私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

その手を動かしているは誰だ!

2015年05月20日 07時48分14秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇その手を動かしているは誰だ!◇

簡単なことです。
あなたの手や足をちょっと動かしてみてください。
できるだけ、普段やらないような動かし方をわざとやってください。
鼻をほじくるとか、指を口に入れて強く噛んでみるとか。

そのようにあなたの手や足を動かしているのは誰ですか?
あなたでしょ?

手や足はあなたの思った通りにちゃんと動いているでしょ?
そこにあなたの自由な意志もちゃんとあるでしょ?

そうやって、自由に手や足を動かしている「私」にフォーカスしてください。

あなたの手足のことや、あなたの周りで起こることの責任を、何か別のものに転嫁しないでください。
あなたの責任から逃げないでください。
主体性(主導権)を安易に放棄しないでください。

逃げているうちは、どうにもなりません。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。

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苦に気づき、苦に浸りきる

2015年05月16日 10時25分06秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇苦に気づき、苦に浸りきる◇

悟って楽になった、幸せになったと言っておられる方、確かにあなたは幸せな方です。
あなたはまだ、幸せを追いかけておられるのです。

私(慧空)は、そのような方には用がありません。
そのような方にとって、私はむしろ邪魔ものです。

しかし、そういう方の中にも、苦と楽の関係(あるいは、幸、不幸の関係)について、自分の思い込みに対する気づきや、何か本質的な違和感を感じる方が出てきます。

例えば、最初の着眼は次のようなポイントかもしれません。

・楽を求めるから迷うのであって、そうすることにより余計に苦しくなっているのではないか。
・果たして楽とは本質的なものなのか。
・むしろ、楽こそが幻で、苦は常にあるものではないのか。
・苦にどっぷりと浸りきれば、それで済むのではないか。


敢えて申し上げます。

深い悟りとは、深い深い苦しみに気づき、その中に入っていくことです。

決して楽になっていくものではありません。

深い深い苦しみの中にどっぷりと浸りきり、そこに安住できたとき、最終的な悟りに至ります。

それには、苦から逃げる気持ちが限りなく薄くなり、またどんな苦も受けて立つという、本当に深い覚悟が必要なのです。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。

※現在、スカイプセッションについては一部又は全部を無料化する方向で検討中です。
 近日中に結論を出して、公表したいと思っています。


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自我は都合がいい

2015年05月12日 15時31分28秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇自我は都合がいい◇

私という自我は、どこまでも都合良くできています。
その途方もない徹底ぶりは、あきれるばかりです。

例えば、法や真理に対するときの自我がそうです。
全体とか、根源とか、不二や、ひとつのもの、神もそうです。
それらを主張する方は、この現実や私という自我については幻や幻想であると仰るのに、全体や不二等についてはそれを真実であると仰います。

しかし、そんな都合のいい話があるでしょうか。
冷静によく考えてみてください。
現実や私という自我と、全体や不二等との間にどんな違いがあるというのでしょう。
現実や私という自我が幻だと仰るのなら、現実や私という自我が幻であるというその主張に根拠や証拠となり得るものがあるのか、しっかり確認して頂きたいと思います。
また、全体や不二等が真実であると仰るのなら、現実や私という自我とどのような違いがあり、それらが真実であると主張されるのか、その根拠をちゃんと確かめて頂きたいと思います。

現実や私という自我についてはそれが幻であると見破ったのに、全体や不二等については追求も確認もろくにせず、それを簡単に受け入れてしまうのは、あまりに都合がよすぎるとは思いませんか?
そこに何も違和感を感じませんか?

何も違和感を感じないのは、あなたの自我の都合がよすぎるからです。

あるいは、それはあなたが幼稚だからだと言ってもいい。

幼稚だから、まだ何かに甘えて依存したいのでしょう。

ちょっと言い過ぎましたか。
まあ、まあいいでしょう。(^o^)


少し話しは変わりますが、楽や幸せについても同じようなことが言えます。

私という自我は、苦楽や幸不幸を感じます。
この苦楽や幸不幸の営みは当たり前のことなのです。

しかし、自我は都合がいいものですから、楽や幸福を感じるとそれにしがみつこうとします。
それだけでなく、楽や幸福こそが真実であると思い込んでしまいます。
そして、苦や不幸な状態は本来の状態ではない等として、排除しようとします。

どこに、楽や幸福こそが真実であるという根拠があるというのでしょう。

いつまで、そうやってぼーっと、自我の都合のよさに付き合っているつもりなのですか。

シャキッと目を覚まして、冷静によく見てください。

私という自我の都合のよさに気づいてください。

そして、あなたが自我の都合のよさに流されて安易に繰り返しているその判断や、その主張の矛盾に気づいてください。


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悟りを求める心と自覚

2015年05月11日 22時46分14秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇悟りを求める心と自覚◇

