門司市街から小倉を抜けて、北九州市の懐深く入り込んだ、若松港を跨ぎかかる若戸大橋を渡りました。
目的地は若松区小石にある仙凡荘です。
ナビ任せに来たのですが、ナビが「目的地に到着しました」とアナウンスしたのは、藪山に囲まれた、車一台分ほどの道幅の林道上でした。
道の横に小さな貯水池があります。
しかし、周囲を見回しても梅園らしきものは見当たりません。
多分いつものように、町名が変わったか、地番が広い範囲に及ぶだろうと予想しました。
丁度そこへ、軽トラックが坂を下って来たので、路肩に車を寄せてやり過ごす際に窓を開け、「すいません、ちょっとお尋ねします。仙凡荘はこの辺でしょうか?」と聞いてみました。
「ああ、仙凡荘ならこの丘の反対側だよ。真直ぐ登って行って、隣の谷へ下って行けば見えてくるよ」と親切に教えてくれました。
旅先では、道に迷ったら地元の人に尋ねるのが一番の近道です。
教えられた通りに、藪山の道を5~6分もはしると、仙凡荘の看板が見えてきました。
そして、「梅の名勝 小石 仙凡荘跡」 と題した掲示板を目にしました。
そこには、「仙凡荘 小石字河内にある仙境で、苔むした岩の小渓谷を挟む一帯三万坪の地に、紅白の梅40余種数百本をはじめ、桃桜つつじなど多種の花木を植え四季花影の絶えることがない。
・・・ (仙凡荘は此口貞雄(あささだお)夫妻が余生を楽しむため独力で庭作りに専念したもので、近年一般市民のために解放された。)
若松市史第二集 昭和34年4月31日発行 と記載されていました。
看板の反対側の丘には、多くの花木が植栽されていたので、車を置いて散策してみることにしました。
丘へ登る途中で、ちらほらと咲き始めた梅を目にしました。
30メートル程も坂を登ると、花梅を集めた梅園がありましたが、花の時期にはまだ早すぎました。
また、梅園の一隅では
祝 政調会長 夫婦梅 麻生太郎 千賀子
と記された白杭が、枯葉の中で風雪に耐えていました。
この杭が打たれたのは、いったい何時頃のことだったのでしょうか。
さっき掲示板に記載されていた昭和34年といえば、筆者はまだ小学生でした。
伊勢湾台風で多くの人々が犠牲になり、故郷を逃れた被災者の方々が、横浜の我が家の近くの空き地に、トタン屋根の小屋を建てて住み始めたことを記憶しています。
皇太子様と美智子様がご結婚されたのもこの年でした。
敷地の片隅では「新幹線関門トンネル貫通式 記念石の一部」が掲示版とともに苔むしていました。
この看板には昭和50年4月1日とありますから、今から40年前のことです。
日本はオイルショック後の景気低迷の中、ベトナム戦争が終わり、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」などが流行った年でした。
来年の3月には北海道新幹線が函館まで開通する予定ですが、今から40年後には、誰がどんな風に今を振り返るでしょうか。
咲きほころび始めたばかりの梅園で、過ぎ去った年月への感慨に耽っていると、突然空から白いものがぱらぱらと落ちてきました。
霙です。
既に辺りは薄暗くなり初めていました。
私は慌てて車へ戻ると、明日の目的地である、北九州市小倉南区の総合農事センター目指し、車をはしらせました。
北九州市内を運転しているとき、私は交差点に並んだ隣の車を見て「オオッ!」と声を上げそうになりました。
隣の車のボンネットに薄っすらと雪が積もっていたのです。
私は、北九州がこんな寒い土地だとは想像だにしていなかったのです。
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