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昨日記20241228 土 近況(孤独孤立問題 進まない筋力体力の回復)

2024年12月28日 15時27分13秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
TV番組は、年末特集になりつまらなくなった。
年末恒例のニュースや話題の振り返り番組も多い。

私も振り返れば、今年80歳になり、いつものように一人で、普段の生活と変わらない誕生日を迎えた。
そもそも、両親や兄が亡くなって以降、誰にも誕生日を告げていないので、お祝いをいう人もなく、無論自分自身で自分の誕生日を祝うつもりもないので、100%普段と変わらぬ生活を送った。
世間では誕生日を祝い、お盆や正月や祭りやクリスマスといった年中行事で、家族や友人で祝い事をするが、独居老人の場合、社会参加もせず近隣付き合いもほとんどない人が多いと思うので、私のように孤独に祝い事に関係なく過ごしている老人が多いのではないかと想像される。
たとえ、お金があっても、紀州のドンファン事件を見れば、彼が孤独であったことは明らかだろう。
私の推測だが。彼はお金で疑似愛情を買っていて、精神的には孤独であったろうと勝手に推測している。

私は、以前から哲学や思想にも関心を持っていて、今も現代思想のダイジェスト版を読み、ノートを取っているが、近代から現代をどうとらえるかということが重要な哲学的社会学的テーマであることを知った。
その中で注目すべきことは多くの哲学者・思想家や社会学者が、近代の孤独や孤立の問題に触れているのだ。(例えば、マックス・ウェーバーの「鉄の檻」やニーチェの「末人たち」も構造的原因をたどれば、効率化を求める官僚化<ほとんどの民間の会社組織もウエーバーの言う官僚組織の構造で活動している>の中にあり、マックス・ホルクハイマーの言う道具的合理主義がそうしたことに関連するのかもしれない。)
例えば、エーリヒ・フロムは、近代人が中世の封建的身分制度から解放され、伝統的絆から自由になったが、その結果孤独と孤立の感情に悩まされるようになったという。(彼はそうした心情にファシズムが入り込んだと分析している。)
この問題は、現代でも地方と大都市の問題にも通じる社会的現象であるように思う。
多くの都市住民は、田舎の伝統的人間関係や絆から解放され、誰にもお節介されることがなくなったが、人間関係は表面的で希薄になり、家族内ですらお互い干渉しなくなって家族の絆も薄れ、外見上は問題なく平和な家族であり社会人であっても、実は各人が精神的に孤独・孤立の問題を抱えていることが多いのではないかと想像する。(そうした実例も多く見聞きする。)

私も孤独な独居老人であるが、幸い多少ともジムで運動しながら、ジムでの知人たわいもない話をすることもよくあり、最近は行かなくなったが、画廊回り)をして馴染みの作家と話すことも多いので、そうした範囲で多少世間とも接点を持っているし、それ以外読書やクラシック音楽といった趣味もあり、普段は私自身の孤独孤立感はあまりない。
しかし9月10月と11月の2度の入院の際は、私が社会制度上や人間関係でも孤独孤立している独居老人であることを思い知らされた。

11月13日入院し、15日に3.5センチの右腸骨動脈瘤の手術を終え、11月24日に無事退院した。
12月10日に病院に行き、各種検査を受けた後に外来受診した結果、順調に回復しているということで、先生から激しい運動をしてよいと告げられた。
しかし、激しい運動をしようにも、今やそれだけの、筋力や体力はない。
2度目の退院直後は、トレッドミル(ランニングマシン)で時速4kmで10分間ハンドルを持ちながら歩いて右の腰あたりの筋肉が痛み出しリタイアした。
この時は、今後杖が必要になるのかもしれないと落ち込んだ。
12月10日の外来に行くまでに、病院のリハビリメニューに準拠した運動プログラムを考えて実行し、トレッドミルで時速5km程度でも、計測バーを握りながらなら歩けるようになった。
しかし、10日に病院から図書館によってから本を借りて帰宅したが、病院への行きかえり(図書館含む)の全行程を見ると、道を歩いていてもあらゆる人に追い越されたし、歩行中も帰宅後も強い疲れも感じた。
実際歩いていて、杖が欲しいとも感じた。
それだけ、筋力体力が低下しているのだ。
無理もない、2度目の入院は、一回目の退院から約1か月後だった。
そのときも、2回目の入院直前の筋力体力は、あまり回復していなかった。
その後の2週間の入院生活で、さらに筋力体力は低下したのだ。

12月19日に、日本の現代美術画廊の代表的存在の一つであった、大阪市北区西天満にあるギャラリー白が今年で閉店するというので、久しぶりに西天満の画廊を回った。
しかしその行き帰りは、大変だった。
道を歩いていてもほとんどの人に追い抜かれ、地下鉄の階段は、手すりにつかまりながら上った。
外来の先生から、激しい運動をしてもいいと言われたが、筋力や体力が大きく失われ、激しい運動をしたくても出来ないことを改めて実感した。
せめてもの救いは、歩く速度が12月10日の病院往復時より多少早くなったと感じたことだ。

今は、足の筋力持久力と体力の回復に、集中している。
しかし、年末年始でジムは休業なので、体力筋力の低下が心配だ。
自主トレをやる気はあるが、残念ながら強い寒波の中で、外歩きをする気合は失せている。
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昨日記20241213 金 近況(退院後初めての外来)追

2024年12月13日 13時43分05秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
退院以来、自分なりの方法でリハビリを行った。
退院直後は想像以上の、筋力や体力の低下に愕然とした。
例えば、退院直後は、腕や足の皮膚はたるみ、老人らしい大きなしわが出来、皮膚をつまんでも放して戻るまで1-2秒かかった。
明らかに栄養不足と考えた。
とにかく、今まで通りの自分で考えた食事やに戻しサプリを摂取し、筋トレやリハビリをすれば元に戻ると考えた。
退院後4-5日は家事をしていても強い疲労を感じた。
そこには、2週間家を空けたため、その間の食材の廃棄や処理や食材の買い出しと、副菜や冷凍ご飯の製作、たまったメールや事務的処理、急に進んだ季節の変化(急激に寒くなった)に対する衣料や寝具の入替等様々な処理に追われたので健康な状態であっても疲労したであろう局面だった。
貧困の独居老人である私には、だれも頼れる人はいない。
(そのため普段からフレイルにならぬようジムに行き体を鍛え、図書館に行き本を借りて読み、知的能力の低下を防止した。入院時に病院に持ち込んだ荷物は現代哲学のダイジェスト版や川柳入門書で、病院のイートインスペースでコーヒーを飲みながらノートをとっていて、入院生活の楽しみの一つだった。)
大変な退院後の1週間を乗り越えたころには、疲労感もかなり減少した。
体の表面的状態も大きく変化した、
老人らしい大きな皴もなくなり、皮膚をつまんで放しても、放した瞬間に元に戻るようになり、皮膚の張り艶も回復した。
 しかし、筋力体力の回復は、時間がかかっている。
12月9日に、西長堀の大阪市立中央図書館に行き、本を返却し新しく本を借りた。
その往復には、自転車でメトロの駅まで行った後は、地下鉄の階段を上り下りをしなければならず、疲れてエスカレーターやエレベーターも使ったが、それでも家に着いた時には強い疲労感を覚えた。

その翌日の10日午後に病院の外来に行った。
病院に行くまでの歩行距離は、乗り換えがあり地下鉄のホームの端から端まで歩き
更に改札口はその先になり、改札を出てもその先にまだ長い地下道がありうんざりする。(大阪城やNHK方面への地下道)
病院に着いてからも、外来受診前に採血や心電図やX線検査を受けたが、各診療科を受けるのに長距離歩き疲れた。
待合の広いロビーで体を休めた。
かなりの時間待って、外来で受診した。
心臓血管外科のNS先生の診察を受けた。
診察前の検査データや手術後の傷の状況から、術後の回復は順調で激しい運動をしてもよいと言われた。
その時、CTの画像も見せてもらったが、手術で挿入したステントとその横に、腸骨動脈瘤の大きな球が見えた。
主治医のNK先生は、手術前に左に4.5センチ右に3.5センチ程度の腸骨動脈瘤があると言っていた。
診察を終え、次の外来(CT検査)を予約し、次の診察はNK先生が担当すると告げられた。

