神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.372 金比羅尾根縦走記 後日譚

2024-12-22 23:47:04 | 余録
(1)今日は、昨日の「金比羅尾根縦走記 4」に載せた「改修記念」碑と「御大典記念」碑について調べるため、午後に昭島市民図書館の郷土資料コーナーを閲覧に行ってきましたました。
 閲覧したのは『日の出町史』の「文化財編」と「通史編下巻」(平成18〔2006〕年)の2冊です。しかし、残念ながら、公式記録であるこの2点の『町史』からは、どちらの碑の存在についても、どちらの開通事業についても、手掛かりが得られませんでした。専門外のことを、にわかに思い立ってちょっと調べてみたまでのことですから、まあ気長に探ろうと思います。

(2)とはいえ、動けば何もないということはありません。一つ、手掛かりが出て来ました。
 それは、「改修記念」碑に「報徳部落」とありましたから、「報徳 日の出町」でネットで検索したところ、日の出町に「報徳会館」があることがわかりました。場所は梅ケ谷〔うめがた〕トンネルのすぐ近くです。
 じつは、もう20年以上前になりますが、「報徳会館小田原」や掛川の「大日本報徳社」に資料閲覧でお世話になったことがあります。ここで、また一つ「点と点の繋がり」がみえてきたようです。

(3)それから、副産物として、『日の出町史』(200~203㌻)に多摩地方の「御料林の払い下げ」問題について言及した記述があることがわかりました。
 これは、近世以降に社寺が所有していた林地は明治4年に国〔官〕に上地されて官有地となりますが、明治23〔1890〕年頃の御料地形成の際にそこからも取り込みました。しかし、面積が小規模で御料局の林業経営に不向きなこと、大部分が保安林に属したこと、社寺の風致林として不可欠なことなどのために、明治33〔1900〕年に「社寺上地御料林野特売規程」を制定して払い下げ処分を決めました。しかし、翌34年には、寺社の風致、事業、縁故、建築、警衛などで必要とするところを無償払い下げを決めました。下の表はそれをまとめたものです。

    

 この結果、神社の財産基盤が充実していきますが、しかし、もともと上地された林地がすべて払い下げられたわけではなく、例えば、大久野村の白山神社〔表の2行目〕の場合には、もともとの所有地3反9畝のうち下げ戻されたのは3畝2歩、約10分の1にすぎなかったことが述べられています。

(4)御料地・御料林の問題もまだまだ未解明な部分が多く、私も手が回っていません。特に、こういう地域と関わる問題では地方史家・郷土史家の参加が不可欠です。
 情報公開法が制定されて、重要資料が見られる時代になりました。昔なら大先生でも見られなかった重要資料を、今は駆け出しの学生でも見られます。だからこそ、積み上げる研究を心がけないといけません。資料を持って来て「どうだ」と並べて見せるだけではいけません。大向こう受けを狙った「皇室財産論」とか「皇室財政論」みたいなことではない研究を心がけることが重要です。

    

【コレクション 140 文学評論】
 私に文学を語る資格があるとは思えませんから、載せるだけです。
 とはいえ、若いころ読んだタカクラ・テルさんの『大原幽学』や谷口善太郎さんの(え~となんといったか、もう忘れてしまいましたが)作品は印象深く読みました。

 パンフレットの大きさは、B5判で4㌻です。B4判の用紙を二つ折りしてできています。
 全体は、
 1㌻ 下に掲載
 2㌻ 下に掲載
 3㌻ 執筆者名紹介 創刊号(昭和9年3月)目次 内容見本
 4㌻ 刊行案内 体裁:菊判 各号平均208㌻ 全31冊(合本全9冊) 揃定価:118,000円
         1984年1月刊 ナウカ㏍ 
    刊行挨拶 
          1㌻


          2㌻


 以上です。
 今日はここまでです。
 
     
     君知るや ながら酒のうまさを
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No.371 金比羅尾根縦走 4

