絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

ゴヤ4

2009-12-18 | 美術
よく調べると、ゴヤが宮廷画家になるのは、40歳からで、カルロス3世付きに画家として雇われたそうです。その3年後に宮廷画家になって、カルロス4世の家族を描いていますね。

そして、聴覚を失ったのは、46歳だと分かりました。病気にかかって、聴覚を失ったと書いてありました。

その後、黒い絵を描いたと言いましたが、間違いではありませんが、「聾者の家」に描いた14枚は1820年から1823年だとありました。ということは、28年に82歳で亡くなるので、74歳から77歳の時に描いたことになりますね。

私は、もっと早くから黒い絵のシリーズを描いたのかと思っていたので、自分の認識を新たにしました。


マハは、何年か知りたくなりました。調べます。

裸のマハは、1797年から1800年にかけて描かれたと分かりました。
ついでの話ですが、この絵は、当時の首相ゴドイの家で発見されて問題になったそうです。首相の依頼で描かれたのでしょうか?最後までゴヤは依頼主を言わなかったそうです。その代わり、その後この絵は100年近く発表されず、プラド美術館に眠っていて、1901年に初めて人々に公開されたとのことです。

モデルについても、ゴヤは口を割らず、誰だかわからないらしいですが、マハとは小粋な娘という意味で、名前ではないそうです。

私も今回書いて見て、調べたので、勉強になりました。
また、一緒に勉強しましょう。

コメント (3)
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ゴヤ3

2009-12-18 | 美術
ゴヤの絵で、もう一つ有名な絵は、「着衣のマハ」と「裸のマハ」です。

みなさん、ご存知ですよね。

この絵は、なぜ描かれたのか?よくクイズに出るので、覚えておくといいですよ。

実は、スペインでは、裸の絵は禁止でした。だから、こっそり描いたのです。
そして、見えるように飾るわけにはいかないので、表には着衣のマハを飾っておき、裏に裸のマハを隠しておいたのです。お分かりですか?

ということは、一人でこっそり見るのですね。誰もいなくなったときに、着衣のマハを外すとその下には裸のマハが現れるという仕組みです。


ーーーーー
この絵は、以前からおかしいと思っていたのですが、ほとんどまともに見ていなかったので、今回見て、感想を書きたくなりました。どうも胸の形がおかしいのです。
こういうことがあるのでしょうか?
裸のマハの胸は、上に描かれた方が上に突き出るように描かれています。こんなことがありますか?私は大学でも裸婦を描きましたし、その後も研究会で裸婦のデッサンは何度もしましたが、普通は、胸も重力に引かれて肉が下がるはずなんですが、この胸はそうなっていませんよね。これでいいのでしょうか。

それから、胸と胸の間の繋がりがおかしいと思うのです。もっと言えば、肋骨も形がおかしいように思いますがいかがでしょうか。

ーーーー
着衣のマハの方も、良く見ると、ウエストが絞られすぎています。これは大変なことになっていませんか。腰からウエストにかけてのラインがこんなに凹んでいいのかなという感じです。個人差もあったり、人によってそういうこともあるのかな?
ヨーロッパはコルセットをするので、そのおかしなことがこのようにウエストの細い状態を作り出してしまうのかどうかとも思いますが、絵に描くならその辺はどうなのだろうかと思いました。



だから、私の疑いは、むしろゴヤはこの絵は想像で描いたのではないかということを感じました。

私の個人的な感想なので、感じたまま書きました。みなさんいかがでしょうか。

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ゴヤ2

2009-12-18 | 美術
ゴヤの巨人の絵が、本人が描いたものではないことが分かったと聞いて、驚きました。ゴヤの代表作と言ってもいいくらい有名ですよね。

下に描かれた逃げ惑う人々の表現がどうも雑だということで、ゴヤではないのではないかという意見があったそうですが、左下にAJというイニシャルのサインがあり、弟子の一人と一致するので、どうもその弟子が描いたのではないかということが有力になって来たとのことです。(アセンシオ フリアという名前の弟子)
プラド美術館の専門家チームがその可能性が強いと2009年1月に発表しました。

へえええーーーですよね。

じゃあ、美術史を教えてきた私は、訂正をしなければなりません。困るなあーー。

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先日も、どこかで書きましたが、このようなことはたくさん出て来ますね。だから、その時代はそう言われていたということで聞いてもらわないと困りますね。

