Soopllofeiv の日常

管理人soop視点の奇妙な現状

オランダ

2022-05-21 15:16:46 | Weblog

インドではヒンズー教圏内で

大麻が違法だがグレーゾーンとなっている

 

オランダでは大麻が合法で

路上でも苗が売られている

大麻の喫煙は専用の喫茶店で行える

販売も喫茶店で行われており

ホテルに持って帰っての喫煙も可能だ

オランダでは毎年一回大麻の品評会があり

大麻の質の向上を目指している

 

soop「喫茶店では大麻入りのケーキや

   ポピーシードクッキーも売られている」

ポピーシードクッキーとは

ケシ科のポピーの種を接種することで麻薬成分を味わえる

 

ファーファ「高品質の大麻が吸いたければオランダへ」

soop「大麻には興味ないなブロンLはやったことあるけど」

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依頼殺人

2022-05-21 14:49:04 | Weblog

完全犯罪ができる業者

ゴミ処理業者

精肉業

焼却炉をもつ工場施設

 

 

店長はアメリカ国籍を持つ日本人で

スクラップ工場を経営している

社員の殆どがフィリピン人女性で

屈強な男性社員が二人いる

この工場は表向きはスクラップ処理場だが

裏の顔がある

依頼殺人を請け負っているのだ

依頼主からターゲットを伝えられると

フィリピン女性が対象者に近づき

SEXをするその時対象者の肛門に麻薬を塗り

粘膜摂取で動けなくなった対象を拉致し

スクラップ処理場まで連れてゆく

依頼殺人にはカタログがあり

様々なオプションが選べるようになっている

(依頼主が死の間際に立ち会う等)

対象者は最終的に焼却炉に

入れられ証拠品はスクラップ処理される

(対象者の車等)

犯行に加わったフィリピン女性は即帰国

ほとぼりが冷め次回の仕事が出来るまで待機する

依頼殺人の価格は一人200万でそこからオプションを選ぶというシステム

この会社は2000年前半まで活動していたそうだ

逮捕はされなかったが

店長が店をたたむ算段をし、同時に社員は解雇された

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信念があれば

2022-05-21 14:46:59 | Weblog

信念があれば怖いものはなにもない

自分のなれるようになるだけだ

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いつからアルコール依存症になるか

2022-05-21 12:09:45 | Weblog

 

ストロングゼロの9%はかなり危険

ジュース感覚で幾らでも飲めるし

その上200円あれば購入できる

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僕の価値観(宗教編)

2022-05-21 11:47:54 | Weblog

"天使は理に従うことで神に準じている"

 

本当の神様はこの世界の管理者であって、

個人の願いをかなえる存在ではない

 

我が家は浄土真宗で先祖を祀っている

教義とかは知らないが墓参りには行く

一応信者になるのか・・・

神様はいる

でも基本宗教は信じていない

クリスマスも節分もやるし

節操はない

ファーファ「聖夜に愛し合うの」

soop「うんそうだね」

soop「お盆には墓参りするよ」

soop「無神論者みたいなかんじだけど神様は信じてる」

ファーファ「いなけりゃこの世に理はないからな」

soop「うん そうだよ」

 

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UFO

2022-05-21 11:41:23 | Weblog

ヘヴンズ・ゲートHeaven's Gate;日: 天国の門)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンディエゴを拠点に活動した、マーシャル・アップルホワイトとボニー・ネトルスによるUFOを信仰する宗教団体である[1997年ヘール・ボップ彗星出現の際に集団自殺を行い、消滅した。

神智学協会や近現代の様々な大衆運動の影響を受けているが、宗教学者の吉永進一は、ヘブンズ・ゲートの教義はグノーシス主義の系譜に連なると指摘している。

この団体は、マーシャル・アップルホワイト(1931年-1997年)とボニー・ネトルス(1928年-1985年)の2人が1970年代に創設した。大学で音楽を教えていたアップルホワイトは、学生との同性愛スキャンダルで職を追われてノイローゼとなった時に、看護婦だったボニー・ネトルスに会って慰めを得た。ネトルズは神智学協会会員だったことがあり、オカルトや秘教の知識を持っていたニューエイジ運動から生まれたほかの新宗教と同様、かれらの信仰は、黙示録と救済の考え方を中心とするキリスト教の教義、進化論、他の世界(次元)への旅を題材とするSFを折衷したものであった。

