絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

バスケットの思い出19

2009-12-04 | 思い出
決勝に行く前に、少し監督の考えと私たちの思惑について、話したいと思います。

それは、後で考えると、監督の方針に対する我々の抵抗でした。

監督の考えは、とにかく強くするために、スタートメンバーの力をアップさせようというものでした。それは、分かります。しかし、あまりにそれを考え過ぎて、交代メンバーを育てることがおろそかになりました。バスケットは、6人目7人目を使えるように育てることが必要なのです。これまでのどこかで話しましたが、バスケットは、スタートメンバーの5人で戦うスポーツではないのです。それを初めのメンバーを変えるのは、5ファールで退場した時だけというような使い方でした。

これは、監督やコーチの考え方だったのでしょう。
私は、その辺に不満を持っていました。もっと、控えの選手を使ってほしいと、訴えました。レギュラーと補欠ではなく、交代しても、同じように使える状態を作ってほしかったのです。

それで、練習中にU君ではなくK君にも同じことを練習させてほしいと言いました。
また、トップのH君ももう一人のH君と交替させてほしいと言いました。

先生は、それは、ベストメンバーに選ぶチャンスを与えてほしいと私たちが言っているように受け取ったかもしれません。私たちはそういう気持ではなかったのです。しかし、他のメンバーを使えという要求は、ベストメンバーを変えろという要求に聞こえたかもしれないのです。
そして、U君はK君に替わりました。しかし、H君は、元のままに戻りました。途中で先生が、何でもう一人のH君を使えとみんなは言うのかと逆に聞き返して来ました。友だち関係で、レギュラーのH君がだめな理由でもあるのかという感じでした。

私たちは、そんなことはありません。ただ、それを上手に言うことができませんでした。要するに、メンバーチェンジしても力が変わらないようなチーム作りをしてほしかったのです。

しかし、それをH君も勘違いしました。自分がレギュラーから外されると勘違いしたらしいのです。それでだと思いますが、部活を辞める騒ぎを起こしました。
その前に、一人6番手と思われるT君が辞めたばかりでした。そのT君は、レギュラー云々の話ではありません。進学を考えて勉強したいからというのが理由でした。
我々は、そのT君を辞めさせたくなくて、とことん話しました。しかし、ダメでした。3年になってどうして?もう少しじゃないか。最後まで一緒にやろうよ。などなど、いろいろ特別な時間を作って話しました。しかし、結論はダメでした。とても残念でした。だから、今回のH君もダメかなと思っていました。

私は、H君から階段の踊り場に呼び出されて、それを言われました。階段の窓のところで、外を見ながら、辞めたいんだと言われました。私は、それを聞いて、「そうか」と残念そうに言いました。T君のときに散々言ってもダメだったので、もういろいろ言うのは止そうと思い、そのまま「わかった」と言って、話をしませんでした。
何も言わないということは、彼にとっては意外だったようです。私は、一つの作戦のつもりでした。何も言わないということは、どういうことか。H君に考えてもらいたかったのです。何も言わないのは、言うこともないというのではなく、言うことは分かっているはずだと言いたかったのです。しかし、どうしてもダメならあきらめるよということだったのです。後日彼は、こう言いました。「菅野は、あの時何にもいわなかったもんな」と。それが気になったと言っていました。

何も言わない方が、彼には効果があったのです。気にするタイプなのです。なんとなくその性格を分かっていたので、私は敢えてなにも言わない作戦に出たのです。

しかし、とても不安でした。辞めてほしくないのに、分かったと言ったのですから。
ただ、私は、自分のその態度が彼を引きとめることになったのかは、わかりません。裏で先生がどのくらい彼を説得してくれていたか、分かってないのです。
ただ、彼が、私の取った態度が気になったと言ったことは事実でした。

結局、事を大げさにしないで済んだので、それも良かったのかなと思います。

それで、H君は最後までやることができました。

よく、大人の世界では、監督と選手の考え方の違いで、チームがうまくいかなくなるという話を聞きました。こんな中学の3年間の中でも、あるのですね。ただ、私たちは、そのいざこざをするところまで行かない内に引退になったということでした。先生には、先生の思惑があって、チームを強くするために考えていることがあるので、あまりにそのことを言いだせば、生意気言うなと叱られたかもしれませんね。
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バスケットの思い出18

2009-12-04 | 思い出
準決勝は、予定通り上里でした。
これで、3度目の戦いです。私たちは東高校の大会で、上里には大差で勝ちました。そのため、もう本庄西と同じような脅威は感じなくなっていました。だから、そのつもりで戦いました。

すこし、なめていたかもしれません。しかし、上里の立場からすると、そう何度もやられているわけにはいきません。なんとかして一泡吹かせてやりたいと思うのは当然です。そのため、今度は必死の挑戦をしてきました。
それは、オールコートマンツーマンでした。