2024-12-21 22:54:00 | 
(1)今日も最初に地図を載せておきます。
 バスが止まりませんでしたから、「乗せないなら、乗ってやるものか」と私は武蔵五日市駅まで歩くことにして、つるつる温泉を出発しました。


(2)しばらく歩いて三ツ沢に来たところ、石垣の上にある民家の庭から赤いクコの実が垂れ下がっていました。
     

(3)それから間もなく「白岩滝入り口」を通過しました。年内にここから上がりたいと思い、ちょっと奥の方を見ておきましたが、うっかりして写真を撮り忘れてしまいました。

(4)それから少し歩いたところの民家の小屋脇に、少し傾いた碑が見えました。次のものです。
    

 また道路開通記念碑かなと思って読むと、やはりそうでしたが、末尾に「報徳部落」とあることに気が付きました。枯れた草叢が邪魔をして近づきにくいので、とりあえず写真を撮って帰りました。
 写真を拡大すると大体は読めますが、枯れ草が邪魔をして困難なところがあります。しかし、おおむね解読できましたから、下に載せておきます。
 なお、原文のカタカナを平仮名に直し、「句読点」を付し、旧字はそのままとしました。判読不明な箇所、前後から推測した箇所には下線を付してあります。
  【解読文】
  改修記念
産業の発展は交通機關の利用に在り。本村は曩に林道の開設を行ふと雖も、猶字松尾三ツ澤境界に於て屈曲甚しく、且幅員狭隘加之竣坂ママにて辛して荷馬車の通行し得たるも頗る危険の箇所あり。府道第九十九號福生御嶽線中の最大難なりしに依り、報徳部落民一同協議の上用地を献納し此改修方を村當局後援の下に昭和元年以来屡々東京府に陳情せし處、幸にして採擇せられ昭和十二年度實施に決定せり
爾来部落民は鋭意用地買収に或は此経費調達に奔走し工事の促進に努力せる結果、昭和十二年十月着工、翌十三年二月竣功す。延長三百米、有効幅員六米、此工費三千六百餘圓なり
要するに、本改修工事は本路線の基本を為す模範的に設計せられたるものにして、将来前後道路改修を暗示する最有意義なる工事なるを以て、有志相諮り録して永久に記念とす
   昭和十三年三月成 報徳部落建之
 注.2024.12.26修正。
   推測が正しかったところも、訂正したところも、下線を付してあります。
   また、「ママ」とある箇所は「峻坂」が正しいと思われるがそのままにしてあるの意です。

(5)碑文にある「松尾」と「三ツ澤」は上の地図にも出ています。クコの実が見られた当たりです。ここが、「幅員狭隘」というだけなく「竣坂」で、「辛して荷馬車の通行し得たるも」「頗る危険の箇所」だったとあります。今となっては何ともない普通の道路ですが、ここが「府道第九十九號」といって「福生」と「御嶽」を結ぶ「線中」の「最大難關なりし」といっています。
 それから、「報徳」つまり二宮尊徳の思想がここに普及していたということがわかりますから、郷土資料を調べてみようと思います。これはまたいずれ触れるかもしれません。

(6)さらに下ると、切り通しがありました。
     

 この写真は少し下ってから振り返って撮ったものです。ここからは見えませんが、左にある道路標識の向こう側に次の記念碑がありました。
     

 左の大きい碑は、上にある「題僉〔だいせん=題字〕」が「開通記念 寄付者連名」となっています。そして右の小さい方には「御大典記念」とあります。
 この「御大典」とは大正4〔1915〕年の大正天皇の即位のことですから、この切り通しの建設が大正天皇の即位を祝って行われたものであること、その事業の寄付者が大きい方の碑に記されていることがわかります。

(7)さらに下ると、突然、真新しい「梅ヶ谷〔うめがた〕峠トンネル」が現われました。地図の肝要からの梅ケ谷峠の間で、太く線で描いてあります。実際はS字状のゆるい曲線の道路です。
 帰ってから調べたところ、今年(2034年)3月16日に開通したばかりで、青梅市梅郷1丁目と日の出町大久野を結ぶ1333mのトンネルとわかりました。