ヘヴンズ・ゲートの信者たちは、地球はまさに「リセット」(一掃、一新、若返り)の時にあり、人が生き残るためには地球から旅立つことが唯一の道だと強く信じていた[3]。かれらは、「人間」の肉体は「旅」の手助けをする乗り物に過ぎないとしていた。ヘール・ボップ彗星とともにやってくる宇宙船にを乗せるためとして、指導者アップルホワイトと38人の信者が自殺を遂げた。

集団自殺

1996年11月にヘール・ボップ彗星の写真に謎の物体が映っているといううわさが広がり、彼らは「天の王国」からUFOが迎えに現われ、ヘブンズ・ゲートのメンバーが「引き上げられる」時が来たと考えた

教祖アップルホワイトと38人の信者達は、1997年3月26日カリフォルニア州ランチョ・サンタフェのアップスケールサンディエゴコミュニティにある賃貸住宅の中から遺体で見つかった。ヘヴンズ・ゲートの元信者だったウェイン・クックとチャーリー・ハンフリースは、それから後追い自殺を図って失敗し同年5月に回復したが、翌年2月に再び自殺を図り死亡。ヘヴンズ・ゲートの集団自殺はカルト自殺の一例として広く報道された

自殺を行う前に、彼らは体を清めるためにいつものように柑橘類のジュースを飲んだ。死因はフェノバルビタールを混ぜたウォッカを飲み、頭からビニール袋をかぶったことによる窒息死で、発見時は顔と胴は四角い紫色の布で覆われていて、皆自分達の寝台にきちんと横たわった状態だった。全ての遺体のポケットには5ドル札1枚と25セント硬貨が見つかった。尚39の遺体は皆黒いシャツにスウェットパンツ、足には新品の黒と白のナイキ・コルテスの運動靴、腕には「ヘヴンズ・ゲート上陸班」とあて布のついたアームバンドといういでたちだった。

この自殺はいくつかのグループに分かれて行われ、残った信者達はそのひとつ前のグループの後片付けを行うという段取りでおこなわれた

また、アメリカ陸軍にコンピュータ技術を教えていた、サンディエゴに拠点を構えるアドバンスト・ディベロップメント・グループで働いていた3人の信者サースン・オディ、シルビィ・オディ、エレイン・オディは、集団自殺の前に自殺した。この3人は内気ながらも礼儀正しく親しみ易かったが、隠し事をしがちだった。

wikipediaより抜粋

soop「漫画みたいな団体」

 

 

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ユートピアへ

2022-05-21 11:03:28 | Weblog

人民寺院(じんみんじいん、英語Peoples Temple)は、1955年アメリカ合衆国インディアナ州マリオン郡インディアナポリスで創設された社会主義キリスト教新宗教カルト)。創設者および教祖はジェームス・ウォーレン・"ジム"・ジョーンズ。教団の正式名は、ピープルズ・テンプル・オヴ・ザ・ディサイプルス・オヴ・クライスト英語Peoples Temple of the Disciples of Christ)である。ジョーンズはキリスト教共産主義社会主義の考え方とを組み合わせ、人種平等英語版を訴えた。

1978年11月18日南米ガイアナで人民寺院が開拓したコミューンジョーンズタウンで、大量殺人、もしくは集団自殺によって信者918人が命を落とした。同日には、アメリカ合衆国下院議員レオ・ライアンとその代表団のメンバー4人が、ポート・カイトゥマ英語版の空港で人民寺院信者によって惨殺されている。このジョーンズタウンでの惨劇は、2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件が発生するまで、アメリカ合衆国民最多の被害者数を記録した事件であった。

