絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

天地創造

2009-12-16 | いろいろ
ミケランジェロの天井壁画の話をするときに、「皆さんは、人間は猿が進化したと考えますか?それとも神様が作ったと考えますか?」という話をします。

どうも旧約聖書に書かれていることは信じ難く、進化論の方がいろいろな証拠から正しいように感じます。

しかし、現代の宇宙論を勉強していくと、あの天井壁画のように天地創造は、あっという間に起こったらしいのです。まるで神様が作ったかのように。

ビッグバン宇宙論を読んでいると、あるとき宇宙は始まったとあります。時間も空間もなかったところに、まるで無という状態から大爆発を起こしたというのですね。正しくは大膨張だそうです。爆発は同じ速度で飛び散りますが、膨張は外側ほどスピードが速く、爆発などよりずっと凄い勢いで広がります。

それは、まるで神様があっという間に作ったと言ってもいいように思います。

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だから、信じられないと思っていた旧約聖書が、実はその方が正しいように思えて来ます。
神様が泥んこ遊びをしてアダムを作ったということは、俄かに信じる訳にはいきませんが、生命の誕生の寓意だとすれば、そうかなと思ってもいいのかなと思います。
生命は、たった一つの炭素化合物から始まったと言われます。それは、海で誕生したと。その一つが分裂して地球に生命を誕生させたというのですね。

そのたった一つを神様が作ったと言えば、全ての生命の誕生を語っている訳ですね。

まあ、神様は自分の姿に似せて人間を作ったということですから、神様の姿は我々人間と同じ形をしていることになりますが。

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いろいろ考えると、興味は尽きません。

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もう一つ、考えることは、永遠の過去という問題です。それは私には捕らえられません。しかし、永遠の未来はあってほしいですね。どこかで終わってほしくはありません。
ただ、永遠の過去が考えられないので、どこかで始まったと考える方が分かりやすいですね。だから現代の宇宙論は、分かりやすいです。

そのビッグバンの前は?ということもありますが、空間のないところに時間があるでしょうか。そう言われました。空間がなければ、時間はないのかな?と思いました。

また、もう一つ、捕らえられないのは、空間の広がりです。空間はどこまでも永遠にあるのでしょうか?どこかで終わるのでしょうか。頭の中では、ここが終わりと言われると、その外は?と思います。しかしどこまでもあるとなると、捕らえられません。

もし、どこまでもあると認めて、星は永遠の数だけあるとなったら、全てのものが燃えてしまうとか、夜は暗くならないとか聞きました。これも面白いと思いました。
どこかで終わるのか、本当に真っすぐ行ったら、後ろから戻って来るのか。
有限なのに、無限なのか?

だれか、いい答えを持っていませんか?
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ローマ人の物語14

2009-12-16 | 読書
ユリアヌスについて読んでいます。

どこかで聞いたことがある名前だなと思ったら、キリスト教からは、背教者と言われた人だったということで、聞いたことがあったのだと分かりました。

しかし、今回読むまでは、その言葉から感じることは、キリスト教を迫害した人なのかなと思っていたのですが、そうではなかったということで、認識を新たにしました。

私には、このユリアヌスの言うことの方がまともな考えに思えます。全部分かった訳ではないので、簡単に結論は言えませんが、ここまで呼んだ限りでは、そう思いました。

コンスタンチヌス帝がミラノ勅令で、キリスト教を公認したということで、キリスト教が迫害されないですむようになったということで、すばらしいことをした人だという印象でしたが、それは、他の宗教と同じように扱われるようになったと解釈しました。しかし、そうではなく、コンスタンチヌスは明らかにキリスト教を利用して、皇帝の立場を安全にしようとしたのだとわかりました。それは、皇帝は人間が選ぶのではなく、神が選ぶのだと決めたからです。

そしてそのために、神の言葉を聞く司教を優遇し、教会を援助する政策を取り、税金を免除しという具合に、キリスト教を応援するのです。

そしてそのことは、一家庭にとっては、税金を免除してもらうために、子供を教会に入らせることが生活を楽にすることになったので、どんどんキリスト教に入る人が増えていきました。

そして、その後を継いだコンスタンチウスも更にキリスト教を応援して、教会を税金で作ったりいろいろ支援したので、キリスト教だけが優遇されました。

これをおかしいと言ったのがユリアヌスだったのです。

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ユリアヌスは、キリスト教徒が教師をやるのはおかしいと言って、追い出します。
確かに、よく考えるとそうなります。キリスト教は、他の宗教を禁止します。ギリシャ、ローマの神を悪魔だと言っているそうです。そう考える教師が、どうしてホメロスなどを教えられるのかと考えたのです。

キリスト教だけに優遇していた法律も変えました。もちろん減税していたことも廃止しました。

ミラノ勅令の時点に戻したのです。だから他の宗教も対等に扱い、神殿が壊れたら、その再建なども行ないました。

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この方が、当たり前じゃないかなと思いますが、どうでしょうか?

今の、日本で教育を受けたからそう思うのでしょうか。国家がキリスト教一色の国ならユリアヌスは背教者となりますが、今の日本ならむしろユリアヌスが正しいと言われると思います。

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まあ、ここまで読んでみて、いま教師をしている人は、自分の宗教との関係でどういう風に考えながらやっているのかなと思いますね。キリスト教だけではないですが、他の宗教を異端とか、外道とかいろいろ言い方がありますが、他を排斥する宗教を信じている人たちは、教師をすることができるのでしょうか。

宗教教育はしてはならないと言われますが、私学はそうではないですね。
キリスト教の学校では、ギリシャ哲学などは教えないのでしょうか。

宗教は信じることで、哲学は疑うことだから、相反するわけですよね。
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私は、美術史を教えるときに、キリスト教の内容を話すときは、常に「私はキリスト教徒ではないけれど」と前置きをしていました。
あまりに熱心に内容を語ると、宗教教育をしているように受け取られると困るからです。ミケランジェロの天井壁画の内容は、旧約聖書の創世記ですからね。



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