その後、帰りに中央図書館に寄りで本を読んでから帰宅した。
帰宅後、ステントで封鎖された4.5センチの動脈瘤の大きさを考ええたが、ステントで動脈瘤を封鎖せずに破裂した時の状況を想像すると、本当に命を落とす可能性もあることを認識し、恐ろしくなった。
(親指と人差し指で輪を作ったときの内径程度の大きさの血で満たされた風船のような瘤が、骨盤の裏に左右<右足と左足に血液供給する動脈>に一つづつ動脈の途中に動脈自身がが膨れて存在している。動脈が破損すると血圧で、血が噴き出し、止血が困難。検査をせずに突然動脈瘤が破裂すると、出血原因や出血場所がわからず、処置に手間取り、失血死や周辺組織に血液があふれかえり、内出血の処理で大変なことになることが想像される。)

現在もジムに通いリハビリに励んでいるが、体力筋力は徐々に向上していることを実感している。
だが、現在の筋力体力の回復速度を見ると、入院前の状態まで回復することは、年齢の問題もありかなり難しいように感じている。
それでも、せめて時速7から8キロ程度で、10分程度でも走れるようになりたいと思う。(現在時速5km以下、多分4.5kmで30分間程度で歩くのが限界だ。)

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昨日記20241130 土 退院後1週間の近況・筋力持久力の低下

2024年11月30日 17時36分19秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
11月24日午前10時過ぎに退院手続きを済ませてから病棟を出て病院の1Fで、強い疲労感に襲われ病院内の売店でコーヒーを買ってイートインスペースでコーヒーを飲みながら体を休めた。
日曜日の退院は、入院費の清算が、玄関から離れた救急やDMATのある場所で、私のいた病棟から一番遠くにあった。
そもそも国立大阪医療センターの建屋は想像以上に広く病棟から休日受付窓口で清算するまで、道に迷ったりして、かなりの距離を歩き非常に疲れた。
更に、退院時に病棟での確認手続きを終え病棟を出るときには、入院時に持ち込んだ重いリュックを背負って帰ることになる。
入院時は、リュックの重さが気にならなかったが、退院時は事務手続きで歩き回ったこともあり。非常に重く感じ病院の売店で休まなければ歩けないほど疲れていた。
この日、朝食後までは体調も良く、元気な状態で家に戻れると思っていた。
しかし、筋力体力は想像以上に低下していて、病棟を出るときに受けとった、私がその日の朝にパッキングしたリュックは、中身は入院時と変わらないはずなのだが、非常に重く感じた。
病院を出てから長い距離を改札まで歩き、地下鉄を乗り継ぎしながら、たびたび立ち止まり休んだ。
地元の駅到着後も、激しい疲労を感じながら家まで歩いたが、途中の喫茶店で耐え切れず入り休んだ。

退院したその日からジムに行き、自分なりのリハビリメニューを作り実行した。
退院日はストレッチのレッスンに参加し、その後自転車こぎを病院のリハビリメニューと同じ要領で行ったが、何の問題もなかった。
翌日トレッドミルで歩いてみた。
時速4kmで10分間、前のバーを持ちながら歩いたが、右大殿筋あたりに激しい疲労を感じ歩行を中止した。
このことに、大きな不安を感じた。
将来、ゆっくりとしか歩けなくなるのではないかと思った。
その後、今日まで、雨の日以外はジムに行き必死にリハビリを行っている。
退院当時は、歩いていて多少ふらつきを感じたが今はない。
ただ、トレッドミルの歩行で判明した右足の筋力や持久力の低下は、少しずつよくなりつつあるが、その回復力はかなり遅い。
そもそも、9月の左足手術も実はそうだったのであろうが、右足が健常なので左足をカバーしていたようで、こうしたことに気が付かなかったようだ。
これからは左右の脚が弱体化した現実を受け止め、今後のリハビリでどれだけ回復するのか、しっかりとみていきたい。
実は2週間近い入院生活で、姿勢を制御する筋肉群も衰えているようだ。
骨盤周辺の筋肉群(大殿筋、中殿筋、・・・・)は人体の姿勢制御にも関連しているが、入院時に歩いたり、立ったりすることは、日常生活から比べるとほとんどなかったので、安静状態に近く、かなり衰えているようだ。
現実に、家事をするときに、退院直後から大きな疲労を感じていたが、日がたつにつれ、疲労感は少しずつ軽くなっているようだ。


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20241126 火 近況短信 2度目の手術入院

2024年11月26日 20時20分11秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
11月13日水曜日 手術を受けるため国立大阪医療センターへ入院し、11月15日に手術し、11月24日日曜日退院。

これまでの経緯
9月25日に左の足腰がしびれ力が入らなくなり、ジムから救急車に乗せられた。
しかし、救急車は停止したまま、救急隊員が細かく私の病状を聞き取り、受け入れ病院を探し始めた。
その結果、周辺の病院に全く空きがなく、たまたま大阪城近くの国立大阪医療センターなら外来のみ受診ということで私は了解し、救急搬送された。
実は病院に運ばれたときに、こんなところに病院があったのかと思ったが、以前国立大阪病院と言っていたところかなと気づいたが、どの程度の病院かよく知らなかった。(大阪城周辺や難波の宮近辺は、よく自転車で通っていたが、病院を気にしたことは無かった。)。
病院到着後救急外来で9時ごろまで救急外来で問診や検査を受け、看護師からこのままだと外来で湿布薬を貰って帰宅することになりますと告げられ、その後の手続きを待ち、地下鉄で帰る準備をしようとした。
そのころには、左足腰のしびれもかなり収まり、痛みはなく足に多少力が入るようになった。
その後、再度同じ医師2人が来て(後の主治医)が来て、念のためにもう少し検査しておこうと言って、CT室に運ばれた。
CT撮影後に救急外来に戻ってしばらくして、医師が来た。
腸骨動脈瘤で左右に一つずつあり4センチ前後の大きさだと告げられた。
初めて聞いた病名だが、とにかく動脈瘤で4センチとは、破裂すると内出血し命にもかかわるだろうし、ただ事ではないと思った。
先生は、動脈瘤は2センチを超えると処置をするのが一般的だといった。
即入院と思ったが、その通りになり9月30日の手術日まで救命救急病棟で、元気なのにベッドから一歩も降りられない日々を送った。
結果、9月25日のジムからの着の身着のまま(運動時の服装)入院し、9月30日に左側の4.5センチの動脈瘤を全身麻酔で処置し10月9日に退院したが、自覚症状がなければ見つけることは困難で、本当に運がよく不幸中の幸いだったと思っている。
(もし9月25日に湿布薬を貰って帰宅していれば、ある日突然動脈瘤が破裂し、原因や破裂部位が不明のため、大量出血で命を落としたり、足腰に大変な障害が残ることになるかもしれなかったと想像している。)

今回は、右側の約3.5センチの動脈瘤を処置するための入院で、11月15日に全身麻酔をかけ4-5時間の手術をしたようだ。
手術後は18日午前までICUにいたため、移動はすべて車いすで、ベッドから降りることが許されなかった。
18日に、一般病棟に移り、手術後の経過は順調で、11月24日に退院した。

1回目の退院時にも痛感し、退院後ジムで必死にリハビリに励んだが、時速5キロメートルで20分歩くと息があがった。(運動直後の血圧145で5分後は120台)
今回の退院後の筋力体力も、予想通り驚くほど低下していた。
退院時は一人で重い荷物をリュックに詰め、地下鉄に乗り一人で家まで歩いて帰ったが、途中耐え切れず2回喫茶店に入り休んだ。
健康な時には全く考えられないことで衝撃を受けた。
(1回目の退院時は病院からタクシーに乗りジムまで行き、ジムに置いていた自転車で自宅まで戻った。)