悟りに至るとき、突如として悟りの方からやってくるパターンと、悟りに対して何らかの意図を持って歩んでいる過程でそれに至るというパターンがあります。
前者の場合は悟りが勝手にやってくるパターンなので本人の悟りへの意志が問題になることはありません。
しかし、後者の場合は、悟りに対する強固な意志がカギになっているケースもあり、悟りへの意志はしっかりとした強固なものである必要があります。

現実問題としては、そのような悟りを求める心は、悟りの道を歩む過程で、歩を進める原動力になることもある一方、障害となることも多々有ります。
今日はその周辺について書いてみたいと思います。

まず始めに強く申し上げておきたいことは、意図して悟りの道を歩む際には、悟りへの強固な意志が必要なんです。
これは間違いありません。
その理由は単純で、悟りへの意志が歩を進める姿勢や原動力の源になるからです。
特に、深い悟りになるほど、燃え上がるような強い発心を伴った悟りへの意志が必要になることが多いのではないかと思っています。

しかし、現実には、悟りを求める心が悟りの道を歩む際の障害になってしまうことが多いのも事実です。
その理由は主に二つあります。

一つ目の理由は簡単です。
それは、悟りを求める心に潜む欲です。
多くの方は、悟るに対して何らかの特別なイメージを持っていて、悟るとその特別な何かが得られるように思い込んでいます。

例えば、幸せになれるとか、何をやっても上手くいくようになるとか、カリスマ性が得られるとか、何か特殊な能力が得られるとか、その他いろいろです。
自分はそんなバカな幻想は抱いてないと仰る方でも、まず間違い無く、それなりの幻想は必ず持っておられます(私(慧空)自身も、少しはありました、笑)。
このような欲や妄想のような期待感は、やはり悟りの道を歩む際の障害になります。
欲が強い場合は、それだけで悟りの歩みを完全に止めてしまいます。

この点について、悟りの道は、何かを得ていくものではなく、むしろ失っていくものなのです。
確かに、小悟等の浅い悟りでは幸福感が生じることがよくありますが、最終的な悟りになると、残念なくらい何もありません(幸福感さえもありません、(^o^))。
無用な幻想は捨てて頂きたいと思います。
その妄想があなたの歩みを妨げています。

もう一つの理由は、悟りを求める心に伴う意識の動き方です。
私たちの意識は、何かを求めると、必ず意識の向きが外に向かいます。
意識の向きが外向きになると、小悟等の浅い悟りはそれでも得られるときもあるのですが、大悟から先の深い悟りについては、まず得られないのです。
悟りを求める気持ちが強ければ強いほど、意識が悟りを探し求めるようにして、意識がより一層外向きになってしまうのです。

ですから、悟りを求める心をそのままにしておくと、いつまで経っても堂々巡りで埒(らち)が明かないということになりかねません。

ここで、自覚が有効に作用します。
悟りを求める心を自覚するのです。
悟りを強く求めている自分に気づいたら、「ああ自分は、本当に強く悟りを求めているんだな」と自覚するのです。

すると、外側に向いていた意識がすっと「私」に向き、それによって、悟りを求める強力な意識の視線が「私」に注がれるようになります。
また、自分の意識が外側に向いていることに気づいたら、その度に、意識の向きを「私」に振り向かせるようにします。
強い意識の視線が「私」に振り向けられる度に、私という自我を構成する囚われ(執着)が削られていきます。

そのように、自覚を上手に使い、悟りの道を歩んで頂きたいと思います。


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自らの姿に気づく

2015年05月10日 07時46分03秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇自らの姿に気づく◇

みなさんの意識は、絶えず何かを求め彷徨っています。
あるいは、何かの考えについて、それが絶対だと思い込み、それに必死に縋り付いています。

その自分の姿に気づいて頂きたい思います。
そのためには、外ではなく、「私」に意識を向け、「私」をしっかりと見て頂きたいと思います。
そして、自分がなぜ何かを求めて彷徨っているのかをしっかりと考えて見て頂きたいと思います。

どうして、あなたは何かを求め彷徨うのでしょう?

あるいは、どうしてその考えにしがみついているのでしょう?

考えてください。



  *  *  *  *



何かピンときませんか?

さらに考えてください。



  *  *  *  *



苦しいからではありませんか?

あるいは、苦しみから逃れようして、そうしているのではありません?

誤魔化さないで、自分自身をしっかりと見てください。

苦しんでいるあなたが、そこにありませんか?


もし、あなたが苦しみ気づいても、慌てないでください。

それで普通であり、当たり前のことです。

何も問題はありません。(^o^)


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あなたにとって大切なことは何ですか

2015年05月08日 14時26分06秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇あなたにとって大切なことは何ですか◇

あなたにとって大切なことは何ですか?

