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大分県護国神社の梅

2015-03-14 15:52:19 | 九州の梅を訪ねて

 

 杵築の町を出て別府市内へと向かいます。

 

 国道10号線をはしると、椰子の並木が現れました。

 

 正面に見えるのは高崎山でしょうか。

 

 

 目的地は別府公園です。

 

 別府公園は、2009年秋にヒガンバナの旅で九州を巡った時に、周囲をひと巡りしたので、おおよその位置と規模は分かります。

 

 案内板を見つけて梅園の位置を確認し、迷うことなく梅園に足を運ぶことができました。

 

 別府公園には豊後梅を含め、紅梅と白梅が200本ほど植栽されていました。
 

 

 

 今まで巡ってきた梅園同様、別府公園の梅も花の時期には早すぎましたが、松の木立に囲まれた梅の枝に、ちらほら咲く白梅が、この公園独特の風情を漂わせていました。

 

 

 別府市街を抜けて、大分市内へ向かいました。

 

 できることなら今日中に、大分県の残り二つの梅園を訪問し、宮崎県に入りたいところです。

 

 宮崎県でリストした梅の名所は、大分に最も近い場所が延岡ですから、夜の間に大分から延岡までの長距離をはしれば効率が上がります。

 

 余った時間は、見知らぬ街の路地を探訪するなどに使えます。

 

 そのような予定外の旅程にこそ、旅本来の楽しみが潜むと思うのです。

 

 安全と安心が保証された、予測可能なレール軌道だけでは飽き足らないので、旅に出るのです。

 

 

 大分市内が見えてきました。

 

 実は、私が大分市内に足を踏み入れるのは、今回が初めてです。

 

 どんな街かは全く知りませんが、海岸に大きな煙突が建ち並ぶ姿に、これは以外だったな~と思いました。

 

 私は漠然と大分市を、農村に囲まれた商業都市を想像していましたが、実際は、沿岸部に新日鉄などの工場を抱える工業都市で、人口は九州で5番目の規模だそうです。

 

 下の写真は大分県護国神社の展望台から見た景色です。

 

 頭の中に地図を描くと、大分市は瀬戸内海の入口に位置しますので、海運を介する重工業の立地条件に恵まれているのかもしれません。

 

 

 今日は一日、九州の瀬戸内沿いを旅してきました。

 

 多分中学校の授業で、日本史上に於ける、瀬戸内海が果たした役割を、受験用に、知識の断片として理解していた筈ですが、今回初めて、その役割の大きさを実感することができました。

 

 地中海沿岸に優れた文明が栄えたように、内海の波静かな瀬戸内海は、日本という国の発展に大きな影響を及ぼしていたことを、還暦を過ぎたこの歳になって、やっと気付くことができました。

 

 

 大分市では、大分県護国神社に梅園があるとの情報を元に、最初に護国神社を訪ねました。
 

 

 

 大分市観光協会のホームページには、境内に200本の梅が花を咲かせると記されます。

 

 護国神社を訪ねると、神楽用の舞台に「梅まつり」の横断幕が掲げられていました。

 

 ある程度の規模を期待して、境内に梅を探しましたが、広い境内に梅が分散しているのか、展望台附近に小規模な豊後梅が目に止まる程度でした。

 

 

 私は今まで、全国各地に数多くの梅園をみてきましたので、分散された200本程の梅を見ても、印象強くは見えないのです。

 

 しかし、この神社には1877年の西南の役で戦死した陸軍軍人214柱が眠る墓地がありました。

 


 
 大分県出身予科練戦没者慰霊の「鎮魂の碑」が設けられていました。

 

 碑文には、昭和12年9月、全国の中等学校から厳選された250名が、第一期生として、横須賀海軍航空隊に入隊した。

 ・・・ と記載されます。

 

 

 我が子の15~6頃の笑顔が突然脳裏に浮かびました。

 

 

 

 そんな子供達が戦争に巻き込まれていったのです。

 

 碑文の中の中等学校の字句が喉の奥を塞ぎ、あまりのことに言葉もありません。

 

 

 そして、「母の像」の建立の記には、「戦場に夫を送った、強くきびしく やさしかった母 おかげで 私がある お母さんありがとう この悲しみを再びくりかえすことのないように ・・・」という記述を認めました。

 

 

 

 全国で、中国で、朝鮮で、そしてアジアで、同じような思いをした人々が数多くいたのだと思います。

 

 そして今も、イラクやシリアで同じような思いをしている人々がいると思うと、胸が詰まるような気持ちになります。

 

 江戸時代末期、私財を投じて海の難所に灯台を建てた岩松助左衛門、知多半島に愛知用水を導いた篤農家の久野庄太郎など、知と情熱をもって、世に尽くした偉人を数多く輩出したこの国が、これからも知識を深め、広い視野で世界の人々の為に尽くすのであれば、二度と再び「母の像」を建てる必要のない世界がくるだろうと、願いにも似た思いを持って、護国神社を後にしました。

 

 

 大分県でもう一つ、予定リストの中に吉野梅園が残りましたが、今日は護国神社でとうとう時間切れとなってしまいました。

 

 