病院内で、リハビリしていた時に、すでに筋力体力の低下を感じていたが、実生活に戻ると想像以上に低下していた。
入院前の筋力体力に戻るのは、年齢を考えると無理かもしれないが、あきらめず頑張るしかないのだろう。
それでも、普段運動した積み重ねが、体力筋力の回復を早めてくれると信じている。

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20241023 水 昨日記(退院後初めての外来)追記:関連情報情報重要メモ

2024年10月23日 21時18分23秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
午後から国立大阪医療センターへ、地下鉄で行った。地下鉄の階段の上り下りや、最寄り駅から病院までの歩行や、病院内での移動で、体力筋力の衰えを実感した。1週間以上にわたる安静や全身麻酔の影響は非常に大きかった。階段や道では、ほぼすべての道行く人に追い抜かれた。早く歩く筋力がなくなっていると実感した。
 今も右側の腸骨動脈には、3.5センチ程度の動脈瘤があり、時限爆弾を抱えている。破裂すれば命にかかわる。したがって、血圧は140以下に収まるよう注意しながら運動や生活をしている。当然、以前のように時速5~6kmの速足で歩いたり、軽く走ることはできない。今日は、初めて交通機関を利用して市内に出たが、改めて2週間の入院生活で入院前の筋力や体力が低下したことを実感した。
 こうした事態を予測して、退院した日から、ジムで病院でのリハビリを参考に時速4.5kmの歩行から運動を始めていたが、筋力や持久力は思ったほどには回復していない。今後の再入院に備え、できる限り血圧を抑えながら筋力や持久力を上げようと努力中だが、しかし、血圧を140程度に抑える運動では、筋力や持久力の回復は限られるだろうが、命を守るためにしかたない。

 初めて、地下鉄の駅から病院の正面玄に向かった。病院の受付で、採血やX線撮影や心電図等の検査場所に行くのに毎回迷いながら検査を受けた。最後に予約時間に心臓血管外科の外来に行き診察を受けた。先生と相談して、おおよその手術の日程を聞かされた。その後病院の入院支援担当者が来て、明日入院センターに行き、入院と手術日を決定することとなった。
 診察と再入院関係の外来を終え、最も気がかりな会計関係の窓口に行った。無保険での入院費は、250万円前後で、とても私の手に負えない。計算の受付でマイナカードを入力し、後期高齢者の健康保険による費用の計算が始まった。かなり時間がたってから、今日の外来の費用も含めた計算金額が出て、支払い窓口に呼ばれた。何とか支払える金額だったので、カードで支払い、今日の外来診療も含むすべて清算が完了した。もし請求金額が大きければ、数十分割で支払い、徹底的な貧乏生活を送るしかないと覚悟していたが、そんな事態にならずに、ほっとした。同時に日本の社会保障制度の充実=政治の有用性を実感した。アメリカの保険制度なら、私は診療すら受けられず、時限爆弾の動脈瘤が破裂して死ぬ運命だろうと想像した。やはり政治は大切だ。(日本は国民皆保険であり、だれでも貧富の差にかかわらず同じ治療を受けることができる。収入の少ない人には、それに応じた減免制度があるし、高額医療には、限度が決められている。こうした制度は政治で決められたものである。国民から選ばれた議員により制定されたものだ。このように考えると、政治が、日常の隅々まで議員により作られた様々な法律や予算を通して、生活に影響を与えていることを実感する。)

支払いを済ませ、地下鉄で中央図書館まで行き本を借り、いつものファストフードに行きコーヒーを飲みながら、ゆったりした気分で借りた本を読んだ。

重要メモ20241025 0050
今回の腸骨動脈瘤の原因で思い当たることがあり、このブログを調べた。
 その結果2019年11月24日の記載(ブログ投稿日は2020年1月7日)に「今から考えるとこのメニューは非常に無理のあるメニューと思っていて、11月末から12月に起きた大殿筋とハムストリングの小規模な肉離れの原因だと考えている。」という記載があった。 この記載以降、長期間にわたり、左足ハムストリングや大殿筋の激しい痛みを、筋断裂と判断して様々な対応をしていた記載が多くある。
(例:2020年2月28日から3月1日までのこと()・・・2020年3月投稿記事)
その具体的状況は再三ブログの記載に登場する。たとえば画廊回りの時も足が痛かったといった記述もある。今から考えれば左腸骨動脈の血栓により、左ハムストリングや大殿筋が虚血状態になり筋肉痛が発生したと考えれば説明がつく。今回の主訴であった足の痺れの範囲と、この時の筋肉痛の範囲が一致していることも参考になる。(一部左右を間違えて記載していました。足の痛みや血栓は左足で、左腸骨動脈瘤の先に造影剤の流れから大きな血栓が分かりました。20241201訂正)
 今回の入院時の造影剤注入CT検査では、左動脈瘤の先に、大きな血栓があり、血流はわずかしかなかったように記憶している。(画像を時間をかけて十分に見ていなかったが、先生の説明を聞きながら造影検査の画像を見ると、動脈瘤の先に大きな血栓があり、血栓の先にほんのわずかに血液が流れていたように記憶している。  短い時間先生の説明を聞きながらCT画像を見ていた。)
 当時から、血栓によりハムストリング等の筋肉が虚血状態になり、筋断裂に似た筋肉痛が発生していた可能性がある。この状態が発生してから現在までの数年間の間に、動脈側から血栓による血流不足を補うための新しい動脈が形成された可能性もある。そう仮定すれば、時速8kmでも1分間走れる血液が供給できるようになったと考えれば現在の状況の説明がつく。医療関係者の仮定の話だが、入院前に動脈瘤が膨れて神経を圧迫し、痺れを起こした可能性も考えられるという意見もあった。

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私の日常が別世界に変わった日々。3  20240925

2024年10月22日 23時09分43秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
救急車から運び込まれたジムに持ち込んだ私のリュックに入れた荷物の中から、ジムに行くときにはいていた普段着の短パンを出し、そのポケットから腕時計を取り出した。それまで救急車の中にも、雑然と機器やストレッチャーが置かれた作業場のようなパーテイションだけで区切られた救急の診察室?にも、時計はなく、時間が分からなかった。腕時計をして、そのときが夜の7時過ぎだと初めて分かった。ジムを出たのは、たぶん5時前後と思っている。ずいぶん時間がかかった。足の痺れはベッドに寝かされている間に多少よくなった。

