神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.80 浅間山・油屋

2024-02-15 00:01:25 | 勝記の巡回
 訂正:「No.76 私の」の件、関西在住の妹が「松前屋」を訪ね、情報を寄せてくれましたので、それにより訂正・修正を施しました。
 
 さて、神足は浅間山に上りました。

     浅間山(右端):小海線・竜岡城駅より

 神足勝記は、明治13年9月17日、シュットやミラベックと群馬・長野・山梨・静岡・神奈川の巡回に出ます。そして、その途次、「大川通久・関野修蔵・ミラベック氏、ほかに定夫・人足都合8人」で浅間山に上ります。

 ここは、説明すると長くなって煩わしくなりますから、その場面を元の『神足日記』の原文で紹介します。
 全文1文ですが、行替し、間隔をあけました。根気よく読んでてください。
「余」がなんども出てきて煩わしいですが、「自分」ということです。

 ・・・此処に至るまて余毎子に先頭し、大川氏之に次く。ミラヘック氏疲労甚しく、後るヽこと数丁。共に踞して同氏をまつ。暫あって来り会す。

 而て云ふ。余、身体甚疲る。喫食して頂上に達する未た遅しとせす。願くは君倶に休して同しく上らんと。
 余、不得已之を諾す。大川・関野氏外、人足・案内人、皆先んし仰て上る。

 余は、ミラべック氏と巨石に踞すること半時許。・・・
 ミラベック氏曰、僕身体甚疲る。已に一歩を進むるに艱む。余は頂上に登るを止め、此処に休して諸氏の下るを待んのみ。君以て如何とす。

 余曰、僕亦疲れさるに非す。然れとも、此処に至り頂上に上らさるは真に遺憾たり。僕か足労せりと雖も、尚以て頂上に達するに足る。君行くを欲せされは、僕敢て独行、噴火の有様を究めんと辞し去らんとす。
 氏、余を止むること再三。而て曰、君設令頂上に至るも、雲霧山を蔽ふ。徒に労を増すのみ。強て上る亦愚と云ふへし。

 余曰、我輩労苦茲に至るは、他に望む処あるにあらす、只頂上に至りて見る処あらんと欲する耳。然れとも、雲既に満山に播く、余其已に究極する能はさるを知る。然りと雖とも、八合目に至り止むは意の安んせさる処なれは、須らく至りて雲霧の霰るヽを待ち、噴火を目視すへし。

 君の毛氈並に酒瓶等は、天の晴るヽを待ち、人夫を下らしむへし。君亦倶に上り来るへし。雲若し散せされは、余等も亦直に下り来る。殊に人夫を送らすと辞し上る。

 頂上に近きを以て山腹甚急。岩に攀ち、百艱漸くにして十二時半頂上に至れは、風弥烈しく、佇立する能はす。並立の岩石を楯とし、水銀バロメトルを記し午食。

 将に案内人に依りて噴火の有様を目視せんとす。雲全山を蓋ひ、風愈強く、降雨寒気肌をつき、ケットを被るも未た堪へす。全身震慄す。
 案内人曰、陰雲天を覆ふ。噴火を見るは危殆なり。宜しく下山すへしと。故に不得已下山。案内人を先に立て帰途に就く。

 どうですか、すごい気迫ですね。たまにはいいでしょう。
 ここも本にして残したいのですけど、その手立てが見つからないので、Xデーが来たら、既に入力してあるデータと一緒に打ち出したものを、どこかに寄贈する予定です(もちろんご遺族の了解を得てです)。

 つぎは、神足が上った頃より30~40年後の浅間山の絵葉書です。撮ったところが追分ですから、上の写真よりは軽井沢寄りです。


        浅間山:大正期の追分から

 なお、『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)では、この箇所はスペースの関係で『回顧録』の引用で補いましたから、ほとんど出てきません。
 
 私は、浅間山に上れませんでした。行こうとすると、入山制限があって・・・。写真でガマンです。

 それから、神足が泊まった油屋を尋ねました。
 良い写真がないので、昭和期の絵葉書です。
 

 昭和に入ってのものなので、道もずいぶんきれいです。
 しかし、その昔の明治末期は、いまの林道などとも比較にならないくらい未整備な道だったようです。

 
 神足らが巡回に出たころはこれよりもさらに20年は前ですから、とても今の軽井沢からは想像がつきません。

 ところで、あなたのパソコン、「軽井沢」は「かるいさわ」で出てきますか?

 そうそう、油屋の骨董のコーナーで「思い出の小物」を見つけました。

 
 アイヌ像



 


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