Soopllofeiv の日常

管理人soop視点の奇妙な現状

世界革命戦争宣言④

2021-09-29 19:24:18 | Weblog

よど号ハイジャック事件(よどごうハイジャックじけん)は、1970年昭和45年)3月31日に、共産主義者同盟赤軍派が起こした日本航空便ハイジャック事件。日本における最初のハイジャック事件である。

概要

日本航空351便は羽田空港発板付空港(現・福岡空港)行きの定期旅客便が、赤軍派を名乗る9人(以下、犯人グループ)によってハイジャックされた。犯人グループは北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)へ亡命する意思を示し、同国に向かうよう要求した。よど号は福岡空港と韓国金浦国際空港での2回の着陸を経たあと、4月3日に北朝鮮の美林飛行場に到着。犯人グループはそのまま亡命した。

運航乗務員を除く乗員と乗客は福岡とソウルで順次解放されたものの、山村新治郎運輸政務次官が人質の身代わりに搭乗し、運航乗務員とともに北朝鮮まで同行したあと帰国した。

背景

かねて赤軍派は、国内での非合法闘争の継続には後方基地(国外亡命基地)としての海外のベースが必要であると考え(国際根拠地論)、海外にメンバーを送り込む計画を立てていた。ところが、1970年(昭和45年)3月15日に赤軍派議長の塩見孝也逮捕される。逮捕された際、塩見は「H・J(HJackの意)」と書かれたハイジャック計画に関するメモを所持していたが、当時の公安警察はメモの「H・J」がハイジャックを意味するものだとは気づかなかった。

身辺に捜査が及ぶことを恐れた田宮高麿をリーダーとする実行予定グループは、急遽3月27日に計画を実行に移すことを決定。しかし飛行機に乗り慣れていなかった犯人グループの一部が遅刻したために計画を変更。実行は4日後の3月31日に延期された。

情報

実行

1970年(昭和45年)3月31日、7時33分、羽田空港発板付空港(現・福岡空港)行きの日本航空351便が、富士山上空を飛行中に日本刀拳銃爆弾など武器とみられるものを持った犯人グループによりハイジャックされた。犯人グループは男性客を窓側に移動させたうえで、持ち込んだロープにより拘束し、一部は操縦室に侵入して相原航空機関士を拘束、石田機長と江崎副操縦士平壌に向かうよう指示した。

板付空港

この要求に対し江崎副操縦士は「運航しているのは福岡行きの国内便であり、北朝鮮に直接向かうには燃料が不足している」と犯人グループに説き、給油の名目で8時59分に当初の目的地である板付空港に着陸した。なお実際は予備燃料が搭載されていたため、平壌まで無着陸で飛行することが可能であった

福岡県警は国外逃亡を阻止すべく機体を板付空港にとどめることに注力し、給油を遅らせたり自衛隊の戦闘機が故障を装い滑走路を塞ぐなどの妨害工作を行うが、かえって犯人グループを刺激する結果になった。焦った犯人グループは離陸を急かしたが、機長の説得によって戦闘機をどかせることを条件に人質の一部を解放することに同意。13時35分に女性子供・病人・高齢者を含む人質23人が機を降りた

北朝鮮へ

同日13時59分、よど号は北朝鮮に向かうべく板付空港を離陸。機長が福岡で受け取った地図は中学生用の地図帳コピーのみで、航路の線も引かれていない大変に粗末なものだった。ただ、この地図の隅には「121.5MCを傍受せよ」(MCとはメガサイクルの略。現在のメガヘルツと同じ。民間航空緊急用周波数)と書かれており、機長と副操縦士はこれに従って飛行した。

よど号は朝鮮半島の東側を北上しながら飛行を続け、14時40分、進路を西に変更した。この前後、突如よど号の右隣に国籍を隠した戦闘機が現れる。戦闘機の操縦士は機長に向かって親指を下げ、降下(または着陸体勢)に入るようにとの指示を行うと飛び去った(国籍を隠しておらず、韓国空軍章を表示したままの戦闘機が現れたという説もある)。

よど号は北緯38度線付近を飛んでいた。実際にはよど号は北緯38度線を越えていたのだが、休戦ラインは完全に北緯38度線に沿っていないため、まだ韓国領の中にいた。のちに誤情報と判明するが、この際に北朝鮮側から機体に対し対空砲火が行われたとの情報が飛び交った。北朝鮮に入ったと考えた副操縦士は、指示された周波数に対して英語で「こちらJAL351便」と何度も呼びかけたが、なかなか応答が返ってこなかった。

その後、同機に対し「こちら平壌進入管制」という無線が入る。無線管制は、周波数を121.5MCから134.1MCに切り替えるよう指示してきた。これは、「理由のいかんを問わず、よど号を金浦に着陸させろ」との朴正煕直々の命令を受けていた韓国空軍の管制官が、北朝鮮の航空管制を装ったものであった。機長の石田は周波数が資本主義圏で使用するものであったことから無線は平壌からでないことを悟り、副機長の江崎もソウルから平壌に無線が切り替わったはずなのに管制官の声が酷似するなど不自然な点が多くソウルに誘導されていると感じていたが、そのまま管制の指示に従って徐々に進路を南に変更した。犯人グループは、亡命希望先の北朝鮮の公用語である朝鮮語はおろか英語もほとんど理解できなかったため、これらのやりとりに対して疑問を呈することはなかった。

ソウルへ

金浦国際空港では、よど号が到着するまで8時間弱の間に平壌国際空港に偽装する工作が韓国中央情報部(KCIA)によってなされていた。KCIAは急遽北朝鮮国旗を用意し、駐機中の韓国や欧米の飛行機は離陸させられ、韓国企業のマークが入った車両は黄色くペンキで塗りつぶされた

15時16分、同機は管制の誘導のもと「金浦国際空港」に着陸する。韓国兵は朝鮮人民軍兵士の服装をして、「平壌到着歓迎」のプラカードを掲げるなど、犯人グループの目を欺き韓国内で事件を解決させようと企図された。

しかし犯人グループの一人が金浦国際空港内にノースウエスト航空機などが駐機しているのを発見し異常に気づく(この点については、「航空燃料タンクの商標」「シェル石油のロゴのついた給油トラック」「犯人グループが持っていたラジオをつけたらジャズロックが流れた」「ジープに乗ったネグロイドの兵士がいる」「フォードの車が動いている」「北朝鮮の職員に偽装した韓国の警官が、『日本の大使が待っています』と発言した」など、諸説ある)。

さらに犯人グループは機体に近づいてきた男性に「ここはピョンヤン(平壌)か?」と尋ねた。男性は「ピョンヤンだ」と答えたが、犯人がさらに北朝鮮における五カ年計画について質問したため、答えに窮してしまう(「九カ年計画の三期目と答えた」との説もある。また、ほかの軍人に「ここはソウルか?」と尋ねたところ、事情を知らないその軍人は「ソウルだ」と答えた。こうした食い違いは、当事者の少なさやその当事者の後日談による部分が多いためだと考えられる)。

これを見た犯人は、畳みかけるように「キン・ニチセイ」(金日成)の「大きな」写真を持ってくるように要求したが、北朝鮮の敵国である韓国においてこの写真は当然用意することもできず、犯人グループは偽装工作を確信する(写真の件については諸説あり、用意できたという説もある)

交渉

着陸したのが金浦国際空港であることが犯人にわかってしまったあと、韓国当局は犯人グループと交渉を開始。韓国に来てしまった犯人グループは即座に離陸させるように要求したものの、韓国当局は停止したエンジンを再始動するために必要となるスターター(補助始動機)の供与を拒否。この結果、よど号は離陸することができなくなり、事態は膠着する。管制塔から「一般客を下ろせば北朝鮮に行くことを許可する」との呼びかけも行われ、犯人グループは強硬な態度を保ったものの、食料などの差し入れには応じた。