考えてみると、面白いです。本庄西がボックスワンで児玉を破ったので、上里は東高校の大会でそれを使った。東高校の大会で本庄西がオールコートマンツーマンを使ったので、今度はそれを使ってきた。よく考えると、本庄西の作戦を利用して、児玉に勝とうという作戦でした。

後で、冷静に考えるとそうだったんだなと思いました。とにかく、東高校の大会では、オールコートマンツーマンをやったら、どちらも点が取れなかったことは確かです。だとすれば、接戦に持ち込むには、その手がいいと考えたのでしょう。それは、見事に成功しました。

私たちは、慌てました。慌てている証拠に、私はいつもならしないトラベリングを何度もしてしまいました。シュートを決めたのに、入ったシュートが無効になりました。サッカーでゴールしたと思ったら、オフサイドだったというような感じです。バスケットだから状況は違いますが、まるでそんな感じで、シュートが無効になりました。

それで、終わってみたら、前半は、12-4です。こんなに点の入らない試合はないでしょう。上里は大喜びです。4点しか取らないのに、児玉を12点で抑えたことに喜んでいるのです。場合によれば、ひっくりかえせる得点だからでしょう。とにかく、まるで勝っているような喜びようでした。前回は前半で差をつけられて、勝負にならなかったのに、今回は勝負になっているということで喜んでいたのでした。

ーーーーーーーー

後半になりました。先生は私たちスタートメンバーを下げました。そして控えの選手を使いました。言ってみればBチームです。私たちは3年生が10人いました。
だから、5対5が3年生だけでできました。いつでも、スタートメンバーの5人対控えの5人で、まるでAチーム、Bチームのようになって練習していました。

だから、Bチームでも試合ができるのです。しかし、これまでの公式戦ではそのような使い方はしたことがありません。この時が初めてでした。先生は私たちにお灸をすえようと思ったのかもしれません。
私は、大差をつけて、メンバー交代をしたことはありましたが、まだいい勝負をしている内にベンチに下げられたのは、初めてでした。少し頭を冷やせと言われているような感じでした。

そして、ゲームを見ていました。すると、後半はBチームがどんどん点を積み重ねて、何のことはなく、上里を引き離していきました。私は「えーー」と思いました。俺たちAチームより強いじゃないかと。そして、私は喜びました。今まで、補欠という感じでいた選手たちがこの時とばかり大活躍しているのです。終わってみれば、36-12でした。

私は、児玉はBチームの方が強かったんだぜと威張れる材料ができたと思いました。補欠が卑屈になる必要はないんです。ましてやバスケットはそういうスポーツなのです。強いチームは、どこも誰が出ても変わらないくらいの活躍ができると思っていたため、昨年の本庄西のようなチームができたと思いました。

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バスケットの思い出17

2009-12-04 | 思い出
最後の県大会予選は、なんと会場が児玉でした。
過去二回は神川でしたが、新しく児玉に体育館ができたため、そうなりました。
私たちにとっては、毎日練習している体育館です。そういう意味でとても有利でした。しかも、決勝ともなれば、児玉の応援がどっと押し寄せます。今では、サポーターという言い方をするようですが、会場が自分たちの味方になるという利点もありました。調子づくにはもってこいです。

一回戦は、何のことはなく、いつものように楽勝でした。我々は、2-3のゾーンで臨みます。ただ、言い忘れましたが、私は後ろの右側を守る位置にいたのですが、二回ほどきれいに抜かれて点を取られた経験があり、その後で、後ろの真ん中を守るように移動させられました。その抜かれた時は、チームメートから叱られました。「何やってんだよ!しっかり守れよ」と。チームメートからプレーにおいて、叱られたのはこれが唯一だったかもしれません。しかし、そう考えると、いくら活躍しても、いつもは偉そうに教えていても、駄目なところは、友達がしっかり批判の目を向けて、文句を言ってくれる関係だったのだなと思います。

そういう意味では、やはり私の仲間は、レベルが高かったのだと思います。

ただ、それが良かったのは、知らない内に私のポジション移動は、ボックスワン対策にもなっていました。怪我の功名です。ボックスワンは、私が守っていてもH君が私の腰に付いているとお話しました。しかし、私が2-3の3の真ん中ですから、リング下にいるわけです。そこは、フリースローレーンと言って、攻める側が3秒以上いてはいけない場所なのです。居る場合は、3秒以内に外に出なければなりません。それで、そのH君は、その近くの外で待つ訳です。そうかと後で気がつきました。

まあ、そんなこともありましたが、我々はもっとすごい秘策を用意していましたので、そのことは最終的には関係ないことなのですが、それは、他のチームのボックスワンで来るチームに効果的でした。

実は、私のディフェンスの甘さは、理由がありました。それは、ファールをしないということです。私が5ファールで退場するようなことがあってはならないのです。ポイントゲッターですから、私がいなくなったら得点力が低下します。だから、私は、自分の時代になってからは、一度も退場はありませんでした。








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