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CULT

2022-05-21 10:39:20 | Weblog

松本サリン事件(まつもとサリンじけん)は、1994年平成6年)6月27日長野県松本市で発生したテロ事件警察庁における事件の正式名称は松本市内における毒物使用多数殺人事件

この事件は当初松本毒ガス事件と呼ばれ

オウム以外の人が疑われた事件でもある・・・・

 

オウム真理教教徒らにより、神経ガスサリンが散布されたもので、被害者は死者8人に及んだ。戦争状態にない国において、サリンのような化学兵器クラスの毒物が一般市民に対して無差別に使用された世界初の事例であり、同じくオウム真理教による地下鉄サリン事件を除けばその後も類が無い。また、無罪の人間が半ば公然と犯人として扱われてしまった冤罪未遂事件[注釈 1]報道被害事件でもある。その背景には、ずさんな捜査を実施した警察マスコミのなれ合いがあったとも言われる。

坂本堤弁護士一家殺害事件地下鉄サリン事件と並んでオウム3大事件と呼ばれている。

1994年6月27日から翌日6月28日の早朝にかけて、長野県松本市北深志住宅街で、化学兵器として使用される神経ガスのサリンの散布により7人が死亡、約600人が負傷した(負傷者は松本市地域包括医療協議会調査での数[3]。刑事事件の裁判では迅速化のため負傷者は144名とされ、1997年12月には訴因変更によってさらに絞られ4名とされた)。

事件から14年後の2008年8月5日、本事件による負傷の加療中であった河野義行の妻が死亡したためこの事件による死者は8人となった。

オウム真理教が当初目的とした裁判所宿舎とは無関係の明治生命保険(現明治安田生命保険)寮や一般マンションである開智ハイツや松本レックスハイツにも被害者を出した。

事件直後の犠牲者は次のとおりであった。

  • 35歳女性 1994年6月28日午前0時15分頃死亡
  • 19歳男性 1994年6月28日午前0時15分頃死亡
  • 26歳男性 1994年6月28日午前0時15分頃死亡
  • 29歳女性 1994年6月28日午前0時15分頃死亡
  • 53歳男性 1994年6月28日午前0時15分頃死亡
  • 45歳男性 1994年6月28日午前2時19分頃死亡
  • 23歳男性 1994年6月28日午前4時20分頃死亡

事件発生直後は犠牲者の死因となった物質が判明せず、またその物質の発生原因が事故か犯罪か、あるいは自然災害なのかも判別できず、新聞紙上には「松本でナゾの毒ガス7人死亡」という見出しが躍った。

6月28日、長野県警察は第一通報者であった河野義行宅を、被疑者不詳[5]のまま家宅捜索を行ない、薬品類など数点を押収した。さらに河野には重要参考人としてその後連日にわたる取り調べが行われた。また、被疑者不詳であるのに河野を容疑者扱いするマスコミによる報道が過熱の一途を辿る。

7月3日ガスクロマトグラフィー/質量分析(GC/MS)により、散布された物質がサリンであると判明した。

その後、『松本サリン事件に関する一考察』という怪文書が、マスメディアや警察関係者を中心に出回っていく。この文書は冒頭で「サリン事件は、オウムである」と言及するなど、一連の犯行がオウム真理教の犯行であることを示唆したものであった。

1995年平成7年3月20日地下鉄サリン事件が発生し、ほどなく公証人役場事務長逮捕監禁致死事件でオウム真理教に対する強制捜査が実施され、以後教団幹部が次々と逮捕されていった。5月17日には土谷正実が松本サリン事件前にサリンを製造し渡したと供述するなど、幹部らは松本サリン事件を含め一連の事件がオウム真理教の犯行であることを自供した

経緯

オウム真理教は長野県松本市に、松本支部道場および食品工場を建設するための土地を取得しようと計画、国土利用計画法による県知事への届け出を避けるため、賃貸契約と売買契約に分けて取得した。しかし反対運動も起き、「株式会社オウム」名義で目的を隠して賃貸契約を結んだという理由で民事裁判が行われた結果、賃貸契約を取り消され、売買契約部分に支部道場のみを建設し食品工場は諦めることになった。1992年の松本支部道場開所式で麻原は裁判所、不動産屋、地主を批判する説法を行う(麻原は逮捕後、この説法はヨーガ理論について語ったものであると弁解している

 

この松本支部道場は、初めこの道場の約三倍ぐらいの大きさの道場が

できる予定であったしかし地主、それから絡んだ不動産会社

そして裁判所これらが一蓮托生となり

平気で嘘をつき、そしてそれによって今の道場の大きさになった

また水についても同じで松本市はこの松本支部道場に上水道

つまり飲み水を引くことを許さずまた下水道においても

社会的圧力に負け、何とか下水道を設置することは

目をつむったわけだが、実際問題として普通の状態で許可したわけではない

・・・

・・・

この社会的圧力というのは、修行者の目から見ると、大変ありがたいという

ことができるしかし、これは修行者から見た内容であって

これがもし逆にその圧力を加えている側から見た場合、どのような

現象になるのかを考えると私は恐怖のために身をすくむのである

                       麻原彰晃

地主側は更に売買契約の取り消しも求め、一度は却下されるも、オウムの反社会性を訴えさらに訴訟を起こした。長野地方裁判所松本支部は、この裁判の判決言渡しを1994年7月19日と指定。教団の弁護士である青山吉伸は麻原に対し、状況は変わっていないが教団の勝訴確実というわけでもないと伝えた。すなわち敗訴の可能性が低いにも関わらず、裁判を延期しようとしたことになるため、早川紀代秀新実智光は、麻原は裁判の延期云々以前に、サリンの実験をしたかったのではないかと推測している