 夕陽に染まった雲の上、羨ましい程の意志の強さを示し、飛行機雲が聡明な直線を描いています。

 

 明日はどんな日になるのでしょうか。

 

 

 

 

 

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杵築を訪ねて

2015-03-13 22:48:32 | 九州の梅を訪ねて

 

 杵築(きつき)は国東(くにさき)半島の南端に位置しています。

 

 室町時代初期に木付氏によって城が築かれ、江戸時代には松平氏3万2千石の城下町として栄えました。

 

 今も中心部に、武家屋敷や商家など、江戸時代の街並みに紛れ込んだような景観が保存されています。

 

 

 今回の旅は九州に梅を見ることが目的ですが、梅の品種300を超えるとされ、それらは大きく3つの系に分けられ、その内の一つが豊後系と呼ばれています。

 

 豊後系は更に豊後性と杏性に分けられ、豊後性はアンズとの雑種と考えられています。

 

 昔、豊後とよばれた国は、今の大分県とほぼ重なります。

 

 また、大分県は豊後梅を県木としていますので、豊後梅は大分県が発祥と考えますが、はっきりしたことは不明なようです。

 

 しかし、杵築市のホームページには「杵築藩主が砂糖漬けにした梅の実を、将軍に献上し、採取用や観賞用として市内のあちこちに植えられています。」

 との記載がありますので、今回の旅のテーマの一環として、何としても見ておかねばなりません。

 

 

 杵築に着いて、最初に城を訪ねました。

 杵築城は八坂川の河口脇の台山の上にあります。


 

 

 南に八坂川が流れ、

 

 


 

 正面には守江湾が広がっていました。

 

 

 城の周囲は公園として整備され、市内各所で発見された石造物などが展示されていました。

 

 

 また、法政大学創立者顕彰碑なるものを目にしました。

 

 

 え!と思いました。

 

 慶應大学を創設した福沢諭吉の出身地が、国東半島の北に接する中津市であることは今回の旅で初めて知りましたが、法政大学も大分県人が創設していたことも全く認識していませんでした。

 

 

 ブログを書くに当って調べてみますと、法政大学の三人の創設者の内の二人、金丸鉄(かなまる・まがね)1852~1909と伊藤修(いとう・おさむ)1855~1920が杵築藩士の家に生まれているそうです。

 

 

 私は今まで、大分県といえば別府温泉と久住山に咲くミヤマキリシマしか知らなかったのですが、今回の旅で大分県に対する認識を改めました。

 

 豊後の国は学問好きな人が多いようです。

  

 更に、城山公園で次のような掲示物を目にしました。

 

 

 「 宮本武蔵 杵築(木付き)に

 

 慶長17年(1912年)宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘で、検分役を務めたのは杵築城代の松井興長であった。

 

 決闘が終わって小次郎の門人たちに命を狙われた武蔵は、門司城代の鉄砲組に護衛されて養父無二斉のいる豊後へ送り届けられた。

 

 松井興長は無二斉の門人であると記述されており、地元では武蔵が杵築に来たのではないかと言い伝えられている。」

   

 と記されていました。

 

 ほんとに、初めて知ることばかりです。

 

 

 杵築城を堪能した後で、武家屋敷を見に行きました。

  

 武家屋敷は商人町のある谷を南北から挟む台地の上にあります。

 

 私は北台へ登る酢屋の坂を上がって行きました。

 

 

 台地へ登ると、城の方角へ向けて、土壁の道が続き、

 

 

 その両側に家老屋敷であった大原邸、

 

 

 藩主の休憩所としての御用屋敷であった磯矢邸、

 

 

 藩校の門などが並んでいました。

 

 

 私は、桜に包み込まれた秋田県角館の武家屋敷のような光景を期待していたのですが、磯矢邸の庭の豊後梅が寂しげな姿を見せるばかりでした。

 

 

 

 豊後梅の季節には早すぎましたが、北台の武家屋敷から城の方角へと下る勘定場の坂の途中で、白壁から覗く白梅が微かな香りを漂わせていました。

 

 

 

 商人町を歩いていると、「伊能忠敬測量隊別宿跡」と記した石碑なども目にしました。
 

 

 

 

 期待した豊後梅の花に巡り会うことはできませんでしたが、杵築で旅心を存分に満喫するひと時を過ごすことができました。

 

 

 

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宇佐神宮 山頭火と八幡神社

2015-03-12 01:54:44 | 九州の梅を訪ねて

 

  網敷天満宮と椎田海岸を後に、国道10号線を大分方面に向かいました。

 

 次に目指す目的地は杵築の武家屋敷です。

 

 大分県は昔、豊後の国と呼ばれていました。その豊後の国で開発された梅の品種が「豊後梅」です。

 

 「豊後梅」は美しい大輪の花を咲かせますので、杵築の武家屋敷の庭先には、必ず豊後梅が植えられているそうです。

 

 私は秋田県角館市の武家屋敷に枝垂れ桜が咲く光景を想い出し、杵築の武家屋敷も何とか見てみたいと思ったのです。

  

  国道10号線を大分方面へはしり続けました。

 

 

 

 大分県に入って程無くすると、国道沿いに「国宝宇佐神宮」の看板が目に入りました。

 

 宇佐神宮なんて初めて聞きますが、国道から脇道へ入って鳥居の横へ車を進めますと、窓に張られたポスターに「全国八幡宮本宮 国宝 宇佐神社」の文字が見えます。

 

 

 

 え、あの鎌倉の鶴岡八幡宮などの八幡宮の本宮なの? 

