位置に立たなければなりませんが、今まで自分がそのような使命を果たしてきたかを反省する必要があります。イエス・キリストが再臨するまで、霊的なイエス・キリストと聖霊はこの世界の堕落した人間を新生させ、本来の命に戻す歴史を進めています。そのような過程を経た人は審判の時を順調に通り抜けることができ、神はその審判を充分に押しのけてくださることになります。


したがって、私達は自分達が創造的な生命の道を歩み、善の実体としての実りを実現しなければ、主が憐れまれた苦しみよりもさらなる苦しみを感じることになることを認識しなければなりません。


一粒の種さえも秋に収穫し、寒い冬を越えて春を迎えて初めて芽を出すことができます。同じように、終わりの時代に生命の本質を立てるために努力する人々には、一方で生命の本質と善の本質を混乱させる力が働くことになります。すなわち、大荒れの嵐が天地に吹き荒れる冬があるように、終わりの時代を迎えた人々にも生命の血が凍りつき、聖霊の働きが停滞し、社会の活動が麻痺する局面が訪れることになるのです。


そのような世界を通り抜け、それに勝ち得た実績を持ち、天国的な中心と生命と愛と善の根源と調和した実体を備えていなければ、世界全体が恐怖に取りつかれ、中心を失い、混乱に陥ることになるでしょう。


そうなれば、二つの習慣が混在している人々は、分別力のある視野を混乱させ、その中で悪魔が現れ、人々の生命を奪おうとする恐怖の時代となるでしょう。そのような時に備えて、私達は確固たる中心を築き、そうした要素を克服し、すべての敵意を解消する生命力を備えなければなりません。


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こうして神の愛の膝の中で実を結ぶ生命を見ない限り、それは成長している状態で春や夏を迎えるのではなく、秋や冬を迎える立場となることでしょう。今、人々は6千年にわたる歴史を経て宇宙的な善の収穫の時に差し掛かっています。


このような時、皆さん自身が善の種となる可能性を持つキリストの神授された資質、すなわち神の意志に適った人格を備え、また責任を果たす能力を持つ実体でなければ、新しい季節を迎えて永遠の不滅の命の種としてまかれることはありません。


したがって、私達は困難な状況が生じた際には、神の立場となって嘆き、天に対して憂い、天に対して心を寄せる姿勢を持ち、神に対して「父よ、私は他人の願わない不快な仕事を担当する者となります」と祈ることができる子女となるべきです。


6千年にわたり、父、子、聖霊と闘い、また神の計画を見守りながら攻撃の隙間をうかがっていた悪魔は、今日では自身の味方を総動員して一斉に攻撃しようとしています。そのような時にこれに立ち向かい、阻止できる子女達がこの地に現れましたか!そうでないため、神とイエス・キリスト、そして聖霊の憂いがこの地に充満しているのです。


このような場で、私達が本当に創造的な理想を打ち立て、出て行く神の意志を理解するとしたら、本当に堂々と立ち上がり、自信を持って前に出ることができるでしょうか?私達はこれでも足りず、あれでも足りないと感じながら、神の使命を担い、また4千年にわたる歴史を担い、戦ってきたイエスと聖霊の立場から、何百万の悪魔を自信を持って撃退できる力を備え、6千年間の闘いの歴史を終わらせようとするイエスと聖霊の悪魔に対する戦いに参加し、いつの間にか勝利の分かれ道を広げていかなければなりません。


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今までこうした風土を築く任務を担うことができる人々はいくついましたか?そうした人々がいないため、神の深情を理解していないのが今日の聖徒達の現状です。


今、ここに集まった皆さん!他人ではない道、他人が行くべきではないこの険しい道を歩むために私がお導きする気持ちを理解していただきたいと願います。皆さんができる限り、どうかどうか神が望まれる場所まで進み、責任を果たせる人々となってくださることを願います。また、神がイエス・キリストを通して遂行しようとされる意志が残っている限り、その意志を成し遂げるために最後まで責任を果たせる人々となってくださることを願います。


皆さんは互いに兄弟姉妹のように愛し合い、励まし合い、互いに責任を担っていける人々となり、個人的な責任、民族的な責任、そして世界的な責任を全うする必要があります。


こうなれば個人的に不足感を感じることがあっても、皆さんが深刻で熱心な心情になったときでも、仲間達が救ってくれることで、神の手が届かずに望むことが実現される喜びを味わうことができるでしょう。今、神がそのような人に感じさせてでもあなたの意志を知らせてくださる時です。


これまで6千年間にわたって忍耐し、受け入れてこられた神の意志を成し遂げるために働いている最中に苦難に見舞われたとき、「私を助けてください」と懇願できる仲間達を多く持っている人は、神の支えを受けることになります。


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今日、神が支えられないことはもちろん、イエス・キリストや聖霊さえも支えられない立場にある人を通じて意志を達成する必要があるため、この地上の人類を見ることができない神の多くの心を知る人がいれば、涙を流しながら悲しみを分かち合うでしょう。しかし、そのような心情を持つ人でも、天地の神の悲しみには届かないでしょう。このような宇宙的な対立の根源が残っていることすら、人々は知らないのです。


皆さんは自分の力で神の前に進むことができない場合、忍耐強い仲間達に頼って進むことを知っているべきです。人々が良い友達、良い先生、あるいは良い牧師に出会いたいと思っているのも、実際には良いものと良くないものを区別し、宇宙的な良い成果体と関係を結び、悪いものからは別の道を選び、足跡を急がせることを望むからです。


自分の決意、信仰、生活を通じて、他の人々に神の国を感じさせることができれば、そのような生活を見た人々もそれを追随するようになります。イエス・キリストが神に従って犠牲にされたように、皆さんも神の業を行う人、つまりそのような牧者や指導者に従う必要があります。しかし、あなたを導く人が神の意志に反している場合、あなたがその人を代わりに天に忠実でなければならず、イエス・キリストを代わりに祭壇を担当し、自分自身が犠牲にならなければならないことです。このようにして責任を果たす場を通過していかなければならないのです。


皆さんは今、自分が背負っている重荷がどれほど重いかを理解する必要があります。今でも聖霊には悲しみが残っており、イエス・キリストと神にも悲しみが残っています。したがって、私がこの悲しみを和らげることができる存在になれない場合、私は天の父の前で恥じるべき存在になるでしょう。


今、私達の努力はこれまで神、イエス、聖霊が戦ってきた努力を上回り、善の結実として収穫される可能性が見え始めています。したがって、私達がそれに相応しい存在にならない場合、神は再び悲しい出来事を経験されることになるでしょう。


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自分の責任を果たせずに悲運な歴史が続いているにもかかわらず、この事実を知らずに眠っている多くの人々がいます。しかし私達は神に対して、「お父様、誰がこの仕事の責任を負うでしょうか? 私は最初にあなたの意志を知りましたので、私だけでもこの仕事の責任を負いたいと思います。」と言えるようにし、またそのような決意を持つことが重要です。このようにして、地上で実際に暗黒の勢力と平面的な戦いをし、そして立体的に悪魔と戦ってきたのが、これまでの聖徒達の歴史でした。


今日、人々はさまざまな宗教を信仰しています。そして他人に自分が信仰する宗教を奨めていることもあります。しかし、その信仰の内容を見ると、常に善と正義を築き上げると同時に、攻撃してくる悪魔の勢力を防ぎ、自己を破壊しようとするどんな邪悪な挑戦にも折れない信仰が求められています。そのような信仰の実体をもって結実すべきは、皆さん自身です。


イエス・キリストは歴史的なあらゆる罪の歴史を一代で清算し、新たな歴史の起源を成し遂げるための責任を一人で担当し、神の国を建設するためにイスラエル民族の守護者として、神に「敵の罪を私に負わせてください」と祈りながらその意志を実現しようとしました。


イエス・キリストのそのような意志は、今日まで世界中で広がっています。今日でも韓国の教会を代表して、「神よ、私にこの世界のすべての罪を許し、命を捧げて敵である悪魔と戦えるようにしてください。」と祈り、立ち上がれる息子や娘が多ければ、神の計画の歴史的進展は、この国を通じて成し遂げられるでしょう。


私達は他の人々が知らない中で、神の事情と意志を理解したなら、責任感を持って、ゴルゴダの丘で倒れることがあっても、再び立ち上がって歩んでいたイエスの運命の道を歩み、十字架の道を模範にして勝利を勝ち取って行くことができる、神の真の息子や娘になるべきです。


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そして、私達は今、この国を代表してこの道を歩むべきです。進んで世界を代表して、最終的な審判の場に立ってもいい、私達がなるべきです。皆さん、私達の教会が孤独な道を進むとしても落胆しないでください。私達が罵られ、犠牲を強いられ、自分自身が死ぬ場所に立たされるかもしれませんが、そのような私達のおかげで、この国が生きる道があるのであれば、私達は喜んでその道を進むべきです。この道だけが、この国と私達自身の生きる道です。また、それは私達が果たすべき責任を果たし、神が私達に訪れる場を整える仕事です。


イスラエルの民が犯した罪を神の前で完全に償い、人間の前で完全に償い、また悪魔の前でも完全に償っておいた後に、イエスの復活があったように、今日、私達にも乗り越えなければならない荷物があり、達成すべき目的が残されており、進むべき道が残されています。どんな反対があろうとも、私達は死を覚悟し、変わらない姿勢を持ち、―もう一度言いますが、「天地が変わろうとも、私だけは変わらない! 天地が動こうとも、私だけは動かない! また天地が混乱しようとも、私だけは混乱しない! この世界に、私に設定された中心が揺るがすことのできる、どんな創造物もない。」―私達はこのような変わらない自信と責任感を持った生け贄とならなければなりません。


私達がそのような生け贄としての責任を果たす姿勢を持つとき、宇宙的に経験すべき苦難を引き受ける条件が整い、ようやく望んでいたイエス・キリストを迎えるための最初の試練を乗り越えることができます。そして苦難と罪の世界を処理する基準を持つとき、イエス・キリストはようやく全ての人々の前に現れるでしょう。その後、全人類がこの地上で天倫(てんりん)を確立する責任を果たしたと見なすことができるのです。


私達は、この国を責任を果たす国として立て、その目標を実現するための努力を歩み続けてきました。


しかし、私達がこの道、つまり復帰の道を進む中で、私達の生活環境には闇が残っている場合、悪の本質、死の要素が潜在的に現れることになります。その闇は虚飾(きょしょく)する場所に現れます。したがって、虚飾は自己を破壊するものです。皆さんはそのような虚飾のために自らを破壊する立場に立ってはいけません。


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天理の前でぞんざいに通り抜けようとすると、決して通過できません。それっぽいものを持っていても通過できません。そのような立場はかえって自己を罪の中に引きずり込むものとなります。それは自己を欺くものであり、聖霊やイエス・キリスト、そして神さえも欺くものであり、さらには全ての生きものをため息をつかせる要因となります。


したがって、皆さんがこのような場に立った経験があるなら、真の命令に従って恥じ入り、罪の意識を感じるべきであり、その後、神の前、イエス・キリストの前、聖霊の前、そして全ての生き物の前で、自分自身を映し出すべきです。自分の行動と生活が非の打ちどころのない姿で表れるようにしなければなりません。そのためには、虚飾を避けて自己を破壊しないような生活をすることが必要です。また、互いに依存し合おうとすることも悪の要素です。皆さんは自己を頼りとしようとする気持ちを抑えて、悪の要素が内に充満することを避けなければなりません。


イエスを見つめ、信じ、従うことは簡単なことかもしれません。しかし、斜めから侵入してくる悪魔の挑戦をどうやって阻止するか、それは容易な問題ではありません。悪魔の挑戦を排除するためには、まず自己がどんな挑戦にも破壊されないほど強くなければなりません。そのためには、天に向かう中心を自己の内にしっかりと築くために怠らない心が必要です。


こうして自己を破壊しない生活を送り、確信を持っているならば、ようやく神が人類に接近しようとする道が開かれるでしょう。このような使命を持つ皆さんは、今やその使命を軽視してはなりません。責任が残されている限り、どんな困難にも打ち勝ち、責任を果たすべきです。戦わなければならない運命が残されている限り、死を覚悟して戦わなければなりません。


今、皆さんがイエスが追求した善の目的が何であり、どのようにしてそこにたどり着けるかを知っているならば、そのような道を進むために、心と体、そしてイエスと聖霊の望みに相応しい生活を送るべきです。


60


そうしたあなたが、右側にはイエス・キリスト、左側には聖霊を立て、神の前で「お父様! 私は父の望まれる御旨を遂行するために悪魔と闘い、勝利しました」と言えるようになるべきです。それによって神は、彼を通じてこの世の人々の前にイエス・キリストと聖霊の理想を立て、新しいあなたの使命を委ね、そして実現させるでしょう。その結果、神はイエスと聖霊を天国で安息させ、この地上においてその御旨を達成することができるでしょう。


地上の人々が証人として立つ者であるからと言って、そのまま彼が神の御旨を遂行する代表的な存在として立てられるわけではありません。まず最初に、イエスと聖霊が彼を通して喜び、そして彼が担った使命のために歩むことができるようになる必要があります。まだ達成すべき御旨が残っている限り、その御旨は必ず代表的な一人から立てられ、その一人から発した御旨が全体を通じて実を結ぶと、ひとつの宗教として結実し、その宗教を中心として先覚者達が集まるでしょう。


こうして選ばれた中心的人物に従って、永遠で宇宙的なカナンの福祉へ向かうことができるようになれば、それがまさにイスラエルの選民としての責任を果たすことになります。そのときに神は、宇宙的な怨みが漂うこの地上において、悪魔の勢力を排除し、イエス・キリストと聖霊とともに願いがかなった喜びを享受し、すべての人々に神が感じる喜びを分け与えることができるでしょう。その結果、人類の中にある怨みまで和らげられることになるでしょう。


あなたは歴史の中で、全体が超えなければならない一つの難関を越え、また恨みが解けることを望み、それらが解決されて神に感謝し、礼拝することができるような位置まで進んで、歴史を超えた善の実体として結実しなければなりません。その結果、最後の日には、言葉に尽くせない恐怖と闘い疲れた怨み、つまり神とすべてのものと人類の怨みを担い、解決することができるあなたになっていただきたいと願います。




<祈祷>
 これらの若者達をお呼びになり、宇宙的な善の実を求めて努力されるお父様!私達は、それぞれがお父様の導きによって宇宙的な運命において善の実を結ぶべき立場にありながら、その事実を認識せず、想像すらしなかったことをお許しいただきますように。


61


今日まで私達は、この一つの道を歩みながら、図々しさもなく、嫌悪感もなく、傲慢で他人を軽視することもなく、自分自身の存在を忘れ、自分の責任を忘れた者でした。しかし、今私達は心と体が一つになった後、良心に引け目を感じずに立ち上がることができるその存在を通じてのみ、善の実が成されることが天人の道であることを悟りました。お父様、私達がその外道を歩むことができるように、私達の魂を目覚めさせ、導いてください。


もしご覧になると、ふさわしくない内容があれば、それを整えてください。それによって、ただお父様のためになる心情だけが私達の胸に迫り、お父様の心情が私達の生活を若々しくし、お父様のご心情が私達を導いてくださいますように。私のお父様、私達は孤独な息子や娘であり、また、すべての人々が果たすべき分を担当した者です。どうかお父様、私達の心を慰してください。今日この時まで、お父様が一緒におられたことは、永遠の善の実体を備えるためであり、真理の主となられたイエス・キリストの導きを通じて私達をお父様の前に引き寄せるためであることを知っております。


それを成し遂げるためにお父様は努力され、歴史を進められてきましたが、私達はこれまでどのような生き方をしてきたかというと、何の意味もない日々を浪費しました。また、私達が責任を持とうとしたことや、理想的だったことはすべて虚しいものであり、自分だけのためだったことでした。


お父様、そのような私達ですが、今、あなたの業を託して励ましてください。また、お父様の歴史によって私達を再び立ち上げてください。この地で平凡な生活をしている私達に恵みを与え、立体的な存在となるあなたが来る主を迎えるために、百万の悪魔の束縛から解き放たせ、永遠の勝利の基準となる子供達として私達を立ててください。


託された責任を果たし、お父様の前に勝利と解放と自由の国を築き上げて捧げる者となり、全世界がその前に頭を下げる喜びの日を達成できる者が、このつまらない存在の中から一人でも現れるようにお許しください。


62


統一教会の信徒一同が、この民族と共に、このような使命を果たせるよう協助してください。また、この地上にあなたが広げられる全体の御心を、民族的にも世界的にも明らかにして、百万の悪魔を追い払い、あなたの願いが成就するまで責任を果たせるようにしてください。お父様、熱心に願い、求めます。


今日のこの言葉によって、これらの人々に永遠の命を備えさせ、この言葉が心身に響き、思考と概念を刺激する言葉となり、信仰と生活を支配し、神を喜ばせることが永遠の生命の目標になるよう、彼らの心を動かしてください。これらの願いを込めて、すべての言葉を、主の名によって祈ります。アーメン。




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御言葉選集2(3, 4)

2023年08月21日 13時44分15秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 2 - 3.  イエス様のご希望になる人となろう
1957年2月17日(日曜日)、前本部教会
ヨハネによる福音書11:1-20

<祈祷>
 愛の園と善の園を失われたお父様。長い歴史の中でお望みになった目的を見つけられず、真の人間性を見出せなかったお父様の困難な状況を、今日ここに集まった子ども達が理解できるようにお許し頂き、お父様の永遠の計画を完成し、愛に包まれて私達を抱きしめて頂けるように、この時間に祝福を願います。

私達は、お父様から与えて頂けなければ何も持ち合わせていないと感じる貧しい者達です。そのため、お父様の慈悲の手で私達を導いて頂きたいと願っております。また、先祖から受け継いだ罪と悪性の心が私達の心の扉を閉ざしていますが、お父様の力を示して暗闇の中にも光が差し込むようにし、善い道へと導いて頂きたいと切に願います。

天の御心に向かって進みたいと望むあなたの子供達の前には、さまざまな困難が立ちはだかっています。お父様、力を授けていただき、能力の手で私達を支えていただき、お父様が戦われた戦いを私達に託して勝利できるようにして頂ける様にと願っております。こうして私達は、数々の困難にも立ち向かいながら、お父様の御心を高らかに賛美できる子ども達となることを熱望し、祈りを捧げます。

この瞬間、あなたのひざの前に立つ私達、お父様の前で捧げるものを自己反省し、認識できるようにお許しください。もしもお父様が喜ばれる贈り物がないとするならば、自己を省み、お父様の慈悲の賜物を受け入れることができるこの一時をお許しください。愛するお父様、切に願い求めます。

天が私達に託した使命は、個々のための使命だけでなく、民族や人類のためであり、無数の信者達の願望までも解き放つべき使命であることを私達は理解しています。私達が貧弱な存在であるとしても、そのような神聖な御心を達成しなければならない使命があることを、この場で祝福されたあなたの子供達の身体と心を献げて、天宙的な神様の御心を成就し、その御心を成就させるのに何の不足もない存在として立ててください。愛のお父様、切に願い求めます。


まだお父様の御心の前に、お父様の賜物の前に、お父様の愛の前に耐えられない要因を持つ子供達がいるとしたら、お父様、歴史の力、再創造の御言葉によって、これらの子供達にお父様の心を理解できなかったことに対する悔いの涙を流すことのできるこの一時としてお導きください。愛するお父様、切に願い求めます。

小さな存在である私達に、三千万の民族を代表して戦う使命を天が託してくださったことに感謝申し上げます。御心を共にし集まったあなたの子供達が戦いの旗を掲げ、天に向かって進む天宙的な責任があることを、私達は認識しております。お父様、どうか彼らにあなたの力を授けてください。

彼らがお父様の御心に向かって進むことができるよう、あなたの感動的な歴史と直接的な働きを通して、彼らの人生を通じて明らかにし、永遠に変わらない約束を目指して進む協助が出来る様にして下さい。そして、数々の敵と戦い、勝利を収め、すべての人々の前でお父様が共におられることを証明しつつ、彼らを導いてください。愛するお父様、切に願い求めます。

この日は聖なる日であり、祝福を授けるために約束された日であることを理解しております。今日ここに集まったあなたの子供達が、深く高いあなたの愛に包まれ、天賦の生活を送るために恵みを与えて頂けるよう、お許しください。切に願い求めております。

孤独な家族が四方に広まり、お父様の許可された御言葉を広めるために努力している各所で、お父様、お約束の御旨を現して下さい。それによって生きておられるお父様の息子娘としての証を示し、暗闇の中にいる全ての人々を目覚めさせ、お父様の立ち上げる直接的な歴史が現れることをお許しください。愛するお父様、切に願い求めます。



今、お父様の前にひれ伏した私達が、お父様にふさわしくない信念や行動があったとするならば、それを自らさらけ出し、尊厳あるお父様の恩寵によって清算を受けるために、謙遜な心を持って敬意を表すことができるよう、お許しください。

この時、悪魔が機会をうかがわないように、お父様、主管していただき、苦難を乗り越えて勝利できるよう導かれたお父様の賜物に感謝し、敬意を表すことができるよう導いて下さい。愛するお父様、切に願い求めます。御心と愛がこの一時に共に働いて下さることを切にお願いし、すべての御言葉を主の御名においてお祈り致しました。アーメン。

<御言葉>
今日はしばらくの間、「イエス様の望む人となろう」と題された御言葉を持ちながら、皆様と一緒に考えたいと思います。

神の胸に隠されていた天の意志を代わりに受け入れ、この地上に現れたイエス・キリストは、私達の先祖たちが犯した罪の歴史を踏み越えて、その勝利の山に立つ真の子女を見つける為においでになった方である事を、皆様はよくご存知かと思います。


それでは、イエス様はこの地上の人々の前に現れる際、どのような心をお持ちになって現れたのでしょうか? 堕落する前の人間が神様に対する心を持って現れました。イエス様は、自分が見聞きし感じるすべての事を堕落の影響を受ける事なく、人間の本質を代表し、神様が人間に対して望まれる全体の御心を受け入れ、その生涯の基準を設定し、新しい福音の御言葉を宣べ伝えられたことを、皆様に理解して頂きたいと思います。

イエス様がご覧になった眼、イエス様がお聞きになった耳、イエス様がお話しになった口、匂いを嗅ぎ取られた鼻、すべての感覚は、地上の人間が自己の欲望を達成するために感じる感覚とは異なっていました。それはただ罪の世界を超えて神様の御心に適い、神様の意志に合致し、神様が楽しむことのできる言葉を自己実現し、すべての人がその手本となって自己を高められる勝利の条件として設定されたものでした。

それでは、そのような心を抱かれたイエス様が望む人はどのような人でしょうか? 言い換えれば、イエス様が求める人はどのような人でしょうか? イエス様が望まれる人の基準を理解し、その基準を復帰する人が存在しなくなれば、イエス様が望まれる御心がこの地上で達成されないだけでなく、神様の御心も達成されないことになります。これを皆様は確実に理解すべきです。

神様がイエス・キリストを通じて要求された御心は、イエス様自身を模範として世界的な勝利の条件として、全ての人がイエス様と一体となることを望まれていました。つまり、すべての人がイエス様を手本にし、イエス様と共に楽しむ事のできる人となる事を神様も望まれ、イエス様も望まれていました。イエス様は人々を復帰する使命を帯びてこの地に現れたため、語られた御言葉や感じた感情、感覚は、私たちが今日使用している言葉や感情、感覚とは根本的に異なっていました。

それでは、イエス様を主として迎え入れている現代の私達は、どのようにすべきでしょうか? まず、イエス様が天の御心を成し遂げるという責任感や天宙全体に対する救いの歴史を完成させるための全体的な責任感をお持ちになっていたその心情を理解することが重要です。そして、イエス様が感じ、共感し、考えていたその基準にまで進んで、イエス様に直接接する相対的な立場に立つ事が必要です。そうした皆様になる事ができなければ、イエス様は哀れな方として終わってしまう事でしょう。


神様は全力を傾けてアダムとエバを造り、彼らを通じて喜びを感じようとされましたが、彼らが堕落した事によって神様の心に悲しみが生じました。この悲しみを解放するためにおいでになった方は誰だったでしょうか?

 それは、まさにイエス様でした。そのイエス様はどのような目的を持って地上においでになったのでしょうか? 堕落していない本来の人間のように堕落の影響を受けず、敵である悪魔の中傷を受けずに神様の前に立派に現れる事のできる真の人間を見つけて立てようとされたのでした。

このような状況の中で、4千年にわたって準備されてきたユダヤ教は、イエス様が喜び得る真の愛を示すべきでありましたが、そのような使命を果たせなかったのです。

この立場にいたイエス様は、かつて神様がアダムとエバを造り、彼らを通じて喜びを感じようとされましたが、むしろ彼らの堕落によって神様が悲しむ事と同じように、神様の御心の為に備えられていたユダヤ教が不信仰に陥る事によって、イエス様は十字架に行かれる過程で言い尽くせないほどの悲しみを感じられました。

したがって、皆様は祖先に由来する神様の悲しみを解放するためにおいでになったが、ユダヤ教の不信仰のために再び悲しみの立場に置かれる事となったイエス様のその心情を解放する聖者とならなければなりません。

もしもそのような人になる事ができないのであれば、皆様はイエス様が望まれる人にはなれず、神様が望まれる人にもなれません。これを忘れてはなりません。



今日、私達はイエス様が望まれ、神様が望まれる人になるために集まりましたが、私達の周りにはそのような人になる事を妨げる条件が多く存在しています。それは悪魔が常に私達の道を妨げようとするためです。このようにして、悪魔は常に私達の生活の中で中傷の条件を見つけようとするのです。昔、アダムとエバがなぜ堕落したのかと言うと、聞こえてくる言葉がどのような言葉かを見極める事ができなかったからです。

天使の言葉をエバが聞いた時、その言葉が真実か、偽りかを見極める事なく行動した事が堕落の始まりとなりました。では、今日私たちが復帰する為には、どのように行動すればよいでしょうか? 正しい耳、真実の耳を持ち、聞こえてくる言葉が善の言葉か悪の言葉かを自分で見極める必要があります。聞こえてくる言葉が何を意味しているか見極める事ができない限り、皆さんも気づかないままに悪魔の誘惑に引っ張られ、道を踏み外してしまう事になることを忘れてはなりません。

今日、この地上では、皆様の耳に響いてくる多くの言葉がある事を理解しています。その中には神様の代わりとなる天の御言葉もあるでしょうし、人間の快楽を中心とした言葉もあるでしょうし、悪魔を中心とした言葉もある事でしょう。しかし、皆様が周囲の生活から耳にするこれらの言葉がどの権威から来たものかを見極めることができない限り、いつ、どこで、悪魔の言葉を聞く事になり、その結果悪魔が皆様の人生を奪ってしまう可能性もあるかもしれません。したがって、常に目を覚まして善悪を正しく見分ける能力を持つ事が重要です。

人々を救うために御言葉を伝えられたイエス様は、当時のユダヤの人々に対して「耳のある者は聞くがよい」と叫ばれました。イエス様がこの御言葉を述べられたのは、正しい耳を持つ者は自身の言葉を命の御言葉として聞き入れるであろうとの確信があったからです。しかし、イエス様が叫ばれた声に耳を傾けて天の御言葉を信じる人は、地上の人々の中に一人もいなかったのです。そのため、イエス様の心情は言い尽くせないほどの深い悲しみとなりました。

従って、今日私達がイエス様の悲しみを解放するために集まったのであれば、イエス様が伝えた御言葉を自身の生命に代わった御言葉、天に代わった御言葉として受け取り、耳を傾ける能力を持つことが重要です。また、自己を省みてみる事も必要です。皆様が耳を傾けて天の御言葉を聞く者となる事によってのみ、イエス様の御心の前で立派に立つ事ができる事を確実に理解する必要があります。


そして、イエス様が4千年にわたる神様の苦労を代って、エデンの園でアダムとエバが堕落した事実を復帰する為の神様の計画を示す御言葉として、感動的な御言葉として、堕落した世界を復帰する為の復帰の御言葉として、民族の前に語りかけられましたが、その御言葉を受け入れた人は一人もいなかったのです。

こうして、イエス様を信じることができなかった先祖を持つ私達、神様の御言葉と悪魔の言葉を区別できず、堕落したアダムとエバの血統を引き継いだ私達には、復帰の道を進む過程で私達を妨げる悪魔が多い事を認識し、自分に向かってくる言葉が真実かどうか、嘘かどうかを正しく判断して聞き入れる能力を持つ事が重要です。もし真偽を正しく判断できないのであれば、皆様は神の息子娘である事はできず、またイエス様の花嫁ともなる事はできないでしょう。

では、終わりの時を迎えた今日の皆さんが、イエス・キリストと永遠に離れる事のない花嫁になる為にはどうすればよいでしょうか? まず最初に、イエス・キリストが耳の聞こえない人々を見て、彼らの為に嘆き悲しみ、その声をもう一度聞く事できるようになり、その方を慰める存在になる必要があります。

そのような皆さんがいるなら、神様の望まれる意志、イエス・キリストの望む御心、そして多くの聖徒達が望む事を、皆さんを通じて成し遂げる事ができるでしょう。こうして、皆さん一人一人の耳を通じて聞こえてくる御言葉には、歴史的で天宙的な責任が伴っている事を理解する必要があります。

その次には、正しく見る能力を持つ人となる必要があります。4千年の歴史を代表して天から遣わされたメシアが、そのような単純な姿で現れる事を当時の人々は夢にも考えなかったのです。その為、メシアを見ても、メシアとして見なかったのです。ヨセフの子として生まれ、30歳前後の青年として、大工の仕事をしていたイエスが、神様が初めて全人類の前に提示した主人公であった事を誰が知っていたでしょうか? 誰も知りませんでした。誰も知らなかったのです。



しかし、今日の皆さんは、イエス・キリストが歴史的な苦難の十字架を背負っている事を正しく理解する能力を持つ必要があります。つまり、その一身自体が神様が4千年にわたって努力された全体の歴史復帰する為の努力の贈り物として現れた事を正しく理解する必要があるという事です。

もし当時の人々が、神様がイエス・キリストを立てる為に4千年の歴史的の中で多くの預言者を送り、イスラエルの選民を形成してきた事を知り、イエス・キリストを正しく見る事ができたなら、なぜイエス・キリストが十字架を背負ったのかという問いに答える事ができたでしょう。ユダヤ人達がイエス・キリストを正しく見る能力を持っていれば、イエス・キリストはゴルゴダの丘で一人にならず、他の人々と共に地上に留まった事でしょう。しかし、イエス・キリストは自分自身が喜びの座にあることができない事を御存じの神様の御心と、自分自身を人々の前に現すために十字架にかけられたことについての事情を理解し、その事実を認識できる人を探し求めていたのです。

しかし、そのような一人をイエス・キリストは見つけて立てる事ができず、結局十字架に戻られる事になりました。したがって、皆さんは今日6千年の罪悪歴史を終結させるために進む道で、皆さんと共にその道を進む人を見つけて立てる必要があります。もしもそのような人を見つけて立てなければ、イエス・キリストが現れた時に私達の先祖達が理解していなかった過ちを償う事はできないという事です。これを心に留めておくべきです。

その為、今日の皆さんは自分達の心をお父様の前に置き、亡くなったイエス様がどのように私達を見て呼びかけているかを理解する必要があります。すなわち、イエス・キリストが一人で叫んだ後、聖霊を送って私達に向かって手招きし、私達の為に思いやりを行動で示している事を知るべきです。

そして、皆さんが2千年前のユダヤ教徒達がイエス・キリストを理解できなかった立場を理解し、イエス・キリストについて「あなたは確かに4千年の間に神様の御心を代弁した勝利の存在として現れたのでしょう」と述べながら崇拝の意を示す人となるべきです。

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それだけでなく、イエス・キリストが来られてから2千年という長い時を経て、皆さん自身を見つけて立てるために、霊的な世界でイエス様と聖霊が努力してきた事を理解する人となる必要があります。もしもそのような人になれなければ、イエス・キリストの時代に生じた4千年の遺恨を解消する事ができず、イエス・キリストの後の2千年の歴史に結びつく神の悲しみを解消する事もできません。従って、皆さんは歴史的な負債を抱えている為、過去の預言者達が伝えた言葉や行動を軽率に批判してはいけないのです。

したがって、今日の皆さんは、イエス・キリストが私達に手招きをし、語りかけているその聖なる姿の前で、歴史的な使命に燃えるイエス・キリストの姿の前で、謙虚に敬意をもって礼拝し、さらにはイエス・キリストの友となる事ができる存在が現れるべきです。そのような存在がこの世に現れる事で、皆さんはその模範に従い、30年以上にわたる労苦を経て2千年にわたって努力されたイエス様のその心情を実証的に慰める事ができる花嫁の立場に進む事ができるでしょう。

皆さんが罪と死の暗闇に囚われて嘆く状況に陥った時、イエス・キリストが何度も皆さんを訪れた事を知っていますか? おそらく知らないでしょう。未だ過去からの復帰を果たす運命が残されたこの地で、イエス・キリストは皆さんがそのまま歩む事を助けるためにやってきます。言い換えれば、イエス・キリストが十字架の救済の使命を確立する為には、神様が4千年にわたって預言者達を送り、計らってきた努力の歴史があった為、神様は皆さんを通じてこれを再収穫しようとしているのです。

言い換えると、私達は個々の人間かもしれませんが、歴史的な価値を備え、イエス・キリストと完全に一体化できる心を持つために、イエス・キリストは私達を訪れます。6千年の歴史の中で続いてきた罪悪の系統から抜け出さなければならない皆さんだからこそ、イエス・キリストは数多くの預言者達が成し遂げる事のできなかったその遺恨を解放する為に皆さんを探し求めています。つまり、イエス・キリストはどの時点、どの場所においても、創造初の清らかなアダムを見るような心情で皆さんに対して臨んでいるのです。

神様はノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、4大預言者などを通して御心を成し遂げようとされましたが、彼らは神様の御心を完全に果たす事はできませんでした。その歴史的な全体の計画を遂行する為にイエス・キリストが来られたのですが、イエス・キリストもまた、ユダヤ人の不信仰によって御心を完全に果たす事なく、十字架に戻られました。

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今、皆さんはこれを引き継いで遂行しなければなりません。その為には、皆さんは天宙の中心的存在であるイエス・キリストに似る必要があります。つまり、イエス・キリストと同様に、天宙の中心的存在として歴史を代表し、すべてを収束させなければならず、イエス・キリストが示してくれた生き方をそのまま実践しなければならないのです。そうでなければ、終わりの時にイエス・キリストから証しを得る事はできません。今までキリスト教徒は、十字架に戻られた主イエスだけを見つめて信仰生活を送ってきました。しかし、そのような姿勢でいてはいけません。

皆さんは、4千年にわたる歴史の過程を通して過ごされた収穫であり復帰されたイエス・キリストを理解する必要があり、イエス・キリストの全生涯を見つめて信仰すべきです。今日でも、過去にアブラハムやモーセ、または洗礼者ヨハネが果たした使命を担う人々がいますが、彼らは個人的な使命だけでなく、歴史の過程において現れた多くの人々の使命も担っているのです。

皆さん自身も同様の使命と責任を担っており、それを果たす為にはイエス・キリストの全生涯を見習う必要があります。本当にそうなれば、皆さんは新たな人となる事ができるでしょう。

今日のキリスト教徒の中で、イエス・キリストの御言葉に真剣に耳を傾けている人はどれ位いるでしょうか? イエス・キリストは6千年にわたる間、いつでも楽な日がないほど、神様の愛情に溢れた心情を持ち、人々を求めて歩まれました。しかし、そのような心情を持ち、イエス・キリストを受け入れ、イエス・キリストの尊厳ある姿の前に立つ事を望んでいた聖徒は少なかったのです。今、真の聖徒となる為の道を進む皆さんがまだその基準に到達していないなら、自己を反省する必要があるでしょう。そして、一歩踏み出して、自己を天の前に献げる供え物として立たなければならない事を忘れてはなりません。

今日の人々は、イエス・キリストが愛情に満ちた心で自分達に手を差し伸べているのに、見る事ができない人々になりました。ですから、今、皆さんは正しく聞く耳と見る目を持つ必要があります。真理の御言葉を聞く事ができるだけでなく、見る事もできる目を持つべきです。

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その後、イエス・キリストを代表して真理を語る事のできる口を持つ必要があります。つまり、皆さんイエス・キリストが伝えたかった内なる心情を代表して、この地上に住む哀れな人々に正しく紹介する力を持つべきです。6千年の歴史とイエス様の生涯と状況を正しく伝える事ができる人となる必要があります。イエス・キリストも、神も、そうした人々を求めておられます。

今日、皆さんはイエス様の子供のような心で御言葉を話すべきです。二つの舌を持つ蛇の系統から生まれたあなた達でも、二つの言葉を話してはいけません。皆さんは神の言葉を聞き、神の姿を見て、その事実を真実をもって、つまり二つの舌を持つ人ではなく一つの舌を持つ人として、人々に示せる人とならなければなりません。神は更に皆さんの代わりになる正しい人、イエス・キリストの代わりになる舌となる人を求めておられます。

本来、私達人間は神様を中心に置く本質を持っています。神様によって創られた本質を持つ人間の心は常に本来の性質に従い、それを真理の基準として採用しようと願っています。人間は常に真実な性格を持つ存在になる事を望んでいます。

私達はこの本質を取り戻し、イエス・キリストの心と体を見つめ、イエス様の言葉を耳にし、それを私達の心と体の中心に再び立てる必要があります。さらに、これを通じて私達はイエス・キリストの代わりの存在となり、この死の世界においてイエス様が伝えた御言葉を伝える存在となるべきです。天はこのようにして、イエス・キリストの御言葉を伝える口と舌を持つ者達を求めておられる事を、皆さんは理解すべきです。

今日の人々は二つの言葉を話す人々となっています。心は一つなのに二つの言葉を話す人間となった為、これを清算して一つの言葉を話す人間として本来の姿に復帰させる事が、神様の計画であると言う事です。

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もし皆さんが神様の御言葉を代表して語り、イエス・キリストの心情と生命を代表して語り、この自信を持って日々の生活を送り、一生を変えずに過ごすのであれば、皆さんには悪魔の中傷は及ばないでしょう。また、皆さんは悪魔の試練にも克服する事ができるでしょう。

従って、終わりの時代に生きる今日の皆さんは、真実な証人としての真実な聖徒となるべきです。つまり、6千年の歴史を通じて神と一致する事のできる御言葉、数多くの聖なる預言者や聖人達を通じて教えられた御言葉、個人的なものではなく全体的なもの、そしてイエス様と聖霊が2千年の間に努力し伝えた御言葉を皆さん自身が具体的に証言でき、再創造の歴史をもたらす神の御言葉を伝えるべきです。

真にそのような人がいるならば、神様とイエス・キリストはその人と共におられるでしょう。数多くの聖徒達はその御言葉を歓迎し、天に帰する人々も自然と霊的な支援を受けてその御言葉に従う事でしょう。また、その御言葉を永遠のものとして、生涯の中で最も重要なものとして確立し、不変の心情で自らの命を捧げて伝える者がいるならば、神様が消える事がない限り、イエス様と聖霊、そして数多くの聖徒がいる限り、彼らの保護の下で必ずこの地に再創造の歴史を築く事でしょう。ですから、今こそ私達はイエス・キリストが2千年前に語られた御言葉がただその時代だけに適したものでは無い事を理解するべきです。

それでは、イエス・キリストの憐れみとは何でしょうか? 終末が近づくにつれて、そして審判の日が近づくにつれて、イエス・キリストは人々が世界の人類を求めておられた神の心を見習い、犠牲を払う使命を通じて神に近づく事を望まれています。しかし、このようなイエス・キリストの心を知らずに、自己中心的な生活によって暗闇に引き込まれ、審判の台に引きずり出されているのです。イエス・キリストはこのような姿を見つめる際、言葉にできない程の悲しみを感じているのです。

したがって、皆さんは2千年前に救いの計画を完遂する為においでになった当時の心情以上に、より深い憐れみの心情を持ち、皆さんを見守りながら、彼の内面を共感し、歴史的な全体の計画と宇宙全体に対するイエス様の御言葉を人類に伝える真の使者となるべきです。イエス・キリストは、皆さんが御言葉を代わって伝える事のできる人物が現れる事を切に望んでおられ、それを皆さんに委ねようとしている事を理解する必要があります。

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また、天律の御言葉を代わって語ったイエス・キリストですが、それをすべて伝える事はできずに去られたその悲しみを感じ、審判の恐れを知らない人々に神を代表して語り、聖霊を代表して語る真のクリスチャンを探し求めておられます。そして神様も、全ての人々がイエス・キリストの生涯を手本として、イエス様を通じて愛の腕に受け入れられる事を願って、長い歴史を通じて苦労されておられるのです。

今、皆さん方は自己を軽視してはいけません。皆さんは自己評価する際に非常に微細に感じられるかもしれませんが、神様は6千年の間、皆さん一人を見つける為に努力されてきました。

また、イエス・キリストも2千年間、努力され、数多くの預言者達も長い歴史の過程を通じて努力されてきました。従って、皆さんは自己を尊く思い、最後の悪魔との戦いで神に勝利をもたらす条件を提供するための供え物とならなければなりません。

こうして「天宙的な存在として、神様を代わりに尊重し、誇りをもって生きてきました」と言える勝利者になり、どんな命令も、何を言われても受け入れられるようになる必要があります。実際にそうした自己像を持っているかどうかを反省する必要があるでしょう。

私達の通常の社会生活の中で、外見上では神の子であるイエス・キリストを選ばれた者や、悪魔の支配下にある者と、同じように見えるかもしれません。しかし、神様はイエス・キリストが人類を救う為に苦しい状況でこの地に来たという意志を代表し、この地で完全に達成されると信じる真の信者を探しておられます。

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もし本当にその様な心情を持っているならば、自分自身に幸せな事が起こったとしても、自由に喜ぶ事はできず、楽しい事があっても軽々しく楽しむ事はできないでしょう。

なぜなら神様の悲しい心情は、皆さんの家庭を越えて社会を通じて世界全体に、天にいる数多くの聖徒達の願いにまで関わっているからです。従って、皆さんは神様の悲嘆の心情を皆さんの個人的な範囲で切り離してはならず、自己や家庭に限定された生活を送る者となってはいけません。

皆さんは、時間と空間を超えて、至高者である神のすべての存在と共鳴し、全体的な完成を代表する価値ある存在となるべきです。その様な人物がこの世にいれば、天は失望される事はありません。また、その様な人は地獄に行く事はありません。

その様な責任を負い、日々の生活の中で環境の悪に立ち向かわなければならない中で、自分自身を見つめ直すと、心は神様の意志を受け入れますが、体はそれに抵抗する事を意味します。人間はこの様にして心と体が一致せず、神の子としての完全なる姿を実現できていないのです。

では、神様が求めている完成の基準は何でしょうか? それは、人間が心で神様の御言葉を受け入れ、そして体もその御言葉を再び受け入れて一つになる事です。その後、その御言葉が周囲の環境に伝わっていくのです。

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もし神様の意志が私を中心としてこうして実現されるならば、神様が許される心の中心を通じて、私の心は永遠を描きながら動く事ができるという事です。この基準があなたが地上で完成する前には、永遠の神の真の子、真の娘にはなれないという事です。

では、神の子、娘の証はどのようにして知る事ができるのでしょうか? あなたの行動だけでは知る事はできません。行動は誰でもできるものである為、それ自体を見て判断する事はできません。行動する人の心に、神の子、娘であり、イエス様の友と呼べる内面的な価値の要素が存在しなければならず、それが再び具体的に現実に結びつけられて初めて、神の子、娘と呼べるものです。

神様から、心で命じられる事を体と自由に受け入れる関係、すなわち心が望む通りに体が動き、体が望むときには心が共に動いてくれる関係を構築する事が、神様の息子娘と呼べるものであり、またこの地上で再創造の歴史を起こす事ができるものです。

それでは今、皆さんが神様の前で「私達のお父様!」と呼びかけて祈る前に、何を考えるべきでしょうか? それは、皆さんの心の核を見つけ、その核がイエス・キリストの姿を代表できるかどうかを自問自答する事です。堕落した人類の祖先から悪魔が生命を奪ってしまったため、皆さんにはイエス・キリストの姿を代表できるそのような性質がないという事です。そこで、今日まで多くの人々は、この永遠不変の心、人間の良心の核的な谷を越えて、天徳の教義を確立しようと奮闘してきました。ですから、もしも皆さんが信仰に基づいてイエス様を受け入れたとしたら、皆さんの心の指示に従って身体を従わせる事は問題ありません。

しかし、今日の人々はここで躓いています。心に響いてくるものは身体を刺激しますが、その身体が従順できていないのです。それは、身体を刺激する力が不足している為です。ですから、今日の皆さんは身体を強く刺激できる心の力を養う必要がありますが、それにはイエス様の精神と意志を適切に受け継ぐ者になる必要があります。

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その為、今日のキリスト教の信者達はイエス様に対して祈っています。彼らは苦難のイエス様を懐かしんでおらず、栄光のイエス様だけを懐かしんでいるのですが、それは避けるべきです。復活と栄光に至るまで、知られざる苦難の努力を経たイエス様である事を知る必要があります。ですから、皆さんも知られざる苦難の努力から勝利し、栄光の座に向かうべきであり、歴史的な罪の枷(かせ)から解放され、復活したイエス様の心に相応しい価値を持つ存在となる事ができるのです。また、この地上で全体的な復活の歴史を起こす事ができる、一人の主人公となる事ができるのです。

今、皆さんは天のお父様に祈る際、愚かな祈りを捧げるべきではありません。皆さんは自分の心を通じて祈る事ができる人間となるべきです。皆さんが言葉や行動を通じて示す事ができる事が、心の中心とつながっている場合、その言葉や行動は神や悪魔、また他の人の前でも恥じずに胸を張って行えるでしょう。神様はまさにこのような存在を求めておられるのです。

その為、皆さんの心に永遠に存在する本質の力があるならば、真実な人格を形成しなければなりません。皆さんがどのような状況に直面し、どの場所にいようとも、そのような永遠不変の核心的な真理を受け入れて中心とする事で、御言葉が生まれるのです。その御言葉は神の代わりに再創造の歴史を起こすものとなるでしょう。

では今、皆さんが戦わなければならない敵はどこにいますか? イエス様の教えを信じ、お示しになった苦労の道を歩みながら、イエス様を代表して御言葉を伝える際、皆さんを阻むものは何でしょうか? それは、世界を通じて侵入してくる悪魔の矢です。エデンの園で最も近くにいた天使が、エバを堕落させたように、今日の皆さんに対しても、悪魔が最も近い姿で現れて誘惑しようとする事です。

見た目に美しく、聞こえが良く、理にかなった言葉で表現されるでしょう。そして、表現される言葉は説得力を持って現れるでしょう。その為、皆さんは自分の心を守る事ができる聴覚が必要であり、視覚が必要であり、変わらない心の基準が必要です。もしも皆さんにそうした基準がなければ、予期せぬ瞬間に悪魔の侵入が訪れてしまう事でしょう。

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一方、皆さんがその不変の核心を持ち、心が望む通りに身体が動き、常に神が喜ばれる生活を送る事ができるなら、皆さんにとって神様に罪を許して頂く祈りは必要ないでしょう。堕落した人間としては、復帰の運命を超えて償いの祈りが必要です。従って、今日の皆さんにとって最も重要なのは、輝く太陽の力に匹敵する心の核心を持っている事でしょう。皆さんが心と身体で理解し、確信し、すべての現象を区別できる天宙的な知識、知性の基準を持つ必要があります。

そして、イエス・キリストが天性を代わりにし、全体の御心を代わりに表現した御言葉を、皆さんが受け継ぎ、人類に伝える事ができる存在となる必要があります。そうでなければ、神様は皆さんを安心して信頼し、向き合う事はできないでしょう。

なぜなら神様は善行によってのみ現れ、真実の御言葉によってのみ自己を示す存在であり、偽りの姿で現れるわけではなく、ただ一つの御心、一つの性格を持たれる神様であるからです。従って、行ったり来たりする二つの心を持つ人間とは相対する事ができないというのです。皆さんはこれを確実に理解する必要があります。

また、皆さんは人間こそが悪魔よりも恐ろしい存在であることを理解するべきです。神様は善に、悪魔は悪にそれぞれ自己の立場を表現していますが、人間は両方の行動を兼ね備えているというのです。神様を信じて進む時は善を示し、悪魔を中心に据える時は悪を示すというのです。

従って、今日の皆さんはどのような立場を取るべきかを考える必要があります。皆さんの日常生活で悪魔の立場に陥ってはいけません。立体的にも、平面的にも悪魔の中傷的な条件に捕らわれる生活をしてはいけないというのです。絶え間ない祈りと献身的な生活によって、鋭利な刃のような知恵で善悪を適切に区別する力を持っているべきだというのです。

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しかし、知恵だけを追求することは避けるべきです。なぜなら、知恵だけを追求すると、悪魔のような巧妙な人になりやすく、失敗しやすくなるからです。

では、信仰すべきだとされていたキリスト教がなぜこうして分裂したのでしょうか? 皆さんがどこまで信じるべきなのでしょうか? イエス・キリストを見つめて希望を抱き、信じてきた言葉の内容はどこまでなのでしょうか? 神の御心を代わりに確立した真理の基準はどこまでなのでしょうか? 今日までの言葉だけでは足りません。真理の核心である神の人格を備えて、神と一体となる変わらない姿となるべきです。

その為に、時代が変わり、環境が変わっても変わらない人格となるべきです。皆さんが神と一体となると、神が変わらない姿ならば、皆さんも変わらない姿となり、神が唯一の存在ならば、皆さんも唯一の存在となり、神が永遠にその理想の地を離れないならば、皆さんもその理想の地から離れないでしょう。しかし、現在の皆さんはそのような立場にないという事です。

現在の皆さんは、朝起きる事も、夜寝る事も、昼間行動する事も、悪魔よりも巧妙だと感じる事でしょう。その為、皆さんは自分自身を神よりも、悪魔よりも恐ろしい存在として認識しなければなりません。天の主を崩壊させたのは悪魔ではなく人間であるという事です。天の主を栄えさせる事も人間であるという事です。

皆さんはこのようにして天の主を崩壊させたり栄えさせたりする存在が自分自身である事を念頭に置かなければなりません。そして、皆さんは天国の標となる事もできるし、悪魔の標となる事もできる十字路に立たされているという事です。

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このような十字路に立つ皆さんが天国側に属する為には、どの様にすればよいでしょうか? まず、皆さんは天国の御言葉を聞く事ができる様にならなければなりません。さらには、天国の姿を見分ける事ができる様になり、天国の御言葉を話す事ができる様になる事です。

その様な皆さんが、善悪を見分ける基準となる役割を果たすべきです。その為には、まず自分自身を見つける為に闘わなければなりません。同時に、環境を復帰する為にも闘い、世界と天の主を復帰する為にも闘わなければなりません。この様な過程を経て、イエス様が皆さんに臨む事ができるという事です。

では、イエス様はどの様な姿でおいでになるでしょうか? それは復活の理想的な基準でおいでになる事でしょう。従って、この地上で最高の福音を宣べ伝え、またすべての栄光を示される事でしょう。

この様な天宇宙的な復活の主が臨まれる際、皆さんは拒絶されたり、害されたりする事があっても、変わる事なく主を礼拝し、従う人として存在しなければなりません。そうしなければ、イエス様の姿を見て、イエス様の御言葉を聞くだけで終わってしまうでしょう。花婿と花嫁の関係を結び、天国を代表して永遠に愛を交わしながら生きる花嫁になる事はできないという事です。

復活直後、マグダラのマリアがイエス様を探しに行った時、イエス様は「私に触れないで。まだ私は父のところに上っていないからだ。」(ヨハネ20:17)と言われました。しかし、イエス様はマグダラ・マリアがあなたを慰める心を持っていた為、彼女に姿を現されたのです。

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この様に、自己を超えて天宙的な理想と御心を感じる事で、その感じる心に主が現れるのです。皆さんが神の御言葉を聞き、神の御言葉を代わりに伝える事ができれば、主は来て貰う為に呼び出す必要はありません。むしろ、主は皆さんに向かって手招きし、腕を広げておられる事を皆さんは知るべきです。神も同様です。

今日、私達がこのような天宙的な責任を果たす事ができない場合、眠っている民族と世界を目覚めさせる事はできません。今、私達は時間と空間を超える4次元の世界に入ろうとしている時です。この様な時、皆さんは立体的な天人的な人格者、あるいは天主的な人格者が現れる事を願っている天国の内面的な気持ちを読み取りながら、生活の中で聞く事、見る事、話す事を知る人となるべきです。

もし「神よ、来ないで下さい。イエス様よ、来ないで下さい。」と言ったとしても、神とイエス様が皆さんに続いて来なければならないという事はありません。またその様な人を地獄に送ると言ったとしても、彼は地獄を天国に変える事でしょう。そのような人々が多く現れる事で、この地上に平和が訪れるでしょう。

今日、皆さんは昇天の為に祈るのではなく、神が皆さんを見つけて降りてこられる様に祈る方法を知る必要があります。神が皆さんを見つけて降りてこられる様にする事ができる人格者、イエス・キリストの花嫁となる真のクリスチャンがこの世に現れるならば、神はご自身で行動して彼らを見つけ出すでしょう。

つまり、神は6千年にわたり待ち望まれた真の平和の子女、真の愛の子女がこの世に現れる時、神は彼らと共に喜び、万物がその喜びと共に踊ることを確信しなければなりません。

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この様な天宙的な使命の責任を背負っているのは、今日のキリスト教徒ですが、それを深く理解せずに単に「天の父」と呼びかけているだけです。それではいけないのです。十字架の道、試練の努力を乗り越えて勝利した後に、「天の父よ!」と呼びかける事が必要です。そのような人を天が見つけて下さるのです。また、普段からそのような心の基準を持ちながら生活していくと、何かを見ようとする前に自然に見え、話す前に言葉が自然に出てくる事になります。この様な段階まで、皆さんは進んでいかなければなりません。

しかし、ここには皆さんを妨げる敵がいます。イスラエルの民がイエス様の30年以上にわたる渾身の努力に対し、彼ら自身の慣習的な条件や歴史的な出来事の条件によってイエス様を妨げた様に、今日の皆さんにも同様の出来事が起こる事があるのです。だからこそ今日の皆さんは、歴史的に伝わる過去の慣習を大胆に打破して前進する方法を知る必要があります。

復活の成果に向かって新しい理想の地を見つけ出す皆さん!  歴史的な過程の現実を皆さんの心身に結びつけ、天の御心に仕え、キリストを迎え、キリストの心情を代表する事ができる皆さんにならなければなりません。

その様な皆さんでなければ、新しい理想の地で神が話し、示し、見せたい事を受け入れて処理する事ができないでしょう。イエス様が現実の変化の中で不変の姿で歴史的に現れ、慣習的な条件を打破して神を愛してきたその努力を今日の皆さんが学ばなければならないのです。天の御心の道を進む際に、難しい状況にぶつかるかもしれませんが、不満を抱かず、恐れと恐怖を引き起こす悪魔の試練に立ち向かい、主を迎える者にならなければなりません。

そして、皆さんは主を崇拝する際に、自由の中でも最高の自由、栄光の中でも最高の栄光、喜びの中でも最高の喜びの場所から主を崇拝すべきです。その為には、歴史的に現れた悪魔のあらゆる非難の条件から抜け出し、父なる神を呼び求める事ができるようになるべきです。そうした者になれば、天は皆さんが話す前に皆さんを先に見つけてくださるでしょう。その為、皆さんはそのような基準を日常の生活の中で築いていかなければなりません。

22

神はこの様に、皆さんの天宙的な愛を中心とした憐れみ深い人格の価値を持つ一人、イエス・キリストを代表し、歴史を象徴する一人を最初に探し求めておられるのです。こうした人々が集まり、国を見つけ、世界を見つけ、天国を見つけて下さる事を、イエス・キリストは願っておられるのです。そして、これが神の意志である事を皆さんは理解する必要があります。

今日の皆さんが悪魔の中傷の条件に捕らわれるかもしれないし、あるいは条件に寄って拘束しようとするかもしれませんし、無数の困難な試練の波が押し寄せてくるかもしれませんが、皆さんは不変の姿で神とイエス・キリストの中にあり、全体の御旨を受け継いでそれを解き明かす実践者となり、悪魔の中傷の条件から抜け出すだけでなく、悪魔と戦い勝利する事ができる「勝利の主」となり、神を讃え、イエス・キリストを讃える事ができる者とならなければなりません。

イエス・キリストは、30年以上にわたり私達と共に過ごし、十字架に帰られるその日が近づいた時、愛する弟子達を集めて、「私はまだ言うべき事が沢山あるが、今はあなた方が耐えられないでしょう。」(ヨハネ16:12)と仰っておられました。これを見ると、使徒達がイエス・キリストの御心を理解していなかった事がわかります。従って、イエス・キリストの御心を理解できない使徒ではなく、イエス・キリストの御心を理解し、花嫁の立場まで進む事ができる人格基準を築き上げて、イエス・キリストが残された御心を担い、イエス・キリストを休ませる事のできる人とならなければなりません。

そして、悪魔を主管し、悪魔を胸に抱いて神の前に進み、「永遠の勝利の栄光を一人で受けてください。」と言う事のできる人とならなければならないでしょう。それによって、6千年にわたる復帰の使命が果たされ、イエス・キリストが求める真の花嫁が見つかり、また更にはイエス・キリストが望む真の妻が見つかり、この地上に平和の楽園を築く事ができるでしょう。

今、御心に従って進む皆さんは、自分達が悪魔よりも恐ろしい存在である事を忘れずに、どのような過程や困難な仕事があっても、心に決めたその御心を持ち続けて、天の御言葉を受けるその日まで変わらず戦い、勝利する人とならなければなりません。そして、そのような人となる事によって初めて、イエス・キリストが望む人となり、また全ての人類がそのようなあなた方を愛の基準として、お父様の前での栄光の座に置く事ができるでしょう。これを忘れてはなりません。

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文鮮明先生の説教集 2 - 4. 天の愛を築こうとするイエス(1957年2月24日)
1957年2月24日(日曜日)、前本部教会
聖書拝読 ルカ福音書10:21-37


<祈祷>
 他人によって妨げられ傷ついた身体と心で、お父様の前にひれ伏しました。この時、多くのお父様の恵みをお許し頂かなければなりません。お父様、一週間の間、お父様の望みと願い、理想の為にどれだけ適切な生活をしたのか、私達自身を反省する時、私達の心の中にお父様に差し上げる何かがあるでしょうか?