確か救急車で運ばれ病院のベッド(ストレッチャー)に移し替えられたときにも、医師が来て病状を質問され、患部の範囲や痛みの有無や触診や、簡単な左足の動作確認をしていたようなきがする。その後医師は、どこかに行きその間、私はベッドの上で寝かされたまま待っていた。
やがて再び二人の医師が現れた。病状を聞かれ、多少痺れは、ましになったといった。左足に力が入らないのも多少力が入るようになっていた。それから、ベッドに寝たままその場で、左右の足首の血圧の同時測定や、心電図やエックス線等の検査を受け、医師たちは再び元に戻っていった。
しばらく、時間が過ぎ8時過ぎになっていた。時間を持て余しているときに、看護師が書類を持ちながら近づき、「このまま何もなければ、湿布薬を処方してもらい自分で、帰宅してもらうことになります。」と告げられた。その話を聞き、私はどのように帰宅するか考えをめぐらし、夕食はどこかで外食することを考えた。自宅から乗ってきた自転車はスポーツセンターに置いてあるので、地下鉄でスポーツセンターまで戻ることにした。しかし足の痺れがかなり良くなっているとはいえ、病院から地下鉄までの距離や、地下鉄の階段や最寄りの地下鉄からスポーツセンターまで、かなりの距離があるのが不安だった。
そんなことを思案していると、突然近くで作業していた看護師が、「白髪のジムの人があちらの部屋でずっと待っておられますよ。」、と言った。白髪のジムの人に心当たりはなかったが、この時間までわざわざ来て付き添ってくれたのかと思い、驚いて呼び込んでもらった。
 やはり、名前を名乗られたがその方は初対面の人だった。私は、8時過ぎまで待っていただいたことにお礼を述べた。そのうえで、看護師から伝えられた話を伝え、帰宅後数日休養してからまたジムに行くと伝えた。そして、ジムでお世話になった人たちによろしくお伝えくださいと伝えた。ジム白髪の人は、私が次にジムに行くときは、お世話になった人たちに先ずお礼を伝えてください、と言われた。私は改めて来ていただいたことに感謝のお礼を述べ、お帰りいただいた。
 しばらくして再び二人の医師(以後先生)があらわれた。すぐに病状を聞かれ、私は「痺れはかなり収まり、足にも多少力が入る感じがします。」と答えた。先生は、「一応念のためにエックス線CTを撮る」と告げられた。
ああ、これで帰りが遅くなると思った。ひょっとすると地下鉄がなくなりタクシーでスポーツセンターまで帰らねば、と思った。その前に外来診療の診察検査費用も支払わねばならず、月7-8万円で生活する貧困の独居老人にとって、とりあえず今日の支払いが不安だった。とにかく、ジム行くときの財布には、常にスーパーで食材を購入するクレジットカードと現金2千円しか入っていない。タクシーにしろ、病院代にしても、全てクレジット決済するしかないと思った。それ以前に、救急車で運ばれたときに聞かれた健康保険証も持ってきていないので請求金額は、大きくなると思った。こうなれば、成り行き任せと腹をくくった。

 先生がCT検査すると言われて、すぐにストレッチャーは、病院内に運ばれCTの部屋に連れていかれ、初めてCT撮影を受け、再び外来の部屋に戻った。
 先生は、なかなか現れなかった。10時半ごろ?2人の先生が現れた。CTの写真を見せてくれた。「ここに瘤がある。」動脈瘤と告げられた。左右に約4センチ前後の動脈瘤があるという。確かに写真を見ると、左側の腸骨動脈と右側の腸骨動脈に1つずつ瘤が見える。その大きさ左が4センチ余りで右側は3.5センチ程度に見えるという。先生は通常動脈瘤は2センチ前後になる処置をするといい、こんな大きさでは、いつ破裂してもおかしくないと言う。痺れの原因は腸骨動脈瘤から来たものではないかと告げられた。
 それを聞いた途端、泣きそうになった。腸骨動脈のことは知らなかったが、骨盤近くにあり脊椎あたりから動脈は、骨盤付近で左右に分岐し、左右の脚に伸びる主要な動脈であることは画像を見て分かった。これが破裂すれば、大出血を起こし命に係わる事態になるであろうことは素人の私でもわかる。先生は、これを処置する時、開腹手術は極めて困難な場所で、ステント手術になると告げられた。
 このとき、入院は不可避で、数週間単位の入院の可能性があると悟った。私は先生に、「今ジムから着の身着のまま来ているので、とりあえずタクシーで、自宅まで戻り必要なものを取りに戻りたい」と訴えたが、無駄だった。外来のストレッチャーからベッドに移し替えられ、そのまま緊急病棟(ICU病棟?)に運び込まれ、様々な書類にサインをさせられた。スポーツシャツに短パン姿のジムの服装のまま、点滴や心電計が体に繋がれた。ベッドから降りることは許されず、小便は毎回看護師を呼んで、尿瓶にすることになった。
 ベッドは多少V字型に角度がついていて、しかも、マットがふかふかで寝返りが打ちにくく寝苦しかった。夜中に頻繁に部屋への出入りがあり各種機器のアラームがあちこちで鳴り響き寝られなかった。さらに病院近くを通る中央大通りでは暴走族が騒音をまき散らしていた。

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私の日常が別世界に変わった日々。2

2024年10月20日 23時12分40秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
予想通り、5分間待っても救急車は来なかった。今問題になっている救急車の安易な使用による混雑の影響なのだろう。それからしばらくして救急車が来た。車いすを救急車のそばに持って行った。その時、車いすの周囲にいて、私をサポートしていただいたスポーツセンター関係者にお礼を言った。
私は、車いすからストレッチャーに乗り替えてから、そのまま救急車の社内に入れられ、後ろの扉が閉められた。
救急車は、長い時間停止したままだった。その間、先ず救急隊員から、詳しいそれまでのいきさつと病状の説明を求められ、それに答えた。左側の大臀部からハムストリングにかけての強烈な経験したことのない足の痺れと力が入らない状況は、全く改善しておらずいなかった。痛みはなく、左足ふくらはぎの下肢や足首には麻痺はなく、右足は、全く異変はなかった。

救急隊員は、救急車停止期間中に市内の多くの救急病院とやり取りしているようだった。「法円坂もダメだった」と、がっかりした会話が聞こえた。法円坂に病院があったのかなと思った。その後もしばらくいろんな病院とやり取りしているようだが、話の内容は聞こえてこないので、車内で不安な時間だけが過ぎた。やっと、国立医療センターが、外来診療だけなら診察すると言っているが、入院できず帰りは自分で帰宅することになるが、どうかと聞かれた。私には選択の余地はなく、「それで結構です」と返事した。診察を受けた後は、タクシーで自宅に戻るしかないと思った。
 救急車は動き出すと、すぐに止まった。多分中央大通りを法円坂方向に向かって走り出したのだろうが、「5・10日」と夕方の渋滞に巻き込まれていたようだ。かなり長い時間がたって、やっと国立大阪医療センターの救命救急室に入り、ストレッチャーのまま診察室に入り、病院のストレッチャーに移し替えられた。そこで、しばらく救急隊員から病院に引継ぎが行われ、救急車は帰った。
 すぐに、担当の看護師により症状を聞かれ検温や血圧測定が行われ、診察後は、帰宅してもらいますというようなことを念押しされたような記憶がある。(思い込みかもしれないが)それから診察を受けるまで長い時間待った。
 その間、帰りはどうしようかと考えていた。外の景色は、全くわからず、法円坂のどの辺にいるのもわからなかった。ただ昔の谷町4丁目にある国立大阪病院らしいことは、分かったので、帰りは地下鉄でジムまで帰り、そこから自転車で家に戻ろうと思っていた。
 病院のストレッチャーに乗せられている間も、ジムで運動している衣服のままだった。(半袖のスポーツシャツに短パン姿。)待っている間に、靴だけは運動靴をリュックに収め、家からジムに行くときの外出用の靴に履き替えていた。
 左足の状態に、回復の兆しはなかった。
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私の日常が別世界に変わった日々。1

2024年10月19日 22時22分39秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
2024年9月25日水曜日、いつものようにジムでの30分間のストレッチのレッスンのあと、ジムの受付横にある長椅子で一息ついてから、トレッドミル(ランニングマシン)に向かった。
最近ランニングができなくなっていたので、先ず競歩のように時速6kmで30分歩ける筋肉と持久力をつけて、時速7kmから8kmのランニングができる体力をつけようとしていて、この日のウオーキングもそのトレーニングのひとつと考えていた。

それまで、5月6月は、トレッドミルのハンドル(脈拍測定バー)を持ったり離したりしながら時速6kmから9kmの範囲で30分間休まず歩いたり走ったりしていて、時速8kmなら1分間は、ハンドルを持たずに走ることができた。しかし7月8月は無冷暖房の我が家の環境を考え、オーバーワークによる過労(早朝でも常時31℃以上の室温のため、暑さで疲労回復できない。)防止のため、時速5.5kmから6.2kmで2-30分間歩くようにしていた。この夏9月も猛暑が続いていたが下旬になり、気温も下がり、我が家の室温も30℃を切るようになったのでので、歩くスピードを上げ、ランニングできるようにしたいと考えていた。