 

 興味をそそられたので寄り道をすることにしました。

 

  

 駐車場横の案内図を確認すると、今いる場所は西参道のようです。

 

 

 

 屋根のついた橋が見えますが、呉橋と呼ばれる大分県指定の文化財で、鎌倉時代以前からあるとされ、呉の国の人が掛けたという伝承があるそうです。

 

 

 

 案内図に種田山頭火の記載を目にしたので、見ていくことにしました。

 

 

 

 山頭火と聞くと、今ではラーメン屋かと思う人もいるようなので、蛇足ですが、

 

 

 俳人種田山頭火は1882年に山口県防府の大地主の家に生まれました。

 

 早稲田大学に入学しますが、神経症の為に中退し、山口に戻りますが、父が始めた酒造業が失敗して九州へ逃れます。

 

 九州で離婚し、出家した三頭山は乞食坊主となり、熊本から西日本各地を巡りながら俳句を作り続けました。

 

 1940年に57歳の生涯を閉じるまでに8万4千句という膨大な数の作品を残しました。

 

 山頭火の句碑は全国に500以上はあると言われ、“昭和の芭蕉”とも称されます。

 

 

 山頭火は昭和4年と13年に宇佐神宮を訪ね、そのときの日記が石碑に刻まれていました。

  

 山頭火の石碑を見た後、参道を本殿へと向かいました。

 

 

 

 西大門 (さいだいもん)は1592年頃の建造とされ、安土桃山時代の様式だそうです。

 

 

 本殿のある上宮には大きな楠が枝を広げていました。

 

 

 

 私は正月に浅草寺へ行って仏教徒の作法で初詣し、受験の時は湯島天神に信徒の作法で願をかけ、クリスマスにはキリスト教徒みたいな顔でケーキを食べてきましたが、正直、八幡神社が何なのかを全く知りませんでした。

 

  今回宇佐神宮を訪ね、改めて八幡様ってなんだろう? と興味を持ち、調べてみることにしました。

 

 八幡神社は福岡県飯塚市の大分八幡宮が起源とされ、そこから宇佐神宮や筥崎宮が分霊されたようです。

 

 八幡神は誉田別命(ほんだわけのこと)をお祀りする神社で、誉田別命は応神天皇とされるようです。

 

 しかしなぜ、応神天皇が八幡信仰の神様になったのか、総本宮が宇佐神宮なのかは謎が多いそうです。

 

 しかし、応神天皇の死後300年ほど経た奈良時代、国家の重要案件を決める際には奈良から宇佐に使いを派遣して、八幡様に伺いを立てるようになっていたそうです。

 

 更には、平安時代の初めに、桓武天皇らが政治利用のために「八幡神=応神天皇」と説明したとする説が有力だそうです。

 

 記録が少なく、謎解きは難しいようですが、八幡神は中世以降、源氏の守護神・氏神として信仰されたので、鎌倉時代に鶴岡八幡宮が建立されて以降、武士達が武運の神として自分達の領内に分霊を祀り、全国に広まっていったようです。

 

 平和な時代を迎えた現在の日本も、以前は戦に明け暮れ、神に明日の無事を祈りたくなるような時代が長く続いていたようです。

  

 

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貴重なもの、嬉しかったこと

2015-03-11 02:27:40 | 九州の梅を訪ねて

 

 福岡県の香春町から国道201号を東にはしり、みやこ町豊津の豊津梅林を目指しました。

 

 事前に調べていた住所は「福岡県みやこ町豊津大字二月谷」でした。

 

 しかし、ナビに住所を入力すると、「みやこ町豊津」から先は番地を指定する画面が現れ、二月谷は通称としての地名らしいことが分かりました。

 

 しかたないので、豊津主要部をナビに入力し車をはしらせてきました。

 

 ナビが「目的地へ到着しました」とアナウンスしたのは、みやこ町役場支所の前でした。

 

 平日の昼前なので、周囲に人影はありません。

 

 支所の中に男性が一人、机に座る認めたので窓口まで行って、「すいません、東京から来て、九州の梅園を廻っていますが、豊津梅園の場所を教えて頂けないでしょうか」とお願いしてみました。

 

 支所の方は「豊津梅園は廃園になっているんじゃなかったかな?」と言いつつ、親切にネットで地図を検索し、それをプリントして、行程をマーカーで塗り示してくれました。

 


 

 教えて頂いた通りに車をはしらせ、豊津梅園に着くと、支所の方のお話の通り、梅園の梅の木は朽ち果て、周囲に竹藪が茂り、荒れ果てた姿を見せていました。

 

 このような光景を目の当たりにすると、梅が数多くの人手を介して花を咲かせていたかが分かります。

 

花を楽しめる状況は、平和な時代であればこそ、花を育てる平穏な生活があってこそとの思いを深めました。

 