私達の体でお父様に誇る事ができるものは何でしょうか? 私達の生活によってお父様を喜ばせた何かがあるでしょうか? お父様、お許し頂きます様お願い申し上げます。何も持たずにお父様の前にひれ伏しましたので、この心に命じて頂き、私達の心と体を包んで頂きます様お願い申し上げます。

終わりの日に委ねられた使命の前で、私達が天倫の御心に逆らう反逆者とならない様お願い申し上げます。私達は常に責任を果たそうとする心を持っていますが、責任を果たす生活をできなかった事をお許し頂きます様お願い申し上げます。

私だけの考えや行動は、卑しさを避ける事はできないかもしれませんが、この時、お父様が慈悲深く受け入れて頂けるなら、困難を超えて勝利の丘に進む事ができる事を知っております。お父様、困難の中にある私達の心に手を差し伸べて頂きます様お願い申し上げます。

心の悩みを抱えている者がいますか? お父様、これらの方々を慰めて頂けることを願っております。

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自身の体と心、自身の生活をさらけ出す事ができない状況にある子供達がいますか? この時、お父様、ありのままに率直にすべてを明らかにする事を許して頂けます様お願い申し上げます。

私達に勝利した生活があるとしても、それをお父様に知られずに隠してしまう事で、むしろ自分を責める事ができるこの時、許して頂き、心の指針に従う事のできる体となる様に許可して頂けます様お願い申し上げます。


集まった人々が皆、一つの心を持つように許して頂き、一つの姿を模範とするようにして頂けます様お願い申し上げます。そして、この一時だけでもあなたを讃え、心と体が神聖なる愛に満ち、栄光に満たされ、あなたの前で知らず知らずのうちに身も心も差し出し、「私の体と心を供え物と致しますので、お受け取り下さい」と祈る程の熱望の心を持った子供達となる事を許して頂けます様お願い申し上げます。お父様、熱望しております。

お父様、この日は神聖なる日であり、この地上のすべての人々があなたの名を讃美する日です。また、祝福を与えることを約束した日でした。お父様、全人類に祝福を降り注ぎ、三千万の国民を代表するすべての教会に大いなる祝福を許していただけますようお願い申し上げます。

光と闇を判別しなければならない最終的な闘いが私達の目前に迫っているので、多くの人々が光を求めて彷徨っている中で、慈悲の手を差し伸べて頂けます様お願い申し上げます。歩みのたびに見つめる視線の前に、あなたの力の手を差し伸べて、彼らを導いて頂けます様に、どうかお願い申し上げます。お父様が彼らを導いて下さらなければなりません。闇の中で迷い、苦しみと欲望に悩む多くの人々が、あなたの前で伏す事のできる栄光の日が早く訪れる様、どうかお許し頂けます様お願い申し上げます。

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また、計画された御旨の達成が、集まった子供達を通じて早く達成される様、どうかお許し頂けます様お願い申し上げます。お父様、熱望しております。

今、この一時、尊厳ある父の前にひれ伏し、能力の手、創造の御言葉の前にひれ伏しています。私達のすべての堕落した性質が変わり、絶対的な生命の要素に応じる良い性質となるようお許し頂けます様お願い申し上げます。

私達が持っている間違った意識や考え、すべての概念を捨て、ありのままを父に率直に示し、告白できるこの時を許して頂けます様、愛するお父様、熱望しております。

今日も各地に広がっている孤独な子供達が志を持って戦いに臨んでいる事を知っております。お父様、そこに共に居て下さる様にお願い申し上げます。実際にお父様の共にいる事を証して頂けます様お願い申し上げます。どこでも留まる所ごとに、驚くべき天の真実を示して頂き、どこでも留まる所ごとに真実の生命として示して頂けます様お願い申し上げます。

暗い死の影に捕らわれていた命が喜びの解放を受けて、お父様の前で真の命を受ける事ができる恵みを、この時、許して頂けるよう熱望しております。

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今、この一時、お父様の前に委ねます。お父様の御心に従い、導いて下さり、またご希望通りに勝利を収めて頂けます様お願い申し上げます。一つの命でも悪魔の手に渡る子供達がいないようにお許し頂けます様、お願い申し上げます。

すべてを託しますので、主管して頂きます様に願い、主の御名によってお祈り致しました。アーメン。


<御言葉>

この時、皆さんと共に考える御言葉のタイトルは『天の愛を築こうとするイエス』です。このようなタイトルで、しばらくお話しいたします。

堕落したこの地上に永遠の一つの中心が立たなかった為、神が求める愛も築かれていないという事を皆さんもよく知っている事と思います。神の創造の目的は、創造された存在達と神とが永遠に極限の愛をやり取りできる愛の世界を築く事でした。

しかし、人間は神のその様な御心を知らず、堕落によってその様な世界は実現されませんでした。その為、神の愛は天宙全体と人間の前に希望の基準として残っている事を皆さんは理解する必要があります。

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その為、今日の私達人間には、この神の愛を全ての万物に対して永遠の理想として見つけ出し、確立する合理的な責任があるのです。これまでに数多くの人々がこの地上に生きてきましたが、神様の内面的な愛を満たし、人間の全体的な理想を実現できる基準を完全に築く事はまだできていませんでした。

その為、神様はこの基準を築く為にこれまで努力してこられました。そして、未来に向けて人々に残された希望的な愛の結びつきが形成され、受け継がれたすべての創造物がその愛を永遠の理想の愛として讃えられる日が来るまで、神は努力し続ける必要がある事を皆さんは理解する必要があります。

この様な神様の努力の歴史が6千年を経た今日において、一人一人が神の愛を感じる特権を持っているとしても、その愛の特権はその個人個人だけのものではありません。それは全ての人々と天にいる無数の聖徒、父なる神、聖者、聖霊が喜びうる愛として確立されるべき特権なのです。それによって、私達が喜びを分かち合い、天の世界にいる聖徒達も共に喜びを分かち合う事ができるでしょう。

神の特権が天地が喜ぶ愛として現れる時、言い換えれば決して見逃してはならない愛が見つかった後、神は初めて全ての怨みや悲しみを忘れ、喜びうる事ができるという事を皆さんは深く共感しなければなりません。

その為、堕落した人間達は生命が残っている限り、死ぬか生きるかに関わらず勝利的な運命の条件であり、変わらぬ愛の実体である一つの中心存在に出会わなければなりません。

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その様な中心存在に出会う事によって、神が楽しむ事ができる日、その瞬間が訪れるのです。もし人間がこの使命を果たす事ができないならば、人間の悲しみは終わる事はありません。また、人間の悲しみが続いている以上、天国でも悲しみが続く事になり、天国での悲しみが残っている以上、神の悲しみも続く事になるのです。

この様に、天地を代表して永遠に変わらない愛の実体として立つその一つの中心は、私達人間とすべての創造物が共に出会うべき希望の根源です。この様な希望の根源として、永遠不変の愛の基準を築く為の中心存在として天から派遣された方が誰であるかというと、それはイエス・キリストです。

しかし、イエス・キリストがこの地においでになるまでの4千年にわたり、天の愛を紹介するために努力した多くの預言者達がいました。また語り尽くせないほどの努力や苦難、逆境の信仰の道を通じて、神が求める愛の基準とつなげるために努力した多くの聖人達もいました。彼らの努力はすべて、神の愛を願い、神の御心に生きる事を望むすべての万物の中心であるイエス様の出現を願い努力したものでした。ですから、神はそうした人々を中心にして、民族や国を選び、イエス様を迎える準備をする様にされました。

一方で、イエス様がイスラエル国を代表しておいでになる事により、天の喜びが地上に齎され、地上の希望が天に齎され、そして天と地が4千年の間持っていた争いを解消し、共に喜びえる様になったのです。

イエス様はまず、神の愛を感じ取る必要があり、その後、神の愛の実体として全ての人々の前に現れる必要がありました。ですから、永遠の神の愛を4千年の歳月をかけて漸く全人類に示し、4千年間の争いを解消するために愛の化身として派遣されたイエス様の心は、常に神の愛を人々に直接伝えることのできる一人の人と出会いたいという思いで満たされていました。その為、イエス様はその様な一つの集まりや民族を探そうとされたのです。

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しかし、ユダヤ民族がイエス様を信じなかったことにより、4千年にわたる神様の意志とイエス様の生涯を通じて示されようとしていた神の愛が実現されなかったこと、そしてイエス様が十字架の苦しみの道を歩まれることを皆さんは理解する必要があります。

もしユダヤ民族がイエス様を神の愛の実体として、4千年の間先祖達が血を流して戦ってきた歴史の希望の実体として認識していたなら彼らはイエス様を「あなたは私達の希望であり、永遠の神の愛の実体であり、天国の争いを解消してその喜びを私達に齎してくださる方であり、神の愛を私達にも繋げてくださる先祖です」と言ったでしょう。

しかし、当時その様な人は誰もいませんでした。イエス様が見聞きし、考えた全ての事は、人間と神との間に築かれた壁を永遠に壊し、愛による勝利の基準を築く事でした。しかし、その様な使命に対応できる人は一人もいませんでした。その為、イエス様は「わたしを遣わして下さった父以外は、わたしを知る者は誰もいない」と言われたのです。この言葉の中に、イエス様の思いや悲しみが込められています。天国の争いを解消する為においでになったイエス様であり、神の愛を証しする為においでになったイエス様であり、万物の世界から天国まで神の愛を通じて繋げて下さる愛のイエス様である事を、当時の人々は理解せず、イエス様の御心を知らなかったのです。

従って、今では皆さんは、神から送られたイエス様をユダヤ民族が理解せず信じなかった事により、イエス様だけでなく神までもが悲しむ状況となった事を知り、信じる聖徒達となるべきです。そうしなければ、天の愛と一切の関わりのない人々となる事を理解する必要があります。

今では、イエス様が再びおいでになる終末において、どの様な事を望むかをよく理解する必要があります。再びおいでになる主は、2千年前にユダヤ民族が信じなかった事に対する責任を負い、神の愛の中心であり、愛の運命の実体として現れるべき事、そしてイエス様が望まれていた事を理解し、御心を共に実現する真の人々を見つけるでしょう。

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ユダヤ民族が信じなかった為、神の愛を齎らそうとされたイエス様は責任を果たせない悲しい状況に置かれました。これはイエス様の悲しみだけでなく、神を信じると決意した預言者達の歴史的な悲しみでもあり、そして創造の目的を実現しようとする父なる神の心情の悲しみでもありました。

霊的世界の霊と先祖達の喜び、神の喜びを実現する為においでになったイエス様は、人間の不信仰により十字架に戻られる事となり、その結果、逆に神への悲しみを増す結果を齎しました。これがユダヤ民族が犯した誤ちであり、その過ちがまだこの地に残っている事を皆さんは理解する必要があります。

そして、私達は、ひとりゲツセマネの園で「父よ、もしあなたが望まれるなら、この杯を私から取り去って下さい。しかしあなたの望まれるようになさって下さい」と祈り、孤独な状況にあったイエス様のこの情況は、30年以上にわたる悲しみに満ちた心情を抱えて十字架に向かったイエス様の情況も、単なるイエス様の事だけではない事を理解する必要があります。

その情況は私達の情況であり、今日の人類が直面している情況です。そして、イエス様が祈り、悲しんだのは、自身が滅びる事や死ぬ事への悲しみではありませんでした。イエス様は歴史の目的地まで進む責任を担いながら、愛に満ちた心情を抱え、送られた地上で神の愛を迎える事ができない人々を見つめ、神の愛を人々に伝える使命をどの様に果たすかを懸念され、全ての人類が悲しみの壁を超えなければならない運命を持つ事を憂慮されたのです。イエス様は自分自身のための悲しみや不満足感を抱えていた訳ではない事を、皆さんは理解する必要があります。

では、私達はどの様な人々になるべきでしょうか? イエス様が4千年にわたる神の摂理の歴史の中で、ユダヤ教において天の愛を実現する勝利的使命を果たされた様に、今日の皆さんも6千年の神の摂理の歴史の中でキリスト教に立ち、神の愛を証しをしなければなりません。

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また、皆さんは永遠に喜びと共に生きる事ができる世界を築くために来られるキリストの真の共同作業者となる必要があります。皆さんがその使命を果たさない限り、主はこの地に来る事ができないでしょう。また、神はこの地に神の愛を中心とするメシアを送る事ができないという事を皆さんは理解する必要があります。

6千年にわたり、神の御心に背いた先祖達の罪の血を受け継いだ私達が再び先祖達の罪を繰り返すのであれば、主はどの様にして再びその場所においでになるでしょうか?

私達は、初臨のイエス様も天宙的な愛の中心であり、天宙の主として天と地を代表し、天の愛を共有する中心存在としておいでになりましたが、当時の人々がその共同の作業者とならなかった為、イエス様は十字架に戻られる事となった事を理解する必要があります。

しかし、生命の理想を追求する道において、希望と信仰が失われても、永遠に残る愛のために進む道は、進むしかない歴史的な運命の道です。従って、人類をこの道に導く為においでになったイエス様は十字架に戻られましたが、その使命は聖霊に引き継がれ、地上で続けられた事を理解する必要があります。

その聖霊の導きを受けて、私達はどこまで進んできたのでしょうか? 私達は、復活前のイエス様の立場を経て、復活されたイエス様と出会い、希望を持つ事ができた時のマリアと同じ立場にまで進んできました。

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では、今後、天宙を包み込む神の愛を見つけるために私達がどのようにすべきかを考えてみましょう。私達はイエスと聖霊の御心を実現する実体的な愛の花嫁となるべきです。イエス様の時代に求められていた実体的な愛の花嫁として。それゆえに、今日私達は花嫁の名を見つけるために探求しているのです。

しかし、主の花嫁としての歩みを進め、主の花嫁としての徳を守り、主の花嫁としての基準を築かなければならない皆さんは、イエス様を信じるだけで満足してはなりません。ただ口で信じるだけでは、花嫁の基準を築くことはできません。イエス様は歴史的な存在です。

また、現在と未来においても私達の生命の主です。そのため、皆さんがそのようなイエス様と交わることのできる愛を持たない限り、イエス様に向かう花嫁の立場に立つことができないでしょう。更にイエス様と生命の絆を結び、神の愛の鼓動を受け継いで共鳴し続ける永遠の実体としては存在できないということです。

聖徒達がイエス様の愛を探求することは、現実の世界に主管される時空を超えて、歴史を超越し、時間を超越した神聖な愛の世界で、無限の神の愛の価値を讃美し、永遠の神の愛の価値を確立し、命の愛の価値を楽しむことを意味します。

そうしたとき、初めてイエス様がゴルゴダの十字架の道を歩まれた辛い足跡や、ゲツセマネの園で「アバ、父よ、なぜ私を見捨てられますか?」とおっしゃった声が鳴り止むでしょう。もし2千年前にそうした真実の聖徒達が存在していたならば、イエス様はこの世に希望の存在として立っていたかもしれません。

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しかし、今日まで歴史を経てきた私達の先祖達の中には、このようなイエス様の希望を実現した人はいませんでした。イエス様が来られてから2千年が経過した今日まで、神の摂理の目的は、神の悲しい心を慰める真の人物、ゴルゴダの丘で悲しみを感じたイエス様を慰める真の人物、また聖霊を慰める真の人物、そして天と地を慰める真の人物を見つけて立てることです。

このような神の御旨を知る人々が、神とイエスと聖霊の前に進み、「これが求められることでしょうか」と尋ね、その使命を達成するために促すことができるようになるべきです。こうした真の聖徒達が現れる前には、神の内にあってもイエスと聖霊との願いが解けることはありません。

では、今日、神の愛との関係を築くことなく生きる社会を認識したとき、私達はどのようにすべきでしょうか? どのような努力が必要でしょうか? 私達はイエス様の歩かれた道に続いて行かなければなりません。また、イエス様は「あなたの心と、魂と、あなたの思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ。これが第一の戒めである。第二のものはこれに等しく、あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ。これらの二つの戒めにかかって、律法と預言者が全てかかっている」と言われました(マタイ22:37-40)。この言葉を実践しなければなりません。

この御言葉には、天宙の核心的な本質、天宙の理想的な理念、天宙の生命の中心となることができる愛の理念が含まれていることを理解する必要があります。従って、皆さんはこの御言葉のように、すべてを捧げて神を愛することによって神の愛と結びつくことができるようになるべきです。イエス様はこのために来られた方なのです。

イエス様は「あなたの心と、魂と、あなたの思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ」と語られました。この御言葉と同じように、心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして神を愛した天宙的な代表者は誰でしょうか。それは間違いなくイエス様です。

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イエス様はそのような御心を持っておられることを認められるために、自身の立場を明らかにする必要がありました。愛する弟子達や律法学者達の前で、そのような立場を明かされました。イエス様は天に対して自己の知性を尽くした方であり、心を尽くし、力を尽くし、御心を尽くした方でした。当時のユダヤ人達は神様について無知でした。

そんな中で、血気盛んな青年として、天命を受けていたイエス様は、天に対して誠実であることを証明しました。心を尽くし、御心を尽くし、愛の理念を実現するために努力した実体を、皆さんは学ぶべきです。そして実体は何に基づいて働くのでしょうか? それは天命に基づいて働くのです。また、心は何に基づいて働くのでしょうか? 心は歴史的存在である人間に基づいて動くものであり、御心は生活を通じて現れるものです。

イエス様は天命と人命の両方に相応しい生き方をされ、そのような人生経験を通じて初めて人間達と天命的な愛の繋がりを築かれ、歴史的な人間の生き方を完成されました。そして、イエス様は人間の生活の中で神の愛を引き出すために努力されました。

つまり、天命的な愛を人間の生き方にまで引き下げるために、心情を尽くし、御心を尽くし、力を尽くされたのです。そうすることで、象徴的に見れば、イエス様はどのような方でしょうか? 人類の有るべき姿を代表された方であり、神の心情の中心である方でした。そのため、イエス様の心情の本質を基盤として働くことが、人間の良心であり、その良心を基盤として行動することが人間の実体です。これは全体的な天宙的な秩序を私達に示すものです。

コメント

御言葉選集2(1, 2)

2023年08月16日 09時21分26秒 | 学習
「文鮮明先生御言葉選集 2 - 1. 復帰を目指すイエスの人生観  (1957年 1月 6日)」
1957年1月6日(日)、前本部教会


聖書拝読 マタイによる福音書 6:16-34



<祈り>
 お父様!  過去1年間、お父様の保護の下で過ごすことができましたこと、感謝申し上げます。今、新年の最初の週を迎えて、この一時、喜びに満ちた心でお父様の前に礼拝を致してまいります。

今、私達は過去の不足と欠点を振り返り、この新しい年、そしてこの一時から、お父様が望まれるように謙虚で従順な心を持ち、お父様に敬意を表してまいります。愛に満ちたお父様、どうか受け入れて下さい。

私達の心に、お父様にふさわしくない注意や主張があるなら、それをすべて取り去って下さい。また、私達の身体に悪意が入り込んで汚されているなら、聖霊の炎によってそれを浄化して下さい。また、慈悲の賜物として私達をお許し下さい。お父様の喜びの愛を受けることができるように、私達をお父様の御心にかなった息子娘として創造して下さい。お父様、切望し、願っております。

お父様、この日から聖なる恵みが結びつき、悪しき悪魔達を屈服させる力の歴史が私達を通じて現れるようお許し下さい。私達の心と体が働いて、天地万物を躍動させ、天におられるお父様を喜ばせるために導いて下さい。私達の集まりがお父様の望まれる真の共同体となるように導いていただきます様に、切に願い求めます。

今、私達が捧げる真摯な心をもって、お父様の内に隠されていた愛を実現しなければならない時が来たことを感じております。お父様の6千年の計画を明らかにしなければならない時が来たことを感じております。お父様、ここに集まったあなたの子供達自身が、その立場に立つことをお許し下さい。お父様の聖別による力を受けて、お父様が示された杖を手に取り、紅海を切り裂いたモーセの心情を感じることのできる子供達となるようお許し下さい。お父様、切に願い求めております。

お父様、この一年で三千万の国民にお父様の祝福を注いで下さい。この国民のために集う多くの教派の上に、お父様の栄光と愛がとどまりますように。隠れたお父様の子供達にお父様の約束された御旨を示し、速やかに三千里半島が勝利の地となるようお許し下さい。お父様、お願い申し上げます。



そのようにして眠っているこの国民が喜びの栄光をお父様に帰し、帰還の御心をこの天地に響かせることができるよう導いて下さい。お父様、切に願い求めます。

隠れた聖徒達の誠実な心を私達が持つことをお許し下さい。多くの教派を動かし、三千万国民を目覚めさせ、またこの国民を動員して24億の人々を目覚めさせ、本来の約束の地を速やかに実現できるよう、愛するお父様、どうかお許し下さい。切に願い求めます。

お父様、今この時間に新たに立てられた約束と新たなる律法によって、私達の心と体を聖別して下さい。お父様の喜びに満ちた恵みを私達に注いで下さい。約束と誓約がここで成就されるようお許し下さい。そしてこの時以降、お父様の前で勝利の供物として差し出されることができるよう、お父様の保護の手が共にありますように、どうかお許し下さい。

お父様が喜ばれる意志のために、私達の心と体、すべてのものを捧げることができる孝行なる子供となることをお許し下さい。お父様、切に願っております。

今日も地域に広がり、御言葉を述べ、孤独な祭壇を守っている集団があります。彼らを悪魔から解放し、闇の力の前にお父様の実証された力を示して、威厳あるお父様の栄光を示す誇らしい子供達となることをお許し下さい。愛するお父様、切に願い求めます。

3

また、集まる場所ごとにお父様の子供達がお父様の権能の力を受けることができるようお許し下さい。悪魔の侵入から守って下さい。

お父様! この時、三位一体が働いて喜びと栄光の復活の歴史が現れるようにお許し下さい。最初から最後まで、お父様の聖霊が私達の心と体に満ちるようにお許し下さい。切にお願い申し上げます。

すべての御言葉を主イエス・キリストの名によってお祈り申し上げます。アーメン。


<御言葉>
『復帰を目指すイエス様の生涯観』という題目で、皆様にしばらくお話しいたします。

堕落した人類は、まだ世界が証明でき、大地が証明でき、天が証明できる永遠の生命の価値を見つけていません。そのため、堕落した人々には、個人の生命の価値を見つけ、個人を通じて世界的な生命の価値を見つけ、世界を超える対象的な永遠の生命の価値を見つけるための復帰の使命が残っています。



それでは、神様が今日までに摂理の御旨を立てて全体の生命の価値を見つけ出された目的はどこで終わるのでしょうか? それは皆さん自身や世界で終わるものではありません。天と地が一つになり、神様が喜べると同時に世界が喜べ、世界が喜べると同時に個人が喜べる生命の価値を見つけるべきです。その時、初めて天の救いの摂理も終わるでしょうし、悪魔を中心とする世界的な人倫も終わるでしょうし、個人的な道徳観念も消え去ることになるでしょう。堕落した人類には、こうした生命の歩みを切り拓いていく責任があることを皆さんは知るべきです。

そして皆さんは、自分自身を単なる個体的な存在として見ることが容易かもしれませんが、自分の内には創造の総体的な理念が含まれていることを知る必要があります。したがって、まず世界的な生命の価値を表現しなければなりません。その後で、自分の個人的な生命の価値が成り立つことを理解する必要があります。

このような生命の価値を見つけるために生活していくことが、信仰生活である事を知るべきです。ですから、皆さんは自分自身を分析し、自分が求める本性的な生命を代わりにし、永遠の生命を持つ必要があり、歴史的なあらゆるイデオロギーを一つにまとめて世界的な生命を完成させなければならないでしょう。また、皆さんは個人の生活の面から永遠の生命や世界的な生命と関わりを持つ基盤を築かなければなりません。そうでなければ、現在の生命が世界的な生命を経て永遠の生命となることはあり得ません。

この天宙的な生命を築くべき人類の祖先、アダムとエバは堕落によってそれを失いました。そのため、それを再び回復するために神様は6千年にわたり努力されました。神様のこの努力の歴史を「復帰摂理史」と呼びます。

このような神様の尊い価値を見つけ、確立するために、神様は4千年にわたる努力と歴史の中で、その総体的な生命の価値を代表できる方を送りました。それがイエス・キリストでした。



イエス・キリストは、神様と一体となりながら、その体は永遠で無限の世界的な生命を代表し、永遠の個人の生命を代表しました。このような歴史的な背景を持っておられたため、イエス様は現実を基にして永遠の希望を表現しなければならず、天上で永遠に存続できる生命の価値を示す使命を担っておられました。

それでは、この使命を持っておられたイエス・キリストは、どのような基準に従って生活されていたのでしょうか? イエス様は自分自身のために生活されるのではなく、世界のために生活され、さらにはそれを超えて永遠の生命のために日々闘われていました。これがイエス様の生活の基準でした。

もう一度言いますと、イエス様が見つめ、感じたその視点や感情、そして生活されたその生活は、個人だけのものではありませんでした。それらは個人的な側面と同時に世界を代表し、世界を代表すると同時に神様を代表したものです。

また、イエス様が伝えた福音の御言葉も、単にイエス様自身のためだけのものではなく、世界のための御言葉であり、さらには神様に代わって語られた永遠の命の御言葉であるということです。これを感じることのできないキリスト教徒達は、イエス・キリストの真の福音の内容を理解することができず、イエス・キリストが来られた目的を達成できないということです。これを皆さんは知るべきです。

それでは、イエス様はこのような天宙的な生命の価値を実現するために何を提唱されたのでしょうか? イエス様は愛を提唱されました。つまり、天宙的な生命の価値を天上で完結させるために、新しい福音を伝えられましたが、その福音の中心は愛であったということです。



個人が自分の個体的な存在を永遠の価値の基準に結びつける最も重要な要素は何でしょうか? イエス様がおっしゃったように、他人のために自分の命をささげる愛です。実際、イエス様は自分自身のための愛ではなく、他人を自己以上に愛することによって生命の価値の基準を確立されました。

このように、全体的な天宙的な生命の価値を代表し表現されたイエス様は、人々に対して、自己の救いを求めるためには他人のために命を捧げる愛を持つことが必要だと教えられました。自分のための愛よりも仲間のための愛、仲間のための愛よりも世界のための愛、世界のための愛よりも神と霊界にいる数えきれない聖徒達までを愛することを踏まえながら行動することこそが、イエス・キリストの信者となる要素であることを確信する必要があります。

イエス様は自己の個体的な存在を見つけるための個人的な観念や、または個人的な愛を持って生きたわけではありません。イエス様は友人を愛される際にも、単にその友情だけから愛されたのではありません。その奥には世界を代わりに愛し、さらには神様を代わりに愛し、その愛を注いでおられたことです。

このように、イエス・キリストの愛は一対一の関係の中だけの愛ではありませんでした。イエス様がどのような個人を愛されたとしても、そこには神の愛が内包され、天宙的な愛が内包され、個人的な愛が内包されていたのです。これを体験することが重要であり、そのような体験を通じて初めて、イエス・キリストの生命の価値を正しく理解できるのです。

それでは、イエス・キリストは自己の生の基準をどのような基準まで打ち立てたのでしょうか? 世界のために自己が存在するという基準を打ち立てたのです。イエス様は自己を犠牲にして友人を愛する際にも、その奥には世界を愛する観念を持たれていました。



イエス様が十字架上で世界的な救いの愛の基準を打ち立てられたことは、個人のために死ぬ覚悟と同時に、全体のためにも死ぬ覚悟と愛の心を持っていたからです。こうしてイエス・キリストが愛と命と尊厳の主人公であったことを皆さんは知るべきです。そして、それだけでなく、そのことだけではありませんでした。

イエス様は十字架に向かわざるを得ないその時、天に向かって「父よ、もしそのままできるのであれば、この杯をわたしから取り去って下さい。しかし、わたしの意志ではなく、あなたの意志が成されますように」と祈りました(マタイ26:39)。死の一歩手前でも、父の御心に従って生きることを望まれたことから、イエス様は神の愛を人々に紹介できたのです。こうしてイエス様の使命には驚くべき愛が内包されていることを私達は理解する必要があります。

そして天宙的な生命を回復するために来られたイエス・キリストが生命の価値を見つけるために提唱されたものは何でしょうか? それもまた、愛です。そしてその愛は個人それぞれのためだけでなく、世界のためにも、同時に神のためにも、そして永遠の領域、すなわち霊界にいる霊的な存在達まで愛するためのものでした。

それでは、今私達が全体的な復帰の生命を負う立場にあるとき、日々の生活でイエス・キリストの生命の価値を実現するために、感情だけでなく、天宙的な全体の性格を通じて、イエス・キリストの人格を代わって受け入れる覚悟と決意を持たなければなりません。そのような日々の生活を通じて、世界的な生命を完成させ、永遠の生命との関係を築くことができるのです。

再度説明しますと、皆さんの日々の生活が自己だけに焦点を当てる瞬間的な生命の価値だけを持つ場合、永遠との関係を築くことはできないということです。ですから、永遠に続く神の愛との関係を築く生活をする必要があるのです。そのときに、永遠で不変な神様が皆さんと共におられることを理解することになります。

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そして、皆さんはイエス・キリストが一生を通じて毎日神様と関係を築いて生きたため、イエス様は昇天しましたが、イエス様を通じて神様の意志が継続して成就されたことを理解する必要があります。

それでは、今日、私達がこのような関係を築くためにはどうすればいいでしょうか? つまり、イエス・キリストを信じて歩む際に、私達の中心に置くべき概念は何でしょうか。それは、イエス様と同じように、個人のためだけでなく、世界のために生まれ、さらには天のために生まれたという概念を持つことです。他者のために生きること、他者への愛と奉仕の生活を通じてのみ、神と永遠の関係を築いていくことができるということを、皆さんは確実に理解する必要があります。

今日、私達にとって、イエス・キリストを信じ、その愛に感謝する心があるとしましょう。その感謝を自己だけのものと見なしてはいけません。その感謝をすべての人々のための感謝として実践していくべきです。そのような人がいれば、彼は世界的な使命を引き受け、さらには神の全体的な使命まで負うことができるでしょう。

私達がこのような中心を持って生きる限り、私達は失望することはありません。どのような困難や逆境にも、それを克服し超越する力を持つでしょう。

従って、さきほど引用した聖書の言葉で、イエス・キリストは「何も思い煩うことはない」と述べられました。つまり、食べることや着ることについて心配する必要はないとされました。これは、個人的な生活を解決するのではなく、まず世界的な問題を解決するために心配し、さらには世界的な問題よりも神様の御心を代わりにするために心配する人になるようにという意味です。また、そのような覚悟を持って生きる人にとっては、自己の苦しみが問題ではないことも示されています。

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では、神様の御心を達成しようとする私達は、どのように生きるべきでしょうか? 毎日の生活が自己の内外の問題だけを解決するためのものになってはいけません。自身の問題を超えて、全体的な問題と関連付けて、永遠の価値を実現する責任感を持って前進する必要があります。そうすることで、皆さんは天宙的な福音の目的を達成することができるのです。また、そのような使命感を持って伝道の道を進むならば、神が共におられることを知るでしょう。こうして、皆さんが愛の心を持って奉仕するならば、必ずそこに愛の再創造の歴史が生じることでしょう。これをしっかりと理解しておく必要があります。

私達はこれまで信仰生活を過度に自己中心的に行ってきました。自分のために努力し、自分を愛してきました。しかし、これからはそうではいけません。今後の皆さんは、天に向かって愛を求めるならば、すべての人々を愛することを求め、霊界にいる多くの霊人達までをも愛することを求めなければなりません。

人類の永遠の生命を見つけるために降臨された歴史は神の御計画であり、世界的な生命を見つけるために残されたものが人類の歴史の使命であり、一日一日の生命を見つけるためにあるのが日常生活の使命です。そして、これを人間の価値的な関係から見ると、世界的な生命を見つけるためにあるのが人間関係であり、個人的な生命を見つけるためにあるのが倫理観なのです。こうして、世界から個人に至るまでの全ての問題が、自己自身から関連していることを理解する必要があります。

そして、永遠に父なる神が保証できる生命の価値を持つためには、愛を中心に置いたイエス・キリストの生涯観を学ばなければなりません。

では、イエス・キリストの生涯観とは何でしょうか? 彼の生涯観は、愛を中心に置き、奉仕の心と天宙的な支配者の心情を持ち、日々の生活を支配していくことでした。これがイエス・キリストが天宙的な生を取り戻すために確立した生涯観の中心的内容でした。したがって、皆さんは日々の生活でどんな些細な問題に直面しても、神から託された全体的な生命の復活の使命を負った心でそれに取り組むべきです。また、イエス・キリストが復活のための愛の実践者として立ち上がったことを感じ取る必要があります。

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そして、その愛を実践するために、皆さん自身が他人のために尽くす生活をしなければなりません。そうすることで、皆さんは全体的な生命と関わることになり、永遠に存在する神が証明できる生命の価値を実現することができるのです。イエス・キリストは天宙的な生命を取り戻す使命を持って降臨された方であったため、個人的な奉仕や犠牲、苦難の道を歩まれました。そして、このような責任を負う際にも、その時代だけでなく、復活の使命が達成されるまで、全人類の生命を負う意志を持っておられました。

もう一度言いますと、イエス・キリストは2千年以上の歴史が経過した今日まで、天宙的な生命の復帰の使命を担いながら現れています。しかし、イエス・キリスト自身だけではその使命を完結できなかったため、聖霊を送って歴史を進め、そして霊界の多くの霊人達を動員してその使命を完結させているということを皆さんは知るべきです。

このようにイエス・キリストは天宙的な生命の復帰のために現れましたが、その使命を完結させることができなかったため、まだその使命を果たすべき責任が残っているということです。ですから、イエス・キリストは今日までこの地上でその使命を果たすために努力し続けているのです。

しかし、この責任はイエス・キリストだけでは完結させることはできません。では、誰がその使命を完結させるために使われるべきでしょうか? 神は皆さんを通じてその使命を完結させたいと願っています。言い換えれば、イエス・キリストが天宙的な生命の復帰の使命を完結させなかったため、今度は私達がその使命を担う必要があるということです。そして、皆さんが自分達の時代でその使命を完結させる責任を感じるならば、一生を通じてその使命を果たす決意を持つ必要があるということです。

今日の皆さんは、日々生活の中で、イエス・キリストが天宙的な生命の価値を実現するために創造された歴史的な進展の過程で働いておられることを感じ取る必要があります。そうしないと、これまで天宙的な生命の復帰の使命を果たすために努力してこられたキリストの意志が、皆さんを通じて完結されないままに終わってしまうことになることを理解する必要があります。

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今、皆さんはまず、自分達自身を天に誓約の条件として立てることができるようになるべきです。イエス・キリストも世界のため、天国のため、またはすべての人々のためにただ一度だけ誓約の条件を設けましたが、それが何かと言えば十字架です。イエス・キリストはこの十字架を通じて、多くの聖人達が生涯をささげてきたその基準を一瞬にして超越したのです。

したがって、皆さんは天宙的な生命の価値を実現するために、将来のある時点で天の前、世界の前、または個人の前で捧げる誓約の犠牲となる意識を確かに持つべきです。

どこに行っても、どのような状況に置かれても、何をするにしても、その日その時間において、常に誓約の条件として立つことを努力する必要があります。このような生活こそが信仰の生活なのです。

今、皆さんには父なる神の前で天宙的な生の価値を実現する使命が残されています。そのためには、自分自身を誓約の条件として立て、イエス・キリストとの関係を築く生活を送る必要があります。さらには、自分自身を世界的な条件として立てる決意を持つべきです。それ以上に、これまでの多くの預言者やイエス・キリストを代表して、誓約の犠牲となる覚悟を持つことが求められます。

こうしたように、個々の皆さんが誓約の条件を築くことによって、個人から始まり、カップルとなり、家族となり、さらには教会、社会、国家、そして世界に広がっていく環境が整うと、生命の価値を追求するための世界的な苦難は終わることを理解する必要があります。言い換えれば、生命を追求するための世界的な苦難を終わらせる基盤が個々の皆さんから形成されていかなければ、神がイエス・キリストを通じて天宙的な復帰を遂行しようとする意図は果たされないということです。これを皆さんは確かに理解するべきです。

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しかし、これまでの歴史を振り返ると、皆さん自身について考えたり、または現代のキリスト教徒を考えたりすると、天宙的な生命の価値を代表し、個人と家庭が社会、国家、世界とつながる基準が築かれていないことが分かります。一から始まり、全体へと、すなわち世界中の人類全体がその内包されるべきなのに、そのような流れが実現されていなかったことです。このような基準がこの地上で確立されない限り、イエス・キリストの天宙的な復帰の使命は完了しないことになります。

真の個々であるイエス・キリストは立ち上がりましたが、今まで家庭、社会、国家、世界へと拡大されていかなかったことを理解する必要があります。そのようなイエス・キリストの欲望が天宙的な欲望として残り、また神の欲望、天国的な欲望として残ったのです。

そのため、人々はこのような欲望を解消し、永遠の天国の勝利が訪れる日を待ち望んでいるのです。皆さんの生活を通じて、天と地の全体的な価値を証明し、天国の全体的な愛を表現する決意を持つべきです。ただし、皆さんが望む生命の価値観と、神が全体的な秩序を実現するために願われている天宙的な生命の価値観とは、異なることに注意が必要です。

したがって、皆さんは希望に満ちた天の法則を基準とする生活の規範を通じて、個人的な生活においても世界的な生活と天宙的な生活を実現できる心構えを持ち続ける必要があります。そのような心構えが備わるならば、外部的な成果が完全に得られなかったとしても、内面的には引き続き全体と関わりを持ちながら進んでいけることでしょう。

そのために、イエス・キリストも「天国はあなたがたの内にある」と言われました。これはどのような意味なのでしょうか? 天宙的な生の価値と天宙的な愛と真理の完成者であるイエス・キリストは、神が各個人に授けたすべての価値を完成させ、それが彼ら個人の根底になるべきであることによって、天国が実現するという意味で述べられた言葉です。

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このように天国の領域に属する個人が結集し、統一し、世界的な生命の運動を起こし、また天国の領域にいる多くの聖なる存在とも関係を築けるようになるとき、初めてイエス・キリストがこの地において天宙的な生命の復帰を成し遂げようとされた意図が、そのような人々を通じて完成されることを皆さんは理解すべきです。

天宙的な生命の復帰の使命を背負っておいでになったイエス様を追随していた当時の人々が、そのような使命を想像もしない立場でイエス様に接したとき、イエス様は彼らを戒められ、「神の国と義よりも食べたり飲んだり着たりすることを願うべきではなく、それらを生活の基準としてはならない」とおっしゃったのです。

一日一日の生活を神の代わりに生き、イエス・キリストを代わりに生き、世界を代わりに戦える覚悟を持って生きる者がいれば、その人は一人ではありません。そのような人には、この世界の終わりまで神が共におられ、イエス様が共におられ、聖霊が共におられるのです。しかし、当時の人々はこのような関係を知らず、自己中心的な生活の概念を持って生きていたため、イエス様は彼らを戒められたのです。

それでは、終わりの時に立たされた皆さんがイエス様を信じる目的は何でしょうか? それは外的に世界的な利益を求めるためではありません。個人的な安定を得るためでも、個人的に快適な生活を追求するためでもありません。私達が幸福な生活を送ることは、イエス様と神のためにです。しかし、この目的が変わってしまうと、全てがうまくいくかのように見えるかもしれませんが、時間が経つにつれて、むしろ妨害されることがあります。一方、人々がイエス様のために、神のために、世界のために生きるならば、イエス様がおっしゃったように、神がすべてを主管し、用意してくださるということです。

しかし、神のみ旨を成し遂げる責任を負う皆さんにとって、問題はどこまで犠牲を払って神のみ旨を遂行できるかということです。

14

皆さんが個人のために犠牲を払うなら、個人的な英雄になるでしょう。世界のために犠牲を払うなら、世界的な英雄になるでしょう。そして天地のために犠牲を払って勝利に満ちた生活の基準を築くなら、天地を統(す)べる英雄になるでしょう。

したがって、イエス様は人々が自己の個性を似せ、生命の価値を見つけて築くように、今まで舞台裏で歴史を進めておいでになったのです。

あなた達が自己を見つけて立てることによって、このような生命の復帰の運動を引き起こすことは、人類の歴史的な観点から見ても、現実の世界的な観点から見ても、そして未来の永遠の希望的な観点から見ても、言葉では言い尽くせないほど重要なことです。同時に、あなた達の責任も非常に大きいことです。

皆さんが食べたり生活したりするすべての基準は、キリストを代わりにして全体的な生命を回復するためのものとなるべきであり、また皆さんは神が追求されている全ての生命の価値を、イエス・キリストが築いた愛を中心に実践する責任感を持って立ち上がる者とならなければなりません。そうしたあなた達が存在することで、神の天宙的な復帰の御心が完結されるのです。そのような人々が集まる場所が天国であり、そのような個人が多ければ多いほど、神が共におられ、さらに喜ばれるということを皆さんは理解すべきです。


<祈祷>
 天宙的な関係を持つために天宙的な法則を確立して、神の御心を成し遂げてこられた天のお父様の努力の歴史を私達は心から感じております。お父様、あなたが全世界の生命の価値を確立するために6千年間努力されたことを痛感しております。それを持って私達を導いて下さい。

15

個人から全体に至るまで、イエス・キリストとの関係を持たない宗教は、神が介入することができないことを天の原理として知っています。今、私達がイエス・キリストの願う生活を送ることをお許し下さい。そして、私達にイエス・キリストの愛の価値を知ることをお許し下さい。愛する天のお父様、切に願います。

イエス・キリストが持っていた生命の決意を私達も持つべきだと知っておりますので、私達の個の生命の価値を見つけるための闘いの場で、悪魔の侵入を打ち破り、勝利できるよう共にいて下さる様にと願っております。

イエス・キリストが遺した生命の価値の復帰の道を私達が進む際に、悪魔の中傷が存在することを知っておりますので、個人の生活から世界の生命、天宙の生命に至るまで広がる使命において、悪魔の中傷を受ける者にならないようお導びき下さい。

堂々と悪魔の中傷を日々の生活で排除し、歴史的な観点からも排除しようとする決意を持ち、その生命と責任を果たせるようお許しいただくよう、愛するお父様、切にお願い致します。

これから私達が永遠の生命の価値を持つ世界的な生命を創るためには、地上で万物を主管したイエス・キリストの完全な人格を模範としなければならないことを理解しております。ですから愛のお父様、私達がキリストの人格に類似するように導いて下さい。また、私達は誰であれ実際に闘いの使命に挑む立場にありますので、社会的な活動やお父様の前で立ち向かう人格的な側面、あるいは人々に与えるべき愛の側面で、悪魔の中傷を受けないように導いて下さい。永遠のお父様の愛が成就されるよう、私達が熱望するキリストの愛を実現できるよう、共にあって下さる様にお願いいたします。キリストが築いた生命の価値を私達が持ち、その価値をこの地上で実現できるよう、お父様、お導き下さい。心から願い求めております。

16

私達がこの使命を引き受けることで、個人から世界、天宙に至るまで繋がっていくことをこの瞬間感じられるよう、お許しいただきますようお願い申し上げます。外的なすべての条件に打ち勝ち、全体的な生命の基準と価値を見つけるために、私達自身が覚悟し、すべての条件を誓いの捧げ物として取り組んでいけるよう、愛するお父様、お導びき下さい。切に願い求めております。

すべてをお父様の御心に従って主管していただき、これらの使命をお託しいただくことを切にお願いいたします。主の御名によってお祈り致します。アーメン。





「文鮮明先生の言葉選集 2 - 2. 最後の道を行かれながら振り返るイエス」
1957年2月10日(日曜日)、本部教会。
ルカによる福音書22:54-62

<祈祷>
 お父様、一週間にわたり御意を中心に戦い抜いてきた息子娘達、悪魔の巧妙な策略に惑わされないよう、この時、お父様の前にひれ伏しております。お父様自ら威厳をもって、それぞれの心身を導いてください。

この時、心に不平を抱いている者がおりますか? 体に悪魔の痕跡を持っている者がおりますか? 愛あふれる私のお父様、彼らに再創造の歴史を示し、慈悲の手を差し伸べて、あなたが望まれる御心に不足のない心と体で、お父様に敬意を表すことができるように、この時、お父様からの恩寵を願っております。

17

愛するお父様! 幼い私達を呼び、天宙的な摂理を伝えようとするお父様の御愛に、私達は頭を垂れ、ひれ伏しております。この時、私達の心に直接命じていただき、私達の身体を鼓舞して、望まれる善の領域に向かって、望まれる善の御心に向かって、望まれる勝利の領域に向かって駆け足で進むことができるように、導いていただきますようお願い申し上げます。

また、御心に向かって励むことができる私達になるように気付くようにし、自覚的な力と自覚的な決意を持って進むことができるようにお許しいただきますよう、愛するお父様、切に願い求めます。

まだまだお父様の前にふさわしくない罪悪の要素が残っている私達ですが、お父様!尊厳ある力の歴史によって私達の罪悪の要素を取り除いていただき、御力の手によって触れて悔い改めの心を起こしていただけますよう、お父様、切に願い求めます。

この日は聖なる日であり、祝福されると約束された日です。多くの祭壇が民族のために集まっているこの時、祝福していただき、勝利の旗を掲げることができるように導いていただきますように。お父様の栄光と慰めを受けるために、この時敬意を表し、集まっている多くの息子娘達を祝福し、聖霊の働きを下さるよう、愛するお父様、切に願い求めております。

お父様、私達のすべてを父の前に差し出すために集まっております。お父様の前にふさわしい者達なのか、もう一度自己を分析できるよう導いていただき、もしお父様にふさわしくない未熟な事実がまだ残っているなら、全てを悔い改め、全てを差し出してお父様の助言と指導を受けることができるようお許しいただきますよう、愛するお父様、切に願い求めます。まだ戦いの道が続いているこの時、私達の心を合わせて生命の楽園を目指して突き進むための天の指針となる存在となれるよう、お許しいただきますよう、愛するお父様、切に願い求めております。

18

孤独な息子娘達が地方に散在し、福音の御言葉を証するために努力し、労苦の祭壇を築いていることを知っております。彼らがどの場所に集まっても、お父様がご自身で働き、勝利の息子娘であることを証明していただけるよう、導いていただき、お父様がご自身で導かれ、働かれることができる勝利の祭壇を築くことができるよう、お許しいただきますよう、愛するお父様、切に願い求めております。

ここに出席している息子娘達、自分を中心に据えた考えや主張を持たないように許可していただきますよう。幼子のような心で、すべてを差し出し、命じられる御言葉によって自分の不足を悟り、お父様の前でひれ伏せる息子娘となれるよう、お許しいただき、お父様の再創造の手によって支えられるこの時間となれるよう、お許しいただきますよう、愛するお父様、切に願い求めます。

お父様の前にすべてを委ねましたので、悪魔が侵入を許さないこの時となるよう、お許しいただきますよう、切に願います。聖別の歴史によってお導きいただき、お父様ご自身がご指導いただけるように、また、お父様の栄光だけが顕れるこの時間に導いていただけますよう、切に願い求めながら、すべての御言葉を主の名によってお祈り致しました。アーメン。


<御言葉>
今日のこの時間は、「最後の道を行かれながら振り返るイエス」という題で、しばらくお話しいたします。

アダムとエバが堕落によって神が許された永遠の楽園を失ってしまいました。つまり、彼らは神と共に生きる善の楽園を失ったということです。それにより、彼らは神の存在から離れ、懐かしさを抱えて苦しい生活を始めることになりました。その結果、神の愛から離れた人間は今まで悲しい心情で神を振り返り、苦難の6千年の歴史を歩んできました。

19

私達の先祖が天に向かって振り返る生き方を歩んだように、今日の人類も自らの本来の位置を取り戻すために、天を仰ぎ見ながらの生涯を歩んでいます。また、人類を救うためにおいでになったイエス様も、地上で天を見つめて歩む人々を探し求めておられました。

世界の人々が現れるイエス・キリストの新しい福音によって、自らの生きる道を振り返り、イエス・キリストに縋ることができるように願われ、天の愛からイエス・キリストが送られました。しかしその当時の人々だけでなく、今まで多くの人々は天を仰ぎ見ることができる主人公を迎え入れることなく、正しく迎える事ができなかったため、天を仰ぎ見て進む生命の目的を達成せずに歴史が流れてきました。それゆえ、今日の皆さんも、天を仰ぎ見て進まなければならない運命にあるのです。

しかし、人間自体の力では天に向かって戻ることはできないため、神様はイエス・キリストを送って人々に戻る手段を提供しました。もし人々が彼が見る方向を見て、彼が歩む道を歩んでいたならば、人々は神様の愛に戻る願いを達成できたでしょう。これが神様がイエス・キリストを送った中心の目的であったことを、皆さんは理解すべきです。

当時のユダヤ教徒はもちろん、イスラエルの民族や世界中の人類は、イエス・キリストを抱きしめ、天を仰ぎ見て進むべき生命の目的を完成させて、神様の元に帰らなければならなかったはずです。しかし、人々の不信仰のために、イエス・キリストは自身の道と人々の道が分かれてしまいました。そのため、イエス・キリストが自身の進む道を止めて地を仰ぎ見る立場にあったことを、皆さんは心に留めておくべきです。

しかし、人間達は、今日まで6千年という長い歴史の過程を経ても、天に向かって立ち返り、天のために心を傾け、力を尽くした聖徒達がいなかったということです。また、人間を代表して天に向かう苦難の道を歩んでいるイエス・キリストの足跡を止めるために、神様に自らの命、愛、行動を捧げた聖徒、つまり真の犠牲者が一人もいなかったということです。これが神様の深い願いであったことを理解する必要があります。