この日も、トレッドミルで時速5.5km~6.5kmのインタバルのウオーキングを行って5-6分過ぎたころ、急に左足に異変を感じ、ウオーキングを止め受付横のベンチに座った。左臀部からハムストリングにかけて、しびれだしその痺れは、時間とともに強くなった。いたたまれずエレベーターホール横のマットを置いてあるスペースに移動することにした。しかし左足に力が入らない。壁伝いに壁に寄りかかりながら歩きエレベーターホール横のマットにうつ伏せになりながら倒れこんだ。不気味な足の痺れは強くなった。
 30分ほどたったころ尿意を催した。立とうとしたが、左足に力が入らないことに愕然とした。何か体内で大変なことが起きているのかもしれないと考えた。とにかく壁につかまりながら動きにくい左足を引きずりながらトイレまで行った。途中2mほどの廊下を横切れるか不安だったが、右足を軸にして廊下を渡った。小用を済ませ再びマットの上にうつ伏せになった。
 それから10分たっても良くなることは無く、激しい痺れは続いた。今私の体の中でただならぬことが起きている事を改めて認識した。必死に立ち上がり、意を決して壁伝いに受付に行って状況を説明しイ、ンストラクターのk氏に救急車の手配を依頼した。
K氏は事務所と連絡おとり、救急車が来ることになった。スポーツセンターの車いすが運ばれてきて載せられた。更衣室のロッカーから私の持ち物をすべて出し、私の膝に乗せられた。その後スポーツセンターの玄関で救急車を待った。その間膝の上の私の荷物をすべてリュックの中に詰め込んだ。救急車が到着するまで少し待った。運動時の半袖短パンのトレーニング姿のまま救急車を待った。足の痺れは変わらなかった。

着の身着のままの状態で、持ち物は食材買い出しのための財布だけで、スマホもない。これを考えた時に、今自分が置かれている状況が、貧困の独居老人で頼る人がいない現実の中で、突然の身体の大きな異変に遭遇して日常生活に大きな影響がありそうなことが自分の身に起きていることの意味を改めてかみしめた。
こうなれば、まな板の上の鯉でしかない。自分では、何もできない。すべて成行きに任せるしかないので心配しないことにした。連絡先は、警察(交番の地域住民調査)の巡回の時に話してあるが、連絡先は高齢なので動けないだろうし、とても頼れないと考えているので、通常の場合緊急連絡先はなしにしている。とにかくすべて自分で処理するしかない。
続く
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20240922 日 中国のSNSによる各国への世論操作分断工作に注意

2024年09月22日 23時08分50秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
秋雨前線の南下で涼しくなった。
数日前まで、たまに台風や低気圧の影響で数日30℃以下になることはあったが室温は寝る前でも32℃程度で朝でも30度以下になることはほとんどなかった。
そのため無気力になりがちで、だらだらと成行きの日々を送っていた。
この間世間では、いろいろなことが起きた。(時間があれば後日記載)
能登半島は、今、大雨により大規模な水害の被害を受けているようだが、全貌は不明だ。
正月の震災に加えての大水害。
被害が、少なくなることぉ祈るのみだ。

先ほど、NHKスペシャル中国のSNSによる世界の世論調査に関する調査報道をみた。
SNS上の世論の中には、中国からの操作で操られていることもあるらしい。
これは陰謀論ではなく、NHKが各国の情報専門家やセキュリティー企業とともに、中国からの膨大な流出文書をもとに、解明したものだ。
結論から言うとネット上では中国により大量のボットが作られ、そこで中国に都合の良い偽情報や中国寄りの意見が拡散されるというのだ。
現実に、台湾ではインド人労働者増員反対集会が多く開かれ、社会問題になった。
その集会の起点になったのは、SNS情報だった。
SNS情報の発信元から多くのボットを中継し拡散された、
その文面の言葉遣には、台湾で使用されない言葉があり、中国が関係する疑いが浮上した。
彼らは多くのボットを作り、それを使い大量に拡散し、若い女に不安を与え多くの集会が行われ、社旗問題になったという。
この番組では客観的なデーターが提示され、中国による戦略的世論操作の実態が明らかになった。
日本でも同様のことが行われているという。
福島第一原発の処理水放出問題で偽情報を投稿しSNS上で2000件近くのリポストがあったが、NHK他日本のマスコミの正確な情報による指摘があり、世論工作失敗した。
こうした状況を見ると、中国は常に情報戦を行い、戦略的に関係国の世論の分断対立や混乱を狙っているようだ。
数十年前は、中国は侵略しない国で自衛隊を強化する意味がないと信じていた。
しかし、尖閣問題や南シナ海の中国の武力侵略の実態を目の当たりにし、そうした考えは吹っ飛んだ。

我々は、ネット情報の真偽を疑い、陰謀論に惑わされないようにしたい。
少なくとも、NHKや有力紙の報道は、幾重にも事実の検証がおこなわれ、おおむね信用してよいと思う。
それでも、まれに誤報道が見つかることもあるので、常に批判的にニュースを見ることが必要だ。

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むらぶろ20070831 0901 0901

2024年07月07日 17時50分29秒 | 村ぶろ散歩者アーカイブ
今日(20240707)も暑かった。大阪の最高気温は34..8℃
今朝は我が家の室温が31℃から下がらず、夜中に何度も起きた。
土曜日にプールで泳いで体に熱が籠ったのかもしれない。
毎年寝るときの室温が30℃以上の時は、裏庭で水シャワーを浴びて体を冷やしてから寝る。
今日から水シャワー復活させよう。
午前3時ごろ縁側に排気している扇風機の設定を強にすると、部屋に風が通りはじめ朝の8時まで寝ることができた。
この先が思いやられる。
以下「むらぶろ 散歩者」



コーヒー
テーマ:ブログ
2007/08/31 01:06
コーヒーは好きで1日2-3杯飲む。
家に居るときはペーパーフィルターをセットしドリップを入れる。
以前は、豆やさんで、ブラジルやモカやコロンビアとか買って適当にブレンドして飲んだ。
(おいしいコーヒーは豆の種類と割合 挽き方 鮮度 が大切)

実は40歳で脱サラした後、1年ほど大阪のJR玉造駅から西へ上町台地を上る途中で
喫茶店を開いたことがある。
「陽の当たる坂道」という喫茶店が廃業するということでそこを引き継ぎ名前を変えて
開店したが、利益はでず1年で廃業した。(その場所は再開発され、マンションになっている。)
サラリーマン時代はコーヒマシンの設計研究開発にも絡んだ(開発責任者として基本構想・設計もまとめた。輸入品のまねでない独自技術を使用し、初の国産化をした。退職後に大阪駅前から阪急へ渡る横断歩道から旧ガード下の通路入口で、新鮮なドリップコーヒーが大量に販売されているのを見たときはうれしかった。エスプレッソの加圧は、水温コントロールにより飽和蒸気圧を精密制御する方式を初めて開発した。)こともあり、コーヒーの味も分るので喫茶店ぐらいという安易な考えではじめたのが失敗だった。
ほろ苦い思い出だ。

今にして思えば早く切り上げてよかった。
昔タイプの喫茶店は立地のいいところは別にして斜陽産業でどんどん消えている。
ビジネス街や繁華街ではスターバックスのようなマーケッティングをしシステム化して多く店舗展開し
価格も安く回転率の高いところが増えている。
ドトールは席数が少なくこじんまりしているせいか、旧型の雰囲気を少し残している。
コーヒーの味も程ほどで価格と比べるとこんなものかとも思う。
マクドナルドが新規カフェに展開するというがたのしみである。