(8)トンネルの写真を載せておきます。
1.日の出町側の写真を撮るのを忘れました。

2.トンネル内です。少しブレていますが、これしかないので、悪しからず。
 私が歩いている間〔15分くらい〕に通過したのはわずかに5~6台です。防災時の迂回路・緊急用との振れ込みで作られたようですが、本当に必要なのかと思うような感じです。調べてみる必要があるかもしれません。
    

3.トンネル内の行政界です。
     

4.青梅側に着きました。正面に突き当りに「青梅日の出線」が走っていて、ここの辺りが「梅ケ谷峠」です。
    

5.青梅側から見たところです。
     

(8)トンネルを出たところの「青梅日の出線」の梅ケ谷峠は、だいぶ前に栗拾いをしながら越えましたし、ここの東にある天狗岩の一帯はもう何度も来ています。ですから、困ることはありませんでした。このあとほんのわずかの時間で、青梅市の吉野街道にある「稲荷神社バス停」に到着。これまで青梅側のバスで嫌な思いをしたことはありませんから、16:11のバスまで15分ほど待って無事に車中の人となりました。
 トンネルのおかげで、武蔵五日市駅まであとまだ6kmは歩かなければならなかったところを、にわかに2kmほどに短縮でき、碑を2つ見つけ、トンネルをくぐり、なんとも良い勉強の機会となりました。禍福を転じて「幸甚の至り」となりました。
 これで「金毘羅山縦走記」はお仕舞いです。残余はまたいずれかの機会に。 
 長くなりましたから、きょうはここで。

 今日の昼間見た月 
 
 
*訂正:昨日の「芋窪〔いもくぼ〕」は「萱窪〔かやくぼ〕」の誤りでした。

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No.370 金毘羅尾根縦走 3

2024-12-20 19:17:28 | 
(1)今日も最初にルート地図を上げておくことにしましょう。
 これまで、武蔵五日市駅―金比羅尾根ー麻生山ー日ノ出山ー新道〔林道〕とたどりました。
 今日はつるつる温泉で西東京バスに乗ろうとしたときの出来事です。



(2)林道を下って来て、つるつる温泉がある往還「奥多摩秋多線」に出ました。右に100mで「日ノ出山登山口」バス停ですが、250m上の「つるつる温泉バスターミナル」の方へ歩きました。曇ってましたが、寒桜が見えたからです。
 寒桜は群馬県藤岡市鬼石町のものが有名で、ニュースでもよく取り上げられます。
 ちらほらと咲いていて、懐かしさもあって下の写真を撮りました。曇り空の下でもきれいでした。

     
 
(3)ふと反対側を見ると、苔むした碑が見えました。
 碑文は、写真を大きくすれば読めないこともないですが、解読して下に載せました。
     

【解読文】
 開通記念
 大入林道は東京都が林産物搬出の目的で昭和三十七年に着工し以来十有余年の歳月を費して延長三千米 幅員三・六米 総工費壱億壱千万円を以て昭和五十四年三月吉日山頂まで完成したものである この林道の開設に当っては関係各方面の御高配を特に林道沿線の道路敷地の地主ならびに林道各流域の森林所有者の御理解と積極的な御協力に負うところ多大であります このたび大入阻端沢線として青梅市に通じたのを記念し御協力賜わった各位の御芳名を記念碑に刻して永くその功績を顕彰するものである
 昭和五十六年五月二十七日建立
  大入林道促進委員会代表 小澤政 松尾勘治郎 松澤万吉 小澤清治郎 井上小重 篠崎稔夫 

(4)つるつる温泉から北に道路が伸びています。この道は三室山の西の「梅ノ木峠」にゲートがあって一般車の通り抜けはできませんが、青梅市側の吉野街道まで続いています。
 私は、日ノ出山ー三室山ー吉野梅郷のルートを何回か歩きましたが、その時に「梅ノ木峠」から青梅側に1度、つるつる温泉側に1度、降りました。今も関係車のみ通行する事業用の林道です。碑はその開設経緯を記したものでした。