20

天を求めて進むべき人間達が地にとらわれ、地の希望を中心にしてイエス・キリストを信じなかったために、神様は4千年間にわたり地上を主管される意図が挫折しました。その地上の人々の望みを実現するために、神様はイエス・キリストを送られましたが、人々がイエス・キリストを信じなかったために、逆に2千年という長い歴史を通じて、神様は再び地上を見つめる立場に立たれることとなり、イエス様と聖霊もただ地上を見つめる立場に立たれたということです。

では、イエス・キリストが30年以上をかけて願った願いは何でしょうか? その願いは先ず他人のために尽くすことでした。エデンの園からアダムとエバが追放されたとき、感じた悲しみと切なる思いを抱きつつも、それを表現せず、他人のために生きる生活を送ったイエス・キリストでした。このようなイエス・キリストを当時の人々が自分達のすべての願いを取り戻すことのできる救い主として知り、イエス・キリストに向かって歩み寄ることができたとしたら、イエス・キリストは十字架には向かう事はなかったでしょう。

無知な人々を目覚めさせるために、30年以上の生涯を通じてイエス様が共に歩まれ、同じ行動で神様に向かって進むべきイスラエルの民がイエス様を裏切ったため、イエス様は自身の進むべき道を止めることとなりました。このように、天から託された使命を成し遂げることができなくなったイエス様は、人類のために再び天に向かって目を向け、人間の代表として神の元に入る道を歩まなければならないということを、皆さんは心に留めておかなければなりません。

それゆえ、人々が神様とイエス様のために真心を持ち、イエス様の進む方向に合わせて歩み、イエス様が歩まれた道を代わりに歩み、保護していたならば、イエス様は人々を愛する神様と同じように人々を愛することができ、そしてこの地上で喜びの祭壇を備え、栄光の日を迎えることができていた事でしょう。しかし、当時の人々が天に向かうその歩みをしなかったため、イエス様はイエス様の道に、人々は人々の道に分かれることとなりました。

しかし、創造の原理的な責任を負う神様は、人が進む方向を変えて、イエス様を通して神様の元に進むための勝利の日を実現しようとされました。しかし、地上においでになったイエス様はイスラエルの民に拒絶され、十字架へと進む事となりました。そのため、神様がイエス様を通して行われるべき救いが失敗に終わったことを、皆さんは確実に理解する必要があります。

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イエス様が十字架の道、ゴルゴダの丘の孤独な道を進む際に、誰を振り返られたでしょうか。それは、愛する12人の使徒の代表であるペテロを振り返られました。なぜなら、自身の後に最初に続かなければならないペテロの心が変わることを心配されたからです。こうして、神様の御心を気にかける心情にもかかわらず、愛情に満ちた心でペテロを振り返られたイエス様のその視線を、今日の皆さんは再び感じる者となるべきです。

しかし、ペテロは3度もイエス様を知らないと言いました。そのため、天の御心と完全に分かれた立場に立たされ、イエス様とは無縁の立場に立たされることとなりました。イエス様はそうした状況をご存知でしたが、死の道を進む自身の後を見守り、心から共感し支えることのできる一人を求め、愛する弟子であるペテロを振り返られたのです。こうして、真の人間を求める神様の御心が、愛する弟子であるペテロを見つめるその視線の中に宿っていたことを、今日の皆さんは理解すべきです。

神様の全体的な御心を担うイエス様にとって、このような立場に立たれるとき、これ以上の悲しい場面はなかったでしょう。なぜなら、人々の不信仰のためにゴルゴダの道、死の道を進む自身の使命を引き継ぐ者を見つけようとする悲しい心情を理解してくれる人は一人もいなかったからです。そのため、イエス様は言葉では表せないほどの悲しみに沈まれたのです。ただ神様のみが、イエス様の悲しい心情を理解し、イエス様の哀れな状況を気にかけてくださったのです。

イエス・キリストは自身の30年以上の生涯を通じて、ただ天の悲しい状況を代わりに背負って進んできた苦労と努力を振り返ると、人間に対して叱責したくなり、地上を呪いたくなる気持ちに沈まれました。しかし、そのような心情を抑えて、自身の足跡を止めて同行しているペテロを見つめられたのです。こうしたイエス・キリストの内面的な心情を、皆さんが感じることができないならば、イエス・キリストを中心にした神様の意志を受け継いで堂々と立つことはできないことを、皆さんは確実に理解すべきです。

それでは、こうして孤独な苦労の中で一生を終えようとするイエス・キリストを見つめるペテロの心情はどのようなものでしょうか? 彼は過去にイエス・キリストと築いた真の愛の絆を忘れず、孤独の中で嘆息し、言葉にできないほどの悲しい立場に置かれたでしょう。傷ついたイエス・キリストを見て、罪のないイエス・キリストを侮辱し、罪のないイエス・キリストを怨み、縛り上げて連れて行く姿を見つめるペテロの心情ももちろん非常に辛かったことでしょう。

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しかし、ペテロはイエス・キリストが全人類を取り戻すための代表的な使命を帯びてきたメシアであることに気づいていなかったため、弟子達を代表して前に出ることができず、自分だけを考える立場に立たざるを得ず、その結果、彼の前に女中達が現れてキリストの仲間ではないかと尋ねた際、三度も「知らない」と言ってしまいました。こうしたペテロの姿勢は、一人の人間としての立場を代表したものであったことを、皆さんは明確に理解すべきです。

私達がこのようなイエス・キリストとペテロの立場を再び振り返ると、三度も「知らない」と言ったペテロをイエス・キリストが再び振り返られたことは、ペテロとイエス・キリストの関係に限定された事ではなく、歴史全体の過程がそうであったことを示しています。

世界中の人類が天の道を進む中で、キリストの御心に代わって実践する真のクリスチャンの姿勢で立ち向かう際には、必ず三度の讒訴が悪魔によって行われるということです。これは6千年の歴史の中でアダムの立場、イエス様の立場、再臨の主の立場を象徴的に表すものと言えるでしょう。また、これは終末において世界的な第一次世界大戦、第二次世界大戦、第三次世界大戦の形で現れることでもあります。こうした出来事は歴史全体に現れるだけでなく、今日の個人の信仰の状況においても起こりうることを、皆さんは理解すべきです。

では、皆さんが主に会う直前に何が起こるでしょうか? ペテロが天に向かって「知らない」と言った裏切りの瞬間があったように、終末を迎えた今日、私達にとっても同じような瞬間が訪れる可能性があることを理解する必要があります。

私達には、外的なペテロの立場を超えて勝利したイエス・キリストの後を追い、自己を見つけて立つべき歴史的で神の計画に沿った運命が待っています。このような運命の頂点を超えるには、どのような立場でどのような責任を持たなければならないかを知らなければなりません。

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また、イエス・キリストが復活する前にゴルゴダの道を歩まれたように、終末の時、世界中のキリスト教徒は再臨の時にもイエス様と共に復活の栄光に参加するために、最後のゴルゴダの道を歩まなければならないでしょう。そのような時代が明確に現れることを心に留めておかなければなりません。

それでは、今日の私達はどのような立場で信仰生活を送るべきでしょうか? ペテロにとって、愛する先生が何の罪もないのにローマの兵士に連れて行かれる際、心の中で憂えながらも外見上は「知らない」と言った瞬間があったように、今日の私達にも世俗的な条件によって、意図せずしてイエスを「知らない」と言わざるを得ない立場に置かれる時があるかもしれません。その際、私達はイエス・キリストを「知っている」と言えるようにする必要があります。また、私達は常に自分を注意深く見つめ、信仰生活を送らなければなりません。

地上でゴルゴダの道を歩まれたイエス・キリストは、霊的な領域でも今日まで世界的なゴルゴダの道を歩まれてきました。このように、地上と霊的な世界で、私達は愛する聖徒達を後にして、イエス・キリスト自身が十字架の道、苦難の道を歩んでこられた方が、将来的には悪魔との一大戦を展開されるでしょう。

そのような戦いの時期が地上に現れるとき、私達はどのような立場に立たなければならないでしょうか? ペテロがイエス様を知らないと言ったような立場に立つことはできません。私達はイエス・キリストの立場に立ち、私達のすべての事情や罪、不足を告白し、イエス・キリストが歩まれた苦労の道を共に歩むことができる勝利の息子娘としての立場に立つべきです。そのような立場に立たなければ、再臨する主を迎える栄光の位に参加することはできません。

ペテロは難しい立場にいた師であるイエスを三度も知らないと言ったが、イエス・キリストは真に自分の体を振り向けてペテロを見つめました。したがって、自分の困難や悲しみ、状況を忘れ、真に自分のために尽くし、自分の将来を心配してくださるイエス・キリストを見て、ペテロの心には一大転機が訪れました。ペテロ自身は三度もイエスを知らないと言ったにもかかわらず、イエス・キリストは本当にペテロのために尽くし、ペテロの前途を憂慮し、ペテロの感情が爆発しました。また、主と共に共に喜びと悲しみを分かち合った昔の絆を感じ、その瞬間、ペテロは自分の本質を認識することになりました。

24

イエス・キリストは、天の御旨を成し遂げるために自らの命を捧げ、死の道を歩む際も一切の人間的な悲しみを感じず、人類の救いの道を開拓するために努力する姿を見て、ベテロは自身の不足を心で感じました。ベテロはただイエス・キリストのために誠実を尽くさなければならない弟子の立場にいると思い、神に代わって立つイエス・キリストの立場と、自分がイエス・キリストに代わって立つべき立場を比較すると、自分がイエス・キリストを信じる信仰と、イエス・キリストが神を信じる信仰との間には天と地の差があることを感じました。

そして、自分がイエス・キリストを信じていると言っても、主のように天を中心に信じているのではなく、自分自身を中心に信じていたことに気付いた瞬間、自分を見つめるイエス・キリストの視線の前に驚愕しました。つまり、不信仰の自己を放棄して嘆息したのです。

天に向かう信仰の道において、永遠に変わらない姿として天宙的な使命を一切疑わずに進めるイエス・キリストを見る瞬間、ベテロの心は一変し、自分の一生を通じて主のために生きるべきだという衝動が生まれました。不信仰の自己を認識した時から、ベテロはイエス・キリストと自分との関係、または互いの生涯の経過を比較し、より一層自分の不足を感じるようになったのです。

イエス・キリストは、天の御旨のために、この地上のすべての人々のために自己の幸福を求めず、全身を天に差し出し、十字架に引き渡されても不平を言わない姿を見ながら、三人の弟子達は自分達の生涯があまりにも個人中心的であったことを感じました。それゆえ、自己を中心としないでおられるイエス・キリストの前で、弟子達は自己を反省し、イエス様の常に望んでおられた御旨を引き継ぎ、この地上でその御旨を実践すると誓い、決意することができました。

そしてその後、ベテロは何を感じたのでしょうか? 自分の不信仰を感じながらも、周囲の不信仰も感じたのです。罪のないイエス・キリストを、どの人に尋ねても罪のない人と答えるであろうイエス・キリストを、邪悪な周囲の人々が縛り付け、鞭打つのを見て、ベテロは迫害されるイエス様の視線の中で、イエス様の悲しみに満ち、孤独な心を見抜くことができました。このような不当な立場でも、天の道を進む姿勢を示すイエス・キリストの熱い視線の前で、ベテロは周囲の環境の腐敗を感じました。そして、イエス・キリストの弟子であるベテロは、邪悪な集団と戦い、正義の使命を果たすために、主が再び来られるまで周囲の腐敗した勢力と戦うことを決意したのです。

25

天に向かうイエス・キリストの善き不変の姿と腐敗した周囲の状況とは天と地の差がありました。したがって、一瞬だけイエス・キリストの視線を振り返ることで、ベテロは自分の愚かな人生を清算でき、周囲の環境を浄化し、善の基準を確立するために、ますます神様への信仰を深める様になりました。

黙して天のために、地のために、すべての人々のために、御旨のためにお帰りになったイエス・キリストの帰天を通して、ペテロは自然と主を尊敬するようになり、その為の悔い改めの涙を流し、嘆きました。

この事実が最後にご自身を振り返るイエス・キリストに、自分を認める使徒がいることを感じさせ、天と人間の関係が回復される瞬間であることを感じさせました。ペテロはただ一人、天と地、そしてすべての人々と多くの使徒達を代表して神の御旨の前で帰られたイエス様に、自分の不足を感じて悔い改めの涙を流したのです。こうして、イエス様が十字架に帰られる苦しみを見て、ペテロだけが嘆きながら悲しんだのです。このような出来事があったために、イエス様が使徒達を中心に歴史を進行させる基準ができ、イエス様と人々との関係が新しい基準で結ばれるようになったのです。

キリスト教徒がイエス様が十字架に帰られた後、今日まで神の御旨だけを堅持し、復活と再臨の時を待ち望んできたように、皆さんも同じ立場をとるべきです。そしてペテロと同じような立場に帰ってくるべきです。これは皆さんの信仰の旅路に残された最後の運命です。だからこそ、真剣な立場から、真摯にイエス様と自分との関係を振り返り、イエス様を模範とし、イエス様の前で謙虚に悔い改めることができるはずです。

今まで私達が信仰生活を歩んできた中で、私達が主をどれだけ心配し、思いやって生きてきたかが問題です。自分は一生を通じてイエス様を気遣って生きてきたと言っても、どうして死の場を通り抜けながらペテロを見つめたイエス様の生涯と比較できるでしょうか?

26

復帰の原則に従って、イエス・キリストが死の道から群衆を振り返られたように、私達も死の道に立たされたとき、イエス・キリストを振り返って見る自信を持つべきです。そのような立場から、イエス様に代わる立場で、同時にイエス様を栄光の位に迎えるために私達が振り返り、イエス様の苦しみに代わり、イエス様の心配を代わりにする必要があるということです。皆さんにそのような時があったかどうかが問題です。

もしもあなたがたにそのような時がないならば、最後の時、すなわち復活の栄光を迎えるとき、マグダラのマリアが復活したイエス・キリストを抱きかかえたように、あなたがたも復活の主を抱きかかえ、「私の主、私の花婿」とは言えないでしょう。イエス様が十字架の上からペテロを見つめ、ようやくペテロと三人の弟子は見つけましたが、天国に到る聖者達はイエス様を直接抱きかかえ、進んでいる者はいないということです。

今や終末にある皆さんがイエス様と共に生活し、イエス様の真実な弟子となり、イエス様の御心を成し遂げるためには、イエス様が死の道を歩みながらもペテロを振り返られたように、本当にイエス様を気遣い、イエス様に代わって悪魔と戦う覚悟を持つ必要があります。そうでない場合、栄光の主を手放して神に礼拝することができないことを皆さんは理解すべきです。

私達は信仰の生活を送っているが、日々の生活全般を通じてイエス様を気遣う生活はできていません。だからこそ、イエス様は何百回、何千回も私達を訪ねて来ておられますが、私達の不信仰な生活のために避けざるを得ず、悲しみの目で私達を見られたことでしょう。

イエス様が私達を悲しい目で見つめる場面が多々ありましたが、私達はその方の事情や心を知らず、自分だけを考え、自分の思う通りになってほしいという楽な信仰生活を続けてきました。

27

ペテロがイエス様の目を見つめる中で、自身の生涯とイエス様の生涯を比較し、自分の不信を責め、自己中心的に生きていたことに気付きました。同様に、皆さんも自分自身をイエス様の30年以上の生涯と比較し、神のために歴史を刻んできた2千年以上にわたるイエス様の歴史的な人生の模範と比較すると、自分を中心に置いて生きていたことを感じずにはいられないでしょう。もし皆さんがこのような不信の殻から抜け出すことができないなら、再臨するイエス様に出会う道はないことを知る必要があります。

それでは、私達は何処迄進むべきでしょうか? 皆さんはイエス様の目を通じて、彼の心を理解し、十字架の苦しみを前にしたゴルゴダの決断ではなく、復活の栄光の場所まで進む覚悟が必要です。そのためには、ペテロと同様に、皆さんも自己中心的な信仰観念を反省する必要があります。

イエス様は自己中心的に自分を生きるのではなく、神の意志を中心に生きられました。皆さんも信仰生活において、自分の救いを求めるため、自分だけが良くなるために信じるのではなく、神の御心のために生きることが大切です。

自分の利益のための信仰を持っていたペテロは、気付かぬうちに三度もイエス様を裏切ってしまいました。同様に、今日の皆さんも自己中心的な信仰観念を持っている場合、いつ、どの瞬間、どの時点で自分も気づかないままに天国を拒絶することが起こる可能性があることを心に留める必要があります。つまり、皆さんは自己を信じる信仰生活ではなく、イエス様を信じる信仰生活、自己を探求する信仰生活ではなく、イエス様を探求する信仰生活、自己のための信仰生活ではなく、イエス様のための信仰生活を送るべきです。

ペテロが自己を探求する信仰生活を送った際に、言い表せない苦難が彼を妨げ、ついにはイエス様との関係も断たれる結果となったことを思い出し、皆さんもそのような状況を避けなければなりません。自己のための信仰生活から離れ、イエス様と神様のための信仰生活に変える必要があります。

28

そしてその後、ペテロが不信仰な環境を信仰心の環境に回復させ、不信仰なことを痛感したように、皆さんも神様が望まれない不信仰を見て、表現できないほどの自己嫌悪と後ろ向きな感情を抱きながら、神様の求める善の道を歩むべきです。また、その善は自己中心的な善ではなく、神様を中心に据えた善であり、その善が自己との関わりを築くようにするべきです。

この善の道を見つけるときに、初めてペテロが神の御旨が達成されない状況を見て、悲しんだように、皆さんもペテロの立場に代わって、世界の人類のために悲しむことができ、天国のために悲しむことができます。

今、皆さんにはお父様の前、イエス様の前、あるいは聖霊の前で、最後の勝利の使命を果たす責任があります。そしてゴルゴダの道を進むイエス様を裏切ることなく、その後ろを追いかけることができる人となるべきです。

そして皆さんは自己を心配する人にはならず、むしろ自分の苦しみを忘れ、イエス様の後ろを追いかけながら、「先生!」と声をかけることができるよう努めるべきです。つまり、皆さんはイエス様の心配の目を受ける人ではなく、むしろイエス様の立場に入り、イエス様のために心から慰めることができる姿勢を持つべきです。これを誰が行ったのでしょうか? ただイエス様だけが、この使命が果たされる日を待ち望み、人々のために今日まで尽力してきたのです。

今、皆さんは日常生活の中で、自分自身をイエス様の心配の対象としてではなく、全ての希望をかけておられるイエス様の心情と神の摂理に背く者となってはなりません。ペテロがイエス様を疑った後に自分を振り返り、ため息をついたように、皆さんも自分の疑念をため息し、神の御心に代わって果たすべき苦悩のあるイエス様の立場を通じて、心から死を覚悟し立ち向かうことができる覚悟を持つ必要があります。

29

そしてイエス様が歩まれたその道を私も進む決意をもって立ち向かい、ゴルゴダを越えてようやく復活されたイエス様を花婿として迎えることができ、天の前で喜びと栄光を捧げることができることを皆さんは忘れてはなりません。




<祈り>
 人類の歴史の使命を遂行し、天の勝利の土台を築く過程で、天宙的なゴルゴダの精神で悲しい道を歩む使命が今日24億の人々に課せられていることを、私達の愛するお父様、イエス様を送り、心配されていたあなたの心配が昔のゴルゴダだけで実現されたものではなく、今日私達の目の前でもその心配が続いていることを私達に悟らせてください。

現在の自分の未熟さについて心配して泣くことができる一方で、まず最初にイエス様が望まれる成果を心配して涙することができる息子娘として導いてくださる様に切実に求めます。

私達自身の不完全さを心配して泣く人であると同時に、神様の御心が達成されずに邪悪な世界となり、イエス様に対して叫び声を上げ、侮辱する悪魔の誘惑を見て涙することができ、悔い改めることができるようにお許しください。

イエス様はその生涯の過程で常に神様の見る目を感じながら、天宙復帰の使命を完遂するために最後まで戦ってこられました。私達もいつかイエス様が私達を探しにこられるとき、イエス様の見る目と足跡を忘れないように、お許しいただけるようにお願いします。また、今まで私達がイエス様のその見る目と足跡を無視してきたことを多くの場面で知る事ができる様にしてください。

30

お父様! 私達は一度でなく、二度、三度と裏切るかもしれませんが、変わらず私達人間を求めてこられたイエス様の心情をどれほど慰めて差し上げ、どれほど天の前で涙を流されたかを悔い改める私達となるようにお許しください。お父様、孤独なあなたの子らに世界的な審判の時が近づいていること、天宙的なゴルゴダの丘が私達の目前に迫っていることを思うと、私達が自分中心の信仰の姿勢を歩まないように導いてください。

私達の命は私達のものではありませんし、私達が生きる人生も私達のものではありません。私達が望む願いも私達のものではなかったのです。したがって、私達が自分自身のために生きる生活にならないように導いてください。私達の能力、要求、欲望、これらすべてを自分自身のために持つことがないように許してください。愛するお父様、切実に求め、願っております。

私達がイエス様のかわりに十字架の死の道を歩むかもしれませんが、最終的にはイエス様の不変の信仰を知って、ベテロが心の中でため息をついて神を信じる仲間として、イエス様が十字架を背負いながら進まれるのを見て涙することと同じように、ゴルゴダの審判の日が来る前に、私達がイエス様の前で悔い改めの涙を流し、天宙的な悔い改めを背負ってお父様の前で涙を流すことができるように導いてください。愛するお父様、切実に求め、願っております。

お父様! 私達はイエス様の足跡を代わりに歩む覚悟です。私達にこの地上の哀れな人々を救う使命を託してください。残されたゴルゴダの道を私達が歩むことをお許しください。そうして私達が世界中の悪魔を打ち破り、勝利の栄光の場所を築いて、私達の生涯のうちに復活されたイエス様を迎え入れることができるように、導いてください。愛するお父様、切実に求め、願います。

終末にお父様の御心を必ず成し遂げるようにお許しください。不信の自己を捨てて永遠に信じることのできる自己となり、不信の世界を離れるように導いてください。お父様と共に永遠に安息でき、天国でお父様の愛を受けて無数の悪魔を従わせることができる息子娘となるように導いてください。

切実に求め、願い、主の御名によってお祈りいたします。アーメン。


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御言葉選集1(20)

2023年08月10日 17時16分12秒 | 学習
「文鮮明先生の言葉選集 1 - 20. 天国への帰還を選んだ集団 (1956年12月30日)」
1956年12月30日(日)、前本部教会
聖書拝読 ヨハネによる福音書 15:1-22



<祈祷 (Ⅰ)>
この一年の最後の週を迎えました。お父様、私達がいつお父様の心を思いやり、心配したことがありますか? お父様のために戦ったことがありますか? 一度でもお父様を心から愛したことがありますか?


お父様、一年間、心配される思いを持って下された命令とこの民族のために私達に託された責任を私達が果たせなかったことをお許しください。この一年間、私達のような何も持たない者を立ててくださり、お父様が与えられた指示と命令がたくさんありましたが、その使命を果たせなかったことをお許しください。一身にして、お父様が求められる偉大なる志を成し遂げることをお許しください。


御心に応える地の人々が、時と場所を知らずして天が望まれる願いの達成の基準まで働くことができず、命令に従わないことをお許しください。戦いの中を通ってきたとは言え、勝利の成果がお父様の前に現れなかったことを見ると、お父様、この日再び恥ずかしさを感じずにはいられません。


ここに集まったあなたの息子娘達に対して、ここに過去にお任せになった全ての責任を再び委ねていただき、お父様の御心に従って走らせてください。内面と外面の自己を見極めて、いつでもお父様の愛を受け取ることができる心を持たせてください。自ら考える心を持てるようにお許しください。


お父様、私達に託された使命は、今日の私達自身だけを求められたものではなく、民族を求め、世界を求め、さらには天宙の望みまで解き放つべき使命ですが、その使命を代行し、お父様の指示に従う私達が、お父様の前に矮小(わいしょう)さを感じずにはいられません。


2


お父様、弱く不足な私達自身を再びお父様の前に立たせてください。慈悲と恩寵の手が、この場所を越えて悪魔の世界にまで溢れ出ることができるように許してください。お父様、熱望しております。


お父様、この民族を慈悲深くご覧ください。この民族を代表して集まった数多くの教会にも慈悲を注いでください。彼らにお父様の偉大なる御心と秩序があることを知るようにお許しください。


そして、教会がお父様の御心を受け入れ、民族が受け入れることをお許しください。この民族を通じて世界の24億人がお父様の御心を受け入れ、お父様の願いが成就するようにしてください。その栄光を24億の人々が歌う日が早くも来ることをお許しください。お父様、熱望しております。


この一日、足りないことを全て告げ、再びお父様の慈愛を求め、信じる者達がお父様のひざの前に集まっております。お父様、慈愛によって守ってください。栄光の恩寵として彼らを再び受け入れてください。新たな勇気と力を与えてください。お父様、熱望しております。


今この一時、お父様を拝しながら、天地が躍動し、お父様の尊い愛がこの場所に宿り、お父様と私達が一体となっている中で交わる栄光をお父様の前に差し出し、お父様から愛を受け取れる時間となるようにお許しください。心からお願いし、望んでおります。


3


各地に広がって、一人ひとりが孤独にひざまずき、お父様の前に祭壇を築いている息子娘達がおります。最後の使命全体を彼らに託す場合、どこにいてもお父様の御意に従い、ただお父様の御意を示すことができるようにお許しください。心からお願いし、望んでおります。


この一日、喜びに満ちた栄光が全体の頭上に共にあるようにお許しください。心から切に願いながら、愛される主の名によってお祈りし、お伝えいたしました。アーメン。




<祈祷(Ⅱ)>
お父様! 私達を見下す者達を探し出し、立ち上がらせてくださり、この時まで戦い抜かせてくださった恵みに感謝申し上げます。今日、私達には、身も心も捧げて、お父様の栄光の日のために戦わねばならない使命が残っております。お疲れにならないようお許し下さい。


お父様、ご指示に従って出て行く途中、行くに行けぬ険しい道でも、お父様がご一緒にお導きくださり、死ぬ道でさえも、お父様がご一緒に歩んでくださったことをあまりにも多く感じております。足りないわれわれを導き出し、多くを忍ばれたお父様のその愛に感謝せずにはいられません。


お父様! 約束の日とお許しいただいた日から、随分と時が経ちましたので、お許しいただいた御心に恥じ入るばかりです。今ここに集まったあなたの子供達が、この日に、お父様の御心に応えて栄光として報いることができないならば、涙をもってしてお応えできるようお許しいただきたく思っております。


4


お父様! 忍耐強く忍び寄せるお命令に従い、この民族のために訴えてきた先祖の願いが、この終わりにおいて実現されるようにお許しください。世界の人類の前で早くもお父様の御心を示し、お命令を下さることを、お父様、切に願い求めます。


お父様、民族の代わりに集まったあなたの子供達の中に、このように大きな御心を理解できない子ども達がいるでしょうか? 骨肉に染み入るお父様の心情を思いやることができるように、お許しください。


私達が進むべき道が遠く険しいことを承知しております。何時、どんな障壁がわれわれの前に立ちはだかろうとも、その力で突破し前進することができるように、また敵に立ち向かえない者にはならないようにお許しください。お父様、切に願い求めます。


お父様! 今日、ここに集まったあなたの子供達が、この一連のすべてを清算し、6千年にわたるからみ合い、対立した問題を解決できるようにお許しください。私達の個々の不足を清算すると同時に、この民族の不足をここで清算できるようにお許しください。そして、6千年の人類の歴史におけるすべての恥となった内容を清算するようにお許しください。こうして、この時を悪魔の前で勝利の条件とし、乗り越えて進むことのできる年となるよう、お願いいたします。


お父様、私達を何も知らない子どものようになるようお許しください。導かれると従うことしか知らない、導かれると服従することしか知らないわれわれになるよう許してください。私達それぞれの主観や概念が残らないように許し、お父様の心を見習い、清らかな子供の心を持つ善良な集団となり、死んでも生きてもこの道を守ることができるように、また危険が待つ道であっても駆け抜けることができるようにお許しください。切に願い求め、お願いいたします。


5


遠く離れた地方で、お父様の御心に縋り、守るために死を覚悟し戦っている孤独な仲間達がいます。疲れることなくお願いいたします。この時、彼らに勇気を与え、正義の衝動を許し、新たな決意と新たな御心のもとで喜びと栄光の日を迎えられるよう許してください。お父様、切に願い求め、お願いいたします。


この時、私達の不足をお許しいただきますようお願いいたします。私達には何も持つものもなく、誇るべきものもありません。ただただ、幼子のようにお父様の愛の腕の中に抱かれたいという切なる願いがあります。お父様、この時、真にお臨みいただき、それぞれの心の奥深くを洞察し、お造りになった計画どおりにご自身の祝福を注いでいただけるよう、切に願い求め、お願いいたします。


今日この場に集まった息子娘たちの中で、悪魔に引きずられ続ける息子娘がいないようにお許しください。 聖別の印を受け、喜びと勝利の旗をしっかりと父の前に永遠にホサナの栄光を称えるような決意のこの一時間となることをお許しください。切にお願いいたします。そして、すべての御言葉を主の御名によってお祈り致しました。アーメン。




<祈アy(Ⅲ)>


お父様!  天と地が一つの体のように結びついていることを私達は御言葉を通じて知ることができました。天は主体であり、私達は地に住むものと考えるとき、いつの日も、いつの瞬間でも、天の愛と命の精華を受けずには生きることはできない存在としています。しかしながら、今日、私達は天からの愛の精華、永遠の神から流れる愛を受けて生きるべきでありながら、一片の葉として生きている私の自己中心を許してください。


お父様! これから終わりの日が近づき、審判の日が告げられるとき、私達の一個人が完全なる根としてのイエス・キリストに中心をおいて、お父様の愛に結びつくことをお許しください。永遠のお父様の愛とイエス様と聖霊の愛を通じて結ばれる愛の実が私達の内に実ることを私達は願っていますが、私達がそれに到達するには不足であり、未熟で、父の収穫の鎌を妨げる存在となることを恐れています。


6


今、私達は自身をお父様に託します。お父様、私達を育て、見守ってください。試練と苦難の中で練り上げ、一つの成熟した実として完成させるようお許しください。永遠のお父様の愛の手によって、永遠の天国を成し遂げる実となり、収穫者として備えることをお許しください。


お父様! この出来事は、今日この時に初めて予告されたものではなく、昔ながらの旧約聖書時代や2千年前のイエス様の時にも既に予告されたことを知っております。これを知ると、今日の私達の一個人が結実して天に収穫される実として、天が安息できる結実体となるべきでありますが、個々に判断をすると、まだ完全さを感じていない者がおりますから、自ら父の前に悔い改め、自身の不足を嘆き、イエス・キリストの悲しみを代わりにする悔い改めの子供達となれるようお許しください。お父様、切に願い求めます。


お父様、今日私達がここに集まりました。彼らの心を完全に主管してください。完全にお父様の中心に導いてください。そして、お父様の御心にふさわしくない全ての悪の考えや主張を容認しないでください。


ここに集まった私達の集団は、男性と女性が一つになることで、悪魔が行ってきたことを終結させて、完全に聖別された子供達となれるようにしてください。お父様だけが導かれ、お父様だけが介入できるこの一時をお許しください。切に願い求めます。


今、私達を通じてキリストの日を成し遂げようとしていることを知らせていただき、私達を立ててキリストの愛を示そうとしている時であることを感謝申し上げます。また、私達一個人を立てて、20世紀の今日においてキリストの苦難に耐えることを願っていることをお許し頂く事を感謝申し上げます。お父様、天賦の心情を追求し、自分自身を中心にしないよう導いてください。自己を中心に置いて祈り続ける場所に留まらないようお許しください。


7


すべての悪が侵入する可能性のある要因を乗り越えることをお許しください。お父様が導かれ、お父様の望む御心を達成するために、どんな過酷な闘いの道であっても、倒れるしかなく、絶望するしかない道であっても、忍耐して進むことができるよう、お父様に支えられることを、切に願い求めます。


私達は地上の者ではないことを理解しており、したがって地上の栄光を受けることはできないことを知っています。イエス・キリストを通じて予告されたように、2千年の歴史を経て、真実なお父様の愛と真実なお父様の主管圏を持つ天の民、天の息子娘が存在すると語られた場合、彼らはどの時代においても、地上で歓迎されなかったことを理解しております。


お父様! 今日、私達がイエス様の代わりに、イエス様が地上で果たせなかった使命を果たす祭壇が、この民族の前で迫害される時、それに耐え得るようにお導き下さる様にお願いいたします。また、天のために生きる時、この地上の人々から侮辱を受け、苦難に見舞われ、悲しみを経験しても、それを克服し、残る力を持つことができるようにしてください。


6千年が経過した今日、イエス様は収穫の日を待ち望み、私達を呼び寄せておられます。私達を通じて歴史的な苦難や十字架の涙の跡を残され、私達が勝利の盾となるよう導いてください。希望の実体であるイエス様は、今日も私達が悪魔を主管できる資格を持つ者となることを望んでおられることを知る事が出来る様にしてください。


こうしてお父様の喜ばれる御心を心に抱き、今日も天のために戦わなければならないとき、人生のすべてを捧げてお父様の使命を果たす間、私の使命が終わらない限り、子孫を通じてでも敵である悪魔を打ち破る覚悟を持つ息子、娘となるようお許しください。お父様、切に願い求めます。


8


新年を前にする私達、再び生死を賭けた戦いの道を進むべきであり、心の底から覚悟しなければなりません。どのような敵が反対するかも知らずに、ここで屈することなく、忠誠を守ることのできる子供達となることを願います。お父様、切に願い求めます。こうして、私達はあなたを代表する子供達として、全天宇宙の前にはっきり示すことができ、天地に代わることができる、あなたの子供達となることをお許しください。お父様、切に願い求めます。


この日に許された御言葉を示して、心と体が一体となるように導いてください。霊が霊を導き、お父様の力の御前に再び創造されるこの時をお許しください。切にお願い申し上げます。


すべての御言葉を、主の御名によってお祈り致しました。アーメン。




<御言葉>


「天国帰還を求めた集団」というタイトルで、しばらくお話しいたします。


皆さん、今日は私達が今年最後の日曜日を迎えました。この1年間に果たすべき使命を果たせなければ、次の年に果たすべきですし、今日の責任を果たせなければ、明日でも必ず果たさなければならないことを、皆さんは復帰の原理を通じてよく理解していることでしょう。


9


創造以来の歴史は一日、一年、長い年月が経ち、季節が変わる中で6千年が経過しました。しかし、今ではこの地上で世界的な審判が行われ、神が完成させるべき復帰の計画は、今日の皆さんを通じて、24億人の人類を通じて遂行されるべきであることを、皆さんもよく理解していることでしょう。


それでは、今や私達は6千年の歴史の終わりに立ち、天宙的な帰還の歴史に協力するために参加している私達自身が、自分達の位置を明確に見つけなければならない時が来ています。


したがって、今や皆さん自身が6千年の歴史を超えて最終的な復帰の理想であり、アダムとエバの時代の基準に到達しなければなりません。さらに、皆さんの家庭、社会、そして世界中の人類全体が、その基準を超えなければなりません。その基準を超えるまで、神の計画はこの地上で完結しないことを意味します。


こうして、膨大で恐るべき努力が必要な復帰の使命、私達の先祖が犯した罪、先祖が受け入れられなかった部分を、私達現代の子孫が代わりに責任を持ち、達成しなければなりません。この天宙的な使命が皆さんにあることを、今この瞬間感じなければなりません。


アダムとエバの堕落によって、天国の理念は根本的に破壊され、人間を通じて完成すべき天国の理念は天から切り離されてしまいました。そして今でも、天国を見つけられず、天国を築くべき人々も見つけられず、人々を形成すべき家庭も見つけられず、家庭を形成すべき夫婦や子供、兄弟も見つけられていないのです。


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そのため、神が求めている唯一の中心的な目的は何かというと、それは天国への復帰です。そして天国への復帰運動は力強く進めなければなりません。天の民から天の子供、天の兄弟、天の夫婦、天の家庭までを復帰させ、天国を実現するべきです。このような使命が私達に残されているのです。


今日私達が住むこの地は、今日私達が住むこの世界は、天国の土地でもなく、天国の世界でもありません。神を中心とする世界ではなく、悪魔を中心とする天国に対立する世界です。しかし悪の世界が善の天国へと回復する歴史的な過程は、歴史の終末時代に必ず現れるでしょう。


現在、24億の人類は、神の計画に従って個人的な復帰から家庭、社会、国家、そして世界の復帰に向かう道を進んでいます。


イエス・キリストがこの地上において伝えた福音の中心的な目的もまた、天国への復帰でした。この天国への復帰という基準は、個々の復帰だけでなく、家庭、社会、国家、世界を通じて最終的には天国への復帰を意味します。そのため、皆さんがイエス様を信じ、その日から復帰のための戦いを通じて進んできたのです。


今、世界の人々の生活は世界のために生きることではありません。国家のために生きていると言っても、実際には国家のために生きているわけではありません。家庭のために生きていると言っても、実際には家庭のために生きているわけではありません。また、自分自身のために生きていると言っても、本当に自分自身のために生きている立場にはないということです。


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今日、邪悪な世界に存在する全ての人々は、世界のために生きるべきでありながら、それを実践していません。国家のため、民族のため、人種のため、家庭のため、自己のために生きるべき人々が、その基本的な立場を失い、それとは逆に生きているのです。


現代の人々は、自己を中心として生きている一方で、心を中心として生きることができていません。自分自身を見つめる際にどれだけ遠くなったかというと、心を中心に生きるべき自分であるにもかかわらず、その程度だけ遠くなっています。肉体を中心に生きている自分になってしまったのです。自己を中心にし、肉体的な満足だけを求めて生きている自分になってしまったのです。


神はこのように堕落した人々を復帰させるために、体を通じて心を服従させ、個人を通じて家庭に服従させ、家庭を通じて民族の前に服従させ、民族を通じて国家の前に服従させ、国家を通じて世界の前に服従させる歴史を、これまでに行ってこられました。


そのため、どの社会でも個人主義的な人々は、イエス・キリストを信じて出てくる革命的な精神に対抗する立場を取ってきました。また、家庭を中心にする人々も同様に反対の立場に立ってきました。


神は歴史の進展に従って、個人主義的な時代、家庭的な時代、民族的な時代、国家的な時代という進行に従って歴史を進められるため、その進展する過程には人々が乗り越える難しい局面が存在しました。


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今日、6千年の歴史が終焉するこの時代において、イエス・キリストの理念が地上で世界全体の帰還の理念として確立されました。言い換えれば、今日のキリスト教を中心とする理念が、世界の中心的な理念として表れているということです。しかし、ここで敵の理念の反撃を受けて、これらの二つの方向が戦っているのです。


では、このような立場に立つ現代の私達は、どのような基準を追求すべきでしょうか? イエス・キリストが確立した天国への帰還の理念を通して見れば、私達が進むべき理想の場所は、この世界に限られるものではありません。神が求める復帰の基準は、この地だけではないのです。天と地が結びついて一体となる理念の場所です。そこで、天を中心にして調和し歌い踊る栄光の日を見つけるために、神はこれまでに計画を進めてこられたのです。


こうした状況に置かれた今日の私達に必要なものは何でしょうか? 私達一人一人が罪と堕落の全てを復帰させなければならないということです。


皆さんがイエス様を信じた後も、個人的な戦いが展開されるでしょう。体と心の闘いが繰り広げられるでしょう。その戦いで敗北する者は天国の民にはなれません。体を中心にした悪の動きが心を屈服させようとするとき、それに打ち勝たない限り、天国の民にはなれないということです。


現代において、私達は世界から国家、国家から民族、民族から家庭、家庭から夫婦、夫婦から子供、兄弟まで復帰しなければならない使命を持っています。これは神の天国の理念に基づく原則的な基準があるためであり、私達はまず自己を復帰させなければなりません。


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「天国はあなたの心にある」と言われた通り、天宙的な天国も完成させなければなりませんが、まず個人的な天国を完成させることが大切です。それは、体と心の相対的な基準を確立し、天の主の前に立つ存在となることを意味します。


したがって、今では皆さんは天国の理想をすべての領域に取り込み、調和させることができる、一つの木として例えるならば、イエス様がぶどうの木であり、私達はその枝として、どの側面にも属し、一つの枝の形を持たなければなりません。そして、枝である皆さんが幹を通じて成長すること、これが帰還であると言えます。


これからの皆さんに求められる最初の段階は、天国の民となる段階です。天国の民になる運命が皆さんの前に広がっています。このような皆さんは、新しい歴史的な意識を持つ必要があります。自分の存在は自分自身のためにではなく、天国の仲間である天国の民、天国の兄弟姉妹、天国の夫婦、天国の親のために尽力する意識を持つ必要があります。それは一部の考えではなく、天宙的な意識です。そうした天宙的な意識を持つことが大切です。


また、今日の皆さんが社会で生活する際には、社会的な意識を持ち、国家に属している場合には国家的な意識を持つ必要があります。一つの国に属しているなら、その国の国民を愛することを学ぶ必要があります。今日、私達は天国建設のために尽力する神の前で、心身を通じて意志を主張できる人となるべきです。天国の民を愛することを学ぶべきです。私達は天国建設を通じて、父なる神のも御心である世界的な復帰を達成するために存在していることを認識するべきです。


ただ単にイエスを信じる人ではなく、内面的にも外面的にも天地の運命に調和し、イエスを信じる人となるべきです。神は天宙的な計画を中心に置き、天国への帰還の理念を確立してこられました。私達はそこに立ち、息子娘、そして民として存在するべきです。そして天国の仲間を愛することを学ぶべきです。


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皆さんのそばに、周りには信じる民がいるなら、あなたは彼らを兄弟として、同胞として見なすことができる人になる必要があります。また、全ての人がそのようにするよう努めるべきです。このような状況を見ると、あなたの責任は言葉に表せないほど大きいものです。


それでは、神が終末時代の今日に私達に求めていることは何でしょうか? それは、信仰する聖徒達が結集して天国の土地を建設することです。そのために個々の人が結束し、民族が結束し、天国の仲間を形成しなければなりません。これを皆さんは理解する必要があります。


6千年の歴史を縦に見れば、旧約時代には天国の民を集め、新約時代には天国の子供を集めました。こうして歴史は逆転しながら流れてきたのです。


現代の世界では、天国の仲間の理念を中心に天国を建設しようとする人々がいます。また、天国の子供、天国の兄弟姉妹、天国の夫婦の理念に頼って天国を建設しようとする人々もいます。


これからは、日常生活の中で天国の教えを守ることを学ぶ必要があります。天国の建設のためには、天国の教えを守ることが求められます。また、天国の教えを守ることと同時に、天国の生活を送る方法を学ぶ必要があります。そして、天国の生活を送る方法を学ぶと同時に、天国の愛によって一体となる必要があります。


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それでは、神が天国への復帰を目指してこれまでに歩まれてきた中で、私達は何を中心にして天国の教えを守るべきでしょうか? イエス様を通して私達に伝えられた聖書の御言葉を中心にして、天国の教えを守るべきです。


御言葉はまさに天国の教えであるため、御言葉を中心に生きるべきです。ここに皆さんの道があります。特に皆さんはその聖書の言葉を通して内面的な真実を証明する原則の御言葉を中心にし、天国の教えを守りながら生きるべきです。


それでは、どのように生活すればよいでしょうか? イエス様の30年以上の生涯を代弁するような生活を送るべきです。終末時代にある今日の皆さんの生活は、イエス・キリストを証明する生活であるべきです。そのために、皆さんの生活を人々の前で示すことができるようになるべきです。イエス様が私達に示してくださったような生活を皆さんも実践すべきです。


皆さんは神の御言葉を中心にし、法を守りながら、イエス様の生涯を手本にして和やかな生活を送り、天国に向かう生活をするべきです。


そのため、今や皆さんは天国の教えである言葉を中心にし、イエス・キリストの生涯を模範とする生活を送るべきです。皆さんの希望と理想は神の愛であるべきです。そのために、神の愛と結びつけるために和解の条件を確立していかなければなりません。これは神が今日の世界の全てのクリスチャンに要求していることです。


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一本の枝の樹液は他の枝にも行き渡ります。どの葉や枝にも循環するということです。同様に、互いに和解し、互いに与えることを知る人々でなければなりません。そのような人々は、理想的な愛が残る神の愛を所有することができるでしょう。


ですから、私達のクリスチャンは、自分自身を中心とする考えを捨て、私の個人的な存在は世界や宇宙を代表する存在だという新しい考えを持つべきです。


したがって、私達の家族を見ても、今日の彼や彼女はただの個人ではないことを理解する必要があります。6千年の歴史を代表し、永遠の計画を代表し、表面的には24億の人類を代表する存在であるという事実を感じるべきです。どんな一人でも、天宙的な神の愛の約束の意味が彼または彼女にあるのです。そのため、あなたはそのような人々と共同して行動するべきです。そのような使命があなたにあるため、神の計画を正しく見る能力を持ち、その計画を代表する集団にならなければなりません。


個人の生活や家庭生活においても同じです。あなた自身の子供、あなた自身の親、そして配偶者もあなた自身のために存在しているのではありません。子供もあなたのための子供ではなく、兄弟もあなたのための兄弟ではなく、同様に親もです。彼らは国や世界を超えて、天国を代表するために存在しているのです。


私達はこれを理解し、そのような次元で子供や兄弟、そして親と向き合う方法を知る必要があります。この事実を認識し、生活で感じるようになると、あなたはどの人物も言葉で言い表せないでしょう。


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私達の一人一人の存在には、天宙的な神の意志が宿っていることを忘れてはなりません。私達の存在は、自分自身のためだけでなく、世界や天国のために存在している、復帰の使命を果たす存在であることを知り、皆が結びついた生活を送る必要があります。


今日、特異な道を歩んできた私達は、自己中心的な生活から離れなければなりません。自分中心の考えを捨てなければなりません。私達の教会も、教会だけを中心に置いた生活様式を捨てなければなりません。なぜなら私達は皆、宇宙の一つの細胞であり、分子だからです。


終わりの時代にある私達は、歴史的な働きを感じるべきであり、天意の働きを感じるべきであり、神の全愛の働きを感じるべきです。そして、皆さんの一つの体を築いて、天宙的な悪魔との戦いで勝者とならなければ、皆さんは天国の土地に必要な存在にはなれず、またその時、天国は皆さんと関わりを持つようになるでしょう。この一つの希望を実現するために、イエス・キリストが来て行き、三位一体の神が悪魔と戦いながら皆さんが知っておくべきであることを成し遂げています。


今日、皆さんが悪魔と戦おうとするとき、自分達の持っている考えや信念、すべての動機が自己中心的なものであるかどうかを判断する必要があります。すべてを自分自身のためだと考えているなら、皆さんは悪魔の支配から抜け出すことはできません。


そして、世界に向かって進む私達クリスチャンも、内的な歴史的な意識を超えて、天宙的、歴史的な意識で世界を理解し感じる能力を持つ人になる必要があります。


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それでは、今後の復帰のための世界はどのようになるでしょうか? 復帰を目指す社会、復帰を目指す家庭、復帰を目指す個人はどうなるのでしょうか? 神の復帰の御意志は何でしょうか? これらすべてを理解し超える人になる必要があります。そのためには、聖書の教えに従って生きること、イエス・キリストの奉仕の心を持つこと、互いに和解できるよう努力することが必要です。イエス様は「平和を築く者は幸いである。彼らは神の子と呼ばれるだろう」と言われました。(マタイ5:9)


どこに行っても和解を築く能力を持つ人は神の前に近づくことができます。皆さんには個人全体を和解させる責任があり、全ての人々を和解させる責任、全人類を和解させる責任、世界を和解させる責任、そして天と地を和解させる責任があります。


皆さんが暮らす環境で、この実践的な責任を感じない場合でも、少なくとも心で感じる必要があります。個々の人を和解させる献身的な存在となり、家庭同士を和解させる存在となり、社会を和解させる存在となり、国家を和解させる存在となり、全世界を和解させる存在となる意志を持つことが重要です。そして、悪魔と対抗して父なる神の前に立つ覚悟を持つ人になるべきです。


皆さんがそのような関係を築き生活をしていく中で善行を行う人を見ると頭を下げてその人を尊敬し、悪事を働く人を見るとその人を導く使命は自分が果たすべきだという気持ちが生まれるでしょう。このような実践を通じて生きる人がいれば、その人は個人的な祈りをする必要はありません。家庭のための祈りも必要ありません。皆さんが神の御心が望まれる天国をこの世に築く決意と誓いをし、そのために生きるのであれば、神は共におられるでしょう。


したがって、手を取り合い、和解の祭壇を築くことを知っている国があれば、その国は世界に向かって新たな力強い変化を巻き起こすでしょう。


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また、教会も同様です。手を取り合い、キリストの模範になり、和解の為に犠牲となる覚悟を持って歩む集団があれば、その歩みが外から見ると不安定に見えたり壊れそうに見えるかもしれませんが、それは事実ではありません。彼らの歩みは、地上の天国建設への堅固な一歩なのです。


イエス・キリストは、天地の驚くべき使命を背負ってこの世に来られた方です。4千年の歴史の中で、天に忠実な者がいなく、天に忠実な子がいない時代に、天が求める忠実な子としての使命を果たすために来られたのがイエス・キリストであったと言えます。


イエス・キリストの約30年の生涯は、天のための生涯でした。そして、世界的かつ天宙的な生涯でもありました。また、彼の生涯は天のための犠牲の生涯でもありました。したがって、歴史上に存在しなかった、天のための忠実な子として来られたイエス・キリストを、あなた方は見習わなければなりません。


父の御心は天国を実現することです。天国とは、世界中の人類が手を取り合い、協力し、和解し、愛に包まれ、共に神の前で栄光を称え、感謝しながら生きる世界です。これを考えると、今日私達が信仰していた信仰生活はあまりにも狭量な信仰生活であったことがわかります。今こそ、その狭量な信仰生活を改めなければなりません。


今は、どの教派主義の時代も過ぎ去りました。どの民族主義の時代も過ぎ去りました。今は、世界的な復帰の理念、世界的な信仰の理念を見つけなければならない時です。


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今日の韓国の人々は、哀れな民族です。この哀れな人々が知るべきことは、神の歴史は個人を打ち砕いて家庭を築き、家庭を打ち砕いて社会を築き、その社会を打ち砕いて国家を築き、国家を打ち砕いて世界を築く歴史であるということです。これが天の審判です。


人類はこうした審判を経てきましたが、最後に残された問題は何でしょうか?それは対立して戦いながら進んできたカインとアベルの二つの道のうち、カインの道を完全に打ち破ることです。ですから、あなた方はイエス・キリストの言葉に中心を置いた他の人にならなければなりません。イエス・キリストの言葉を律法として他の人にならなければなりません。イエス・キリストの生涯を代表する天の忠臣と天の孝子とならなければならないのです。


それゆえに、統一の理念を追求する神の前に立ち、これまであなたが世界を統合して一つにすることなく、愛せずに抱えていたその怨恨を私を通じて解消してください、と言うことができなければなりません。しかし、今日のクリスチャン達は、彼らの前に歴史的で宇宙的で天的な大きな使命があることを知らずにいます。


では、今日、あなた方はイエス・キリストの愛をどの程度表現しましたか?イエス・キリストによってもたらされた信仰と命をどの程度まで備えていますか?あなた方はその限界線を理解する必要があります。


イエス・キリストによってもたらされる恩寵は宇宙的な恩寵です。そのため、今日の私達は天国の意識を持って生活しなければなりません。あなた方の日常の行動や今日の感情も、「私は天国の代表者だ」という中心を持ち、そのような観念で生活しなければなりません。


21


あなた方が他の人に向かって怒りを爆発させるとき、24億の人々が怒りを受けることになるという感覚を持ち、それを抑えなければなりません。天はこれまでそのような感覚を持っておいでになりました。このような事実を知りながら、あなた方が分裂し、熱心に行動し、神の御心に逆らう行為がある場合、どうなるでしょうか? すべての部位が連携し、互いに協力しなければならないのです。


では、なぜ神は6千年にわたる歴史を導かれたのでしょうか? 歴史全体をあなたのひとつの背中に抱え込むためです。地上だけでなく、霊的な領域にまで、あなたの愛によってすべてが一つになることを願い、その日を崇拝して来られた神様です。このような神の前に、あなた方が恩寵を受けたいのであれば、「父よ、私を呼んでください。」と祈るべきです。


神の愛はあなた方から消えてはなりません。今日、あなた方が知っておかなければならないのは、天から賜わった恵みはあなた達だけのためではないということです。あなた方を生かすと同時に、全人類を救うためのものです。


しかしながら、今日の人々は自己を中心に据えて生きているため、神を求めようとする多くの人々でも、恵みを受ける者はほとんどいないのが実情です。


今日、私達はここから脱出しなければなりません。これを貫通して打ち破り、天宙的な神を「天宙的な神」として迎え入れるべきです。このような天宙的な神の前に、身も心も使命感を強く感じることが必要です。


22


あなたがたが信じ、願い続けている理想の楽園は、あなただけの理想の楽園ではありません。自己を中心に据えて神を求め、信じることを試みたために、堕落した天使が生まれました。


今日の人類が信じている神は、私達自身の神でありながら、人類全体の神でもあります。私達の神でありながら、世界的な神であり、また天宙的な神でもあるということです。それと同時に、天宙的な親でもあります。


しかし、現代のイエス・キリストを信じる人々の信仰を見ると、「私の神様になってください」と言っている人がいて、それ以上に進んだ人々は「私達の家庭の神様になってください」と言っています。ここからもう少し進んで、「私達の教派の神様になってください」と言っている人々もいます。私達はこうした考えを持ってはいけません。


今日の世界には、神を叫ぶ教派がたくさん存在します。しかし、教派の中で叫ぶ神様はもう必要ありません。教派を超えて、全世界の中心として信じて叫べる存在、すべてを代表して私の父と呼べる資格のある存在、そうした存在達が集まらなければ、この地上に神を迎え入れることはできないのです。


そのため、現代の私達は、私達が感じる考えが家庭を通じて全体に関係を持たせる必要があります。新しい道に進む皆さんは、これまでの生活を捨て、天宙的な生活観に向かって新たな歴史の始まりをするべきです。


