女子高生コンクリート詰め殺人事件(じょしこうせいコンクリートづめさつじんじけん)は、1988年(昭和63年)11月から1989年(昭和64年)1月の間に発生した猥褻略取誘拐・監禁・強姦・暴行・殺人・死体遺棄事件の通称である。
1988年11月25日夕方に埼玉県三郷市戸ケ崎を自転車で走行していた被害者女子高生(事件当時17歳)が突然、不良少年グループに拉致され、約40日間にわたってグループのたまり場だった東京都足立区綾瀬の加害者宅に監禁されて暴行・強姦を受け続けた。1989年(昭和64年)1月4日に被害者の女子高生は加害者グループから集団リンチを受けて死亡し、その遺体はコンクリート詰めにされて東京都江東区内の東京湾埋立地に遺棄された。1989年(平成元年)3月以降、別の強姦事件で逮捕された加害者少年らが事件を自供したためにその事件の全容が判明した。
刑事裁判における事件番号は第一審・東京地方裁判所では平成1年(合わ)第72号、控訴審・東京高等裁判所では平成2年(う)第1058号である。
本事件は非常に残忍・凶悪な少年犯罪として日本社会に大きな衝撃を与え、加害者少年宅に被害者少女が長期間監禁されていたにも拘らず、その加害者の両親も含めて少女の命を救えなかった点に激しい非難・疑問の声が上がった。
また、昭和最後の凶悪犯罪(発覚は平成)である。
1988年11月25日夕方、AはCとともに通行人からひったくりをするか、若い女性を狙って強姦しようとして、それぞれ原付バイクに乗って埼玉県三郷市内を徘徊していた[判決 4]。その中で自転車でアルバイト先の工場から帰宅途中の女子高生(当時17歳、埼玉県立八潮南高等学校3年生)を見つけ[10]、CはAから「あの女を蹴飛ばしてこい!」と指示を受けたため、Cは女子高生もろとも自転車を蹴倒して側溝に転倒させた。Cがその場を離れた後、Aは何食わぬ顔で少女に近づいて言葉巧みに「今、蹴飛ばしたの(C)は気違いだ。俺もさっきナイフで脅かされた。危ないから送ってやる」などと親切に言って、少女を信用させて近くの倉庫内へ連れ込んだ。しかし、Aは、その後、一転して「自分はさっきのやつの仲間で、お前を狙っているヤクザだ。俺は幹部だから俺の言うことを聞けば命だけは助けてやる。セックスをさせろ!」「声を上げたら殺すぞ!」などと少女を脅迫して関係を迫り、11月25日午後9時50分ころ、タクシーで少女をホテルへ連れ込み強姦した。
また、Cは、その時、Cの家に一緒にいたDを連れて約束の待合わせ場所へ赴き、少女を連れたA・B両名と合流した。AはBらに対し「(少女を)ヤクザの話で脅かしているから、話を合わせろ」などと言い含め、4人は少女を連れて翌11月26日午前0時半頃、公園に移動した。そこでAはジュースを買いに行くという名目で、C・D及び少女のいる所からやや離れた自動販売機の置かれた場所付近にBと共に行き、Bに「あの女、どうする?」と尋ねると「さらっちゃいましょうよ」などと返されたことから、その少女を猥褻目的で略取、監禁することとした。
4人は少女を拉致しつつ、その公園からCの自宅近くの別の公園に移動する間、CはA・B両名らの意を受けて少女を自室に監禁することを了承、Dもそれまでの成り行きからAらの意図を了解し、4人は少女を猥褻目的で略取、監禁することについて共謀した。Aが少女に対し「お前はヤクザに狙われている。仲間がお前の家の前をうろうろしているから匿ってやる」などと嘘を言って脅迫し、4人で少女をCの自宅の2階の部屋(6畳)へ拉致し、同日から少女を殺害するまでの間、監禁した。
その後も、時に別の不良仲間を加えるなどして、少女を全裸にしてディスコの曲に合わせて裸踊りさせたり、自慰行為を強要したり、少女の顔にマジックペンで髭を描いて興じたり、少女の陰部に鉄筋を挿入して何回も出し入れしたり、肛門にガラス瓶を挿入するなどの異物挿入をしたり、少女にシンナーを吸引させてウイスキー、焼酎などの酒を一気飲みするよう強要し、寒気の厳しい夜中、少女を半裸でベランダに出して牛乳や水などを多量に飲ませ、たばこを2本一度にくわえさせて吸わせるなど度重なる暴行、凌辱を繰り返した。
1988年12月中旬から下旬頃、Aは少女が失禁した尿を踏んだということを口実に、BやCが少女の顔などを拳で何度も殴りつけ、少女の顔面が腫れ上がり変形したのを見て「でけえ顔になった」などと言って笑った。その暴行の場にはAはいなかったが、翌日Cが「あんまり面白いからAにも見てもらおう!」などと言い、自慢気にAに少女の顔を見せた。Aはその少女の顔面の変わりように驚いたものの、これに触発されたようにA自らも少女を多数回殴打し、少女の太もも、手などに揮発性の油を注ぎライターで点火し、火が消えると更に同じような行為を繰り返して火傷を負わせた。この頃、少女は度重なる暴行に耐えかねて「もう殺して」などと哀願することもあった。Aらは同月中旬頃から、主にCの兄Gに少女の監視役をさせるようになったが、その頃から少女は少量の食物しか与えられず、年末頃には牛乳をわずかに与えられる程度であった。その結果、少女は、栄養失調とAらの度重なる暴行により心身ともに極度の衰弱状態に陥り、食欲は減退した。また、少女の顔面は腫れ上がり、手足などの火傷は膿みただれて異臭を放つようになった。その時の少女は、もう階下のトイレへ行くことも困難な状態であり、終日監禁場所であるCの部屋でぐったり横たわっていた。
wikipediaより抜粋
soop「当時の2チャンネルで主犯格が京都の伏見に住んでることが
発覚僕は戦慄を覚えた」