また、31日の午後には日本航空の特別機が山村新治郎運輸政務次官ら日本政府関係者や日本航空社員を乗せて羽田空港を飛び立ち、4月1日未明にソウルに到着。韓国政府丁来赫(チョン・ネヒョク)国防部長官白善燁(ペク・ソニョプ)交通部長官、朴璟遠(パク・キョンウォン)内務部長官とともに犯人グループへの交渉にあたることになった。

このあと、よど号の副操縦士が犯人グループの隙を見て、機内にいる犯人の数と場所、武器などを書いた紙コップをコックピットの窓から落とし、犯人のおおよその配置が判明した。韓国当局はこの情報をもとに特殊部隊による突入を行うことも検討するが、乗客の安全に不安を感じた日本政府の強い要望で断念する。

日本政府は、ソビエト連邦国際赤十字社を通じて、よど号が人質とともに北朝鮮に向かった際の保護を北朝鮮政府に要請した。これに対して北朝鮮当局は「人道主義に基づき、もし機体が北朝鮮国内に飛来した場合、乗員および乗客はただちに送り返す」と発表し、朝鮮赤十字会も同様の見解を示した。しかし、韓国にとって、前年に発生した大韓航空機YS-11ハイジャック事件の乗員乗客がこの時点で解放されていなかったこともあり、よど号をその二の舞として人質の解放がなされないままに北朝鮮に向わせることは、絶対に避けなければならないことであった。

日本政府はさらに、犯人グループが乗客を解放した場合には、北朝鮮行きを認めるように韓国側に強く申し入れ、韓国側は最終的にこれを受け入れた。なお、よど号には日本人以外の外国籍の乗客としてアメリカ人も2人搭乗しており、北朝鮮に渡った場合、「敵国人」であるアメリカ人が日本人に比べて過酷な扱いを受ける懸念があったため、アメリカ合衆国連邦政府が善処を求めている。

解放

1日午後には橋本登美三郎運輸大臣もソウルへ向かい、金山政英駐韓特命全権大使らとともに韓国当局との調整にあたった。数日間の交渉を経た4月3日に、山村新治郎運輸政務次官が乗客の身代わりとして人質になることで犯人グループと合意。犯人グループの1人である田中義三と山村が入れ替わる形で乗り込む間に乗客を順次解放し、最終的に地上に降りていた田中と最後の乗客1人がタラップ上で入れ替わる形で解放が行われた。また、乗員のうち客室乗務員も機を降りることが許された。

解放された人質は、日本航空の特別機のダグラス DC-8-62(JA8040、飛騨号)で福岡空港に帰国したが、この際にアメリカ人乗客1人が日本に戻らず韓国にそのまま降りている。

なお犯人側から山村政務次官の身元について日本社会党阿部助哉衆議院議員に証明を行ってほしい旨の依頼があり、成田知巳日本社会党委員長沢田政治の同意のもと4月2日に阿部議員がソウルに渡り、「山村政務次官」が本人であることを証言した。このときの情勢について、佐藤栄作首相は「国民も各方面でいらいらし、韓国も嫌な北鮮ではあるが、暴力学生相手に約百名の乗客の生命を守るためには北上亦やむなしと云ふ気持ち。関係者はずい分苦労した様子」と日記に綴っている

北朝鮮へ

4月3日の18時5分によど号は金浦国際空港を離陸、軍事境界線を越えて北朝鮮領空に入った。機長はこの時点でもなお、まともな地図を持たされておらず、北朝鮮領空に入ったあとも無線への応答や北朝鮮空軍機によるスクランブル発進もなかった。平壌国際空港を目指して飛行を続けたものの、夕闇が迫ってきたため、機長は戦時中に夜間特攻隊の教官をしていた経験を生かし、肉眼で確認できた小さな滑走路に向かい、19時21分に着陸した。この滑走路は平壌国際空港から南南東に約25km離れた、平壌市寺洞区域にある美林飛行場だった。

対応した北朝鮮側は武装解除を求めたため、犯人グループは武器を置いて機外へ出た。なお、武装解除により機内に残された日本刀・拳銃・爆弾などは、すべておもちゃや模造品であったことがのちに判明した。よど号に乗っていた犯人グループ9人、乗員3人、人質の山村の計13人の身柄は北朝鮮当局によって確保された。

NHKが19時30分から放送した報道特別番組「よど号の乗客帰る」 はビデオリサーチ関東地区調べで43.0%の視聴率を記録した

亡命

よど号が到着したあと、北朝鮮側は態度を硬化させ、「乗員や機体の早期返還は保証できない」と表明[2]。日本政府がなすべきことをせず、自分たちに問題を押しつけたとして非難した。また犯人グループと乗員、山村政務次官に対しては公開による尋問が行われ、長期間の抑留が想定される厳しい状況になった。ただし、乗員と山村に対して行われた尋問は形式だけのものであり、朝鮮料理食事と個室が与えられたうえで(「休みたい」という本人たちの意思は無視されたものの)、映画鑑賞が用意されるなどのもてなしが提供された。

4月4日、北朝鮮は再度日本を非難をする一方で、「人道主義的観点から機体と乗員の返還を行う」と発表。同時に「飛行機を拉致してきた学生」に対し必要な調査と適切な措置をとるとして、犯人グループの亡命を受け入れる姿勢を示した。これを受け、日本政府は北朝鮮に対し謝意を示す談話を発表。佐藤首相の日記でも「一同おおよろこび。北鮮の厚意を感謝する」とある

赤軍派とハイジャックの目的

1969年昭和44年)8月に結成された共産主義者同盟赤軍派は、前段階蜂起

—世界革命戦争という前段階武装蜂起論を掲げる「戦争宣言」を発し、「大阪戦争」や「東京戦争」と称して交番警察署への襲撃を繰り返した。

同年の11月5日には、当時の総理大臣官邸襲撃のための軍事訓練を目的に、山梨県塩山市(現・甲州市)の大菩薩峠に結集していたところを摘発され、政治局員数人を含む53人が逮捕された(大菩薩峠事件)。翌年の1970年(昭和45年)3月15日には赤軍派議長の塩見孝也逮捕される。幹部が逮捕されて組織が弱体化した赤軍派は、1969年(昭和44年)12月から1970年(昭和45年)1月にかけ、「労働者国家に武装根拠地を建設して世界革命根拠地国家に転換させ、後進国における革命戦争と日米の革命戦争を結合して単一の世界革命戦争に推し進める」とする「国際根拠地論」を打ち出す。

これに基づいてアジアにおいては、日本の前段階蜂起 → 北朝鮮の左旋回化革命と革命根拠地化(金体制の変革) → 朝鮮半島の武力統一 → 日本全面武装蜂起と結合 → 毛沢東林彪派の革命的変革—解体(毛体制の変革) → 中華人民共和国の世界革命根拠地化 → 北ベトナムと結合 → 南ベトナム解放民族戦線サイゴン攻略 → 東南アジアへの革命戦争拡大という構想を提起した。

北朝鮮が選ばれたのは、北朝鮮の体制を支持していたからではなく、もっとも身近にある「日本帝国主義と敵対関係にある国」だったからにすぎず、赤軍派の意図によると、北朝鮮を赤軍派の軍事基地として変革(北朝鮮革命)するつもりだった。北朝鮮の左旋回と革命根拠地化、つまりは「北朝鮮の"赤軍化=オルグ"」を目的に、北朝鮮派遣部隊(田宮グループ)が北朝鮮に渡ることになった。しかし、すでに逮捕状が出されており合法的な出国は不可能であったため、渡航手段として民間旅客機の乗っ取りが決まった。また、北朝鮮の関係組織である朝鮮総連と連絡を取っていたわけでもなかった。

なお犯人グループは出発時に「われわれは明日、羽田を発(た)たんとしている。われわれは如何なる闘争の前にも、これほどまでに自信と勇気と確信が内から湧き上がってきた事を知らない。……最後に確認しよう。われわれは明日のジョーである」〔ママ〕という声明文を残している。