この頃、オウムには第三次池田大作サリン襲撃事件を起こすことを目的に、土谷正実が製造した青色サリン溶液(ブルーサリン)が保管されており1994年5月にブルーサリンを使って滝本太郎弁護士サリン襲撃事件を起こしたが失敗していた。このブルーサリンが本事件にも使用されることとなる。

6月20日頃、麻原は第6サティアン1階に村井秀夫新実智光遠藤誠一中川智正を集め、松本の裁判所にサリンを撒いて効果の実験をしろと指示。井上嘉浩によると、実行日時は占星術で決定された

村井らは2tアルミトラックを改造したサリン噴霧車の製造を、中川は防毒マスクの製造・予防薬の準備及びサリン噴霧車へのサリン注入を担当した。新実は池田大作サリン襲撃未遂事件で撒いているのを目撃された経験から警察や通行人の対応策を伺い、中村昇富田隆端本悟(後に新実とともに自治省所属となるメンバー)を使えとの指示を受けた。なお、村井は実行メンバーに林郁夫も参加させることを提案したが、(地下鉄サリンの時とは逆に)麻原が却下している

6月26日、水を使ってサリン噴霧機の試験を実施し、端本は新実の指示により松本市に下見に向かう。遠藤と中川は松本ナンバーのレンタカー(ワゴン車)を借りにいった

6月27日早朝、実行メンバーらは都内のうまかろう安かろう亭で行われた省庁制発足式から上九一色村に帰還。

14時頃、端本らが富士宮市で作業服などを購入して戻ってくると、端本らに対して新実から「では、説明しておきます。」「これから松本にガス撒きに行きまーす!」「マンジュシュリー正大師のワークを邪魔するものはボコボコにして構わない」、などと軽い口調で作戦が伝えられた。端本が警備中に戦闘になったら殺してもいいのかと心配すると新実は「いいんじゃないですかあ。主に闘うのは警官になると思います。闘っている間に我々は逃げますから、あとはよろしく」と適当に答えた

夕方、一行は端本が運転し村井が同乗したサリン噴霧車と、富田が運転する護衛部隊のワゴン車に分乗し出発。土谷正実によると、この時新実らは教団内の隠語でサリンを指す魔法使いサリーの歌を車内で合唱していたという[

20時頃、塩尻市内のドライブインにて新実と村井が相談の上、長野県松本市北深志にある裁判官官舎への攻撃に作戦を変更、電話で麻原の合意を得た。これはNシステムを避けるため高速道路を使わなかったこと、サリン12リットルの注入に手間取ったこともあって、到着時間が遅くなり、長野地方裁判所松本支部は既に閉まっている時間となっていた為であった

22時頃、裁判所宿舎付近に到着すると、駐車場にてナンバープレートを偽装しつつ村井が噴霧地点を策定、噴霧を決行した

22時50分頃、サリンが尽き発車

麻原は、松本サリン事件後に井上嘉浩に対して「俺も無差別(殺人)はつらいんだよ。でもアーナンダ(=井上嘉浩)、ヴァジラヤーナの救済のためには仕方がないんだよ」と語ったという

発覚

長野県警がサリン生成に必要なメチルホスホン酸ジメチルの流通ルートを探ったところ、唯一個人購入している東京都世田谷区のT.Kという不審な男を発見した。住所に行ってみるとオウム関連の団体が入るビルであった。「ベル・エポック」という会社も同薬品を大量購入していたが、これはオウムのダミー会社であることが分かった。さらに「下村化学」「長谷川ケミカル」「ベック」などの同様のダミー会社も見つかり、オウム真理教のサリン疑惑は深まっていった

その頃、建設中の第七サティアンサリンプラントの事故により、周辺で異臭騒ぎが発生していた。長野県警は土壌を採取し、1994年11月、土壌からサリンの最終分解物メチルホスホン酸が検出された。1995年(平成7年)1月1日、読売新聞が一面で異臭騒ぎの場所からサリン残留物が検出されたと報じ、怪文書レベルであったオウム真理教とサリンの関係が一気に注目されることとなった。

これに対しオウム真理教は、劇物の処分や薬品購入用のダミー会社の閉鎖など証拠隠滅を急ぐとともに、残留物は地元の肥料会社社長がオウム真理教に対し「毒ガス攻撃を行った証拠である」と主張。肥料会社社長を告訴し訴訟合戦となった上、さらに阪神・淡路大震災が発生し注目がそちらに向かったこともあり有耶無耶となった。「地震があったから強制捜査が無かった」と考えた麻原らは、阪神・淡路大震災に匹敵する事件を起こすため、地下鉄サリン事件を実行することとなる

wikipediaより加筆修正

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