絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

小平の紅葉

2009-12-05 | 日記
昨日、父の運転手で、小平の紅葉を見て来ました。
父がよく写生に通う場所です。
そこに、ちょっといいなあと思う紅葉があったので、撮影してきました。

私は、写真を撮るときも構図を考えるので、構図が悪いと撮る気になりません。

難しい人ですね。



しかし、現実には、邪魔なものがあったり、すこし物足りないので、何かがあったらいいなあと思ったりするので、絵にするときは、足したり引いたりします。
できれば、その場所にあるものを使った方が良いので、少し動いては、近景を変えて撮影したりしてみます。
時間によって、光線の角度が違ってまたいい感じになったりするので、違う時間に撮りに行ったりします。
雲の動きで、山の一部が暗くなったり、明るくなったりするので、その変化を見ながら撮影するとまた、違った感じになります。
そのように、いろいろ観察すると良いと思います。


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バスケットの思い出 余話1

2009-12-05 | 思い出
先生は、やはり只者ではなかったという話をしたいと思います。

実は、女子の顧問のU先生もバスケットは素人なのです。それなのに、すごい成績を上げました。私たちは結果的には、県大会予選で三回の内二回アベック優勝したのですが、その下の学年は、県北大会でアベック優勝を果たします。
そして、更にその下の学年は、女子が県大会で優勝、男子は3位になります。
これは、信じられないことです。全くの素人の先生で、たった3年でチームをここまで強くした人が今までいたでしょうか。私が知る限りでは居ないように思います。
しかし、その方法は、コーチの使い方でした。というか、いいコーチがいてくれたのです。Tコーチに私は教えてもらったと言いましたが、その方は、後に、埼玉県の県会議長を務めた方です。その人が仕事もそっちのけで、ボランティアで教えてくれたのです。技術面においては、ほとんどTコーチの力でしょう。

また、私は卒業後はバスケットを教えに行きましたが、どちらかと言えば、U先生と仲よしになり、いろいろ教えていただきました。そのU先生のやり方は、とにかく強いチームに行って、練習を一緒にさせてもらうこと。一緒にやっている内にどちらがどちらのチームの子だかわからなくなる。それは、そのチームに近づくには一番良い方法だということ。それを教えてもらいました。
そうやって、先生は児玉のレベルアップを図ったのです。それが、顕著にわかったのは、U先生が神川中学に転勤してからでした。神川中学の生徒を毎日のように児玉に連れて来て練習している内に、直ぐに児玉を追い抜いてしまったからです。
なるほどと思いました。
こんなことも、私の美術部の指導で生きているのです。私も追い付きたいと思うところがあったら、そのような意識を持って、生徒を連れて行ったりしました。

私の場合は、同じ高校生ではなく、プロの画家でしたけれど。

ーーーーーー
また、面白い話は、私が宿命のライバルと思った本庄西のキャプテンのO君ともう一人副部長のN君とは、高校一年で同じクラスになります。そして、同じバスケット部でチームメートとして活動しました。そこでは、私がキャプテンになりました。だから、或る意味で、私は宿命のライバルに個人としても勝ったつもりでした。
また、そのチームには、あの大原中のレギュラーだった選手もいました。そして、県大会で優勝した荒川中の選手もいました。いろいろ中学時代に出会った選手たちが集まりました。だから、そのときのことを話すのも楽しみでした。
そして、その彼らより私がプレーが上手いと確認できたことが嬉しかったのです。

そのことは、私が一年生でありながら、先輩に混じって大活躍することで証明しました。その話もまた、中学で先輩たちを追い抜いて行ったことと似たような話になりますので、また機会があればお話ししたいと思います。


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バスケットの思い出20

2009-12-05 | 思い出
最後の県大予選、決勝戦になりました。

決勝戦には、メインコートが作られました。準決勝までは、体育館の二つのコートを同時に使っていましたが、もうこれが最後だということで、その試合だけが注目されるように、二つのコートに跨るように、中央に作られました。それまで、天井に張り付いていた透明なバックボードがおろされ、まさにメインコートという感じです。

女子は、毎回優勝です。他のチームを相手にしません。我々は、それが終わるのを待ちました。果たしてその試合を見ていたのかどうか、記憶にありません。私は自分たちの試合のことばかり考えていました。

我々は、この日のために、秘策を用意していると話しました。果たしてそれが効果を発揮するかどうか、そのことを考えて、頭の中ではもう試合は始まっていました。今でいえば、シミュレーションをしていたのです。

