宮崎県西都市尾八重(おはえ)の「有楽椿の里」には、みやざきの巨樹百選に選ばれた椿がひっそりと花を咲かせていました。
この木は、樅木尾有楽椿(もみきおうらくつばき)と呼ばれ、平成3年に宮崎県から天然記念物に指定されています。
推定樹齢500年、幹周り243cm、樹高9.8m、枝張り13.4メートルの有楽椿と呼ばれる椿の品種で、現存するものの中では日本最大級です。
有楽椿は室町時代の頃、中国から導入された西南山茶(ピタールツバキ)と日本のヤブツバキの雑種とも言われ、京都を中心とする地域で出生したと考えられますが、詳細は明らかではありません。
現存する有楽椿は、京都や奈良など、由緒ある古社寺や、格式ある旧家でしか見られません。
豊臣秀吉、千利休から江戸時代にかけて、上流階級の間で行われた茶会記に出てくる「薄色椿」は有楽椿を指すのではないかと考えられています。
有楽椿の名は、千利休に茶道を学び、後に茶道有楽流を創始した織田信長の実弟織田有楽斎が、この椿を茶花として愛用したことに由来すると言われます。
有楽椿は江戸で太郎冠者と呼ばれていました。
家康が都を定めた江戸で、織田信長の実弟の名に由来する「有楽椿」と呼ばなかったのは、何となく分かる気がします。
そのように、はるかな都で珍重されていた有楽椿が、このような九州の山中にあるのは不思議ですが、この辺りは、かっては政治、経済、交通の中心地として栄えたのだそうです。
推定樹齢が500年の樅木尾有楽椿。
500年前と云えば戦国時代でした。
1587年には秀吉が九州を平定しています。
この頃、秀吉の軍と人の動きに伴って、有楽椿が九州にもたらされたと考えれば、辻褄が合うストーリーを想像することができます。
樅木尾有楽椿の前に「有楽椿の里」と、周辺にある尾八重有楽椿(おはえうらくつばき)、大椎葉有楽椿(おおしいばうらくつばき)の解説がありました。
尾八重有楽椿は「西都市大字尾八重920番地 黒木丑畩さんが所有する椿で、黒木さんの住宅北側の一段高い畑地にあり、排水、土壌、日照など椿の生育には最適な場所にあります。
樹高9.2m、幹周りは盛大で2.02m、地上1.5m余りで2本に分枝し、さらにそこから孫枝に分かれています。」と記載されていました。
大椎葉有楽椿は「西都市大字尾八重394番地・395番地 中武辰雄さんが所有する椿で、 樅木尾有楽椿の南方約3km、大椎葉集落内の東側に位置する旧中武辰雄氏宅入口傾斜面にあります。
通風、排水は極めて良好で、樹高9mを有しています。樹幹は、地上0.55m余りで分枝し、さらにそこから孫枝に分かれています。」とありました。
解説には地図も付されていたので、取り敢えず、次は近くにある尾八重有楽椿を訪ねてみることにしました。
先ほど通り過ぎてきた、尾八重神社り口まで戻り、
集落を探し歩きましたが見当たりません。
県の指定を受けた天然記念物ですから、すぐに分かると思ったのですが、見付けることはできませんでした。
集落には人影もありませんので、灯りを点けた一軒の家のドアをノックして、出てきた小母さんに、尾八重有楽椿のことを聞いてみましたが、小首を傾げて「さあ、分かりません」の返事が返ってきました。
考えてみれば、県から天然記念物の指定を受けたのが平成3年で、しかも個人の所有物です。
所有者が、今も集落に居るとは限りません。
他人の敷地に勝手に入って行くわけにもいかないので、尾八重有楽椿探しは、この時点で諦めることにしました。
(ブログを書くに当って調査したところ、尾八重有楽椿は2001年に枯死したようです。)
既に時刻は5時半を過ぎ、辺りは薄暗くなり初めていました。
今日は朝一番に、凍りつく空気の中で咲いた白梅を眺め、菜の花の咲く堤防を歩き、戦国時代から咲き続けた巨樹に出合えました。
今日も沢山の、未知なるものに出合い、満ち足りた、お腹いっぱい胸いっぱいの一日となりました。
多分明日も刺激的な旅が待っていることでしょう。
私は、温かい風呂に浸かることを想い描き、明日の訪問予定先である、高鍋町の舞鶴公園に向け、車のヘッドライトを点しました。
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