絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

ボッチチェリー2

2009-12-25 | 美術
システィーナ礼拝堂のボッチチェリーの絵を紹介します。

まず、モーゼの生涯です。

この絵は、モーゼの試練です。



この絵は、反逆者たちの懲罰という絵ですが、モーゼが凱旋門の前で、反逆者たちに罰を与えています。
しかし、おかしいことがあります。
それは、この凱旋門がコンスタンチヌス帝の凱旋門だからです。尤も、凱旋門自体がおかしいかな?モーゼの時代にこのような凱旋門はなかったでしょうね。
コンスタンチヌス帝の凱旋門は、もうこのブログでは何回も紹介しましたが、1960年のローマオリンピックの時に、マラソンのゴールで使ったもので、裸足のアベベが金メダルを取ったことで有名になりました。
その凱旋門は、313年にミラノ勅令を出したコンスタンチヌス帝のために作られたものです。すでに出来上がっているものを利用して、彫刻などを組み合わせて作ったと言われるので、いろいろな寄せ集めの部分があって興味深いものです。

しかし、モーゼは、BC1000年くらいの人ですから、それがあるわけありません。ルネッサンスのボッチチェリーが想像で描いたものです。勝手に使ってしまったということですね。

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そして、キリストの生涯です。



これらの絵は、ミケランジェロが天井画を描かされる25年も前に描いたものです。完成は、1483年です。ラファエロが生まれた年ですね。

ボッチチェリーは、一年で絵を仕上げ、フィレンツェに帰ってしまいました。

注文したのは法王シクストゥス4世で、画家を選んだのはロレンツォ豪華王だと言われています。リーダーは、やはりボッチチェリーでした。

因みに、この建物がシスティーナ礼拝堂といわれますが、それはこのシクストゥスから取っているようです。
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ボッチチェリー

2009-12-25 | 美術
システィーナ礼拝堂の天井壁画と最後の審判については、先日お話ししました。

そのときに、両サイドにある絵については、また後でと言って、そのままでした。

すこし、触れてみたいと思います。

この両サイドの絵は、14名の画家が選ばれて描いたといいましたが、その時は、ボッチチェリーが中心だったのかなと思います。ボッチチェリーは、一人で3枚描いています。正面に向かって右側がモーゼの生涯、左側がキリストの生涯だったと思います。

その他の画家たちは、画集を見るとわかりますが、私も暗記するほど掴んでいません。ただ、ラファエロの先生であるペルジーノがいました。それだけは記憶にあります。

そのとき、年齢的にも力的にも当然選ばれても不思議ではないレオナルドがいません。その理由は、定かではありませんが、どうも絵を描くのが遅いとか、自分で納得しないと途中でやめてしまうとか、心配だったので選ばれなかったのではないかと言われています。

要するに、協調性がなかったからでしょう。よく言えば、完璧主義だったので、決められた通りにはやってくれないということが原因でした。

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ただ、レオナルドとボッチチェリーは、同じベロッキョ先生の所で、働いていましたから、仲も悪くはなかったと思うのです。フィレンツェのサンタマリアデルフィオーレ教会のクーポラの上に球と十字架を立てるときには、一緒に携わったらしいのです。そのときは、二人とも若くて、ベロッキョ先生のところにいたのです。

ボッチチェリーは、レオナルドより8歳年上でしたから、ボッチチェリーが22歳でレオナルドが14歳だったのかな?そのくらいの年齢でした。
ボッチチェリーは、ベロッキョ先生のところにいたのは、数年で弟子というより、共同で仕事をする仲間くらいの感覚だったでしょう。

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ボッチチェリーからしてみたら、まだレオナルドは駆け出しという感じで見ていたでしょう。しかし、28歳のとき、レオナルドが20歳で、画家組合に入ってきます。絵の力が優れていたので、20歳で入って来たのにはボッチチェリーも驚いたようです。その画家組合は、聖ルカといいました。

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だから、絵の力は優れていて、しかもボッチチェリーとの関係も良かったので、選ばれても良かったのですが、ボッチチェリーは誘わなかったのです。

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この話は、長くなるので、少しづつ話します。

つづく
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