この試合には、埼玉大学付属中学のY先生が応援に来てくれました。顧問の先生が親しいからなのか、バスケットの指導方法の研究をされているためか、以前一度来て、我々は、この先生の指導を受けました。そのときは、1対1でいる状態にどのようにパスを入れるか、パスを受け取る側が、いかにディフェンスを振り切ってもらうかというパターン練習をしたのです。その指導の仕方をいろいろな先生方に示す研究授業だったように思います。

そして、その時は、最大付属中学の部員も連れてきて、やってみせながら指導に当たりました。だから、我々はそのときに埼玉大学付属中学と練習試合もしています。そのときは、みんな背が高く、しかし、都会の子供で、ひ弱そうなひょろひょろとした子が多いなあと感じました。そして、人数が多いなあと感じました。我々の倍はいたように思います。試合は、正式な時間ではなくやったような気がします。そして、負けました。

私たちが、一年の頃はこの埼玉大学付属中学と川越富士見が強くて、その二校で決勝戦が行われたと三年生から聞き、ゲーム感覚で遊ぶ時は、どちらかがこのチームになりきって、遊んだものでした。

野球をするときに、じゃあ、俺たちがジャイアンツな、そっちが阪神だぞ、いいか?と言って、それぞれそのチームになりきって遊ぶことがあります。それと同じことをやっていたのです。

その埼玉大学付属中学が眼の前に来てくれたのでした。考えてみると不思議なことです。余談ですが、私は、その後、埼玉大学に進学し、教育実習でこの中学へいくのですから。そして、バスケット部の面倒をみるのです。それは、このときは、考えもしないことでした。

とにかく、いろんな関係があって、Y先生が応援に来てくれました。

決勝戦が始まりました。
ーーーー
我々の秘策とは、私に対するボックスワンを意味のない物にするためのものでした。それは、ゾーンプレスでした。
私たちのチームは、みんな背が低く、大きいのは私だけです。大きいと言っても並みの大きさで、170センチしかありません。だから高さで負けることがあります。それを関係ない状態にするには、プレスをかけて、リングから遠いところで勝負をするのがいいのです。このゾーンプレスはそういう意味もありました。

まず、シュートが入ると、相手はリング下からパスを出すのですが、もうそこからパスを出させないディフェンスをします。我々の小さい選手3人がその位置からプレッシャーをかけるのです。そして、パスが出たらそのボールを持っている選手に二人かかりで取りに行きます。そうすると挟まれてボールを取られそうになるので、なんとか振りほどいて苦し紛れにパスを出すのです。それを3人目が狙います。

そのときに、私は、センターサークル付近にいて、ロングパスのカットを狙います。最後の一人は、もし、ロングパスが通ってしまったときに備えて、自分たちのリング下に位置して、速攻にそなえます。そういうディフェンスでした。

前の三人は、小さいけれど、すばしっこくてしかも持久力のあるメンバーでした。
実は、この三人は駅伝の選手でもありました。もっと言えば、駅伝で県大会で3位になりましたが、そのメンバーだったのです。持久力ではこれ以上ないすばらしい3人がバスケット部にいたのです。

もう少し、説明すると、一人は、副部長のI君で、共和中出身。一年生の時、ボール持ちで、県北大会に行ったI君です。彼は、共和中学でマラソンが一番速いのでした。後の二人は、私と同じ元児玉中出身のH君とK君で、H君は児玉では小学校時代からマラソンで常に1番でした。例の辞めたいと言ったH君です。K君は、一年生の時に坂をうさぎ跳びで上がらされて、私に勝ったK君です。
この三人が前で、動き回ります。

私はと言えば、センターサークルの真ん中にいて、三人に檄を飛ばします。「当たれーー当たれーー」と叫ぶのです。まるで、戦国時代の武将がひらひらの付いた棒で全軍に指示を出すような感じです。

なんだか、かっこいいですよね。そして、ロングパスが出ると、それをすごい勢いでカットに行くのですから、やっていて一番気分のいいポジションです。この奇襲は成功しました。なぜなら、本庄西はこれに驚いたからです。そして、戸惑いました。

ただ、我々は、動きと勢いはありましたが、シュート力がありません。せっかく良いカットをしても、シュートでポロッと落としてしまって、がっかりしてしまうのです。それが何度もありました。

相手のゾーンを攻めるのではなく、途中カットして、そのまま持ち込む形ですから、シュートは私より前の3人が打つことが多くなりますが、そのシュートがなかなか入りませんでした。

そして、前半が終わってみたら、17-12くらいで負けていました。私は、アレーッと思いました。本庄西は、「おい、俺たち勝ってるぞ!」と意外や意外という感じで、呆れています。まさか勝っていたとはというのです。ハーフタイムで水を飲みにきて、そう言ってはしゃいでいるのが聞こえました。