あなたは自分の大切なことに気づいていますか?

この問いかけに対し、みなさんそれなりのお答えを持っておられるのだろうと思います。
例えば、家族や、仕事や、人との関わりに関することや、夢や希望に関することを大切だとお答えになる方が多いのではないかと思います。

そのお答えでももちろん悪くはないのですが、あなたがもっと大切にしておられることがあるはずだと思います。
家族や仕事や夢などは、状況が変われば、それを大切に思う気持ちも無くなってしまったり、変わってしまうことがあります。

あなたにとって大切なことは、状況が変わっても無くなったりはしないはずです。

あなた自身に意識を向け、自分にとって大切なことは何なのか、一度よく考えてみて頂きたいと思います。
自分は何を大切にして、あるいは大切だと思って生きているのかを、徹底的に確認してみて頂きたいと思います。


  *   *   *   *


ヒントは、あなた自身の生き方や生きる姿勢にあります。

さらに、考えて頂きたいと思います。

何かピンときませんか?


  *   *   *   *


答えは、人それぞれだと思いますから、私がそれをここに書くのはどうかと思います。
また、私がそれを具体的にここに書くのは少し難しいです。

このままこの記事を終わってしまうことも考えたのですが、それだとちょっと物足りない感じがしたのと、ヒントも伝わりにくい感じがしました。
それで、私(慧空)にとって大切だったことを書いてみたいと思いました。

私も、家族や仕事はとても大事だったのです。
でも、そのもっと深いところに、もっと大切なものがありました。

それは、以下のいくつかの想いで表現される自分自身の生きる姿勢のようなものでした。
そのいくつかの想いとは、
「簡単には諦めたくない」、
「絶対に後悔したくない」、
「納得したい」、あるいは「納得できるまで徹底的に取り組みたい」などです。

私は、これらの想いを大切にし、それらと向き合っているうちに最終的な悟りに導かれたということもできるのだと思っています。


みなさんが、ご自分の内面にある大切なことから、あるいは私のこの文章から何を理解され、何を導かれるのかは人それぞれなんだろうと思います。

最後に余談として、私(慧空)が思っていることを少し書きますね(いつも私は、お節介に言い過ぎてしまいます、笑)。
一つは、カルマとの関係についてです。
自分にとって大切なことを大事にし、それと向き合って生きることは、カルマの解消や深い悟りと関係しているのだろうと思っています。

もう一つは、その人が人生で体験し、またつくり上げる人生の内容との関係についてです。
おそらく、自分にとって大切なことを大事にして、それと向き合って生きることと、人生で何をどう行動するかという具体的な人生の内容との間には、それ程本質的な関係はないのだろうと思っています。
つまり、大切なこととしっかりと向き合ってさえいれば、具体的な人生の内容は余り関係ないのだろうと思っています。

さらにもう一つは、人生で経験する困難や苦しみとの関係についてです。
自分にとって大切なことから逃げずにどこまでしっかりと向き合えているかについて、その姿勢が本当に試されるのは、おそらく多くの方の場合、困難や苦しみ、あるいは恐怖を伴う状況においてなのだろうと思っています。
ですから、苦しいときほど、より強くかつ逃げずに、自分にとって大切なことと向き合う必要があるのだろうと思っています。


もう一度お伺いします。

あなたにとって大切なことは何ですか?

苦しいときこそ、それを大事にし、向き合って頂きたいと思います。


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無明を悟る

2015年05月03日 09時07分54秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇無明を悟る◇

無明について、多くの方は、まだ悟りが得られず迷っていることというような理解をしておられるようです。
そのような方は、悟ることを光明を得る等の表現をされます。

しかし私は、無明について全く違った考えを持っています。
私は、無明とはこの世界の、あるいは「私」という存在の本質的な姿を表していると思っています。

つまり私は、光よりも闇が本質だと理解している訳です。

この光と闇に関する考察は、大変興味深いものであり、かつ本質的な視線を含んでいます。
みなさんもぜひ、考えてみて頂きたいと思います。

光とは楽や快あるいは充であり、闇は苦や恐れですから、表現を変えると、楽と苦のどちらが本質かということです。

おそらく、多くの方は、光が本質だと考えられると思います。
ごく一部に、光も闇もどちらも本質ではないと考える方がおられるんだと思います。

これ以上は、私がいくら言ってもダメでしょうから、ご自分で考え、追求して頂きたいと思います。


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涅槃体験の効用など

2015年04月13日 09時23分24秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇涅槃体験の効用など◇

先日「涅槃を体験する方法」という記事を書きましたが、今日はその体験の効用などについて書いてみたいと思います。

先日の記事の中でも書きましたが、基本的には、涅槃の体験は他の禅定体験と同様に、それ自体は悟りとは関係がなく、それを体験したからといって悟れる訳ではありません。
しかし、全く何の役にも立たないという訳ではなく、人によっては悟りを進める上で大変役に立ちます。
今日は、どのような点でその体験が役に立つのかを書いてみたいと思います。

