塩野七生さんのローマ人の物語13を読んでいたら、コンスタンティヌスの凱旋門について、紹介されていました。
ローマの歴史を掴むために読んでいましたが、美術についての知識が得られてよかったです。
この凱旋門は、ローマオリンピックでマラソンのゴールとして使われて、裸足のアベベがゴールしたと以前お話しました。コロッセオのすぐ隣にあり、アッピア街道のスタート地点と言っていいのかなと思います。
大きさは、パリの凱旋門と比べたらかなり小さいですが、デザインが素晴らしいので、有名です。また、コンスタンチヌスという皇帝が313年にキリスト教を公認したことでも有名ですから、この凱旋門も有名になったのでしょう。
今回、読んでみて、知ったことは、この凱旋門がどんな経過で作られたかということです。
実は、これは、コンスタンティヌスが自分で命じて作らせたものではないと分かりました。大抵誰誰の凱旋門などと名前が付いているものは、その本人が作らせたものが多いのですが、この凱旋門は、元老院がコンスタンティヌスの皇帝就任を祝って作らせたものでした。
ローマで皇帝を名乗っていたマクセンティウスを破って、ローマに入ってきたコンスタンティヌスを正式な皇帝として、みんなが認めた後、ごまをするような感じで作らせたのです。
この時代は、正式な皇帝が二人と、副帝という感じで、広く言えば皇帝が4人ですが、四頭政と言われた政治をしていたのですが、順位があったのに、一人二人と皇帝が死ぬと、次の皇帝はだれがなるかという感じで、争いがあって、けっきょくコンスタンティヌスがマクセンティウスと戦うことになってしまったのでした。そして、コンスタンティヌスはローマを攻めるという形になったのですが、その時に初めてローマを見たようです。
ただ、コンスタンティヌスは副帝になっていましたから、皇帝としてはかなりの時間が経っていて、皇帝就任10周年に間に合うように凱旋門を作ることになったようです。それにしても時間が無いということで、この凱旋門は、ハドリアヌスが作ったものを利用して、いろいろなものを張り合わせて作ったのだということがわかりました。張り合わせたとは、彫刻や浮き彫りです。
そして、その表現が時代によっていろいろなので、そういう意味で美術史的に興味のあるものになっています。それを今回初めて知りました。塩野さん有難う。
トライアヌス帝の時代の彫刻、ハドリアヌス帝の時代の浮き彫り、マルクスアウレリアス時代の浮き彫り、そしてコンスタンティヌス時代の浮き彫りと分けて、紹介されていましたが、五賢帝時代の表現の方がその後のコンスタンティヌス帝の時代より表現が優れているのが不思議でした。
時代が後の方が優れた作品が出て良いはずです。なぜだろうと疑問に思います。塩野さんもそう言っています。
とにかく、今回知りえたことは、
1、この凱旋門は、元老院が作って、コンスタンティヌスにお祝いで贈ったものであること。
2、すでにあったものを張り合わせて、パッチワーク的に作ったこと。
3、お祝いに間に合わせるために、2年間で完成させた。
4、後の時代の浮き彫りの方が表現が稚拙であること。
です。
なぜなのかは、ある程度想像はつきますが、すこし調べてみたいと思います。
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そうだ、これから読むのですが、キリスト教公認は313年のミラノ勅令ということになっているのですが、それより2年前にガレリウスが公認しているのだそうです。では、なぜそれが言われずにミラノ勅令だけがみんなに知られているのか、それについてこれから読みます。
ローマの歴史を掴むために読んでいましたが、美術についての知識が得られてよかったです。
この凱旋門は、ローマオリンピックでマラソンのゴールとして使われて、裸足のアベベがゴールしたと以前お話しました。コロッセオのすぐ隣にあり、アッピア街道のスタート地点と言っていいのかなと思います。
大きさは、パリの凱旋門と比べたらかなり小さいですが、デザインが素晴らしいので、有名です。また、コンスタンチヌスという皇帝が313年にキリスト教を公認したことでも有名ですから、この凱旋門も有名になったのでしょう。
今回、読んでみて、知ったことは、この凱旋門がどんな経過で作られたかということです。
実は、これは、コンスタンティヌスが自分で命じて作らせたものではないと分かりました。大抵誰誰の凱旋門などと名前が付いているものは、その本人が作らせたものが多いのですが、この凱旋門は、元老院がコンスタンティヌスの皇帝就任を祝って作らせたものでした。
ローマで皇帝を名乗っていたマクセンティウスを破って、ローマに入ってきたコンスタンティヌスを正式な皇帝として、みんなが認めた後、ごまをするような感じで作らせたのです。
この時代は、正式な皇帝が二人と、副帝という感じで、広く言えば皇帝が4人ですが、四頭政と言われた政治をしていたのですが、順位があったのに、一人二人と皇帝が死ぬと、次の皇帝はだれがなるかという感じで、争いがあって、けっきょくコンスタンティヌスがマクセンティウスと戦うことになってしまったのでした。そして、コンスタンティヌスはローマを攻めるという形になったのですが、その時に初めてローマを見たようです。
ただ、コンスタンティヌスは副帝になっていましたから、皇帝としてはかなりの時間が経っていて、皇帝就任10周年に間に合うように凱旋門を作ることになったようです。それにしても時間が無いということで、この凱旋門は、ハドリアヌスが作ったものを利用して、いろいろなものを張り合わせて作ったのだということがわかりました。張り合わせたとは、彫刻や浮き彫りです。
そして、その表現が時代によっていろいろなので、そういう意味で美術史的に興味のあるものになっています。それを今回初めて知りました。塩野さん有難う。
トライアヌス帝の時代の彫刻、ハドリアヌス帝の時代の浮き彫り、マルクスアウレリアス時代の浮き彫り、そしてコンスタンティヌス時代の浮き彫りと分けて、紹介されていましたが、五賢帝時代の表現の方がその後のコンスタンティヌス帝の時代より表現が優れているのが不思議でした。
時代が後の方が優れた作品が出て良いはずです。なぜだろうと疑問に思います。塩野さんもそう言っています。
とにかく、今回知りえたことは、
1、この凱旋門は、元老院が作って、コンスタンティヌスにお祝いで贈ったものであること。
2、すでにあったものを張り合わせて、パッチワーク的に作ったこと。
3、お祝いに間に合わせるために、2年間で完成させた。
4、後の時代の浮き彫りの方が表現が稚拙であること。
です。
なぜなのかは、ある程度想像はつきますが、すこし調べてみたいと思います。
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そうだ、これから読むのですが、キリスト教公認は313年のミラノ勅令ということになっているのですが、それより2年前にガレリウスが公認しているのだそうです。では、なぜそれが言われずにミラノ勅令だけがみんなに知られているのか、それについてこれから読みます。