我々は、脅かして相手を慌てさせたことは、成功していました。問題はシュートが入らなかったことだけです。しかし、負けていたので、気持ちは沈んでいました。

そのとき、応援に来ていた埼玉大学付属中学のY先生が、慌てることはない、君たちは勝てると言ってくれたのです。自信を持ってやれ、自分たちのバスケットをやるんだと言ってくれました。いや、本当は覚えていません。たぶんそのようなことを言ってくれたのだと思います。我々は、夢中で聞いていました。なぜ、あの時、ハーフタイムでY先生が言ってくれたのか、いま考えると不思議です。しかも顧問の先生ではなく、Y先生なのです。
私は、言葉は覚えてないけれど、このY先生が神様のように思えました。我々はきっと勝てるという気になりました。

そして、後半が始まりました。
ゾーンプレスは、効果はあったけれど、得点では負けていたため、今度はオールコートマンツーマンに切り替えました。相手は、前半と同じゾーンでした。
我々は、実はもう一つ秘策を用意していました。それはボックスワンを振り切って私がフリーでシュートを打つ方法でした。
それは、ダブルローポストでした。これは、説明しないとバスケット経験者でも分からないでしょうが、フリースローを打つ場所をハイポストと言います。それに対して、フリースローレーンのリングに近いところをローポストと言います。ダブルポストとはその位置に二人立つのです。

そのポストに大きい選手が立って、ボールをもらうとシュートが打ちやすいため、その攻撃のことをポストプレーという名前がついていますが、我々はそれを二人で行うことを研究したのです。もちろん、そこには私が立ちます。そして、もう一人私の次に背の高いK君が並んで立ちます。
私にはボックスワンのH君が付いています。タイミングを見て、K君が私とH君の間に入ります。それは、K君を壁にして私とH君を引き離すプレーでした。これは、専門的に言えば、スクリーンプレーと言います。それを試みました。そして、まんまと成功しました。H君は慌ててました。「あれーー」と言いました。私は、やったーとばかり、パスを受けて、シュートを打ちました。ただ、久しぶりにフリーになれたので、勝手が違って、そのシュートを外してしまいました。
ただ、その秘策は大成功でした。結局、私は、リング下で、何本もシュートを決めました。

ただ、なんだか変だったのは、いつもよりシュートに対する歓声が少ないように感じました。私のシュートは0度からのジャンプシュートが多くて、0度ですから、バックボードは使いません。だからいつでもリングにスパッと入るかっこいいシュートなのです。そのシュートを決めた時は、ナイスシュート!という弾むような声が響いていました。しかし、リング下から決めたシュートはかっこいいシュートではないからか、その反応が違いました。私は、シュートはシュートなんだから同じような反応を期待したのですが、そうではなかったことをやけによく覚えています。
得点はどんどん開いて行きました。相手は、マンツーマンをやられて、疲れてしまったようで、攻めに苦しんでいます。私たちは、リング下からスクリーンを使って得点を積み重ねて行きます。それに加えて、前半落としていたシュートも他のメンバーが決め出しました。バスケットでは、勝っているのに、得点で負けていたのですから、シュートが入り始めれば、こちらの方か上なのはわかりました。

とうとう、45対28で我々が勝ちました。

終わってみれば、大差でした。

私は、この勝利は、Y先生が与えてくれたものだと思いました。

しかし、それは、間違いです。確かにY先生の声が神様の声のように聞こえました。しかし、それまで、私たちをよく面倒見てくれて、素人であるにも関わらず、よく勉強して、コーチを手配してくれたり、練習試合を組んでくれたり、辞めたい部員を引きとめたり、ありとあらゆる努力をしてくれた顧問の先生がいたからなのです。自分が教員になってみるとそのことがわかります。

私は、実は、顧問の先生が私の中学時代のほとんどを占めています。
中学一年と三年で担任。二年と三年で顧問ですから。K先生一色です。私が先生になりたいと思ったのも、このK先生の影響が大きいと思います。

ですから、この私のバスケットの思い出は、このK先生への感謝として締めくくりたいと思います。有難うございました。

ーーーーー
余談ですが、この後、最後の県大会に行きます。
相手は、忘れてしまいました。我々と同じタイプのチームで、お互いにオールコートのマンツーマンで戦い、私はへとへとになりました。やはり、バスケットは一人の選手が初めから最後まで出ないで、途中で交代して休んでまた出るというパターンでないと、へとへとになってしまいます。それは、後でわかることで、なかなかそこまでは、わかりませんでした。

そして、我々より、背が高く、シュート力もあるそのチームに負けました。残念ですが、そのチームにはリベンジマッチはできません。もう引退だからです。

長いバスケットの思い出を読んでくださったみなさんに感謝します。有難うございました。





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