「明日のジョー」(正しいタイトルは『あしたのジョー』)は高森朝雄(梶原一騎)原作、ちばてつや画の漫画作品で、1968年(昭和43年)から1973年(昭和48年)まで講談社週刊少年マガジン』に連載された。犯人グループは自分たちを主人公・矢吹丈になぞらえ、「燃え尽きるまで闘う」と言うことを主張したといわれる。ちなみにテレビアニメ版『あしたのジョー』第1話の放送は1970年(昭和45年)4月1日。まさに事件のただ中であった。なお、田宮は乗客との別れの際に別れを主題にした詩吟を謡い、乗客の一人が返歌として『北帰行』を歌った といわれている。

実行犯達

北朝鮮に渡った実行犯グループらは、メディアから「よど号グループ」と呼ばれている。到着当初は「世界革命を進める同志」として北朝鮮政府から手厚い歓迎を受けたが、当時の世界情勢から照らし合わせても荒唐無稽と思われる「北朝鮮の赤軍化」という目的は即座に否定され、主体思想による徹底的な洗脳教育を受けたといわれている。さまざまな証言から日本人拉致事件への関与が確実視される者もいるが、現時点では詳細は不明な点が多い。現在、グループのメンバーは警察庁により国際手配されている。

その後、吉田金太郎・岡本武・田宮高麿の3人は北朝鮮国内で死亡したとされるが、不審な点も指摘されている。また柴田泰弘と田中義三の2人は日本に帰国したあとに裁判で有罪判決を受け、服役。柴田は刑期満了による出所後の2011年(平成23年)6月23日に大阪市内のアパートで、田中は2007年(平成19年)1月1日に服役中に、それぞれ死亡した。現在の存命者は、北朝鮮にいる小西隆裕・魚本公博・若林盛亮・赤木志郎の4人。

実行犯グループには加わらなかったものの、ハイジャック計画を共謀したとして赤軍派幹部の塩見孝也、前田祐一、高原浩之、川島宏、上原敦男らが事件後に起訴されている。

wikipediaより抜粋

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世界革命戦争宣言③

2021-09-29 16:44:23 | Weblog

あさま山荘事件または浅間山荘事件(あさまさんそうじけん)は、1972年(昭和47年)2月19日から2月28日にかけて、

河合楽器製作所保養所「浅間山荘」において

連合赤軍人質をとって立て籠もった事件である

概要

1972年(昭和47年)2月19日、日本の新左翼組織連合赤軍のメンバー5人が、管理人の(当時31歳)を人質浅間山荘に立てこもった。山荘を包囲した警視庁機動隊及び長野県警察機動隊が人質救出作戦を行うが難航し、死者3名(うち機動隊員2名、民間人1名)、重軽傷者27名(うち機動隊員26名、報道関係者1名)を出した。10日目の2月28日に部隊が強行突入し、人質を無事救出、犯人5名は全員逮捕された。人質は219時間(約9日)監禁されており、警察が包囲する中での人質事件としては日本最長記録である。

酷寒の環境における警察と犯人との攻防、血まみれで搬送される隊員、鉄球での山荘破壊など衝撃的な経過がテレビ生中継され、注目を集めた。2月28日の総世帯視聴率は調査開始以来最高の数値を記録し、18時26分(JST)には民放日本放送協会(NHK)を合わせて視聴率89.7%ビデオリサーチ関東地区調べ)に達した。同日のNHKの報道特別番組(9時40分から10時間40分に亘って放送)は、平均50.8%の視聴率(ビデオリサーチ・関東地区調べ)を記録した。これは事件から45年以上が経過した現在でも、報道特別番組の視聴率日本記録である。

カップヌードルを食べる警官が印象的な事件である

浅間山荘の概要

事件の舞台となった浅間山荘は当時、「軽井沢保養所浅間山荘」という名前で河合楽器製作所健康保険組合が所有しており現在の軽井沢レイクニュータウン内にあった。軽井沢レイクニュータウンは1962年より開発が始まったリゾート別荘地で、多くのホテルが立ち並び、1963年には軽井沢湖という湖も完成し人気を博したが、山奥という事もあり、競合するリゾート地が現れ始めると徐々に下火となっていった。現在は当時の開発区域の一部だけが残っており、2007年には軽井沢湖から名を変えたレマン湖のほとりに軽井沢レイクガーデンという英国式庭園が開業したが、かつて程の賑わいはなく山奥の静かな別荘地として存続している。

事件の発端

1970年代初頭、連合赤軍の前身である日本共産党(革命左派)神奈川県委員会(マスコミ通称「京浜安保共闘」)および共産主義者同盟赤軍派の両派は、それぞれ銀行に対する連続強盗事件(M作戦)と真岡銃砲店襲撃事件を起こして資金や銃・弾薬を入手し、特異かつ凶暴な犯行を繰り返しながら逃走を続けていた。これに対し警察は、都市部で徹底した職務質問やアパートの居住者に対するローラー作戦を行いながら(真岡銃砲店襲撃事件が発生した1971年2月は「捜査強化月間」とされ、全国24万箇所の一斉捜査が行われた)、総力を挙げてその行方を追っていた。一方、一連の学園紛争が終焉を迎えた当時にあって、マスコミ関係者の間でも一部の公安担当記者らを除いては両組織の存在すら知られていなかった

警察に追われていた両派のメンバーは、群馬県の山岳地帯に警察の目を逃れるための拠点として「山岳ベース」を構え、連合赤軍を旗揚げした。潜伏して逃避行を続けていたが、まもなく警察の山狩りが開始されたうえ、外部からの援助なども絶たれたため、組織の疲弊が進む。

1971年の年末から、山岳ベースにおいて「銃による殲滅戦」を行う「共産主義化された革命戦士」になるための「総括」の必要性が最高幹部の森恒夫永田洋子によって提示され、仲間内で相手の人格にまで踏み込んだ自己批判と相互批判が次第にエスカレートしていき、「総括」に集中させるためとして暴行・極寒の屋外での束縛・絶食の強要などされた結果、約2ヶ月の間に12名にも及ぶ犠牲者を出し(山岳ベース事件)、内部崩壊が進んでいた。同時に群馬県警は350名を動員して大規模な山狩りを開始しており、県内の山岳ベースで息を潜めていた連合赤軍メンバーに対する包囲網は迫っていた。

1972年2月15日、近隣住民から「不審な火の手が上がっている」との通報を受けて駆けつけた群馬県警が榛名ベースの焼け跡を発見した。妙義山ベースに潜伏中であった坂口弘らは、直前まで事実上の拠点として使用していた榛名山ベース跡地発見のニュースラジオで知ると群馬県警察の包囲網が迫っていることを悟り、メンバーに迦葉山ベースの解体を指示するとともに資金調達のために上京していた最高幹部の森と永田と協議するべく、東京へ向かおうとした

坂口・植垣康博ら5人は森・永田との合流のため東京で借りたレンタカーのライトバンで出発したが、妙義湖近くの林道で泥濘に嵌り身動きが取れなくなったところを付近を捜索していた警官2人に見つかり、職務質問を受ける。警官らは当初車両の脱出を手助けしていたが、指名手配されていた坂口・植垣ら3人は警官が目を離している隙に逃亡、残されたメンバー2人は9時間の車内での籠城の末(この間に車内の男女は警官らの呼びかけに一切応じず、缶詰を食べたり、放尿したりした)、迦葉山ベースを作った際に国有林の木を違法伐採したとする森林法違反(森林窃盗)容疑で逮捕された

この間に運良く通りかかった工事用トラックに便乗させてもらいベースに戻ることができた坂口らは、留守をしていた6人のメンバーを引き連れて(合計9人)、森・永田不在のまま、急遽山越えにより群馬県を出て隣接する長野県の佐久市方面へ逃げ込むことにした。長野県では、まだ警察が動員されていないと思われていたためである。

同日、警察は迦葉ベース跡地も発見し、連合赤軍メンバーの足取りを徐々に掴みつつあった。事態を受けて、冬期は少人数しか配置されていなかった軽井沢署が限られた人員を割き、署長も含めた署員らが拳銃を携行して和美峠で逃走者を待ち構えていたが、連合赤軍メンバーは警察が警戒しているであろう道路を避け、敢えて急斜面の沢を伝って移動する困難なルートを選択した

