私は、大学を出た後、二年間就職浪人をしていました。
教員試験を受けたけれど、健康診断で教員になるのを少し待った方が良いと言う判断をされて、浪人をしていました。その間に、児玉中学にバスケットのコーチに行きました。
まだ、私の恩師K先生が男子の顧問をしていたので、遊びに行って、コーチもさせてもらいました。その頃は、もうバスケットが弱くなっていて、県大会にも出られない状況になっていました。女子のU先生は神川中学に行ってしまい、神川が県大会に出場する時代になって、その後U先生は管理職になって、また、違う学校に移ってしまったため、他の中学が県大会に出場するようになっていました。
そう考えると、チームというのは顧問次第だなと思います。その頃、まだK先生は顧問をしていたのに、なぜ弱くなってしまったのか、私にはわかりませんが、やはり教員にもピークというものがあるのでしょうか?それとも選手の状況だったのでしょうか。
とにかく、県大会に出られないチームになっていました。
私は、その男子のお手伝いをさせてもらいましたが、県大予選の決勝まで行って、負けてしまいました。
そのときに、女子も少しは見ていましたが、顧問の先生とはつながりがなかったので、指導はしませんでした。チームは、やはり県大には行けないでいました。
ただ、選手の様子を見ていたら、なかなかいい子がいるのです。私は、先生にこの子たちなら県大会に行けますよと言いました。
しかし、先生はそうですか?と自信がなさそうに答えました。騙されたと思ってやってみますか?と私が言いました。そして、女子の指導が始まりました。
私は特別な指導をした訳ではありませんが、ちょっと力を入れて指導してみました。そうしたら、約束通り優勝して、県大会出場を果たしました。顧問の先生は大喜びでした。出場経験のない先生にとっては、信じられない結果だったかもしれません。
その予選では、一回戦でU先生のチームと戦いました。U先生のチームはまだ、チームになっていなくて、一年生のチームでした。しかし、児玉の顧問の先生は恐れていました。ベンチワークで負けるという気がしていたようです。
途中で、U先生が出す言葉とか、タイムアウトの取り方で、「あれで、やられてしまうんですよ」と私に説明しました。私は、そんなことなんでもないですよと答えましたが、選手のプレーよりもベンチワークを怖がっていることが意外でした。
しかし、試合は大差で勝ちました。
決勝は、美里中学だったと思いますが、私の予想通り勝てました。予定外だったのは、美里中の顧問の先生だったでしょう。児玉には勝てると思っていたら、意外な助っ人がいたのですから。それが、私だった訳です。こんな予定外のコーチがいるとは思わなかったようです。
県大会は、上尾の運動公園の体育館でした。しかし、私の指導力が足りないこともあり、一回戦で負けてしまいました。
私は、このチームをもっと強くするための方法を考えて、練習量を増やそうとしました。すると、顧問の先生から、それはできませんと言われました。
丁度この頃、埼玉県の県北にも部活を遅くまでやらせるのは良くないと行きすぎに対する、PTAの圧力がかかって来たころだったのでしょう。少し前は、県南でそのような動きがあって、部活がみんな駄目になって来たと聞いたことがありましたが、その波が県北まで到達して来たのでした。
私は、先生に、「先生はやっぱり教育的にやりたいですか」と聞きました。先生はそうだと言いました。プロのバスケットの取り組みではないので、学校教育という範囲内でやれるところまでやるという考えでやるしかないというのが、先生の考えでした。それは、正しい判断です。しかし、それでは、他のチームに勝てません。
私はそれが分かったので、コーチをやめました。自分がやるからには、強くしたいからです。県大会に連れて行くという約束は果たしました。だから、ここで一区切りつけていいだろうと思いました。生徒たちはなぜ私がコーチを辞めたのか知りません。
私は、部活はやはり自分が顧問にならなければ、やりたいようにはやれないということをここで感じました。ただ、普通のことをしていたのでは、勝てないのです。
だから、美術部の顧問になって、私のやったことは、普通の顧問ではやれないことばかりでした。それが、本庄第一高校の美術部をつくりました。漸く自分の作りたい部活ができたのです。
