絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

バスケットの思い出16

2009-12-03 | 思い出
そろそろ、クライマックスに差し掛かりました。

東高校招待バスケです。

実は、春の県大会予選での本庄西が児玉を破ったことは、もちろん他のチームが知っていましたが、その勝ち方も各チームの監督は知っていました。さすが本庄西だねと言われました。児玉に勝つ方法があったんだと。

それで、この東高校の大会から他のチームが本庄西と同じことをやり始めたのです。打たれだしたら誰もが打てる大リーグボールではないですが、弱点を見つけられたら、みんながそこを突いてくるという形になりました。
しかし、その戦法は他のチームではだめでした。私もそんなに下手ではありません。他のチームでは、私を抑えようとしても、私が楽々振り切って、シュートを決めてしまいます。やはり、その戦法を編み出した本庄西はただあみだしただけでなく、プレーのレベルが高いのです。もしかすると、H君はディフェンスの一番うまい選手だったのかもしれません。

ただ、思ったのは、弱いチームなら、仮に私が出なくても勝てますが、問題は上里でした。上里が本庄西とおなじことをやったら、どうなるかは、ちょっと気になりました。そして、思った通りやってきました。私たちは、実はその対策を持っていました。秘策に対する秘策を用意しているのです。しかし、それを使う訳にはいきません。もし負けそうになったら使うかもしれませんが、そうでない限り使わないと決めていました。

監督とコーチから、それは使うなと言われていました。だから、我々は、何も対策のないまま戦うしかないのだと相手に思わせなくてはなりません。そのため、まず上里がポイントでした。

しかし、上里は私が想像するほどは、強くありませんでした。夏までに伸びてこなかったのです。我々が練習試合で大原に勝ったことは、それなりに力が伸びていた証拠ですが、その分上里とは差がついていたのですね。

どうしてだか、分かりませんが、春の大会以来、上里は常に準決勝で児玉と当たるようになっていました。そして、そのたびに、差が開いていきました。

決勝は、予定通り児玉対本庄西でした。

この大会は、面白いことに、予選は外コートで行ない、決勝だけ体育館でした。
女子は早々と児玉が優勝していました。児玉の女子は、負けることはなく、常にこの児玉郡本庄市の大会では優勝していました。

そして、男子の決勝です。

我々は、大変な秘策を持っていましたが、この大会では見せるなと指示が出されていました。そして、極端に言えば、この試合は負けろとまで言われていました。
負けろがオーバーなら、勝ってもいいが、勝たなくてもいい。というのです。
とにかく、秘密兵器は封印しろという命令でした。だから、日頃練習していた方法は全く見せませんでした。

すると、この試合は本庄西が次の作戦を披露しました。それは、なんとこちらが得意なマンツーマンディフェンスで来たのです。私は驚きました。ということは、ボックスワンではないのです。マンツーマンなら、攻め方が違います。それで、我々は、全員が大きくコートの端まで広がって、コートの中央を空けました。マンツーマンということは、一人に一人づつ付くのです。オフェンスのいるところにぴったり一人づつです。ということは、オフェンスが広がれば、必然的にディフェンスも広がるので、コートの中央が空くことになるのです。

そして私は、その空いたコートの中央でボールをもらいました。そうなれば、他の選手が広がっているため、コートの中で、単なる1対1の勝負ができるのです。
私は、ボールをフリースローサークルの辺りでもらうと、そのままランニングシュートの要領で、シュートに行きました。少しだけフェイントをかけましたが、ほとんどそのままの勢いで、行ったのです。そうしたらやや危ないシュートでしたが、入りました。

そのプレーは、誰も決めた訳ではないのに、上手く行きました。誰かが中央に走りこんでしまえば、私の邪魔になってできないプレーなのですが、よくみんなが示し合わせたように、広がって、私に1対1の形を作ってくれたものだと思います。
こんなのは、誰からも教えてもらっていませんでした。

その後、同じことをやられてはいけないと、本庄西が少し、コートの中央ぎみに引いて守ったので、できなくなり、その後、しばらく、2対0のまま時間が過ぎました。どちらも点が入らないのです。本庄西もマンツーマンディフェンスのために疲れて、オフェンスでもうまくいきません。おかしな試合ですが、本当に点が入らない状態が長く続きました。