私は、その体験には主に二つの効用がると思っています。
一つ目の効用として、一切は幻であるという理解の助けになります。
悟りの階梯を進み、「観るものは観られるもの」の悟りである大悟まで至り、さらに進んでいくと、私とは意識、あるいは意識の連鎖そのものであるという理解が生じます。
ここまで来ると、その意識であると言っているものも幻だろうということは一応は理解できているのだろうと思うのですが、それがどこまで腑に落ちているのかというとちょっと怪しいというか、まだ少しモヤモヤとした曖昧なところが残っている人もいるのではないかと思うのです(私(慧空)自身、そうでした)。

それが、涅槃を体験することで、私そのものである意識も幻であることが腑に落ちるんです(私の場合は腑に落ちました)。
どういう具合に腑に落ちるのかと言いますと、私は意識そもものだという理解が得られている人は、意識である私がこの世界そのものだと理解しているはずなのです。
そのような理解を得ている人が、涅槃に落ちると、意識が完全に断絶しますから、それと同時に世界も完全に消失する訳なのです。
それを目の当たりすると、否応無しに、一切が幻であるということが附に落ちてしまうのです。
もちろん、涅槃に落ちて意識が断絶しているときは、自分の意識が断絶していることも、世界が消失していることも認識できません。
涅槃から通常の意識に戻って来たときに、それを認識するのです。

この一つ目の効用と関連して、人によっては涅槃の体験を切っ掛けに大悟を得る方がいるのだろうと思っています。
どういうことかと言いますと、大悟を得る直前の人は、既に大分思考が抑制され、意識の集中が進んでいます。
そういう人が涅槃に落ち、涅槃から通常の意識に戻ってくるときは、高い意識の集中を保った状態で通常の意識に戻ってきます。
涅槃から通常の意識の戻ってくるときは、五感の認識(音の認識が多いです)に対する認識に伴って戻ってくるときが多いのですが、そのような意識の集中が高い人は、涅槃から戻って来た瞬間に、自分の意識が音そのもの、あるいは音に対する認識そのものであることを実感し、それに気づくことがあるのです。

余談ですが、大悟は、このような涅槃の体験に限らず、高い意識の集中が生じているときに、ストンとその理解が生じることがあります。
例えば、瞑想や座禅中に、何かの音を聞いて、あるいは何かを見て、その音や対象と自分の意識の統合(主客の統合)を実感し、理解するという体験例は、以前から複数あるようです。

二つ目の効用としては、その体験が一切皆苦に対する気づきの助けになることです。
涅槃に落ちているときは、意識が完全に断絶していますから、世界もそれに対する認識もない訳です。
煩わされるものが一切無い訳です。
それに対し、通常の意識に戻ってくると、私という自我が起こり、この世界で起こる現象に付き合わされ、引きづり回される訳です。
そして、自分でも気づかない知らず知らずのうちに、いつもの状態と涅槃とを比べてしまうのです。
例えどんなに素晴らしい現象が起きようと、一切何も無い涅槃に比べれば煩わしく思えてしまうのです。

そのような人は、究極に覚めた目で世界を観るようになっていきます。
そして、どのような現象も一切苦であるということを理解することになります。

ただし、涅槃の体験は効用ばかりではありせん。
それはちゃんと他の影響ももたらします。

その他の影響とは、例えば涅槃に対する囚われ(執着)です。
中には、涅槃を究極で絶対的なものだと思い込んでしまう人もいるのだろうと思います。
また、涅槃に執着する余り、涅槃を求め、涅槃に入り浸る人もいるのだろうと思います。

ここで、また自覚が効力を発揮します。
涅槃もまた、私の考えであり、幻なのです。
ですから、涅槃にも囚われないようにして頂きたいのです。

涅槃を知り、苦を知り、その苦に対する反応として生じている自らの衝動を知ります。
そこまで知れば、終わります。


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内面のモヤモヤと自覚

2015年04月10日 08時12分28秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇内面のモヤモヤと自覚◇

私たちの内面には、何だかよく分からないモヤモヤとした何かがあります。
自分には無いと言う方がおられるでしょうが、それはあなたの誤解です。
必ずありますから、あなたの内面をしっかりと見つめてください。

そのモヤモヤが私という存在の根っ子です。
感覚や感情、思考、衝動など、私にかかわることはすべてそこから起こってきます。

また、そのモヤモヤは、私という存在の根っ子にある「苦」そのものであるということもできます。
あるいは、私という自我の衝動そのものだということもできます。

さらに、そのモヤモヤは、自我が握り締めた考え(囚われ)の集合ということもできます。
そのモヤモヤとした感覚は、それらの囚われとの関連で起こってくる不安や恐れ、衝動なのです。