(5)碑の写真を撮って時計を見ると、なんと12月3日のあの事故の日と全く同じ14時40分過ぎでした。ということは、バスが出る時間です。それでつるつる温泉の入り口の方を見ました。
 下の写真で、左の旗の少し向こうがつるつる温泉ターミナル入り口です。
    

 12月3日は、左の旗が立っている手前に行ったときバスが左から出てきました。急いで手を上げると、30歳代くらいの運転手は、「ここでは危険だから」と、右側の駐車場の方に誘導して載せくれました。
 偶然ということがあるものですが、今日もまったく同じところでバスが出てきました。急いで手を振ると、50歳くらい年齢の運転手でしたが、気が付いたのがわかりました。それで急いで右側の駐車場に移動してバスが入って来るのを待ちました。

(6)ところがです。バスはそのまま通過してしまいました。どうするのかと見ていると、運転手が「自由乗降区間ではありませんから停車できません」とアナウンスしてきました。唖然!
 ターミナルから車線に出てきてから、ほとんど1~2秒か2~3秒のところで手を上げたのに、しかも同じ場所で12月3日の若い運転手は親切に誘導までして載せてくれたのに、今日の運転手は「法を口実にして乗せなかったです」。
 冬の山の中の、1時間に1本しかないバスの、おまけにこの日はつるつる温泉はメンテナンスのために休業中のところを、「法を言って乗せなかった」のです。実に「順法精神旺盛な運転手」ですが、私にとっては「またか」という記憶がよみがえりました。それは下の(8)に書きます。   

(7)で、私はどうしたと思いますか。
 「乗せないなら乗らない」ことにして歩くことにしました。武蔵五日市駅までせいぜい10km、2時間もあれば着く・・・と。すごい?当然です。乗る人がいなければ、バスも意味がないはずです。
 その前に一言。
 つるつる温泉を尋ねました。メンテナンスで休業中でも誰かいるだろうと期待したからです。すると代表という人がいたので、「12月3日の転倒事故のその後」を伺い、「先ほどのバスの顛末」を話して10分ほどで辞して歩き始めました。そこはまた明日に。

(8)バスは「西東京バス五日市営業所」管内のバスです。
 実はちょうど6年くらい前のこと、こういうことがありました。
 青梅から山越えして、「芋窪〔いもくぼ〕」というところから「東町車庫行」というバスに乗った時のことです。乗客はすでにほかに4人いました。
 バスは「JR武蔵五日市駅」を経てその次が終点「東町車庫」なのですが、「つぎは武蔵五日市駅です」とのアナウンスがあった時、誰も「乗車ボタン」を押しませんでした。
 しばらくしてバスが駅ターミナルに入りました。私は主要駅だから当然停車するものと思っていました。ところが運転手は、ターミナルを1周し終わると、道路に出るために一時停止しました。そのときに、乗客の一人が「どこで停まるんですか」と聞き、私もほかの乗客も「降ります」といい始めました。
 40才前後の運転手は、憮然として、「誰もボタンを押さなかったから、いないのかと思った」と答えました。私が「ここで降ろしてください」というと、「ここでは危険だから降ろせない」といいます。「じゃあ、道路の向こう側に寄せて降ろしてください」というと、「それもできない」といって、結局、全員「車庫終点」まで連れていかれ、しかも料金も100円ほど割高で支払わされました。

(9)みなさん一緒に武蔵五日市駅に向かいました。途中、駅横の営業所へ苦情を言いに行きませんかと提案したのですが、帰ってしまいましたから、一人で苦情を言いに行きました。西東京バスにはそのだいぶ前にも不快な思いをしたことがあるのです。
 この時は確か、「終点ひとつ前の主要駅なのだから必ず停車するとか、ひとこと確認するようなサービスがあってもよいのではないか」といったはずですが、なんとも暗い雰囲気の対応だったのが忘れられません。ひどい対応には屈しません。これが大事。
 12月3日の若い運転手の対応がよかっただけに何とも残念です。それから、今回のことも電話で苦情を言いました。対応に出た加藤さん(若い男性)、この人もグーでした。若い人はいいのかな。

