杵築の町を出て別府市内へと向かいます。
国道10号線をはしると、椰子の並木が現れました。
正面に見えるのは高崎山でしょうか。
目的地は別府公園です。
別府公園は、2009年秋にヒガンバナの旅で九州を巡った時に、周囲をひと巡りしたので、おおよその位置と規模は分かります。
案内板を見つけて梅園の位置を確認し、迷うことなく梅園に足を運ぶことができました。
別府公園には豊後梅を含め、紅梅と白梅が200本ほど植栽されていました。
今まで巡ってきた梅園同様、別府公園の梅も花の時期には早すぎましたが、松の木立に囲まれた梅の枝に、ちらほら咲く白梅が、この公園独特の風情を漂わせていました。
別府市街を抜けて、大分市内へ向かいました。
できることなら今日中に、大分県の残り二つの梅園を訪問し、宮崎県に入りたいところです。
宮崎県でリストした梅の名所は、大分に最も近い場所が延岡ですから、夜の間に大分から延岡までの長距離をはしれば効率が上がります。
余った時間は、見知らぬ街の路地を探訪するなどに使えます。
そのような予定外の旅程にこそ、旅本来の楽しみが潜むと思うのです。
安全と安心が保証された、予測可能なレール軌道だけでは飽き足らないので、旅に出るのです。
大分市内が見えてきました。
実は、私が大分市内に足を踏み入れるのは、今回が初めてです。
どんな街かは全く知りませんが、海岸に大きな煙突が建ち並ぶ姿に、これは以外だったな~と思いました。
私は漠然と大分市を、農村に囲まれた商業都市を想像していましたが、実際は、沿岸部に新日鉄などの工場を抱える工業都市で、人口は九州で5番目の規模だそうです。
下の写真は大分県護国神社の展望台から見た景色です。
頭の中に地図を描くと、大分市は瀬戸内海の入口に位置しますので、海運を介する重工業の立地条件に恵まれているのかもしれません。
今日は一日、九州の瀬戸内沿いを旅してきました。
多分中学校の授業で、日本史上に於ける、瀬戸内海が果たした役割を、受験用に、知識の断片として理解していた筈ですが、今回初めて、その役割の大きさを実感することができました。
地中海沿岸に優れた文明が栄えたように、内海の波静かな瀬戸内海は、日本という国の発展に大きな影響を及ぼしていたことを、還暦を過ぎたこの歳になって、やっと気付くことができました。
大分市では、大分県護国神社に梅園があるとの情報を元に、最初に護国神社を訪ねました。
大分市観光協会のホームページには、境内に200本の梅が花を咲かせると記されます。
護国神社を訪ねると、神楽用の舞台に「梅まつり」の横断幕が掲げられていました。
ある程度の規模を期待して、境内に梅を探しましたが、広い境内に梅が分散しているのか、展望台附近に小規模な豊後梅が目に止まる程度でした。
私は今まで、全国各地に数多くの梅園をみてきましたので、分散された200本程の梅を見ても、印象強くは見えないのです。
しかし、この神社には1877年の西南の役で戦死した陸軍軍人214柱が眠る墓地がありました。
大分県出身予科練戦没者慰霊の「鎮魂の碑」が設けられていました。
碑文には、昭和12年9月、全国の中等学校から厳選された250名が、第一期生として、横須賀海軍航空隊に入隊した。
・・・ と記載されます。
我が子の15~6頃の笑顔が突然脳裏に浮かびました。
そんな子供達が戦争に巻き込まれていったのです。
碑文の中の中等学校の字句が喉の奥を塞ぎ、あまりのことに言葉もありません。
そして、「母の像」の建立の記には、「戦場に夫を送った、強くきびしく やさしかった母 おかげで 私がある お母さんありがとう この悲しみを再びくりかえすことのないように ・・・」という記述を認めました。
全国で、中国で、朝鮮で、そしてアジアで、同じような思いをした人々が数多くいたのだと思います。
そして今も、イラクやシリアで同じような思いをしている人々がいると思うと、胸が詰まるような気持ちになります。
江戸時代末期、私財を投じて海の難所に灯台を建てた岩松助左衛門、知多半島に愛知用水を導いた篤農家の久野庄太郎など、知と情熱をもって、世に尽くした偉人を数多く輩出したこの国が、これからも知識を深め、広い視野で世界の人々の為に尽くすのであれば、二度と再び「母の像」を建てる必要のない世界がくるだろうと、願いにも似た思いを持って、護国神社を後にしました。
大分県でもう一つ、予定リストの中に吉野梅園が残りましたが、今日は護国神社でとうとう時間切れとなってしまいました。
夕陽に染まった雲の上、羨ましい程の意志の強さを示し、飛行機雲が聡明な直線を描いています。
明日はどんな日になるのでしょうか。
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