あなたのその内面にあるモヤモヤを誤魔化さないでください。
それから目を背けないでください。
あなたの内面にはまだ、モヤモヤとした何かがあるはずです。
あなたの内面に目を向け、モヤモヤを捉えてください。

そして、自覚の目でそのモヤモヤを見つめてください。
モヤモヤを焼き払うくらいの強い気持ちを持って、見つめてください。

そうやってモヤモヤを見つめていれば、いずれモヤモヤが溶けるように小さくなっていきます。


<補足(2015年4月11日)>
モヤモヤについて、メールでご質問を頂きましたので、補足しておきたいと思います。

ご質問の内容は、モヤモヤについて、それは過去記事で私が書いている、ハートのコアと同じものか、というものでした。

モヤモヤは、ハートのコアと同じものではないです。
モヤモヤの大きさや感じ方等は、悟りの深さと関係しています。
ハートの付近に感じる人が多いのかもしれませんが、頭でそれを感じる人もいるのだろうと思います。
ハートのコアがまだ残っている人は、モヤモヤにはそのコアも含まれています。
コアが消えてもなお、モヤモヤは残ります。


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涅槃を体験する方法

2015年04月06日 13時46分32秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇涅槃を体験する方法◇

一昨日の記事の流れで、涅槃を体験する方法について書いておこうと思います。

ここで言う涅槃とは、最終的な悟りを得た人が肉体の死に伴って至ると言われている涅槃とは少し違っていて(私は実質的には同じだろうと思っています)、感覚や認識を含めた一切の意識が断絶した状態である滅尽定のことを言っています。
なお、滅尽定は何段かある禅定の最深度にある禅定であり、涅槃の体験は禅定体験の一種と言うことができます。
禅定の体験は、悟りとは基本的に関係はありませんので、涅槃の体験も悟りは基本的に関係がなく、それを体験したからと言って悟れる訳ではありません。
ですから、余り涅槃の体験に拘らないようにして頂きたいと思います。

涅槃に落ちる方法として、私は二つの方法を知っています。
正確な言い方をしますと、私はその二つの方法で涅槃に落ちたことがあります。

一つは呼吸に意識を集中して瞑想する呼吸瞑想であり、もう一つは自覚を応用した手法です。
涅槃を体験するにはどちらが簡単かと言いますと、おそらく多くの方の場合、呼吸瞑想の方が簡単だろうと思います。
以下に、一つ目の方向から順に説明していきます。

呼吸瞑想は、呼吸に意識を集中して瞑想するものならどんなものでも結構です。
息を吸うときはその吸う息に意識を集中します。
そして、吐くときはその吐く息に意識を集中します。
短くて30分、長い場合は2時間程度、毎日続けます。
集中力の高い方だと、数週間程度で涅槃に落ちる体験が得られるかも知れません。

具体的な方法として、私が30年弱前にやっていたやり方を紹介します。
まず吸う息について、口は閉じた状態にして、息に意識を集中しながら、胸でなく、腹(丹田)で息を吸うような感覚で、息をゆっくりと鼻から吸っていきます。

このとき、頭の中で1から順に予め決めた値までゆっくりと数を数えながら息を吸います。
数を数えるペースは、厳密なものではなく、例えば1秒ごとに1、10秒で10数える程度にゆっくり目にします。
この呼吸法は、吸う、止める、吐くの三つで一つのサイクルになっているのですが、吸う、止める、吐くの各ステップでいくつの数を数えるかは、各自の自由です。
各ステップで数える数が異なっても大丈夫です(私の場合はややこしいので、三つとも同じ数にしていました)。
各ステップでいくつ数えるかは、呼吸が苦しくない程度に、程よい数に設定してください。
最初のうちは呼吸が浅いので、各ステップで8から10程度まで数える、つまり一つのサイクルを30秒それ以下にするくらいでいいのではなかと思います。
慣れてきて、深い呼吸ができるようになると、サイクルの長さを徐々に長くしていけばいいと思います。

息を吸いきったら、その腹(丹田)に溜めた息に集中しながら息を止め、予め決めた値まで数を数えます。
そして、その腹(丹田)に溜めた息を、吐く息に意識を集中しながら、ゆっくりと口から吐いていきます。
そのとき、予め決めた値まで数を数えながら息を吐きます。
息を吐ききったら、今度は息を止めずに、また数を数えながら息を鼻から吸っていきます。
この繰り返しです。

数を数えるのは、無駄な思考を抑え、意識を息に集中するのを助けるためです。
最初のうちは数を数えることの方に意識が行ってしまい、余り息に意識がいかないかもしれません。
それでも構いませんから続けてください。
慣れてくれば、数を数えながら息に意識が集中できるようになっていきます。