たとえば、レオナルドの先生のベロッキョだと思われていた肖像画がどうもラファエロの先生のペルジーノらしいといわれるようになりましたね。
それから、日本では、日本史の教科書に必ず出てくる頼朝の絵も実は頼朝ではないということが言われ始めました。
ピラミッドはお墓ではないというのも、最近は言われ始めていますね。こちらは、吉村先生の意見が強いですが、エジプト考古学庁のザヒ博士はお墓だと言っていますね。最初は、お墓として作ったはずですよね。ゼセル王の墓として。イムホテプがマスタバを重ねた形でお墓を作ったと言われていましたから。段々話がそれてしまうので、ゴヤに戻します。

この話は、ここで区切った方がいいかな。
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ゴヤ

2009-12-18 | 美術
ゴヤというと、スペインの画家です。

美術史の流れの中では、近代絵画の父と言われるのですが、なぜそのように言われるのでしょうか?その理由を私なりに考えてみました。

生まれは、1746年だったかな?そして、亡くなったのが1828年くらい。
だとすると、美術史的には、ロココから新古典主義やロマン派の時期ですよね。
しかし、その中には入りませんね。住んでいたところがスペインだからかな?と私は思います。

ロココ以降はフランスが中心に美術史が展開していくので、その枠にはあてはまらないのでしょう。

とりあえず、スペインの画家で、18世紀中盤から19世紀初めの画家だと言うことをまずは、掴みたいですね。そして、王家のお抱え画家だったということでいいのかな?

ーーー
しかし、これだけでは、歴史に残らなかったでしょう。
ゴヤは、40歳を過ぎてから、聴覚を失います。そのために、人との付き合いがなくなり、自分独自の絵を描き始めます。

それが、黒い絵のシリーズです。

ゴヤが、近代絵画の父と言われると言うのは、この黒い絵のシリーズを描いたからではないかと思います。ゴヤのゴヤたる確固たるものは、この黒い絵です。

それは、どういうことかというと、それまでの画家は、頼まれて絵を描いた。注文を受けると、それに合った絵を描いて、注文主に渡すという職業であったのです。

それが、この黒い絵は、誰の注文でもなく、ただ、自分独自の描きたい絵を描いた。その点が新しいのではないかと思います。しかも、テーマにしているのは、異様なものです。巨人の絵、息子を食べるサトールヌス、砂に埋まる犬、こん棒で戦う人、しかも色がほとんど白黒に茶褐色です。

自分の中にある、異様なものを見つめながら、人間存在を捉えていると言ってもいいのではないかと思われる絵です。

そういう題材を選び、誰に頼まれたのでもなく、自分独自の物を描いたという点において、近代の幕開けと位置付けて良いのではないかと思います。

自分独自の勝手な絵としては、印象派がそうですね。自分で勝手に画家だと名乗っていますから。それ以降の画家たちはみんなそういうところがあります。その幕開けであったのではないかと思いました。

ゴヤが近代絵画の父と言われる理由を考えてみました。
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深谷のグランドホテルにて

2009-12-18 | 日記
今朝は3人のデッサン会のメンバーの方々が、県展制作の指導を求めて来ました。
昨日は、2人来ましたが、もうみんな県展制作を始めています。すごいですね。
私は、高校生たちに指導をしている時に、県展までに2点描いて、どちらかいい方を出すようにしようと話しました。その場合でも、始めるのは1月からでした。
今教えている人たちは、それと比べると始めるのが、早いです。早い方がいいですね。

ーーーー
今日は、深谷のグランドホテルに来ています。
卒業生が、一緒にお昼を食べましょうと誘ってくれました。こういうのは、嬉しいですね。私は、年中暇なので、いつも一人で食べることが多いです。だから、声をかけてもらえると嬉しいですね。
 
今、喫茶でアイスコーヒーを飲みながら書いています。

このグランドホテルには、バスケットの偉大なるU先生の御子息が勤めていて、私を見るなり、挨拶をいただき、少し喫茶でお話をしました。
バスケットの思い出を書いたので、よかったら読んでくださいと紹介しました。その内、コピーして先生にも見て頂くつもりでいるとお話しました。

お昼には、まだ早いので、すこしここで読書してから中華を食べる予定です。



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