ヘリコプターやパトカーをかわしながら雪山の道なき道を進んだ連合赤軍は、装備の貧弱さと厳冬期という気象条件が重なって山中で道に迷い、軽井沢へ偶然出てしまった。なお、警戒中の警官らによって、夜間に山中を移動しているメンバーの懐中電灯の光や夜が明けて残されていた足跡が発見されたが、あまりにも奥深い場所であったことや足跡の周辺の雪が崩れていたことなどから(メンバーは先導者の足跡を踏んで移動することで、足跡から判別できる人数を偽装していた)、いずれも「下山中の猟師だろう」「前日見落とした古い足跡だ」と判断された。仮に両者がこの時点で接触して銃の撃ち合いになっていた場合、ライフルを持つ連合赤軍に対し警察は拳銃で野外の銃撃戦を挑まねばならず、大きな被害を出していたであろうとも言われる

一方、都内にいた森と永田も、榛名山・迦葉山ベース跡地が発見されたことを知って、坂口たちと合流すべく妙義山ベースに向かうが、既にベースを捨てて脱出した坂口らと入れ違いになり、2月17日に山狩りをしていた警察官に見つかり抵抗の末逮捕された

2月19日午前、山中でビバークした連合赤軍メンバーは、植垣ら4名を偵察を兼ねた食料などの買い出しに町へ派遣した。しかし、軽井沢駅の列車内で、2手に分かれていた植垣グループは職務質問を受けた。一方は手製爆弾や実弾を所持しているのを見つけられて銃刀法違反の現行犯で逮捕され、もう一方も咄嗟に住所として答えた長野市内の地名がデタラメであることを地元出身の警官に見破られ、逃走を試みたが逮捕される。この逮捕劇の発端は、長期間入浴していなかったため悪臭を放っていたメンバーらを駅売店の店員が不審に思い、駅の助役に通報したことであった

こうして29名いた連合赤軍メンバーは、ここに至るまでに12名が山岳ベースで殺害され、4名が脱走、8名が逮捕された結果、事件発生直前には坂口・坂東國男吉野雅邦加藤倫教・加藤倫教の弟(以降、「加藤弟」と表記)の5名を残すのみとなっていた。レイクニュータウン付近の雪洞で待機していた連合赤軍メンバーはラジオで4人の逮捕のニュースを知ると、自分たちが軽井沢にいることを悟るとともに警察の追跡を恐れて移動を開始した。捜査陣も逮捕者らがレイクニュータウン方面から来たことを聞き込みで突き止めて捜査網を狭めた

事件の経過

雪洞を出た連合赤軍メンバーは間もなく自分たちが別荘地の外れにいることを知る。軽井沢レイクニュータウンは当時新しい別荘地で、連合赤軍の持っていた地図にはまだ記載されていなかった

2月19日の正午ごろ、メンバーは軽井沢レイクニュータウンにあった無人の「さつき山荘」に侵入し、台所などにあった食料を食べて休息したり、洗面や着替えをしたりしていたが、捜索中の長野県警察機動隊一個分隊(5人。レイクニュータウン近辺の別荘の捜査が行われていた)がこの建物を検索し、中に人がいることを察知すると、雨戸の外から外へ出てくるよう呼びかけた。坂口はこれに応答しないまま発砲、即座に機動隊側も拳銃を発砲してこれに応戦した後、吉野も参加して銃撃戦となった。加藤倫教が坂口に対し、警察官を包囲してパトカーを奪って逃走することを提案したが、坂口は何も答えなかったという

 

15時10分ごろ、現場から犯人発見と発砲を受けている旨の緊急報が出され、軽井沢署の署長室にいた(署長は別の打ち合わせで不在)警備第二課長の北原薫明が居合わせたパトカーに飛び乗って現場に急行した(この時、北原はほぼ使ったことのないパトカーの無線機で「県下の無線は全部黙れ!」「東北信各署からできるだけ多数の人員を応援させられたい」と指示を出した)

15時20分ごろ、メンバーは銃を乱射しながらさつき山荘を脱出し、自動車がある家を探す中で浅間山荘を発見した。この時、機動隊2人が連合赤軍メンバーに撃たれて負傷している。最初に侵入した坂口が管理人の妻を発見、管理人や宿泊客は外出していて山荘内は管理人の妻一人きりだった。坂口は管理人の妻に「騒いだり逃げたりしなければ危害を加えない」と繰り返し告げ人質として立てこもることにした

吉野は管理人の妻の拘束に異議を唱え、車を奪って逃げることを提案したが、坂口は管理人の妻を人質として、警察に森と永田の釈放と浅間山荘のメンバーの逃走を保障させようと計画していた。しかし、吉野がそれに反対したため、この計画は断念されたが、皆が食事を取っていないこと、坂口自身が植垣に右の靴を貸してしまっていて履いてないことを挙げて、山荘にとどまる考えを示すと坂東も同調したため、最終的に吉野が坂口の意見に折れて籠城することが決定した

坂口が車のキーの所在を人質に尋ねると、車のキーは出掛けている人質の夫が持っていると答えたために車での逃走も断念した(なお、連合赤軍5人の中に、車の免許を持っている者はいなかった)。事件後、車のキーは山荘の玄関で発見されたという。坂口は人質に対し、「人質ではなく、助けを求めた山荘の管理人」という説明を行い、以後この考えに縛られ人質を利用する考えを放棄せざるを得なくなった。警察側は、人質を取られているうえ十分な人員が到着しておらず、また別働の連合赤軍の呼応の恐れもあったため、突入できずに説得を試みている中、連合赤軍メンバーらは山荘内にバリケードを築いていった

すでに逮捕され、本事件の勃発を知らされた連合赤軍リーダーの森恒夫は、渋川署員に対して「警察が全員射殺をしない代わりに、自分が立てこもっているメンバーを説得して投降させる」として現地に行かせるように要求したが、その前に供述するよう要求され、森はこれを拒否したため実現しなかったという。森はこの自身の行動を「敗北主義」「降伏主義」として事件後に自己批判している

2月20日、朝食後坂口、坂東、吉野の3人で今後の方針を協議。吉野が警察の包囲網を強行突破することを主張したが他の2人の反対に合い、自説を取り下げた。吉野は抗戦して殺害されることを念頭に置いてこのような主張をしたと逮捕後証言したという。坂口は人質を自分たちの逃走の取引に使うことを一度は提案したが、前夜人質に人質でないと説明したこと、山岳ベース事件の犠牲者への償いのためにも警察権力と闘うしかないと考えたことからこの考えを取り下げる

坂口は「ここで徹底抗戦する。1日でも長く銃撃戦を闘う、警察官に降伏しない、1日でも長く抗戦を続けることに意義がある」と発言し、坂東・吉野もこれに同意した。「徹底抗戦をするのなら人質は必要ないのでは」と吉野が人質を解放する案を提案したが、坂口は身元が発覚することを理由に却下。実際は長く抗戦するためだったという。坂口が協議の結果を加藤兄弟にも説明した。

犯人たちは山荘内の食糧を集め、1か月は持つと考えていた。警察は、管理人から山荘には20日分の食糧が備蓄されており、さらに6人分の宿泊客のために食糧を買い込んでいることを聞いたため、兵糧攻めは無理と判断して説得工作を開始した。

8時40分と同46分に、上空のヘリに向けて犯人たちが発砲。午前11時過ぎから、装甲車の中より夫や親族による人質への呼びかけが行われた

当初は人質を縛りつけ、口にはハンカチを押し込んで声が出ないようにしていたが、この日の午後、坂口が独断で縄を解いた。前日に人質に対して人質にするつもりはないと言ったことと、人質の緊縛姿が山岳ベース事件で縛られながらリンチ死した同志と重なったためであったという。坂口の独断による行動であったが他のメンバーは何も言わなかった