教団は1960年代カリフォルニア州へと本部を移し、州内の複数の都市に支部を設立している。その中には後に本部が置かれるサンフランシスコも含まれていた。絶頂期においては、人民寺院の信者数は20,000人左派の政治家との繋がりもあった

ジョーンズは、以前セブンスデー・バプテスト英語版による心霊治療を目にし、この様な心霊治療は、人々を惹き付け、収入を生み、ジョーンズの目指す社会を実現する一助になると結論付けた。結局、教団の財政が困窮しており、それを補填するためにも収入源を拡大する必要があり、ジョーンズと人民寺院信者達は、仕込みを行った心霊治療を行うに至った。これらの「心霊治療」には、肝臓や他の動物の臓器が用いられていた。ジョーンズ(そして共謀した人民寺院信者達)は、肉体から取り除かれたに侵された臓器であると主張した

1956年、ジョーンズはインディアナポリス近郊の様々な人種の人々が住む場所に初めての教会となる建物を購入している。ジョーンズはこの教会をウィングス・オヴ・デリヴァランス英語Wings of Deliverance)と名付けた。ただし、同年終わりごろに、ピープルズ・テンプル・フル・ゴスペル・チャーチ英語Peoples Temple Full Gospel Church)と改名している。ジョーンズが初めてピープルズ・テンプル英語Peoples Temple)のフレーズを使ったのがこの時である。ジョーンズの心霊治療と、主張していた透視能力は、唯心論者達を惹き付ける結果となった

人民寺院は、平等主義理想を強調しており、信者達には貧しい人々でも気兼ねなく集会に参加できるように、カジュアルな服装で出席するように伝えており、恵まれない人々に避難所を提供していた。人民寺院信者に占める黒人信者の割合は上昇の一途をたどり、当初全体の15%だった黒人信者の割合は50%近くに達するまでになったが、その中で、人民寺院がアフリカ系アメリカ人の聖職者アーチー・イジェムズを採用したことで、この傾向が強まった[注釈 6][6]。牧師イジェムズは、ジョーンズによる社会主義共同体計画に最初に参加した人物であった1959年、人民寺院はディサイプルス派クリスチャン・チャーチに加入し、名前をピープルズ・テンプル・クリスチャン・チャーチ・フル・ゴスペル英語Peoples Temple Christian Church Full Gospel)に改名している。このクリスチャン・チャーチへの加盟は、減少していた信者数を上昇に転じさせ、教団の評判を回復させるという2つ面で成功であった。

1960年2月、人民寺院は貧民向けの炊き出しを始め、家賃援助、就業先の紹介、缶詰衣類、そして冬用の燃料の無料配布へと社会保障サービスを拡大していった。ジョーンズ夫妻自身も、増大する炊き出しを助けており、1か月で平均2,800食を配布している

ジョーンズに、インディアナポリスの人権委員会英語版への参加要請があったことで、人民寺院の知名度は更なる高まりを見せた。彼は、人種差別のないビジネスを試みることを公に約束し、多くのローカルメディアで取り上げられることになった。

ジョーンズは、伝統的なキリスト教を「軽薄な宗教」であると嘲笑うようになり、聖書女性を支配し、有色人種を奴隷にするための白人男性の正当化である見做し、拒絶した。ジョーンズは、「ザ・レター・キレット」(英語The Letter Killeth)と題された小冊子を作り、寺院で配布し始めた。この小冊子では、ジョーンズが聖書内で否定的に感じたり、不条理、非道を感じた部分を指摘していたが、同時に聖書は素晴らしき真実を含んでいるとも述べていた。ジョーンズは、「神の教義」とは「愛」と同等であり、愛とは「社会主義」と同等であると説い。彼は、聖書には「天の神」(英語Sky God)か「猛禽の神」(英語Buzzard God)についての信仰しか含まれていない、それらは神でもなんでもないと述べていた