23


こうした時、皆さんはどのような心を持つべきでしょうか。それは、天宙的な神の存在を受け入れる心を持つべきです。それによって、皆さんは神の愛を受け入れ、神との関係を築くことができるようになります。そのとき、初めて皆さんは天宙的な花嫁の理念を完成させることができるのです。


天宙的な花嫁の理念を完成させた後、復帰した世界に向かうことができます。しかし、民族や人々、兄弟姉妹、そして子供や夫婦までが復帰しなければ、天宙的な神の存在の前で私が花嫁として現れることはできません。その場所に到達するまでに、天宙的な神の愛を中心におき、天宙的な神の存在の前に立ち、その愛と一体となることができます。それによって結ばれた夫婦は、この地上を支配し、天国の家庭を築くことができる夫婦です。また、そのような夫婦として子供をもうけることで、初めて天国の家庭を建設し、その兄弟姉妹や子供達とともに復帰の使命を達成し、地上天国の生活を送ることができるのです。


このように、偉大なる天国復帰の運動が今日の皆さんを通じて提示されています。したがって、皆さんはその意志を達成するために最善を尽くさなければなりませんし、悪魔の前に屈してはいけません。イエス・キリストが一つの意志のために、忠実な子、優れた子としての使命を果たしたように、私達もまた忠実な子としての使命を備えなければなりません。


そして、この民族だけでなく、世界の人々、そしてさらには霊界にいる全ての霊的存在も、天に対する忠実な子としての使命と優れた子としての使命を果たすことができるようになるべきです。これによって、父の前で天国復帰の完遂と勝利の栄光を称えることができる子供、兄弟、家族、または民族となることができることを、皆さんは確信しなければなりません。




<祈り>
 愛するお父様、今日、私達は飛躍しなければなりません。力不足でありますが、一度に何十段もの階段を飛び越えなければならない、これほど巨大な歴史的な終局が迫っています。私一人が審判の過程を優雅に乗り越えなければならない立場にありながら、今日、私達は深い眠りに沈んでいるようです。


24


お父様、私達は世俗に埋没しています。罪と共にあります。このような私達、あらゆる悪の要素をすべて清算した後、天の中心であるお父様の前で勝利の栄光を称えることができる一人の勝者として立てていただけるよう、お父様、切望しており、願っております。


歴史的なすべての状況が今日、私達の一日に結びついているため、それを断ち切り、解放の中心を備えて、イエス・キリストの友人の立場に立ち、父の前で喜びの中で礼拝することができる存在として私達を立てていただけるよう、お父様、切望しており、願っております。


天国復帰を目指す私達が、自分自身を中心に置き、天国の理念に従って生きる者達にならないようお許し下さい。天国の理念に導かれ、その理念を達成するまで進み、犠牲を払い、戦い続けることができるようお許し下さい。あなたを宇宙の父として迎えるまで、忍耐強く戦い勝利することができるようお許し下さい、お父様、切望しており、願っております。


お父様、私達の心を永遠に導いてください。新しい天宙的な生活基準によって、全体の中心であるお父様の前で感謝し、礼拝できるようにし、お父様の愛に包まれる息子と娘になることができるようお許し下さい、お父様、お願い申し上げます。


すべての御言葉を主の御名によってお祈り致しました。アーメン。


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御言葉選集1(19)

2023年08月05日 13時37分20秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 1 - 19. 万民のために来られた主を礼拝する者となろう  (1956年 12月 23日)
1956年 12月 23日(日)、前本部教会。
聖書拝読 マタイによる福音書 8:18-34」


<祈 祷(Ⅰ)>
 不足な私達が聖なるお父様の前に立ち、『お父様!』と呼ぶことができる恵みを与えてくださったことを、お父様、心から感謝いたします。死の嘆きの声が絶えることのない苦悩に生きなければならない私達に、愛するイエス様をお遣わしになり、救いの恵みを与えてくださったことを感謝せざるを得ません。

このために何千年もの歴史の中で変わらぬ努力を成し遂げられた聖三位一体の前に、暗闇のこの世界に光の輝きを照らし出すお父様の努力の前に、まず私達が心と身をささげ、その恵みに報いることのできる子ども達となるようお許しください。

お父様、この驚くべき恵みを心から感謝しながら、闇に閉ざされていた私達の体が天の生命の流れに浸たり、死に閉ざされていたこの一つの体が天宙的なお父様の愛の動脈に結びつけられる恵みを与えてくださったことに感謝致します。

お父様、心と身をすべて差し出しても、お父様の恵みに報いる方法がないことをこの時に感じさせてください。心と身をすべて差し出しても、自ら悔いる心を持つ者となれるようお許しください。心と身をすべて差し出しても、自ら未熟だと感じる事が出来る様にお許しください。

お父様、自身の持てる力と誠実さと心身をすべて差し出してお父様の前に立ちました。慈悲深くご覧ください。お父様の前に一つの犠牲として捧げられるべき私達ですが、この日までそのようになれなかったことをお許しください。

お父様に喜んで受け取って頂くことができる、永遠に誇りに思って頂ける犠牲の姿を早く備える事が出来る様にお導びきください。

   1

お父様、ここに集まったあなたの子ども達は少数の群れですが、お父様がこの民族に対して勝利の犠牲となることを求めていることを知らせてください。この民族が死の波に呑み込まれるのを防ぐためには多くの犠牲が必要であることを知らせてください。

お父様、御心配される全ての分野を責任持つことのできる犠牲と御心配の基になることを実現し、天に勝利の栄光をもたらすことのできる犠牲として、不足な私達を立ててこの一時を導いてくださる恩寵に感謝する心を持って従います。

お父様! まず、この群れを喜んで犠牲として受け入れてください。そして、お父様が求められる一つの勝利の祭壇を築けるように導いてください。そして、愛するお父様、あなたの慈悲の御志をこの民族と全ての人々の前に現れる様にしてくださいと、切望いたします。

お父様、不足な私達を立て、天宙的な全体の使命を任せざるを得ないあなたの事情を思い、御心配される心情を察することができ、深い哀れみを感じるようにお許しください。そして戦いに疲れ果てるかもしれない私達が、お父様の悲しい事情と心情を思いやり、自らを慰めることができるようにお許しください。

私達を呼び、導き、ご心配されるお父様の姿を直面する度に、自ら戦いの力を磨き、再び立ち向かうことができるようにお許しください。天に向かって逡巡(しゅんじゅん)なく進む子ども達となるようお許しください。お父様、切望しております。

2

お父様、今年も終わろうとしているこの時に、一年間私たちに託された使命を完遂できなかったことがあるなら、お父様、お許しください。

天が私達に託してくださった使命は、世界的な歴史概念を超え、天の歴史概念に相当する使命でありますが、私達自身が一年間自己中心的に生きていたことがあるなら、お許しください。託された使命を軽率に考えて来た事をお許しください。

お父様、この日、あなたの前で過ごした過去の一年間に犯した全ての欠点を清算し、新たな心と新たな決意と新たな誓いを持てる様にお許しください。あなたの御心の前で自らの不足を悔い改める貴重な時を持つことができるように、お父様、切望しております。

お父様、私達が歩む道は一生にわたって戦いの過酷な道であり、疲れ果てることなく進んでいけるようにお許しください。落胆しないようにお許しください。後ろを振り返って天地の怨念が私達によって実現されないようにお許しください。お父様、切望しております。

私達は決して後戻りできない天宙的な運命の道に進んでいます。生きている限り進まなければならない道に進んでいますが、身心を捧げても不足を感じるようにお許しください。全ての力を捧げても不足を感じるようにお許しください。

3

不足な身であるため、お父様、慈悲を求める心だけが私達の生の全てを主管するようにお許しください。生活全体を主管するようにお許しください。お父様、切望しております。

この日も孤独な家族が、お父様が約束され、許された御言葉を持ち、四方に散って孤独な祭壇を抱え、お父様の前で切に嘆願していることを知っています。

どこにいてもお守りください。彼らの切なる心の友となってください。心の慰めとなってください。

この時、一つの恩寵の前に、一つの御心の前に、一つの栄光を中心に同じ心と身を持って礼拝できる恩寵をお許しください。切にお願いし、望んでおります。

お父様、今この時、数多くの祭壇が悲しみに満ちた心であなたの前で嘆願していることを知っています。時と季節を知らないあなたの哀れな子ども達にも、慈愛の愛の象徴をお示しください。慈愛の御言葉の象徴をお示しください。抱きしめようとするお父様の愛の中に、すぐに抱かれ、全てが一つの姿として喜びの栄光を捧げ、勝利の祭壇を備えて悪魔を屈服させるための栄光の祭壇を早く実現出来る様に、切にお願いし、望んでおります。

この時も、全世界に広がる天のために祈るあなたの子ども達に、慈愛の恩寵が共に有ってください。

4

すべての御言葉を主の名によって嘆願致しました。アーメン。


<祈祷 (Ⅱ) >
善なる地が成されるようにお許しください。お父様が築かれた本来の楽園は善と愛と美と永遠の正義の盾を備えた地であり、悪魔が侵入する余地のない世界であったことを私達は知りました。

お父様、私の願いはあなたの内に秘められた愛の真実と善の愛と美の栄光であります。お父様、ここに集まったあなたの息子娘達の心の扉を開いてください。そして、あなたが秘められていた永遠の愛の恵みをこの時に与えてください。

すでに約束されたお父様の涙の御言葉があり、お父様が許し与えた使命があり、天の全体的な恵みとお父様の全能、全体的なお父様の栄光を僅かな、不足な私達を通して現そうとする御意志がありますならば、お父様、この時に惜しむことなく現してください。聖霊の炎によって現れてください。栄光の恵みを現してください。再創造の復活の歴史を起こしてください。お父様、切望し願っております。

今までに、お父様の前に容認されていない悪の要素が残っているでしょうか? 慈悲の手によって主宰して、容認できないすべての要素を取り除いて、本来の善の主体となる喜びのこの一時を実現してくださいと願います。お父様、切望し願っております。

5

お父様、この様な哀れみを持たない者、不完全な者、堕落の要素を持つ者達がやがてはお父様の永遠の願いを果たすように導いてください。

6千年にわたり心苦しく悲嘆に暮れていたお父様の心情をこの時に身と心で感じ取り、お父様の悲しみを慰めるために熱心な子らとなるようお許しください。不足な私達であっても、天に向かってこれらすべてを捧げます。お父様、「私達に戦える勇気と力を与えてください。」と言える、切望する子らとなるようお許しください、お父様、切望し願っております。

三千万の人々の中で、他ではなくこの道を選んだ私達、多くの困難を乗り越えてきた私達です。お父様、力と勇気を与えてくださらなければなりません。天の勝利の盾をお許しください。正義の心と正義の装備を身にまとい、最後の戦い、最後の決戦をしなければなりません。お父様、ここに集まったあなたの息子娘達全員が一つの心を持てるようにお許しください。一つの姿を持てるようにしてください。

最後の戦いで悪魔と闘い、勝利の栄光をあなたの前に捧げることができる姿となれるようにお許しください。そして、永遠に誇りを持つことのできる子らの栄誉を立てる様にしてください。

天が召し出された者達には、上に立つ神がいるので、三位一体がこれらをお守りください。忠誠を捧げる全ての万物の前に誇りを持つ大いなる供物となれるようにお許しください、お父様、切望し願っております。

6

お父様、これまで戦い抜いてきた道も険しい道でしたが、これから先の道も戦いの道であることを知り、失望する者にはならないようにお許しください。

私達の国籍はこの国でも、この地上のどの国でもありません。頼るべきは天であり、望むことはお父様の御意以外にありません。最後の日まで戦いの場と困難の高みが残っているかもしれません。苦難や迫害の道に阻まれるかもしれません。しかし心で心配する者にはならないようにお許しください。

天の召しを受けた私達、お父様の愛の化身となり、炎の化身となるようお許しください。悪を清算し、善が根付くような心身を持ち、善の楽園を築くための勝利の場所となるようお許しください、お父様、切望し願っております。

お父様、ここに参加している多くの子らの心を主管してください。自己を知ることができるようにお許しください。努力し、心配し、熱心に精誠を尽くす姿をお父様の前で見せる子らとなれるようにお許しください。

人間的な虚飾や見栄を張らないようにお許しください。正直になれるように導いてください。自身を探り、私の意見や概念、主張をすべてお父様の前に持ち出し、清算を受けられるようにお許しください。永遠の命の香り、お父様だけが味わうことのできる要素をお父様の祭壇に捧げることができるこの時をお許しください。

7

お父様、炎のような眼で洞察してください。それぞれ自ら悔い改めるべきことをお父様の前に完全に悔い改められるようにお許しください。最後の審判の前に立ったことを感じられるようにお許しください。お父様の栄光の腕の中に包まれる恵みを許し、慈悲の歴史を許し、それぞれの身と心を抱擁してくださるように、お父様、切に願っております。

お父様の御意志だけが集まった聴衆の上に豊かに満ちて働くことができるようにお許しください。

切にお願いいたします。すべての御言葉を主の御名によってお祈り致しました。アーメン。



<祈祷(Ⅲ)>

善なる地が成就するようにお許しを与えてください。お父様が築かれた本来の園は善と愛と美と永遠の義の盾を備えた園であり、悪魔が割って入ることのない世界でした。私達はこれを知っております。

お父様、私自身の願いの基準は、お父様の内に隠された愛の真実と善と美の栄光です。ここに集まったあなたの子供達の心の扉を開いてください。お父様の内に隠されていた永遠の愛の恵みをこの時にお許しください。

8

既に約束されたお父様の涙の御言葉があり、お父様が許された使命があり、天の全体的な恵みとお父様の全能の栄光を、取るに足りない私達を通じて現そうとされる御意があります。お父様、この時に惜しみなく現してください。聖霊の炎として現れ、栄光の恵みを現してください。再創造の復活の歴史を起こしてください。お父様、切望し願っております。

今でもなお、お父様の前に許されていない悪の要素が残っているのでしょうか? 慈悲の手で支配して、許されないすべての要素を整理して、本来の善の自己として形成される喜びの一時をお許しください。お父様、切望し願っております。

お父様、哀れみ深く、不足な者達を立て、また堕落の要素を持つ者達を招き立てて、お父様の永遠の願いを実現するように求めているお父様の心が、これほど悲しいことを知らない者達にならないようにお導びきください。

6千年間、悲しみと苦しみに満ちたお父様の心を、この一時に身と心で体験し、お父様の悲しみを慰めるために精誠を尽くす子供となるようにお許しください。不足である事を自覚しながらも、天に向かって「これらすべてを捧げます。お父様、私達に戦う勇気と力を与えてください。」そう言える、切望する子供となれるようにお許しください。お父様、切望しております。

三千万の民衆の中で、他ではなく、選んだこの道を進む私達、正しく正しく難しさの峠を越えてきた私達でございます。お父様、力と勇気を与えてください。

天の勝利の盾をお許しください。正義の心と正義の鎧を身にまとい、最後の戦い、最後の決戦をしなければなりません。お父様、ここに集まったあなたの子供達全員が一つの心を持てるようにお許しください。一つの姿を持つようにしてください。

9

最後の闘いで悪魔と戦い、勝利の栄光をあなたの前に捧げられるようにお許しください。そして永遠に誇りに思える子供達の名分を築けるようにお許しください。

天が呼んだ使命がありますので、三位一体がこれらを守り、忠誠を捧げる万物万象の前に誇りに思える聖なる犠牲となれるようにお許しください。お父様、切望し願っております。

お父様、これまで戦って来た道も険しい道でしたが、これから先の進むべき道も戦いの道であることを知りながら失望する者達にはならないようにお許しください。

私達の国籍はこの国でもなく、この地上のどの国でもありません。頼るべきは天であり、望むことはお父様の御意志以外にありません。最後の日に記されるまでは戦いの任務と困難な峠が残っているかもしれませんが、心で心配する者達にはならないようにお許しください。

天の呼びかけを受けた私達、お父様の愛の化身と炎の化身となるように許し、悪を清算し、善が根付く心と体を備えて善の園を築ける勝利の場となるようにお許しください。お父様、切望し願っています。

10

お父様、ここに参加した多くの子供達の心を主管してください。自分自身を知ることができるようにお許しください。苦労し、心配し、熱心に精誠をあなたに捧げる子供達となるようにお許しください。

人間的な見せかけ、偽りをせず、率直であるように導いてください。私を探り、私の意思や概念、主張をすべてあなたの前にさらけ出し、清算を受けることができるようにお許しください。永遠の命の香り、お父様だけが受け取れる要素を祭壇に捧げることができるこの時をお許しください。

お父様、炎のような目で洞察してください。一人ひとりが自ら悔い改めるべきことをお父様の前に完全に悔い改めるようにお許しください。最後の審判の前に立ったことを感じさせてください。あなたの栄光の腕の中に抱かれる恵みを許し、慈悲の歴史を許し、一人ひとりの体と心を支えてください。お父様、切望してお願いいたします。

お父様の御意だけが、集まった聴衆の上に満ち溢れて働くことをお許しください。切望し、お願いいたします。すべての御言葉を主の御名によってお祈り致しました。アーメン。



<祈祷(Ⅲ)>
ここに私達の心が、約2千年前にイエス・キリストが苦労された心情に共感し、天徳の使命を受け入れさせていただき、天と地の代わりに立ち上がったイエス・キリストの切望する姿に直面する際に、私達の体と心がその苦難に耐えることができるようにしてください。

11

御言葉を通して伝えられたすべての内容を私達が受け入れることをお許しください。狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、ただ人間だけが頭を覆える場所がないと仰った御言葉を思い返すとき、お父様、ここに集まったあなたの子供達の心と体は、聖なる聖堂であり、天の唯一の子、天のために生まれた皇太子イエス・キリストを迎え入れなかった悲しみの歴史が今でも彼らの心に残っていることを知っております。

数千年にわたり先祖が悲しみの城壁を築いてきましたが、この城壁は日が経つにつれて低くなるのではなく、悪魔が多くの策略を巡らし、この城壁を高めています。

今日、全世界の人類は先祖が築いたこの恨みの城壁を取り壊す責任を負っており、また私達もその責任を自覚しなければなりません。イエス・キリストが辛い道を辿られたのはイエス様ご自身の苦悩だとばかり思っていましたが、その苦悩が私達の苦悩として残っていることを知り、今や涙を流しながら天に向かって歩む自分自身を発見致します。

罪に対する深い心情で、先祖が犯したすべての罪の城壁を見つめると、私達自身がどれほど弱い存在であるかが解ります。お父様、これを排除できるようにお父様の力を引き継ぐことができるようにお許しください。

お父様、私達は何も持っておりません。お父様、韓国の民族を見るとき、世界の人類の中でも極めて哀れな民族ではないでしょうか? この哀れな民族の中でも何も持っておらず、孤独に追いやられている私達はより哀れな境遇にいます。

12

しかし、お父様、私達は世界的な祝福が天に封じられていることを知っています。また、お父様の深い御心情にお父様の愛が封じられていることを知っております。

お父様、孤独な立場にいても涙の壁を打ち破り、幸福の場を築いてください。そして、お父様が心から心配していると知る以上、私達は躊躇することなく進んで行けるようにお許しください。

今やお父様の命令を受けて立ち上がった道に、生きるか死ぬか、願いを成し遂げる道に向かって走り出すことのできる天の善なる子供達となることをお許しください。お父様、切望し願っております。

ある若い書記官がイエス様のもとにやって来て、「先生、もしそう願われるなら、私は従います」と言った時、イエス様は「従わないでください」と語られましたが、ここに集まった聴衆の中にはその辛い言葉を聞くことによって生き残る者が一人もいなくならないようにお許しください。

自分自身がイエス様の前に立つとき、愛のイエス、善のイエス、慈悲深いイエス、忍耐のイエス、聖霊の九つの実りの全体性を備えたイエス様が、不安な姿で現れるイエス様が、自分自身の中に聖霊の九つの実りの一つでも収める供物にならなければならないと感じるようになりました。

13

イエス様が収めようとしたものが収めるものがなく、来るべき道を歩まず、望んでいたことを望まなかったとき、イエス・キリストの内なる苦悩がそこに留まっていることに気づかない者達にならないようにお許しください。お父様、切望し願っております。

今ここに集まった全ての群れが、お父様の前に立ち、全てを捨てて私に従え、と仰られたイエス様の言葉に応え、そこに苦難が待ち受けているとしても、その子供達となれるようにお許しください。

お父様の喜びにかなう御心の前に望まれる願いの場を目指し、命じられる時、躊躇することなく準備を整え、躊躇うことなく進むことのできる、天が愛し、支えてくださる子供達がこの時に現れるべき時です。

それにより、6千年の歴史的な恨みを私達が背負い、悪魔と戦わなければならない責任があります。新しい覚悟、新しい決意、新しい誓いを持って、不屈の心と善意を持ち、勝利の勇者として戦えるようにお許しください。お父様、切望し願っております。

ここに許された恵みの前に、御言葉を通して喜びを感じ、愛の恵みが宿り、栄光が誇りとして現れるこの特別な時を、お父様、引き受けてください。私達もまたそれを委ねることを望みます。切望しながら、主の御名によってお祈り致しました。アーメン。

14


<御言葉>
皆さんと共に考えるタイトルは、「万民のためにおいでになる主を礼拝する者となりましょう」という内容について、しばらくの間お話しいたします。

神様と人間と万物、これらすべては一つの創造理想を中心にして永遠に一つでなければならなかったのに、天と万物の中間にある人間が過ちを犯した結果、万物は万物ごと、天は天ごと、人は人ごとに分かれることになりました。

それゆえに、創造本来の世界を再び見つけるために、万物から始まり、人間を通して最後には天に至るまで回帰の歴史を辿らなければならなかったのです。これらのお父様の事情を知らないことはあってはならない事です。

堕落の血統を受け継ぎ生まれた今日の私達、堕落の種族として生きる今日の人類は、まず心と体で神様の心情で満ちていることを感じる人々とならなければなりません。

私達は堕落してしまいましたが、神様が私達人間を創造した関係がある以上、また御旨を成就するために努力されているお父様がいる以上、私達は無意味な立場の存在ではありません。

皆さん自体が邪悪であるとしても、邪悪な立場にいるとしても、自ら過去の歴史を経て出てきた過程で、主の御計画によるお父様の努力の涙の痕跡が皆さんの身に残っていることを最初に認識する人となるべきであり、次には私達を再び見つけ、回復させてくださる御計画、すなわち復帰を成し遂げるために、お父様が数々の苦難を経てこられた痕跡を身に宿していることを皆さんが歴史を通じて感じるべきです。またそれだけでなく、創造本来の理想、神様の内に宿る内なる願いが存在する事を終わりの日にある私達は知るべきでしょう。

15

更に私達は無形の神様としておられる神様の思いが私自身に宿っており、無形の神様として復帰の御計画をなさる神様の努力の証しとして、私の体に希望の基盤として残っていることを知らなければなりません。

そしてこの地上にある私達は、神様が皆様の愛らしい心情ほど愛おしく、努力された皆様の苦難の痕跡ほどに、努力し希望として抱かれていた皆様の本来の善の心情ほどに身と心を捧げて下さっている、その思いを代わりに持てる人とならなければなりません。

また、神様の努力に代わる苦難の心情を持ち、見えない神様の苦難を表現できる姿を今日も私達に求められていることを理解する必要があります。そして、歴史的なあらゆる宗教を否定しても、御旨を成就させる希望となれる一つの宗教をお父様が見つけようとされていることを知るべきです。

自然に座っていても立っていても、どんな一瞬の生活過程や瞬間の時間においても心に苦しみを抱え、体に刺激を受ける真摯な信者がこの地上に現れることをお父様が願われている事に心で共感しなければなりません。

そして、無形のお父様が人間と万物を創造し、喜びと栄光を楽しまれようとされた創造理想、「万物の前に人間を立て、みなが善の理想に満ち、神様の愛を誇りに思い、共に楽しみ合うこと」を願われた神様の創造理念は、人間の堕落によってその心の中で半ば残されましたが、これを解き明かす使命を持ってお見えになった方がイエス・キリストであったということです。

そして、神様の4千年の努力の歴史を代わりにして、人類に代わって、万物に代わって、神様の内なる怨みの核心を具体的に解き明かすためにお見えになった方がイエス・キリストであったということです。

16

では、イエス・キリストを迎える存在、イエス・キリストを大いに望んだ存在、イエス・キリストと永遠に交わりを持つことができた存在はどこにいたのでしょうか!

イエス・キリストは実体で実在される神様の内なる心情、怨み多い御心情を代わりにされた方であり、神様の実体として現れ、神様の怨みを具体的に解き明かすことができる方であると、当時のユダヤ人達は悟るべきでした。

しかし、イスラエルの民の中には「イエス・キリストを通して慰めを受けたいと思われていた神様の内なる御計画の意図を理解し、この方が4千年間神が憂えられたその心を解き明かすことができる方であり、お父様が探し求められていた永遠の希望の存在として賛美しながら、神様の希望の心情と共感し、そのイエス様を受け入れることができた人」は一人もいなかったのです。

無形の神様の悲しみは有形の人間を通して解決されなければなりませんでした。そして、神様の悲しみと万民の悲しみを代わりにできる方がイエス様でした。

しかし、イエス様は一生涯、喜びの日を持つことがありませんでした。なぜなら、4千年間にわたり神様が流された悲しみの涙が彼の心に残っていたからであり、万民がイエス様と一体となって神様の悲しみを解消しようとしなかったためでした。そのため、イエス様の悲しみを同情し、イエス様の前に立ち上がる者は一人もいませんでした。そうした人物は、イエス様の一生を最初から最後まで振り返っても存在しなかったのです。ですから、そのような怨みの痕跡が現代の私達にまで受け継がれていることを私達は心に留めなければなりません。

17

メシアを待ち望んでいたイスラエル民族にとって、天の独り子、天の皇子として誕生されたイエス様が、こうした悲しく嘆かわしい姿で現れることは夢にも思わなかった事でした。

そのため、イエス様は自分を受け入れる存在を探し求められたのですが、自分自身を中心にして探し求めたのではなく、神様の内なる心情を代わりにして探し求められたのです。イエス様は生まれた時から神様の悲しみに共感し、生まれた時から神様の努力を代わりにし、生まれた時から神様の希望を代わりにできる存在を探し求めましたが、馬小屋で誕生され、30年余りの生涯を経て十字架の頂点に立つまで、そのような存在を一人も見つけることができなかったのです。

では、十字架で亡くなられたイエス様は万民が迎合すべき存在でありながら、生きているイエスをどうして誰も迎合しなかったのでしょうか? その責任は人間にあるのです。神様の悲しみを解消しようとし、神様の努力を受け入れようとし、希望の楽園を築くために神様の希望の実体として来られたイエス様の悲しみを共にする事、そして彼の苦難を自らのものとし、彼の希望を胸に抱いて生きる責任を私達の先祖達は果たさなかったのでした。

では、イエス様が今日の私達に求めていることは何でしょうか? 神様のすべての怨みをイエス様が一生を通して解消しようとしていたことが私達の先祖達が責任を果たさなかったことにより、その痕跡はイエス様の一生にまで延長されました。神様の悲しみはイエス様の悲しみとして、神様の努力はイエス様の努力として、神様の希望はイエス様の希望として残され、それらすべては聖霊にまで及んでいるのです。

このように2千年の歴史を通して延長されてきた神様とイエス様と聖霊の悲しみを解消する責任は、今日の私達にあることを感じなければなりません。皆さんはこれを感じる必要があります。

18

そして、神の心に隠されている6千年の悲しみの怨みを解消し、6千年の努力を代わりにできる人、6千年の神の希望をこの地上に再び示す人が現れなければなりません。6千年の神の希望を表現する人が私達の中に現れなければなりません。

今、皆さんは驚くべき事に、お父様の恩寵の前に、またはイエス・キリストの恩寵の前に立つ時、皆さんが立つその日が始まりであると理解してはなりません。そして、皆さん自身がお父様の前に立っているのは皆さん一個人が立っているのではなく、皆さんが信じているのも皆さんの一生だけをかけて信じるのではなく、6千年の歴史をかけて信じているという実感を持つ必要があります。

皆さんがお父様の前に自らの罪を悔い改める場に立つとき、それは自分自身に対する悔い改めだけでなく、6千年を代わりに悔い改めると感じるべきです。また、主の恩寵と愛の前で感謝の心を持つときも、皆さんは一つの時間枠内で自分だけが感謝すると考えてはいけません。6千年間に渡りあなた方が来られたお父様の全体の計画、平面的な歴史と立体的な歴史を代わりにして、希望的な一つの基準を代わりにして感謝できる人でなければならないということです。

このように神の悲しみを解消する人、神の努力を代わりにする人、神の希望を代わりに成就させる人が、今日の地上に現れることをイエス様は願われています。

実体的にお父様の意志を実現するためにおいでになったイエス様は、この地上でその使命を果たせなかったために再び来る運命を背負って帰られました。そのため、このイエス様は再び6千年の歴史を代わりにする悲しみの心情を持ち、何もない私達を探し求めておいでになるでしょう。4千年の悲しみだけでなく、その上に2千年の悲しみを持ち、皆さんを探し求めておいでになるでしょう。また悲しみだけでなく、2千年の努力の怨みを持ち、皆さんを探し求めておいでになるでしょう。

19

6千年の希望を持ち、私達の前に現れるイエス様に対して人間が果たすべき責任は、イエス様の心と悲しみ、努力の重荷を実際に代わりに担うことです。
神の4千年の努力を代わりにして4千年の悲しみを解消しようとしてイスラエル民族の前においでになったイエス様をイスラエル民族が信じずに反対し、十字架に追いやったのです。

同様に、イエス様をお父様の努力と4千年の歴史を代わりにして4千年の悲しみを解消しようとしておいでになった方として知り、信じ、受け入れることができる人がイスラエル民族の中にはいなかった結果、イエス様は十字架に戻られるしかなかったのです。そのために、この仕事を完了するために、イエス様は再臨されなければならないのです。

6千年の歴史を総括する終わりの時に立つ私達は、神の前、三位一体の前で一人で立ち、神の悲しみを私の悲しみとしてお預けいたします。神の努力を私の努力としてお預けいたします。神の希望を私の希望としてお預けいたしますと言える心を持たなければなりません。そして、皆さんは一つの個体でありながら、天地を代わりにすることができる心を持ち、イエス様の再臨を準備する人でなければなりません。そのような世界のクリスチャンであらせようとしなければなりません。

イエス・キリストの再臨を準備しなければならない皆さんは、おいでになり去ったイエス・キリストの生涯をもう一度探りなおす必要があります。イエス様がおいでになったとき、イエスがおられたとき、イエス様が去られるときの状況が、皆さんの状況と重なる人とならなければなりません。

皆さんはイエス様が神の慈しみに満ちた心を抱えて万民を救い出す責任が自分にあると感じたような責任感を持つべきであり、悪しき地に生まれて一人で寝られたイエス様の枕に皆さんが実際に寝たという心を持つべきです。

20

イエス様は天の皇子、天の王子でありながらも、この地上にお生まれになる とき、馬小屋の中で眠られることになるのですか? イエス様の悲しみは悲しみではありますが、そのイエス様を見つめる神の内なる悲しみは言葉に尽くせないものでした。

そのような事実を胸に深く感じるようにしてください。そして終わりの時にある皆さんは、イエス・キリストが背負われた使命を私が一人で引き受けるという責任感を持つべきです。

そして万民のためにおいでになったにもかかわらず、軽んじられ、言葉に表せないほどの哀れな状況におられたイエス様の事情を私の事情と入れ替えて考えることができるようにしましょう。イエス様はこの地上に、神様の悲しみを慰めてくれるふさわしい存在がいれば、その一人を抱きしめて自分のすべての願いを実現させたいほどの状況にあったということです。

しかし、神様が4千年の歳月をかけて選び定めたイスラエル民族とイエス・キリストのために準備されていたユダヤ教の指導者達は、イエス様を知らなかったのです。彼らはベツレヘムの牛舎の飼葉桶の中に寝ていたイエス様とは何の関係もありませんでした。これらの出来事は、神様の悲しみを再び繰り返したものでした。誰もが牛舎で生まれたイエス様を受け入れる人はいませんでした。

今、私達は神様の怨みと、この地上に現れ、去っていかれたイエス様の怨みを収めて、すべてを解消できる人となるべきです。そうでなければ、悪魔の侵入条件を自分の体から取り除くことはできません。そして再びおいでになる主が6千年の歴史を代わりにしてこの地上に現れることを知っているのなら、どうか皆さんはイスラエル民族と同じ立場には立たないようにしてください。彼らの信仰はイエス様中心でも、メシア中心でも、神様中心でもありませんでした。彼らは自己中心的でした。メシアは確実に来るはずなのに、それを知りながらもメシアを迎える準備を誰もしていなかったということです。

21

東方の博士達がベツレヘムの飼葉桶の中に寝ているイエス様を礼拝しに来た時、全エルサレムは騒然としました。異邦の国の占い師達がイエス様を探しに来たのです。しかし、この騒ぎは喜ばしいことではなかったのです。喜ばしいことではなかったのです。

今日、天に信頼を置いている皆さん、6千年の歴史を代わりに信じている皆さんは、間違ってもユダヤ教の立場と同じ立場にとどまってはいけません。今こそ、おいでになるメシアのために準備ができるようにし、初臨のイエス様の悲しみを皆さん自身が解消するだけでなく、栄光をお返しすることができるようにしてください。このような責任が皆さんにあるのです。

今日、皆さんが霊的な段階に達し、父なる神様と相談する位置に入ると、皆さんに対してこれをしなさい、あれをしなさいと多くの指示が出されるでしょう。

地上に主がおいでになると、食べるものや着るものが必要となり、滞在する場所を必要とし、活動されるでしょう。しかし、メシアの到来を待ち望んでいたユダヤ民族はこれも知らず、メシアを迎える準備をしていませんでした。準備して待つ者はいませんでした。

もしそのような切実な心を持って準備していた人がいたなら、東方の博士達がエルサレムに来て、そのように語った時、全ユダヤの人々が騒ぎ立ち、東方の博士達を追ってベツレヘムまで行ったでしょう。しかし、旅の途中では東方の博士達3人だけでした。

22

これが神に従って来たと称した私達の先祖達が犯してしまった罪であったということです。

今日、皆さんはそのような立場に立ってはなりません。心も体も、内面も外面も、おいでになる主を迎える準備ができるようにする必要があります。

では、今日の終わりの時代にいる私達、世界中のクリスチャンが果たすべき使命は何でしょうか? メシアの到来を望んだユダヤの人々が、メシアが生まれる場所を用意する民となったとしても、メシアを牛の飼葉桶の中に寝かせなかったでしょう。同じように、メシアの到来に備えて場所を用意できるクリスチャンとなるべきです。

イエス様が十字架に架けられ、墓の上に横たわっている様子を喜ばしいと思ってはなりません。イエス様はすべての民が共に合意するほど、この地上のどの人よりも、4千年の歴史の中でどの人よりも、栄光ある位置に横たわっているべきでした。また、神の子としてすべての民から賛美され称賛されるべきでした。そして、悪魔の前で誇らしく立つべきイエス様でした。

しかし、ユダヤ民族がイエス様をこのように礼拝できない場面を見ている神様の悲しみはどうだったでしょうか?あなた方はこのような神様の悲しみを理解しなければなりません。

23

それゆえに、今あなた方は神様の心を代わりに持ち、2千年前のイエス様の悲しみを理解し、内面的に他の人に知られないように贈り物を準備する人になるべきです。天の贈り物は悪魔の前に現れることはありません。人前にも現れないのです。それはなぜでしょうか? それは誰かが先に知ることは許されないという意味です。知るべき人が先に知るべきです。悪魔が先に知ると、嫉妬を抱くからです。
自分達が、父なる神の前に立ち、この世界のためにおいでになる主を迎えるために、この地上には存在しない、この地上の何ものとも交換できない貴重な贈り物を準備しなければなりません。

主が降臨されご自身で活動されるとき、主が心や体で苦労されないように、主を受け入れる場所をあなた方の体で準備しなければなりません。これはなぜなのかというと、この世界で最も貴重なものは、あなた方の体だからです。

こうして貴重な方であり、天宙を代表する一つの存在であり、お父様の子、父なる神様が愛される独り子がおいでになるとき、永遠に安息できる平和の場所を築かなければなりません。そして心と体が一つになって、イエス様が再びおいでになるとき、イエス様の手足となり、イエス様の生涯を代わりに生き、イエス様を安らかにお迎えしなければなりません。また、イエス様が2千年前に戦われたその戦いを代わりに戦うことができる人とならなければなりません。

イエス・キリストは2千年間戦ってこられましたが、今度は私がその闘いを完全に引き受け、戦う決意を持ち、そのための盾さえ私の片手に用意する覚悟を持たなければなりません。そして、あなた方は生まれおちた時のイエス様の状況を感じ取る一方で、その後地上で生きられた時のイエス様の心情を感じ取らなければなりません。

24

あなた方が今真にお父様を求めようとするなら、イエス様の愛の手を求めようとするなら、涙が流れることでしょう。

神様は4千年間心痛まれながらもその心情を示されませんでしたが、イエス様は具体的に涙を流されました。聖書には僅か数カ所しか記されていませんが、実際にイエス様が涙を流された隠された事実は無限にあるのです。

神様は何千年もの間、計画的に歴史を通して愛してこられたユダヤの民を見守る際、一瞬も涙を流されなかったことはありませんでした。イエス様は神の前で祈るたびに涙を流されました。困難で孤独な瞬間にぶつかるたびに、イエス様はただお父様だけが理解してくださる中で悲しまれたのです。しかし、イエス様はこのような悲しみを弟子達に話すことができませんでした。こうしたイエス様の状況を皆さんは知るべきです。

イエス様はゲツセマネの園で一夜を徹して祈られたことが何回もありました。またゲッセマネの園だけで祈られたのではありません。

厳しい道を歩まれても悲しみの状況を理解できる場所は天国以外にはありませんでした。しかし、その悲しみを天国に任せようとはされませんでした。むしろ、その悲しみを自ら引き受けさせてほしいと願われたのです。『お父様、私を見て悲しまれるその悲しみを私が引き受けます。お父様、私を見て慰されてください。あなたの悲しみを私が背負いますから、悲しまれないでください』と訴えたのです。

25

「私が4千年の苦労を引き受けます」とお祈りしただけでした。「お父様、あなたが心配なさらないでください。私がここにいるので、あなたの希望が残っていることを心配なさらないでください」、という祈りでした。

イエス様は幼いころから悲しみを持っていました。世の人々がイエス様を受け入れなかったために成長する過程で悲しみを経験されたのです。
イエス様はヨセフの家庭で養子として育ちました。だから周囲の人々がイエス様について多くのことを言いましたが、彼は黙々として生活を送ったのです。

言葉では語れない天の御心、大きく驚くべき御心を抱えながら、普通の子どもとして成長したのです。私達は30年間も大工の仕事をして暮らした彼の生涯を、良い生活だったと思ってはいけません。イエス様はイスラエルのどの誰よりも高貴な地位に立ち、お父様の喜びと栄光を示しながら生きるべきでしたが、ヨセフの生活を支えるために斧を持ち、垂木を手にして生活したのです。これは何ということでしょうか。

今日、神様の意志を受け入れたいと願う真の子女、神様の心情を理解したいと願う真の子女がいるとしたら、彼らはイエス様が歩まれた生涯を手本にして進むべきです。

あなたがイエス様の使徒としての生涯を知ろうとするならば、驚くべき恵みを代わりに受けたイエス様の心情に共感し、その心情を思いやり、彼の苦しい立場に入り込んで見なければなりません。そのようにしてイエス様の悲しみは時間を超えて、生活の一瞬一瞬を超えたものであり、イエス様の生涯は一つの瞬間にも平安を感じることができない生活であったということを感じるでしょう。

26

しかし、地上に来られたイエス様は地上によって受ける悲しみを天の前に持ち込まないようにと、心からの悔いを感じていました。今日、イエス様を信じる人々は自らの十字架や悲しみを天に託すことがよくあります。しかし、私達はそれをするためにイエス様を信じるのではありません。それに対して、「天の悲しみは私による悲しみであり、その悲しみを私が負い受ける」と言うことができる人は、イエス様の信念、イエス様の生涯の一部を通じてのみ可能な人です。
今日、30年近くもの間、涙と共に過ごされたイエス様の悲しみの足跡が残っているとしたら、皆さんにはそれを解き明かす責任があります。

イエス様は30年以上もの間、悲しみの中で過ごされ、ついには十字架を背負い、運命の時を迎えられました。最後の瞬間に「アバ、父よ、どうして私を見捨てられるのですか?」と言われながらも、神の御心を成し遂げるという切なる心情に耐えていらっしゃったことを皆さんは知らなければなりません。

そうすれば、今日の皆さんが「私はイエスの友達だ」という心を持って世界を見るようになったなら、涙なしにはこの世界を見ることができなくなるでしょう。イエス様は足を踏み出すたび、体を動かすたびに涙を流されたのです。一度も涙を流さなかった日がなかったのです。このようなイエス様と同じように、今日信じている聖徒達の中には、毎日の生活の中で天の前に申し訳ない心を持ち、涙を流す人がいるとしたら、彼はイエス様の友達となるでしょう。

教会や家庭の中で、互いにお互いのために、イエス様の心情を理解し、神様の代わりに涙を流すことができる人がいるとしたら、そこには間違いなく神様に求める必要なく無限の命と愛が共にあるでしょう。こうして神様は情が通じ、愛が通じ、内容が通じるクリスチャンを求めているということを皆さんは知らなければなりません。

27

もしも今日イエス様が、「この地上に主がおいでになるとしたら、あなたは果たして苦難の30年近くを過ごした私の友人となっているだろうか?」、と尋ねられるでしょう。また、「あなたはどれだけ神の悲しみを受け入れ、世界的な悲しみを持ちながら今日迄生きてきたのか?」、と尋ねられるでしょう。

地上においでになったイエス様を人々が受け入れなかったために、イエス様を悪魔の前に一つの条件として差し出したということを知る必要があります。そして皆さんはこの条件を超えなければならないのです。

今日私達はなぜ生きているのでしょうか? この身が死ぬ前に、この目に土が入る前に、忠誠を尽くしてイエス様の生涯を追い求め、泣くことができる人となり、イエス様の生涯で踏みにじられたものを取り戻すことができる真の人とならなければならないからです。だからこそ、皆さんは生きている間にこのような責任を果たさなければなりません。

ですから、今の私は単なる私ではないということです。皆さんがこれまで生きてきた年齢だけの皆さんだと思ってはいけません。皆さん一人一人はアダムからイエス様までの4千年、そしてイエス様以降から今までの2千年を合わせた神の再臨の時代を皆さん一人一人が実現する天宙的な使命を背負っている存在なのです。

だからこそ、イエス様が敵の前で堂々と立っていたように、皆さんも十字架の苦しみを受けても堂々としなければなりません。涙を流すとしても自分のために流さず、泣くとしても自分のために泣かないようにしなければなりません。

28

泣くならば、イエス様のために泣きなさいということです。それであなたを思い、あなたを考えるイエス様がどれほど喜ばれるでしょうか? そして神様はあなたの状況を理解してくださるでしょう。涙を流すとしても、そのような心で涙を流す人とならなければなりません。自分のために涙を流す者は必要ありません。イエス様のため、神の愛のために涙を流して悔い改める者だけが神の息子、娘となるのです。

あなたが十字架の苦しみに直面するとき、真にお父様の愛を感じ、お父様の愛の権威の中に自分がいると感じるなら、祈ることができなくなるでしょう。私はそのようなことを経験しました。肩に何トンもの重い負担がかかっていても、「お父様、これを軽くしてください」と祈りませんでした。そのような祈りはしてはいけないということです。

愛するお父様は、このような立場にある私をよくご存じです。そうでなくても、悲しい立場にあるお父様に対して、「お父様、私はこのような重荷を抱えています」と祈ることによって、辛いお父様の心に第二の悲しみを与えることになると言う事です。

これらのことを理解して、神とイエス様に対処する必要があります。三千万人の民族の中で、このような心を持つ人が幾らかでもいれば、この民族の悲しみを和らげることができるでしょう。私達は自分の悲しみのために涙する人に絶対になってはなりません。

イエス様は天宙的な使命を持ってこの地においでになりましたが、一生涯にわたって苦しみを受けられました。しかし、その悲しみを自分のために祈るのではなく、むしろお父様の心を癒し、心配を安心させるために祈られました。そして地上を見つめ、人間達の無知を容認し、理解して更に与えるために愛されたイエス様でした。しかし、イエス様の生涯は30年の涙の生涯だけで終わったのではありませんでした。

29

彼は神様の使命を代わりに果たすために立ち上がったので、生きるか死ぬか、ただお父様の御心だけを栄光にかえる心を持って生きました。イエス様は神様が気にかけて下さるかどうか、地上の人々が気にかけるかどうか、そうしたことは気にせず、時と場所を問わずに御心のために生きられました。

イエス様は自らの使命を完遂しようとされましたが、結局は十字架にかかる運命に直面しました。しかし、彼は苦悩したり絶望したりしませんでした。死の場面に至るまで自分を弁護することはありませんでした。私達が知っているように、ピラトの裁判を経てゴルゴダの丘で十字架に釘付けにされる運命に直面しても、イエス様は自己弁護をせず、変わらない主役でした。

人々が反対することも、自らの責任だと感じたこともあったイエス様でした。イエス・キリストを信じている私達は、誕生から復活までのイエス様の友人となるべきです。

イエス様は生命と友達になるのではなく、むしろ死と友達になった存在でした。歴史の中で多くの人々が死の道を歩みましたが万民の死を代わりにして死の友となり、万民のために死んでくださったのはイエス様だけであったということです。

それゆえ、キリスト教は死と犠牲の宗教であり、キリスト教の真理は死に打ち勝つ真理です。そして、イエス様の活動は自己を破壊することでした。それなのにもかかわらず、愛を持って死を迎えることができるイエス様の行動を皆さんは認識するべきです。

30

イエス様は死の友であったため、死が迫っても、それに抵抗することはありませんでした。皆さんは、イエスが敵のために死ぬことができる自由な生活を送ったということを理解する必要があります。

後には神様ですら、イエス様を十字架にかけたまま理解しなかったとされます。その時、イエス様は「アバ、お父様、どうして私を見捨てられたのですか」と叫びましたが、これは絶望の叫びではなく、自分の希望が絶望に転じることを心配しての叫びであり、自分の生涯が虚しく終わるかもしれないという不安からの叫びだったのです。イエス様は自らの任務を果たすために死ぬことに満足していたので、父さまが彼を天国に送るか地獄に送るかなど気にかけることはありませんでした。彼は死の友となる立場にあり、使命を完成させるために死ぬことに満足していたのです。

イエス様は天宙的な愛を持ちながら、それを自己に留めることはありませんでした。驚くべき恩寵を持ちながらも、一度死の友となるために立ち向かう以上には何の後悔もありませんでした。天の希望を成し遂げるために来られたにもかかわらず、天がその希望に対して答えを与えなかったとしても反論したり不平を言わなかったのがイエス様でした。

私達が神様を追い求める旅には終わりがあります。最善の努力を尽くして進むにもかかわらず、結局は天が答えを知らないことがあります。それは世界的な使命が私達の前にあるからです。だからこそ、イエス様も世界的な使命を担う必要があったために、そうした経験をされたのです。同様に、私達にもそうした経験があるでしょう。忠誠を尽くし、生活を捧げても、天が答えを知らない出来事が起こることでしょう。

しかし、あなたは死んでもお父様の御心であり、生きてもお父様の御心であると言えるようになるべきです。また希望を持つなら、お父様の御心を成し遂げるただ一つの希望を持つようにしてください。食べられないことも着られないことも喜ばしいことだと言える心の持ち主になるべきです。

31

今日、あなた方は天に行くためにイエス様を信じる者になってはいけません。死ぬためにイエス様を信じる者こそが天に行くでしょう。よく生きるためにイエス様を信じるのではなく、よく死ぬためにイエス様を信じるのであれば、それは非常に尊い信仰となるでしょう。よく生きることを望みながら信じた12使徒達は、イエス様が死ぬ時には皆どこへ行ったのでしょうか?

あなた方は自分の一つの命をよく生きるために信じるのではなく、自分の一つの命をよく犠牲にするために、つまりよく死ぬために信じなければなりません。そのために私達はイエス様の生涯を模範にする必要があります。イエス様の生涯を歴史を代わりに受け入れる責任が私達にはあります。その生涯を私達が持つべき責任があるのです。イエス様の生涯を持つことによって、イエス様の愛を持つことができます。イエス様を迎えることによって、イエス様の愛を受けることができます。さらに、あなた方はイエス様が2千年間にわたって労苦されたことを見習う信仰的な人格を備えなければなりません。

それだけでなく、6千年にわたって神の計画が延長されていますので、6千年の計画を代わりに受け入れて来られる方を迎え入れることができるようになるべきです。あなた方には父なる神が、もしくは主イエス様が現れた時に、主を招待して迎えることができる時間を持つ必要があります。その時間は一時間でも二時間でもなく、永遠に主を迎え入れることができる時間であるべきです。

それでは、主を迎えることのできる花嫁の資格を持つためには、どうすればよいでしょうか? まず第一に、6千年間の神様の憂いを背負い、慰めてあげることができることが必要です。

そして、主に対して自分がこうしようと考え行いましたと、主の前に立ち、こうして準備しましたと言えることが大切です。天宙的な準備を備えて、「主よ、おいでください。主よ、現れてください。」と言える聖徒になることが必要です。こうした聖徒は決して滅びることはありません。

32

このような重大な使命が私達の前にあるのです。しかし、多くの人々がこれを知らずにいます。また、イエス様の内なる心情や内なる希望が今私達一人一人を中心に回っていることを知らないでいます。そのような人々はどうなるでしょうか? 知らない者は滅びるでしょう。自ら胸を打つ時が訪れるでしょう。

心から尽くし、身体で尽くし、社会にも尽くし、国家にも尽くし、世界にも尽くし、天地にも尽くすこと、これこそが子の責任であるのです。しかし、今日の皆さんはまだ心からもイエス様に尽くせていないことを知るべきです。まだイエス様に尽くすための出発もしていないということです。

心から尽くし、身体で尽くし、社会で尽くし、国家で尽くし、世界で尽くし、天地で尽くすことによって、栄光が皆さん個人だけでなく、家庭、社会、国家、世界、そして全ての人類に満ち、余りがあるべきだということです。こうした天宙的な使命が皆さんにあるとは、皆さんは想像もしなかったでしょう。

それならば、このような使命を持ち集まった皆さんは傲慢であってはいけません。卑屈で愚かな人にもなってはいけません。数多くの敵の前に立っても堂々としていなければなりません。皆さんには宇宙的な栄光と愛をもたらすイエス様を心から尽くす責任があるのです。宇宙的な地位に心と体を持って立たねばならない皆さんなのです。

しかし、自分のために尽くし、家族のために尽くすだけで満足しているクリスチャンは必要ありません。一つの教会を中心にして満足しているクリスチャンも必要ありません。三千万の民族が全てクリスチャンであっても、民族を代表して立ち上がれるクリスチャン、世界の人類が全てイエスを信じているとしても、その24億の人類を代表して立ち上がれる代表的なクリスチャンが必要なのです。


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天界にいる全ての天使を指導できる資格者とならなければならない私達なのです。彼らの前でも堂々とこうして価値あることをしたと言えるべきなのです。これを成し遂げるためにだれが来たかと言えば、イエス・キリストが来られたのです。

このように大きな使命を果たしに来られたイエス様、このように私達が絶対に尊ぶべきイエス様ですが、そのイエス様を見据えて出て行く私達は果たしてどう生きてきたのでしょうか? 見るに堪えないことです。見るに堪えないために、6千年間涙を流しても足りないというのです。胸を打ちながら6千年間嘆き悲しんでも足りないでしょう。このような立場にある私達でも厚かましいほどの人間になってはならないというのです。

もしあなたがすぐに死ぬことがあっても、倒れて踏みつけられることがあっても、持つべき真心、持つべき忠節の心だけは変わらずに持ち続けるべきであり、天宙の前に堂々と立って天の子娘としての地位を築くことができるようにしなければなりません。
あなた方は困難な道に立っています。いや行かなければならない運命の道に立っているのです。このような運命の道に立ったあなた方は一生をかけて信念と内なる忠節を持ち、その道を進むべきでしょう。

あなた方は泣かなければなりません。私は主を尊ぶと言いながらも、世界的な主、天宙的な主、6千年の歴史を超えて永遠の異界を抱えてもなお残ることができる主、このような主を尊ぶ私は、今まで家庭の主を尊び喜ぶ私でしかなかったと悔い改めて嘆くべきでしょう。


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今日の皆さんは、この時代に対する責任と使命を感じていますか? それとも、創造の理念が完成する終わりまで、全体の人類が望んできた理想を自分が代わりに実現しなければならないという事を考えたことがありますか? そのような天宙的な使命感を感じたことがありますか?