人質も交えて夕食。加藤弟が電気ジャーで御飯が炊きあがってすぐ食べようとしたのを人質が「ご飯は少しそのままにしておいた方がおいしいよ」とたしなめ、加藤弟が素直に従い御飯が蒸れるのを待ってから人質の「もういいでしょう」の言葉を聞いてから食べるなど犯人と人質の間でちょっとした雑談があったという

2月21日、犯人5人は盗聴や人質から身元が割れることを警戒してコードネームを決めた。コードネームは、坂口は「浅間」、坂東は「立山」、吉野は「富士山」、加藤倫教は「赤城」、加藤弟は「霧島」であった。犯人たちはアジ演説も行わず電話にも出ず警察に何も要求せず、ただ山荘に立てこもって発砲を繰り返した。

14時過ぎ、人質の夫から妻への激励の手紙や果物を差し入れたいと申し出を受け、第九機動隊隊長の大久保伊勢男警視が丸腰で山荘の玄関前に果物籠を置く。犯人らの反応はなく、籠はそのまま放置された。犯人たちは盗聴器が仕掛けられているかもしれないとして受け取らなかった

さつき山荘に残された指紋から吉野のものが発見され、警察は吉野と行動を共にしていた坂口も現場にいると判断し、2人の肉親を呼び寄せていた。午後5時ごろ、坂口・吉野の母が到着し、説得を行う。犯人らは全員ベッドルームでこれを聞いていた。坂口は人質に「俺の実家は花屋をしている。田舎だから村八分にされていると思う」と弱気な口調で話したという

19時半頃、警察の阻止線を越えた男が山荘に近付こうとしているのを発見され、逮捕される。男は新潟市内でスナックを経営する民間人で、警察は厳重注意のうえ23時20分に釈放

2月22日、午前、吉野の母が説得している最中に銃声。吉野の母が「お母さんを撃てますか」と言ったことに対し、吉野はさらに発砲。銃弾は吉野の母が乗る装甲車に当たり跳ね返った。涙を流す吉野に坂口は「君のお母さんはインテリだからよく話すね」と言い、後年後悔したという

正午ごろ、画家の男とSBCの記者が警戒線を突破して山荘に近づこうとしているのを取り押さえられる騒ぎがあり、この隙に警察の包囲をすり抜けた前日の民間人の男が山荘の玄関先に現れ、「文化人」を名乗り人質の身代わりとなることを主張。前日に大久保警視が置いた果物籠をもって内部の犯人に呼び掛けだした。警察が「山荘の学生諸君。この人は警察官ではない。民間人だから撃たないように」と呼びかける。坂口は私服警官ではないかと疑いながら監視を続け、吉野が威嚇発砲を行うが後退せず。坂口は機動隊にウインクをするなどした男にさらに不審を感じ、遂に拳銃で狙撃。男は一旦倒れたが、すぐ立ち上がり自力で階段を這い上がり機動隊員に保護される。警察の呼びかけに男は「ああ痛え、オレか?オレは大丈夫だ」と答えていたが、実は脳内に弾が留まっておりその後容体が悪化、3月1日に死亡した(これにより、犯人が38口径の拳銃を持っていることが判明した)1人目の犠牲者

14時40分ごろ、吉野と坂東の発砲により警察官2名が負傷。超望遠レンズを持たない長野県警の鑑識班員らが現場判断で関東管区機動隊の特型車の後ろに隠れて山荘に接近したところ、車両の速度と歩調があわず、更に凍った道路に足を取られるなどして車体の影から露出したところを狙撃されたもので、最初に散弾で分隊長が右膝を撃たれ、更に倒れた分隊長を救出しようとした駆け寄った隊員が首筋にライフル弾を受けた。この隊員は一命はとりとめたものの、口もきけなくなるほどの重傷を負った。この失態により警察内部の主導権争いで長野県警の旗色が悪くなり、長野県警本部長の野中庸による判断で、幕僚団が指揮系統を押さえるとともに山荘周辺の警備実施は警視庁機動隊に任せることになった

20時10分、米中首脳会談を見せるためにあえて電気をそのままにしていた警察が山荘の送電を断つ。山荘内の部屋が真っ暗になると同時に外周に設置した投光器で山荘が照らされる。山荘から数発の発砲。以後、電気は切られたままだったがガスと水道は止まらなかった。

23時16分、投光器の照明灯が山荘から狙撃される

この日、警察が山荘の玄関先にメガホンを置いて政治的主張を訴えるよう要請。人質を取りながら何も要求してこない犯人を不気味に感じたためだったという。吉野が訴えるよう主張するが、坂口は「黙って抵抗していくことが我々の主張となる」と拒否

2月23日14時過ぎ、警官隊は山荘の三階玄関前に3台の特型警備車を配備し、強行偵察を開始。16時半ごろには二階風呂場に催涙ガス弾20発が撃ち込まれた。坂口はメンバーと人質にレモンを配り、人質を含めた全員が目の周囲、手の露出した部分にレモンをこすりつけた。警察は強行偵察の目的であった犯人の特定と人質の安否の確認は果たせなかった

2月24日1時頃、犯人らを眠らせないための擬音作戦が開始される。作戦開始の合図として照明弾1発を発射する手はずとなっていたが、最初に点火した照明弾が燻るだけで打ち上がらないため別の照明弾を発射したところ、最初の照明弾が作動してしまい、「犯人らの突撃」を意味する2発の照明弾が撃ちあがってしまった。この日は長野県警が現場を受け持ち、残りの部隊は休息を取る予定だったが、慌てて緊急配備を敷いた警察は肩透かしを食う

5時と6時に人質の親族による呼びかけ。人質は安心させたいからとバルコニーに立つことを要望し、吉野が顔だけでも見せてやったら良いのではないかと発言したが坂口は拒否

さつき山荘に残された指紋から新たに坂東のものが発見され、この日9時半、坂東の母が警察の要請に応じて現場に到着し、説得。坂東は黙って聞いていたという

正午ごろ、警察による山荘への放水が始まり、水圧で玄関のドアやバリケードが破壊される。犯人たちは散弾銃で応戦。

2月25日、深夜から警察による擬音作戦(録音テープによる銃撃音等の偽装攻撃)と投石が行われるようになり犯人たちは不眠に悩まされるようになる

2月26日、前夜から濃い霧が発生していたため吉野がこれに乗じての脱走を提案。排水管や浄化槽などを調べるが脱走に利用できそうになかったため断念

9時半、人質の親族が再び呼びかけ。人質が「顔だけでもいいから出させてください」と頼むが坂口はこの日もこれを拒否。坂口は人質に「どうして命を粗末に扱うのか」と問われるが、笑って答えなかった。また、人質から自分を楯にしないこと、裁判になった際にも自分を証人として呼ばないことを要求され、坂口はいずれも了承。坂口が人質のバッグに入っていた善光寺のお守りを人質に渡すと人質は自分で首に掛け、ベッドに横になった

坂東が玄関右側にいる警官隊を見て「爆弾を投げつけて倒れた警官を引っ張り込んで人質に取ろう」と提案。坂口は「縛り上げて北側のベランダに吊るし上げておこう」と同意したが、爆弾を投擲するための穴を開けることが出来ず、断念。この他、玄関口のガス管を開放して機動隊が突入してきたときに爆破させる案も出されたが、玄関口が風通しが良いことから断念された

夕方、山岳ベース事件の犠牲者寺岡恒一の両親が到着し、午後6時40分から呼びかけ。メンバー全員がベッドルームに集まりこれを聞いていた。寺岡の両親も警察もこの段階で寺岡がすでに死亡していることを把握しておらず、山荘内に立てこもっているものと考えていた。聞いていた犯人のうちの誰かが「この世にいない者の親を呼ぶんだからなぁ」と発言。坂口はこれを聞きながら「言いようのない胸の圧迫感」があったという

夜、坂東がつまみ食いをするのを見たことをきっかけに吉野が坂口と坂東に対して強い不満を抱いていたことを坂口に打ち明け、坂東に総括を要求する。坂口は山岳ベース事件の犠牲者である吉野の妻に対する総括を求めてなだめる。最終的に坂口に促されて坂東が自己批判