組織の構造

人民寺院の記述は、ジョーンズが寺院全体に独裁的支配体制を敷いていたと強調しているが、実際には人民寺院は信者間で不平等な政策決定力を持つ複雑な権力構造を持っていた。この様な構造の中で、人民寺院信者達は、知らず知らずの内、徐々に、中国洗脳から借用したマインドコントロール行動変容英語版技術に慣らされていった。寺院は、人民寺院の「離反者」の様な教団の「敵」による、彼ら自身の危険に対する心理的境界線を厳密に定義した。彼が信者獲得の中で求めた秘密事項と用心は、信者数全体を減少させる結果につながったものの、信者達は、ジョーンズが「究極の社会主義者」であるという英雄視を増長させた

1970年代、人民寺院は社会主義モデルのために、より形式ばったヒエラルキーを形作った。その頂点は、教団の職員、そして人民寺院のために最重要機密を内密に行う、大学で教育を受けた確実に従順な8から10人の女性たちによって構成された選ばれたグループであった。彼らは、必ず「目的は手段を正当化する」という哲学に染められていた。この中で最も若い信者は、サンディ・ブロードショーであった

。他の信者としては、キャロライン・レイトン、シャロン・エイモス、パティ・カートメル、テリー・ビュフォードがいた。このグループは、平等主義の教団に在ってエリート主義であると嘲笑の対象となっており、教団の秘密警察であると見做されていた

人民寺院の計画委員会(英語Planning Commission)は、教団の理事会であった。この委員会の人員数は、50人から100人以上へと急増した。1週間の間、委員会のメンバーはレッド・ウッドヴァレーの様々な場所で会合を開いた。それはしばしば夜明けまで続いた。この計画委員会は、日々の教会の運営に責任を持っており、その中には重要な意思決定、財政的、法的な計画、教団組織の監視までが含まれていた。計画委員会は、様々な他の委員会の上に位置していた。その中には、多様委員会(英語Diversions Committee)やマーテル委員会(英語Mertles Committee)があった。多様委員会は、アメリカ中の様々な場所から、実在しない人物の名前を騙って大量の手紙を政治家に書くという役目を担っており、マーテル委員会は離反者であるアルとジャーニのミルズ夫妻英語版に対する地下活動を行っていた

外部の人間に「軍隊」(英語The troops)と呼ばれていた一般の信者グループは、労働階級の信者によって構成されており、その70から80%が黒人であった。そのグループは、会合の席を用意したり、供物箱の充填、その他の事を担っていた。彼らの大半は、教団の半社会主義的アプローチに惹き付けられていた。これは、人民寺院の政治的教育によるものと、人民寺院の非常に情熱的な集会が未だに福音主義的信者達と黒人主義を保持していたことによる。ジョーンズは、何十人かのほぼ白人で構成された信者達に囲まれていた。彼らは、20人から30人ぐらいおり、法律、会計、看護、教育、音楽、経営の知識、能力を持つ者であった。後者のグループは、教団外の仕事によって得られる給金を教団に上納するだけでなく、公的な関係や財務義務、更には世俗的な雑用を担っていた

1974年に人民寺院はガイアナで土地を借り受ける契約を結んでいる。この土地に作られたコミュニティは、ピープルズ・テンプル・アグリカルチュラル・プロジェクト英語Peoples Temple Agricultural Project)、非公式にジョーンズタウン英語Jonestown)と呼ばれた。1977年初頭には、50人程度の移住者しかいなかった

ジョーンズは、ジョーンズタウンを「社会主義者の楽園」であり、キンソルヴィングの記事に始まるメディアの調査からの「聖域」でもあるとみなしていた。元信者のティム・カーターは、ジョーンズタウンへ移住した理由を、「74年(1974年)、私たちはアメリカ合衆国でファシズムが蔓延するのを目の当たりにした。」と述べている。カーターは「巨大化した企業や多国籍会社は政府の中で影響力を増し、アメリカ合衆国は人種差別国家である」と説明している。また、カーターは、ガイアナが選ばれた理由としてガイアナが社会主義国家であり、南米で唯一英語が公用語であること、そして、教団がガイアナを「教団の黒人信者たちが平和に暮らせる黒人国家」であるとみなしていたことなどを挙げている