コーヒーには、カフェインが多く含まれ、興奮作用があり、疲れたり眠気覚ましに良い。
血行促進作用もある。 運動前に飲むと代謝促進作用がありダイエットにつながるそうだ。
特保をの認可を受けたコーヒーもこのごろよく宣伝している。
最近のニュースではコーヒーが女性の大腸がん予防に効果があるということが
厚生労働省研究班から発表されたと報道されていた。
健康もいいがおいしい薫り高いコーヒーをのみたい。
1. みにっち
2007/09/02 15:22
こんにちわ みにっちです。
きょうはコメントありがとうございました。
私もコーヒーが好きでよく飲みますが、健康にもいいんですね。よかった(笑い)



大阪クラシック
テーマ:音楽
2007/09/01 01:47
今日といっても8/31チケットピアから電子チケット準備催促のメールが届いた。
早速近くのコンビニを廻ったが、ファミリーマートと思っていたのはすべて違っていた。
人間の記憶て当てにならないと思いつつ、家に帰りパソコンで検索。
一度も行ったことのないところにファミマはあった。自転車で10分程度

実はチケットピアのチケット発券手続きは初めてで、機械の操作手順をプリントし持っていった。
恐る恐るIDと暗証番号を入力しその後操作を重ねると長いレシートのような物が
出てきたので、それをレジに持っていき手数料を支払うと、簡単にチケットが入手できた。

チケットは大阪クラシックの演奏会のものだ。
昨年まで大阪クラシックを知らなかった。
昨年の9月、裁判所北の北区西天満界隈通称老松通りの画廊めぐりをした後淀屋橋の
喫茶店で一休みしようと、御堂筋を自転車で走っていた。
中ノ島の大阪市役所の前に行列が出来ている。
市役所で講演会でもあるのかと思って行列の横を通過途中大阪クラシックの看板が目に入った。
なんと市役所でコンサートがあったのだ。
しかも超低料金で。当然チケットは完売していた。

堂島川と御堂筋に面した淀屋橋のカフェでコーヒーをすすりながら
川向いの市役所を見て貴重な情報を見落としていた自分に腹が立った。
市役所の天井の高い大理石のロビーでのオーケストラの響きはきっとすばらしいに
違いないと思った。

家に帰り即パソコンで「大阪クラシック」を調べた。
大植英次指揮の大フィルは、一度生を聴いてみたいと以前から思っていた。
「大阪クラシック」は世界各国で活躍し高い評価を得ている指揮者大植英次氏
(大フィル音楽監督)が企画し、大阪フィルハーモニーを率いて約1週間にわたり御堂筋
を中心に演奏会(オーケストラから数名の小編成まで)を開き、多くが無料で、
有料のものでも超低価格である。
東京に比べ文化芸術に無関心な大阪の文化振興の刺激になるいい企画だ。
大阪クラシックの全体像が分ったとき、来年は絶対行ってやると思った。
今日やっとそのチケットが手に入った
演奏会が楽しみだ。

地蔵盆
テーマ:ブログ
2007/09/01 13:51
今朝何気なくTVを見ていると、NHKで西日本の旅「お地蔵さん見守る路地の街~大阪・福島区」で野田の地蔵盆を取り上げていた。 偶然私が初回に取り上げた地蔵盆の記述の行事が今もしっかりと残っているのをみて懐かしく思った。(NHKは地蔵盆の前からしっかりと企画取材していたであろう。)
今でも私が幼かった頃の風習が残っているのはうらやましい。
うちの町内の子安地蔵では。子供もほとんどいなくなり、お地蔵様の提灯も数個下げられるだけだ。

私の住んでいる地域も空襲をまぬかれた為、地域社会が残っていたが、少子化と高齢化で世代交代が進み、長屋もほとんど新しい一戸建ての家に置き換わり、幼馴染や小中学校の同級生達も転勤や結婚で近所からいなくなり近所の馴染みのおっちゃん、おばちゃんも息子娘の元に引っ越した。
地域社会の崩壊であるが、それでも町内会があり、年末の夜回り当番もある。
町内に5軒以上あった家内工業も今は2軒の町工場となり、残っている工場主の住居は引っ越した。
昔は、田舎同様少し離れたお家の家族構成や仕事もみんなが知っていたが、今は町内の住人の正確な名前や家族構成もよく知らないし町内会に入っていない家さえある。
人の繋がりもほとんど無くなり、顔を合わしても挨拶すらしない人もいて寂しくなった。
今では狭い路地で肩ふれあいながら盆踊りをしていたことを知る人もほとんどいなくなった。

ところが少しはなれたところに30年前に工場跡地に分譲マンションが建った。
そこの分譲マンションの住人には元々この地域の住民が多く入居し、中学時代の同級生もはいっている。
あるときそのマンションの駐車場の端にお地蔵さんが建立された。
今では地蔵盆になると盛大におまつりをし、駐車場でパーティーをしている。
地域社会は人と人のつながりが作る物であることを実感している。
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黄色くなったブロッコリーは食べられる、梅雨の中の猛暑 20240706 土

2024年07月06日 23時13分22秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
今日は、プチ断食を実施した。

断食も終わり、夕食を作ろうとブロッコリーを出すと、1日で黄色くなっていた。
ブロッコリーの開花だ。
念のため、AIに尋ねた、
予想通り開花なので問題はないが、多少甘みが増しわずかながら栄養価が減るらしい。
食べて全く問題はないという。
以前は、黄色くなったブロッコリーを捨てていたが、これから、食べることにする。

それにしても梅雨の時期なのに暑い。
ここ数日、梅雨前線が北上し、真夏の気圧配置になり、日本全国記録的高温が続出し、最高で39℃台を記録。
無冷房の我が家の今朝5時ごろの室温は32℃。
パジャマも汗でべたべただ。
それでもよく寝ている。
口呼吸で口が乾き、夜中に起き上がらずに寝たまま枕元に置いたペットボトルの水を飲んで、そのまま即寝るが、尿意を催し4~5時頃トイレに起きることが多い。
数日に1回は夜中にトイレに一度も行かない日があるが、それには条件がある。
日中にある程度運動していないと、夜中に目覚めるのだ。
そういう意味でも運動不足は体に良くないと思っている。
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古いブログシリーズ むらぶろ 20240706

2024年07月06日 18時01分13秒 | 村ぶろ散歩者アーカイブ
以前にも同じ内容を投稿しましたが、三日坊主でお終わりました。
私の生きた痕跡を残すため、改めていちから始めます。
無論昨日記は継続します。

本格的にブログを始めたのは、この「むらぶろ」が最初でした。
「むらぶろ」は和歌山県の飛び地である下北山村?の村営ブログで、朝日新聞の記事でその存在を知り参加しました。
このサイトは、経費節減のため閉鎖され、今は存在しません。
現実の村民や、全国の人が参加者で、オフ会が年一回盛大に開かれ、全国から北山村にメンバーが集まったようです。
まだ熊野古道が世界遺産になる前の話で、熊野川下りや特産品の柑橘類の「ジャバラ」の話もよく出てました。
多くのメンバーが顔見知りのため、コメントのやり取りが多く。私も毎日2-5時間ぐらいブログを読み、投稿したりコメントしました。
投稿すると必ずコメントや「いいね」がついていました。
「いいね」には、アカウント表示機能が付いていて、投稿先にお礼のコメントや追加質問をしたりしていたので、多くの参加者が古い友人のように見えました。

ブログを始めた時は、書くことは非常に苦手で、投稿するのに4-5時間かかったこともありました。
それ以前に、タイピングすらうまくいかなかったのです。
さらに数年ぐらいは、テーマ探しにも苦労しました。
恥ずかしくない文章を書こうと努力していました。
しかし数年後には慣れて、1時間に600字以上打てるようになり、時短して早く投稿することに重点が移り、タイプミス、変換ミスによる誤字脱字のオンパレードでした。
推敲や読み返しはせず、そのまま投稿した結果です。
その傾向は今も変わっていません。

前置きがずいぶん長くなりましたが、以下「むらぶろ」への投稿です。
最初は「散歩道」で投稿していましたが同じ名前が多数あり途中から「散歩者」に変更し、さらに「gooブログ」に移ってからは複数の同名サイトと区別するため「散歩者goo」になりました。
1回数日分まとめて投稿します。