犯人たちは人質に対して警察側にも犯人側にもつかない「中立」の立場でいることを要求。「殺されるまで闘い抜く」と言う坂口に人質は「どうしてそんなに生命を粗末に扱うの?」と尋ねたが、坂口が「最後まで闘い抜いて死ぬことは意義あることだ」と答えると人質は押し黙った。犯人に促されるまま「中立を守ります」と言った人質ではあったが、坂口の目には「内実を伴っているように見えなかった」

2月27日、この日も吉野の両親、寺岡の父による呼びかけ。午後、ラジオからの事件関係の放送がなくなる。「連合赤軍事件に関する取材・報道協定」が結ばれたためであった。26、27日と警察の接近行動が形ばかりのものになっていたため、犯人たちは全員で警察の出方を協議。結論は出なかったが明日はこれまでにない接近行動があるだろうと予測

2月28日、5時、投石が止む。9時、警察による投降勧告。同じ頃、吉野があさま山荘の隣の芳賀山荘で数名の機動隊員が無防備で休憩しているのを発見し、散弾銃を構えたものの発砲はしなかった

9時55分の最後通告の後、10時に機動隊が突入を開始。10時7分、犯人によるこの日初の発砲。機動隊員の大楯に当たり、銃撃戦が始まる。同時に警察はモンケンにより山荘の玄関脇の階段の壁に穴が空け、空いた穴に激しい放水を行う。

11時27分ごろ、放水の指揮をしていた警視庁特科車両隊中隊長の高見繁光警部(殉職により警視正に特進)が被弾(「吉野か坂東のいずれか」によるものとされたが裁判でも特定されず)。1時間後に死亡。2人目の犠牲者。坂口はこれをラジオで知ったが誰が撃ったのか知らなかった

11時47分ごろ、第二機動隊伝令の巡査が坂東の狙撃により左目を被弾。後に失明する。

11時54分ごろ、第二機動隊隊長の内田尚孝警視(殉職により警視長に特進)が坂東の狙撃により被弾し、午後4時1分死亡。3人目の犠牲者

11時56分ごろ、3階の厨房に侵入し指揮していた第二機動隊4中隊長の警部が吉野と加藤倫教の狙撃により頭に被弾。坂口は法廷で聞くまでこれを知らなかったという

内田尚孝警視重体の報はラジオを通して山荘内にも伝わり、人質は「銃を発砲しないで下さい。人を殺したりしないで下さい。私を盾にしてでも外に出ていって下さい」と必死に呼びかけた。これに対し坂口は動じたものの、取り合わずに洗面所側と屋根裏のメンバーに向かって「おーい、上の方(階級が高い警官)をやったぞ」と伝えた

12時30分過ぎ、警察の作戦行動が休止したため、犯人全員がベッドルームに集まり、空いた穴の応急処置、食事。この頃には加藤倫教はすでに戦意を喪失しており、事件が早く終息して、弟の罪がこれ以上重くならないことを望んでいたという

12時45分ごろ、山荘にカメラを向けていた報道陣に坂口が威嚇発砲。信越放送の記者が被弾したことを知り、坂口は驚く

14時40分ごろ、厨房にたむろしていた機動隊を発見した吉野の進言により坂口が鉄パイプ爆弾を投擲。第二機動隊4中隊の分隊長が右腕を砕かれる重傷を負った他、他4名が全治数日の聴覚障害を負った。

15時半ごろ、警察による放水が再開され、撃ち込まれたガス弾により催涙ガスが山荘内に充満。催涙ガスにより呼吸ができなくなり、窓を叩き割った坂口は目の前に見える浅間山を見て、浅間山荘という現場の名前の由来をこの時初めて知ったという

15時58分ごろ、第二機動隊第2小隊巡査2名が坂口、坂東、吉野のいずれか(裁判でも特定されず)の銃撃により顔面に被弾

17時ごろ、機動隊がベッドルームに接近。バリケードを少しずつ排除していった。

17時20分ごろ、第九機動隊巡査が坂口と坂東の銃撃により被弾

17時55分ごろ、第九機動隊巡査部長が坂口、坂東、吉野の乱射により顔面に被弾

やがてベッドルームの壁に穴が開けられ、28人の機動隊員が突入。18時10分ごろ、犯人一斉検挙のため先頭を切って突入した第9機動隊巡査が坂東の至近距離からの銃撃により右眼に被弾。後に右目失明

その直後の機動隊突入により18時10分犯人全員逮捕、人質無事解放となった。犯人たちは報道陣の罵声を浴びながら連行された。この時、坂口は山越えで靴が破れていた植垣に靴を貸していたため雪の降る中を裸足で歩いて行ったという

18時過ぎ、朝からテレビの実況中継を見ていた坂東の実家では、坂東逮捕が報じられると、父親が席を立ち、しばらく後に首を吊って死亡しているのが発見された。

wikipediaより抜粋

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世界革命戦争宣言②

2021-09-29 16:03:01 | Weblog

東大安田講堂事件(とうだいやすだこうどうじけん)は、全学共闘会議(全共闘)および新左翼の学生が、東京大学本郷キャンパス安田講堂を占拠していた事件と、大学から依頼を受けた警視庁1969年昭和44年)1月18日から1月19日に封鎖解除を行った事件である。東大安田講堂攻防戦ともいう。

背景

1960年代後半、ベトナム戦争が激化の一途をたどっていた。また、1970年(昭和45年)で期限の切れる日米安全保障条約の自動延長を阻止・廃棄を目指す動きが左派陣営で起きていた。これに伴い学生によるベトナム反戦運動第二次反安保闘争が活発化した。それと時を同じくして、高度経済成長の中、全国の国公立・私立大学においてはベビーブーム世代が大量に入学する一方で、ときに権威主義的で旧態依然とした大学運営がみられた。これに対して学生側は授業料値上げ反対・学園民主化などを求め、各大学で結成された全共闘や、それに呼応した新左翼の学生が闘争を展開する大学紛争(大学闘争)が起こった。

全共闘の学生達は大学当局との「大衆団交」(団交)で自分たちの主張を唱え、それが認められない場合は大学構内バリケード封鎖という手段に訴えた。学園紛争は全国に波及し、最盛期では東京都内だけで55の大学がバリケード封鎖に入り社会問題に発展していった

経緯

その中で、東京大学においては医学部自治会および青年医師連合(卒業生が所属)が1968年(昭和43年)1月下旬より登録医制度反対などを唱え、通称「インターン闘争」に始まる東大紛争(東大闘争)を展開した。

これに対して大学側は3月11日に「医局員を軟禁状態にして交渉した」として17人の学生の処分を発表したが、その中に明確にその場にいなかった1人が含まれており、このことが学生側の更なる怒りを招くこととなる。

3月12日に医学部総合中央館を、3月27日安田講堂を一時占拠し、翌日予定されていた卒業式も中止された。3月26日には「医闘争支援全東大共闘連絡会議」が他学部も含めた学生有志によって結成され、卒業式阻止の主体となった。しかし、この段階では日本共産党日本民主青年同盟、「民青」)系の自治会中央委員会や学内の七者連絡協議会は、闘争に対して批判的な立場を取ったため、全学の自治会には闘争は波及していなかった

医学部では新学期になってもストライキが継続していたが、事態は膠着し、6月15日に医学部の「全学闘争委員会」が安田講堂を再度占拠した。大学当局の大河内一男東大総長は2日後に機動隊を導入しこれを排除したが、これに対して全学の学生の反発が高まり、7月2日、安田講堂はバリケード封鎖された。

その3日後に「東大闘争全学共闘会議」(全共闘)が結成される。以後、大学当局は打開を図ったが更に全共闘や新左翼学生の反発を招き、東大全学部のこれらの組織に属する学生主導によるストライキや、主要な建物多数の封鎖が行われた。11月には大河内総長以下、全学部長が辞任した。