1977年、元信者の告発によってメディアからの監視が更に強まったことは、ジョーンズに更なる圧力を加えることになった。具体的には、ニュー・ウェスト・マガジン誌に掲載されたマーシャル・キルダフ英語版による記事が挙げられる。このニュー・ウェスト・マガジン誌が出版される前に、編集者のロザリー・ライトはジョーンズに電話を掛け、その記事を彼に読み聞かせた。ライトは、「カリフォルニア州知事(ジェリー・ブラウン)から我々が受け取った擁護の手紙」や他の人々からの受け取った手紙から、出版前にこのような行動を起こしたと説明した。この記事での主張を電話で聞いている間、ジョーンズは部屋にいる人民寺院信者達に書付を書き、「我々は今夜発たねばならない。ジョージタウンへと」と言った

ガイアナへと逃れたジム・ジョーンズは、教団信者達に彼に続くように呼びかけた。1978年終わりごろまでに、ジョーンズタウンの人口は900人を超すまでに増大した。ジョーンズタウンへと移住した人々は、南国の楽園、想定された外界の邪悪から自由となることが約束された

1978年11月17日、カリフォルニア州第11区選出のアメリカ合衆国下院議員のレオ・ライアンが教団による人権蹂躙の調査のためにジョーンズタウンを訪れた[90]。この訪問の間、何人かの人民寺院信者が、ライアンにジョーンズタウンを離れたいと申し出た。そしてこの信者達は、11月18日の午後、ライアンに同行しポート・カイトゥマ英語版の空港に向かった。そこで、彼らは人民寺院の自警団によって襲撃された。ライアン、3人のジャーナリスト、1人の教団離反者が殺害された。銃撃が開始されてから数秒の映像が、ボブ・ブラウンによって撮影されていた。彼は、この襲撃で殺害されたジャーナリストの1人であった

 

11月18日夕方、ジョーンズタウンにおいて、ジョーンズは集会を開き、ブドウ味のフレーバー・エイド英語版シアン化物の混合飲料を飲ませた。

体で914人が死亡し、内276人が子供であった。この集団自殺は、現代における同様の惨劇の中でも最大規模のものであり、2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件が発生するまで、アメリカ合衆国民の故殺において最多の被害者数を記録した事件であった。この人数には、同日夜にジョージタウンの人民寺院本部で死亡した4人も含まれている

破滅と消滅

1978年の年末、人民寺院は破産を宣告され、その資産は管財人の手に渡った民事訴訟の面では、1978年12月4日に教団法人弁護士チャールズ・ゲイリーが、人民寺院の解散を申請した。この申請は、1979年1月に開かれたサンフランシスコ上位裁判所で承認された。少数の人民寺院信者がガイアナに残り、1979年5月まで残務整理を行ってから、アメリカに戻った

ロサンゼルス、インディアナポリス、そしてレッドウッド・ヴァレーにあった教団の建物は手をつけられることなく、その内いくつかは教会の集会に使われていたセントラル・スパニッシュ・セブンスデー・アドベンチスト教会は、現在、元々人民寺院のロサンゼルス支部のあった建物に置かれている。人民寺院のサンフランシスコ本部があった建物は、1989年に発生したロマ・プリータ地震で崩壊し、現在ではアメリカ合衆国郵便公社の建物が建っている。

アメリカ合衆国下院外交委員会は5000ページに上る人民寺院関係文書を保有している。情報公開法英語版によって30年間に複数の人物から情報公開が申請されたが、いずれも却下されている

wikipediaより抜粋

 

soop「一人のジャーナリストが引き金で1000人が集団自決」

ファーファ「もともと不整合の多い組織だったみたいだな」

 

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CULT

2022-05-21 10:39:20 | Weblog

松本サリン事件(まつもとサリンじけん)は、1994年平成6年)6月27日長野県松本市で発生したテロ事件警察庁における事件の正式名称は松本市内における毒物使用多数殺人事件

この事件は当初松本毒ガス事件と呼ばれ

オウム以外の人が疑われた事件でもある・・・・

 

