風船花(ホウセンカ)です! 元気です!

教育系ポップスバンド 風船花(ホウセンカ)の活動日記
日常の中であれこれ思ったことなど

平成7年~この年の札幌はひどい雪だった

2014年12月15日 21時03分42秒 | 人生
ものすごく寒いです。
部屋のストーブの温度計は「LO」と出てます。
しばれてます。

思い出すままにエピソードを綴っています。
11月に入って、放射線治療室が立て替えの工事に入って、その後の治療は白石の恵仁会病院で行うことになってね。マイクロバスで送迎されていたんだけど、それがかなりきつかった。
平成7年は、とっても雪の多い年でね。行くだけで1時間半っていう日もあってね。ガタガタの道路で揺れるものながら、具合が悪くなる。このことで半日がかりって感じでした。胸に点滴の管をさしての移動だったしね。
結局、年末にあまりのつらさに通うのをやめて、照射は計画より、数回、短縮された。

妻に抱かれてやって来る、当時0歳の次男は、いつも鼻水を垂らしていて、自分の病気のことを考えると何か悪い物でもあるじゃないかと心配になって、主治医に相談したっけ。0歳じゃ調べようもなかったんだけどね。

先生は、いつも「つらいね~」と共感しながらいつも励ましてくれたんだ。
退院後も、受診する度に、あの時は「つらかったね」と優しい言葉をくれていたよ。
まじめにお仕事!道徳の指導計画つくってま~す。

平成7年のこと~幸い転移はなかったのでね

2014年12月14日 17時24分46秒 | 人生

1週間ほどで大部屋に移ってね、出会ったのは僕より一つ年上の夕張のお寿司屋さん。
同じ病気だったから、病院のことや治療のころなど、あれこれ教えてもらった。
ただ、僕とは違って、肝臓への転移があったからね、抗がん剤治療の時は、かなりきつそうだった。

僕より先に退院されて、僕も退院後、お寿司食べにうかがったこともあった。
その時はかなり痩せられていてね。
その後、朝刊のお悔やみ欄で名前を見つけることになった。
僕は転移がなかったのが幸いだった。治療が始まると、放射線の効果も実感できたら、「死ぬ」って感じはなかったなあ。

寂しかったには、時間外玄関から、妻と子供たちを見送る時。その後ろ姿を見ているとね……。
申し訳なかったは、当時、桑園の中央市場を職場にしていた父が、毎日のように見舞ってくれたこと。病院生活だから、これといって話すこともなくなってね。

まあ、毎日、退院できたらって考えていたね。

来週は、岩見沢で高校の同期会です。昨年に引き続き、ライブハウスを貸し切ってわいわいやる予定です。

これは長男のいつかくれたお土産。なんだか気に入って、お守りのようにいつも鞄に入れてある。




 


 


平成7年のこと~6割4割

2014年12月12日 23時50分10秒 | 人生
入院生活については、あれこれあって時系列に書くのは難しい。
思い出すエピソード、あれこれ綴って行こうと思う。

照射の回数が予め決まっていて、さらに、併用して抗がん剤を数回という治療計画だった。
回数はに20回くらいだったかな……?年内には、終了するような予定だった。
喉に照射するから、絶食になり、胸からIVHなった。
副作用的なことで言えば、唾液腺が焼かれて、唾の出が悪くなる。それは、20年経った今もそう。
舌もその影響で味覚がなくなる。
照射されたところの毛が抜ける。髭もなくなっって、お肌ツルツルになった。
首が焼かれたように黒くなる、などなど。

それで、2,3回と照射。それが、抜群の効果。みるみる、首の腫れが引いてね、呼吸も楽になった。
「効いてますよ」と主治医。
それを僕自身が実感できたから、「大丈夫かも?」と。

当時、妻は、「6割4割です」と聞かされていたと、
後で教えてくれた。「6割だめ」っていうことだったらしい。
 
 

Amazon 著者のページ

2014年12月12日 16時41分35秒 | 日記・エッセイ・コラム

Amazonでの「ひまわりのころ~舞鳥ロックス」の著者のページです。
マスコミでの紹介やライブ情報等をここに集めたいなあと思っています。
http://www.amazon.co.jp/%E7%94%B0%E6%9D%91-%E5%92%8C%E5%B9%B8/e/B00QFSY5FC/ref=dp_byline_cont_book_1

写真は、尾暮さんの書いてくれたカバーの原画です。

明日は、岩見沢ストロベリージャングルで19時半に登場です。
風船花with[……]で、テーマ曲を演奏します。
明日、カラオケボックスにギターを持ち込んで、練習してからライブに向かう予定です。
お時間の都合がつく方はぜひぜひ!!


平成7年のこと~「定年まで働けますか?」

2014年12月11日 23時01分10秒 | 人生
本日の道新夕刊。岩見沢局の堀田記者の気持ちを感じる記事でうれしかった。

さて、平成7年の続き……10月9日に告知され、北大に入院したのが15日だったと思う。当時の日記があるので、それを見れると分かるとも思うのだが……。その封印を解く、今は勇気がないね。

そのころになると、首が腫れ上がって、顔と同じくらいの太さになり、呼吸も困難になった。息をする度に、「ヒューヒュー」って音を感じた。

大部屋が空いてなくて、特別室というゴージャスな部屋での闘病スタート。

主治医は、僕と同じ年齢の先生。詳細はこれからエピソードとして、紹介するけど、本当によくしてもらった。
最初に、僕は「定年まで働けますか?」と聞いたと思う。
「大丈夫!」と、割と控えめな先生だけど、力強く答えてくれた。また、信じるしかなかった。

担当の看護師さんは、新卒の方。
「ひまわりのころ」に出てくる千石さん、この方がモチーフ。名前は文字が違うけど、sengokuさんでした。雰囲気も違うけど、元気な看護師さんでね、随分、励ましてもらった。北見出身で、僕が訓子府に赴任した時の3年生と同学年。高校の同級生には、僕の知っている訓子府出身の仲間もいたことから、親しみももてた。

最初にやったのが、照射のための仮面づくり。顔に照射位置を書くことができないからね。仮面を作って、そこに赤や青の線がひかれ、照射の位置が示されていたようだ。

そのころは、北大病院の改築時で、外来や入院病棟は新しくなっていた。

放射線科の照射室は古い建物の地下だったな。

初日に耳鼻科外来も受診したような……。放射線科の病棟に行く前だったかもしれない。

放射線科の病棟は、5階?何しろ、北大にこの後、第3内科、第1外科に入院したから、忘れてしまった。放射線科の反対側は、小児科だったのは間違いない。

「ひわまりのころ」の7階東病棟は、旭川医大。僕が潰瘍性大腸炎で大学の卒業直前と、平成元年~平成2年まで入院した病棟です。

そんな感じで、入院生活が始まったわけです。