教員試験を受けたけれど、健康診断で教員になるのを少し待った方が良いと言う判断をされて、浪人をしていました。その間に、児玉中学にバスケットのコーチに行きました。
まだ、私の恩師K先生が男子の顧問をしていたので、遊びに行って、コーチもさせてもらいました。その頃は、もうバスケットが弱くなっていて、県大会にも出られない状況になっていました。女子のU先生は神川中学に行ってしまい、神川が県大会に出場する時代になって、その後U先生は管理職になって、また、違う学校に移ってしまったため、他の中学が県大会に出場するようになっていました。
そう考えると、チームというのは顧問次第だなと思います。その頃、まだK先生は顧問をしていたのに、なぜ弱くなってしまったのか、私にはわかりませんが、やはり教員にもピークというものがあるのでしょうか?それとも選手の状況だったのでしょうか。
とにかく、県大会に出られないチームになっていました。
私は、その男子のお手伝いをさせてもらいましたが、県大予選の決勝まで行って、負けてしまいました。
そのときに、女子も少しは見ていましたが、顧問の先生とはつながりがなかったので、指導はしませんでした。チームは、やはり県大には行けないでいました。
ただ、選手の様子を見ていたら、なかなかいい子がいるのです。私は、先生にこの子たちなら県大会に行けますよと言いました。
しかし、先生はそうですか?と自信がなさそうに答えました。騙されたと思ってやってみますか?と私が言いました。そして、女子の指導が始まりました。
私は特別な指導をした訳ではありませんが、ちょっと力を入れて指導してみました。そうしたら、約束通り優勝して、県大会出場を果たしました。顧問の先生は大喜びでした。出場経験のない先生にとっては、信じられない結果だったかもしれません。
その予選では、一回戦でU先生のチームと戦いました。U先生のチームはまだ、チームになっていなくて、一年生のチームでした。しかし、児玉の顧問の先生は恐れていました。ベンチワークで負けるという気がしていたようです。
途中で、U先生が出す言葉とか、タイムアウトの取り方で、「あれで、やられてしまうんですよ」と私に説明しました。私は、そんなことなんでもないですよと答えましたが、選手のプレーよりもベンチワークを怖がっていることが意外でした。
しかし、試合は大差で勝ちました。
決勝は、美里中学だったと思いますが、私の予想通り勝てました。予定外だったのは、美里中の顧問の先生だったでしょう。児玉には勝てると思っていたら、意外な助っ人がいたのですから。それが、私だった訳です。こんな予定外のコーチがいるとは思わなかったようです。
県大会は、上尾の運動公園の体育館でした。しかし、私の指導力が足りないこともあり、一回戦で負けてしまいました。
私は、このチームをもっと強くするための方法を考えて、練習量を増やそうとしました。すると、顧問の先生から、それはできませんと言われました。
丁度この頃、埼玉県の県北にも部活を遅くまでやらせるのは良くないと行きすぎに対する、PTAの圧力がかかって来たころだったのでしょう。少し前は、県南でそのような動きがあって、部活がみんな駄目になって来たと聞いたことがありましたが、その波が県北まで到達して来たのでした。
私は、先生に、「先生はやっぱり教育的にやりたいですか」と聞きました。先生はそうだと言いました。プロのバスケットの取り組みではないので、学校教育という範囲内でやれるところまでやるという考えでやるしかないというのが、先生の考えでした。それは、正しい判断です。しかし、それでは、他のチームに勝てません。
私はそれが分かったので、コーチをやめました。自分がやるからには、強くしたいからです。県大会に連れて行くという約束は果たしました。だから、ここで一区切りつけていいだろうと思いました。生徒たちはなぜ私がコーチを辞めたのか知りません。
私は、部活はやはり自分が顧問にならなければ、やりたいようにはやれないということをここで感じました。ただ、普通のことをしていたのでは、勝てないのです。
だから、美術部の顧問になって、私のやったことは、普通の顧問ではやれないことばかりでした。それが、本庄第一高校の美術部をつくりました。漸く自分の作りたい部活ができたのです。