オウム真理教教徒らにより、神経ガスサリンが散布されたもので、被害者は死者8人に及んだ。戦争状態にない国において、サリンのような化学兵器クラスの毒物が一般市民に対して無差別に使用された世界初の事例であり、同じくオウム真理教による地下鉄サリン事件を除けばその後も類が無い。また、無罪の人間が半ば公然と犯人として扱われてしまった冤罪未遂事件[注釈 1]報道被害事件でもある。その背景には、ずさんな捜査を実施した警察マスコミのなれ合いがあったとも言われる。

坂本堤弁護士一家殺害事件地下鉄サリン事件と並んでオウム3大事件と呼ばれている。

1994年6月27日から翌日6月28日の早朝にかけて、長野県松本市北深志住宅街で、化学兵器として使用される神経ガスのサリンの散布により7人が死亡、約600人が負傷した(負傷者は松本市地域包括医療協議会調査での数[3]。刑事事件の裁判では迅速化のため負傷者は144名とされ、1997年12月には訴因変更によってさらに絞られ4名とされた)。

事件から14年後の2008年8月5日、本事件による負傷の加療中であった河野義行の妻が死亡したためこの事件による死者は8人となった。

オウム真理教が当初目的とした裁判所宿舎とは無関係の明治生命保険(現明治安田生命保険)寮や一般マンションである開智ハイツや松本レックスハイツにも被害者を出した。

事件直後の犠牲者は次のとおりであった。

  • 35歳女性 1994年6月28日午前0時15分頃死亡
  • 19歳男性 1994年6月28日午前0時15分頃死亡
  • 26歳男性 1994年6月28日午前0時15分頃死亡
  • 29歳女性 1994年6月28日午前0時15分頃死亡
  • 53歳男性 1994年6月28日午前0時15分頃死亡
  • 45歳男性 1994年6月28日午前2時19分頃死亡
  • 23歳男性 1994年6月28日午前4時20分頃死亡

事件発生直後は犠牲者の死因となった物質が判明せず、またその物質の発生原因が事故か犯罪か、あるいは自然災害なのかも判別できず、新聞紙上には「松本でナゾの毒ガス7人死亡」という見出しが躍った。

6月28日、長野県警察は第一通報者であった河野義行宅を、被疑者不詳[5]のまま家宅捜索を行ない、薬品類など数点を押収した。さらに河野には重要参考人としてその後連日にわたる取り調べが行われた。また、被疑者不詳であるのに河野を容疑者扱いするマスコミによる報道が過熱の一途を辿る。

7月3日ガスクロマトグラフィー/質量分析(GC/MS)により、散布された物質がサリンであると判明した。

その後、『松本サリン事件に関する一考察』という怪文書が、マスメディアや警察関係者を中心に出回っていく。この文書は冒頭で「サリン事件は、オウムである」と言及するなど、一連の犯行がオウム真理教の犯行であることを示唆したものであった。

1995年平成7年3月20日地下鉄サリン事件が発生し、ほどなく公証人役場事務長逮捕監禁致死事件でオウム真理教に対する強制捜査が実施され、以後教団幹部が次々と逮捕されていった。5月17日には土谷正実が松本サリン事件前にサリンを製造し渡したと供述するなど、幹部らは松本サリン事件を含め一連の事件がオウム真理教の犯行であることを自供した

経緯

オウム真理教は長野県松本市に、松本支部道場および食品工場を建設するための土地を取得しようと計画、国土利用計画法による県知事への届け出を避けるため、賃貸契約と売買契約に分けて取得した。しかし反対運動も起き、「株式会社オウム」名義で目的を隠して賃貸契約を結んだという理由で民事裁判が行われた結果、賃貸契約を取り消され、売買契約部分に支部道場のみを建設し食品工場は諦めることになった。1992年の松本支部道場開所式で麻原は裁判所、不動産屋、地主を批判する説法を行う(麻原は逮捕後、この説法はヨーガ理論について語ったものであると弁解している

 