 わざわざ廃園に足を運ぶのは初めてなので、めったに見れない貴重な光景を目にすることができました。

 

 

 支所の方から、豊津には豊前国分寺があって、そこにも梅の花が咲くはずと教えてもらったので、豊津梅園の次に、国分寺へ向かいました。

 

 豊前国分寺は、三重塔が福岡県の重要文化財に指定されています。

 

    

 

 石盤の解説に、

 

 「豊前国分寺は、奈良時代の天平13年(741)聖武天皇の勅願により建設された国立の寺院の一つである。

 戦国時代に焼失し、明治28年に塔が再建されたが、昭和27年に落雷を受けて大破後、昭和62年に、全町民や企業の寄付を得て、明治建立時の忠実な再現に留意して修復工事を完了した」と記されていました。

 

 そして、「この三重塔には、奈良時代豊津の地に国府・国分寺が設置され、この地が国府政治・文化の中心であった往古を象徴する建造物である」と結ばれていました。

石盤の記載の末尾に 昭和62年5月 豊津町 とあります。

 

 現在はみやこ町ですが、2006年3月に京都郡の犀川町・勝山町・豊津町が合併してみやこ町となったようです。

 

 京都郡と書いて、みやこ郡と読むと、これも支所の方に教えて頂きました。

 

 この地の歴史的な背景がしのばれます。

 


 みやこ町を出発し、築上町の網敷天満宮を目指しました。

 

網敷天満宮はナビに任せて、難なく到達することができました。

 

 

 程なく、この辺りの地名を冠した梅祭りが始まるようです。

 


 

 境内に参拝者の姿は殆ど見えませんが、鳥居の横で梅ヶ枝餅の屋台が、にぎにぎしい装いで手持無沙汰を見せていました。

 


 

 ここも花のタイミングには早すぎましたが、手入れが行き届いた梅の木の見事な姿が、最盛期の賑わいを想像させます。

 

 

 境内の稲荷に向かう、鳥居の重なりが見事でした。

 


 

赤い鳥居の横で白梅が数輪、遠慮がちに花をほころばせていました。

 

 梅の香漂う季節に白梅が赤い鳥居を囲めば、境内は華やかな風情に包まれるはずです。

 

 

 

 境内には寛永14年(1638)に植栽したと推定する、樹齢370有余年の大蘇鉄が枝を広げていました。

 

 これだけ大きな蘇鉄が育つのですから、雪に降られても、九州はやっぱり温暖なのだと思います。

 

 昔は、関東周辺で蘇鉄が育つのは伊豆大島ぐらいですから、この辺も同程度の気候と考えて良いのでしょうか。

 

 蘇鉄の木を見ると、昭和生まれの私の脳裏に、田端義夫の「島育ち」、赤い蘇鉄の~♪ 実も熟れる頃~♪ と云うメロディーが浮かんできました。

 

 ん~ 何故なんでしょうか、このメロディー ひょんな時に突然、左右の耳の間に流れるんですよね。 皆さんもそんな経験ございませんか。

 

 

 そして嬉しかったことは、網敷天満宮の境内の先に広がる周防灘の静かな広い海。

 

 午前中まで、雪景色だったのが嘘かとも思える暖かな陽射しの海岸に立つと、「気になるあれやこれやなんて、もうどうでも良いわい」と云った気分になります。

 

 いや~ホント、私は極めて安上がりな人なのかもしれません。

 

 

  

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香春町 神宮院

2015-03-10 00:43:42 | 九州の梅を訪ねて

 

 香春町の神宮院は、国道322号から二ノ岳方面へ向かう坂の途中にあります。

 

 神宮院のすぐ下には、最澄が建立した神宮院六坊の一つ、高座石寺(こうぞうじ)があり、香春町の梅の名所として 神宮院と高座石寺が併記されることが多いようです。

 

 神宮院入口の駐車場に車を置いて歩いて行くと、目の前に大きな銀杏の木が見えてきました。

 


 
 この木は推定樹齢800年、樹高40mの大銀杏で福岡県の天然記念物に指定されています。

 

 また、境内には「石割枇杷」があり、この枇杷も県の天然記念物に指定されています。

 

 


 道路脇の陽当たりの良い場所で、一本の白梅が雪をまとった若草の上で、明るい花を輝かせていました。

 


 
 雪が残る山寺の屋根の脇から枝を伸ばした、紅梅に僅かな花を見つけました。

 

 

 しかし残念なことに、梅林に花姿を見出すことはできませんでした。

 

 


 神宮院を辞して、今度は国道201号をみやこ町へと向かいます。

 

 

 国道201号をはしり始めるとすぐに、「鏡山神社」「河内王陵」「鏡ヶ池」としるした表示が目に入ってきました。

 

 

 急ぐ旅でもないので、国道を左折して、鳥居の先へ車を進めてみました。

 

 


 「梓弓引き豊国の鏡山 見ず久ならばこほしけむかも」 と刻まれた万葉歌碑の横には、


 「毎日見ている豊国の鏡山も久しく見ないでいたら恋しくなることであろう」との解説が添えられていました。

 

  


