絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

コンスタンティヌスの凱旋門

2009-12-09 | 美術
塩野七生さんのローマ人の物語13を読んでいたら、コンスタンティヌスの凱旋門について、紹介されていました。

ローマの歴史を掴むために読んでいましたが、美術についての知識が得られてよかったです。

この凱旋門は、ローマオリンピックでマラソンのゴールとして使われて、裸足のアベベがゴールしたと以前お話しました。コロッセオのすぐ隣にあり、アッピア街道のスタート地点と言っていいのかなと思います。

大きさは、パリの凱旋門と比べたらかなり小さいですが、デザインが素晴らしいので、有名です。また、コンスタンチヌスという皇帝が313年にキリスト教を公認したことでも有名ですから、この凱旋門も有名になったのでしょう。

今回、読んでみて、知ったことは、この凱旋門がどんな経過で作られたかということです。

実は、これは、コンスタンティヌスが自分で命じて作らせたものではないと分かりました。大抵誰誰の凱旋門などと名前が付いているものは、その本人が作らせたものが多いのですが、この凱旋門は、元老院がコンスタンティヌスの皇帝就任を祝って作らせたものでした。
ローマで皇帝を名乗っていたマクセンティウスを破って、ローマに入ってきたコンスタンティヌスを正式な皇帝として、みんなが認めた後、ごまをするような感じで作らせたのです。

この時代は、正式な皇帝が二人と、副帝という感じで、広く言えば皇帝が4人ですが、四頭政と言われた政治をしていたのですが、順位があったのに、一人二人と皇帝が死ぬと、次の皇帝はだれがなるかという感じで、争いがあって、けっきょくコンスタンティヌスがマクセンティウスと戦うことになってしまったのでした。そして、コンスタンティヌスはローマを攻めるという形になったのですが、その時に初めてローマを見たようです。

ただ、コンスタンティヌスは副帝になっていましたから、皇帝としてはかなりの時間が経っていて、皇帝就任10周年に間に合うように凱旋門を作ることになったようです。それにしても時間が無いということで、この凱旋門は、ハドリアヌスが作ったものを利用して、いろいろなものを張り合わせて作ったのだということがわかりました。張り合わせたとは、彫刻や浮き彫りです。

そして、その表現が時代によっていろいろなので、そういう意味で美術史的に興味のあるものになっています。それを今回初めて知りました。塩野さん有難う。

トライアヌス帝の時代の彫刻、ハドリアヌス帝の時代の浮き彫り、マルクスアウレリアス時代の浮き彫り、そしてコンスタンティヌス時代の浮き彫りと分けて、紹介されていましたが、五賢帝時代の表現の方がその後のコンスタンティヌス帝の時代より表現が優れているのが不思議でした。

時代が後の方が優れた作品が出て良いはずです。なぜだろうと疑問に思います。塩野さんもそう言っています。

とにかく、今回知りえたことは、
1、この凱旋門は、元老院が作って、コンスタンティヌスにお祝いで贈ったものであること。
2、すでにあったものを張り合わせて、パッチワーク的に作ったこと。
3、お祝いに間に合わせるために、2年間で完成させた。
4、後の時代の浮き彫りの方が表現が稚拙であること。

です。
なぜなのかは、ある程度想像はつきますが、すこし調べてみたいと思います。

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そうだ、これから読むのですが、キリスト教公認は313年のミラノ勅令ということになっているのですが、それより2年前にガレリウスが公認しているのだそうです。では、なぜそれが言われずにミラノ勅令だけがみんなに知られているのか、それについてこれから読みます。






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バスケットの思い出 余話5

2009-12-09 | 思い出
昨日、なかまちにいたら、K君が来ました。

K君には、時々会っていますが、久しぶりにバスケット部の時の話をしました。
私がバスケットの思い出を書いたことを話して、後で読んでほしいと言いました。

このK君は、高校になってから空手を始めて、その後の人生では空手の先生として指導を続けています。今は、体を壊して実践はできなくなりましたが、それでも育てた指導者が幾人もいるので、今でも、その各支部を周って、指導を続けているのです。実績は、小学生の部で、何人も日本一の成績をあげました。すばらしい指導者です。

そのK君が、昨日も思い出して言うことには、「やはり、中学時代のバスケットがあったから今の自分がある」と言いました。もし、バスケット部でなかったら、俺はどうなっていたかわからないなあと。