散歩道070828
テーマ:ブログ
2007/08/28 22:19
はじめまして。散歩道 の タダオです。
大阪市内の古い長屋の一人住まい。生まれて以来同じ場所で
生活しています。

クーラーの無い今年の夏は暑い。ここ数日室温は34度から下
がらない。
今日も暑くて4時ごろ目が醒めた。朝から体に纏わり付くような
蒸し暑さである。 ほぼ無風でたまに表から裏方向に
風が吹くとき台所の冷蔵庫の熱が加わって室内の気温が下が
らないようだ。無論扇風機は24時間回りっぱなしである。 
例年地蔵盆のころになると、朝晩涼しくなる。 今年は本当に暑い。

ところで地蔵盆というと大阪市内には昔から地蔵様が各路地に
祀られていて、地蔵盆が盛んであった。
私が幼い頃、地蔵盆になると地蔵様の前にテントを貼り台を作り
お供え物を山のように飾り(終了後子供に配られる。)、子供の
名前を書いた提灯をテントの下に吊り下げ夜になると灯をいれる。
各家の玄関先には四角い箱型の行灯が取り付けられ行灯には
和紙に様々な絵が描かれていて、夜にはローソクで灯をともす。
うちの町内にプロの絵描きが住んでいたので箱行灯が美しいの
が自慢だった。
子供は夕方になると浴衣に着替える。夕方には近所のおばあちゃん達が
集まりご詠歌をとなえる。 子供たちは「アーアーチン」とはやし怒られていた。 
夜になると、町内ののど自慢が酒を飲み江州音頭をうなり盆踊りが始まる。 
「あー、皆様たのみます。」「あーさてはこの場の皆様よー」 
 「それからどした」 「・・・そらーよいとよいよまっかどっこいさのせー」といった
音頭とりと踊り子が延々と本題+アドリブと掛け合いをしながらながら盛り
上がる。(大阪市内の盆踊りは江州音頭が中心であった。船場の商人に
近江出身の近江商人が多かった為ともいわれている。 河内音頭は
当時新興のラジオ大阪が鉄砲節を取り上げた影響で広まった可能性がある。)  
各路地こうした踊りの輪が出来、大きささや華やかさを競い合った。
子供達もよその町内の踊りを偵察に行ったりして楽しんだ。  
昭和復興期から高度成長期の懐かしい思い出である。
1. ハイジ
2007/10/25 14:24
はじめまして♪こんにちは^^
足あとたどってここまで来ました。
生まれたときからずっとクーラーのない家の住人です。
ようやくの本格的な秋に、ほーーーっとしています。

お地蔵さんのお祭り、この辺でも子供がいないどころか
お世話する方々も高齢となり、年ごとに寂れていくような感覚に胸がいたみます。
2. ただお
2007/10/25 21:44
ハイジさんコメントありがとうございます。 うちの長屋の周辺は新しい家に建て替えられ、新住民のお子さんが何人かいます。
昔と違い、ほとんど交流はありません。



ほっと一息
テーマ:経済・ビジネス・経営
2007/08/30 01:07
昨日初めてのブログを発行してしばらくすると、雨が降り出した。
地面がぬれる程度の雨でしばらく少し降ってやんだ。
それで少し涼しくなった。(といっても1から2度程度)
大阪は今日は曇り空で夕方には、晴れた。
現在の室温33度。 しのぎやすく感じる。

昨夜も良く寝られることが出来たが、この分だと
今夜も問題なさそうである。

夕方スーパーに行き食材を買った。
私はいつも自転車で行く。
いつも行く店はスーパーMとSとTである。
スーパーMは家から歩いても5分もかからない。
自転車だと1分程度。
スーパーSは最近外資の傘下にはいった。
自転車で5分程度
スーパーTは規模も大きく人も良く集まる
自転車で10分以上かかる。

この3つのスーパーは個性が違う。
Sは元々大資本系列の会社で質は悪くないが高い。
従って最も集客力が無い。
たまに時間限定で数個のクズバナナ等を叩き売る。
私がそこで買うのは食パンと牛乳で野菜が安いときは買う。
Mは価格に波がある。
給料日から数日は露骨にすべてが高くなる。
消費者を馬鹿にしているのではないかと思う。
老人も多く来ているが、お年寄りには体力的に安いものを選択する余裕が無い。
その代わり給料日前は特価・大特価が多くなる。
Mは最近コンプライアンスや省エネや品質に気配りをしている。
会社が成長し管理が行き届き始めた証しだ。
それでも価格はイオングループよりずっと安い。
ママの店ダイエーも低価格路線でのし上がった。
創業期の頃千林のダイエイは安いという噂があったのを知っている。
Tは四六時中どこよりも安い店と店内放送でがなりたてている。
昔の商店街の雰囲気である。
価格はSやMより安く飲食店の人も仕入れに来ているようだ。
レジ係りは中国の人が多い。
Mのように価格に時期的な差はない。
SもMもレジ袋問題に取り組み始め自家製の買い物袋を販売している。
(ほとんど普及していない。  大阪の特徴が現れているのか)
その点スーパーTは全くその気配が無い。
買い物をすると、レジで大小何枚ものビニル袋をくれる。
Tはいつも混んでいる。
野菜なんかはばら売りでかなり安い、傷物や不ぞろいな物も半値
で出したりする。
飲食店向けの高級魚も置いている。
米でも5kg1200円台の物も売っている。当然古米くず米のブレンドだが。
私も常食しているが、問題ない。
卵は特に安いが、たまに古いのが混じっていたこともある。
まさに薄利多売である。
薄利多売は回転が止まると一気に経営は傾く。
昔の大阪商人が使った手法で家電等の工業製品につながる。
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近況 20240630 日

2024年06月29日 15時32分33秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
以下の一文はFBに投稿したものの一部ですが、近況や交友関係も記載していて、公開しても支障がないので、私の日常の記録の一部の記録として投稿しています。私の記憶の掘り起こしの手掛りにもなります。


以下三宅忠夫(ギャラリーくるせを経営していたが後に倒産)のお詫びと谷口氏との関係
谷口氏とは、堀尾さんの主宰する旧「ぼんくら」(震災前)の会合で知り合いになりました。
その後、「ギャラリーくるせ」で谷口新展を行い、中谷氏も紹介され、お二人の展覧会や個展も行いました。

参考 :中谷氏のFB投稿より一部抜粋:
(昨年10月27日に突然別れも告げず逝ってしまった友人、谷口新に捧げる追悼展覧会、『谷口新とその友人達』(仮題)を開催したいと考えています。    谷口の作品をお持ちの方、また展覧会に参加していただける方を、ご存知でしたら是非お知らせ下さい。
7月末までにご連絡を頂けましたら幸いです。
コンテンポラリーアートギャラリーZone ディレクター 中谷 徹
メール:nakatanitoru46@gmail.com(中谷徹)
電話:080-3106-3177(コンテンポラリーアートギャラリーZone)

私事ですが、生活保護保護以下の年金暮らし(無冷暖房・・)をする独居老人の日々を送る私は、生鮮食料品高騰の影響で、日常生活・自炊等に追われ生活に余裕がなくなり、加齢の影響もありFBを見たりブログやSNSへの投稿も激減しました。さらに数週間前の大雨の日の深夜に2度停電があり、同時にOSの更新が重なり、それ以後メインで使っていた10年前に購入したPCが動かなくなりました。多くのデーターや文書が使用できなくなりました。現在までいろいろ対応したが回復しません。(起動しなくなったPCはウイドウズ.8.1からのバージョンアップしW10ではうまく使用していたがハード面でW11に全く対応できない)昨年末には、ウインドウズ11対応に危機を感じ、2020年?モデルのノートパソコンW11に対応してあるものを購入し、現在これを使用して投稿しています。しかし、大容量のエクセルのデータ処理動きには不安定なところも見受けられます。旧PC内に保存してあった画像データは、外付けHDにコピーしていましたが、そのHDからワードやエクセル文書は取り出せましたが画像は未確認です。
そんなことも重なり投稿が遅れましたことを改めたお詫びします。
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20240606 木 昨日記 近況

