神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.276 水害・恩賜林 

2024-08-28 23:59:12 | 追憶
(1)現在、九州地方南部に、これまでで最強といわれる台風が到来しています。みなさん、対応に追われていることでしょう。
 台風の中心は現在のところ九州の島しょ部ですが、今後西から東へと向きを変えて日本列島を縦断するかもしれないと推定されていて、どんな被害に見舞われるか余談を許しません。
 みなさん気をつけて下さい。我が家では、先日に続いて今回も庇を全部外しました。

(2)先日も山形・秋田両県で水害があったばかりですが、ここ10年ほどでも、温暖化の影響で、全国で無数の水害に見舞われました。記録画像を見ると、たいがいどれも記憶が蘇ってきます。ところが、私は、幸いにもまだ辺り一面が海になるというような水害に見舞われたことがありません。ですから、原体験としての水害とでも言いましょうか、水害といって頭に浮かぶのは、およそ次の3つです。

(3)一つは、群馬県藤岡市の水害です。
 藤岡市では、西の富岡市の方から流下してくる鏑川〔かぶらかわ〕に、南西の山地から流下してくる鮎川〔あゆがわ〕が市の北西で合流します。このあと、鏑川はすぐに烏川〔からすがわ〕に合流し、烏川は利根川に合流していきます。
 いつのことかもう忘れてしまいましたが、母から聞いた話なので、昭和初期か大正でしょうか。このころはまだ多野郡藤岡町といっていた時代です。
 この鮎川の堤防が、奥の山地に降った雨のために決壊したそうです。そのためにあたりが水浸しになったと。

(4)もう一つは、70年頃に読んだプロレタリア作家の谷口善太郎という人の作品を読んだときのことです。うまい作品とは思いませんでしたが、その中に京都の宇治川が、これも上流の山地に降った雨のために氾濫をおこしたことが書いてありました。
 町が一面の海と化して、上流から家が流されてきたので見ると、生き物も必死にしがみついていたなどということがリアルに描かれていたことです。
 残念ながら、本が見つからないので記憶だけです。

(5)3つ目は、山梨県の御料地に関してです。
 これは、研究も進んでいて、検索するといろいろなものを読むこともできます。
 たとえば、下に載せた、書名の『明治40年大水害実記』や、副題の「武田千代三郎」で検索しみてください。
    

 この本は、同名の本の現代語訳なども含めた復刻版です。A5判87㌻、編集者丸山太一・熊谷喜孝、発行者長田組土木㏍、平成13〔2001〕年発行、非売品です。

(6)「山梨県には国有地がない」というのはウソですが、山梨県の山林は現在ではほとんどが県有林です。これは、明治20年代の初めにそれまでの官有林・官有地〔現在の国有地・国有林〕がほとんどすべて御料地に編入されました。すると、それまでの入会地などの山林利用に制限が加えられたため、県民の反発・抵抗がはじまり、山が荒れる原因となりました。その結果、山の保水力が低下することなり、明治30年代末~40年に、笛吹川など大河川が氾濫するようになりました。その結果、山梨県の御料地・御料林は、甲府市北側の一帯を残して、ほぼ全部が山梨県に下賜されることとなりました。これが、現在は恩賜県有林と呼ばれて県によって管理されている林です。そして、残された御料林が戦後になって国有林に移管されました。
 なお、この「下賜」についての私の評価は、本ブログのNo.42にあたる「恩賜林:御料林の下賜」で書きました。ここでは略します。

(7)甲府市へ行くと、駅南にある城跡に次の写真の記念碑があるのがわかります。写真の出典は『上記書』の口絵です。
 左が「謝恩碑」、右は水害の際に「住民96人が3日間難を逃れたという柿の木」です。説明が読めると思いますのでどうぞ。



きょうはここまでです。 

     
     こんな天気で・・・でも元気です

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