そして、息への意識の集中が十分に進んでくると、集中が途切れている訳ではないのに、途中で数を数えるのを忘れてしまって呼吸だけを続けている自分に気づくというようなことが起こるようになります。
それは、息への意識の集中が高まっている証拠ですから、余り気にされず、気づいた時点で数のカウントを再開して、呼吸法を続けてください。

息への意識の集中がさらに進んでくると、呼吸を吸いきったところで、自分が意図して息を止めた訳ではないのに、知らないうちに呼吸が止まっていることに気づくということが起こるようになります。
あるいは、呼吸を吐ききったところで、知らないうちに呼吸が止まっていることに気づくということも起こるようになります。
このように呼吸が止まるようになれば、かなり意識の集中が進んでいる証拠です。

そしてさらに続けていると、呼吸瞑想中に、自分の呼吸が止まり、それだけでなく、自分の意識も完全に断絶していたことに気づくときが来ます。
それが涅槃です。

ここでは、私のやっていた呼吸瞑想を紹介しましたが、呼吸に意識を集中しながら瞑想するならどんなものでも大丈夫です。
例えば、お釈迦さんが勧めていた数息観でもいいです。
数息観のやり方については、ネットで調べるとあちこちで紹介されています。


次に、二つ目の自覚を使った方法について説明します。
これは一昨日の記事で簡単に説明した方法です。

この方法は、自覚を使うので、自覚を体得していることが必要となります。
つまり、「私」をしっかりと捉えている必要があります。

涅槃に落ちるための行程は二つのステップからなっています。
最初のステップでは、私に意識を集中することで、通常の意識状態から、世界をただ観ている(あるいは、ただ認識している)意識である観照意識に移行します。
高い集中度で意識が私に向けられると、それに伴って思考が抑制され、自ずと観照意識へと移行します。
このとき、感覚として、世界を遠く感じたり、静寂を感じることがあります。

次のステップでは、その観照意識を自覚を使ってコントロールすることで、涅槃に入っていきます。
まずは、私に高い集中度で向けていた意識の集中を緩めていきます。
それに伴って、世界に対する認識が低下又は後退していき、意識も薄れていきます。
そして、それに合わせるようにして、自覚により捉えている「私」をポイと放り投げるようにして、観照意識を手放します。
すると、それに伴ってストンと意識が完全に落ちます。


涅槃から通常の意識に帰ってくるのは、特に何もしなくとも、自動的に帰ってきます。
涅槃に落ちている長さは、そのときの姿勢や意識の状態など種々の要因により異なるのだと思いますが、個人的には比較的短い時間で戻ってくることが多いのではないかと思っています。
私の場合、短いときは、おそらく1秒前後から2、3秒程度で、長いときはおそらく十秒から十数秒程度ではないかと思っています(最長だと1分とか、1分以上もあったのかもしれません)。
呼吸瞑想で涅槃に入るときほ方が涅槃に落ちる時間も長いように思いますので、深い瞑想の延長で涅槃に入ると、涅槃に落ちている時間も長くなる傾向があるのではないかと思っています。


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観照と内観と自覚の違い等について

2015年04月04日 21時02分10秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇観照と内観と自覚の違い等について◇

観照と内観と自覚の違いについて、メールでご質問を頂きまして、その返事をもとにブログ記事をつくることにしました。


自覚と内観の違い等については、先日のブログ記事に書いた通りです。

観照とは、内側、外側の区別なく、起こってくる現象や、感情、感覚、思考、衝動、行為など、すべてのこを、ただ観る(ただ認識している、あるいは気づいている)という瞑想のような意識の使い方のことです。
「ただ観る」という意識の使い方にウエイトがあります。

これに対し、内観は、その名の通り、外側のことよりも、主に内側で起こる感情や思考等の考えを観るものですが、内観の場合は、「ただ観る」という意識の使い方だけでなく、分析したり、掘り起こしたりするような意識の使い方も、含むものです。

また、自覚は、「私」に意識を向けることを基本とし、内側及び外側で起きてくるすべての考え(現象も感情も思考等を含む)について、その考えは「私」の考えだと自覚するものです。
そして、もちろん、自覚は「私」に意識を向けることが基本なので、ただ「私」に意識を向けてるだけでも自覚になります。

このように、自覚、内観、観照は、意識の使い方やそのウエイト配分等が少しずつ異なっていますが、三者は完全に別個独立しているものではなく、互いに共通する部分を有しています。
ですから例えば、自覚を伴った観照という意識の使い方もあります。
と言いますか、高い集中度で「私」に意識を集中し、深い自覚に入ると、自ずと、自覚を伴った観照の意識状態になります。