この松本支部道場は、初めこの道場の約三倍ぐらいの大きさの道場が

できる予定であったしかし地主、それから絡んだ不動産会社

そして裁判所これらが一蓮托生となり

平気で嘘をつき、そしてそれによって今の道場の大きさになった

また水についても同じで松本市はこの松本支部道場に上水道

つまり飲み水を引くことを許さずまた下水道においても

社会的圧力に負け、何とか下水道を設置することは

目をつむったわけだが、実際問題として普通の状態で許可したわけではない

・・・

・・・

この社会的圧力というのは、修行者の目から見ると、大変ありがたいという

ことができるしかし、これは修行者から見た内容であって

これがもし逆にその圧力を加えている側から見た場合、どのような

現象になるのかを考えると私は恐怖のために身をすくむのである

                       麻原彰晃

地主側は更に売買契約の取り消しも求め、一度は却下されるも、オウムの反社会性を訴えさらに訴訟を起こした。長野地方裁判所松本支部は、この裁判の判決言渡しを1994年7月19日と指定。教団の弁護士である青山吉伸は麻原に対し、状況は変わっていないが教団の勝訴確実というわけでもないと伝えた。すなわち敗訴の可能性が低いにも関わらず、裁判を延期しようとしたことになるため、早川紀代秀新実智光は、麻原は裁判の延期云々以前に、サリンの実験をしたかったのではないかと推測している

この頃、オウムには第三次池田大作サリン襲撃事件を起こすことを目的に、土谷正実が製造した青色サリン溶液(ブルーサリン)が保管されており1994年5月にブルーサリンを使って滝本太郎弁護士サリン襲撃事件を起こしたが失敗していた。このブルーサリンが本事件にも使用されることとなる。

6月20日頃、麻原は第6サティアン1階に村井秀夫新実智光遠藤誠一中川智正を集め、松本の裁判所にサリンを撒いて効果の実験をしろと指示。井上嘉浩によると、実行日時は占星術で決定された

村井らは2tアルミトラックを改造したサリン噴霧車の製造を、中川は防毒マスクの製造・予防薬の準備及びサリン噴霧車へのサリン注入を担当した。新実は池田大作サリン襲撃未遂事件で撒いているのを目撃された経験から警察や通行人の対応策を伺い、中村昇富田隆端本悟(後に新実とともに自治省所属となるメンバー)を使えとの指示を受けた。なお、村井は実行メンバーに林郁夫も参加させることを提案したが、(地下鉄サリンの時とは逆に)麻原が却下している

6月26日、水を使ってサリン噴霧機の試験を実施し、端本は新実の指示により松本市に下見に向かう。遠藤と中川は松本ナンバーのレンタカー(ワゴン車)を借りにいった

6月27日早朝、実行メンバーらは都内のうまかろう安かろう亭で行われた省庁制発足式から上九一色村に帰還。

14時頃、端本らが富士宮市で作業服などを購入して戻ってくると、端本らに対して新実から「では、説明しておきます。」「これから松本にガス撒きに行きまーす!」「マンジュシュリー正大師のワークを邪魔するものはボコボコにして構わない」、などと軽い口調で作戦が伝えられた。端本が警備中に戦闘になったら殺してもいいのかと心配すると新実は「いいんじゃないですかあ。主に闘うのは警官になると思います。闘っている間に我々は逃げますから、あとはよろしく」と適当に答えた

夕方、一行は端本が運転し村井が同乗したサリン噴霧車と、富田が運転する護衛部隊のワゴン車に分乗し出発。土谷正実によると、この時新実らは教団内の隠語でサリンを指す魔法使いサリーの歌を車内で合唱していたという[

20時頃、塩尻市内のドライブインにて新実と村井が相談の上、長野県松本市北深志にある裁判官官舎への攻撃に作戦を変更、電話で麻原の合意を得た。これはNシステムを避けるため高速道路を使わなかったこと、サリン12リットルの注入に手間取ったこともあって、到着時間が遅くなり、長野地方裁判所松本支部は既に閉まっている時間となっていた為であった