これらの全共闘や新左翼の学生による暴力行為や、9月30日日大紛争日本大学闘争)での大衆団交を受けて、佐藤栄作政権が動き出す11月22日、全学バリケード封鎖に向けて全共闘系7千名、阻止する日共(民青)系7千名が全国から集まり、にらみあう。

全共闘系内部においては早稲田革マルの藤原が中心となって、全学バリケード封鎖反対を各派に恫喝的に説得する。結果的に全学バリケード封鎖は中止となり、背景を知らない学生の一部では、戦時中のレイテ沖海戦の史実と絡めて、「栗田艦隊謎の反転」と語られる。

11月22日

大河内総長の後任として法学部の加藤一郎教授が総長代行として就任し、1969年(昭和44年)1月10日、国立秩父宮ラグビー場にて「東大七学部学生集会」を開催。民青系や学園平常化を求めるノンポリ学生との交渉によってスト収拾を行うことに成功したが、依然、占拠を続ける全共闘学生との意見の合致は不可能と判断し警察力の導入を決断、1月16日警視庁に正式に機動隊による大学構内のバリケード撤去を要請した。

補足

警視庁の記録によると、この日の封鎖解除で検挙された学生633人のうち、東大生はわずか38人であったという。ただしこれについては、全共闘側の関係者(今井澄、島泰三)から異論が出ており、島は公判起訴された東大関係者(54名)の数と、全体の逮捕者と起訴された者の比率等から、80名から100名程度の東大関係者が、東大構内に立て籠もったと推定している。

さらに、秩父宮ラグビー場における七学部学生集会粉砕闘争で、駒場共闘の中心メンバーが100人以上逮捕されていることも考慮しなければならない。他大学では明治大学中央大学日本大学法政大学の大学生が多かった。また高校生で唯一、神奈川県立相模原高等学校の高校生が検挙されている。

東大全共闘の一部と革マル派は、封鎖解除前日の17日「兵力温存」を理由に大学構内から脱出、当日抵抗していたのは他セクトと地方を含む他大学からの応援部隊が中心であった。革マル派は、後日他セクトから「日和見主義」などの批判を受け、他セクト(特に中核派)との対立を深める結果となった。

東大紛争期間中には、構内の建物を占拠した学生によって、丸山眞男をはじめとする碩学が吊し上げられたり、教授室などが滅茶苦茶に破壊され、明治以来の貴重な原書が燃やされてストーブ代わりになるなどの蛮行がなされた。理学部二号館を占拠した学生は、1968年12月24日の乱闘に際して、地質鉱物学科の鉱石標本や化石標本などを武器として投じ、紛失させた

事件の影響で、1969年(昭和44年)の東京大学の入学試験は中止され、次年度の入学者は0人となった。このため、東京大学を志願していた高校3年生及び浪人生は、京都大学一橋大学などの難関大学の入試を受けるか、来年度の東大入試の為に浪人生活を選ぶかの二択を余儀なくされた。

全共闘学生によるバリスト(バリケードストライキ)は、安田講堂事件以前から既に複数の大学で行われていたが、安田講堂陥落後は全国の多くの大学にバリストが広がることになる。

後に同事件の現場指揮担当をした佐々淳行は、早期解決のために、鉄球を付けたクレーン車で安田講堂の壁を破壊し、侵入経路を作る「鉄球作戦」を考案したことを様々な形で告白している。しかし、安田講堂は文化遺産であるという認識が警察の上層部にあったため、この作戦は採用されなかったが、後のあさま山荘事件で、山荘の2階と3階を繋ぐ階段の壁を破壊するという目的でこの作戦が採用された。

裁判

1969年(昭和44年)7月1日、安田講堂を占拠した裁判が2つのグループに分けて東京地方裁判所で開始。一方の裁判は拘置中の9被告が出廷を拒否し、保釈されていた3被告のみが出廷したが、開始早々、傍聴していた学生らと分離公判を批判して騒然となり、10人の弁護士とともに警官隊に拘束、退廷処分となった。もう一方の裁判は11被告全員が出廷せず、最初から欠席裁判となった

最高裁判所刑事局によれば、最終的に607人が起訴され、一審で有罪判決を受けた者は590人(うち実刑147人)を数えた。1978年6月30日、最後まで裁判を続けていた11被告に対する上告審で最高裁判所第一小法廷は、一審、二審の有罪判決(懲役2年6ヶ月-懲役1年4ヶ月)を支持して被告側の上告を棄却する決定を下し、安田講堂事件の裁判は全て終了した

wikipediaより抜粋

 

ファーファ「ブルジョアジー諸君!」

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世界革命戦争宣言

2021-09-29 15:00:44 | Weblog

頭脳警察

ブルジョアジー諸君

我々は、君達を世界中で革命戦争の場に叩き込んで一掃する

ためにここに公然と宣戦を布告するものである

君達がたとえ米軍・NATO軍・安保軍・ベトナム連合軍等々

全世界の警察を総動員しようとも

君達が骨抜きにし変質させたソ連_ワルシャワ軍までをも

動員したとしても

我々は全世界のプロレタリア人民の力を

世界党_世界赤軍_世界革命戦線の下に結集し

必ずや叩きのめしてしまうことを通告する

君達の歴史的罪状はもうわかりすぎているのだ

君達の歴史は血塗られた歴史である

第一次大戦、第二次大戦 君達同士間での世界的強盗戦争のために

我々の仲間を騙して動員しお互いに殺し合わせ挙句の果てには

がっぽりと儲けているのだ

君達は植民地を略奪するために我々の仲間を殺した

仲間をそそのかし植民地を略奪したらその分け前をやるといって

更進国の仲間を君達がそそのかした仲間をつかって殺させたのだ

それだけではないそうやって略奪した植民地を君達同士で

奪い合う強盗戦争にも、同じように仲間をそそのかし殺し合わせたのだ

我が日本ブルジョアジー諸君 君達にも嘘とは言わせない「富国強兵」の

スローガンのもと日清・日露・第一次・第二次の強盗戦争を

やってきたではないか。

我々はもう、そそのかされ、騙されはしない 否

そそのかされ、騙されないだけではない

我々は過去の恨みを持って君達を呪うと共に

またまた君たちのやろうとすることに対し

今度は我々の側には用意がある

君達にベトナムの仲間を好き勝手に殺す権利があるのなら

我々にも君達を好き勝手に殺す権利がある

君達にブラックパンサーの同志を殺害しゲットーを戦車で押しつぶす

権利があるのなら、我々にもニクソン、佐藤、キージンガ―、ドゴールを

殺しペンタゴン、防衛庁、警視庁

君達の家々を爆弾で爆破する権利がある

君達に沖縄の同志を銃剣で突き刺す権利があるのなら

我々にも銃剣で突き刺す権利がある

君達が朝鮮で再び戦争をやるために自衛隊を増やし

ファーカス・レチナや三矢作戦をやり朴独裁三選のため

それに反対する任君を逮捕し死刑にする権利があるのなら

我々にも赤軍を建軍し革命戦線を作り

君達を逮捕し死刑にする権利がある

アメリカのブルジョアジー諸君 君達は第二次大戦後、朝鮮でコンゴで、

ベトナムで不断に仲間を殺し続けて呉れた日本のブルジョアジー諸君

君達は自衛隊、機動隊を増やし今ベトナムに協力し

朝鮮に将来派兵しようとしている西独のブルジョアジー諸君

国防軍を強化しフランスを牽引し、

チェコや東欧や中近東に目を光らせてなにをしようというのだ

ブルジョアジー諸君いつまでも君達の思いどうりになると

思っていたら大間違いだ

我々は過去、封建領土のもとでは家畜の様に

領土の檻の中に縛り付けられた農奴だった

君達はこの身分の枠を破り、我々を君達の自由にするために

「自由・平等・博愛」のスローガンの下

領主達と戦った。だが今や、我々は君達の好き勝手にされることを

公然ときっぱり拒否することを宣言する

君達の時代は終わりなのだ

我々は地球上から階級戦争をなくすための最後の戦争のために

即ち世界革命戦争の勝利のために

君達をこの世から抹殺するために最後まで戦い抜く

我々は自衛隊、機動隊、米軍諸君に公然と銃を向ける

君達は殺されるのが厭ならその銃を後ろにむけたまえ

君達をそそのかし後ろで操っているブルジョアジーに向けて

我々、世界プロレタリアートの解放の事業を邪魔する奴は

誰でも容赦なく革命戦争の真只中で抹殺するだろう

万国のプロレタリア団結せよ!世界革命戦争宣言をここに発する

 