実はK君は、喧嘩をやらせたら誰にも負けないだけの力を持っていました。背は小さかったのですが、気が強く腕っぷしも強かったのです。

だから中学時代、少し突っ張りたい奴もこのK君には敵わず、みんな小さくなっていました。

このK君と私の中は、例のうさぎ跳びの競争です。また、練習中に勝手なドリブル練習をしていたので、私が呼びつけて、ボールをぶつけたことで紹介しました。
だから考えてみると、私もなかなかの度胸ですよね。喧嘩をやれば、私が負けるのは目に見えているのです。

その時の、話をしてみました。すると、K君は覚えていないと言いました。
ただ、覚えていないのは、それほど頭に来た訳でもなかったんだと思うし、それは自分が悪いからだと思ったんだろうなと言いました。
また、私の気持ちも今ならよくわかるよと言いました。それは、自分が空手の指導者になってみて、そういう場面がいくつもあるというのです。

ただ、菅野はそういう感覚をもう中学時代から持っていたんだなとそれに感心すると言っていました。俺なんか自分のことしか考えられなかったと。どうやれば自分がレギュラーになれるかということばかりで、人のことや全体のことを考えられなかったよと。

話が先輩にしごかれたことに移ると、「俺たちはよくいじめられたなあ」と言いました。「特に、俺とお前は」と。

私は、K君がいじめられたことはよく覚えているのですが、自分のことは忘れてしまいました。だから、俺とお前はと言われた時、私もか?という気持ちがありました。私の場合は、プレッシャーをかけられたけれど、ことごとく先輩が驚く反応を示して、あのやろうすごいなと言わせたような気がするのです。

あんな過酷なことを言ったのに、やっちゃったぜと先輩を驚かすことが多かったとなんとなく、マンガみたいなことを多く覚えているのです。できっこないと思って、やれと言ったのに、やっちゃったという感じですね。

じゃなかったかな?と思うのですが、今度具体的にどうだったのか、もう少しよく聞いてみたいと思います。

それより、K君に対するいじめです。

K君は、よくグランドを走らされました。失敗をするとすぐグランド1周をさせられます。大抵は100数えるまでに帰ってこいと言われます。そして、先輩が数えるのですが、K君が近づいてくると、急に数える速度が速くなって、「はい駄目、もう1周」とわざと追加で走らされます。あまりに何度も走らされるので、K君も意地になって、わざと100を超えるように帰ってきて、もう1周と言われる前に、自分から「行ってきまーす」と言って、走り続けるようになりました。

あるとき、野球部でも同じように走らされている選手がいました。先輩たちは数えるのが嫌になったのか、野球部のあいつを抜いたら、終わりにしていいよと言いました。見ると、その野球部の選手は、グランドの反対側を走っています。抜くのは大変です。そして、なかなか速いのです。
後で聞くと、野球部の先輩も、K君を見つけて、あいつを抜いたら終わりにしていいよと言ったらしいのです。だから、二人のマラソンはいつまでたっても終わりません。先輩たちは野球部の先輩と示し合わせて、そのように走らせたのかもしれません。とんでもないいじめですね。

このことが、いじめの象徴です。

しかし、このいじめによって、K君はその後駅伝選手になるのです。マラソンがとても得意な選手になりました。だからでしょうか。彼はむしろあの時走らされたことが俺にとってはよかったんだ。だから俺は先輩に感謝しているよ。と言いました。私は、プレーで先輩を負かすことで、恩返し?をしました。K君は、マラソンで、負かすことで恩返しをしたのです。

なぜなら、その年の冬のマラソン大会で、K君は1年生なのに、3位になります。
1位は、バスケット部の3年生でしたが、2位は小学校の時から常にマラソンで1位だったやはりバスケット部のH君でした。辞めたい騒ぎをして、私がわかったとそっけない態度を取ったために辞めなかったとお話ししたH君です。

私の同級生は、マラソンの強い二人がいたのです。

しかし、その時の様子をドラマにしたら、一時間番組が作れますね。K君が自分をいじめた先輩たちをマラソン大会で抜いて行くときの状況が目に浮かびます。先輩たちがヒーヒーいいながら、走っているところを「先輩、お先に」と涼しい顔で抜いて行くのは、痛快でしょう。お陰で僕はマラソンが大好きになりました。とでも言えば面白いかなと。

昨日はそんな話をして別れました。





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