そして、あなた方は「私はこのような使命を果たしても生き残ることができる、自分が存在している人間だ」という心の余裕を持って祈ることができなければなりません。そのような立場で祈るときには、多くの言葉や論理は必要ありません。ただ「お父様」と一言言えば十分です。説明は必要ありません。

言葉を発する前に、直感的な衝撃によってためらわずに尊ぶことができる資格を持たなければならない立場に私達は立っています。そのような宝を持ち、私達は立ち上がりました。これから出発するあなた方は、どんな条件に縛られていますか? 途中でどの段階に立ち止まっているのでしょうか? あなた方は生涯の経過で、今どこまで進んできたのでしょうか? 個人から出発して家庭や社会、国家、世界を経て天の領域まで走り抜けなければなりません。そのような天宙的な使命があることを知らなければ、主に出会うことはできません。

イエス・キリストは、あなたを受け入れる真の人を見つけて、6千年のため息を一掃し、彼を抱きしめて感謝の涙を流されるとき、「お父様、あなたが探しておられた存在がここにいます。お父様、喜んでください。」と言われる日が人類の前に訪れるべきです。

その日を基準にして戦い抜くあなた方は、今日も戦い、明日も戦い、生涯を捧げる覚悟のある人でなければなりません。そして永遠の任務から先駆者となり、天宙的な花嫁として装い、天宙的な主を受け入れることができる人にならなければなりません。


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そのような勝利の栄光、お父様の愛、永遠の命を受けて、万物創造主であり、源泉となる花嫁として、お父様と永遠に共にするまで戦い抜かなければならないことを心に留めてください。



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御言葉選集1(17、18)

2023年07月28日 11時25分09秒 | 学習

今、皆さんが知っておくべきことは、イエス・キリストが憐れみ深いマリアの体を通して生まれたと言う事です。冒険的な生涯を持ち、私達の前に現れたイエス・キリストが、聖母マリアのような人物がいなかったら、神様の意志はどうなっていたかと言う事です。聖母マリアのような憐れみ深い女性がいなければ、イエス・キリストの誕生はありえなかったでしょう。地上にマリアのような冒険的な犠牲の土台がなければ、イエス様の新しい命が誕生することはあり得なかったのです。

従順なマリアに天使が現れ、「あなたはみごもり、男の子を産みます」と告げたとき、マリアは「私は男を知らないのに、それはどう言う事ですか?」と尋ねました。天使は再び、「全能なる神があなたを選ばれました」と答えました。その時、マリアは「主よ、私ははしためです。みこころが成るように」と答えました。この一言が天宙的な冒険を示す言葉でした。

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その当時、処女が妊娠する事実が明るみに出ると、モーセを通して立てられた律法により、即座に石打ちにされることを知りながらも、マリアは現実の環境を超えて、「主よ、御心が成るように。はしためなので、御心が成るように。私は死んでもあなたのもの、滅びてもあなたのものです。御心が成るように」と言ったのです。天はこのような地上の存在であるマリアがいるからこそ、イエス・キリストを誕生させたのでした。

しかしそれだけではありません。皆さんが今日信仰生活を送る中にも、未知の冒険の道がたくさんあります。婚約者であるマリアが懐妊したという事実を、夢を通じて予告されたヨセフは、さまざまな人間的な困難により、マリアとの結びつきを解消しようともしました。自分と婚約していた処女が妊娠しているという事実は、ヨセフにさまざまな人間的な苦悩をもたらしました。しかし、ヨセフはすべての出来事を自分の責任とし、マリアを救おうとしました。それは簡単なことではありませんでした。超現実的なことでした。

そのため、今日の皆さんにも、ヤコブが歩んだ道、ヨセフが歩んだ道を進む使命があり、イエス様が歩まれた道、マリアが歩んだ道を辿る使命が残されています。だからこそ、こうした超現実的な場面が皆さんには待ち受けていること、超現実的に通り抜ける冒険的な峠が皆さんの前にあることを知らなければなりません。

4千年の歴史の憂いを抱え、死ぬか生きるかを問わず天の御意のために犠牲になろうと覚悟して立ち向かったイエス様に人々は気づきませんでした。彼が万民の救い主、メシアであることを知らなかったのです。これらの事実を見ると、イエス様は生まれた瞬間から超現実的で、新しい理想的な冒険の人生を過ごされていたことが分かります。現在、この人生は未完成のままで、再臨に要求される御意として残っていることを皆さんは知るべきです。

イエス様の生涯を見ると、ヨセフとマリアの家庭で生活し、成長される過程でも天の御意に対する悩みや心配がありました。兄弟達からの非難や嘲笑も受けました。イエス様の30年以上にわたる生涯は、ヨセフが最初に持った心情とは一致しませんでした。ヨセフはイエス様よりも自分の息子をより愛していたのです。そのため、イエス様も当時の社会形態に適合した家庭環境を持つことができませんでした。

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そうして義理の息子のように暮らしながら、最後には十字架にかかることになったイエス様の全ての生涯は、非現実的なものでした。そうした環境で、すべての家庭的な葛藤に直面しながらも、イエス様は沈黙の中でそれを乗り越えました。最終的に天の御意を持って現れ、万民のメシアであることを証しした後の出来事もまた、現実的ではありませんでした。

長い歴史の中でユダヤ教の教えを超えて新しい天の福音をもって立ち上がったイエス様は、どこに行っても、どこに滞在しても、現実的に歓迎されたことはありませんでした。そのような、自分を慰めてくれる場所を見つけたイエス様ではなかったことを理解する必要があります。

神様の御心を知っているイエス様は新しい新約の福音を宣言しました。最初、洗礼者ヨハネがイエス様を証言した時は、ユダヤ教のすべての祭司や書記達が理解できる環境が整っていました。しかし、3年間の公生涯を経てイエス様の立場はますます低下し、最後には漁師達と貧しい女性達だけが従う立場に置かれることになったのです。

神様の使命を遂行するためには、永遠の約束が必要であり、自らの意志としても永遠となる意志が必要でしたが、現実的にはそんなものを見つけることはできませんでした。イエス様が荒野で5000人以上の群衆を集め、彼らのために天に向かって祈りをささげた心情、ラザロの墓前で懇願の祈りをささげた心情は、地上の誰とも比べられないほどの深い悲しみに包まれていたことを皆さんは理解すべきです。

4千年の歴史の中で数多くの先賢達が神様の御心のために冒険的な生活をし、覚悟と内なる悲しみを抱えて戦ってきましたが、その中でイエス様の内なる悲しみには及びもつかないものでした。イエス様は4千年の歴史の中でのすべての怨みや心情を乗り越え、天に昇って神様の内なる悲しみを満たすことが求められました。

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イエス様を追従する人々はユダヤ人達に歓迎される人々ではありませんでした。ユダヤ教の聖徒達に認められる人々でもありませんでした。

イエス様は社会的に、教会的にどこを行っても誰も歓迎してくれない道を進む事になりました。どこに行っても自由な環境にとどまることができない立場にあったイエス様でした。

モーセがイスラエルの民60万人を導いて出て行く際、彼の前には紅海が立ちはだかり、後ろにはパロの戦車が迫っていました。モーセは死を恐れる60万人の代わりに、そのような死の試練に打ち勝ち、残るための一つの信念を持って立ち向かったのです。それは60万人の民を生き返らせることのできる道であったことを皆さんは知るべきです。

イエス様も同様に、5つのパンと2匹の魚で5000人の群衆を満腹にしたことも同じです。夕暮れ時に野原に広がる数多くの群衆を見つめるイエス様の心情は、実際には地上のどの人からも理解できない心情でした。まさに天の前に現れなければならない一大冒険の心情でした。イエス様がこのような心情を持ち、父なる神様の前に叫ばれたことによって、冒険的な創造の歴史が起こったのです。

生まれながらにして冒険的に生まれ、生きる間に冒険の道を歩まれ、最後には十字架に釘付けになるまで冒険的な基準で戻られたイエス様であることを私達は感じる必要があります。このようなことを見ると、イエス様の生涯は単なるありふれたささいな生涯ではありませんでした。地味でも素晴らしいような、そんな生涯ではありませんでした。

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今や皆さんは、信じている自分を再分析し、イエス・キリストの生涯に合わせて見直す必要があります。もし皆さんがイエス・キリストの花婿となることを望む心があるとしたら、皆さんはイエス様の誕生から30年の冒険的な生涯を経て、ゴルゴダ山の運命の道、試練と逆境の生活から十字架に至るまでの運命の道、冒険的な死の道を歩まれたその生涯を知る必要があります。

まさにイエス様の生涯は冒険として始まり、冒険として終わる生涯でした。花婿として来られたが、孤独ながらも死の道を歩まれたイエス様、私のために帰られたイエス様、私を救うために帰られたイエス様の骨肉にしみる悲痛な心情を私達は心に感じ取る必要があります。

今日の終わりの時代において、皆さんがイエス様に捧げることができる贈り物があるとしたら、それは何でしょうか? 生涯をささげて冒険的な過程を経てきたイエス・キリストの哀れな心情を胸に秘め、全世界に向けて、全天空に向けて、誰よりも素晴らしい犠牲、全天宙を動員しても見つけることができない唯一の天宙的な冒険の犠牲となることです。

したがって、今までの歴史の過程を経てこられた神様の遺恨の心情を理解し、天と地の位置から上がって行かねばなりません。喜ばしい地位から何かを担当したいと思ってはいけないと言う事です。御意のために死ぬ覚悟を持って生活しなければなりません。考えてみてください。地のために死んだイエス・キリストが地を非難すれば、それ以上非難できる人はいないでしょう。

しかし、イエス様は自分のためにこられませんでした。最初は歴史の復帰のためにこられ、イスラエルの教団のためにこられ、イスラエルの民のためにこられました。従っている弟子達のために来られ、さらには民族と国家、世界そして天のために来られました。彼の生涯は民族と国家と世界そして天のための生涯であり、死に至るまで自分のための死ではなかったと言う事です。

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しかし、このようなイエス様の足跡を誰が正しいと言ったでしょうか? 死の山頂でさえ愛する弟子達からも裏切られ、一人取り残され、すべてを負担し、立ち向かわなければならなかったイエス様を思い起こしてください! もし人間達に対して憂いを抱き、恨みを持とうとしても、地を打ち鳴らして泣いても、30年の遺恨を解消することはできず、受けた苦しみを報いる方法はないでしょう。しかし、イエス様は当時の人類が悪魔の支配下で苦しむことを心配し、憐れみの心情でありながら、十字架に釘付けになる死の場所でも裏切られた民族、裏切られた弟子、裏切られたすべての人類のために祈る方でした。

人類への憂いを持たれたイエス様であったため、彼はこの地上の祖先達の4千年の歴史に訴えても、当時のすべての人間に訴えても、彼らの友人になることができましたし、反対した民族のために自分を打ち、反対する敵対者のために祈ることができました。これは4千年の人類の歴史において存在し得なかったことです。また、これは天と地に悔恨した罪の壁を取り壊すための天宙的な冒険の行為であったことを、皆さんは知るべきです。

イエス様が全能の王ならば、皆さんはその全能の王の王妃となるために、その約束を信じて死んでも生きても、すべてを御意に委ねて生活しなければなりません。

イエス様はこのような道を歩まれました。イエス様の生涯はそのような生涯でした。イエス様の希望は御意のために生き、御意のためにそのように死ぬことでした。

今、私達に求められることは何でしょうか? そして、私達が知るべきことは何でしょうか? 死の座においても人類のために祝福を祈って下さり、内面の悲しみを抱えて歩まれたイエス様を理解しなければなりません。地上で一つの意志を確立し、冒険の道を進んだイエス様の心を私達の心とし、イエス様の死を理解して、今日、私達が天宙的な冒険の道を通してイエス様の心の中にあった憎しみを解き放たなければなりません。

イエス様を信じる人々の中には、父なる神様に祝福を願う人々がたくさんいます。しかし、祝福を願う前にイエス様の胸中に秘められた悲しみを理解しなければなりません。さらに、イエス様の生涯と十字架の路程を知るべきです。人類が知らない、イエス様と神様だけが知っている冒険的な路程の悲しみがあったことを、今日、皆さんが知り、イエス様が語ることのできなかった内なる悲しみの心情を理解しなければならないのです。

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ですから、「主よ!私達があなたと歴史的な全ての憎しみを解き放ちますように、私達を鞭打ってください。歴史的な全ての民族を通じて成し遂げようとされた、あなたの御心を成就できるように導いてください。そして、私達が倒れることなく、天宙的な歴史を代わりに成し遂げ、数多くの先祖が残した憎しみを解消する冒険的な献身となるように導いてください。」と言えることが求められるのです。

今、私達が望む希望は、イエス・キリストが地上に遺した御意を成し遂げることです。極限に達したイエス・キリストの御意を再び成就しなければならない運命が私達の運命であると言う事です。歴史は個々の冒険的な使命を経て、家庭を通じて、社会を通じて、国を通じて、世界を通じて進んできました。そのため、キリスト教徒の中で個人がその意志を成し遂げようとする際には、その個人の行程に冒険的な試練が加えられてきました。家庭も同様であり、社会も同様であり、国も同様であり、世界も同じでした。今、そんな冒険的な試練が皆さんの前に置かれていることを皆さんは知らなければなりません。だから、今日、皆さんは冒険的な生死の分かれ道と天宙的な審判の前に立っている私の一心の冒険、私の一心の生命を代わりに、民族の生命を代わりに、世界の人類を代わりに冒険的な献身として捧げることができなければなりません。

そして、過去の先祖達の歩んできた生涯の道とイエス・キリストが歩んだ生涯の道を、今日私達がどんな時代、どんな状況でも見習って歩めるようにしなければなりません。さらに、どのような人がどのような条件を提示しようとも、超現実的な自己を立てて天宙万象の前に訴えることができ、天の御心を代わりにする者として立ち上がる覚悟と度胸を持たなければなりません。

今や再臨の日が近い現代において、あなた方は6千年の歴史の最後に残された唯一の天宙的で冒険的な使命を果たさなければなりません。その使命が天宙的であるなら、あなた方も相対的に天宙的な存在とならなければなりません。ここで冒険的、内面的な覚悟を持たなければ、その使命を遂行することはできないと言う事をあなた方は理解しなければなりません。

神様の御心が私達の信仰生活とは異なる場合、どうなるでしょうか? 今までの超現実的な冒険の努力によって、神様の歴史は進展してきました。

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このような天宙的な冒険の関門を通らなければ、最後の勝利の旗を掲げて父なる神様の前でホザナを叫び、天宙的な花嫁の立場に代わる存在となることはできません。そして、どのような条件にも縛られず、またどんな環境であっても迫害や非難に耐えることができる唯一無二の天宙的な冒険の基準を築く天の王子王女にならなければなりません。

このような王子王女になる覚悟を持った者こそが神様の計画を最終的に勝利し、その栄光を顕示できるキリストの花嫁であることを、皆さんは理解すべきです。一緒に祈りましょう。









「文鮮明先生御言葉選集 1 - 18. 希望の天国を所有する者たち 1956年12月16日(日曜日)、前本部教会。
聖書拝読 マタイによる福音書11:1-15


<祈祷(Ⅰ)>
 愛のお父様! 一週間、貧しいものを受け入れ、細やかに心配してくださったお父様、私達の一日一日が自分達の思い通りにならないようにしてください。私達が願うことも、私達の意のままになることはないように、賜わった恵みを思い起こすとき、お父様、心から感謝いたします。

今日、幼い姿でお父様の前に出て参ります。まず第一に、私達の心と身体が東方の三博士が捧げた金や乳香や没薬のような供物にならなければならないことを知っております。最初に、私の心と身体を差し出させてください。聖壇の前で嫌われる姿にならないようにお許しください、愛するお父様、心から願っております。

これらのことを呼び起こすために努力されたお父様は、6千年の長い道のりを経てこられたことを知っております。

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私達一人一人が重い使命を持ち、人類の前に立たされたといえるでしょうが、私達一人一人が天の全体の信仰を代表して喜びを示さなければならないことを知っております。


選ばれた目的は、ますます理解するにつれて、足りないものを再び求めたことを思い起こすほど、私達の不十分さをお父様の前で告白せずにはいられません。私達のあらゆる意識や概念、自己主張をすべて捨てて、お父様の前にへりくだっていますので、お父様、お支えください。

死の波は時を超えて動いていますが、その中で子女達を探し求めておられるお父様、お父様が私達に恵みを与えてくださるのは私達が立派だからではないことを知っています。お父様の悲しみがキリストが再びこの地においでになる日まで続くことを知っています。

お父様、全てを委ねますので、心と体を完全に主管してください。

この集まりがただ人々が集まるだけのものにならないように許してください。6千年の歴史を背負い、お父様のお辛い心情を慰めるような姿になることを許してください。私達が一つの供物としてすべての聖道と共に喜びをもって崇拝できるように、三位一体が私達の心と体を完全にお預かりください。愛するお父様、心から願い求めます。

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お父様、この三千万の民族を憐れんでください。この民族を愛するために長い歴史の中で努力されたことを知っています。私達を選んでくださる時には知らない苦労があると知っています。

祭壇を築き、お父様と深い縁を結ぶ中で、民族を代表して訴えるあなたの子供達がいることを知っており、彼らに感謝せずにはいられません。彼らの前で新しい世界の歴史を起こし、衝動の歴史を起こしてください。一つの民族を代表して一人で責任を持ち立ち上がれる、天の前に責任を負う革命家として立ててください。愛するお父様、心から願い求めます。

民族の怨みが天に掲げられていることを知りますし、地上の人類の怨みも天に掲げられていることを知っています。この天の悲しみを代わりに背負う者がいないことを天が嘆いていることを知るならば、今日ここに集まった子供達に、この地上、この全ての天地にたたえられた怨みを代わりに解放して差し上げるために、お父様の前で懇願する子供達となることをお許しください。悪魔の前でお父様の代わりに戦うことができる子供達となることをお許しください、お父様、心から願い求めます。

心と体が一つとなり、調和しながら一つの意志を持ち、お父様の恩寵を歌うことができるように許してください。解放の恩寵に感謝し、礼拝することができるこの時をお許しください、私のお父様、心から願い求めます。

新しい御言葉を持って各地で戦う子供達がいますので、どこにとどまっていても、お父様と共にあってください。頼るべきはこの地上に何もありません。ただ天の許された恩寵に頼ることしかできません。多くの敵から嘲笑されながら戦わなければならない天宙的な運命に入ってしまったのです。お父様、激励してください。

     45

この日も同じ恩寵として、ここに集まった人々の心と体に満ちあふれるほどの天の恩寵を注いでください、お父様、心から願い求めます。あなたの志を代わりにして孤独な場所でお父様の前で心配の祈りをしている子供達もいますので、彼らの心を守ってください。

分け与えていただくこと、許されることの恩寵を下さいますように、切にお願いいたします。この一時ここに臨んでください。主の御名によりお祈り致しました。アーメン。


<祈祷 Ⅱ>
時代を経て世紀を渡り終末の時まで努力しながらご苦労されて来られたお父様。お父様のご苦労の志がこの地上で早く成就することを望む私達が、お父様のその努力を地上で引き継ぎ担うことができるようにお許しください。

お父様の聖断を中心にして敵対的な使命を引き継ぎ、地上でイエス様に代わって悪魔と戦う勇敢な子女となるように許してください。お父様、熱望しております。

この日与えられた御言葉を読みました。イエス様のために歴史的な使命を帯びて地に来た洗礼者ヨハネがイエス様の前に証し的な使命は果たしましたが、敵対的な人々の心を終えるようにして差し上げられなかった事実を私達は知っております。

     46

この場に集まった聴衆、ひれ伏すあなたの子供達、自らの一つ一つを省みさせてください。自らの一つ一つをお父様の前に明らかにすることをお許しください。自らの一つ一つをすべての人々の前に掲げて、世紀末的な神様の使命を代わりに果たす姿になるようにお許しください。そして、この時代に天が要求される敵対的な使命とお召しの御言葉に従順な、忠実な者達になるようにお許しください。

御心の時は限られておりますが、人々は悲しいことにこれを知らず、無限に希望を抱いています。また、今日のこの瞬間で生死が決まるということを知らない哀れな人々が多くいます。お父様、初臨の際に洗礼者ヨハネが現れて証言した時の残された内容をここに集まった子供たちが心に刻むことをお許しください。

今、私たちが心を開いて天の内的な祭壇を築けるようお許しください。そして私たちの体を悪魔に対する勝利の供え物としてお父様の前に自信を持って差し出せる息子娘達にしてください。天は自信に満ちた勇敢な勇士を求めておられ、卑屈で卑劣な者が敵の前でひざまずくことを望んでおられないことを知っております。ここに集まったあなたの息子娘達が、御心のためであれば命さえ投げ出すことのできる天の勇士となれるようお許しください。今やそのような勇士が必要な時が来たことを知っています。

天倫の御心を担った洗礼者ヨハネと彼に従った群衆が天の内的な心情に燃え上がり、堕落したユダヤ教全体と対立して新しい事実を展開したように、今日私たちを通してこの民族の前に哀れみの愛の光をお示しください。どうかお父様の摂理の御手を引かないでください。

この民族のために築かれている数多くの祭壇を、お父様、祝福してください。また、すでに確立された教団に固執し、新たな供物とならずに隠れた祭壇を築く、あちこちにいる多くの子供達をお許しください。

     47

多くの人々の中で孤独な群れを呼び寄せてくださったお父様。いえ、行きたくて行くのではなく、行かねばならず、それゆえに厳しい道であることを自覚致しております。開拓者の志で戦いの一路を切り拓き、天の戦士として進まねばならないことを恐れることなく、お父様、あなたの御座に跪いている幼い子ども達を抱きしめてください。

彼らの歩む道が、お父様の志の道であるならば、荒れ地の道も恐れず、険しい山頂も恐れません。体が引き裂かれ、傷を負うことさえ、ただ一つの志を中心にし、すべてを切り拓くことができるようにしてください。彼らの心にはただお父様の導きの恩寵だけをお示しください。

この時、多くの言葉は必要のない時です。心を動かして天情に到達すべき時であり、心が動いてお父様の心情を中心にし、全体の家族が調和する時です。お父様、ここに伏しているあなたの子供達を、自ら内外を備え、お父様の心情を代表する本来の人々として立ち上がらせてください。それを切に望み、願っています。

お父様! 孤独な道を辿っているかわいそうな群れに慈悲をおかけください。民族のすべての不十分な点を許し、お父様が背負われた使命を完全に果たせないことをお許しください。熱心に集まったお父様の子供達を励まし、お父様がお立てになったのですから、どうか戦いの最前線で疲れることをなくしてください。

お父様! 彼らが御志のために命を捧げ、戦って戦って勝利の日を勝ち取るまで、変わらぬ信仰を与えてください。不変の一つの中心を備え、敵に投げ捨てられる爆弾のように、環境に動じず、お父様の御旨の勝利のために敵の前で爆発できるようなお父様の子供としてください。お願い申し上げます、お父様、熱望しております。

     48

今、御言葉を持って出て行きましたので、お父様、共に有ってください。一つの心を中心にして動くようお許しください。天を心配しながら、自らお父様の心情を見つめる中で、性別を超えて自己を捨て、すべてをお父様の前にささげることができるよう、私達をお許しください。お父様が許容できない人間的な要素や個人的な関心と心情が今も生活の中で何を支配しているか、もし何かあるならば、お父様の力で、再創造の御手でお導きください。

お父様の前に自己を糾(ただ)して、謙遜な献身として伏して自己を告白できる喜びの時をお許しください。心からお願いいたします。すべてをお任せしましたので御心に従って主管してください。あなたの御名に寄ってお祈り致しました。アーメン。


<御言葉>
「希望の楽園を所有する者達」というタイトルで、皆さんと共に考えたいと思う内容をお伝えします。神様の創造理想を考えると神様自身も非物質世界の楽園を望まれたでしょうが、皆さんが直接的に体感できる具体的な世界での楽園を望まれ万物を創造されました。これは皆さんがよく知っていることでしょう。つまり、神様は天国と地上の世界が神様とアダムと太陽を中心にして成り立つことで、霊的な楽園と物質的な楽園の栄光を見るために物質世界を創造されたと言う事です。

しかし、人間の過ち、すなわち人間の堕落によって神様がこのように望まれていた天国と地上の楽園は痕跡もなく消えてしまったことも皆さんがよくご存知の通りです。このような天国や地上の楽園は神様のために造られたのではなく、人間のために造られたものでした。

アダムとエバを中心にして地上で楽園を築き、地上で楽園の生活をしていた人々が永遠の天国の世界に入り暮らせるようにすることが神様の天地創造の目的でした。しかし、アダムとエバの堕落によって、霊的な天国と物質的な地上の楽園は失われ、天国の世界と地上の世界は悪魔によって神様の前で非難される悲しい世界になってしまいました。

堕落後、地上はもちろんのこと、天上の玉座の下まで悪魔の活動範囲となりました。だからこそ、悪魔は霊と肉の世界の人々を讒言してきたのです。現代の人々の中には、悪魔がこのような権限を持って動いてきたことをよく知らない人もいます。

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アダムとエバを中心にして、神様の栄光の万物創造を歌い楽しむべきだった地上の楽園が、人間の過ちにより悪魔の前に完全に陥落してしまったことは創造された私達人間の堕落はお父様である神様の前で悲しみを引き起こす結果となりました。この事実を皆さんは骨身に感じるべきです。

神様はこのように汚れた地を再び回復するために、残された天使達を通じて人間との関係を築く救済の計画を進めておられます。堕落によって聖なる神様を背信した立場にある人々、万物に比べても比べ物にならないほど遠くにいる人々に対して、神様は再び向き合ってくださるために救済の計画を進めておられるのです。悪魔に支配され、讒言される人間を神様が主管されるために、歴史を辿り、旧約時代を経て新約時代を経て、今も進めておられます。

旧約時代では、主に神様が自ら歴史を進め、神様の栄光によって自ら人間と対話する時代でした。しかし、その計画が完遂されなかったため神様は悲しみを抱えられ、第二段階として天使達を通じて人間を導く道を開拓しました。これが旧約時代の救済の歴史であると言えます。

旧約時代では使徒のような立場の使命者としてノアやアブラハムが立てられ、神様の御意を伝える使命を果たしました。この闇に覆われた地上の諸民族を親なる神様が直接対話できる場所に導くために、アブラハム一族を選び、イスラエル民族を興されました。こうして、イスラエル民族を通じて、人々が徐々に神様に近づける道を開拓していったのです。

そして霊界では、天使達が歴史を進めるための一つの基準を定められました。アダムとエバに対する神様の意志を完成させる基準を持つことで、父なる神様と直接に対話できる勝利的な領域を築くために、イエス様が来るまで4千年にわたって努力されたのです。皆さんはこれを理解する必要があるでしょう。

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使徒の立場の使命者しか相対できない立場にある人間を神様の御子が相対できる立場に高めて下さった方がイエス様であり、授かった福音が新約の御言葉です。そのため、イエス様以降の人々はイエス様を通して神様に相対できる立場に置かれるようになったのです。神様の愛を直接受けるべき人々が堕落して神様の愛を直接受けることができなくなった結果、6千年の歴史を経て今も私達が望んでいるのは、息子としてのイエス様の愛を受けた後に神様の愛まで受けられる位置に立つことなのです。

御子(みこ)の愛を受けて創造世界を実現し、愛を中心に幸福を得ようとされた神様と同じ境遇であり、実体を持った息子娘となる必要があるのです。霊的な側面だけでなく、この実体が神様が直接愛し得る位置にまで進むべきなのです。このような使命は人間が堕落した結果、私達に残された使命であると言う事を皆さんは理解すべきです。

イエス様はこの地に来て、人々を神様の愛を受け得る位置に置く使命を持っておられました。それも霊的な側面と肉体的な側面を含めてイエス様と同じような御子の立場から神様の愛を受けることができるようにするためでした。このような使命を持ってイエス様がこの地においでになったのですが、人々が信じなかったために、イエス・キリストは人々を霊的にも肉体的にも神様の愛を受ける位置まで導く使命を完遂することができませんでした。ただ霊的な面で私達を息子、娘として立てる位置にまで開拓されたのです。

それでは神様の復帰の最終的な目的は何でしょうか? この地上において、霊的で肉体的な実体を持つ人々が神様の愛を受けて生きることができる心情基準を完成させることです。

この目的を達成するために、イエス様が帰られて後の2千年間にわたってイエス様に代わって歴史を進めてこられている方が聖霊です。聖霊はイエス様が帰られた後も今も歴史を進めておられますが、神様の創造理想の御志を完成させる目的において、地上に直接的な足場を築く歴史を進めるのではなく、私達が彼を通じて天に向かい進むことができるようにする橋渡しの役割を果たしていると言う事です。これを皆さんはよく理解する必要があります。

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それでは、地上で天国の生活をすることができる人々はどのような人々なのでしょうか? 無限の霊界、天上天国で暮らすことができる霊的な存在はどのような存在なのでしょうか? 地上でイエス様と聖霊の愛を受け、それを超えて直接お父様の愛を受け、お父様と共に生きながら愛の理想を中心にし、和合の勝者となった人だけが住むことができる場所が地上天国であり、永遠の天上天国であると言う事を皆さんは知っておく必要があります。

神様の創造の基準から見ればそんな心情的位置が希望の天国というものです。これを私達が認めるならば、今を生きている皆さん自身はどの程度に神様の創造目的だった希望の天国を望んでいる姿なのかを考えてみる必要があります。

ヨハネの黙示録14章1節には、小羊がシオンの山に立っており、彼と共に14万4千人が立っているが、その額には小羊の名前と父の名前が書いてあるとあります。

今日の世界にあるクリスチャン達が望む天国の恩恵は何を基準にしているのかと言えば、花婿と花嫁の恵みを基準にしているようです。それだけがすべてだと思っていることです。しかし、それと共に14万4千人が立っており、その額には小羊の名前と父の名前が書いてあるというように、父の名前が問題です。

今日、皆さんが花婿となったイエス様を信じ、花嫁の資格を備えた後にはイエス様の愛に留まることではなく、そのイエス様の愛を基盤として、6千年間自ら人間を愛することができなかった神様が直接愛されるその愛を受け取る事が出来る心情的位置にまで進まなければなりません。

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これこそが神様の摂理の全体的な目的であり、イエス・キリストを送って2千年間御苦労して来られた目的であったにもかかわらず、今日の聖徒達はこれを知らないでいます。

それでは、今日の私達はいつ、花婿と花嫁の立場を超えて勝利した永遠の実体として地上から天上、すなわち永遠の天国に行きお父様の愛を中心にして交わることができる実体となるのでしょうか? 皆さんはこのような愛の縁を持たなければなりません。これこそがイエス・キリストの目的であり、神様が摂理される目的です。

皆さんは今まで花婿と花嫁の愛を望み、信じながら進んできました。これからは、イエス・キリストの手を握り、お父様の前に立ち『お父様!望まれた6千年の御意を私達が成し遂げた立場でお目にかかります。』と言うような立派な存在にならなければなりません。神様の創造の目的がこれであると思えば、「お父様!自ら愛してください」と言うことができる皆さんになるべきです。このような人々を霊的世界で見つけるだけでなく、実体の世界で見つけるまで神様の摂理は終わることがないことを皆さんは知るべきです。

イエス・キリストがこの地に来て、霊的な子としての愛の権限を得られる希望を創り出したため、地上の人々がイエス・キリストとの関係を結び、一つに和し、その愛の権限を引き継ぐならば、霊界で人間の罪を条件にして非難していた悪魔達も、地上で人間の罪を条件にして非難できなくなると言う事です。

神様が創造されたアダム・エバを悪魔が奪い去りましたが、霊だけを持ち去ったのではなく、霊と肉を合わせて持ち去ったため、天の側からはこの霊と肉を合わせたアダム・エバを悪魔から取り戻して、神様がご自ら愛される道を開拓するために、今日私達、信仰する聖徒達を立てられたことを皆さんは念頭に置かなければなりません。

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イエス・キリストは、この驚くべき宇宙の創造的理想を中心基準として、この地において姿を現しました。そしてイエス・キリストは最後の戦いの基準をどこに置いたのでしょうか?  それはイエス様を追った聖徒達が神様の霊的な愛だけを受け取ったに留まっていたために、彼らが霊肉をあわせて神様の愛を受け取ることができるところに置いたのです。霊肉をあわせて神様の愛を受け取ることが希望であるため、霊的な救いの摂理だけを行ったイエス様は天に行っても地上の私達人間のために祈らなければならないのです。

このように、イエス・キリストの希望がまだ地上で完全に実現されていないため、イエス様を中心にした12使徒以下の楽園にいる多くの霊的な存在がこの一つの希望を基準に総動員されていると言う事を皆さんは知るべきです。

今日、終末に直面している私達には、摂理の中で協力していた天使達の努力の成果が残っています。その他にも、多くの使徒達の努力の成果が残っています。このような歴史的な努力のすべての成果と条件を私達は今日責任を持って受け止めなければなりません。過去の神様の摂理の心情に代わって努力し、協力した無数の聖徒達と、イエス様以下の霊界にいるすべての霊的存在の怨恨も私達が解怨してあげることが必要です。

終末に直面した私達は、過去の歴史を代表して神様の前に立つとき、イエス・キリストの認めを受けなければならず、聖霊の認めを受けなければなりません。そして、イエス様と聖霊の認めを受ける段階を経た後、三位一体が皆さんが神様の前に進むことを許可するかを決定することになるでしょう。このような段階まで歴史が進んでいるのが新約摂理だと言う事を皆さんは理解する必要があります。

ここでの「認定(承認)段階とは何かと言うと、 結婚式の婚約の段階と言えます。 決定段階とは何かと言うと、 私達が花嫁として祝福式に出る資格を備える段階と言えます。 それでは最後に残る段階は何でしょうか?  それは「判断(判定)段階 」です。 この段階は、神が人間たちに対して、私の愛する者、永遠に共にする者、創造以上を望み願っていた永遠不変の存在として、神様の愛を受ける存在として、神がご自身の手を上げて万物の前に宣言される日を迎える段階です。 これが「和の判断の段階 」です。

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神様は今まで6千年間を秩序を立てていらっしゃいましたが、まだ天宙的な審判の日を迎えることができませんでした。 この一日を基準として下さることが審判です。

皆さんはこのような審判の門を通って、神様がアダムに「万物を統治せよ」と祝福されたその祝福を継承しなければなりません。 そして、天の民として立ち上がり、「お父様!愛しております。 私のこのような歴史的な状況をご覧になり、キリストの希望の志、聖霊と神様が望まれる志を知りました。 お父様、祝福してください。」と言える皆さんでなければなりません。 このような人物が終わりの世に現れなければならないと言う事です。

そのような人を導き出し、判断された後に、万物も私達を神様の子供として仕える必要があることを知るでしょう。神様と神様の子の関係を築いた後には、悪魔は服従します。

このような歴史的な経緯を前にした皆さんには、自らを判断し、どのような位置に立つべきかが問題です。最初にイエス・キリストの認知を受け、次に聖霊の認知を受ける立場に立つ必要があります。これを歴史的な経緯に照らしてみると、認知の段階は旧約時代であり、決定の段階は新約時代であり、判断の段階は(再臨)成約時代です。

今日まで歴史は数多くの段階を経て、縦的に進んできましたが、今度は縦横に広がる歴史がやってきます。6千年間にわたって認知的な経緯、決定的な経緯を経て、判断的な経緯に向かっている私達は、縦的に流れてきた歴史と世紀末的な横的な歴史を経て進んでいかなければなりません。

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神様の歴史は悪魔との戦いの歴史でした。6千年間、悪魔と戦ってきましたが、まだ決着がついていません。多くの先志先駆者たちが来て努力しましたが、地上で神が要求した志を達成することはできなかったのです。このようにして達成されなかった多くの先志先駆者たちの意志が地上で実現されています。皆さんは適切な時期に立ち上がらなければなりません。

終わりの時代には、皆さんには知り得ない数々の奇妙な現象が起こります。私はエリヤです。と言う人物も出てくるでしょう。そのような時が訪れるでしょう。私はエリヤです。私はモーセです。私はパウロです。と言う人物、またはサムエルと言う人物も現れるでしょう。このような現象が起こる理由は、再臨の原理によるものです。つまり、彼らが遺した使命を完了させるために、再臨をしなければならないからです。

彼らが再臨の過程で神様の志を中心にして悪魔と戦いましたが、勝利の基準を確立できなかったため、彼らの使命は後代にまで延長されています。そのため、彼らの使命を引き継いだ人々が現れるのですが、彼らは自分がパウロだ、エリヤだと言う事を知らずにいるため、そう名乗っているのです。

今、終わりの時代に立っている私達が理解すべきことは、6千年間の認識的な経緯と決定的な経緯、そして判断的な経緯をすべて一挙に超え、霊と肉が融合した一つの実体として通過しなければならないと言う事です。そうでなければ、歴史の過程で捕らえられた悪魔の讒訴条件から逃れることはできません。それによって、天の前に進むことができる出来ないが決まるのです。

いまこそ皆さん、終わりの日の聖徒たちは心情を広げなければなりません。天の無限の世界、私達が理想として創造された永遠の理想天国を、現代の地上の人々が見つけなければなりません。天にいるイエス・キリストを通して探すのではなく、地上の人間を通して探すことを理解しなければなりません。イエス様と聖霊は天上に存在し、物質的な存在ではないため、その天国の理想を地上で実現することはできないのです。ですから、物質的な実在を持つ神様の子女たちが地上において永遠の理想天国を実現しなければなりません。6千年にわたる歴史的な過程を経て、悪魔が讒訴していたそのすべての条件からも解放されなければなりません。

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アブラハムが三つの犠牲、つまり鳩と子羊と子牛を捧げる際、子羊と子牛は切り分けたが、鳩は切り分けなかったため、天が受け入れることができなかった。皆さんはこのようなことを繰り返してはいけません。

皆さんは最後の聖別の門を通過しなければなりません。自分の肉体の罪、すなわち道徳的な罪や遺伝的な罪、血統的な罪、歴史的なすべての罪を正確に認識し、踏みしめて上昇しなければなりません。そのような人にならなければ、万物を支配すると語られた神様の志を成し遂げる、神様の子である息子や娘にはなれないと言う事です。

皆さんは、天川繁星(てんせんはんせい)運行の歴史をよく知っているでしょう。現代の皆さんは個体的な存在ではありません。神様は皆さん一人一人を大切にし、皆さんを愛していますが、その愛は皆さん一人のための愛ではありません。6千年にわたる帰還途中で労苦した先祖達の成果として捧げられる愛なのです。

今この終わりの日に皆さんが、神様が直接自分を愛しているという声や命令を受けたとき、それが自分個体に留まる愛だと思っていたら、大きな誤解です。皆さんがその愛を受けるまでには6千年もかかったのです。ですから、その愛は歴史的な愛であり、6千年の歴史の成果を目的とした愛なのです。皆さんはこれを理解しなければなりません。

従って、その存在は神様の資質に似ており、歴史的な目的の前に残ることのできる愛の性格を持つ必要があります。このような基準に従って、神様は闘争の歴史を展開してこられたと言う事です。

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「イエス・キリストは、4千年の帰還の歴史が経過した後、1つの愛の実体として現れるとき、多くの宗教や多くの民族を統合し、成果を上げることができる1つの実体として天が神を立てられたことを知りました。そのため、イエス様はユダヤ人達に福音を伝える際にも自らの主張を述べなかったと言う事です。」

イエス・キリストは、4千年にわたる復帰の歴史を経た後、愛の実体として現れ、数多くの宗教や民族を一つにまとめて結実させる存在として、神によって選ばれたことを理解していました」。そのため、イエス様はユダヤ人達に福音を伝えるとき、自分自身の意見を伝えたのではありませんでした。イエス様が語った福音は、4千年に渡る歴史の中で多くの先知先烈たちが苦労されたことを背負い、その代わりとして実体として語ったものでした。

そしてイエス様は、福音を一時的な立場で伝えませんでした。イエス様はその時の全ての人々だけでなく、未来永劫の人々まで神様の愛を受け取ることができる福音を伝えようとしました。そのため、人々が永遠に神様の御旨を継承していると言うならば、その継承されているすべてのものはイエス・キリストにより為されたと言う事を皆さんは知らなければなりません。

皆さんの働きは天地に代わる働きです。皆さんが神様の真の子女となることは、イエスと聖霊の希望であり、天上の無数の聖徒達の希望でもあります。彼らは真の子女が地上に現れ、一つの勝利の基準を確立することを望んでいます。また、そのような基準を確立した神様の子女、真の実体が現れることを願っています。これらの事実を私達は理解するべきであり、自己を極微々たる存在として考えてはいけません。この観点から、皆さんはイエス・キリストが「全世界を得たとしても、自らの命を失えば何の利益があるでしょうか」、と言われたことを理解する必要があります。

信仰を持っているクリスチャン達、今ここに集まった信仰者の皆さん。皆さんはどれだけこのような天宙的な価値を感じてきましたか? 自己が変わらない神様の子であることをどれだけ認識してきたでしょうか。この意味で、イエス・キリストが「私は神様の子です」と自信を持って叫んだことは、今日のキリスト教徒が見習うべきひとつの標語です。

歴史の終末期である今日、自らを「変わらない天の子である」と宣言できる存在、天の前でも悪魔の前でもどんな人の前でも変わらない神様の子、神様の娘であると言える存在をイエス様は求めています。このような存在をイエス様が要求しているのです。

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皆さんはこれまで数十年間、信仰生活をしてきながら、信仰的な生き方の基準を築こうとしてきました。しかし、天は歴史の舞台で天宙的な使命を果たすことができる人、神様の子であると自信を持って言える人を探し求めています。自信を持って堂々と神様の前に立てる息子や娘を求めているのです。

無謀な悪魔の中傷にも屈せず、天使がやってきて押し出そうとしてもそれを阻止でき、イエス様や聖霊がやってきて押し出そうとしてもそれを防げる人を探し求めています。

イエス・キリストは4千年の歴史を代わりに背負って十字架を担いで血が流れ、運命を受け入れる瞬間まで、「私は神様の子である」と変わらぬ心を持ち続けました。運命の時、天が自分を知らないと言っても、イエス様は4千年の帰還の歴史を深く感じていたために変わりませんでした。

神が造られたすべての被造物の中で、神様の子であり、霊と肉体の両方を備えた神様の子女はそれまで存在しませんでした。イエス様はこの世界の悲しみにぶつかり倒れ、また倒れる中で自らは「神様が愛される子である」という認識を持っていました。この認識を持ってイエス様はどんな困難にも立ち向かい、堂々と戦い続けたのです。皆さんもこれを知るべきです。

このような希望と志を持ってこの地においでになったイエス・キリスト、この希望と志を人間の世界で実践すべきイエス・キリストはどうなったのでしょうか? 考えもしなかった十字架がどうして起こったのでしょうか? 皆さんがもしイエス・キリストの心情に共鳴できる立場から、どれほど地を打ち鳴らし、万物を呪っても、その悲しみは解消されないでしょう。

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長い歴史を経ても、人々は神様の心情を無視し、神様の御心を捨て、神様に対して背信してきました。そのため、神様の帰還原理により、イエス様は人間の代わりに神様からも捨てられた立場に置かれました。

イエス様は「アバ、父よ、どうして私を捨てられましたか」と仰られ、十字架に向かわれたのは、私達の先祖アダムからその後4千年間、人間が神様に対して背信し犯した罪の償いのためでした。人間が神様を背くことによって、帰還原則により、神様はイエス様を捨てるしかありませんでした。

しかし、イエス様は天に背くことはありませんでした。神様の子は悪魔の世界に捨てられても神様の子であり、神様の子は地獄に行くとしても神様の子です。このような中心を持ち、30年以上の生涯を捧げて労苦されたイエス・キリストでした。

今、このようなイエス様を信じている皆さん。花婿となるイエス様の前で花嫁となるために信仰を持って進んでいる皆さん。皆さんは6千年の歴史を代わりに果たす神様の子として立つべきです。神様の前で悪魔を見事に打ち破ることができる人を天が求めていることを知らなければなりません。

これまでの歴史的な多くの聖徒たちは、なぜイエス・キリストや聖霊までもが悪魔の試練を受けなければならないのかと考えるかもしれません。それは、霊と肉体を備えて完結させなければならない使命がまだ完結されていないからです。

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では、これまで2千年間、イエス様と聖霊が悪魔と戦ってきたこの闘いはいつ終わるのでしょうか? 神に対する悪魔の中傷がいつ終わるのでしょうか? それが終わるためには、イエス・キリストの様に実体を持ち、地上で4千年の歴史を代わりに果たして罪と悪魔を打ち破った神様の子であると自信を持って語る心情を持った人が現れなければなりません。そうでなければ、6千年間神に対して中傷してきた悪魔を打ち破り、またイエス様と聖霊が悪魔と戦ってきた闘いが終わることはありません。これをキリスト教徒は知らなければなりません。知れば、そのようなことなのです。

楽園にいる哀れなイエス・キリストは、今日まで罪深い人々を見つけ出さなければならない運命に置かれています。あなたが祈る事をしない時でも、イエス様は祈らなければならないと言う事です。聖霊も休むことができません。神様も休むことができません。このように少しも休む時間のない歴史を経て現在に至っているのです。

今、私達は神様の子であるという意識を持ち、「神様の威厳とイエス様の威厳と聖霊の威厳が私によって立ち上がれるように」と祈るべきです。皆さんは神様の威厳を立ち上げなければなりません。イエス様の威厳を立ち上げなければなりません。聖霊の威厳を立ち上げなければなりません。

人類を愛すべき天倫の縁を持ちながらも、人類を愛せない悔しい立場にある神様は、内面的にまさにそのような条件に囚われていたのです。

もしも、神様が天の世界を代わりに誇示できる資格を備えた私の子供であると、神様自身が仰ることができる存在が現れるなら、ただ現れるだけでも、その時には悪魔は訴えることができません。その時には悪魔は訴えることができないと言う事です。

     61

イエス・キリストが「私は神様の子です」という意識を持っていたように、今、イエス様と聖霊の労苦を受け継いで、6千年の歴史の終わりの時代に、天宙全体に向けて、神様とイエス・キリストの望む志がこれです。私は歴史を代わりにする神様の子です。私だけが神様の子であると言える聖徒たち、このような観念を求めて進んでいく聖徒たちが、この国、韓国に多数いるのならば、そのような聖徒たちが世界のどの国よりも韓国を中心の国にするでしょう。

今や私達は神様の子としての意識を完成させ、勝利の日をお父様の前に披露し、悪魔の前で自慢できる存在、天がこのような存在を求めておられることを知らなければなりません。

現在までに6千年の歴史が経過してきましたが、神様は肉と血が完成された唯一の存在を悪魔の前に立たせ、「あなたがこれまで反対してきた人々の中で永遠に反対できない私の真の子を立てる。真の娘を立てる。あなたはこれに屈服しなければなりません。」と、それを言う存在がいなかったと言う事です。

天はこのような人を探しています。この使命を果たすために再臨主が来られると言う事です。このようなことを言う人は狂っていると言われるでしょう。考えるべきことは考えないで… しかし、これは事実です。皆さんはこれを知る必要があります。

6千年の歴史が経過した今日、私達は6千年の歴史的使命を決定し、判定することができる神様の権限を持ち、神様の代わりに審判する権限を持ち、鉄の杖を持ち、主が審判される時、主を受け止めることのできる人とならなければなりません。

     62

イエス様は自らが神様の子であることを知りました。その後、イエス様は神様の御志のために戦ったのです。「私は神様の子である。今まで気づかなかった、誰も主張しなかった神様の子である。」という自覚を持っていたのです。

「神様の子となった私は、神様の仕事を代わりに担うと自覚し、自信を持って立ち上がることができました。」と、今日までの歴史の中で数多くの先駆者がいましたが、その様に神様の子として神様の仕事をすべて引き受けようと語る人は一人もいませんでした。イエス様以外にはいなかったのです。それゆえにイエス様が救い主となったのです。

今日、終わりの時代にあたって私達は6千年の歴史を導いて来られたお父様の前に、「6千年の歴史を代わりに成し遂げる父の子である、娘である」として立ち上がることが必要でしょう。イエス様をご覧ください。お父様の仕事をする際には、失敗しても、死んでも諦めませんでした。

失敗しても、死んでも気にせず進まなければなりません。条件はありません、条件はありません。イエス様をご覧ください。悪魔を屈服させる道であれば、体はどうであれその道を進みました。これが神様の子となること、神様の仕事を担うことができる忠誠の精神だと言う事です。悪魔を屈服させる道があるなら、死も気にせず進んでいかれたのがイエス様でした。

この終わりの時代において、神様の仕事を担ったイエス・キリストが遺した遺産を私達が受け継いだと言うならば、私達は死んでも生きていても、悪魔を屈服させる道であれば、体が切り裂かれようとも気にしません。悪魔を屈服させる道を知り、その道に一気に進むことができる聖なる一団が現れたなら、この世界は神様の世界になり得るでしょう。

     63

神様の子として神様の仕事を担った後でようやく、神様の愛を受け入れることができます。神様の愛は戦いをして手に入れるものではありません。皆さんはこれを知る必要があります。

神様は平和と愛の楽園を創るために万物を創造されました。楽しみの中で万物と関係を持つために万物を創造され、楽しみの中で人間と関係を持つために人間を創造されました。人間が争い、悪魔が争う天地になることを望んで創られたわけではありません。それは天理法度の原則に反することです。そのため、人間を愛で引き上げるために、その愛の役割を神様が代わりにしているのです。そのため、人間はイエス様と神様を通じて天を目指し進むことができました。

「聖なる神よ!イエスよ!神よ!私に恵みを授けてください。」と言って祈り続けるだけでは恵みが奪われると言う事です。終わりの時代には神様の恵みが降りてくる時ですから、イエス様が再臨するのです。

今日の道の世界では登る道を開拓し、永遠に登る道を探し求める人々だけがいます。しかし、登ることだけを知っていてもいけません。その時期を通じて上りながら、再びその恵みを見つけて降りて来て成し遂げることができる人とならなければなりません。

今、私達は天の賜物を求め、神様の子であるイエス様を中心にして神様の使命を代行しようとしています。しかし、イエス様と聖霊に対して悪魔が戦っていたことは何かを理解しなければなりません。その悪魔を屈服させる手段を知らなければなりません。

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そして私達が特に越えなければならない頂きとは何かというと、神様とイエス様と聖霊に対抗して戦っていた悪魔を屈服させることです。そのためには、悪魔が戦っていた盾が何か、悪魔がどのように条件を立てて侵入してきたのかを理解しなければなりません。それを知ることで悪魔を自然に屈服させることができると言う事です。そして、それによって神様はあなたがたに対して「私の永遠の子である」と言えるでしょう。

では、悪魔はどのような存在なのでしょうか? 悪魔はどのような姿をしているのでしょうか? ここにも悪魔に似た人々が多いようですが…

私達の前には、私達が生きて進むことができなければ、死んで進むべき天宙的な運命の道があります。何億千万年かかっても私の魂が死なない限り、その魂によって進むべき道があります。永遠の命の境遇で生きてこの道を通り抜けなければ死んで進まなければなりません。過去の先駆者達も永遠の生を求めて一時的な問題を考えずにその道を進みました。

イエス・キリストも悪魔と戦うために荒野に立った時、一日断食するだけでは叶わないと思い、二日断食し、十日断食し、二十日断食し、四十日断食したのです。皆さんは一度撃たれた銃弾のような運命、爆弾のような運命、戻れない運命に置かれています。イエス様もこれを自覚し、その道から引き返すことはできなかったのです。統一教会に入られた皆さんも、戻れない道に入られたのです。これを心に留めてください。

イエス様も死の壁が立ちはだかるときには惨めでした。全ての民が背を向け、全ての人々が背を向け、イエス様を追っていた使徒達さえも背を向け、すべての人が背を向ける中で、哀れと言えばそれ以上の哀れはあり得なかったでしょう。しかし他の人々は引き返すことができるが、死の道からも引き返すことのできないイエス様の立場を皆さんは理解しなければなりません。

     65

今日、皆さんがイエス様を信じて天の意志を受け入れて進むことにおいても、このような決意を持ち、教会を導き、民族を導き、世界のために訴えるならば、神様の子女でないわけにはいかないでしょう。そのような覚悟で皆さんは神様の意志を代行し、神様の仕事をしなければなりません。

イエス様は霊界に行かれたからといって、休んでおられるわけではありません。霊界に行かれても、十字架の苦しみ以上の困難があろうと、私達を探すために、この地を探すために悪魔と戦っているのです。このような天宙的な試練と戦いが行われているとき、皆さんは「悪魔よ、来るなら来い、去りたければ行け。私は変わらず行く。」という気迫を持ち、試練を恐れることなく進まなければなりません。そのような人が神様の民であり、神様の子女なのです。

今、私達は神様の子女としてお父様を中心に家庭を築き、民族を築き、お父様が愛することのできる国家と世界を築き、さらには神様の前にふさわしい地上天国まで築かなければなりません。これこそが神様の永遠の御心であると言う事です。

このような歴史的なすべての事実を皆さんが知り、前後左右に悪魔が中傷できないように防御して、悪魔の侵入を撃退し、そして更には悪魔を屈服させることができる皆さんにならなければなりません。

創造の概念から見れば、ようやく実体を持ち、神様の愛を受けた子女となり、人間の前に支配される存在を堂々と主管できる人はどこにいるのでしょうか?そのような人になるまでは天国に行くことはできないと言う事です。それゆえ、まだ天国に行った人はいないと言う事です。楽園とは中間段階の霊的領域です。

     66

このような天宙的な運命の壁を乗り越えるためには、攻撃してくる悪魔を完全に撃退できなければなりません。そのような人にならない限り、神様の労苦は皆さんを通じて達成されないと言う事です。それゆえ、神様は今日までに悪魔を完全に撃退できる人、労苦の心情を理解してくれる真の子女を求めておられるのです。

もし人類が神様のこの一つの苦労を永遠に理解しないのなら、この地上での天国は実現できないと言う事です。霊的な領域でも天国は実現できないと言う事です。

もし皆さんが、お父様の前に進みたい願いがあるというのであれば、 自分だけで「何億もの悪魔よ、私のところへ来い。私が進む道を24億人の人間が反対しようとも、天地が反対しようとも私は進むであろう。」と言う事ができなければなりません。皆さんはこのような覚悟の下で、お父様の前に誓いを立てて進んでいかなければなりません。

自分の家族に苦しみがあろうと、民族に苦しみがあろうと、国家に苦しみがあろうと、全ての人類に苦しみがあろうと、何十億もの人々が統一教会を壊そうとしても、私はそこで崩れることができないという覚悟を持って進まなければなりません。行くか、行かないかを迷ってはいけません。進む道があり、行かざるを得ない立場にいる私達であることを皆さんは心に留めておかなければなりません。

今、悪魔と戦うために立ち上がったと言う皆さんは悪魔を打ち倒し4千年の歴史を代表して第2の勝利のアベルとして立てられたイエス・キリストが持っていた誓いと覚悟で神様の仕事を担い、戦うという責任感を皆さんは見習わなければなりません。イエス様がそのような覚悟と誓い、そのような責任感を持って戦ったからこそ、悪魔を屈服させることができたのです。

     67

今や肉体を持ち、実体を持った私達が悪魔を屈服させなければなりません。この地上にそのような山のような存在が現れることで、やっと6千年にわたる神様の労苦の心情も、イエス・キリストの労苦の心情も解放できるのです。