自覚、内観、観照の基本的な関係については、こんな感じです。


補足として、ついでに観照意識と呼ばれるものについて説明したいと思います。

観照意識とは、起こってくる現象(考え)をただ観ている(あるいは、ただ認識している)意識であり、私という自我の意識の根底にある意識です。
私という自我の意識は、その観照意識をベースとし、その上に、感覚や感情、思考等が重ね合わされるようにして構成されています。

多くの方の場合、起こってくる感情や思考等がとても多いため、観照意識がその思考等の厚い層に常に覆われています。
それが、悟りの道に入り、思考等が減ってくるにつれ、観照意識が思考等の隙間を介して意識の表面に露わになってきます。
観照意識が意識の表面に露わになると、思考等が十分に抑制され、起きてくる現象(考え)をただ観ている(あるいは、ただ認識している)意識状態になります。

さらに補足して、この観照意識は自我の範疇なので、その強さを自我の力で制御することができます。
例えば、「私」に対する集中度を高めれば高めるほど、観照意識も強くシャープなものになります。
そして、通常の意識状態から観照意識に移行した状態で、観照意識の強さを落としていくこともできます。
その強さを落としていくにつれ、この世界に対する認識が低下又は後退していきます。
そして、「私」をポイと投げ捨てるようにして観照意識を手放すと、完全な無我である涅槃(気絶状態です)にストンと落ちます。

観照意識から涅槃に入ることができるのです。
興味のある方はぜひやってみて頂きたいと思います。

面白いでしょ。(^^)


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読んで頂いてありがとうございました。

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自覚と内観の違いについて

2015年04月03日 07時52分18秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇自覚と内観の違いについて◇

誤解しておられる方が多いのではないかと思ったので、自覚と内観の違いについて改めて書いておこうと思います。

自覚と内観とは、起こってくる考え(現象を含めて)を観るという点では共通しています。
しかし、両者は決定的に違っています。

何が違うのかと言いますと、自覚の肝は、「私」に意識を向けることなのです。
考えを観ることは補助的なものなのです。
「私」に意識を向けさえすれば、考えを観なくとも、自覚になるんです。

ですから、自覚をやられる際には、起きてきた考えをただ観るのではなく、まず、「私」に意識を向けた状態をつくっていただきたいのです。
その上で、起こってきた現象や、感情や思考等の考えに対する自覚をやって頂きたいと思います。
まずは、「私」に意識を向ける、これが基本であり、自覚の最大のコツにもなります。

繰り返しますが、まずは、「私」に意識を向けた状態をつくる、これが基本です。

その状態を保ちつつ、起こってきた考えについて自覚をやっていくのですが、そのときもちょっとしたコツがあります。
現象でも、感情でも、思考でも、行為でも、何か考えが起こってきたときに、『私』、あるいは『私が』という主語が入った自覚のフレーズを心の中で唱えながら、その起こってきた考えに対する自覚をやって頂きたいのです。
具体的には、
「『私』がこれをやっているんだ」とか、
「『私』がそう考えているんだ」とか、
「これは『私』の考えなんだ」等の
主語である『私』が入った自覚のフレーズを唱えながら、逐一、徹底的に、かつ丁寧に自覚をやって頂きたいのです。

そうやって、『私』という主語が入った自覚のフレーズを心の中で唱えることで、自ずと、私(自分)に意識が向くようになり、考えに対する主体性(主導権)が養われていきます。
それとともに、自覚も深まっていきます。
そして、自覚が深まってくると、そう言った自覚のフレーズを唱える必要もなくなっていきます。


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あなたの内面の葛藤に気づいてください

2015年03月28日 21時57分44秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇あなたの内面の葛藤に気づいてください◇

私たちはみな、内面の奥深くで自分を束縛や制限をかけています。
その束縛や制限は、多くの場合、具体的ないくつかの言葉や概念によってなされています。
その内容は、人によって様々です。
自分を抑えるためのものだったり、自分を律するためのものであったり、自分を奮い立たせるためのものなど、本当にいろいろです。
それらは、言わば、自分に対する安全装置のようなものです。
あるいは、自分に対する囚われと言うこともできます。

ちなみに、私(慧空)の場合は、
・人としてちゃんと生きなきゃいけない
・何かしていないといけない(何もしないのはよくない)
・人に迷惑をかけちゃいけない
等の囚われが働いていました。

これらの囚われは、内面の深い所で作用していることが多いため、意図してそれを手放そうとしてもなかなか難しいです。
しかし、深い悟りに入っていく過程では、何らかの形でこれらの囚われも手放していくことになります。

その際の手放しの道は、二つの道があります。
それらの囚われは、自分に対する束縛や制限等になりますので、内面に強い葛藤やそれによる苦しみを生じさせます。
いずれの道も、その葛藤や苦しみが手放しのヒントになります。