そのため、これではいけないと本庄西がゾーンディフェンスに戻しました。
それで、試合が動き始めました。こちらも点を取りましたが、相手も取りだしました。確か前半は児玉が勝っていたように思います。

その後です。私はバスケットを始めて初体験の痙攣をしてしまったのです。左太ももの痙攣です。これは、大変なことになったと思いました。まるで、ふくらはぎの筋が切れたのではないかと思いました。そのくらい筋肉がひきつっているのです。
その後、このひきつった状態は治らなくなりました。それで、その試合は私が最後まで、出られず、結局負けてしまいました。

この負けは、私が痙攣をしなければ、どうなっていたかは分かりません。
勝ってもおかしくない試合でした。でも先生もコーチもこれで良いと思っていたようです。

そして、県大会予選を迎えました。

つづく

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バスケットの思い出15

2009-12-03 | 思い出
3年生の夏の大会は、3つあります。

一つは、夏の県北大会、そして本庄東高校の招待バスケットボール大会、最後は県大会予選でした。

本庄西との宿命の対決は、後の二つです。

前の二つは、どっちが先だったか、忘れてしまいました。とにかく県大会の予選が最後だったのは、確かです。

まず、県北大会の状況を簡単にお話しします。実は、これもとんでもないことなのですが、我々の対戦相手は、一回戦が熊谷大原に決まりました。みなさんおかしいですよね。新人戦の時に、準決勝で当たった相手ですよ。本来ならどちらもシードされていいはずなんです。それが、一回戦でなぜ当たるのでしょうか。こんな抽選があるでしょうか。私は、文句を言いたくなりました。

しかし、少し前にお話しましたが、我々は、この大原中学と練習試合をして、勝ってしまいました。児玉中学が体育館ができて、そこへ、大原中学が来てくれたのです。その時の驚きは、少しお話しましたが、あれほど差のあった大原中学になぜ勝てたのか今でも不思議です。後で聞くと、その練習試合には、キャプテンが来ていなかったような話でした。そんなことは生徒の我々は知りません。前回は、誰がキャプテンかなどは関係なく、とにかく目茶目茶にされたのですから。誰かが一人くらい欠けたところで、何も変わらないくらいの大差でした。

だから事情はどうあれ、練習でこんなにも力が追いつくことがあるという体験をしました。そうしたら、この組み合わせです。先生たちも驚いたでしょうね。
もう、公式試合では戦うこともないだろうと思いつつ組んだ練習試合だったはずです。しかし、練習試合というのは、ある目的を持ってするので、全力の戦いではない場合があります。この戦法を試してみようとか、この選手を使えるようにしようとか、そういう目的を持ってするので、それが今のそのチームのベストの力とは限らないのです。それと、大原の方も、前回の記憶があるので、まさか負けるとは思わなかったでしょう。そんな油断もなかったとは言えません。

結局、この県北大会では、我々は大原恐れるに足らずという気持ちになっていました。

本番が始まりました。
やはり、我々は、常にリードして進みました。ただ、違っていたのは、やはり本番です。相手も本気でした。だから、練習試合のときのように楽に勝たせてくれません。それと、今度はキャプテンがいるのです。だから、途中まで結構いい勝負をしました。しかし、一度勝ったということは気持ちの上で大きいですね。負ける気がしないのです。あの大原に勝ったんだということが大きな自信になっていました。

それで、とうとう勝ってしまいました。

これを見て、驚いたのは本庄西です。「おい、児玉が大原に勝っちゃったぞ!」という驚きの声が、私の耳にも聞こえました。まさに、番狂わせだという感じでした。本庄西は練習試合のことは知りません。だから、本当に驚いたでしょうね。そして、脅威に感じたはずです。しかも、勝った我々は平然としているのです。それにも驚いたでしょう。