そして神様が主管される天も私達のものであり、神様が主管できる地も私達のものとなるのです。これは神様の創造目的なのです。皆さんはこのような神様の創造目的を達成するために地上で責任を持ち、戦って勝利する人だけが天国を所有できると言う事を知らなければなりません。


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御言葉選集1(16、17)

2023年07月22日 12時44分47秒 | 学習
文鮮明先生の言葉選集 1 - 16. 「世界の罪を背負って行かれた神の小羊を見よ」(1956年11月25日)
1956年11月25日(日曜日)、前本部教会。
聖書拝読 マタイによる福音書5:43-48、ヨハネによる福音書1:19-34


<祈祷(Ⅰ)>
 生命の復活を約束されたお父様、愛の恵みを許されたお父様、永遠の命を与えられたお父様! この日、遠くにおいでにならず、私達の心においでになり、私達の身体においでになり、私達の周りにおいでになるお父様! 私達はお父様の愛を崇拝する心を持っており、お父様の愛に浸りたい心を持っており、お父様の栄光を歌いたい心を持っております。

この時間、私達を訪ねてくださったお父様、喜ばしい栄光を示してください。そして私達も喜べるように、自己を輝かせて本心本性で動くことができ、万物とも調和できる栄光の雰囲気によって、この時間において各自の身体と心を正すようお願いいたします。

約束のお父様! この時間に臨ませてください。能力のお父様! この時間に現れてください。取るに足らない私達ですが、お父様の命令に従って進む時には、永遠の生命の領域を開拓できる力が湧き上がることを知っております。愛のお父様! この時間にためらわず、まず私達の心を通じて命じてください。私達の身体も通じてお命じください。

創られた本来の姿を再び見つけ出してください。そうしてその美をご覧に入れてお父様が楽しむことができ、天地万物の前に堂々と立ち向かうことができ、誇りに思える息子娘としてこの時間を守ってください、愛するお父様、切望しております。

    1

本日は聖なる日です。万民の生命を責任持たねばならない日ですし、死の権限にある敵の手に捕らわれているすべての生命の心と身体をお父様の前に導かなければならない日です。

この業務を責任持って遂行される方々は、イエス様と聖霊であり、この業務に協力する者達は天にいる無数の聖徒です。ですから、今日、地上にいる私達も団結してその一つの意思のために協力しなければならない残された使命があることを知り、お許し頂きますようお願い申し上げます。

お父様! 残された使命を果たせる力のない立場にいると言うならば、永遠に約束された祝福の意志を私達の心に持つことができるようにお許しください。また、私達を天の裁きの前に立たせてください。

悲しみを引き起こす哀れな子どもにならないように許可してください。お父様の心に幼く、お父様の徳性に幼いので、お父様が築かれた全体の意志を身体と心を通じてお父様がお話しになる前に成し遂げることができ、お父様が要求される前に行動することができ、お父様が望まれる前に実践できるお父様の子ども達となるようにお許しください。

お父様! まずはこの民族を祝福してください。民族を代表する団体を祝福してください。そしてここに集まっているあなたの子ども達を祝福してください。

    2

この御旨を万国の生命ある者達に告げ知らせてください。新たな生命の祝福をお許しください。すべての民にお父様の御意を悟らせ、民の生命の基盤を高めてください。その上で平和を齎すことができるようにお許しください、お父様! 切にお願い申し上げます。

ここにひれ伏した子ども達が、新しい心でお父様の愛と祝福を受けることができるようにお許しください。彼らの身体がお父様の祝福された栄光の美しさと、愛の美しさを備えることができるようにお許しください。

お父様の前にふさわしくないために悲しみを引き起こすことのある罪の苦い根を持つ子ども達がいるでしょうか? お父様、この時間に臨み、現れてください。そして直接的な御手で再創造の歴史を成し遂げてください。お父様、切にお願い申しあげます。

この一時、集まった子ども達の上に、お父様の豊かな恵みを示してください。地方に散らばって孤独な祭壇を築いている子ども達に、あなたの言葉を証明する同じ恵みとして、この時間において働いてください。私のお父様、切に願い、お望み致します。

個々の心の主となってください。個々の身体の真の主となってください。私達の身体を聖別し整えてください。許された恵みをこの時間に私達の身体と心に十分に満たしてくださり、全体の上に臨んでください。切に願い、お望み致します。
すべての御言葉を愛する主の御名においてお祈り致します。アーメン。

    3


<祈り(Ⅱ)>
  私達を集めて纏めるために努力されたお父様、私達は今日、この一つの聖殿を中心に集まりました。恵まれた私達の心と身体が一つになり、お父様の命令を代わりに果たせるようにお許しください。ひれ伏した私達の身体が神聖な聖殿とならなければなりません。

長い間ため息をつきながら探し求めてきた希望の姿が私達であることを悟ると、お父様は本当に哀れな立場におられることを知るようになります。これまでの摂理の歴史を通じて様ざまな試練を受けられたお父様の事情も理解する事ができます。

様々な試練を受けられたお父様であり、様々な苦難を経験されながらも希望の子ども達をお望みになり、真実に現われたお父様であることを思うと、私達は非常に微々たる存在であることを悟るのです。しかし、その御心に向かって謙虚な心を持って出てきました。お父様の意志を果たすために忠実な節操を持って出てきました。

そのような経緯から、昨日も今日も明日も戦いの任務を持って歩んでいかなければならない立場にある私達です。私達が進む道はただお父様の栄光のためだけの道であることを、お父様がご存知であることを信じておりますので、この時間においでいただきますようお願い致します。天を中心にして私達を導いてください。

信じがたいこの地上で、お父様だけを信じ、頼る場所のないこの地上で、お父様の命令を頼りここまで来ました。お父様、今日の摂理を心配せずにはいられませんし、明日の摂理を心配せずにはいられません。今日の感謝が永遠の感謝となり、今日お父様を呼ぶ声が永遠にお父様を呼ぶ声となるようにお許しください。また、万物と共に栄光の歌を歌うことができるまで、お父様ご自身が直接的に保護し、見守ってください。愛するお父様、切に願い、お望み致します。

    4

お父様、時期が遠くない中で、天からの促(うなが)しを受けているお父様の子ども達、時期が切迫し、急がれるあなたの心情も悲しいですが、闇と不信の世界で立ち上がり、新しい使命を開拓しなければならない新しい時代のお父様の子ども達も哀れでございます。

お父様! この時間、ご心配の心を解かれてください。天のご心配が非常に大きいことを知り、私達がそのご心配を代わりに背負い、残された復帰の意志のために戦い力を尽くすことを願っています。お父様! 私達をご覧いただき、慰められる様にしてください。民族の悲しみや団体の悲しみを私達を通じて癒される様にしてください。

お父様、喜びを感じる一筋の生命の光に向かって進むことができるように、あちこちに散らばっているあなたの子ども達を早く一つの場所に集めてください。勝利の祭壇と栄光の祭壇、そして正義の祭壇を築くことをお許しください。民族を通じて、この世界の人類を通じて、お父様の一つの意志を成し遂げることをお許しください。愛するお父様、切に願いお望み致します。

この場に出てきた子ども達の中に、まだまさに悪魔の中傷条件に引っかかったり、恨みの心を抱いている子ども達がいるでしょうか? お父様、そのような子ども達がいないようにお許しください。もしその様な彼らがいるのであれば、この時間、力の歴史として、彼らの心に悔い改めの感動的な恵み、復活の恵みをこの時間にお許しください。お父様! 切に願い、望んでおります。

残された時間をお託し致しますので、悲しみを除いて栄光の中で私達を導いてください。あなたが直接主導できるし、誇れる喜びの恵みだけが私達の頭上と心と身体に満たされるようにお許しください。切に願い、お望み致します。すべてを託しまして、主の御名において祈りました。アーメン。

    5

<祈り(Ⅲ)>
 お父様、御言葉によって、まだ万民の前に頭を垂れるべき姿勢が残っていることを知るようになりました。今日の私達は、お父様の完全性の前に私達自身の不完全さを克服するための闘いをしなければならない立場にあり、不変の真理の原則を超えなければならない運命が残っています。

今こそ、万宇宙の前で私達自身を示す時です。完全なるお父様の御姿に似て、万物を主管しなければならない歴史的な運命が、私達一人ひとりに残っていることを思い知るとき、今の私は、永遠なるお父様の嘆きを代わり持つべき私であり、永遠なるお父様の愛を証明しなければならない私です。更に今の私はお父様の御言葉をこの暗い世界に伝えて復帰の使命を果たさなければならない私です。

しかし、今日まで信じて歩んできた私達の信仰生活は、お父様の前に示すことのできない生活でしたので、この時間、自ら悔い改めることができ、自ら目覚めることができるようにお許しください。

今、私達が持っているすべての概念や主張や自己の意志を、尊厳なるお父様の御心の前に捧げ、自己存在を完全になくし、永遠なる存在である本性の私を取り戻し、完全なるお父様の御姿に似て、お父様の栄光に浸ることができる私を取り戻すための闘いが残っておりますので、今日この闘いの場で退く者にならないようにお許しください。

日々の生活を通じて、そして生涯を通じてお父様の喜びの栄光となりうるし、お父様の御心にふさわしい美しい子ども達となれるようにお許しください。お父様、切に願いお望み致しております。

    6

今は復帰の時期を反映する時であり、昔のイエス・キリストの時と同じく、歴史的な審判の基準を超えなければならない時です。ユダヤ教の前に新たな意味を示しながら、ヨルダン川での証しの歴史、バプテスマを与えたバプテスマのヨハネの歴史が世界的に起こっている時、バプテスマのヨハネの使命が後の私達の使命として残っていることを知りました。

今私達が持っている一人ひとりが天倫の安息の場を備え、バプテスマのヨハネの証しの中でイエス・キリストが罪と悪魔の侵略を受けずにお父様の前で栄光を讃えることができるべきその一つの善なる地、私達が手を取り合い、心を合わせて歌うことができる安息の地を築かなければなりません。

このような責任のために、今日私達を召されましたし、このような仕事のために今日私達を選んでいただいたので、選ばれた意志の前に悲しみと憂いを残す子ども達にならないようにお許しください。

バプテスマのヨハネの失敗によって天宙の怨恨が歴史に横たわっていることを知りながら、私達は今、天の召しを受け、天の選びを受けました。今日私達がお父様の御座の前に立って万宇宙の全体的な摂理の意志を完成させるための摂理の足場を築くことができるようにお許しください。

従って、喜びの園で栄光の楽しみを歌い、宇宙全体に向かってホザナの勝利の栄光を歌い、おいでになる主の前で栄光を讃えることができる御子となるようにお許しください。切に願い、望んでおります。

    7

歴史の悲しみを解消するためにおいでになったイエス・キリストを、この日、許された日を記念して思い起こすことができるようにお許しください。イエス・キリストの進まれた道がイエス様だけの道でなく、終わりの時に私達が進むべき見本の場所であることに気づくとき、私達の心が重くなり、身体が心に従属することを感じずにはいられませんので、皇公(こうこう)なる尊い御心の前に、自ら身を捧げ、この御心を受け入れるためのお父様の忠臣となれるようにお許しください。お父様に対する誠実な忠臣となれるようにお許しください。
お父様、切に願いお望み致します。

すべてを委ねますので、伝える者の心や受ける者の心が一つになるように許してください。この時も、疑いを抱く者の心を通じて悪魔が働くことを恐れるので、まずはその疑いを拭い去るようにお許しください。

自分自身も知らないうちに、もしかすると悪魔の力が作用して、御父様のご指図に心が動かず、聖霊の恩寵に満たされず、自ら闇の中に引きずり込まれる者がいるとすれば、慈悲の恩寵として悔い改めることができるようにお許しください。

そうして、お父様の愛に触れ、永遠のいのちの理想に浸るようにお許しください。この一時、御言葉と共にお父様のいのちの歴史、御言葉と共にお父様の愛の歴史、御言葉と共にお父様の権能の歴史が現れるようにお許しください。切にお願いいたします。
すべての御言葉を主の御名によってお祈り致しました。アーメン。

    8


<御言葉>
 堕落以降、イエス・キリストがおいでになるまでの4千年の歴史は、善の歴史ではなく、罪悪の歴史でした。数多くの預言者がこの地上に現れ、4千年間にわたって摂理の意志に従い罪と戦ってきましたが、残った罪を完全に清算することはできませんでした。それゆえに罪と戦いながら失敗し、また失敗して4千年まで摂理は延長されてきたのです。

神の摂理の目的は、この罪を完全に清算することです。従って、この罪が完全に清算される日まで戦いの歴史は止めることができず、帰還の歴史も止めることができません。そして神は愛する子ども達を摂理の使者として送り出すことができないのです。

それゆえに神は、御心を成し遂げるために堕落したアダムの家族の代わりにノアの家族を立てられました。しかしノアの家族も再び失敗したために、アブラハム、イサク、ヤコブを立てられ、そして民族の代わりとなるモーセを立てられました。その後、サウル王、ダビデ王、ソロモン王を経て、4代預言者と12使徒を経由してバプテスマのヨハネまで至りました。

今、天の前に人間として果たすべき使命が残っていますが、その使命は何でしょうか? 人間は堕落の原因となった罪の根を植え付けてきたので、人間によって罪の根となる悪魔を従わせ、神様の前に立って栄光を帰すことです。このような人々を見つけて立てるために、神様は4千年間の歴史を経て現れました。

では、洗礼ヨハネがこの地上に現れて果たすべき使命は何だったのでしょうか? イエス・キリストを証しし人々を導くことでした。

    9

イエス・キリストは堕落していない完成されたアダムの立場に立たされていたため、生まれながらにして天の前に栄光を帰すことのできる方でした。そして彼自身によって神が喜ぶことのできる方でした。神は全人類の前で自慢し、悪魔の前で自慢するためにイエス・キリストを送られたのです。

ですから、イエス・キリストは生まれながらにして苦難の道を歩むべきではありませんでした。生まれながらにして人間を代表して神に喜びを帰し、栄光の仲介者となるべき方であり、愛の仲介者となるべき方であり、善の仲介者となるべき方でした。しかし、このようなイエス・キリストをこの地上の人々が受け入れる事はありませんでした。

そのため、罪とは無関係で、ただ善と喜びだけが彼の生活に満ちるべきであるにもかかわらず、洗礼ヨハネがイエス様の前に責任を果たせなかったため、悪魔がイエス様に侵入したということを皆さんは原理を通じてよく知っています。

では、終末に立たされた今日、私達にはどんな使命が残っているのでしょうか? 洗礼ヨハネの使命を果たすべき使命が残っているということです。つまり、4千年の歴史に代わって来られたイエス・キリストの前に勝利の栄光の子として、イエス様と共に喜びを分かち合える善の人とならなければなりません。これが私達の使命であり、皆さんはこれを忘れてはなりません。

神様の憂いは、イエス・キリストを悪魔が引き連れて試みたことにありました。そしてイエス様が来られた後の2千年間、悪魔と闘うことになったのは、当時のユダヤ人が不信心だったからであり、また新たな証しの使命を持って来られた洗礼ヨハネがミスを犯したからであったことを皆さんは知っているでしょう。

    10

今、終末の時期が再び目前に迫っている中で、皆さんは罪と闘わなければなりません。そして皆さんは、4千年にわたり神様と対立して戦ってきた悪魔に立ち向かって戦わなければなりません。私達は6千年の間、洗礼ヨハネの使命を代わりに果たし、悪魔を従わせなければなりません。そして、我々自身から悪魔の痕跡を無くさなければなりません。そのような責任が皆さんに残されているのです。その責任を果たさない限り、再臨する主は皆さんに接することはできません。

もともと神様の創造理念の園は、悪魔の痕跡のない園でした。ですから、神様の創造理念をこの地上で実現するためには、私達は悪魔を従わせ、堕落しない完全なアダムのレベルに上らなければなりません。ですから、神様の栄光に代わり、悪魔の前で誇ることのできる姿にならない限り、イエス・キリストが悪魔の前で試されたその恨みを解放することはできません。

人間が堕落したため、悪魔は人間を虐待し、全地を支配しています。これを変えるためには、復帰の原則に従う必要があります。人間が悪魔に虐待されたため、イエス様が助けてくださらなくても、聖霊が助けてくださらなくても、神様が助けてくださらなくても、人間自身の力で悪魔を従わせることができなければなりません。人間が悪魔が提示する罪の条件を克服できるようにならなければなりません。そうすれば、勝利の子となることができます。

宇宙的な悪魔と一人で闘って勝利できる子とならない限り、皆さんとイエス様との関係はなくなってしまいます。

このような道は本来私達には辿るべき道ではありませんが、生きて行けないと言われても、死んででも進まなければならない運命の道です。

    11

イエス・キリストは、自分自身が達成すべき意志で生きて達成できなくなったため、死んでもその意志を達成するために2千年の歴史が経過した今日まで、自らの実体を代わることのできる栄光の息子娘を待ち望んでおられます。

これを考えると、6千年の歴史は栄光の歴史ではなかったことがわかります。神様の前での栄光の歴史ではなかったのです。また、今もなおイエス様と聖霊が悪魔と戦っている限り、イエス様と聖霊の意志に従う息子娘達が悪魔の試練にさらされている限り、神様の創造本来の理念がこの地上で実現したとは言えません。

そのため、地上で起こった怨みは神様の怨みとして残り、地上の怨みを解消するための新たな歴史は、神様の十字架、イエス・キリストの十字架、聖霊の十字架、そして今日信じる人々の十字架として残されました。

これまで私達は聖霊の保護と命令を受け、イエス様の保護と命令を受け、神様の保護と命令を受けて生きてきました。しかし、今後の私達はむしろ聖霊を慰めるための存在であり、イエス様を慰めるための存在であり、神様を慰めるための存在とならなければなりません。

聖霊の意志、イエス様の意志、そして神様の意志は、個人に対する意志ではありません。この意志は個人を通じて、世界を通じて、天地まで広がる意志です。このような意志を代わりにして宇宙的な天の心情を慰めることのできる宇宙的な息子娘には誰がなるのでしょうか? 天はこのような息子娘を見つけるために、秩序を整えて現れたのです。皆さんはそれを知る必要があります。

    12

私達はこのように歴史に結びついた罪の負債を清算するために、今日も戦い続けなければなりません。生涯を捧げてでも超えなければならない、つまり全力を尽くし、命を捧げてでも超えなければならないその罪の頂上へ向かって、皆さんは新たな覚悟を持って立たなければなりません。

イエス様はユダヤ教の律法主義者や多くのユダヤ人達が反対しても、その中心は変わらずに天を証しし、新たな洗礼を与えられたのと同様に、今日の私達もそうでなければなりません。ここで私達は最終段階で教派を超えなければなりません。そして教派を超えると同時に、世界人類のあらゆる思想を超越し、孤独でも悪魔と戦える存在とならなければなりません。

そうして皆さんがすべての悪魔達との戦いで勝利するならば、天の栄光は皆さんとともにあり、また天の喜びも皆さんと共有できるでしょう。

今日のこの時点でも、皆さんの前には罪の重荷があります。その重荷はどのような罪の重荷でしょうか? 4千年の間に神様を愛し、予言者達が犠牲になった罪、イエス・キリストを十字架に掛けた罪の重荷です。したがって、皆さんがその罪を清算できないならば、皆さんは罪のない善の天国とは関係がなくなります。その罪の重荷を取り除けなければ、天国に入ることはできません。これを皆さんは知らなければなりません。

今日、皆さんが神様の意志に従って宇宙的なセヨンの立場を代わりにして立つのであれば、宇宙的な罪を知ることができるようにならなければなりません。そして、神様の怒り、イエス・キリストの怒り、そして聖霊の怒りを一人で背負い、罪によって苦労されてきたイエス・キリストと聖霊、そして神様を皆さんが慰めなければなりません。そして、安息の日まで導くことができるその姿が皆さんの中に現れなければ、この地上に主が再び来られても何の意味もありません。

    13

私達は終わりの時代に、セヨンの立場を代わりにして罪と戦わなければなりません。6千年の歴史を代わりにして、宇宙的なセヨンの使命を果たさなければなりません。さらに、それに加えてイエス・キリストの戦いの苦労を体験しなければなりません。

イエス・キリストが来られた後に残ったものは、十字架の道です。バプテスマの道を通して、十字架の死の道を経て、永遠の勝利の基準を築こうとしましたが、霊的な面でしか築けませんでした。

今日、私達には肉体と霊を結びつけて、洗礼の道理を代わりにし、天宙的な、天倫的な使命を果たさなければなりません。皆さんはこの地上においてイエス・キリストが人間から受け得なかった栄光を思いやり、その栄光を解放しなければなりません。このような使命が人間にあったため、イエスと聖霊は2千年にわたって人間に対して歴史を作りました。しかし、今日の信徒達はこの事実を知らず、イエスと聖霊をただ人間のための僕として信じてきました。

では、悪魔の正体は誰でしょうか? 天使長です。エデンの園で万物を支配するはずの人間の支配権が天使長に奪われ、行使できなくなったことが堕落です。そのため、私達が復帰の過程において、悪魔まで主管するという立場を経験しなければなりません。

では、そのような道を進むために私達はどうすればいいのでしょうか? セヨンが示した生涯、イエス・キリストの生涯を見習い、彼らと同じ道を歩むことを学ばなければなりません。

    14

それでは、イエス・キリストがこの罪の壁を崩すためにどのような道を進まれたのでしょうか? 終わりの時代にある今日、皆さんは自分達の人生の道程でイエス・キリストが進まれたその道を再び辿らなければなりません。

イエス・キリストが悪魔と戦ったとき、天宙的な罪を引き抜くためにその罪を攻撃する立場に立ちませんでした。イエス・キリストは罪を消し去るために、罪に対して攻撃する立場に立たなかったのです。罪を無くすために、罪を屈服させるために、その罪を自ら背負う立場に立ったのです。これがイエス・キリストの精神であることを皆さんは知るべきです。

罪は悪であり、悪いものです。私達が持っている創造の本性に反対する作用をするものが罪です。イエス様はこの罪を清算するためにその罪を背負ったのです。そして、イエス様が罪を背負ったということは、個人から家庭、社会、国家、世界、人類、天界にいる霊的存在の罪まで背負ったということです。創世以降の4千年の歴史において、数多くの霊的存在の罪を背負ったイエス・キリストであったことを皆さんは知るべきです。

さらには地獄にいる霊的存在の罪まで背負わなければなりませんでした。なぜなら、イエス様は完全なアダムの立場でおいでになったからです。アダムの堕落によってその怨恨は天界まで巻き込まれたため、イエス様は堕落によって生じたすべてのものを引き出し、埋める必要があったのです。

したがって、イエス・キリストの生活は、悪魔の世界の生活とは正反対でした。悪魔の世界の要素と本質には希望がないことを知っていましたが、それに対抗して柔和さと謙遜の道理を教えました。したがって、キリスト教の真理は世界から離れる真理でした。キリスト教の真理は、世界に対して抵抗することで特徴付けられています。

    15

イエス・キリストは未来の罪と直面せずに後ろを振り返り、それを引き受けるべき理の事情があったため、困難な人生を送られました。イエス・キリストは天宙的なすべての罪を引き受け、勝利の時まで十字架の苦しみを受けたかわいそうな存在でした。今でも彼は霊界におられますが、休むことができません。地上の誰かがそのすべての罪を引き受けることを望んでおられるのです。

私達が人間の罪を引き受けるためにおいでになったイエス・キリストの一生を考えると、この地上においでになって帰られるまでの30年以上の生涯で、人々が経験するすべての困難な状況をお受けになったことがわかります。かわいそうな人々の罪を背負うためにかわいそうな立場に身を置かれ、飢えた人々の罪を背負うために飢える立場に身を置かれ、孤独な人々の罪を背負うために孤独な立場に身を置かれたのです。

そのため、イエス様は個人の罪を引き受けられる立場に立った後、家庭的な罪を背負おうとしました。そのために家庭の前に現れましたが、その家庭はイエス様に反対しました。自分の愛する両親さえも反対し、兄弟達まで反対しました。

さらにイエス様はユダヤ教の指導者達からも疎外されました。それは家庭的な罪を背負うと同時に、教派的な罪を背負わなければならなかったからです。また、ピラトやヘロデ王さえもイエス様を拒絶しました。彼らはイエス様の意志が彼らの望みと異なるためにイエス様を十字架につけました。しかし、イエス様は帰られるその日まで、そのような敵対者達を恨まず、むしろ彼らのために祝福を願いました。このようなイエス様の姿を今日の皆さんは心に深く刻まなければなりません。

イエス様は馬小屋で生まれました。イエス様は最も卑しい状態から始まり、神の子としての最高の地位に至るまで進みました。イエス様はこの地上の人々のために来られ、この地上で神を信じる人々のために来られたのです。

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しかし、イエス様の友人といえる人は誰でしょうか? ゲツセマネの園で祈る時、愛する三人の弟子さえも眠ってしまいました。十字架の山上に向かって進む時、心と心を合わせなければならない立場にありながら、三人の弟子はそのような事情とは無関係な立場を取っていました。

イエス様は天宙のすべての罪を負担する使命を自覚し、鞭打たれても感謝し、非難や嘲笑を受けても感謝したのです。

皆さんは、イエス様が罪を清算するためにその罪を打ち砕いて排除しようとはせず、悪魔に関連するすべての天宙的な罪を自分が引き受けようとされたことを知らなければなりません。しかし、まだ罪が完全に清算されていないため、イエス・キリストはその罪を清算する歴史を進めているということです。

このようなイエス様を救い主として崇拝している皆さんに言えることは、皆さんは自分達が救い主の前でどの程度罪を背負ってきたのか、どの程度罪を負うことを試みたのかを考えなければなりません。そして、イエス様が生きた環境と同じような状況に身を置くことができるようにならなければなりません。

皆さんが今、個人的な罪と家族の罪を背負わなければならない世紀末的な運命にあると言うならば、いつかは個人的に迫害される時が来るでしょう。また、家族的に迫害される時が来るでしょう。イエス様が個人的な反対や家庭的な反対、教団的な反対を受けたように、終わりの時にある今日のキリスト教徒達も同様の反対を受けることになるでしょう。社会的に反対され、国家的に反対され、世界的に反対されるひとつの宗教が現れるでしょう。

    17

そして、人間の罪を清算するためのイエス・キリストの戦いがまだ完全に終わっていないのに、イエス・キリストに代わって地上で天宙的なすべての罪悪を背負うため、個人から家族、社会、国家、世界、さらには霊界の霊的な存在からも非難を受ける信仰者が現れるでしょう。また、彼は父なる神、聖なる者、聖霊からも非難を受けることになるでしょう。これは一つの難局に向かって歴史が進んでいるということです。これを皆さんが理解しなければなりません。

旧約を信じて出てきた人々がイエス様の前で敵となったように、同様に今日、イエス様を信じて出てきた人々が新しい神様の摂理の前で敵の立場に立つことは容易ではないということです。

イエス・キリストが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか?」(マタイ27:46)と言われたのは、最後の審判の場で神様がイエス・キリストを知らないと宣言されたからです。

同様に、今日の皆さんがこれまでのすべての罪の歴史を負う覚悟をし、自分の体をささげようとしても、神様は皆さんを知らないと言うでしょう。しかし、イエス様が十字架上でも変わらなかったように、変わらない信仰を持たなければなりません。皆さんが一つの身体を目的のためにささげたと考えるなら、既に皆さんは死んだ人と思わなければなりません。このような革命的な信仰を示すことが、キリスト教徒の使命であると言えます。

では、今日の皆さんを反対する人はいますか? 彼らに感謝する必要があります。また、皆さんを反対する家庭はありますか? その家庭に感謝しなければなりません。そして、皆さんを反対する教団はありますか? その教団に感謝しなければなりません。国家や世界が反対しても感謝しなければなりません。さらに、霊界や肉体界が反対し、天が皆さんを知らないとしても、永遠に変わらぬ心を持つべきです。不動の信仰を持つべきです。

    18

アダムが堕落させた悪魔が反対し、イエス様や聖霊、神さえも知らないとしても、変わらぬ信仰を持つ信徒が現れなければならないということです。これが最後に残された使命ですが、現在、24億人の人々、イエス・キリストを信じるクリスチャン達はこれを明確に知らないでいるということです。そして、そのような信仰を持つ個人になったからと言って終わりではないということです。そのような家庭や社会、国家、世界を創り出さなければなりません。皆さんがこのような信仰を持つ聖徒にならなければ、皆さんは神様の意思とは無関係になります。イエス様が皆さんの前に花婿として現れるその道が閉ざされてしまうでしょう。

イエス・キリストの愛は神様の愛を代表したものです。そして神様の愛は天宙のどんな存在に対しても抗(あらが)えない愛です。皆さんはこの神様の愛を受け入れる必要があります。そのためには、この世界のあらゆる罪を自己に帰する覚悟を持ち、悪魔が皆さんを試みようとも、堂々と受け入れ、それを乗り越える勝利の子とならなければなりません。そうしなければ、宇宙の力の中心、存在の中心として歴史の中で活動している神様の愛とは関係がなくなってしまいます。

そのため、イエス・キリストはこの地上の人々のために冤罪を受けながらも、彼らを憂い、涙を流されたように、終わりの時には信じる聖徒の中から多くの人々がそのような境遇に立たなければなりません。そうした聖徒達が増えれば、教派の分裂はあり得なくなるでしょう。そして、殉教しなくても、良心の働き、真理の働き、天の力の働きが大きいため、全天宙がそのような聖徒達に従わずにはいられなくなるということです。

そうした立場に立てば、はじめて勝利の道標を立てることができ、勝利の家族、勝利の祭壇、勝利の世界を築くことができ、勝利を天にまでつなげることができます。そのような責任が皆さんにあることを忘れてはいけません。

そして、今日の皆さん個人を中心に起こる戦い、皆さん個人を中心に行われるすべての出来事は、皆さん個人に限定されたものではありません。したがって、皆さんは注意が必要です。もし皆さん個人が間違えると、それは全体に影響を与えることになります。

    19

今、皆さんは神様の御心に邪魔になる人となってはなりません。全体のために犠牲を払う道を歩まなければなりません。

そして善良な人がいれば、彼らを大切にしなければなりません。悪意のある人がいても、その人以上に心配し、同情することができなければなりません。そのような個人となり、そのような家族や社会、世界を築くために、十字架の苦難さえも背負って前に進まなければなりません。イエス・キリストの心を代わりにし、神様の御心を達成するために真の勝利者とならなければなりません。







『文鮮明先生御言葉選集 1 - 17. 神の摂理と超現実的な冒険性 (1956年 12月 2日)』
1956年12月2日(日曜日)、全本部教会。
聖書拝読 ルカによる福音書22:24-46


<祈祷Ⅰ>
天上に怨恨を抱いた壁を崩すべき使命を負った全人類のために、この日まで努力の歴史を展開してこられたお父様! 今、私達は心から天上の怨恨を崩すべきであることを知りました。そして、その怨恨を地上で解き放つことによって天上との縁が結ばれることを私たちは言葉を通じてよく知っております。

本日、私達をお父様がお呼びになっていることを心に留めさせてください。

今日、生きている私達自身を、お父様の代わりとして立てられ、全人類の前にお父様の子として立てられました。ですから、今、私達の一身からお父様の栄光だけが現れるようにお許しください。私達の行動からお父様の善と義だけが現れるようにお許しください。

    20

こうして私達が集まる場所ごとにお父様の愛を中心にして活動することができ、お父様の前に栄光を捧げる勝利の歌が天地に満ちるようにお許しください。愛するお父様、切望いたします。

天はこの時も私達を忘れず、私達を呼び、私達に対して願われる意志を命じておられますが、本日、私たちはその呼びかけに応えることができる存在となり、お父様の前に活動の供物となる存在となっているか考えると、そのような存在となっていないこと、まだまだ未熟で不完全であり、足りない立場にあることをお許しください。

これから私達は心の扉を開き、改心して聖別の供物となることによって天上に存在する怨恨が私達を通じて解消されることを許してください。また、そのような喜びに満ちた日を迎えることができるあなたの子供達となることをお許しください、お父様、切望いたします。

終わりの最後の困難な壁が私たちの前に立ちはだかっており、生死をかけて戦わなければならない試練が立ちはだかっておりますが、この戦いの試練の中で天上の怨恨を抱いて倒れる愚かで卑しい者とならないようにお許しください。お父様、切望いたします。

私の心はすでに覚悟しており、供物として捧げさせていただこうと思っておりますので、不足なく受け取ってください。捧げられた供物として、すべてをお父様に委ね、お父様の命令を求めることができる子供となることを許してください、愛するお父様、切望いたします。

    21

お父様、この時間は神聖な時間です。お父様、この日は神聖な日です。お父様、この年全体が神聖な年となるようにお許しください。この民族を代表して集まるあなたの子供たち、どこに集まっても祝福してください。天に隠れていた聖霊の炎を燃やし、終わりの時に約束された聖霊の働きを注いでください。水のように注いでください。

お父様、怨恨の壁を崩すことができる子供達が多くなるようにお許しください。そして、集まる場所ごとに隠れた祭壇と同時に現れる祭壇となり、天宙的な闘いで勝利することができるように、お父様、お許しください。また、天からの直接的な命令に応じて天宙的な闘いで勝利し、勝利の烽火をお父様の前に上げることができる私たちとなるようにお許しください、お父様、切望いたします。

お父様、ここに集まったあなたの子供たち、今私達は集まりましたので、それぞれの体と心を主管してください。まだ自己中心的な妄想から抜け出せない子供がいるのであれば、それをすべて捧げさせてください。お父様の前に立つ供物となるように許し、穏やかで謙虚に供物として差し出されるこの時間をお許しください。喜びの賜物を分かち合えるように許し、調和の賜物を分かち合うこの時間をお許しください。私のお父様、切望いたします。


戦いに疲れ傷ついた子供達がいます。お父様、慈悲をもって彼らに勧め、この一時の恩寵が彼らの生涯を導くようにお許しください。生命の試練の基準を失わないように許し、生命を刺激する力と衝動が起こるように許し、深く隠されていたお父様の愛を感じ、お父様の愛に浸ることができるようにお許しください。そして、私達全員が感謝し、地上の数え切れない聖徒達を調和させ、彼らが天の御座の前で感謝を捧げる勝利の祭壇を築くことができるようにお許しください。お父様、切望いたします。

示された御意志、望まれる御意志が取るに足らない私達を通じてでも成し遂げられるようにお許しください。私達はすべてをあなたに委ねましたので、お父様、主管してください。主の御名によってお祈り致しました。アーメン。

    22

<祈祷 Ⅱ>
 天の代わりに立ち上がりましたが、お父様、私達は非常に不足な者達です。何も持っていない私達がお父様の前に残ることを望むならば、この民族のために躊躇わずに立ち上がり、叫ぶことができるようにお許しください。この日、この時まで他人が知らない神様の心に似せるために、自らこの道を辿るために、様々な傷を受けた私達の体と心を、お父様、慈悲深くご覧ください。

我々は知らず知らずのうちに涙を流し、天に怨みを抱いたこともありました。遠くない未来のある日を私たちの前に約束してくださり、摂理の最後の実りを求め導いてくださったのですが、今日、私たちがこれを背負っていくことができるのか心配しています。お父様の前に進んでいく心構えを持つことができないのです。お父様、この日、ここに集まったあなたの息子娘たち全員を導いてくださいますようにお願い致します。

私たちの心と身体に、お父様の喜びの御意が現れるように許してください。お父様の威光と御旨によって、私たちの誤った考えや悪しき心、誤った概念を取り除いてください。こうして私たちによって天命に煩わされてきた恨みが、この時点ですべて解決される感動的な歴史が全体に起こるように、お父様、お許しください。

悔い改めの歴史が私たちの心に起こるようにお許しください。能力の歴史として、私たちの体を治め、悪しき要素は除かれ、善い要素だけが永遠に存在するお父様の前に正しく現れるようにお許しください。こうして私たちは本質と本性によってお父様の徳と導きに応えることができ、お父様の愛の前に順応することができます。こうした美徳そのものをご覧いただき、お父様が楽しまれると同時に、天上の聖徒たちまでがこの時、私たちによって喜び、栄光の賛歌をお父様の前に捧げられるように祝福してください。お父様、切に願い求めます。

    23

お父様の前に進んでいく心構えを持つことができないのです。お父様、この日、ここに集まったあなたの息子娘達全員を導いてくださいませ。

この時間も罪悪の暗い波がそれぞれの心と身体に侵入しようとしていますので、力と能力を許してください。集まった息子と娘達が多いほど、その中にカインとアベル的存在があることを知るようにお許しください。私達がカイン的な立場に立たないようにお許しください。

アベル的な犠牲となり、自ら実体の犠牲としての責任を果たせるようにお許しください。アベルを代わりにしてカイン的な存在達を父の前に服従させることができるようにお許しください。父の能力と権能の歴史がこの時間全体の前に現れるようにお許しください。お父様、切に願い求めます。

お父様! 今日のこの時間、私達に託された使命が、私の一個人の救済と解放のために託されたものではないことをこの時間に心に留めるようにお許しください。今日の私達にこの民族の運命がかかっていることを知るようにお許しください。今日の私達を通じて全世界24億の人々が天地に呼びかけの条件を築くことができるようにお許しください。

お父様、厳かで重大な生死の道に立つ私達が、右手には天を掴み、左手で悪魔を打ち破り、勝利を収め、両手を掲げてホサナの栄光をお父様の前に捧げることができるように、お父様、お力添えをお許しください。この時、集まったすべての息子と娘達をお父様が導いてください。参加した息子と娘達の中で、まだ悪の苦い根を心に抱き、悔い改めたくない者がいないようにお許しください。能力をもって現れ、心に抱えたすべての罪の苦い根を取り除き、爆破させてください。

    24

この時、悪魔のものは悪魔のものとして、天のものは天のものとして区別され、喜びの犠牲としてお父様の前に捧げられるこのひと時をお許しください。お父様、切に願い求めます。

この時、孤独なあなたの息子と娘達、新しい福音の言葉を持ち、各地に散らばっているあなたの息子と娘達、一人でひざまずき、天の前に犠牲の道を代わりに進むのが難しいと知っているので、お父様、共になしてくださいませ。

時ならぬ時の意を受けるあなたの孤独な息子娘達、悪魔との戦いで疲れ果てないようにお許しください。これまで守ってくださったお父様、この時以降も守ってくださる恵みを願っていることを知っていますので、どこにいてもあなたの御意を代わりに遂行し、あなたの天命に従いつつも自由でいられるようにお許しください。

私達がみな、生命を犠牲にしてでもお父様の恨みの心情を抱き、天の前で感謝と敬意を捧げることができるようにお許しください。私達を父が喜ばれるような、ホサナの栄光を捧げる美しい存在として立たせ、迅速に天の御意を成し遂げられるようにお許しください。愛のお父様、切に願い求めます。

この日、民族を代表してお父様のひざの前に集まった祭壇が多く存在しますので、彼らが意志を誤解して悪の祭壇を築くことがないように、お父様、共になしてくださいませ。一人一人の心を結び合わせ、教派を結び合わせて、世界的な勝利の祭壇として父の前に捧げられるように、天のお父様の感動的な歴史がこの時、この民族を代表して集まった教派に起こるようにお許しください。お父様、切に願い求めます。

    25

この一時、すべてをお任せして、ご主管いただけますように。この一時に喜びの心情だけが運行するようにしてください。喜びの心情だけを示してください。心よりお願いし、主の御名によってお祈り致します。アーメン。


<祈り(Ⅲ)>
 お父様、この御言葉は再創造の御言葉です。お父様がエデンの園で「善」と仰った善の御言葉の実体が地上にないことを嘆かれているのが分かります。

失われた善の御言葉をもう一度見つけなければならない条件が残っている限り、私達は善の実体を見つけることができないことを知っています。

お父様、この聴衆の中に善の御言葉を示してください。見つかった善の御言葉で再命令して、善の実在を成し遂げられるお父様の特別な再創造の歴史が体と心を通じて聴衆の中で起こるようにしてください。お父様、切に願い求めます。

あなたが今、御言葉を語って下さっているので、伝える者も受け取る者も、その心が一つになるようにお許しください。相対的な基準に立って誇ることができる姿になったとき、全体はその中を通して築かれることができる原則を知っています。だからこそ、ここに立っているあなたの息子娘を導いてきて、御言葉の中心を築き、条件の歴史を創り出して、悪魔の力に打ち勝つことができるようにお許しください。私の体と心が悪魔の支配下に捉えられている場合は、御言葉によって分別し、断ち切って、あなたの聖別の息を受け入れることができるようにお許しください。お父様、切に願い求めます。

その時、多くの御言葉は必要ありません。これまで私達は多くの御言葉を聞いて、知ってきましたが、お父様、私の心が重生することができる力が必要だと知っています。力をもって歴史を創り出してください。能力をもって歴史を創り出してください。

    26

悪のすべての概念を除去し、復活できる命の御言葉を示してください。再創造の復活の歴史を創り出してください。お父様、切に願い求めます。

何よりも、思いやりのある心、思いやりのある感覚、思いやりのある概念、思いやりのある悔い改めを通じて、この時、一つの美の完成を望まれるお父様の心を理解できる人となれるようにしてください。一つの犠牲として捧げることができる時間になるようにお許しください。心よりお願いし、すべての御言葉を主の御名によってお祈り致しました。アーメン。


<御言葉>
今日の説教の中には、イエス様が最後の十字架を前にして大胆な覚悟を示された御言葉があります。そのため、本日のメッセージのタイトルは「神の計画と超現実的な冒険」となります。神の計画と超現実的な冒険という題目でしばらくお話しいたします。

現代の私達は天宙的な審判の日を前にして絶え間ない闘争の戦場に立ち向かっています。この戦場は平坦な道ではありません。ですから、皆さんが大胆な中心心情を定めて残された天宙の憎しみの審判を退ける勝利の中心心情を持たない限り、皆さんは歴史の戦場において敗者となり、人生の闘いにおいて敗者となるでしょう。

最後の天宙的な審判は、終末の時代の到来を意味します。多くの宗教や神話で、個人と全世界の存在が自らの行いと選択に対して評価を受ける瞬間が描かれています。この審判は宗教的な観点では霊的に浄化され、救われる時期であり、道徳的な側面では自分の行動と責任を背負う時です。

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自己認識は個人が自分自身を理解し把握する能力を意味します。個人の性格、感情、行動、能力などを認識し理解することを含みます。自己認識は成長と変化に貢献し、自己の成長と発展、達成のための出発点となります。また、自己認識は他者との関係においても重要な役割を果たします。健全で肯定的な自己認識があれば、自分と周囲の人々との関係がより健康的に形成されることができるでしょう。

最後の天宙的な審判と自己認識は相互に関連していることがあります。宗教的な審判の観点では、個人の行動と選択が自己認識と結びついて決定される場合があります。また、自己認識が個人の道徳的な選択と行動に影響を与えることもあります。これらの理由から、多くの宗教や哲学は自己認識を向上させ、自己の人生と省察を追求することの重要性を強調しています。最後の審判に備えて自己認識を通じてより良い生活を追求することが重要と言えるでしょう。

ですから、神様の計画の歴史は冒険的なスタートを切り、冒険的な終わりを予告する計画の歴史であることを皆さんは心に留めておかなければなりません。

現代において、私達が信仰生活を自由に送ることができる環境と様々な条件が整っているのは、皆さん自身が築き上げたものではありません。私達が自由な立場から神様を呼び、自由な立場から信仰生活を送ることができるようになったのは、私達の先祖達が数多くの冒険を乗り越えてきたからです。皆さんはこれを知らなければなりません。そして、皆さんが生活や信仰の中でこれを骨身にしみて感じないのであれば、最後の天宙的な審判の過程を超えることも理解できないでしょう。

その前に、皆さんはなぜ天が今日の自分自身を呼び立てたのかを知る必要がありますし、6千年の歴史的な因縁を乗り越えている自分自身がどのような存在なのか、自己の説明ができるようにする必要があります。

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また、今日の自分自身は天との因縁や悪魔によって妨げられた天宙的な因縁の過程を超えることができる自由の中心を築いているのか、そして未来に残る因縁の審判台を自信を持って超えることができる勝利の中心心情を持っているのか、といった問題を考える必要があります。現代の皆さんの信仰はどの段階にとどまっていますか?

皆さんは歴史的な過程を経て、現実的な過程を経て、未来的な過程を通して全体的な天の計画が完成するまで、天と関係を持ち続ける自己としての過去、現在、未来のさまざまな問題を考える必要があります。

そして、今や天が私を立てて終わりの全体的な使命を委託し、私を立てて勝利の栄光を示そうとしている意図があるとするならば、その意図は6千年の計画の意図を代替した意図であるでしょう。そして天が私を探し求めて立てようとしている目的は、最後の審判の過程を超えることです。つまり、新天新地の新しい基準であるということです。

従って、もしも皆さんが永遠に存続する新天新地の基準と勝利的な自由の環境を備えていなければ、歴史の進行に従って来られた神様の計画の前には勝利者として立つことはできないということです。

今、過去を振り返ってみると、天が現代の私を立てたのは私一人を救うためだけに立てたのではなく、歴史的な因縁を解明するための結実としての存在として立てたのです。皆さんはこれを心に留めて、アダムから結ばれた堕落の因縁を解いていかなければなりません。またノアの冒険的な因縁の心情を解いていかなければなりませんし、ノアの冒険的な生涯を解いていかなければなりません。

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その後、アブラハムからイサク、ヤコブ、そしてモーセなど、歴代の先知先哲が歩んできた冒険的な生涯、彼らが残した遺産を皆さんが受け継ぎ、それを一つの足掛かりとして未来に残る審判台を自信を持って超える堂々たる中心心情を持たねばなりません。そうしなければ、悪魔との歴史的な闘いで敗者となることを皆さんは心に留めておかなければなりません。

ノアは聖書に登場する人物で、彼の物語は創世記に記されています。彼は神様の命に従って大きな箱舟(方舟)を建造し、家族や動物達と共にその中に避難させました。その後、大洪水が起こり、地上の全てが水に覆われたとされています。しかし、ノアと彼の家族、そして箱舟の中の動物達は生き延び、洪水の後に新たな始まりを迎えました。

ノアの物語は、信仰と従順さによって困難を乗り越え、神様の指示に従いながら冒険的な旅をした姿が描かれています。ノアは神様の意思を理解し、周囲から異なる存在として取り囲まれながらも、その信念を貫いていきました。彼の忠実さと決意は、神様が地上を再び新しい始まりへ導くことに貢献しました。

ノアの物語は、信仰、勇気、そして困難を乗り越える力に対する称賛と尊敬を表しています。彼の例は、人々にとって勇気づけられる教訓となっており、冒険と信念の旅路において希望と力を見出すことができるかもしれません。

今、過去の私達の先祖を振り返ってみましょう。まず、ノアの生涯を見ると、平坦な生活ではありませんでした。神様から120年後に世界を水で審判するという命令を受け、アララト山の頂上に箱舟を建てるように言われた時、ノアの心情はいかばかりだったでしょうか? わずか12日でもなく、12年でもなく、120年もの間……アララト山の頂上に箱舟を建てるという御言葉は、その当時の現実とは合致しない御言葉でした。

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神様のそのような命令を受けて実行に移すノアの当時の状況を見ると、まさに狂った人であり、その時代には到底合致し得ない人物でした。神様から莫大な命令を受けたノアは内面的に固い覚悟と決心を持ち、そして1日でもない120年という期間を着実に一日を見据えて生活しました。そのようなノアこそが、1600年の歴史の過程には存在しなかった、1600年の歴史を代わって天の前に立った冒険的な先駆者だったことを皆さんは理解すべきです。

そのようにして決めた心を抱き、神様に従っていただろうか、世の人々に罵られようがどうだろうが、一度下された命令を変えない約束の意志を信じて進んでいくノアにとっては、それらのすべての条件は問題ではありませんでした。既に意志のために出発した基準、生命を覚悟し、生涯を捨てて進んだ彼の足取りの前では、それらのすべては問題ではなかったということです。だから、ノアは120年という長い期間を通じて、繰り返される努力の労苦を無言で歩んだのです。

そのようなノアには家庭的な非難があったことでしょう。社会的な非難も大きかったことでしょう。しかし、人々が知らない道、誰もが行ったことのない道、1600年の歴史過程で誰もが見たことのない道、ただ天の道をたどるために立ち上がったノアの足取りは誰にも阻(はば)まれることはありませんでした。ノアは当時の社会的な状況が邪魔をして、世界中の人々が彼を拒絶しても、それを堂々と打破することができる冒険的な人物であったことを皆さんは心に留めておくべきです。

そうしてノアは自分の前にどんな試練や困難が迫ってきたとしても、それを必ず乗り越えてきました。120年が経った後、アダム家族が失った還(かえ)された一つの家族を見つけ立てたのです。このようなノアの歴史的な立場を皆さんは理解すべきです。

アブラハムも同様でした。神様からカルデアのウルを去れという命令を受けたアブラハムはそれが簡単な問題ではありませんでした。神様が定めた故郷を後にし、家族や近所とすべてを捨ててカルデアのウルを去れと言われた時、アブラハムの心情は非常に迷い混んでいました。人間的に考えるとあり得ないことでした。

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しかし、神様の命令を受けたアブラハムは、これまでのすべての環境を超越しました。家族を超越し、これまで節約してきた生計をすべて捨てて荷物を持って旅立ちました。アブラハムの足取りは当時の現実では考えられないことでした。神様の意志を持って感じる人、神様の意志を持って考える人がいたとしても、誰もがアブラハムの側に立ち、「あなたの行く道は正しいので、どうか私を導いてください。」と言うことはできたでしょうか?

