次の目的地は西都原古墳(さいとばるこふん)。
以前からかなり気になっていた場所です。
宮崎には幾度か来ていますが、なかなか西都原まで足を伸ばすチャンスがありませんでした。
「湯の宮座論梅」から西都原古墳までは、車で20分も掛かりません。
道路脇に「西都原古墳」の標識が見え、右手にUFOのような形をした古墳が現れました。
古墳の手前に解説板が設置されていました。
今回の旅は梅を見ることが主目的ですから、古墳を詳細に見て歩くつもりはありませんが、3~4世紀にかけて前方後円墳が作られ始め、4世紀から6世紀は円墳、5世紀後半から6世紀にかけて地下式横穴墓群がつくられました。
6世紀末に鬼の窟(おにのいわや)古墳を最後に、西都原の古墳の築造は終了したそうです。
6世紀は飛鳥時代に当たります。
646年には大化の改新が始まり、662年には百済救援の為に朝鮮に遠征し、白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗しました。
北九州からは、飛鳥の都よりも近い場所で、唐の脅威を感じる状況となり、664年には筑紫に大宰府を守る水城が造られました。
西都原周辺の首長にも大きな影響が及んだことは想像に難くありません。
実は、私は日本史が得意ではありません。
高校生の時に、受験科目から日本史を外した程ですから、今回ブログを書くに当っては、歴史を一から調べ直しました。
60有余にして再び、「学を志す」の状況です。
古墳の上に登って周囲を見回すと、野菜畑や茶畑の中に幾つかの古墳が見えていました。
しかし、本来の目的の梅の木が見えませんので、車に戻り、古墳群の中の道を北西方向に向かいました。
1kmもはしらない内に、舗装道路を外れた畦道の奥で、亜麻色に枯れた草の上に、白梅を見出しました。
周囲が広すぎる為でしょうか、梅の姿に共鳴するものが、私の中に湧き上がってきません。
これほどまでに開けた風景の中では、梅花は、一輪毎に香る繊細な味わいを消されてしまうのかもしれません。
梅の元を離れる道筋に、見事な桜並木が続いていました。
このような情景にあっては、見上げれば、空を染め上げる桜こそがお似合いだろうと思えました。
梅と桜の違いは多々ありますが、
梅木の下は思索をやすめ、一人毛氈に吟醸酒を酌み、
桜木の下は心をやすめ、友と縁台に地酒を酌み交わしたいものです。
月知梅は、今から約200年前までは一株でしたが、その後、地に着いた枝が根を張り、新芽を出して四方に株を増やし、現在では70株を数えるそうです。
先に訪ねた「湯の宮座論梅」と同様、イチゴなどの匍匐茎(ランナー)と同じ繁殖をウメが行なっていることになります。
改良を重ねた品種は一般的に繁殖力が弱くなる傾向がありますので、月知梅はより原種に近いかもしれません。
ウメは中国から渡来しましたので、原種に近いウメが九州に多く残るのは、興味深いことです。
この木も国指定天然記念物で、みやざきの巨樹百選に選ばれています。
「湯の宮座論梅」の花は白色一重でしたが、月知梅は白色八重の花を咲かせていました。
梅を見ていると、梅園横の公民館から、笛と太鼓の賑やかな音が聞こえてきました。
何だろうと思い覗いてみますと、若者達が神楽の練習をしていました。
もうすぐ、梅まつりが始まるようです。
※ 他の記事へは index をご利用頂くと便利です。
九州の梅を訪ねて 花の旅 index 1
他の花の旅 旅の目次