 「河内王陵」の河内王は天武天皇の皇子で、持統三年(689)に大宰帥(大宰府の長官)として赴任し、この地で没したと言われています。

 

 鏡山神社の左手の細い道の先の、二ノ岳を背にした河内王陵は「勾金(まがりかね)陵墓参考地」として宮内庁の管理下にあるそうです。

 


 

 大宰府は、当時の大国である中国や朝鮮への玄関口となる北九州にあって、外交や軍事面でも重要な意味を持っていた筈です。

 


 そしてこの辺りは、大宰府と都を結ぶ重要な交通の要衝だったはずです。

 

 ちょっとした寄り道でしたが、千数百年前の飛鳥人の息吹を身近に感じるような、ロマン溢れる一時を過ごすことができました。

 

 鳥居の辺りから北の方角を望むと、雪を被った尾根の連なりが見えていました。

 

 その先に、周防灘から瀬戸内海へ、そして都へと通じるルートが伸びて行ったのだと思います。

 

 

  

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総合農事センター 白洲梅園

2015-03-09 19:04:04 | 九州の梅を訪ねて

 

 2月6日

 

 車の中で目を覚ますと、周囲の景色を白い雪が包んでいました。

 

 幸いなことに車道に雪はありませんが、前もってナビへ入力した小倉南区の三岳梅林と八幡西区の白木谷梅林へ通じる国道61号線はチェーン規制が掛かっていることが分かりました。

 

 九州北部のリストした全ての梅園を訪ねながら、時計周りに南下しようと考えていたのですが、早くも予定を変更せざるを得ません。

 

 ナビへ、入力可能な5ヶ所の目的地をインプットし、走行可能な最適ルートを検索し直しました。

 

 得られた結論は、最初に小倉南区の総合農事センターを訪ね、その後国道322号を南下して香春町へ、更にみやこ町を経て大分方面へ向かうというコースです。

 

 

 一夜を過ごした運動公園の駐車場を出て、総合農事センターへと走り出しました。

 

 途中で、目の前に見える山は、全体が雪のベールで包まれていました。


 地図で確認すると、どうやら右が足立山(597m)で左が妙見山(519m)のようです。
 

 

 農事センターの開門を待ち、一番奥にある梅園へと向かいました。

 

 私には、九州の平地に雪が降るなどという認識は全くありません。

 

 二月に入り、東京では早咲きの梅が咲き始めていたので、九州は一足早く梅の季節を迎えているだろうと考えたのですが、大きな誤算でした。

 

 農事センターの梅園では1~2本の木の枝にやっと花が咲き出したばかり。

 梅の香を楽しむ状況とは程遠いものでした。

 

 

 

 この農事センターの白洲梅園は、北九州市制十周年を記念して創作された演劇「その灯いのちと永遠に」が公演されるに当って寄せられた、市民の協賛金で建設されたそうです。

 

 その劇の内容は、江戸時代末期に小倉の長浜で生まれた岩松助左衛門が、私財を投げ打ち、幾多の困難を乗り越えて、人々の為に、ただそれだけの為に、玄界灘の海の難所の白洲に灯台を建てたことがテーマだそうです。

 

 上のような内容を説明する掲示板には5186㎡、16品種、155本のデータと共に、昭和48年12月22日の日付が付されていました。

 

 

 メタセコイアと欅の並木が続く、農事センターのアプローチを駐車場に戻りながら、また一つ知った感動的な逸話に、胸温められるような思いに浸っていました。

 

 

 

 小一時間ほどの滞在の後、小倉の総合農事センターを出発しました。

 

 梅園が作られた経緯に胸が温まりましたが、車窓には、九州とは思えない寒々しい光景が広がっていました。
 

 

 

 国道322号線を南下して香春(かわら)町に向かいましたが、途中の金辺峠辺りの状況は下の写真のようなひやひやものでした。

 

 

 

 それでも何とか無事に峠の頂きに辿り着くと、トンネルの先が香春町で、目的地の神宮院まで6キロ程の距離のようです。

 

 

 

 

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梅の名勝 小石 仙凡荘跡

2015-03-08 11:41:27 | 九州の梅を訪ねて

 

 

 門司市街から小倉を抜けて、北九州市の懐深く入り込んだ、若松港を跨ぎかかる若戸大橋を渡りました。

 

 


 目的地は若松区小石にある仙凡荘です。

 

 ナビ任せに来たのですが、ナビが「目的地に到着しました」とアナウンスしたのは、藪山に囲まれた、車一台分ほどの道幅の林道上でした。

 

 道の横に小さな貯水池があります。

 

 しかし、周囲を見回しても梅園らしきものは見当たりません。

 

 
 多分いつものように、町名が変わったか、地が広い範囲に及ぶだろうと予想しました。

 

 丁度そこへ、軽トラックが坂を下って来たので、路肩に車を寄せてやり過ごす際に窓を開け、「すいません、ちょっとお尋ねします。仙凡荘はこの辺でしょうか?」と聞いてみました。

 


 「ああ、仙凡荘ならこの丘の反対側だよ。真直ぐ登って行って、隣の谷へ下って行けば見えてくるよ」と親切に教えてくれました。

 