アブラハムは世界が認めようが認めまいが、意志を持った一心の心で永遠にカルデアのウルを去る決心で出発したのです。そして、天が導くままに足を進める際に、どんな冒険が続こうとも、大山を越えるような高峰が立ちふさがろうとも、死の山が立ちはだかろうとも、辛抱してそれらを乗り越えていったのです。

アブラハムの信仰は、非常に特異であると言えます。彼は神様からの命令に従って、自分の生活や環境を超越することを選びました。家族や財産を捨てて旅立ち、神様の導きに従って進んでいったのです。これは現実的な思考では理解し難い行動であり、アブラハム自身も多くの困難に直面したことでしょう。

アブラハムは神様の声に従って絶対的な信仰を持ち、天命に従うことを選びました。彼は自分がどれほど大きな試練に直面しても、神様の約束を信じて進み続けました。神様の意思に従い、約束された地へと向かう旅路は、人間の理性では計り知れない選択でありました。

このようなアブラハムの信仰は、彼の非凡な精神力と決断力、そして神への深い信頼によって支えられていました。彼の信仰は後世にも多くの人々に感銘を与え、模範となる姿として讃えられています。アブラハムのように、我々も時には非現実的に思える選択をすることがあるかもしれませんが、信念と決意を持ち、困難に立ち向かうことで新たな成長と発見が得られるかもしれません。

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神様はアブラハムを偶像崇拝者の父であるテラから選び出し、その地位に立たせられました。このように立てられたアブラハムは、「どんなに愛する両親や友人、兄弟が引き止めても、私の中心心情は変わらない」という固い決意をしました。それだけではありません。アブラハムは神様の祝福を実現するために、百歳で初子のイサクを犠牲として捧げるように命令を受けた時も、その命令に従いました。この命令は歴史上に存在しなかった冒険的な条件となるものでした。それは天国を代表し、天上の出来事や地上の出来事を左右する条件でありましたが、それを知らないままアブラハムはイサクを犠牲として捧げることを試みたのです。

愛する息子を犠牲にしようとするアブラハムの姿を想像してみてください。それは確かに非現実的な意識でした。その当時、誰がアブラハムの信仰を認めることができたでしょうか? アブラハムが示したこの冒険的な行動は、アブラハムとその家族が天国に属する者であり、アブラハム自身も家族も全ての財産も神の命令に従わなければならないことを表していたのです。アブラハムはこの事実を、ただ一人の息子を犠牲にする過程で理解したのです。

だからアブラハムは「この子は私が生んだものですが、あなたのものですから差し出します」という心でイサクを犠牲としようとしたのです。そして現実的な状況を乗り越えたのです。このような歴代の先祖達の信仰の中心を、皆さんは理解しなければなりません。

ヤコブも同じようであり、モーセも同じようでした。神様は彼らを立てる際に平坦な道を歩ませることはありませんでした。ヤコブは生まれた後、エサウから長子の権利を奪う闘いをしなければならず、モーセも幼い頃から戦いの環境にありました。

モーセはイスラエル民族が懐かしい土地の敵国で4百年にわたる苦難を経験していたときに、神様によって選ばれました。彼はファラオの恐ろしい迫害の下で3ヶ月間母親に守られ、その後はファラオの娘に引き取られて宮廷で40年間過ごしました。皆さんはモーセの宮廷での生活が豪華で快適な環境だったと思われるかもしれません。

    33

しかし、モーセは宮廷にいる間もイスラエルの民を代表する特別な存在であり続けました。それは彼の心に刻みつけられたものでした。そして40年間孤独にイスラエルの未来を胸に抱きながら生きる中で、宮廷を去った時にイスラエル人が宮廷の人々の前で不当な扱いを受けるのを見て、彼の憤りと正義感が爆発し、宮廷の人を殺してしまったのです。

その後、モーセは宮廷を去り、残されたイスラエルの祝福の意志を心に抱いてミディアンの羊飼いとして生活を始めました。彼の生活は快適なものではありませんでした。その時代の誰もが、豪華な宮廷を捨てて羊飼いになるモーセを理解してくれませんでした。しかし、モーセは失望することなく、神様のために知られざる祭壇、イスラエルのための隠れた祭壇を築いていきました。こうしたモーセが80歳になる頃、神様は彼を選び、民族の悔い改めを成し遂げる主役として立てたのです。

その後、モーセの歩んだ足跡はすべて冒険的なものでした。彼は現実を超越した神様の計画の中心的心情を持っていたため、彼の生涯全体が超現実的で、見据えることも、戦いに臨むことも超現実的なものでした。

神様からの命令を受けてモーセがファラオの宮廷に行く時、神様はむしろモーセの進む道を遮り、彼を殺そうとしました。神様はなぜ自分の命令を受けて進むモーセを遮り、殺そうとしたのでしょうか? 現実的には到底あり得ないことでした。ここには私達人間には理解できない内容があるのです。

現実的に考えると、到底越えることができない難関でした。しかし、モーセは既に覚悟を決めていた身だったので、生きようが死のうが、ただ一つの意志が成就することを心から願う気持ちで、神様が遮り、悪魔が遮る試練の条件を乗り越えたのです。そしてファラオの宮廷で超現実的な神の存在を確信し、10回以上の奇跡を起こしたモーセは、4千年の歴史の中で見られなかった天宙的な冒険の革命者でした。こうしてモーセはどんな反対にも屈せず、超現実的な信念で60万のイスラエル人を導きました。これを見ると、モーセの生涯全体が超現実的な冒険の道であったことを皆さんは理解する必要があります。

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モーセの後、民族の回復を代表する者としてイエス様が世界の回復の使命者として現れました。イエス様は、過去の4千年の歴史的な過程において、神様の御心を達成するために多くの先祖達が非現実的な生活を送ってきたことを理解されていました。そして、自らが先祖達が神の計画を達成するために来られたが、達成されなかった使命を完成させる責任を負う一人の存在であることを痛感されたのです。

歴史を振り返る中で、イエス様は多くの先祖達の未解決の問題が残っており、復帰の使命がまだ終わっていないことを理解し、それを終わらせねばならないと決意されました。

まさに4千年の開拓を成し遂げるための非現実的な冒険の使命を歩む覚悟をお持ちになりました。多くの先祖達の冒険的な歴史の使命を総合した使命を果たす覚悟をお持ちになったイエス様であったことを、皆さんは理解しておかなければなりません。

イエス様は、天宙的な冒険の歴史を清算しなければならない使命を負っていたため、彼は生まれながらにして冒険の道を歩まれました。彼の生涯もまた、非現実的な冒険の生活でした。そして最後には、十字架にかかる死の道まで非現実的な冒険の道であったことを理解しなければなりません。

それでは、イエス様の生涯は何を基にした生涯だったのでしょうか? 4千年の歴史を総括する生涯であり、それまで天の怨念に対峙していた冒険的な使命を終える生涯であり、新しい勝利の場を成し遂げるための地上に存在しない非現実的な勝利の生涯でした。


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御言葉選集1(14、15)

2023年07月15日 14時53分17秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 1 - 14. 1956年10月7日 神の永遠の理想を求めよう(1956年10月7日)
1956年10月7日(日)、元本部教会。
聖書拝読 コリント第一13:1-13


<祈祷>
 愛するお父様、天上の怨恨として残っている闘いの歴史を終わらせる人物が存在しないことが、お父様の嘆きであることを知っております。人類によって植え付けられた堕落の根源を、人類自身が取り除くべきですが、長い歴史が経過してもなお、人類はその罪の根源を抜くことができず、お父様、それを抜くことができるように許可してください。


 今集まった聴衆の皆さん全員がお父様の心情に感じ入り、一体となって許可して頂けることを切望しております。


お父様の悲しい心情を受け継ぎ、お許し頂き、お父様が望まれるその望みを私達に新たに与えていただけますように、お願い申し上げます。残された怨恨の歴史を担いで、数百万の敵である悪魔と戦うことができる、天を代表して現れる勇者達となることをお許しください。また、地を代表して立ち上がる勇者達となることをお許しください。


残された戦場において、永遠なるお父様の愛の心情を互いに分かち合う喜びの楽園が実現するまで、それぞれがお父様の意志を担いで立ち上がることができるよう、お許し頂けますようにお願い申し上げます。一人一人がお父様の全体的な意志を代わりに果たし、悪魔と戦うことができる勇敢な息子や娘となることをお許しください。愛するお父様、切望致しております。

私達の心が天の目標を向いており、私達の体が宇宙全体の目標に向かっていることに気づかせて頂けるよう、お許し頂けますようにお願い申し上げます。

     1

お父様の怨恨を解き放つ喜びの子供達となることをお許しください。お父様、切望しております。

私達の体と心はまだお父様の腕の中に収まっていないため、お父様、導いてください。能力をもって歴史を解き明かし、私達の心の方向を正せる様にお願い申し上げます。私達が本性に向かうように心の方向を正してください。お父様が望まれる希望の道を私達が進むことができるよう、お許し頂けますようにお願い申し上げます。

お父様の喜びの恩寵を私達の体と心が実践できるよう、お許し頂けますようにお願い申し上げます。私達を中心にして再創造の歴史を起こして頂けますように。そうすることで罪悪の根を断ち切り、戦いに勝利し、お父様の愛を体現し、お父様の前で栄光を捧げることのできる子供達となれる様にお許し頂けますように、愛するお父様、切望しお願い申し上げます。

愛するお父様、集まった子供達が、数百万の悪魔の罠に陥ることがないよう、お許し頂けますようにお願い申し上げます。お父様の祭壇に栄光の献身として捧げられることができるよう、お許し頂けますように、愛するお父様、切望し、お願い申し上げます。

今、お父様の前にひれ伏した私達は、お父様の尊厳なる御姿を目の前にし、自らの不足を自覚し、懺悔(ざんげ)することができるよう、お許し頂けますようにお願い申し上げます。温和で謙虚な献身として、お父様の贖罪の恵みの前に屈する子供達となり、お父様のもとに辿り着いた子と同じ姿となれるよう、お許し頂けますように、切望致します。

     2

苦悩の涙を流させずにお許し頂けますように、悪魔が嘲笑する足跡を辿らせないようにお許し頂けますようにお願い申し上げます。心と体がお父様の前に捕らえられたままこの一時でも共にすることができますように、永遠なる命の恵み、復活の恵み、愛の恵みに触れ、お父様、喜ぶことのできる理想的な献身となることができるこの時を許して頂けますように、愛するお父様、切望しお願い申し上げます。

今日は聖なる日であり、万民に祝福を与えるための約束の日です。24億の人々を代表して集まった聖殿ごとに喜びの恵みが共にあることを願い、祈ります。終わりの時代に入った今、聖霊の炎を水のように注いでください。お父様が選ばれた子どもたちが一つにまとまり、この暗闇の世界と対峙できるようにし、6千年の憎しみの心情を代わりにしてあらゆる悪を打ち破り、お父様の子となれるように許可してくださる様にと切に願っております。

まず、3億人の民族を代表するために、3千以上の祭壇を祝福してください。祭壇を代わりにして、お父様に心を尽くして生きる息子と娘達が、永遠のお父様の献身となれるように許可してくださいます様にお願い申し上げます。

今残された戦場で、お父様に負債を作らないように許可してください。永遠の勝利の恵みに耐えることができるように許可してくださる様にと切に願っております。

お父様、 お父様の祝福の心情が地上に表れる理想的な地を築くまで屈しない勇士の心情を持ち、父の意志を確立し続けることができるようにお可しください。お父様、切に願い求めます。

     3

今夜、この場に参加できなかった多くの子供達がいます。どこにいようと、父が一律に働いてくださり、終わりの時に成し遂げたいと望む貴方の意志を全世界に宣言し、天地が喜びの祭壇となるようにお可しください。

持っている力と心と努力を捧げて、ただ父の意志を達成するあなたの子供達になるように許可してください。切にお願い申し上げながら、すべての御言葉を主の御名においてお祈り致しました。アーメン。


《御言葉》
 これからお伝えしたいメッセージのタイトルは「神様の永遠の理想を求めよう」です。しばらくの間、神様の永遠の理想を求めようというテーマでお話しいたします。

 神様は暗闇の地上において、ご自身によって創造の歴史を始める際に、一つの基準を立てられました。それは、内なる心情に残った理想的な姿を永遠の実体として確立することでした。この一つの実体を設け、その永遠の喜びを感じながら、二人ではなく一人の相対的な理想を備えて生きるために、創造の歴史を始めたことを皆さんはよくご存じだと思います。

神様は創造の苦労を経て築いた創造物の中で、人間一人をすべての理想の中心に立てられました。しかし、その一人の人間が神が本来求められた望みとは反対の立場になったことにより、その後の長い歴史が経過しましたが、神様が望まれた理想とは関係のない人間たちとなってしまいました。

     4

その一つの理想を実現するために、一人の人間を再び訪ねて見つけ出す歴史的な計画は、秩序の計画であり、救済の計画であり、開拓の計画でした。

神様の内的な心情として望まれた一つの理想は、全ての被造物に及ぶ理想でしたが、一人の人間の過ちによってその理想は全ての被造物の中で見つけることができなくなりました。

それゆえに、神様は現在までの開拓と救済の歴史を通じて、秩序を確立しようとする一つの中心的な意図が何であるかを探求したいのです。それは、人間を通じて神様の内的な心情として描かれた理想を実現することによって、神様御自身が喜ぶだけでなく、その喜びの理想を人間の永遠の理想とし、栄光の条件として返還されることを望まれるからです。そのために、神様は歴史を進める様に働いておられます。

そのため、私達は今、天の神様が皆さん一人ひとりを呼び、皆さんの存在を知っていることを理解しなければなりません。天の神様は、皆さんが自分自身の理想を実現する一つの中心体となることを望まれており、これまで努力してきておられます。

しかし、私達が不完全な存在である限り、私達は神様の意志と人間の意志、そして悪魔の意志を区別することができない限り、神様が望まれるその理想を実現することはできません。

     5

左を見ても右を見ても上下を見ても、達成しなければならないものは神様の理想です。ですから、左側に属している群れであろうと、右側に属している群れであろうと、また地上に存在する全ての存在や天にいる無数の聖徒達でさえも、その一つの理想が何であるかを知らずに崇拝していることを皆さんは原理を通じてよく理解しています。

この暗い世界において、神様の新たなる輝かしい理想が現れる日はいつの日であり、その時はいつであり、その時はいつの時期であるのかと問われるとき、数多くの聖賢や先知達は自らも知らずに知らない道を切り開いてきたことが今日まで続いています。

したがって、今は皆さんが神様の輝かしい理想の心情を通して彼らに対して、「あなたが心から描いていた希望がこれであり、あなたが求めていた理想がこれである」と言える、不変で永遠の理想の要素を持っている必要があります。それによって、皆さんの心を通じて、身体を通じて、環境を通じて実現される喜びの場所を築かなければなりません。そのような喜びの場所を皆さんが築くことができないならば、神様の理想はこの世界で見つけることはできないということです。

では、ここで最も重要な問題はどこにあるのでしょうか? それは想像された万物にあるわけではなく、霊的な領域にあるわけでもありません。また、天上の天使にあるわけでもなく、全体の中心であり、一つの基準であり、万物の主役である皆さん自身にあるのです。したがって、皆さん自身が神の理想を左右する中心であり、基準であることを皆さんは認識する必要があります。

死に直面しているこの世界において、その一つの基準点、その一つの中心点が現れる日の喜びは、今日の歴史の進行における私達の希望であり、数多くの悪霊と戦いながら進む神様の摂理の意志であることを私達は心に留めておかなければなりません。

     6

したがって、今私達が神様の理想を尊敬する心を持って生きるためには、まず自己の内に神様の内的な心情と調和し得る存在を確立しなければなりません。自然が法則に従って進んでいくのと同様に、私達自身の心が神様の心を中心にして動く必要があります。そして、これを天の宇宙的な終着点まで到達することができる心の中心として確立しない限り、神様の永遠の理想は有限の世界と永遠の関係を結ぶことはできないことを皆さんは知るべきです。

では、今私達自身の心と体を見つめるとき、私達の心と天との間に障壁はありますか? 私の心と体の間に障壁はありますか? 私の体と万物の間に障壁はありますか? そのような障壁がある限り、永遠なる神様の理想は既に皆さんとの関係を切っていることを意味します。

今、私達は心の扉を開かなければならず、体の中のすべての罪悪を取り除いて、調和することができる基準を確立しなければなりません。そうすることで、天国的な性格を感じずにはいられず、行動しなければ為される事の無い自然な才能を受け取り、神様と共に神様の理想を実現していかなければなりません。

しかし、堕落した人間はその基準から遠く離れているため、その基準に引き上げるための努力の歴史が生じます。それがまさに復帰の理想の歴史です。その意味を実現するための復帰の歴史が、今まで先進者達を送り出し導いてきた歴史であることを、私達は心の底で深く肝に銘じなければなりません。

今、皆さんは前進しなければなりません。そのためには、まず万物を象徴し、与えられた身体の価値、天性を代表し、身体の中心として与えられた心の価値を持つ必要があります。そして、全てを包括する中心である神様の内的な心情、全体の中心から湧き出る神様の内的な心情が私達の心を通り、身体を通り、私達の生活の舞台を通って、万物の存在まで一つの運動として現れなければなりません。これらすべてを私達の一つの身体で成し遂げなければなりません。

     7

神様は、堕落によって神様の主管圏から離れた人間を本来の位置に引き上げるために、6千年にわたって歴史を進めてきました。その歴史はどのようなものだったでしょうか?  神様は創造の原理に従い、象徴的な実体として万物を創造し形象的な実体として人間を創造しました。ですからそのような存在が私達の心の理想的な基準である限り、私達は神様と切り離されるのではなく、一体性を持つ関係を持つことになります。

人間の持つ関連性を妨げ、連絡の道を断ち切って歴史を進める存在は誰でしょうか? それは皆さんの敵、悪魔です。この悪魔と戦い、永遠の勝利の絆を築かなければ、悪魔に従われることはありません。しかし、今日も明日も神様の理想の王国が私達の体と心を通じて実現しない限り、神様が望まれる希望の理想が個人間や宇宙全体で実現されずに、サタンは排除されないということです。

しかし、神様には私達の心のための理想、私達の体のための理想、そしてすべてのもののための理想があります。しかし、悪魔はこれに逆らって戦っています。したがって、悪魔を世界的に責任を持って屈服させる希望の日が現れなければならないということです。

その悪魔と結びついた条件があるため、それを除去する前には、神様の理想は私達と関係がないということです。ですから、神様は自らの理想を実現するために、悪魔と対立して勝利することができる主人(マスター)を立てられました。その方こそがイエス・キリストでした。

しかし、今日ではすべてのものから身体を通じて、身体から心へ、心から天上まで連絡路が遮られています。この要求する心と身体、要求する対象との遮られた連絡路を突破し、通じる歴史をもたらしてくださったのは、イエス・キリストと聖霊です。

     8

では、イエス・キリストがこの地においでになった不変の目的は何でしょうか? それは、必ずや神様の理想を実現することでした。まず、人間の心を復帰し、体を復帰し、そして万物の世界まで復帰することでした。イエス・キリストはこのような総合的な理念と理想を持っておいでになりましたが、信じるように選ばれたイスラエル民族が信じなかったため、神様の心の姿に代わって立てる心的な理想だけを打ち立ててお帰りになったのです。そのため、今日、私達はその心的な理想、すなわち霊的な理想を打ち立てるまで、イエス・キリストの生涯とイエス・キリストの歴史を知らなければなりません。

イエス・キリストは、神様が望まれるその理想を実現するための心的な勝利の道、つまり悪魔に対して勝利する道を私達に示してくださいました。ですから、私達はイエス・キリストに依って理想を追い求めることは、ある特定の時間枠内の理想ではなく、神様の永遠の理想を追い求めることです。

イエス・キリストは、人格、希望、信仰、生命、愛など、すべてを達成するための使命を持ち、それは一時的な使命ではなく、永遠を代表する使命でした。私達は、イエス・キリストがそのような使命を果たすために戦われたことを知る必要があります。

では、私達が神様の理想を追求し、その理想を達成したいとする場合、今日私達が持つべきものは何でしょうか? 私達は神様の永遠の要素を持つ必要があります。なぜなら、時代や状況が変わっても、神様の永遠な実体は変わらないからです。

したがって、神様が持つ理想も永遠の理想であることを理解する必要があります。その結果、今日の人々が追求すべき残された最後の理想は、神様が望まれる永遠の理想です。今あるいは明日であっても、自分自身が神様が望まれるその永遠の理想を達成するまで戦わなければなりません。人生を捧げて戦っていかなければなりません。

     9

イエス様はこの地上において、神様の永遠なる理想を追い求めるために来られ、信じることのできなかったイスラエルの民の代わりに永遠なる信仰を確立するために戦われた方です。歴史の過程で多くの人々が神様を信じてきました。しかしその彼らが信じる希望や信仰の限界は、個人的な範囲に留まっていました。しかしイエス様だけは信仰や希望を自己中心的なものとして確立しませんでした。彼はそれが神様の永遠なる理想に立てられている限り、それ以上の要素を持つ信仰、つまり永遠なる信仰を確立するために一生を捧げました。

イエス様が30年以上の生涯を通じて望まれた中心は何でしょうか? それまでの4千年の歴史の中で、多くの先人たちが信仰の基準を確立しましたが、彼らの信仰は民族的な限界を超えることができず、世界的な限界を越えることができませんでした。そのため、イエス様はそうした基準を超えて神様の永遠なる理想を実現すること、永遠なる信仰を確立することが彼の生涯の中心内容であったと言えます。


そのためイエス様の信仰は自己の救いを目的としたものではありませんでした。また、この地上だけを救うことを目的としたものでもありませんでした。イエス様は歴史の始まりから終わりまで神様の計画をご存じであり、その計画に基づいてすべてを復帰されようとされました。


また、イエス様は神様の永遠なる理想を確立するために、歴史上前例のない永遠に変わらない基準を打ち立てるために、悪魔と戦われました。イエス様はそのような理由から神様の永遠なる理想を求められ、永遠なる信仰の条件を確立することができました。

そのため、皆さんがイエス様を慕い求めるならまずイエス様一人には歴史的な全人類への内容が包括されていることを知る必要があります。彼は4千年の歴史の中で数多くの信仰者や当時の人類全体の信仰を統合できる唯一の方でした。また、天地創造から終末までの未来の歴史を代表し、全人類の信仰を統合できる基準であり、永遠に変わらない中心を持ってこられた方でした。

     10

そのため私たちはイエス様の信仰を見習わなければなりません。そして個人を超え、社会を超え、国家を超え、世界を超え、天地を超え、永遠なる神様の希望の基準、永遠に変わらない確かな信仰の礎を築くためにこの地上で30年以上を過ごされたイエス様であったことを知る必要があります。私たちはイエス様を信じるならば、全く新しく唯一無二の永遠なる信仰の基準を打ち立てたイエス様に似なければなりません。

そして、私たちはイエス様の希望を受け継ぐ必要があります。イエス様の希望は、彼自身の個人的な希望ではありません。過去の数多くの祖先が長い間抱いてきたあらゆる希望を包括した希望でした。また、天と地に根ざしている永遠なる神様の希望を代わりに持たれたのです。そのため、イエス様は歴史上誰もが持つことのできなかった神様の永遠なる理想を実現することができる希望の中心を確立したため、私達の希望に代わることができたのです。

それだけでなく、イエス様は天に向かった信仰を築き、希望を持ち、また生命の絆と愛の絆を持ちました。そして彼は自らの希望を永遠の希望とし、生命も永遠の生命として確立するために30年以上にわたる闘いと努力を費やしました。

しかし、イエス様が自分の人生の過程で生命の価値を感じたのは全人類を代表して永遠に実在し、生命の中心として存在する神様の永遠なる生命の要素を受け継いだからです。イエス様はこのような永遠なる生命の所有者であったためいかなる悪魔の力も彼に及ぶことはありませんでした。またイエス様が確立した愛は現代の人々が持つような自己中心的な制限の中でとどまる愛ではありませんでした。それは永遠なる神様の理想を実現するために死をも厭わない変わらぬ愛でした。


そのため、今や天の神様を愛するイエス様の心はすべての民を代表することができました。天上と地上において、やっと神様の永遠なる理想に代わり、天宙の人類全体を代表して変わらぬ愛の心をイエス様は持っておられたことを皆さんは知る必要があります。

     11

イエス様は信仰と希望と命と愛によってこのような秩序を確立し、私達は今日それを受け継いでいます。私達は彼が努力を経て築き上げた救いの計画を理解しなければなりません。また、自己犠牲の基準として自らを犠牲にし十字架の盾となって立てられた彼の業績を見習わなければなりません。

さらに、今日地上で限りある存在である私達は、無限の神様からの信仰によって無限の神様の希望、無限の神様の命、無限の神様の愛を慕い30年以上の生涯を悲しみながら過ごされたイエス様の生涯を思い起こさなければなりません。万宇宙の主役であり、万民の救い主であり、地球の主であるイエス様は希望と信仰と命と愛の全てにおいて神様の永遠の理想を実現する条件を確立するために生涯を捧げたことを皆さんは知らなければなりません。

そして、皆さんはそのようなイエス様の心情で万物を見る必要があり、イエス様が感じていた感情を共感しなければなりません。またそのような志とそのような希望、そのような理想を称えながら闘ってきたイエス様であったことを知らなければなりません。彼を単に2千年前に現れた歴史的人物として考えてはいけません。

今日、皆さんの心の中におり、皆さんと共に一つとなっているイエス様を感じなければなりません。永遠の神様の理想を実現できる生命的な要素を再認識しなければなりません。それによって、皆さんの信仰がイエス様の信仰に匹敵し、皆さんの希望もイエス様の大いなる希望に匹敵し、皆さんの生命と愛もまた、イエス様のものと同等でなければなりません。

皆さんは、神様の全体的な理想を具現化したイエス様の心情を見習う必要があります。イエス様は信仰や希望、命や愛などを全て確立するために戦ってきた中心の心情を、今日の皆さんが受け継いで実現しなければなりません。その意志を実現する人がいないとすれば、イエス様が十字架で犠牲になられたことによってこの地上で達成されるべき意志は叶わなくなります。イエス様の未完の業績が残されているため、摂理は今日も私達の中に存在しています。

     12

そのため、私達は身体を通してイエス様の姿を感じる努力をし、万物を通してイエス様の姿を感じようとしなければなりません。それによって、イエス様の姿と私達の姿が合わさり、全宇宙を代表する永遠の神様の理想に合致することができなければなりません。

今、皆さんはイエス様が十字架にかかっておられたことが何を予告していたのかを知る必要があります。その十字架は永遠の信仰を達成した十字架であり、永遠の神様の希望を共感させ、奨励していた十字架であり、神様の永遠の命と永遠の愛を私達も持つように勧めていた十字架です。そして、十字架を通じて達成された救いの道は、イエス様の永遠の信仰、永遠の希望、永遠の命、永遠の愛を私達に伝えるための条件となることを皆さんは知らなければなりません。

しかし、宇宙の全人類を代表しておいでになったイエス様の信仰が全体に現れなかったため、つまり世界的に実現されなかった希望はイエス様が十字架で訴えた結果だったのです。命と愛も同様でした。もし当時イエス様が望まれた信仰、イエス様が望まれた希望、イエス様が望まれた命、イエス様が望まれた愛が現れることができたならば十字架の結果としての訴えはなかったでしょう。

したがって、今私達が十字架を通じて備えるべきものは何でしょうか? それは、イエス様が持っていた永遠の信仰、イエス様が抱いていた永遠の希望、イエス様が持っていた永遠の命、イエス様が慕っていた永遠の愛を持つことです。今日、私達は十字架の前に立たれた永遠の信仰、永遠の希望、永遠の命、永遠の愛を単にイエス様のものとして考えてはならないということです。

 私達はその十字架を背負い、その永遠の信仰を私の信仰として、その永遠の希望を私の希望として、その永遠の命と愛を私の命と愛として所有しなければなりません。さらに、イエス様が人類のために十字架を背負いながらも与えてくださった神様の理想の要素を私達は持つ必要があります。その後、イエス様が永遠の信仰、永遠の希望、永遠の命、永遠の愛を伝えることができる弟子を持っていたように、私達もそのような心情を持つ人となる必要があります。

     13

イエス様から受けた信仰の責任、イエス様から受けた希望の責任、イエス様から受けた生命と愛の責任が皆さんがその条件を果たせなかった場合には最後の審判の条件として現れるでしょう。

終末において神様は皆さんに問いかけ、イエス様が遺した永遠の信仰の債務を果たしたかと尋ねられるでしょう。イエス様が遺した希望の債務、生命の債務、愛の債務を果たしたかと尋ねられるでしょう。そのような立場に立つ時、イエス様が十字架上ですべてを成し遂げたと述べられたように、皆さんもそうでなければなりません。今日、私たちはイエス様の前で、「私はあなたが残してくださった永遠の神様の遺産を私の人生で完遂しました」と言えるべきです。そのような人物がこの地上に現れない限り、神様の終局的な計画は完了しないことを皆さんは知らなければなりません。

4千年の歴史の中で、永遠なる神様はその理想の中心的要素をイエス様によって確立されました。霊的で内面的な救いの条件を広げ、世界的な基準にまで拡大するために、今日までイエス様と聖霊は歴史を通じて働いてこられました。ですから、今日、私達が外的に内面的な神の理想の要素を実現できる永遠なる信仰、希望、命、愛を築けなければイエス様の2千年にわたる摂理の意志は無駄になります。皆さんはそれを理解する必要があります。

今、皆さんはイエス様に倣って神様の心さえ感じたいという信仰の道に入っています。しかし、皆さんは自分がどれだけ信じているのか、自己の信仰の枠組みの中で信じていませんか? 宇宙全体を代表したイエス様の信仰と比較して差異がある場合、その差異は終末における審判の条件となるのです。

あなたが今日持っている希望は何ですか? あなたが概念的に持っているその希望は、自分自身のための希望ではないでしょうか。あなたはイエス様の希望をあなた自身の希望として証ししなければなりません。それによって、あなた自身を超えて神様の永遠なる理想を具現化したイエス様の希望を持つ必要があります。しかし、もしもあなたの希望がイエス様の希望と異なる場合、その差異が終末の審判の条件となることを理解する必要があります。

     14

生命も同様です。今日、私たちがイエス様を信じて生命を得たとしたら、その生命は自分自身のためにある生命ではありません。その生命はこの民族を回復し、数多くの聖徒達を動かすべき生命です。十字架の前に立ち、悪魔の攻撃に直面しながらも神様の永遠なる存在を具現化したイエス様の謙遜な心を代わりに持つことができる生命です。

イエス様は十字架で自分の生命が失われる立場にありながらも、敵の攻撃に対して一言も呪わずにいました。

イエス様は、彼らが通常知っているような存在ではありませんでした。彼は、4千年にわたって神様が人間のために悪魔と戦われる中で感じられた神様の永遠の愛を理解しようとする方でした。皆さんがイエス様の無限なる心情を憧れるようになると、それが信仰の基盤となることを感じるでしょう。

ですから、イエス様が感じた天の愛に対する感動は、地上のどんな非難や困難も超えることのできる永遠の神様の理想を代わりにできるものでした。そのような立場に立っていたイエス様だからこそ、悪魔の誤りによって死の道を歩むことも忘れ、人類のために祈ることができたという事実を皆さんは知るべきです。

今日、皆さんがイエス様を信じて、無限なる神様の愛を受け、無限なる命を受けたと主張する場合には、その命がどの範囲にあるのかを反省する必要があります。

     15

イエス様は、神様の愛、つまり全宇宙を創造し、その中に満ち溢れる永遠で理想的な神の愛をご存知でした。そのため、彼はこの地上で自分自身を愛し、自分の家族を愛し、自分の民族を愛し、世界を愛するよりも、まず神様を愛されました。

そのため、イエス様はすべての愛の中心となる神様の愛を胸に、歴史の中で数多くの先志先烈たちを代わりにして、彼らが果たせなかった神様の計画を成し遂げるためにやって来られました。困難な試練に直面しても、それを忘れて人類を愛し、神様を愛する心情を持ち続け、それを私達に伝えてくださったのが十字架の愛です。皆さんはそれを考えてみる必要があります。

終末の審判があるとするならば、神様から流れ出てイエス様によって示された神様の愛が皆さん自身に届いたとき、皆さんはその愛を受け入れ、皆さん自身の内に永遠に持ち続けることができる心の基盤を持たなければなりません。もしもそのような心の基盤がないとすれば、皆さんは終末の審判の時に神様の前に自信を持って立つことができません。

ですから、今私達は私たちの前にキリストの偉大で高貴なる希望と理想があることを知る必要があります。その偉大で高貴なる理想は、イエス様によって初めて地上に現れたのです。

ですから、今私達はイエス様を信じ、彼に倣おうとするのです。イエス様は霊的な領域においても、世界を代表して悪魔と闘っておられます。永遠なる神様の理想を達成するために、聖霊と天の数え切れないほどの天使達と共に、私達を代わりに悪魔と戦っておられるのです。

     16

私達に残された信仰、私達に対する希望、私達に求められた命、私達に願われた愛を今私達は私自身の愛として、私自身の命として、私自身の希望として、私自身の信仰としてだけでなく持っていくべきではありません。もし私達がそれを私のものとしてだけ持っていると言うならば、永遠なる神の理想は私とは何の関係もないものだということを皆さんは心に留めておくべきです。











文鮮明先生御言葉選集 1 - 15. イエス様は宇宙的な革命の主人公(1956年11月11日)
1956年11月11日(日)、元本部教会。
聖書拝読 ヨハネによる福音書 14:1-21




<祈り(Ⅰ)>
愛するお父様! お父様が生命の園を眺めることが創造の目的であり、お父様の栄光を讃える真実の園が理想的な場所であり、永遠に変わらぬ愛を中心に、あなたの姿の前で全てが躍動し、お父様の内面的な姿や外的な形を明らかにしつつ、それに取り憑かれて生きるべき場所が本来の園であったことを知っております。


愛するお父様、今日私達が望む希望の園をこの時感じることができるようにお許しを与えてください。本来の園を思いやり、心で敬愛すると同時に、体を動かして礼拝することができるようにお許しを与えてください。心でお父様の意思を高くし、同時に体が生け贄として捧げられるようにお許しを与えてください。


お父様が私達を見つけるために努力されたすべての努力を今は私達に委ね、お父様は栄光を受けることを熱望しております。


お父様、ここに寂しく集まったあなたの子供達です。一つの命も捨てずに、まず彼らの心がお父様の永遠の命に燃え上がるように許しを与えてください。そうしてお父様の愛の心と一体になるように許しを与えてください。お父様の命に私達の身体と心が一つになり、全てが一つに結ばれて供え物となるこの時をお許しを与えてください。そうしてお父様が喜んで受け取ることのできる不足のない供え物となるように許しを与えてください。父よ、熱望しております。


     17


お父様なる神よ、私達を保護してください。分別の歴史を負うてください。悪魔が侵入することのないこの時をお許しを与えてください。ただ父の意思に捧げ従い、応えることができるようにお許しを与えてください。ここで心と体を従順にすることができるこの時をお許しを与えてください。


そうして自分の不足と間違った要素を全てお父様の前にさらけ出し、正直に告白し悔い改めることができると同時に、お父様の愛を受けることのできるこの時をお許しを与えてください。愛するお父様、熱望しております。


お父様、この日は聖なる日であり、祝福を与えられ、約束された日です。この民のために集まる数多くの祭壇を祝福してください。孤独な祭壇で戦っている子供達にも一斉に恵みを与えてください。


あなたが予告し、示し、証明された事実が彼らを通じて明らかになるようにお許しを与えてください。この民が闇に囚われていることに気付き、他の人々をも目覚めさせるために、直接的な歴史を示してください。あなたが働かれる教会を通して、あなたの子供達を通して、この時を現わしてください。愛するお父様、熱望しております。


約束された終わりの日が近づいており、許された恵みの時が来ておりますが、私達はまだ完全ではなく、不足していて、未完成です。私達が受け入れるべき父の意志を受け入れない者にならないようにお許しを与えてください。


     18


お父様、私達が自らを嘆き悔いながら、お父様の前にひれ伏すことができる者達となれるようにお願いします。孤独な祭壇で戦っている子供達も多くおりますので、彼らにも均一な恵みをお与えください。


お示しいただき、お見せいただき、お証しいただいた事実が、最後の日を迎えることによって明らかになるようにお願いします。この民が闇に囚われていることに気づき、他の人々をも目覚めさせるために、直接的な歴史を示してください。お父様が働かれる教会を通して、子供達を通して、この時が現れるようにお願いします。愛するお父様、心から願っております。


性別や立場を超え、完全で純粋な心と身体を持ち、謙虚な姿勢で父の本質の前に立つことができる者達となり、そのような時を柔和な姿勢で受け入れることができるこの一時をお許しいただきたく、切に願っております。


お父様、あちこちで言葉を持って闘う子供達がお父様の前で謙虚に立つことを知っておりますので、彼らを守ってください。このような時と同様の恵みを与えてください。


お父様、この民のために私達を使命し、勧め、共に協力されたならば、私達に生きているお父様の子として誇りを持てるように許してください。生命の中心に立っていることを証明できるようにお許しください。


     19


お父様、あなたの手に掴まれた事実を証明し、この民を目覚めさせて悪魔の罠から救い出すことをお許してください。


そのようにして、民族的な使命を許されようとするお父様の全体的な意思の前に、この民族が恥じることのないように私達を立てて、父の前に導いてください。切に願っております。


初めから終わりまで、お父様と聖霊が喜ばれる御心に私達の心と身体が共鳴できるようにお許しを与えてください。この全体の集まりを栄光の供え物として受け取ってください。切に願っております。


初めから終わりまで、全てを主管してください。あなたの名においてお祈り致しました。アーメン。




<祈り(Ⅱ) >
お父様! シオンの中心を築くために、多くの先祖達が血を流し、お父様の前で心配事を引き起こし、負債を減らすために今まで戦ってきました。


     20


お父様! この時、私達の心にシオンの栄光が注がれるようにお許しください。永遠にお父様が居て下さるシオンの喜びが私達の心に満ち、溢れるようにお願い申し上げます。


私達がお父様に心と体を委ねることができる栄光の子となるならば、私達にはそれ以上望むものはありませんし、それ以上の希望はないことを知っております。


しかし、永遠なるお父様の愛の手にとらわれなければ、この地上に私達と同じように孤独で哀れな存在はなく、悲惨な人々も存在しないでしょう。


お父様! 戦いに疲れ、迫害に疲れ、困難な環境に苦しんできたあなたの子供達を、この時生命と愛で守って育んでください。


この時、傷ついた私達の傷を癒すことができるように、お父様の前に現れたこの傷だらけの身体と心を、お憐れみください。この時だけでも、お父様の心の中に秘められた愛の味を知ることができるように、お許しください。


     21


そうして、天の心に似て、天の栄光を中心に全てが歌い、天の栄光を中心に全てが楽しむことができ、天の意志のために全てが頭を垂れることができるこの時をお許しください。私のお父様よ、心から願い求めます。


お父様! 孤独な私達をあちこちに追いやられたのもお父様であり、悲惨な状況で天に向かって語りかけさせられたのもお父様です。この時、彼らが慰めを受けることができるようにお許しください。


今日、この場に広がるお父様の子供達が歩んできた苦労の後には、まだ幼い足跡が残っており、悲しみの涙が彼らの祈りを支えています。お父様、彼らを憐れんでください。


この日から抱く希望、この日から抱く願い、そしてこの日から感じるお父様の愛に感動し、希望を持って明日の戦いに立ち向かえるようにしてください。私達の人生の旅において、数々の敵の呪いの壁を乗り越えることをお許しください。そうして平和の心だけが私達の心の中心となるようにお許しください。勝利に向かう渇望の気持ちだけが私達の生命の中心となり、この民を代表して戦いの旗を掲げることに不足がないようにお許しください。


天が許された勝利の言葉を盾として立ち上がることに不足がないようにお許しください。今日も明日も、悲しみを抱えた者にならないようにお許しください。お父様の永遠の愛に燃え、現れている敵悪魔を打ち破り、残ることのできる子供達となるようにお許しください。愛するお父様、切に願い求めます。


     22


この孤独な段階を導いてくださるお父様、あなたの後に続いている子供達も孤独で哀れな場所にいます。今日もお父様が彼らの生命の全体となり、善の全体となり、希望の全体となり、彼らを慰め、導き、愛してください。


この時は終わりの時であり、人の言葉は必要ではありません。人を介した言葉も必要ではありません。人を中心とした意図も必要のない時であることを私達は知っています。ただ、永遠の命の鼓動を通じて生まれるお父様の愛の言葉だけが必要なのを私達は知っています。今日集まったあなたの子供達が愛を感じられない不安定な場所にいるとしても、お父様、測り与えてください。炎のような眼差しで見守ってください。私達の心に秘められた喜びの核が現れるようにしてください。私達はさまざまな恐れに捕らわれた私達ですが、お父様の前に出て悔い改める子供達となるように許してください。


お父様の手にとらわれて、お父様の恵みを感謝することを知る者があれば、変わることなくその心を抱くようにお許しください。聖なるお父様の前に愛の子供達として生まれ、なお残る子供達となるように許してください。お父様、切に願い求めます。


今日もこの民のために集まる数多くの祭壇の上に祝福を与えてください。意図を知らずに熱心に天に訴える聖徒達の声が天に届いたことを知っていますので、彼らの怨恨を解き放ってください。彼らの心を支え、彼らを導いて、最後にお父様の望まれる意志を受け入れ、成し遂げることができるように導いてください。


また、目的のために人々が知らない孤独な道を切り開き、闇と戦っている隠れた兄弟達がこの民の中に多く存在しています。その闇がこの民の前から退く時が早く訪れるようにしてください。


     23


生命の動きも一つであり、恵みの働きも一つであり、栄光の現れも一つでした。お父様、彼らを通じてあかしを示し、散らばった祭壇を囲い、お父様の意志を中心に据えて立ち上げ、この民が一つとなる喜びの祭壇を形成してください。お父様、切に願い求めます。


今日も孤独な子供達が地方で御言葉を持って戦っているので、そこにも共にあってください。彼らは6千年の歴史の最後の敵と戦って勝利しなければならないという精神で勝利の祭壇を築き、お父様と子供達が共に楽しむことができるその時を待ちながら、お父様の命令に従って戦っています。お父様、共にあってください。彼らが滞在するあらゆる場所にお父様の直接的な歴史を示してください。そんな環境を通じて全体にまで及ぶことができるようにお許しください。切に願い求めます。


今、この一時にお父様、喜びの恵みを与えてください。私達を受け入れてください。すべての御言葉を愛する主の名においてお祈り致します。アーメン。




<御言葉>
 今日のこの時、イエス様は宇宙的な革命の主役というタイトルで少し話したいと思います。


新しいものが創造される過程を見ると、それは革命的なプロセスと見なすことができます。たった六日間で作られたすべてのもの、つまり微小な昆虫から人間までのすべての創造物を見ると、神はより新しく、より優れた存在を創造し、最後に人間を創造されたのです。


     24


人間の創造によって、神はより高い神の内面的な性質と外見の形を完全に備え、それが父なる神が永遠に誇りに思える新しく変わらない実体であることを望んだのは、創造主の理想であったことを皆さんは知っているでしょう。


こうして人間は神が楽しむことができる永遠の新しさの実体として、万物の支配者となり、どんな創造物と比較しても美しく、素晴らしい存在となるために造られたのです。こうして造られたものが万物を統べるアダムと呼ばれたのは、皆さんもご存知でしょう。


アダムは神の本来の善意と内なる栄光を実践的な生活を通じて楽しむ存在として存在したかったのです。しかし、アダムは堕落によってその意味を理解することができませんでした。神が創造されたすべてのものを代わりにして新しさの栄光を示すことができない存在に堕ちてしまったのが、堕落した人間です。


しかし、人間が堕落した状態であっても神の意志は不変の意志として必ず完成されなければならず、神としての威厳を保ち、権能を示すことができるため、それを再創造するためのものが回帰の歴史、救済の歴史であるということを皆さんは原理を通じてよくご存知でしょう。


しかしこのような立場から、宇宙の万物に対して天は直接介入しません。天と地の間で見つけることも、他の被造物の中で見つけることもできない貴重な存在は、神自身です。神は自身の内に隠された全体の姿を、より高次元の新たな形で顕現させることができる主人公として現れるのです。それが実現される日はいつでしょうか? この感動的で衝撃的な一日を迎えるために、今日まで神はこの目的を立て、回帰の計画を通じて絶えず努力しながら歴史を進めているのです。


     25


創世以降、神はすべての被造物を与えても変えることのできない、今までになかった喜びを味わわせる新たな宇宙的存在を見つけるその日はいつ訪れるのでしょうか? 神はその一日、その存在を切望しておられるのです。




神は、神自身と人間、そしてすべての創造物が共に楽しみ、喜び、調和することができる創造理想世界を既に計画し、構想し続けておられます。したがって、内的な象徴である天と外的な象徴である地が共に喜び合い、楽しむことができる主人公を中心にして楽しむ時、天と地が共に喜び得るということです。このような基準を見つけるために、天も努力されていることを皆さんはよくご存知でしょう。




では、父なる神が求められる意志とは何でしょうか?天地を破壊し尽くすかのような状況でも、手放すことのできないただ一つの意志があるとすれば、それは完成された人間です。人間が完成されるまで、原理的な創造の原則を経て真理の実体となるべきですが、堕落により原理にそぐわない実体となってしまいました。そのため、人間は人間の形を備えていながら、内面的な性質と外的な形が神の永遠なる実体を代わりうる分身として現れることができませんでした。




そのため、堕落した人間は人間の形は持っていますが、創造理想の形を失ってしまいました。しかし、神はこの人間に対して再び創造理想の形を注入し続けておられます。天が新たな実体を見つけるために努力される歴史を、皆さんもよくご存知でしょう。




では、この一つの中心的な存在であり、希望の存在としておいでになった方は誰でしょうか? それはイエス・キリストでした。イエス・キリストを送られるまで、神は4000年もの間努力されました。


     26


創造の後、初めて調和できる新たな存在として、万物の前に現れることができる存在として、イエス様をお送りになりましたが、人々はイエス様を神の意志の指針として受け入れることができず、逆に堕落した歴史を繰り返しました。


失われた善の基準を見つけるため、努力された神は4千年の歴史を通じて、悪魔の誘惑に陥った人々を呼び集め、民族的な基盤を築いてこられました。したがって、この民族的な基盤は、神と万物を代表し、天地のすべての存在を代表することができるイエス様のための基盤となるべきものでしたが、イエス様はイエス様のまま、民族も民族のままに去ってしまいました。ここで私たちの使命と神の使命が決定されたのです。


神を中心に宇宙を新たなる世界として再構築するために、全体の代わりとしてお遣わしになったイエス・キリストを全体の主人公として受け入れるべきユダヤの民は受け入れず、全体の主人公となる使命を持つイエス様はイエス様のまま、民は民のまま消えてしまいました。その結果、神の悲しみはさらに深まったことを皆さんは知るべきです。


イエス様自身が当時のユダヤの民に対して述べられた言葉や示されたすべては、自身の意志ではなく、だれの意志だったのかというと、それは天の意志でした。イエス様は神の摂理の意志を代わりになさったのです。しかし、イエス様を通して神の意志に対立しなければならない堕落した人々との間で矛盾する論争が起こりました。


堕落したこの世界に神の御言葉が現れるとき、その御言葉が民族の前に現れれば、民族を革命させる御言葉となり、個人に現れれば、個人を革命させる御言葉となり、世界の中に現れれば、世界を革命させる御言葉であり、また天地を新たに革命させる御言葉として現れることを、当時のユダヤの民は知りませんでした。


     27


イスラエルの民は、4000年の間にわたってモーセを通じて下された律法とヤコブに下された契約が彼らの理想を成し遂げ、全体を代表できるものだと信じていました。しかし、神は低い位置から徐々に引き上げる歴史をなさっていました。受育的な旧約時代を経て、成人的な新約時代に至り、完成の段階まで進む天地創造の原則的な経路を再び進んでいる歴史を、イスラエルの民は知らなかったのです。


そのため、イエス様の言葉は当時の人々が容認できない、生命の言葉でした。それは旧約の律法よりも高い新たな言葉であり、従来のものよりも高い新たな価値とのつながりを求める言葉であったことを、当時の人々は知りませんでした。


イエス様が望まれたことは、神の全体的な創造理想を実現することでした。ですから、天地を代わりにして宇宙的な使命を遂行しようと、絶えず革命的な過程を経て現れられたのです。したがって、イエス様がこの地に現れて宇宙的な意志の道を歩まれる時、堕落した人間を本来の位置に引き上げる過程があり、その過程には数多くの戦いと革命的な進展があったことを、皆さんは現代においても知るべきです。


では、この革命的なイエス・キリストの希望はどのような希望なのでしょうか? それは、皆さんが今生きているこの地上の希望ではありません。それは世界を超え、無限の神の国とつながることができる希望です。


この希望はイエス様の希望であり、同時にイエス様と一体化した神の希望でもあります。ですから、神はイエス様に希望を寄せ、イエス様を通じて神の意志を現そうとされたことを人々は知らなければなりません。


     28


では、イエス様がユダヤの民の前に現れて述べられた言葉や神の全体的な意志を代表した実体とは、どのようなものだったのでしょうか? それは歴史上に存在しなかった新たな真理の主人公として現れたのです。多くの人々が真理を叫んだかもしれませんが、それは個人的な真理にすぎませんでした。彼らはそれを民族や国家を代表する真理だと主張したかもしれませんが、実際にはそのような真理にはなり得ませんでした。


ですから、天地を再び照らし出すことのできる真理を具えて現れたのはイエス・キリストでした。それゆえ、イエス・キリストが述べられたその言葉は、その時代や世界において最高の価値を持ち、新しく革命的なものでした。


もしユダヤの民がこの革命的な真理の言葉が神の意志であることを知っていたならば、これまでの自分たちの生活を捨ててこの真理を追い求めたでしょう。


このような立場に立つユダヤ民族が実現しなければならない一日を破ってしまったのですから、私たちはこれを超えていかなければなりません。結ばれたものを解き放つ使命が私たちにはあります。イエス・キリストの真理を受け入れなかったことにより、犠牲が生じているのです。


神は一つの民族を立て、その民族の中で一つの中心を確立し、その中心を通じて宇宙的な真理の言葉で神の内的な思いを表現しようとされました。しかし、イスラエルの民はこの事実を知らなかったのです。


     29


イエス様は30年以上にわたり、永遠の真理の言葉を示すべきであったが、彼らの不信心によってイエス様は捨てられてしまった。そのため、人類は言葉の実体を見つける瞬間まで、イエス・キリストが神の意志と思いを代わりにこの地上に伝えようとした宇宙的な新たな真理を追求する必要がある。


今日の信仰する聖徒たちは、イエス・キリストの希望を実現させなければならない。イエス様が証しした言葉は、当時は民族的な言葉として、また世界的な言葉として現れるべきであった。しかし、世界的な言葉として現れることができなかったため、キリスト教は苦難の宗教となったのです。


もしイエス・キリストの言葉が当時、この地上を救う中心的な言葉として現れていたならば、神の力を示すことができたでしょう。個々の人がイエス様の前に従い、イエス様の前に従う民族があり、イエス様の前に従う世界があったとしても、神の意志を担うイエス様はこの地上でその意志を成し遂げたでしょう。しかし、イエス様の前にはそのような個人や民族、世界は存在しませんでした。


そして、イエス様の言葉を中心に据え、イエス様に代わって愛する弟子たち、愛する家族、愛する教団、愛する国家が一体となって神の思いを共有し、神の意志を受け入れるべきでしたが、彼らは自分たちの教団的な枠組みで自分たちが知っている真理を持ち、イエス様に接する立場にありました。そのため、イエス様の御言葉は御言葉通り、彼らは彼ら通りに分かれてしまったのです。


では、今、イエス様が終わりの時の聖徒である皆さんに求めているものは何でしょうか? 私たち自身に恥じることなく、宇宙的な存在となることを望まれ、宇宙的な真理を宣言されました。


     30


イエス様はこの地上に一人の個人としておいでになりましたが、彼はただの一般の個人ではなく、天下万物の創造の全体を代表した方でした。全ての創造の原理的な真理を代表した方であったのです。


イエス様は、このような価値ある存在として私達のもとに来られましたが、その価値の主人公、宇宙の主人公にはなられませんでした。ですから、皆さん自身がこのような宇宙的な価値の目的を達成しなければなりません。ですから、私達がイエス様を信じると、私達は個人的に真理と出会うことができます。皆さんが霊的な歩みを進めるとき、無限の恩寵が降り注ぐと、それを個人的な神恩としてだけでは理解してはいけません。それは時間をかけて環境的な神恩、教派的な神恩を経て、世界的な神恩にまで広がっていくべきです。そうすれば私達は再び帰還することができます。


神恩が私達に降り注ぐと、個人的な思考から自己の神恩としてだけでは見なしてはいけません。皆さんが個人的な立場から恩寵を受け、個人的な立場でイエス・キリストを通して真理を得たと言うなら、それを私自身のものとして消化すると同時に、この真理を責任を持って世界にまで広めていくべきです。こうして世界と共に進んでいくなら、それは私の神恩となると同時に、天の恩寵となるのです。しかしもし皆さんの信仰観念が、皆さん一人を救済しようとするものであるなら、皆さんは個人的な救済観念にとどまってしまい、そこで終わってしまうでしょう。


いまや皆さんの心に満ちる神恩が個人的なものに留まっていると言うなら、かつてのユダヤ民族がイエス・キリストを十字架につけた過ちを再び犯すことになるでしょう。


私が得た真理が私一人の命を救済するための宗教にとどまっていると言うなら、イエス・キリストの希望を実現することはできません。


     31


個人を通じて、家庭を通じて、社会を通じて、世界を通じて天の摂理に達する希望の中心を持って語られるイエス・キリストの言葉は、皆さんの個人的な神恩を通じて復活と新たな生命の歴史を成し遂げさせるためのものです。個人的であり、民族的であり、国家的であり、世界的な救済を皆さんを通じて行わなければならないのです。


皆さんは、個人的な救済、民族的な救済、世界的な救済、宇宙的な救済が残っていることを明確に認識する必要があります。


皆さんが父なる神に感謝するとき、個人的な感謝だけでなく、家庭的・社会的・国家的・世界的な次元での感謝を捧げることを知っていなければなりません。また、皆さんが悔い改めると言うなら、個人的な悔い改めから家庭的な悔い改め、国家的な悔い改め、世界的な悔い改め、天の国を巻き込んだ悔い改めをすることが求められます。


いまや個人的な救済観念を超えて、家庭的な救済観念を超えて、社会や国家的な救済観念を超えて、世界的な救済観念を超える時です。そうすることで、皆さんを通じて世界的な回心が始まるのです。もしユダヤ民族が民族的な救済観念から世界的な救済観念まで持っていたなら、イエス様はこのユダヤ民族を通して世界人類を救済されたでしょう。


歴史の過程を経て結実したイエス・キリストの福音の御言葉は真理の御言葉です。それは先祖達が経験し生きた全体の歴史を超越し、皆さんに救済をもたらす御言葉でした。このようなイエス様の御言葉こそが宇宙的な革命の御言葉であったことを皆さんは理解しなければなりません。


     32


イエス・キリストがこの地においでになり、それまで信じられてきたすべての律法に異議を唱えました。「私を通して、すべての律法は完成されなければならない」と宣言されたのです。このようなイエス様の宇宙的な信仰の中にある御言葉、宇宙的な価値の御言葉の意味をイスラエル民族が理解していなかったために、イエス様を殺したのです。


その御言葉は当時において宇宙的なみ言葉でした。また、愛の面でもイエス様は宇宙的な革命の御言葉を述べられました。


イエス様は「だれも私を愛さない者は私に値しない。また、だれも私を愛さなければ私の弟子になることはできない」と述べられました。これを見ると、神が創造の理想を追求される際には、宇宙的な旅を通して真理を追求していく必要があることがわかります。


人間と人間との関係、そして人間と神との関係を結ぶ際に非常に重要なのは宇宙的な愛です。しかし、人間が宇宙的な愛によって神との関係を築けなかったために、使徒の愛との関係を結ぶこととなりました。そのため、人間は神との理想的な愛を中心に据え、愛の門を突破して上に上る力を失ってしまいました。再びこの愛の門を突破するためには力が必要です。


イエス様は「私を他の何よりも愛せよ」とおっしゃった目的は、イエス様自身が愛されるためではありません。人々がその言葉を信じてイエス様を愛すれば、イエス様は人々を悪霊の支配から解放し、神との真の愛の関係に引き上げるために、悪霊の力よりも強い力で人々を引き寄せるのです。だからこそ、「他の何よりも私を愛せよ」とおっしゃったのです。このみ言葉は預言的な革命の御言葉でした。


     33


イエス様はこのようにして真理の革命を起こし、また十字架の死によって敵愛の革命を起こされたのです。これは個人対個人の愛だけでなく、家庭的・社会的・国家的・世界的な真理を代表する愛でした。それは宇宙を超える愛の革命でした。


しかし、現代の世界では愛はしばしば自己中心の愛や国家を中心とした愛に囲まれています。今までは自分の国を愛したり、自分の家族を愛したりする程度でした。国家以上、国家権を超えることができる愛は存在しませんでした。


しかし、神とイエス様の希望は一つの民族や国家に限定されません。それは神を中心にして天と地が一つになる理想的な世界を持つことです。ですから、イエス様が示された愛は、自己中心の愛や国家中心の愛ではなく、世界を超えて天に繋がる愛なのです。


イエス・キリストは、福音の御言葉を通じて確立された真実の道は何でしょうか? 


今日、皆さんはどの程度の愛を持っていますか? イエス・キリストは個人の前に立たれませんでした。家族や国家の前に立たれませんでした。宇宙的な愛の主人となり、花婿となられたイエス・キリストは、家庭的な迫害や国家的な迫害を受けられました。


     34


天地の創造主より、今まで神の愛を感じることができなかった全ての被造物がイエス・キリストを通じて初めて愛の絆を結ぶことができました。このような絆を結ぶ責任はイエス様にあったのです。


そうですね、イエス・キリストが開拓し、見つけ出して確立された愛はどのような愛なのでしょうか?