22時頃、裁判所宿舎付近に到着すると、駐車場にてナンバープレートを偽装しつつ村井が噴霧地点を策定、噴霧を決行した

22時50分頃、サリンが尽き発車

麻原は、松本サリン事件後に井上嘉浩に対して「俺も無差別(殺人)はつらいんだよ。でもアーナンダ(=井上嘉浩)、ヴァジラヤーナの救済のためには仕方がないんだよ」と語ったという

発覚

長野県警がサリン生成に必要なメチルホスホン酸ジメチルの流通ルートを探ったところ、唯一個人購入している東京都世田谷区のT.Kという不審な男を発見した。住所に行ってみるとオウム関連の団体が入るビルであった。「ベル・エポック」という会社も同薬品を大量購入していたが、これはオウムのダミー会社であることが分かった。さらに「下村化学」「長谷川ケミカル」「ベック」などの同様のダミー会社も見つかり、オウム真理教のサリン疑惑は深まっていった

その頃、建設中の第七サティアンサリンプラントの事故により、周辺で異臭騒ぎが発生していた。長野県警は土壌を採取し、1994年11月、土壌からサリンの最終分解物メチルホスホン酸が検出された。1995年(平成7年)1月1日、読売新聞が一面で異臭騒ぎの場所からサリン残留物が検出されたと報じ、怪文書レベルであったオウム真理教とサリンの関係が一気に注目されることとなった。

これに対しオウム真理教は、劇物の処分や薬品購入用のダミー会社の閉鎖など証拠隠滅を急ぐとともに、残留物は地元の肥料会社社長がオウム真理教に対し「毒ガス攻撃を行った証拠である」と主張。肥料会社社長を告訴し訴訟合戦となった上、さらに阪神・淡路大震災が発生し注目がそちらに向かったこともあり有耶無耶となった。「地震があったから強制捜査が無かった」と考えた麻原らは、阪神・淡路大震災に匹敵する事件を起こすため、地下鉄サリン事件を実行することとなる

wikipediaより加筆修正

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熊取町連続7人怪死事件

2022-05-21 10:04:04 | Weblog

犯人達のプロファイル

ヤクザでも最下層の存在でシンナーを少年たちに売っていたが

なにかの手違いで少年たちと離別することになり

少年を一人殺害してしまいバレるのを恐れたヤクザは

関わりのあった少年を次々と殺害した

女子大生は少年達と関係があると誤解された

 

4月29日(木) シンナーによって板金工のX君(17歳)が熊取町内の貯め池に落ちて死亡。
5月29日(金) 無職・Y君(17歳)がシンナー吸引による心不全で死亡。

6月4日(木)  無職・A君(17歳)が自宅そばのタマネギ小屋で首吊り自殺。
6月10日(水) 土木作業員・B君(18歳)がかつて住んでいた家の納屋で首吊り自殺。
6月17日(水) 旅館従業員・C君(18歳)が農作業小屋で首吊り自殺。
6月25日(木) 熊取町在住の岸和田市職員Dさん(22歳)が町内の森で首吊り自殺。
7月2日(木)  熊取町内の女子大に通うE子さん(19歳)が胸を果物ナイフで刺し自殺。
シンナーで死んだ2人を合わせると、死体が見つかった場所はすべて半径1.2km以内に集中している。
この狭い範囲の中、2ヶ月半で7人の若者が亡くなっていた。
また、この7人中3人が死ぬ前に「白い車につけられている」と話していた
 
soopの追加考察
奇妙な事だが自殺は連鎖するという現象が実際あるが
この事件はシンナーを原因とした暴力団がらみの事件として
みることができる何故かというと最後に死んだ女子大生が
「私は知らない」という言葉を残して死んだからだ
少年たちはいずれも不良で暴力団とも接触があった可能性が高い
少年たちは暴力団の事をしっており口封じのため殺されたともみえる
最後の女子高生は誤認で命を狙われたのかもしれない・・・
 
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how to

2022-05-21 09:39:41 | Weblog

 

JK 刀を作成した方のhow to動画です

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