 旅先では、道に迷ったら地元の人に尋ねるのが一番の近道です。

 

 
 教えられた通りに、藪山の道を5~6分もはしると、仙凡荘の看板が見えてきました。

 

 

 

 そして、「梅の名勝 小石 仙凡荘跡」 と題した掲示板を目にしました。

 

 

 そこには、「仙凡荘 小石字河内にある仙境で、苔むした岩の小渓谷を挟む一帯三万坪の地に、紅白の梅40余種数百本をはじめ、桃桜つつじなど多種の花木を植え四季花影の絶えることがない。

 ・・・ (仙凡荘は此口貞雄(あささだお)夫妻が余生を楽しむため独力で庭作りに専念したもので、近年一般市民のために解放された。)

 若松市史第二集 昭和34年4月31日発行 と記載されていました。


 

 看板の反対側の丘には、多くの花木が植栽されていたので、車を置いて散策してみることにしました。

 


 

 丘へ登る途中で、ちらほらと咲き始めた梅を目にしました。

 

 

 


 30メートル程も坂を登ると、花梅を集めた梅園がありましたが、花の時期にはまだ早すぎました。

 

 

 また、梅園の一隅では

 

 祝 政調会長 夫婦梅 麻生太郎 千賀子 

 

 と記された白杭が、枯葉の中で風雪に耐えていました。

 

 


 この杭が打たれたのは、いったい何時頃のことだったのでしょうか。

 

 さっき掲示板に記載されていた昭和34年といえば、筆者はまだ小学生でした。

 

 伊勢湾台風で多くの人々が犠牲になり、故郷を逃れた被災者の方々が、横浜の我が家の近くの空き地に、トタン屋根の小屋を建てて住み始めたことを記憶しています。

 

 皇太子様と美智子様がご結婚されたのもこの年でした。

  

 敷地の片隅では「新幹線関門トンネル貫通式 記念石の一部」が掲示版とともに苔むしていました。

 

 


 この看板には昭和50年4月1日とありますから、今から40年前のことです。

 

 日本はオイルショック後の景気低迷の中、ベトナム戦争が終わり、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」などが流行った年でした。

 

 来年の3月には北海道新幹線が函館まで開通する予定ですが、今から40年後には、誰がどんな風に今を振り返るでしょうか。 

 

 咲きほころび始めたばかりの梅園で、過ぎ去った年月への感慨に耽っていると、突然空から白いものがぱらぱらと落ちてきました。

 


 霙です。

 

 既に辺りは薄暗くなり初めていました。

 

 

 私は慌てて車へ戻ると、明日の目的地である、北九州市小倉南区の総合農事センター目指し、車をはしらせました。

 

 

 北九州市内を運転しているとき、私は交差点に並んだ隣の車を見て「オオッ!」と声を上げそうになりました。

 

 隣の車のボンネットに薄っすらと雪が積もっていたのです。

 

 

 私は、北九州がこんな寒い土地だとは想像だにしていなかったのです。

 

 

 

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門司港レトロ

2015-03-07 14:16:13 | 九州の梅を訪ねて

 

 和布刈公園を下り、門司市内へと車をはしらせました。

 


 

 門司港の周囲は「門司港レトロ」と称し、大正時代風の景観に整備された街が広がっていました。

 

 

 旧門司税関は明治45年に建てられた煉瓦造りの建物で、昭和初期まで税関庁舎として使われていたそうです。

 


 国際友好記念図書館は、明治35年にロシア帝国が大連市に建築した東清鉄道汽船事務所を複製したもので、門司港と大連が国際航路で結ばれていた縁で、昭和54年に友好都市締結15周年を記念して建てられたのだそうです。

 


 旧門司三井倶楽部は大正10年に三井物産の社交、宿泊施設として建築されたもので、アインシュタイン夫妻が宿泊したこともあるそうです。
 

 

 JR門司港駅は、明治24年に建設された門司駅が、大正3年に200メートル移動し、現在の場所に建て替えられたそうです。

 

 ドイツ人技師ヘルマン・ルムシュッテルによって建てられた、ネオ・ルネッサンス調の木造建築で、駅舎としては初めて国の重要文化財に指定されましたが、残念ながら、平成30年までの保存修理工事中でした。

 


 しかし、門司港駅そのものは普通に営業されていました。


 下の写真をご覧頂くとお分かりのように、門司港駅も終着駅です。

 

 終着駅は、青森も函館も上野も、どの駅も独特の哀愁を感じさせます。


 何故なのでしょうか?