soop「日本赤軍」

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真珠小娘

2021-09-29 09:23:08 | Weblog

真珠娘が空から降りてくる

甘酸い香りをはこぶ風 そよそよと

ほつれ毛の珠のかんざし斜めに揺れてる

燕のように光の様に踊っている

春高楼の花の宴

人々は月にむかって鐘を打ち

音盤を鳴らしている

かぐわしく蘭は咲き

もくせいは夜露を 木下陰にそそぐよ

唐くれないの竪琴は雲を震わせ咽び泣く

君と二人で夢をみよう

スカートをきみ脱ぎたまえ

帯をほどいて言っておくれ

あぁ雲ってあぁ雲って こんなに重たかったノ

そして目がさめるころ

朝の陽ざしは点々と散り乱れ

薄絹のカーテンを照らす

まぶしさに君は顔をそむけ

珠を転がすような声で僕に告げる

見たのね ぜんぶ見てしまったのね 私を・・・

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おいしい嘘がいっぱい

2021-09-29 09:07:07 | Weblog

詩:石川浩司

 

嘘だらけの毎日ね だけど結構楽しいわ

ブラックコーヒーのけだるさと 甘いタバコの冷たさと

おかまどうしのヒソヒソ話に 皆心地よく騙されたがる

何をしようともう勝手なの うまく理屈をつけられれば

たのしい嘘で 私をいっぱいにしてちょうだい

あたしお腹がペコペコなの 美味しい嘘おいしい嘘 金のお盆にのって

プㇰプク プープク ウァハッハ パヤパヤ ダンダンダ―

あなた一緒に踊りましょう 踊りましょう

はやく酔った方が勝ちよ 勝ちよ

白い小指の虚さと

黒い瞳のおお無縁さと

騙されたがる

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名機

2021-09-29 06:27:26 | Weblog

これ以上は書かないといったけど

自分で納得できないから書きます

 

RG350m

RG350シリーズの最上位機種

価格はアマゾンで15000円

対応マイクロSD容量1t(確認づみ)

(mローグを入れた場合の認識)

opk形式

 

アプリケーションで出来る事

(現在消えたと思われるものも含めて)

手持ちの楽曲編集(本格的で視覚的に操作しやすい)

グラフィック(絵を描くこと 従来の絵画ソフトに酷似)

PDFの閲覧(漫画が読める 本格的アナログスティックで操作)

動画の視聴(映画が観れる 圧縮しないとダメ)

「DVDfabでMP4に変換 MP4をMoo0動画圧縮機の

 さらなる高みで圧縮か最低ラインで圧縮」

画質はどうか?

もともとRG350mは解像度が高いのでストレスなく観れます

テキストが書ける

 

CFW

ローグmエディション

adam

 

エミュレータ

amstrad CPC

atari800

colecovision

dos box

FBA-RG350(ローグ版)

FC

SFC

GBシリーズ

MDシリーズ

lynx

gg

SG-1000

SMS

intellvision

NEOGEOシリーズ

openBOR

wonderswanシリーズ

pokemon mini

neogeopoketシリーズ

atari2600

PCEシリーズ

amiga 500

ZX-spectrum

gamewatch

mame4all

MSX

MSX2

mupen64

commodore64

vectrex

PS

ようはPS以前の物が動く

PSは後期のものは動かない物がある

mupen64はほぼ動かない

マイナーエミュのROMは

全てアーケードパンクスで揃ったが

現在は不明(サイトの更新で消えた可能性がある)

それ以外のROMとbiosは自力で入れないといけない

(os形式で稼働するエミュもあるPCEでCDromromを動かす場合等)

 

たまに寝転がって映画を観たり、漫画をよんだりする

いちおうゲームもできるが数が多い・・・

SFCのROMでは友達の友達に感謝している

RG351mではドリームキャストが動くが

不完全なので結果は同じこと

いまだRG351以上の物は出ない

PS2の動く10万以上の大型の物が出ており

(Windows10の入ったものまである)

それを無理くりプレイする人もいるが

もうそれは携帯機と呼べないと思う

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2021-09-28 21:34:29 | Weblog

街は眠らづ 夢を見なかった

飽食と荒淫の都

人 それを繁栄とよぶ

文明が石を麺麭に変える

近未来を信じて

際限もない

浪費に人々は明け暮れ

膨大な残滓を日々排泄した

塵芥は山となり

海に投棄され島となった

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欲しいものはありますか?

2021-09-28 10:07:53 | Weblog

欲しいものそれはイマージュで描く理想のかたち

飛光よ!飛び、去り行く光よおまえに盆を献よう

 

ここ4年ぐらいになるかな、

一万円札を見てないのは

大きい買い物はカード

普段でも1000円以上のものは稀

 

僕が欲しいもの

 

コカコーラゼロ:いつも飲んでる

ロングピース:いつも吸ってる

KFC:オリジナルチキン

にゃー:カットソー

マクドナルド:照り焼き

ミスタードーナツ:フレンチクルーラーのクリーム入ってないやつ

大黒ラーメン:ラーメンとチャーハンのセット

ノンアルコールビール:アサヒの銀のやつ

しのだや:皿もり 中華

靴下を沢山:すぐになくなるから

LのTシャツを沢山:すぐになくなるから

ゴムで絞れるズボンを沢山:楽

Lのカットソー:すぐになくなるから

Lの黒か白かボーダーニットを5着:カッコいいから

トランクスを沢山:足りなくなることが多い

ニットのコート:暖かいから

ヘルムートラングのジャケットを3着:せめてこれぐらいのおしゃれがしたい

ヴィトンのバック:カッコいいから

とろろ昆布:朝ごはんにないとさびしい

永谷園のお茶漬けの素:なにもないときに便利

えびチャーハンの素:簡単で美味しい

永谷園のマーボー春雨:簡単で美味しい

MGサイコザク:詰みプラ

Mak.ナッツロッカー:詰みプラ

Mak.キャメル:詰みプラ

鬼塚タイガーのスニーカー:欲しいカッコいい

ショップ限定の月星のスニーカー:別バージョン

Windows11で動くPC:これからに備えて

2TのマイクロSD:任天堂スイッチの最大容量が2Tだから

烏羽玉(現地球):現地球でないと意味ない

黒牡丹:姿が好き、

原付バイク:自転車に乗りたいから

軽自動車:いい加減買わないとヤバイ

 

 

兎に角

軽自動車と

靴下沢山

Lのカットソー沢山

トランクス沢山

ゴムで絞れるズボン沢山

鬼塚タイガーのスニーカーは

欲しい

服と靴が無いと致命的

 

一応特殊な機材や温室のいるもの

時間のかかるものは外しました

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ミニマリスト

2021-09-28 09:33:09 | Weblog

とある建築家が言っていた

「僕が建物を作るときここになにがあれば楽かを考える

 デザインというのはそういうものだ

 天井は高いほうが良い僕はそう思うんだ」

 

必要最低限のもので構成するのが

理想的だと思っている

デザインも機能性重視なものを選んでいる

だからヘルムートラングとかが好きだ

PCはwi-fiボードを付け配線をなくした

(これは便利だがマザーとの相性問題で一度蹴られたことがある)

家も注文住宅なので床から外装からすべてデザインした

兎に角無駄のない物シンプルな物

使いやすいものが理想的だと考えていて

流行やらは気にしていない

人の目は気にしない

自分が良いと思う物を率先して

使用している

僕はそれがカッコイイと思う

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