    

【コレクション 139 日系移民資料集 第2期 南米編】
 移民・植民というのものが、1国の国民経済の問題として、送り出す側・受け入れる側としてどう扱われるべきなのか、これは歴史の問題だけでなく、結局、現代の外国人労働問題をどう位置付けるかということにもつながってくるので、その点から注目しています。

 このパンフレットの大きさは、A4判、6㌻です。A4判3枚分の横長の用紙を、最初に左から3分の1を折り込み、次に右から3分の1を折り込むとできます。
 全体は、
 1㌻ *下に掲載
 2㌻ 刊行のことば 石川友紀 琉球大学教授 南米日本人移民100年と文献資料
    推薦します 戸上宗賢 龍谷大学教授 移民研究のさらなる進化をめざして
          松下 洋 神戸大学教授 南米への日系移民の一層の進展を期待
 3~4㌻ 収録内容 *下に掲載
 5㌻ 特色 内容見本
 6㌻ 刊行案内 仕様:A5判 総12,500㌻ 全30巻・別巻1 セット定価:380,000円
         1996年刊 日本図書センター 
        1㌻ 


        3㌻


         4㌻

   
  以上です。
  長くなりました。今日はここで。

    
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No.369 金毘羅尾根縦走 2

2024-12-20 00:04:48 | 
(1)今日は昨日続きです。念のために地図をもう一度載せておきます。辿るのはこのうちの日ノ出山からつるつる温泉までで、コースは、旧道〔赤い線〕ではなく、白い線の新道〔作業用の林道〕です。
     

(2)日ノ出山でトリさんが送ってくれたことを昨日書きました。
 このころ一時的に少し陽が翳りました。そのため写真がすっきりしませんが、トリさんが啼いていた方を見ると、大塚山(920m)の尾根が見え、遠くには、川苔〔かわのり〕山(1363m)でしょうか、山塊が雄大に広がっていました。
     

(3)日ノ出山の頂上に着いたのがやや遅く12:50頃でしたから、急ぎ昼食を済ませて周囲の景色を確かめる間に時刻はすぐに13時を過ぎました。おまけに天気予報の予報通りにいくらか雲が出て風も少しありました。その間に、ムサイ連中がだんだんと降りて行き、あたりにはもう誰もいなくなり寂しくなりました。その時トリさんが来ました。

(4)じつは私は麻生山の手前でひとり「昔の青年」を追い越しました。すれ違った人は15人ほどいましたが、追い越していった人はいませんでした。唯一追い越したこの人はストック2本を使って一歩一歩上がってました。そうやって頑張って淋しい頂上に着くのは気の毒と思って、せめて一言「ごくろうさん」と労ってから降りようと待ってました。でも、なかなか現われませんでした。下の方を見てもだれも見えませんでした。それで、頂上までは来ないことにして、麻生山から降りたかもしれないなどと決め込んで下り始めました。

(5)10分ほど下りました。そこは、12月3日に80歳くらいの男性が木の階段で転倒して救助を求めたところです。上るときに辺りを見ましたが、もう一度見まわしながら降りていくと、そこに「昔の青年」が上がってくるのが見えました。
 私は一瞬驚きました。「これからだと、頂上に着くのは14:00になる」などと思ったからです。でも、「食事をしても、2時間あれば、つるつる温泉でもケーブルの駅でも、16時ころには着ける」と読めましたから、安堵して下に向かって「ごくろうさん」と声をかけ、事故があったことなどを一言二言話して別れました。
 そこから100m下ったところが下の写真のところです。
 ザックを乗せてある切株が、ケガをした老人を座らせて救助を待ったところです。
     

(6)よく見るとわかりますが、この道は下からの新道〔林道〕としてつくられたものです。
 地図にあるように、日ノ出山の頂上直下には日ノ出町のシルバーセンターが管理している東雲〔しののめ〕山荘があります。その管理をする人たちがこの道を車で上がるようです。
 旧道は、転倒事故のあったところから、この写真の右の方へ廻って、右下のところへの辿って降りて来て正面方向へ行き、暗くなったところから左下へ行きます。そこに次の標識が建てられています。つまり、ここで旧道と新道が交差しているわけです。
     