ーーーーー
この県北大会は、おかしな組み合わせで、我々は、二回戦で荒川中学と対戦しました。この荒川中学は、春の県大会で優勝しています。新人戦の県北大会では、3位にも入らなかったチームが、その後、力を付けて大原を破って、春の大会は県大会に出場し、しかも優勝してしまいました。
とことん、走るチームで、オールコートマンツーマンを行い、選手がどんどん交代するチームでした。真っ黄色のユニホームがとことん走り回ります。そのチームに、我々は、大差で敗れました。組み合わせが良ければ、もしかしたらまた、3位くらいまで上がれたかもしれないのですが、どうして、そういう組み合わせだったのでしょうね。

ただ、そこで、学んだのは、そのとことん走り回る荒川中学のバスケットは、あの大男のいる深谷にも勝ってしまったということなのです。あれだけ上手いと思った大原が、歯が立たなかった深谷なのに、荒川は勝ってしまった。だから、やり方次第で、勝つ方法はあるんだなと思って帰ってきました。
ーーーー

つづく

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バスケットの思い出14

2009-12-03 | 思い出
春の県大予選がやってきました。

場所はやはり、神川中学でした。体育館が新しかったからでしょうか。新人戦と同じ会場でした。

私は、本庄西のことばかり考えていました。一つ上の学年が県大会で優勝をした。それを見ていた。しかし、自分たちは県大会にも出られなかった。それをどういう気持ちでいたかということです。そして、絶対俺たちだってという気持ちで、児玉に立ち向かってくることが予想されました。どんな涙ぐましい練習をしていたことだろうと想像していました。

前回と違っていたのは、組み合わせでした。上里が今度は児玉のブロックに来たのです。私は、何で??と思いました。三番目に強いチームは、二番目のブロックでいいはずです。弱ったなと思いました。前回の逆です。我々は準決勝から大変な状況になるのです。そう思いました。

一回戦は、前回と同様に楽勝でしたが、準決勝から緊張しました。なぜなら、上里は前回本庄西といい勝負をしているからです。それで、かなりの覚悟で我々は上里と対戦しました。しかし、その割に、上里が伸びていなかったのか、我々は、あまり苦労しないで、勝ってしまいました。それで、あれーーと思いました。そんなに恐れることはなかったのかと。

そして、決勝になりました。やはり当然のごとく相手は本庄西です。予定通り上がってくるのですから。漫画みたいですね。そして、宿命の対決になりました。
我々は、前回と違うのは、ゾーンディフェンスで臨みました。なぜでしょうか?
よくわかりません。それは、先生の指示でした。少し、過信した部分があったのか、受けて立つという気持ちだったのか、前回のような必死さがかけていました。オールコートマンツーマンディフェンスでなくても勝てることを示したかったのでしょうか。その辺りは、先生やコーチの指示でした。
そして、試合は、互角に進みました。しかし、常に1~2ゴールリードされて進んだように思います。

実は、この時、本庄西はとんでもない秘策を用意してきたのです。それは、ボックスワンという戦法でした。それまで、どこのチームもやったことのない、しかも、私も知らない戦法でした。
それは、私だけを抑えるという戦法なのです。どういうことかというと、本庄西の一人の選手が仮にH君とすると、そのH君が私につきっきりになるのです。要するに私だけマンツーマンになるのです。他の選手は4人でダイヤモンドの形でゾーンを組みますが、そのH君は、私が動くところへどこへでもついてきます。たとえ、私がボールと関係ないところにいても、彼だけは私から離れないのです。要するに嫌がらせのごとく、ついて回ります。そして、更に驚いたのは、H君はオフェンスをしないのです。オフェンスとは攻めることです。本庄西が攻めている時でも彼は、私についています。
とんでもなくおかしなことなのです。わかりますか?私が守っている時も、H君は私の腰にくっついたままです。二人で守りっこになります。お互いにディフェンスをしているなどという滑稽なことがあるでしょうか。本庄西はとにかく私を抑えれば勝てると踏んだのです。