2024年06月06日 13時06分15秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
日々惰性に流され、何となく生きている生き方を改めようと、ここ数年考えていた。
日々の生活パターンは決まっている。
午前中は、朝食後に昼寝と株をチェックし新聞を読みTVを見ること。
新聞は、とりあえずすべての紙面に目を通し、気になった記事や投稿を読んでいる。
1ページ文字で埋められた、特集テーマをもとにした投稿記事を読むことも多い。
政治、経済と科学文化芸術や読書関連の記事を読むことが多い。
いわゆる三面記事やスポーツは、TVのワイドショーもよく見るので、そちらのほうが情報も早く、情報量も多いので、新聞ではタイトルを見てパスをする。
午後になると、食材の買い出しを兼ねて、スポーツセンターで汗を流し、その帰りにスーパーに寄ることが多い。

ジムでは、自分で運動メニューを作っているが、いつも体力の限界にチャレンジするメニューを入れているので、2日間連続して通うと疲労が蓄積して休むことが多い。
例えば、70歳前半(5年以上前)では、時速9kmで30分間(約4.5km)走れたが、コロナ等の休みが続き、さらに加齢の影響で、時速7kmで5分間も走れない。(なにも補助がない状態)
そのため、トレッドミル(ランニングマシン)のバーを交互に1分間交代で持ったり離したりしながら、30分間走ったりしている。
別の日には、時速7km・8km各1分 9km・10km各30秒(トレッドミルのバーにつかまって走る。)、これを1から3回行うといった多少無理な運動もする。
こうした運動をすると、帰宅後は疲労のため1-2時間TVを見たり、居眠りして過ごしているて、翌日も体が重く眠気を催している。
疲労が回復していないのだ。
それ以外にも、ジャンプや台の上り下り(約20cmの台に上り向こうに下り、そのままバックで上り下りして往復する運動を前後左右計60往復したりするかこれも非常にきつく、初めの頃は尻や腹筋や足の筋肉痛に見舞われ、回数を短くして始めたが、多少無理を感じつつ今もスケジュールを組んで行っている。

最近、生活スタイルを分析して、スポーツセンターでの運動がオーバーワークで、その結果翌日に疲労を残し、帰宅後と翌日の午前中は何となく無気力にぶらぶら過ごしたり、昼寝をしたりする結果となっていると考え始めた。
今、そうしたことを見直そうと試行錯誤を始めた。
オーバーワーク気味の運動は、年寄りの冷や水的な要素もあるが、運動能力の向上も実感している。
今も翌日まで疲労を残し、オーバーワークになっているが、同時に体力筋力の向上も実感している。
例えば、敏捷性や左右のバランスを強化するため、昨年から反復横跳びを始めた。
初回は、10往復するだけでオーバーワーク状態となり、足はふらつき息が上がり運動継続ができない状態になり、翌日には腹筋や足や尻の筋肉群のひどい筋肉痛に悩まされ、強い疲労感もあった。
それが、現在では、反復横跳び15往復1セットで2セット実行してもオーバーワークは感じなくなった。

日常生活の中で、運動能力維持のためのスポーツセンター通いは、主な柱の一つに間違いないし、ある意味生きがいの一つでもある。
それと同時にもうひとつの生きがいがある。
読書である。
特にいまは考古学関連と哲学関連の本を読んでいる。

キエルケゴールの話は以前の「昨日記」で触れたままになっている。
先月その本は読了した。
そもそも、キエルケゴールの本を読み始めたのは、実存主義への疑問からだったが、その本を中心にウイトゲンシュタインから分析哲学へと視点が移っている。
今まで、高校時代に読んだ河合栄次郎の「学生にあたう」を手始めに、弁証法やギリシャ哲学やデカルトやカント関連の哲学や、精神分析論、記号論・構造主義等様々な本を読み漁った。
哲学以外、アメリカ語学留学時に取り上げたマックス・ウェーバーの社会学や構造主義にも関連する文化人類学にも興味があり、関連する本も読んだ。
それ以外、若い時の本業だった技術・科学関連には強い興味があり、関連したTV科学番組は欠かさず見ている。
また健康や運動に関連するTV番組や新聞ネット情報もよく見ている。

長くなるので、キエルケゴールとウイトゲンシュタイン関連の話は、次回に。



散歩者gooのトップページへ、 http://blog.goo.ne.jp/sksoo
過去の注目ブログは、自選ブログ集・カテゴリー別(分野別)ホルダーに保存しています。
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20240518 土 カムイエロキ (追記)

2024年05月18日 15時20分36秒 | 読書・考察・思索録
昼食をとりながら、NHK Eテレの心の時代の再放送「カムイエロキ」を見た。
2度目である。
以前からアイヌの宗教と日本の神道の類似性が気になっていた。
国立民族学博物館のアイヌに関連した講演会にも参加したことがある。
常設展示されているアイヌの展示物も見た。
日本の神道もアイヌの宗教も万物に霊が存在するという考えだ。
事実、ヤマト(日本)では、人形に限らず何々の神(火 水 風 木 土地 山 川 道祖神 かまど 家 車 船 針 酒 米 漁 ・・・)として祀ることが多い。
アイヌも、ヤマト(日本)以上にすべてのものを精霊として祀っている。
依り代に霊が取りつくとか霊を送るといった考えも同じだ。(日本では磐座<いわくら>や依り代・神木・御神体<山・滝>  神社は浮遊する霊=神を社<やしろ>閉じ込めて、みんなを守護してもらうための施設という言説もある。)
更に驚いたのは、祭祀儀礼で、神聖な場所に皆集合して神とともに共飲共食を行うことだ。
その際参加者は、高坏(器台)にお椀に酒を入れて、飲んでいる。
このスタイルは、日本の前方後円墳やその他古墳の墳丘上で多く発見されている祭祀遺跡の状態と似ている。
ただし、1500年以上前の古墳の祭祀遺跡と、現在の地域も時代も全く違うアイヌの祭祀を比較しても、学問的根拠はなく意味はないと考えられる、というより科学的には危険な比較に見える。(アイヌの祭祀が1500年以上前の祭祀と同じとは言えない。)
祭祀文化の共通性を考える場合、北海道にも日本の縄文時代から古墳時代に該当する年代の遺跡があるので、そうした遺跡の祭祀と比較すべきだろう。
それでも、哲学者の梅原猛氏の唱える、アイヌ文化と日本文化の関わりの研究には注目している。
機会があれば彼の本を読んでみたいと思う。

参考追記
日本は地理的に極東の吹き溜まりに位置し、旧石器人、縄文人、アイヌ等の先住民に加え、弥生時代以降(それ以前からも交流し渡来していた)大陸や韓半島や南方からのいろんな民族が渡来混血し今の日本人が形成されたといわれている。
平安時代、東北の蝦夷阿弖流為(アテルイ)の反乱に対し、798年に官軍が対応し敗退したが、801年に征夷大将軍坂上田村麻呂が4万の官軍を率い岩手県の胆振沢の戦いで勝利し、蝦夷の族長アテルイを捕虜とし、都へ連行した。
その後アテルイは処刑された。
大阪府の枚方市にアテルイの首塚なるものがあるが、それは官民一体で作った虚構の伝承という指摘もある。
『伝 阿弖流為 母禮之塚』-由緒不詳の首塚に生まれた虚構の伝承(https://note.com/ksmt_el/n/nf79503a9b1c6)

アテルイの住んでいた地域(青森 岩手 秋田)は、アイヌ語の地名が多くあるという。
蝦夷とアイヌの関係については、強い関係性はあるようだが、明らかにはなっていない。



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