 終着駅に立つと、その先はもう何もないと云う、未練を断ち切られるような、切羽詰まった想いに、人は無意識に染まるからかもしれません。


 そう言えば、岬の先端に立ったときの想いにも似ています。

 
 昔フォーク歌手が、「恋に破れ、バスに揺られ、一人で襟裳岬を巡る」と歌いましたが、岬を巡る恋に、その先はないだろと納得させられたものです。


 「恋に破れ、山手線を巡る」では、「勝手にやってろ」と言われそうですから。
 

 

 

 

 港の第一船溜の門司港ホテル横に係留された、外輪船のワーペン・ファン・ホールン号は船上レストランとなっていて、門司のB級グルメである焼カレーの看板を掲げていました。


 ちょっと、気にかかったのですが、ここで腰を据えてしまうと、本当に何をしに来たのか分からなくなってしまうので、この辺で門司港レトロ地区の観光を切り上げて、梅の咲く場所へ向かうことにしました。

 

 

 

 

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関門海峡を渡って

2015-03-05 18:15:39 | 九州の梅を訪ねて

 

 

 壇ノ浦SAを出て、関門橋を渡り、すぐ先の門司港インターで高速道路を降りました。

 

 今回の旅の主目的は九州で梅や椿を訪ね歩くことです。

 

 あれれ? 同窓会が何時の間にか、すっかり影が薄くなっています。

 

 そうなんです。

 

 この時以降、私はしばし同窓会のことを忘れ、本末転倒のまま九州の旅を続けることになりました。


 車の一人旅は、その時々のことに神経が集中して、他のことは考えなくなります。


 そのような、非日常の時の流れに身を置くことで、リフレッシュしているのかもしれません。

 

 九州で最初に訪ねた場所は、梅も椿も関係ない和布刈公園(めかりこうえん)でした。

 

 この公園は九州の最北端に位置し、関門海峡を見渡す絶好の展望スポットなのです。

 

 山頂の公園へ向かう途中で、関門橋の下から関門海峡を眺めました。

 

 ここで私は本州と九州を隔てる海峡の狭さを改めて認識することになりました。

 

 関門海峡は海と云うより、川として捉える方が正しいとさえ思えます。

 

 

 和布刈公園に登る途中で、有田焼の陶板を使って描かれた壇ノ浦の戦いの壁画を目にして、ああそうだった、関門海峡は壇ノ浦と接していたんだと、まー今更ながらのお粗末な驚きを感じたりもしました。

 

 

 山に登る途中から、眼下に門司の町並みが見下ろせました。

 

 箱庭のような趣で、小規模な港や高層ビルが旅人の好奇心をそそります。

 


 

 同じ位置で北へ目を向けると、関門橋が本州と九州の間に、大動脈のように高速道路を繋いでいます

 

 夜の山頂から見ると、ライトアップされた関門橋が目を奪うそうです。

 

 

 和布刈公園の山頂には門司城跡のレリーフが建てられていました。

 

 

 その横の石板に刻んだ解説には、

 

 「門司城(門司関山城、亀城)は最初平知盛が源氏との合戦にそなえ、紀井通資に築城させたと言い伝えられる。

 1244年に下総の親房が平家残党鎮圧を命ぜられて豊前国代官職に任ぜられ、その子孫が門司氏を称し門司城を本城に領内を治め、門司氏はその後350年にわたって北九州の地に続いた。

 室町時代の大友・毛利の門司城の合戦は壮絶を極めた。

 その後門司城は細川忠興の豊前入国後の1615年、江戸幕府が制定した一国一城の令により廃城となった」と記されていました。

 

 

 また、山頂に宮柊二の歌碑が建てられ

 

 「波の間に降り込む雪の色呑みて玄海の灘今宵荒れたり」

 

 「まどろめば胸どに熱く迫り来て面影二つ父母よさらば」

 
 の二首が刻まれていました。

 

 

 宮柊二は1912(大正元)年、新潟県魚沼市に生を受けました。

 1935(昭和10)年に北原白秋の秘書となり、その後召集されて中国大陸に出征します。

 1946(昭和21)年の処女歌集『群鶏』をはじめとして、生涯で13冊の歌集を刊行しています。

 1977(昭和52)年には日本芸術院賞を受賞し、1986(昭和61)年、74歳でその生涯を終えたのだそうです。

 

 私は40代の頃に6年間、新潟での勤務を命じられて新潟市内で暮らしましたが、宮柊二という歌人を全く知りませんでした。

 

 新潟魚沼市には宮柊二記念館があるそうです。

 

 いつか「花の旅」で新潟に行くことがあれば、宮柊二記念館を訪ねてみたいと思います。


 

 そして今回の旅で、玄界灘や東シナ海を挟んでアジアと接する九州には、数多くの戦に関わる歴史が刻まれていることを知りました。

 

 また、そのような歴史の中で、知を貴ぶ文化が育まれていたことを知りました。

 

 梅の花を追う旅を続けながら、梅を愛し、学問の神様となった菅原道真を祀る社が全国に数多く建立されているのは、この国の人々が1000年以上も昔から、知識の貴さを認識していた証だろうの感慨を持ちました。 

 


 そうそう、も一つ。


 宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘したとされる巌流島は関門海峡にあったのですね。

 

 これも今更ながら、この場所に来て始めて認識したことでした。

 

 

 

 

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1000キロの道を

2015-03-04 22:28:02 | 九州の梅を訪ねて

 

 2015年2月5日


 大阪モノレール万博記念公園駅前を通過し、名神高速から中国道に入ったのは午前3時を過ぎた頃でした。

 

 

 天気予報で、明日の大阪地方の早朝に雪の予報があったので、今夜中に何としても大阪市内を抜けたかったのです。

 

 中国道に入り、20分程で西宮名塩サービスエリアに車を駐めました。


 