その戦法が、成功しました。私は、自分の腰に重たい荷物をくっつけられたように、常に張り付いたH君を引きずっていました。大好きな人にくっつかれるのは、嬉しいですが、私は大嫌いな人にまとわりつかれたようなものですね。おいふざけんなよといいたくなりました。
良く考えたら、彼は可哀そうですよね。自分は試合の最初から最後まで、ボールには一回も触らず、ひたすら私にまとわりついて、私の顔ばかりみているのですから。人格もなにもあったものではありません。しかし、それがH君の使命なのです。

それでも、私はなんとかしてH君をふりほどいて、シュートを打とうとしました。もちろん、そんな状況でも私は点を取ったのです。しかし、前回のようには、取れませんでした。そして、結果は負けました。本庄西の秘策に負けました。

これが、春の県大会予選の結果でした。

この日から、このボックスワンに対する対策が始まりました。どうすれば、私がH君をふりほどいて、シュートが楽に打てるように持っていけるかという研究です。しかし、考えてみるともっと早い方法があるのです。それは、私以外のメンバーがシュート力をつけることでした。しかし、それが、スムーズにはいかないのです。シュートというのは、そんなに簡単に力がつかないことが分かりました。

ただ、仲間が菅野ばかりに頼っているから、こういうことになるんだと自覚したことは確かでした。そして、夏までに今度は秘策に対して、こちらの秘策が始まったのです。

つづく


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バスケットの思い出13

2009-12-03 | 思い出
新人戦の県大会は、終わりました。

私たちは、次の春の県大会に向けて動き出しました。
それは、3年生になる春でした。

ただ、ここで、一つ説明しておかなければならないことがあります。
先生が素人だという話をしましたが、そんなチームがこんなに強いのはおかしいと思いませんか。普通ならこんなに勝てません。実は、そこにはボランティアで教えに来てくれるコーチがいたのです。

私は、このTコーチに教えてもらっていたのです。だから強くなれたのだと思います。この人は、どうして仕事もしないで、中学のコーチなどをしていられたのか、不思議です。家の仕事がありながらも、お坊ちゃんで働かなくても大丈夫なのかなと思っていましたが、それにしてもよく来てくれました。

だから、練習メニューも細かい技術面も教えてもらいました。

一般には、走って、体操をして、柔軟体操をして、フットワークに入ります。
それが済むと、向かい合ってのパス練習です。終わると、ランニングシュート、ツーメン、スリーメン、などをやり、最後は5対5をやって終わりというパターンです。

オールコートが使えるときは、ゲーム形式の練習をします。外コートの時は、バスケットコートが丸々一面使えたので、かなり楽でしたが、体育館ができてからは、半分のコートでやることが増えました。丁度この頃体育館ができました。
体育館では、バスケット男女、バレー男女が練習するので、みんなハーフコートになってしまうのです。それは、仕方がないですね。

ただ、他のチームと変わっていたのは、練習の途中でストップさせて、そこはこのようにやった方がいいとか、教えるのが私だったことです。私はキャプテンでしたが、まるでコーチでした。Tさんに教えてもらったこともありましたが、元々持っているおせっかいが、このような行動をとらせたのでしょう。

きっと、外から見ていたら、卒業生の先輩が教えているように見えたかもしれません。これは、私の悪い癖かな?しかし、少しオーバーに聞こえるかもしれませんが、私はまるで先生みたいでした。

これは、私は小学校3年生くらいから、始まっています。ソフトボールをしていても、自分はノックをして友達をしごきます。千本ノックだとか言って、ふざけてしごくのです。そして、失敗すると、友達にグランド一周を命じました。きっと、中学の野球部を見ていて真似をしたのだと思います。しかし、友達もよく私の言うことに従うのです。また、本当に下手な子には、丁寧に教えてやりました。トンネルをしないようにするには、腰を落として、グローブを地面に着けて取るといいよ。などと教えるのです。私は、そういう子でした。
だから、失敗した子をグランド一周などと言ったのは、少し上手になった子ですね。子供ながらに、そんな判断もしていたようです。当然できる子ができなかったときだったようです。

バスケット部に入っても、先輩がいじめのように、プレッシャーをかけますが、そのプレッシャーのかけかたも罰の与え方も、その裏には、公平さとか、みんなが納得する範囲とか、いろいろな要素が含まれています。それが、矛盾すると反発になったり、いろいろな気持ちが現れます。それは、そういうことを通して、学んでいるんだなと思います。