それは世俗的な愛とは正反対の愛です。人間の愛はせいぜい国家のための愛ですが、イエス・キリストの愛は宇宙的な愛です。つまり、個人を超え、民族を超え、国家を超え、世界を超え、天に至るまで響き渡る愛なのです。


それでは、神の愛はどのような愛なのでしょうか? 両面を持つ愛です。自分だけを愛するのではなく、敵すらも愛するのです。ですから、私達は神を愛すると同時に、敵までも愛することができる存在とならなければなりません。


イエス・キリストの愛とはどのような愛なのでしょうか? それは悪魔さえも思いやる愛です。悪魔までも愛することが神の愛であることを知ったからこそ、イエス・キリストは「しかし、わたしはあなたがたに言います、敵を愛して、迫害する者のために祈ってください」という基準を立てられたのです。(マタイ5:44)


     35


だからこそ、私達はこの宇宙的な愛の基準をこの地上に築き上げなければなりません。私達が死ぬまでにこの使命を果たせなくても、私達の子孫を通じてでも、この基準を確立する意志を持たなければなりません。


そして、今では感謝の生活を送らなければなりません。私達はキリストの恵みと愛によって生かされており、天からの恵みと愛によって生かされていると考え、キリストと天の前で感謝の生活を送らなければなりません。私が救われたことに感謝するだけでなく、イエス・キリストの宇宙的な使命を代わりに果たすことにも感謝し、イエス・キリストの愛を完成させるために生きることにも感謝しなければなりません。


家族を代表し、民族を代表し、国家を超えてイエス・キリストが十字架にかかりながらも敵を許し愛したその宇宙的な愛を皆さんは知らなければなりません。そして悲しみに打ち勝ち、愛の心で敵を見つめたイエス様の心を皆さんは知らなければなりません。


イエス・キリストは十字架で「成し遂げた」と言われました(ヨハネ19:30)。そう仰るまで、イエス・キリストは自分の悲しみや不正な扱いさえも忘れて、天の御旨を達成するために苦労されたことを皆さんは知らなければなりません。自らの一生を通じて宇宙的な命を取り戻すために、イエス・キリストは自分の苦しみや不正な扱いを忘れ、あらゆる苦難を乗り越えられたのです。だからこそ、イエス・キリストの生涯は自分だけが生きるための生涯ではなく、民族や国家はもちろん、神の国を築くための生涯であったということです。


今日、皆さんはイエス・キリストの命を求める運動をしており、民主主義の世界ではイエス・キリストの名を復活させるための運動をしています。大きな恵みを受け、大きな責任を負っている民族であろうとそうでない民族であろうと、同じです。この地上にはイエス・キリストの福音が残っており、この地上に存在しなかった新しい宇宙的な真理、愛、そして命が残っています。そんな宇宙的な真理、愛、そして命は、皆さんのものになることができるということです。


     36


この地上の人類を救うために努力された方として、哀れだとすればイエス様よりも哀れな人はいません。イエス様の言葉は世界を代表する言葉でした。地上にまかれるべき真理の言葉であり、地上に受け入れられるべき天の言葉であり、地上に植えられるべき宇宙的な命の言葉でしたが、地上で受け入れられず、おいでになったイエス様は否定されました。イエス様の言葉を当時の人々が信じなかったために、イエス様は孤独になられたのです。


神は6千年にわたり努力されてこられましたが、この神の努力を理解することができる生命の主人、真理の主人がこの地上において現れるならば、地上のすべての良心的な人々は彼を敬愛するでしょう。真理の道を歩む人々がいるならば、生命の道を歩む人々がいるならば、彼と共に歩むでしょう。


このようなことが天が望む基準でありながらも、現代の人々は個人的な愛の基準、個人主義を持って生きています。昔のユダヤ人達もこのような心を持って生きたためにイエス・キリストを十字架につけたのです。このようなことがイエス様の後も続いているという事実をよく認識しなければなりません。


今、私達には天を代表できる新しい言葉、新しい命、新しい愛が必要です。しかし、単に理念的な言葉だけではなく、具現化できる言葉が必要です。


だからこそ、終わりの時代である今日、皆さんは目覚めなければなりません。皆さんは新しい真理、生命、愛を持って民族を救い、世界を救い、天の6千年の怨恨を解消しなければなりません。


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御言葉選集1(12、13)

2023年07月01日 14時48分00秒 | 学習
<祈り(Ⅰ)>
 愛するお父様! ここに集いましたあなたの子供達を親しく主管してください。私達が持っている命が本当に私達が持っている命なのかどうかを知らない人にならない様にしてください。許された天の大きな恩恵を受けましたが、民族の前に残してあげる事ができない者にならない様にお許しください。

 愛するお父様。この日、孤独な道を行く少数の集団がここに辿り着き、お父様の前に参り伏せております。彼らがあなたの愛によって一つになる様にお許しください。人間を見つけるためのあなたの愛の手が、6千年の歴史に代わるこの場所で、私達と結びつくことを許してください。こうして心が心を、体が体を結び、私たち全員が一つになるようにお許しください。

許可された恩恵は私たちだけのものではありません。それは全体の恩恵です。この恩恵が民族を通じて24億人の人類にまで広がることができる恩恵となるよう、お許しください。お父様。私たちの命の中心となり、私たちの愛の中心となり、私たちの希望の中心となって、お父様の恩恵の手に満たされ、今からずっと私たちの心情にあることを願っています。愛するお父様、切望しております。

お父様! たくさんの人々がこの日、お父様に敬意を表し、お父様に向かって礼拝していることを知っております。集まる場所ごとに、お父様の愛の手が共にあり、私たちに触れてくださいますようにお願いいたします。集まった者達が彼らの全体を代表し、お父様の深い心情の前にひれ伏すようにお許しくださいませ。

お父様の秘められた愛を彼らの前に示し、明らかにしてくださいませ。そして、終わりの定めを代わりに全世界の人類の前に現れるために、不足のない団体となるように許してくださいませ。お父様の力強い御業をこの時に許してくださいませ。私のお父様、切望し、願っております。

    1

この日、私たちの心情をそのままお父様の祭壇に捧げます。相応しくない要素をすべて除いて、完全にお父様の聖なる御存在を讃え、感謝の心だけで満たされるように許してくださいませ。私のお父様、切望し、願っております。

それによって集まった、お父様の愛する子ども達の中に、一つの命でも、お父様の前に相応しくない命がないようにして下さる様にお願いいたします。自己中心的な罪の痕跡を残す息子や娘がいる場合、お父様! 炎のような聖なる霊の歴史を現して、罪の跡を持つ者達が恥じ入り、自ら悔い改めることができるこの時間を許してくださいませ。そして、四海民族を代表し、完全なお父様の前に、謙遜なる献身としてささげられる私達に再び形作られることができるように許してくださいませ。愛するお父様、切望し、願っております。

お父様、この日に参加できなかった家族もいますので、どこにいようとも同じ恩寵によって主管してくださいませ。あちこちに集まり、民族を代表し叫ぶ孤独な教団を祝福してくださいませ。お父様! その聖なる御手を通じて、檻の火がこの民族の前に現れるように許してくださいませ。そして、お父様の聖なる御意志が、お父様を敬慕する者達を通じて全世界の前に喜びの御意志として現れるように許してくださいませ。愛するお父様、切望し、願っております。

この一時を完全にお任せいたしましたので、三位一体の聖霊が主宰してくださいますようにお願いいたします。切望しながら、お父様の御名においてお祈り致しました。アーメン。


<祈り(Ⅱ)>
 この地の審判を早く実現してください。今日ここに集まった愛する兄弟たちをお父様だけが守ってくださり、お父様だけが主管してくださいますように。ただこの一時でも、私を中心としたものが何もない時間をお許しください。

    2

私の生命も私のものではありませんし、私の知識も私のものではありません。私の概念全ても私のものではないことを知るこの時間をお許しください。ただお父様の前に託されたものとして、天が動じれば私も動じ、天が決めれば私も決めるようにお許しください。

お父様、傷つき悲しい心で悩む兄弟たちがいますので、彼らの立場と状況をご存じのお父様にお願いします。彼らの身体と心に、天から降り注ぐ永遠の命の炎が灯るようにお許しください。お父様の前で、再生の歓喜が戻ることのできるこの一時をお許しください。

世界のどんなに概念が偉大であると言っても、天倫に比べることのできないものである事を知らせてください。世界の無知がこの地上に蔓延していることを知らせ、その罪深い影が全世界と関係を結んでいることを知らせてください。

それによって自己の不足を悟り、天倫の動きに感動し、全体に対して「皇恭な心」を感じることのできるこの時間をお許しください。愛するお父様、切望しております。

お父様、傍におりますので命令を下してください。集まって座っておりますので、お父様のご意志に沿った御言葉をお下しいただきますようにお願いします。復活の力を示し、阻まれた障壁の闇を打ち破り、進むことができる力と能力が爆発するように許してください。切望しております。

    3

心は願いだけであり、肉体は弱いため、この弱い肉体を打ち砕くことができる力を示し、権能の手で導かれ、再創造の恩寵を与えてくださるお父様の手の前に、真実に負債を返すことのできる地となれるようにお許しください。栄光の姿に造り出される、柔和で謙虚な者となれるように許してください。愛するお父様、切望しております。

今日、不足な私達をお父様がお呼びくださったので、お父様の希望を成し遂げることができるようにお許しください。滅びゆくこの民族、途方に暮れているこの民族、哀れなこの民族の生きる道を見つけるために、祭壇を現すことをお許しください。今日、私一個体をお父様の前に立て、質問と回答ができる場に立たせてください。私の一個体が天倫が要求する使命を受け、果たすことができるようにお許しください。

すべての悪と戦い、区別することができるようにお許しください。善と悪を区別し、善の立場に立つことを許してください。善のものが残り、悪魔の悪事は清算されることを信じ、正しい道に進んで、お父様の栄光の中で生きる者となれるようにお許しください。お父様、切望しております。

お父様! 三千万の民族を憐れんでください。この民族のために涙を流す神の子女たちの涙が天に響くように許し、この民族が悔い改めることのできる天の感動的な歴史を示してください。悔い改めることのできる復活の歴史が、この民族全体を通じて現れるようにお許しください。そうして、お父様の望まれる新たな意志を新たな心で受け入れる民族となれるようにお許しください。お父様、切望しております。

ここに集まった、お父様の愛する子どもたちを一人ずつ呼び出し、個々の個性で区別してください。お父様、まずは心と身体、そして生活を永遠の理想に干渉させてください。この時間だけでも全体の意志の前、お父様の望まれる目的の前に、すべてを捧げ、お父様だけが受け取ることのできる供物として礼拝する時間となるようにお許しください。お父様、切望しております。

    4

すべてを主管してください。主の御名においてお祈り致します。アーメン。


《祈り(Ⅲ)》
 愛のお父様、哀れな民族に天の心情を伝えようとするものの、この地上に生きる人々はまだその心情を知らずにいます。彼らは天の内的な心情が地上とは全く関係のないものと考えているため、哀れな人々の無知をこの時間にお許しください。

お父様! 今日ここに集まった少数の子供達が天が彼らに大きな使命を求めていることを知り、その責任を果たす心を持てるようにお許しください。意志の前に立たせ、行動によって彼らを明らかにしてください。

意志に捧げる心情を持った子どもたちは何人いますか? 愛するお父様! 言わなくてもお父様の心情を理解できる人は何人いますか? 呼ばなくてもその意思を察し動く人は何人いますか?

お父様! 彼らが天から得たいとするものは大きいですが、天が私たちに対して求めることも大きいことを知っております。お父様! この時からでも少数の家族がお父様の意志を受け入れるため、不完全な身体をお父様の祭壇に差し出したいと願っておりますので、受け取ってください。傷ついたものを傷つきのままと見なさず、愛によって受け入れてください。

お父様が直接愛される私達でなければ、サタンの嘲笑を免れることはできないと知っております。お父様、全体を容認してください。天が秘めていた生命の出会いを分かち合えるお父様の恩寵を、この時間にお許しください。

    5

ここに集まった人々を見つめるとき、不足な人々であることを知りました。お父様! 溢れる力を与えて下さり、彼らの力の不足なことを忘れ、罪の意識を完全に忘れ去ることをお許しください。彼らの前にはただ生命だけが現れることができるこの時間を、直接的に体験出来るようにしてください。

お父様! この日に集まった群衆が受け取る者の心で、からの器を持ち、お父様の前に逆さに返して差し出すことをお許しください。生命の水を注いで、からの器を満たし、真実を立ち上げてください。天に向かって、お父様の前に身を起こし、手を上げてすべてを捧げることができるこの時間をお許しください。愛するお父様、切望し、願い求めます。

この時間、彼らの前に立っていることで、伝える言葉が一生に一度しかない、歴史の過程に欠かせないキリストの重要な御言葉であることを悟らせてください。重い罪の重荷を負っている彼らが、御言葉の基盤の上で復活の力によって勝利の実績を持つことを知っております。

今日、私たちもイエス様の前に全てを委ね、十字架によって復活の条件を確立したその基盤の上で、天から再び生み直されることをお許しください。愛するお父様、切望し、願い、求めます。

この時間、全てを主管してください。主の御名によってお祈り致しました。アーメン。

    6

<御言葉>
今日お伝えしたい言葉は、 「神様が知って下さる栄光に参加しましょう。」です。このタイトルでお話しします。

 天輪の意味を証明すべきだった洗礼ヨハネは、全世界の前に自らの使命を果たせなかった事を原因として、イエス様は悪魔と戦わなければならない困難な関門の前に立つこととなりました。イエス様の状況を理解すべきイスラエル民族は、イエス様の事情を理解せず、悪魔がイエス様の前に立ちはだかる困難な苦難の道へと追い立てる立場となる中、天上のあらゆる存在があってもまずイエス様を理解するべきでありながら、誰も理解しない立場でイエス様は一人立ち、天の意志を知らない民族に対してその意志を伝えようとしました。

自らが知り得る内なる内容をこの無知な民衆の前に伝えなければならない使命を感じたイエス様は、自らの神を万民の前に立てるとともに、神だけが理解してくれるという一つの心を頼りに、新たな覚悟と新たな希望と新たな決心を民衆の前に宣言するために立ち上がったのです。今日の御言葉は、このような内容として重要な御言葉です。

人の幸福はどこから来るかと言えば、自分を理解してくれる人を持つときにやって来るものです。さらに、自分の過去を理解し、現実を理解し、さらには自分の未来まで理解してくれる友人、仲間、または師といった存在があれば、その人は幸せになるでしょう。

そして、人の安息の場は、そうした人々の膝元で形成され、またそうした人々が存在する環境を通じて喜びと幸福を感じることができるのです。

    7

イエス様は天上におられる神が歴史を通じて自分を知り、30年の生涯を通じて自己を知り、永遠なる神のみ旨を通じて自己を知ることを悟られました。

イエス様は、神様が自分を知ってくださった様に、全ての人類に歴史を通して知らせなければならなかったし、彼らの生活を通して知らせなければならなかったし、未来を通して知ってくれる立場に立たなければならなかったのです。この事を知ったイエス様は、人間に神様を知らせるべき中心的な存在がまさに自分自身である事を感じれば感じるほど、どんな形でも民族の前に神様を証ししなければならなかったのです。

まず、イエス様が証明しようとしたことは、自分が神の意志の前に4千年にわたって経てきた神様の摂理と断ち切れない関係の縁を代表する存在であるということでした。4千年の摂理を通じて神様がイエス様を理解されたように、全てのイスラエル民族が神様に導かれるべき責任を感じたイエス様は、自らの生涯の経緯から神様の御旨を民族の前に示そうとしました。

また、彼の30年の生涯の摂理の中で、人類が自身の将来の理想と一体とならなければならないことを悟った時、イエス様は天から地上の人々が自己を理解する理想的な世界まで、自らの神様を通じて人々に知らせなければならない責任を感じました。

過去から現在へ、現在から未来へと続く永遠の天上界や地上の出来事、そしてどんな存在であれ、無限の時間を経てイエス様一人に至る摂理の歴史が残されていることを考えると、この摂理を天の前で明らかにすることはイエス様だけの使命ではなく、何千万もの聖徒たちの前で明らかにすることもイエス様だけの使命ではなく、歴史的な先祖たちの前で明らかにすることもイエス様だけの使命ではありませんでした。

    8

イエス様は全体を代表して御旨の前に立つ存在として、神様が自分を知っていただくことと同様に、神様を代表して国民を知って頂かなければなりませんでした。イエス様が神様の代わりになるように、国民がイエス様を代わりにしなければなりませんでした。さらに、イエス様が神様を知っていただくように、国民がイエス様を知って貰う関係を築かなければ、イエス様は人生で真の幸福を感じることができないということです。イエス様は天上では神と共に喜びを感じることができましたが、地上では人々に知られずに喜ぶことができない立場にありました。

イエス様の御言葉は、天上だけを知ってほしいという御言葉ではなく、天上だけのための福音ではありませんでした。彼の言葉や努力、そしてすべての困難な闘いは、歴史的な国民のためであり、将来の国民を導くためのものでした。しかし、当時の人々はこのような事実を知りませんでした。もし地上の人々がイエス様を知り、彼の生涯を理解していたならば、それほど悲しみに満ちたものにはならなかったでしょう。

では、神様はイエス様をどの程度理解されたのでしょうか? 神様はどのようにイエス様を理解されたのでしょうか? 創造の始まりから人類の歴史の進行、歴史の関係を通じて、その時代の社会全体まで、さらにはイエス様の未来の理想までをも神様は理解されました。

無知な人々の前に現れたイエス様は、天の使命を受けて自身が神の子であることを証して労苦を重ねました。そして、歴史の舞台で神様が無限に労苦された悲しい思いに共感し、戦いました。また、歴史の中でご苦労された先祖たちを慰め、その悲しみを和らげようとしました。神様はイエス様をそのような存在として立てられたのです。

イエス様には神様のための心があり、その心を人々の前で伝えたいという悲しい思いがありました。このような悲しい心がイエス様に残っている以上、イエス様を扱われる神様の心も悲しい思いにならざるを得ません。人間が責任を果たせなかった結果として、神様が悲しみと悲嘆の中におられることを私達は知る必要があります。

    9

それでは、神様はイエス様をどの程度までご存知でしたか? 神様はアダムとエバを中心とした夫婦の理念を通じて、子供たちの栄光を全世界に現す為の存在としてのイエス様として考えておられました。

では、イエス様は神様をどの程度ご存知でしたか? 自身が歴史を代表する存在と考える一方で、神様がマリアを中心とした家庭生活から現実の人生の経過まで、夫婦の信仰を自身を通じて地上に示し、善の栄光まで地上に現したいと望んでいることをイエス様はご存知でした。そのため、イエス様の言葉は歴史の怨みを解消する言葉でした。

イエス様はマリアの従順を神様がご存知であることを知っていました。マリアの状況も神様がご存知であることも知っていました。より謙虚な立場から出発点を築かなければならない夫婦の信仰が神様が望んでいることを知っていたのです。また、悲劇的な出生の中で善の期待を望まれていることも知っていました。このように、イエス様が神様を知る知識を人々が理解していれば、イエス様の愛の意志と人々が関係を築くことができたのですが、当時の人々はそれを知らなかったのです。

従って、イエス様は神様と話ができましたが、人々との話はできなくなってしまったのです。イエス様の知識と神様の意志、そして地上での救済計画を伝えることができる人がいなかったため、イエス様の悲しみは全世界を失った悲しみよりも大きなものであったことを皆さんは理解する必要があります。

愛は最初に天倫の愛を経て、親の愛を経て、夫婦の愛に至ります。私たちは堕落と人間の繰り返される過ちのために回帰の道を辿っているのです。

    10

したがって、成人になるまでの人生では、親の愛を受ける時期です。その時期が過ぎた後は、自己を中心とした愛の時期であり、夫婦の時期です。その後は子供に対する愛の時期が訪れます。

では、神が6千年の歴史を経ておられる中で、イエス様が現れるまでどのような愛の時期であったでしょうか? イエス様を通して、神様が直接的に親として愛を与える時期でした。その後、イエス様が親の愛の領域を超えて自身の家庭生活を築く時期が夫婦の時期です。

では、今後進むべき時期はどのような時期でしょうか? それは夫婦の理念を地上で成就させる時期です。そのためには、地上でイエス様が内なる神様の意志を中心にし、家庭的な期待を展開する必要があります。そのためには、まず霊的な夫婦の生活を地上で展開しなければなりません。霊的な天の家庭生活を地上で展開し、地上で歴史を代表する家庭の形を形成する必要があるのです。

イエス様の後、2千年の歴史を経て、今は天と地が結びつき、内的な形と外的な形が結びついて一つの実体を形成し、それと関係を築く時期です。皆さんは自己を中心にし、新しい親の子供となるべきです。この時期、親は新しい子供を育てることができなければなりません。そして、その新しい子供を通じて新しい夫婦の理念を地上に確立するのです。これが歴史の中で残された理想です。

それでは、イエス様が来られた目的は何ですか? 内的な家庭型と外的な新郎新婦の理念と子供の生活を総決算する事でした。外的な基盤だけでなく内外が開いて相対的な基準を終結させる事で、天倫の願いは、誰にでも内的なものから一つの基準を立てる事ができる歴史的な家庭形態の復帰路程を経ていけるのです。誰もを通して現実と歴史的な事実だけでなく、決定的な事実として、皆さんは神様がイエス様を立てるまでの家庭的な生活様式を立てなければなりません。

    11

イエス様が新約聖書を中心に2千年間摂理してきた信頼できる新郎新婦の実証的な内容を皆さん自身が持っていなければ、新郎新婦の基準を堂々と見つけ出せないでしょう。

皆さんが存在し、実在できる一つの具体的な善の子どもを地上に置き、恥じるべき子どもではなく、罪悪の歴史から完全に解放され、どんな敵もあざ笑えない子どもを立てた後、隠していた天上の秘密の心情を知り、実体である私を立てて天からの愛を受け、天と相談し、交わりを持つことができるでしょう。

皆さんが今日の信仰生活を通じて信じているイエス様、神様が知っておられたそのイエス様の目的は何でしょうか? 皆さんがイエス様を知る程度はどの程度でしょうか? 皆さんは夫婦の姿をイエス様と聖霊だけで知ることではいけません。

皆さんが一生を通じて家庭の具体的な愛を通じて、内面的な愛を経て永遠の命の基盤、永遠の救いを達成する勝利の基盤を残せなければ、天の理想や天の希望は皆さんとの関係を持たなくなります。さらに、それは神様のものになり得るし、イエス様と聖霊のものになり得るが、私のものにはならないということです。

そのため、皆さんはイエス様を知るためには、イエス様自身を知るだけではなく、イエス様を中心にして調和できる人である必要があります。そのような人は、神様がイエス様を知っておられた様に神の子として、イエス様と同等の存在となり得ます。彼は地上で歴史を代表し、現世を代表し、未来を代表して堂々と立ち向かうことができるでしょう。そのような存在がこの地上に現れるとすれば、彼自体が歴史を知り、イエス様の教えを知り、イエス様が望む世界を代表することができる存在であるでしょう。

    12

そのような存在となるためには、どのような条件を提示しても神様の前で感謝できる人であり、どのような環境でも希望を失わない人となる必要があります。イエス様は、私が何を愛するかよりも強い神様の希望と愛が共にあるべきだと感じたのです。

そのため、環境が変わり、歴史が変わり、天地が混乱する中でも、最後の瞬間までイエス様が考えていたのは、人間でした。人間のために断ち切れない永遠の関係を結び、永遠の命と中心の心情を代わりにしようとしたのです。そのため、十字架もあるのです。そして、死も早く来ると言えたのです。

今日、皆さんが生活を通じて、人生を通じてそのような感覚を感じることができないと言えるならば、皆さんはイエス様を知っていても知らないことと変わらないでしょう。

ですから、皆さんは今後、御旨の全体的な歴史形態を代表し、全体の歴史を代表し、永遠の歴史を代表することで、永遠の神様の動的な心情と静的な心情にまで通じる関係を築かなければなりません。そして、歴史に結びついた罪を解消し、万民の前に現れなければなりません。そのような人として現れることができないと言えるならば、イエス様が求めている、つまり天が認める子どもではないことを皆さんは知らなければなりません。しかし、もしもそのような人が存在するとすれば、彼は自分が口にする一さじの食事でも神様に感謝し、息をするその一息からも神様の愛を感じることができるでしょう。

天地の運勢が無言で巡り行くのと同様に、私の心も新たに無限に巡りたいと願っていますが、なぜそれが叶わないのでしょうか?  天地の力と愛が結びついて天倫の原則の基準が連動していることを私達は忘れているからです。

    13

ですから、今日の私達は自分の生活の中で、イエス様が神様を知ったように、イエス様を知らなければなりません。そしてイエス様が神様の心を知り、イエス様の唯一神の栄光が天に還っていったように、私を通じて私の栄光をイエス様に帰すことができるように、イエス様に従って行く心を持つ必要があります。イエス様が神様に従い、神様の愛の心を知っているのに、私達がイエス様を知らなければ、イエス様の使命的な願いはどこで成就されるのでしょうか? 今日、皆さんはこれを考えなければなりません。

今日、皆さんはイエス様のために瞬間瞬間を生きていると言えるでしょうか。皆さんは全ての国々と全ての民族のために存在できなければなりません。歴史の終末時代までその流れと天倫の心情を永遠に感じながら、万物の主役として天の栄光を讃え、天に栄光を帰すことができる集団とならなければなりません。

これこそがイエス様の希望であるならば、私自身がイエス様に代わって天の前で栄光を帰すべきです。したがって、皆さんは夢のような事実を夢ではなく現実で実践できるようにならなければなりません。神様の願いはそのような意図を成し遂げることです。神様とイエス様の心情に通じていたその要求と望みが皆さんを通じて現れています。

もしもこのようなイエス様の心情を通じて神様の内なる心情に従い、父の代理者となりイエス様の代理者となることができる、地上で真にイエス様を信じる人がいるならば、イエス様を知ってくれたことと同様に神が知ってくれるでしょうし、神様が知ってくれると同時にイエス様と聖霊も知ってくれるでしょう。また、イエス様と聖霊が知ってくれる同時にイエス様と聖霊と結びついている天使達も知ってくれるでしょう。しかし、今日の人々はこのような栄光の賜物を賜物として認識していないのです。

イエス様は神様だけを知ってくださったが、私達は神様も知ってくださり、イエス様と聖霊も知ってくれるでしょうし、天にいる無数の聖徒達も知ってくれるでしょう。ですから、私達は地上で神様を知ることができれば、イエス様と聖霊を通して霊界でも認められることになります。それゆえ、私自身がこのような認識の中で立ち、イエス様を通して2千年間も支配された神様の心を知ってくれる人々とならなければなりません。

    14

神様の主管の理念は皆さんを通じて現れなければなりません。このことを考えると、私達は恵まれた群衆です。イエス様が十字架に向かわれた時よりも、より恵まれた立場にあることを知らなければなりません。

イエス様は神様のために独りで死に向かわれました。しかし私達は神様のために、またイエス様と聖霊のためにも死ぬ覚悟をしなければなりません。そして、無数の聖徒達は私達の進む道を支え、私達を歓迎する存在とならなければなりません。

私は悟りました、お父様の御働きによって無数の聖徒達が今日私を通して慰めを受けることができるようにお願いします。私達はできる限りの事を行う者とならなければなりません。その時、皆さんは天の主管全体を代表し、勝利の栄光を示すことができるということを知らなければなりません。


≪祈り≫
 お父様! 信じる者達は、お父様の前で悪臭を放ちながらも自己を悟りませんでした。お父様! 天上の心を通じて私自身を知ることをお許し下さい。また地上にて私自身を知ることをお許し下さい。

天上と地上が結びつく栄光の一つの意味を、私自身が知ることを許して下さい。また、お父様、今日ここに集まった子ども達を愛して下さい。そして、お話したいお父様の悲しい心さえも理解できるようにお許し下さい。お父様を中心に天を向かう心をお許し下さり、永遠なるお父様の人生の道を私達が知り、天を知り、天の栄光を崇拝する子ども達となるようにお許し下さい。熱望して願っております。

    15

この日に集まった全ての子ども達が、お父様から流れる愛の力を受けて、お父様が動かれるならば私達も動き、お父様が定められるならば私達も定めることができる相対的な祝福をお許しください。私達が通じて、お父様の全体的な心配を軽減し、歴史的な支配を代わりに果たすことができるようにお許しください。

また、天上と地上を左右することができるお父様の永遠の王国を築き上げることによって、神様が知り、イエス様、聖父、聖子、そして全ての聖徒が知り、地上の全ての聖徒まで知ることをお許しください。

お父様の知識の栄光を勝利の条件とし、悪魔の支配を打ち破り、勝利の舞台を形成することができるようにお許して下さい。熱望しお願い致します。
すべての御言葉を主の御名においてお祈り致します。アーメン。










文鮮明先生御言葉選集 1 - 13. 復帰の価値を示す(1956年7月18日)
復帰の価値を示す 1956年7月18日(水)、元本部教会。
聖書拝読 使徒行伝1:6-11


<祈り(Ⅰ)>
 愛するお父様! 3日間、お父様の愛の庇護の下で過ごした後、この夕方再びお父様の前に身と心をかがめ、礼拝するために集まったすべての子ども達の頭上に、お父様の栄光が共にあらんことをお願いいたします。

耐えられながら、摂理されてこられたお父様の愛の手が同様に現れ、彼らには人々がお父様を礼拝せざるを得ない心の感動が生じるようにお許し頂き、そしてそのために柔和で謙虚な心でお父様にひれ伏し、礼拝することができるこの一時となるようお許し頂きますように。

    16

愛するお父様! 慈悲深いお父様! 私たちだけでは、私たち自身の力だけでは善と悪を判断し、善を高めることはできません。しかし、父が天に隠された善の力と、天に秘められた愛の力を復活の力として示し、私たちが善を行う能力をお許し下さい。復活の栄光を備え、心と身体を捧げてお父様に敬意を表し、心と身体を捧げて栄光を示すことのできるこの時をお許し下さい。愛するお父様、熱望し、お願い致します。


今、伏せたすべての子どもたちの心を、お父様、聖別して祭壇の供え物になる様に主管して下さい。それぞれの内面に応じて聖別の手を差し伸べて、個々の心と身体を明らかにできるようにして下さい。一つ一つ聖別して下さり、正しくない要素を排除しなければなりません。お父様、自ら判断の主人となって下さり、心情の主人となって下さい。

善悪を判断し、悪を処し、善だけを持った犠牲として、一つの中心を通じてお父様の御前に捧げられるように許して下さい、私のお父様、熱望致します。

お父様! 今、集まりましたので、顕現するお父様の姿の前で、不完全な自我を認識できるこの時間をお許し下さい。過去の罪悪の力を受けて死の中にある自我を発見し、お父様の前で、善の栄光の祭壇の前で自己を明らかにすることのできるこの時間をお許し下さい。過去の正しくない習性や、お父様を信じない概念を排除して下さい。新たな善の刺激を受け、お父様の御姿の新たな価値を感じ、心と身体で衝撃を受けることのできるこの時間をお許し下さい。悔悟(かいご) と感動の歴史を繰り広げていける様に、愛するお父様、熱望し、願っております。

お父様、少数の集まりがここにありますので、主導していただきますようお願いします。ここに集まった子どもたちの中で、悪魔の支配を受ける子どもがいないようにお許し下さい。お父様の再創造の苦労の歴史と全能の歴史を経て、今日の世俗的な思いを捨てることのできるこの時間をお許し下さい、お父様、熱望し、お願い致します。

    17

合理的でなく、正しくないすべての罪悪の要素をこの時間、お父様、除去してください。直接介入し、主導することができる栄光の要素だけが集まった聴衆全体に満ちに満ちて働いてください、満ちに満ちて主管してください、愛するお父様、熱望し、お願い致します。

お父様、この夜は孤独な集まりが各地に広がり、民族を代表して天に敬意を表する時間であることを知っております。孤独な集まりを友として受け入れ、彼らと共に働くお父様、彼らと供に働く私のお父様、彼らが置かれたどんな環境や立場においても、お父様、彼らの天に対する忠誠と献身だけは変わらないようにお許し下さい。

悪魔の冷笑に困惑することが山のように立ち塞がっても、それを踏み越えて進むことのできる天の勇者として立てて下さい。終わりの時に託された使命を果たし、父の願いを達成した後にも残り続けるように導いて下さい。戦い続けることができる変わらぬ天の力を共に与えて下さい。私のお父様、切に願い求めます。

この夕べ、われわれの民を代わって集まる数多くの祭壇の上にも、人類に代わって集まる数多くの祭壇の上にも、聖三位一体が同じ歴史として臨まれますように。終わりの成就を彼らに予告し、立てられ、求められなければならないお父様の本来の御旨を早くこの24億の人類の前に明らかにされるように、この地上に現れることをお許しください。愛するお父様、切に願い求めます。

最初から最後までただ使命に委ねられた献身として、お父様がお供えになれる祭壇を築き、喜びの体現となる歴史と能力と栄光だけが現れるようにお許しください。主の御名においてお祈り致します。アーメン

    18


<祈祷(Ⅱ)>
 一つの目的を達成するために努力し、多くの人々が知らない孤独な旅路であったことを知った時、ヤコブが歩んできた21年の生涯が私たちの信仰の道として残っていることを考えると、その苦労の足跡ごとに涙とため息が湧いてくることを感じるでしょう。

お父様、今日ここに集まった方々も、ハランの荒野を前にラバンの家に向かって歩んでいたヤコブの道を見本とし、御旨の道を歩むために立ち上がった集団でありますので、彼ら心情を知り、彼らの友となってくださる様にお願い致します。彼らの道を守ってくださる様にお願い致します。

私達の進む道の前には多くの悪魔が立ち塞がっていることをご存知でしょうか? 闇の支配が妨げとなっていることをご存知でしょう、愛するお父様! ヤコブが歩んだ道を見本とし、歩もうとする子供達の心に、揺るぎない中心だけが残るように許してください。一途に天徳の御旨だけを心に抱き、肉体のあらゆる条件を忘れて駆け出す子供達になることを許してください。

そして、最後の戦いの勝利をお父様の前に差し出すまで辛抱しながら戦い続けなければならない道が残っていることを知るのです。お父様! 力を与えて下さい、能力を与えて下さい。ヤコブの孤独な心情を受け継ぐ、大地から天の果てまで降り立った階段を、天の天使達が上り下りするその栄光を見つめる恩寵を、この場にお許し下さい。

この方々が最後まで協力し、天にいらっしゃることを知らせて下さい。お父様の忍耐の心情を知らせて下さい。お父様の永遠の御意が成就するその日まで、戦いの勇者として戦い、勝利を収めさせて下さい。愛するお父様、切望致します。

    19

今、全てをお任せしました。私達がお父様に願い求めた切望の心をお分かり下さい。心からお受け取り下さい。心身を一つに結びつけ、献身的な犠牲として捧げることができる恩寵をお許し下さい。お父様、切望しております。

お父様! 今、この時間全てが許された恩寵に感謝できる時間となるようお許し下さい。私達の個人的な主張を防いで悲嘆の群れとなり、悪魔の陰謀を抱えることがないようお許し下さい。勝利の栄光を受け入れ、温和で謙虚な献身の犠牲として、心身を捧げて天の勝利の犠牲となることができる時間となるようお許し下さい。愛するお父様、切望致します。

心と体を完全にお父様の前に差し出しましたので、全体を勝利の栄光の下に統率して下さい。喜びの恩寵をこの時間で分かち合えるようお許し下さい。切望しお願い致します。主の御名によってお祈り致しました。アーメン。


<祈り(Ⅲ)>
 お父様! 一人の心が天の前で中心を失った時、その影響が集まった人々に大きく及ぶことを、各自が認識できるようにお許し下さい。もし私の一身が不完全であり、悪魔に惑わされると言われるならば、準備された祭壇全体がお父様の前に捧げられないことを知らせて下さい。

もし天の歴史が現れ、区別の歴史が生まれると言われるならば、中心を失った者はカインの道を歩むことになり、中心を保った者はアベルの道に立つことを知っています。この集まりの中に多くのアベル的存在をなせる様にお許し下さい。カイン的な立場に加わることができないようにして下さい。

    20

お父様!この時、区別された歴史を創っていかなければならないので、今、各自が自らの心を明らかにできるようお許し下さい。私達の心に中心を築き、天の右側に立つことができるようお導き下さい。

左側に立ちながら右を見て迷う心を持たないよう許して下さい。天が喜ばれる場所に向かい、温和で謙虚であり、何ものにも屈しない姿勢で父の前に謙遜である者になれるようご協助下さい。天上の中心と調和するために、全力を傾けることをお許し下さい。お父様、切望しお願い致します。

この夜、お父様の愛する子供達が命の御言葉を受け入れることができるようにして下さい。身と心に天からの新たなる炎の御言葉を伝え、私達一人一人が自らがどの位置にあるのかを悟ることができるようにお許し下さい。

そうして天が喜ばれるその日の心を見つける事が出来るようにお導き下さい。適切な姿勢を立てるようにごお許し下さい。お父様の祭壇の前に喜びの存在として立つことができるようにお許し下さい。切望し、お願い致します。

本日の夕食の時、幼い子供達の前で許しを得てお話をさせて頂きたく思います。お父様、ふさわしい御言葉をお示しいただき、御心と御望みがこの一時に実現されるようお許し下さい。

    21

私達にあるあらゆる邪悪な心を取り除き、善い心の基盤の上に喜びの栄光の霊を受けることができるようにお許し下さい。

この時間、御言葉を伝える者の心や受け取る者の心がお父様の姿に似て一つの姿を備え、交わる時間となるようにお許し下さい。そうして天が私たちを通じて動くことができる貴重な時間となるよう、お許しを願います。

聖霊の炎によって全体を導いていただけるよう、切望いたします。愛に満ちた主の御名によってお祈りいたしました。アーメン。


<御言葉>
「使徒行伝」1章6節以下の箇所を中心に、「復帰の価値を示す」というタイトルでお話しいたします。

神様が堕落した人間を救いたいと思われる目的は、皆さんがよくご存知のように、人間に創造本来の状態を回復させるためにあります。神様の御意志を先に悟った数多くの先知聖賢たちは、その時代時代を経て出てきながら、このような復帰の目的を担い、その意志を成し遂げるためにこの一つの目標に向かって努力してきました。

    22

すなわち、イエス様がおいでになる前までの約4千年の歴史もまた、そのような歴史であり、イエス様がこの地においでになり30年以上の生涯を闘った労苦もその目的を達成するための労苦であり、お亡くなりになった後の約2千年間、聖霊と共に闘いの歴史を展開されたこともまた、この一つの目的を達成するための闘いの労苦であったということです。

イエス様がこの地上においでになった目的は、歴史の復帰のためであり、また自己の復帰を超えて世界の復帰の使命を持っておいでになったということです。ですから、イエス様がこの地上においでになられて伝えられた福音の御言葉は、過去のイスラエルの歴史を復帰するための御言葉であり、30年以上のご自身を復帰するための御言葉であり、さらには世界人類を復帰させるための御言葉であったのです。

その経緯から、現代まで人々はイエス様が遺してくださったその御言葉を通じて復帰の使命を分担しながら、歴史の過程を経て出てきているのです。

そして、今日の皆さんは、2千年前にイエス様が授けてくださった新約の御言葉を中心にし、過去6千年の歴史を蕩減し、また未来の永遠の生涯に代われる忠臣の姿勢を備えて、自己を復帰しつつ、歴史を復帰し、未来を復帰することができる勝利的な価値を見つけなければなりません。そうしなければ、イエス・キリストがこの地においでになり、4千年の歴史に代わりご自身の30年以上の生涯に代わった福音の御言葉や万民を復帰するための生命の御言葉として遺されたその福音の御言葉は何の成果も結ばないということです。

今日の皆さんは、4千年の歴史に代りイエス様の恨みを解いていく子ども達にならなければならず、30年以上の生涯を通じて万民の前に新たな復帰の理念を確立し、天の勝利的な基盤を築こうとしたイエス様ご自身の復帰の使命、また聖霊と共に2千年間努力されたその使命を完成させる子ども達にならなければなりません。

    23

そして、皆さんは歴史を代行した立場から勝利的な復帰の栄光をお父様の前に差し上げ、勝利的な生涯を過ごされたイエス様時代の価値を超えた価値として、お父様の前に栄光を差し上げなければなりません。

また、イエス様が新たな福音の御言葉を宣言することで2千年の救済の使命を果たされたように、今日の皆さんも再び天から新たな御言葉を引継ぎ、全体的な復帰の使命を終結させ、それを後世に長く伝えていかなければなりません。このような使命が今日の皆さんに残されていることを、皆さんは一瞬も忘れてはいけないのです。

イエス様自身が神様の復帰の歴史を達成するために、人類の前に完全な立場で現れて歴史を進めてきたかと言われれば、そうではありません。イエス様は具体的な復帰の内容を示すことはなく、復帰の歴史を進めてこられたという事実を私たちは原理を通じてよく知っています。

自らを隠し、象徴的な証の御言葉を通じて天の意志をこの地上に実現するための復帰の歴史を遂行され、天の栄光も完全に人の前に示さずに復帰の使命を果たされたということです。そのため、私達は使命の具体的な内容を明確に示さずに復帰の歴史を推進してこられたイエス様の内的な心情を知らなければなりません。

では、皆さんが今日復活の栄光を得るためには何を知る必要があるでしょうか?

    24

まず、皆さんはイエス様が示せなかった隠された復活の価値を生活を通して知る必要があります。次に、心を通してイエス様が表せなかった隠された復活の価値を知る必要があります。その後、永遠の命の価値をイエス様が示せなかった隠された復活の内容を知らなければなりません。

そして、神様が天倫の復活の栄光を完成させようとされる時、私たちは何を知る必要があるでしょうか?

イエス様が30年以上の生涯の中で心の奥深くに隠しており、全ての人々の前で語り明かせなかった内容は何であるかを知る必要があります。

もし、このような内容を皆さんが知らなければ、皆さんを通じて天上と地上の全ての復活の価値の内容を示すことはできません。

今日、私たちがイエス様が明らかにした福音の御言葉を見てみると、その中にはイエス様の具体的な生活内容は全く書かれていません。では、イエス様は何を暗示したのでしょうか。それは奉仕の生活を通して、自身の隠れた生活の一面を暗示したのです。つまり、自らを高められる栄光の子であったにも関わらず、栄光を受けた自己の身を低くし、すべての罪人の足元に入り奉仕する生活を通して、隠れた一面を示したのです。また、イエス様は誰にも話すことができない心の中に隠れた一面を言葉ではなく生活によって示したのです。イエス様は自身の周りにいる12人の弟子達にさえ、自身の内面を明かせなかったのです。

    25

そのような秘密を公表できなかった理由は、天上の秘密を心に秘めていても、その秘密を理解し受け入れる人がいない場合、その秘密を公表すれば悪魔に利用される可能性があるとイエス様はご存知だったからです。つまり、イエス様は父なる神から知らされた真実を独りで抱えていて、人々に伝えるべき悲しみと情熱を持っていましたが、そのような心を理解し受け入れる人がいなかったため、天上の秘密を人々に公表することができず、隠した心の一面を人々に示すことができなかったのです。

そのため、イエス様は最終的に十字架の最高峰に至り、公会堂の指導者やピラトの前で自分自身をユダヤ人の王と称する罪で尋問を受けることになりました。その時、イエス様は黙っていましたが、ピラトが「おまえはユダヤ人の王か?」と問われた時にようやく自身を明らかにされたのです。

善良で正義を重んじる天の側の人々がイエス様を彼らの王として受け入れ、彼を永遠の栄光として礼拝すべきであったのに、イエス様はピラトの前で囚人として尋問を受ける立場になりました。このように避けられない状況で悪魔の尋問を受けることになった時、神様の悲しみに代わる立場から、黙っていた口を開いて真実を証言されるようになったのです。

これを見ると、どれほど天の歴史であっても、悪魔が天の側に対して真実を明らかにし、疑問を投げかける場合、天の側でも隠された心を明らかにすることが避けられず、また悪魔の側でも神の側にある聖徒たちが悪魔の隠された秘密の心を暴き出すと、それを明らかにして非難せざるを得なくなることを私たちは理解できるようになります。

イエス様は、自身の内に誰にも明かされなかった復帰の内容を持ち、日常の生活の中で奉仕を通じて天の法則を実践し、その実践の面でも他の誰よりも先駆者の立場に立って隠された復帰の内容を示されました。ですから、皆さんはこのような復帰の理念を代わりにできるイエス様の心に触れ、「あなたの心もそうでなければならないのではないか」と問いかけることができる人にならなければなりません。

    26

もしもそのような人が現れないのであれば、歴史がどれほど経過しても、イエス様の心に隠された法則の秘密はこの地上に明らかにされることはないということを皆さんは確かに知る必要があります。

そして、今日の皆さんはイエス様が生活を通じて示された再臨の秘密を知る必要がありますし、心の中にある再臨の内容を知る必要があります。その後に、皆さんは神様に自信を持って立つことができるし、サタンに自信を持って立ち向かうことができる人、つまり一つの勝利的な生命を再臨によって完成させた人になることができるということです。

イエス様は30年余りの生涯を通じて、4千年の歴史を総括し、天上と地上のすべてを代わりに再臨の中心を完成させました。しかし、今日までにこのようなイエス様の完成された価値、つまりイエス様が持っていた心の中の秘密や明らかにされていないイエス様の生活の価値を引き継ぐことができる人がいなかったのです。

従って、そのようなイエス様の内的な秘密や生活の秘密を誰が代わりに持ち、現れたのかというと、それは聖霊であったと言えます。

今日の皆さんはイエス様の福音の言葉を信じていますが、その言葉自体を信じるだけでは再臨することはできません。そこに必要なのは、聖霊が私たちの生活に協力し、私たちと共に共同生活しなければならないということです。

    27

従って、イエス様が奉仕と犠牲の道を通って十字架の頂点に至ったように、皆さんも同様の道を進んで、聖書の中に秘められたイエス様の生活の秘密がイエス様と聖霊を通じて初めて明らかになるのです。そして、内なる秘密も同様に現れるのです。

そのため、今日の私たちは聖霊が協力する生活を通して、聖霊の心と一体化し、心と生活が一つになり、イエス様と聖霊が一つになるつながりを私自身を中心に形成しなければ真の生命は存在しえないことを理解しなければなりません。

このように、私たちは今日、聖霊の協力を受けて、イエス様が生活の中で隠されていた復帰の秘密や、心に秘められた復帰の内容を実現する重要な過程にあります。従って、私たちはそのような過程にあるとき、私たち自身がイエス様と聖霊と一つになり、聖霊と私が中心となって三位一体の形を持つ基準を持つことが、この地上で神の勝利の基盤を築くための平面的な期待を実現することを知る必要があります。

また、私たちは真の生命の内容を探求する上で、イエス様と聖霊の協力を受けた生活をしているとしても、その生活は全体的な生命の復帰において一部に過ぎないことを認識しなければなりません。なぜなら、全体的な生命の復帰の秘密はまだ天上の秘密として残っているからです。従って、イエス様と聖霊を通して生命の価値の内容をある程度まで完成させたとしても、それだけでは完結しないということです。まだ神様がイエス様と聖霊を通して明らかにしていない生命の隠された部分があるということです。

今日、私達が達成すべき全体的な復帰の価値を完結させるためには、イエス様の生涯の秘密の価値をすべての人に示す必要があります。また、イエス様が持っていた秘密の価値を代わりに引き受け、イエス様と聖霊が合わさった宇宙的な生命の価値を再び神から認められなければなりません。

    28

では、現在の皆さんはどのような状態にありますか? 皆さんはイエス様を愛したいという心は持っているものの、十分に愛することができていないということです。

ですから、イエス様と聖霊が協力して人々が神様を愛するために奉仕と仕える生活を続けてきたこと、そしてイエス様が全宇宙を代表して苦労されたその価値に相応するだけの愛の内容を学ぶ必要があるということです。

今、皆さんがその愛の内容を知り、実践しなければ、天のみ旨を解き明かし、神様の残された復帰の歴史をこの地上で完結させることができないということです。

ですから、イエス様の3年間の共生の使命と十字架の使命、そして昇天から2千年にわたり、イエス様と聖霊が共に努力してきた協力の使命を通じて、生命の復活と完成の目的に向かって進んでいる私達にとって、今必要なものは何でしょうか?

それは、神様がイエス様と聖霊を愛され、6千年間にわたり宇宙全体を包み込み愛されたその善の基準の心を見習い、私達の心とイエス様と聖霊の心が一つとなり、愛の中心を確立することです。もし私達がそうできないのであれば、生活的な復帰、心的な復帰、生命的な復帰を成し遂げ、全体の命と栄光の価値を完結させるために神の愛との関係を築くことはできません。

    29

今日の私達が神との愛の関係を築くためには、どのようにすればよいでしょうか? 私達はイエス様が歩まれた生涯の中心的な内容を経て、2千年以上にわたり人類のために努力されたその心を知って歩む必要があります。

つまり、歴史の過程で万民に対して憐れみをお持ちになったイエス様の内面的な思いを通じて、イエス様の昇天後に至るまでの歴史を通じて明らかにされた聖霊の内面的な思いを通じて、創造以来6千年にわたり秩序を保たれてきたし、また将来訪れる理想的な世界を実現するために努力される神様の慈(いつく)しい内面的な思いを理解し、共感することが重要です。もし私達がそうできないのであれば、私達は永遠に続く生命の栄光を代わりにすることができる神の愛を中心に置いて、全体的な復帰の価値を完結させることはできません。これを心に留めておく必要があります。

したがって、皆さんはイエス様が歩まれた道と同じく、聖霊がなされたことと同じ道を歩むべきです。そして使徒達が歩んだ道、つまり自己の意識を忘れて、ただ神様とイエス様と聖霊のために生きる使徒達の生活を見習わなければなりません。

そのような道を歩むことによって、初めて私達は自分の心と生活を主管することができ、私達の生命が溢れ出て神の愛との関係を築くことができるのです。また、イエス様の愛が私を通して現れ、聖霊の愛が私の生活の領域にまで臨むことになります。皆さんはこれを確かに知る必要があります。

<祈祷>
 愛するお父様! 涙と涙が交わるその場所で、断ち切れない天倫の調和が通じるようにお許し下さい。

    30

天倫の道が通じる場所には、生命の縁が結ばれており、それは天上に隠されていた愛の縁が現れることであるを知っております。また、その縁が地上を通じて続く必要があることも知っております。

天が望む復帰の園は、愛の園であり、勝利の園であり、栄光の園であることも知っております。そのような園を築くために、今日私達の一心が奉仕の生活を通じて神が喜ぶ生命と愛と栄光を再び見つけ、自己を磨かなければならないことも知っております。

心の中に天倫の意志を抱きながらも、人々にその意志を十分に示せず、伝えるべき悲しい心を持ちながらも、人々の前で言葉にできないままであり、人間にその悲しい心と事情を解釈してもらいたいと願うイエス様の心情や聖霊の心情を知らなければなりません。

イエス様と共に話さなければならない部分を残しておられるご心情を理解している集団でなければなりません。

しかも、これを知り、解釈し、伝えることによって、天の前にそれがお父様の隠された秘密の意志ではないかと明らかにしなければならない、残された歴史があることを私達は知らずにおりました。

    31

従って、今日私達は、イエス様が地上に残していった使命までをも完遂しなければならない責任が私達にとどまっていることを考えると、聖霊もイエス様も、そして今日の人々も、これまで目的を成し遂げるために犠牲になってきた人々も、知らないまま神の内に隠された内的な心の願いを三位一体で協力しながら明らかにしなければならないことを知っております。

そして、私達がお父様が語れなかった熱望がこれではなかったかと発見し、明らかにするとき、お父様の心の中に抱かれた至高の愛を受けることができ、それによって私達がお父様から与えられる愛の中心を人々に示すことができる人とならなければなりません。

お父様、今私達はお父様の愛を受けていることを知り、感謝しております。この使命を私達が引き受け、果たすことができるようにお許し下さい。私のお父様、熱望し願っております。

この使命が達成されることで、イエス様の心に秘められた願いが成就され、6千年にわたって御旨を導かれたお父様の願いも実現されることを知っています。

ですから、お父様、創造以来抱えてこられた復帰以上の基準を私達を通して確立して下さい。そして、その基準を土台にして千年王国を建設し、父の理想圏に到達することを目指し、数え切れないほど永遠に続く父の内なる心情がこの地上の人々に完全に伝わるようにお許し下さい。

    32

私達が天と地を代表する存在として、悪魔の前で嘲笑されるような条件を残さずに、完全な復帰を達成し、全うするために導いて下さい。私達を通して、父の全体的な価値の栄光を完全に回復できる子女達となることをお許し下さい。愛するお父様、熱望し願っております。

これまで私達は非常に卑しい立場で苦闘してきました。他の人を相手にしても自己を主張するために戦う存在であり、集まりの中でも自己を示すために争ってきたのです。しかし、イエス様は全てをご存じで、自己を示せなかったことを知り、神の体面を考えて謙虚な心で頭を下げました。また、敵の前で模範を示すために進んだことを知っています。ですから、私達もそのような道を喜んで進むことができるようにお許し下さい。

お父様の心に残された憤りを人々が解放できなかったことを知るイエス様であったからこそ、自己の利益よりもお父様を慰めたように、今私達もそのようなイエス様の心を知り、慰めることができる真の孝子・孝女とならなければなりません。愛するお父様、私達を導いて下さい。熱望し願っております。


お父様、6千年間隠されていた悲しいその心を、イエス様と聖霊を通して私達に知らせ、明らかにして下さい。そして私達がその心を慰め、勝利の栄光を代わりに果たすことができる復帰の主役となるように導いて下さい。お父様、熱望し願っております。


人間が知らない生活の中で、心の中で、生命力の中で、愛の労苦の中で勝利の主役とならなければ、そのような事が完結されないことを悟らせて下さい。無縁の王にならない限り、この事が完結されないことを悟らせて下さい。また、悪魔との闘いで最後まで勝利しない限り、この事が完結されないことを知る様にして下さい。

    33

今、私達は一から全体の闘いの過程を経て、神様の前に立ち、お父様の心を私達の心に伝えるために祝福の御言葉を宣言することができるように導いて下さい。勝利の絆を築き、お父様の意志を代わりに果たせるようにお許し下さい。

私達の全てを父のものに返し、悪を私のものとし、悪魔に対して闘い勝利することによって父の栄光の遺産を継承できる者、万物を完全に復帰し、勝利的な主役の資格を備えた者になるまで、お父様、守ってくださいませ。聖三位一体で協助して下さい。

すべての御言葉を、主の御名によって祈ります。アーメン。

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