    左:つるつる温泉〔旧道〕、右:新道〔林道〕、後ろ:きり株(日ノ出山)

(7)旧道はすでに2回下りましたから、今回は新道を取りました。
 上の標識から150mほど下ると平井川の水源です。
    
      平井川源流の碑:このすぐ右の沢から流れ出ています。

(8)新道はこの碑の前まですでに舗装されていて大型車も入れます。しかし、この上は道がカタカナの「ワ」の字にように屈折していて、小型車でないと切り返しができません。
 12月3日の転倒事故の時に、転倒者の夫人が救助要請の電話をしたところ、10分かそこらで五日市警察と消防の救助隊〔各1名〕が到着したので、居合わせた一同は驚き・感動したものですが、その理由の一つがこの林道にあったことが今回わかりました。
 ちなみに、もう一つの理由は、その日つるつる温泉の近くで合同演習のようなことがあったようで、たまたまそこに要請が入ったということのようでした。これは、このあとつるつる温泉の人から聞いたことです。不幸中の幸いでした。

(9)長くなりましたから、このあとの林道のことは端折って、写真だけにします。
 1.こぶ
      

 2.木曽の旧御料林で見た木を彷彿とさせる美しさです。
    

 3.フジツルでしょうか。巻きつかれた木
    

 4.低い山ですが、基盤の大岩が顔を出しています。
    

 5.そうしてつるつる温泉に着きました。
 タイムリミットです。今日はここまで。

     きのうの月   
    
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No.368  金毘羅尾根縦走 1

2024-12-18 23:51:05 | 
(1)今日はあきる野市五日市の西北にある金比羅尾根を辿って、麻生山と日ノ出山へ行ってきました。
 下の地図の右下に武蔵五日市駅があります。
 8:37 そこから赤い線を辿って、9:50金比羅神社〔No.325で書きました〕、10:05金毘羅尾根、12:00麻生山、12:45左上にある日ノ出山着。下りは、12月3日〔No.353・新No.8〕と同様につるつる温泉に向かいましたが、赤い線〔旧道〕ではなく、白い線〔新道〕で書かれている林道を辿りました。ここは明日書きます。



(2)上り始めると、トリさんが歓迎してくれました。
    

(3)金比羅神社を過ぎて歩き出すとしばらくして、きれいに手入れがしてありました。
     

(4)南側は伐採地で、すでに新しい苗が植えられていました。
 下に見える集落は戸倉です。そして、中央の山は城山です。城山はNo.192でも取り上げました。
 城山から右〔西〕の方に続くのがグミ尾根です。グミ尾根を辿った高いところが臼杵山842mです。臼杵山の向こうは熊倉山でしょうか?
 ちょっとわかりにくいですが、臼杵山の左にあるのが市道〔いちみち〕山795mです。それから、城山の真後ろに刈寄〔かりよせ〕山687mがあります。
 臼杵山・市道山・刈寄山の3つを総称して刈寄三山といいます。 
     

(5)途中は、山ですから多少の上り下りはありますが、徐々に登っていく道です。そして、約2時間して麻生山に到着です。
     

(6)麻生山から都心の方です。うまく取れたのがないので残念ですが、中央にスカイツリーが見えます。
     

(7)それから、麻生山から北東にある山の方を見た眺望です。向こうは埼玉県です。
     

(8)麻生山は南側がやや歩きにくく、要注意です。麻生山を北に降りたところに分岐点があります。ここを過ぎれば、700mくらいで日ノ出山です。
     

(9)12:45日ノ出山着。
 日ノ出山は、今日は男の登山者ばかりで、実に殺風景でした。しかし、みなさんが降りて行って私一人になると、鳥さんが歓迎してくれました。
    

(10)日ノ出山の眺望はこれまでで一番スッキリしていました。
 少し拡大しましたが、肉眼で、これに劣らないほど良く見えました。
     
 
 今日はここまでにします。 


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