私が、プレーの途中で停止させて、指示したり、教えたりしても誰も文句を言わないのは、私がプレーに対して信頼があったからだと思います。そうでなければ、同級生ですから、うるせえなあと言われてしまうでしょう。

私は、「そこはこうする、もしこう来たらこうする」という形で、やってみせました。

たぶん、これを聞いたら、驚くかもしれませんね。だから、神川のO君が感じた親分のように見えたのかもしれません。別に威張っていた訳ではないんですけどね。
でも態度が大きかったのかな?私は、すでに、先生ごっこをしていたのでしょう。

試合になれば、みんな私にボールを集めます。私にパスをすれば何とかしてくれるという気持ちがあって、頼っていたのです。シュートが入ったからです。いくらいいプレーをしても、最後のシュートが決まらなければ、何にもならないのです。そして、シュートが入らないと敵のボールになるケースが多いです。
そうなると、シュートというのは責任があります。失敗したらどうしようという気持ちが働きます。だから勇気がいるのです。成功したら褒められる、失敗したら文句を言われるということです。

私は、度胸もあったのでしょう。それと一人練習が生きています。練習中より試合の方がよく入りました。試合の方が慎重になるからでしょうか。とにかく、自分でもよく入るなあと思ったこともありました。リングに当たらずにスポッと入るのです。私は、リングにぶつかって入ったのは、入ったことにならないと思っていました。リングの真ん中に音もせずにスポッとでないと気が済まないのです。

だから、みんなからの信頼はこのシュートが入るということからも来ています。

ーーーー
先生が素人だと、何度も言っていますが、だからと言って何も知らない訳ではありません。元々は野球部の先生でしたが、体育の先生ですし、先生方でバスケットをやらせれば、一番上手な先生でした。だから、このK先生が顧問になると知った時は、嬉しかったです。しかし、そうは言っても、私のようにここはこうするという形で教えることはできません。理論で教えてくれますが、上手にやってみせることはできないのです。
ただ、凄いと思うのは、コーチを上手に手配してくれたことです。練習試合もうまく組んでくれました。それは、女子の顧問のU先生のアドバイスもあったと思いますが、後で考えたら、自分たちが一度負けた相手には必ずと言っていいくらい、リベンジのチャンスと与えてくれました。

県大会で負けた小川東とリベンジマッチを組んでくれて、きちんと借りを返しましたし、その後も、同様のことが出て来ます。先生は先生なりに悔しさをそのままにしない人だったのだなと思います。ここで、言ってしまっては、いけないのかもしれませんが、言い忘れると困るので、話しますが、実は、県北大会でトリプルで負けた熊谷大原にも練習試合を申し込んで、夏にはひっくり返してしまったのです。

まるで、大人と子供くらいの差があったあの大原中学です。私の人生において、これほどの教訓はありません。諦めてはいけない。あの大原をひっくりかえすことができたんだからと。この経験は大きいと思います。本当に信じられないできごとでした。

そのチャンスを作ってくれた先生には感謝です。もし練習試合をやらなければ、私は、世の中にはとても敵わない強敵がいるのだと思ったまま、過ぎていただろうと思うのです。どんなに敵わないと思える相手でも、戦い方がある。やり方次第でひっくり返すことができるという教訓です。
もし、私が風邪を引かないで、県大会に行っていたら、優勝をしていたかもしれないとマネージャーが言った時、それは無理だよと思ったのは、この大原と深谷が強いからと思ったのですから。いや、そうではないかもしれないと思う気持ちが生まれたのは、このリベンジにあります。

ちっぽけな自分でも、見えないところでの地道な練習や、本気になることで、いつかきっとという強い気持ちを続けて行けば、どこかで勝てる日が来るというような気持ちが持てたのです。これは大きいです。だから、日本一の美術部を作るなどという夢物語を描けるのだろうと思います。

私のバスケットの経験は、そういう意味ではいろいろな人たちの教えが含まれているのだなと思います。




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