壇ノ浦SAを出て、関門橋を渡り、すぐ先の門司港インターで高速道路を降りました。
今回の旅の主目的は九州で梅や椿を訪ね歩くことです。
あれれ? 同窓会が何時の間にか、すっかり影が薄くなっています。
そうなんです。
この時以降、私はしばし同窓会のことを忘れ、本末転倒のまま九州の旅を続けることになりました。
車の一人旅は、その時々のことに神経が集中して、他のことは考えなくなります。
そのような、非日常の時の流れに身を置くことで、リフレッシュしているのかもしれません。
九州で最初に訪ねた場所は、梅も椿も関係ない和布刈公園(めかりこうえん)でした。
この公園は九州の最北端に位置し、関門海峡を見渡す絶好の展望スポットなのです。
山頂の公園へ向かう途中で、関門橋の下から関門海峡を眺めました。
ここで私は本州と九州を隔てる海峡の狭さを改めて認識することになりました。
関門海峡は海と云うより、川として捉える方が正しいとさえ思えます。
和布刈公園に登る途中で、有田焼の陶板を使って描かれた壇ノ浦の戦いの壁画を目にして、ああそうだった、関門海峡は壇ノ浦と接していたんだと、まー今更ながらのお粗末な驚きを感じたりもしました。
山に登る途中から、眼下に門司の町並みが見下ろせました。
箱庭のような趣で、小規模な港や高層ビルが旅人の好奇心をそそります。
同じ位置で北へ目を向けると、関門橋が本州と九州の間に、大動脈のように高速道路を繋いでいます。
夜の山頂から見ると、ライトアップされた関門橋が目を奪うそうです。
和布刈公園の山頂には門司城跡のレリーフが建てられていました。
その横の石板に刻んだ解説には、
「門司城(門司関山城、亀城)は最初平知盛が源氏との合戦にそなえ、紀井通資に築城させたと言い伝えられる。
1244年に下総の親房が平家残党鎮圧を命ぜられて豊前国代官職に任ぜられ、その子孫が門司氏を称し門司城を本城に領内を治め、門司氏はその後350年にわたって北九州の地に続いた。
室町時代の大友・毛利の門司城の合戦は壮絶を極めた。
その後門司城は細川忠興の豊前入国後の1615年、江戸幕府が制定した一国一城の令により廃城となった」と記されていました。
また、山頂に宮柊二の歌碑が建てられ
「波の間に降り込む雪の色呑みて玄海の灘今宵荒れたり」
「まどろめば胸どに熱く迫り来て面影二つ父母よさらば」
の二首が刻まれていました。
宮柊二は1912(大正元)年、新潟県魚沼市に生を受けました。
1935(昭和10)年に北原白秋の秘書となり、その後召集されて中国大陸に出征します。
1946(昭和21)年の処女歌集『群鶏』をはじめとして、生涯で13冊の歌集を刊行しています。
1977(昭和52)年には日本芸術院賞を受賞し、1986(昭和61)年、74歳でその生涯を終えたのだそうです。
私は40代の頃に6年間、新潟での勤務を命じられて新潟市内で暮らしましたが、宮柊二という歌人を全く知りませんでした。
新潟魚沼市には宮柊二記念館があるそうです。
いつか「花の旅」で新潟に行くことがあれば、宮柊二記念館を訪ねてみたいと思います。
そして今回の旅で、玄界灘や東シナ海を挟んでアジアと接する九州には、数多くの戦に関わる歴史が刻まれていることを知りました。
また、そのような歴史の中で、知を貴ぶ文化が育まれていたことを知りました。
梅の花を追う旅を続けながら、梅を愛し、学問の神様となった菅原道真を祀る社が全国に数多く建立されているのは、この国の人々が1000年以上も昔から、知識の貴さを認識していた証だろうの感慨を持ちました。
そうそう、も一つ。
宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘したとされる巌流島は関門海峡にあったのですね。
これも今更ながら、この場所に来て始めて認識したことでした。
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