 

 車の後部座席を倒し、空いたスペースにマットレスを敷いて寝袋を広げ、更に毛布を三枚重ねました。


 寝袋に下半身を入れ、紙コップの白ワインを飲み干しました。

 その後、寝袋に潜り込むと、深い眠りの底へと沈んでいきました。

 

 早朝午前7時を僅かに過ぎて、薄明るくなった外の気配に目を覚ましました。

 

 短い睡眠時間でしたが、熟睡したのか、目を覚ましてからは眠気を感じるとはなく、昨晩買った菓子パンとリンゴジュースで朝食を済ませ、中国道へと車を乗り入れました。

 

 午前7時30分頃、神戸ジャンクションから雪の心配のない山陽道へとルートを定めます。

 

 冬の夜明けは遅く、厚い雲が空を覆いますが、交通量の少ない山陽道を快適に距離を稼ぎました。
 

 

 10時過ぎに岡山と広島の県境を通過しました。

 

 カーオーディオに流れる軽音楽に耳を傾けつつ、西に浮かぶ白い雲の彼方へと滑り込んで行きます。

 


 

 午前11時半を待たず、山口県の周防市辺りを走り抜けました。

 

 

 そして、山口ジャンクションから再び中国道に入り、小さな峠に差し掛かると突然、フロントガラスに霙が当たり始めたのです。

 

 

 アメリカ横断ドライブでロッキーを越えたとき、雪に囲まれたことを想い出し、一瞬ひやっとしましたが、中国道が下り坂に差し掛かるころには霙も止んで、前方には下関の竜王山(613.9m)らしき姿も見えてきました。

 

 

 12時を少し回った頃、車は昨夜の21時過ぎに東京ICを出発してから約15時間、私は1000キロの道を無事に走りぬけ、安堵の気持ちと共に、壇ノ浦SAから6年ぶりの関門橋を見上げていました。

 

 

 

 

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同窓会をやろうよ、 そして・・・

2015-03-03 21:22:57 | 九州の梅を訪ねて

 

 2014年11月下旬、同じ大学で机を並べた沢井君から、次のような丁寧なメールが届きました。

 

 「ご無沙汰しております、沢井です。先日北九州の福山君から大腸癌にかかったとの連絡を受けました。博多の山下君から、東京で同窓会が開けないか?との提案がありました。貴君に幹事をお願いできないかと思いメールを差し上げます。御尽力を頂ければ、幸甚です。」

 

 その場で直ぐに、了解のメールを返信しましたが、同窓会を東京で開くことには懸念が残りました。

 

 そこで、福山君に直接電話を掛けてみると、福山君は元気な声で、今は二週間に一度、福岡の病院で放射線治療を行い、血液検査の状況次第では一週間後に治療がずれ込むことがあるとの現況を説明くれました。

 

 福山君の話を踏まえ、数人の同窓生と相談した結果、幹事を博多の山下君にお願いし、2月14日に急遽、福岡で同窓会を開くことにしました。

 

 全国の同窓生に案内状を発送し終えたのがクリスマス直前のことでした。

 

 年が明け、私もそろそろ飛行機や宿の手配をと考え始めた頃、近所の公園に早咲きのウメがほころび始めていました。

 

 そうか、同窓会の頃には大宰府天満宮に飛び梅が咲くじゃないか!

 

 沈んだ気持ちの同窓会にしたくはありません。

 

 ならばついでに九州を車で巡って、梅の名所を訪ねてみようかとのアイデアが閃いたのです。

 

 私は以前から、全国の花の名所をリストしたホームページを作り、数年前から梅や椿などの名所を訪ね歩いています

 

 今回はそれらのリストに加えて、この時期に、九州の何処に梅や椿の花が咲くかを再調査してみると、合計で90ヶ所程度が候補として挙がってきました。

 

 今までの経験から考えて、どんなに効率良く廻ったとしても、一日に7、8ヶ所を訪ねるのが限界です。

 

 90ヶ所ということは、東京と九州を車で往復する日程の他に、二週間程の日数が必要になります。

 

 ものはついで、と云うことではありますが、予想外の大旅行になりそうです。

  

 

 

2015年2月4日

 

 朝から、小石川植物園に出かけ、梅や椿の開花状況などを観察して、午後4時頃に帰宅しました。

 

 何気なくテレビの天気予報を見ていると、解説者が、明日の5日は早朝からの雪が予測されると伝えていました。

 

 雪は関西方面から降り始め、東京でも10cm以上の積雪があるかもしれないと、衛星画像を示しながら解説していました。

 

  関西方面から降り始め、もし東京に雪が積もったら、東名高速は2、3日チェーン規制が掛かるかもしれません。

 

 2月14日の福岡での同窓会までに、九州南部を訪ねておこうと考えていたのですが、ぐずぐずしていると、九州南部から一旦福岡へ戻るような非効率なスケジュールを強いられる可能性があります。

 

 

 私はすぐに旅の支度を整えると、調査していた訪問予定先の資料などをプリントアップし、東名高速東京IC目指し、慌ただしく夜の環七へと紛れ込んでいったのでした。

 

 

 

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