一つ目の道は、日常を生きる中で、束縛や制限等による内面の葛藤や苦しみに気づき、その葛藤や苦しみと向き合っていく道、あるいは受け入れて、自分を許していく道です。
もう一つの道は、自覚の道です。
内面に起こる葛藤や苦しみを自覚し、それを手掛かりに、自分に対する束縛や制限等に気づいていく道です。
ただし、多くの方の場合、その二つの道のいずれか一方を通ると言うよりは、どちらかに重心が偏ることはあるでしょうが、二つの道をほぼ同時に進んでいかれるのだろうと思います。

あなたの内面に起きる葛藤や苦しみは、貴重な貴重な導きであり、ヒントです。
否定的に捉えるのではなく、できるだけ肯定的に捉えながら、歩んで頂きたいと思います。


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何かを求める衝動に気づく

2015年03月27日 08時28分16秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇何かを求める衝動に気づく◇

私という存在である自我に関する表現の一つとして、それは衝動そのものである言うことができます。
衝動そのもの、あるいは衝動の連鎖そのもの、それが自我です。

私という自我は、常に何かを探し求め、追い求めています。
その何かを求める衝動が自我です。

そのような自我の変遷の過程で、これはという何かを手に入れることがあります。
そのときには、喜びも生じますし、思わずそれを誰かに伝えたくもなります。
「これだ」などと言ったりしながら、伝えようとします。

しかし、そうやって手に入れた「何か」も、自我がつくる考えであり、幻なのです。
やっと手に入れたという喜びの余り、それが幻だということに目が直ぐには向きませんが、いずれ気づくときがきます。
「これでもなかった」と。
そして、また探し始めるのです。

何かを手に入れる等の結果や結末にばかり目が行っていると、気づくことができません。
ヒントは、何かを探し求めているその衝動にあります。
あるいは、何かを「これだ」と掴むその自我の衝動にヒントがあります。

あなたの視線を、探し求めているその対象から自分自身に戻してください。
そして、何かを探し求める自分のその衝動に気づいてください。
延々と彷徨っている自分自身の姿に気づいてください。

気づくと、終わります。


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囚われの手放しの順序など

2015年03月09日 15時28分40秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇囚われの手放しの順序など◇

悟りの道は、自我が握り締めた考え(囚われ、執着)を手放していくことです。
そして、すべての考えを手放したら最終的な悟りである解脱の悟りとなります。
手放しは、100パーセント、完全である必要があります。

手放しを完全に行う上で、重要なことがあります。
それは何かと言いますと、手放しを完全に行うためには、手放しの順序がとても大切だということです。

その順序は、二つの行程からなっています。
最初の行程は、私という存在が考えをつくりだしている創造主であることを自覚するとともに、私以外のすべては私がつくりだしている考え、幻であることに気づき、それを附に落とす行程です。
次の行程は、私自身も考えであり、幻であることに気づき、それを附に落とす行程です。

この二つの行程のうち、特に重要なのが最初の行程です。
最初の行程で、すべては私がつくった考えであり幻だということがしっかりと附に落ちておらず、何か囚われが残っていると、次の行程で、私自身も考えであり、幻であるという十分な理解が得られず、それが附に落ちないのです。

自覚は、その最初の行程を実行するのに非常に有効な手段です。
また、その次の行程を実行する際にも、自覚はとても有効に作用します。
それまで、私がつくっている考えに向けていた意識を、自分自身に向ければいいだけなのです。
その気づきは一瞬です。
すべてが幻だと見極めたその視線が私自身に向けられた瞬間、私自身も幻であることが附に落ちます。

このような、私自身も含めた一切が考えであり、幻であるという理解を、小悟の悟り階層で得る方もおられるだろうと思います
私(慧空)自身もそうでした。
しかし、残念ならが小悟の悟り階層で得られるこの理解は、まだ浅いのです。
なぜなら、小悟ではまだそれなりの量の囚われが残っているため、その囚われが障害となり、私という存在である意識を的確に捉えられないのです。
一切は幻であるというより深い理解を得るためには、さらに囚われを排していき、私という存在が意識そのものであるということを体感できるところまで進む必要があります。

「観るものは観られるもの」という視点が得られる大悟に至り、さらに囚われを排していくと、私という存在が連鎖的に起こってくる意識の連鎖であることが体感できるようになります。
そして、その意識の連鎖が縁起であると理解できます。


ここから先は余談です。

縁起を体感できるところまでくると、おそらくもう、掴んでいる考え(囚われ)は、残り少なくなっているはずです。
多くても、五つくらいなのではないかと思います。
それでも、まだ行程は終わった訳ではありません。
さらに、その残った囚われを排していきます。
そのときも、自覚が役に立ちます。
おそらく、この段階までくると、そこからさらに先に進もうとすると、使える手段は自覚かそれに類似した方法しかないのではないかと思っています。

そして、一切の囚われを排したとき、にわかに表面に出てくるものがあります。
それが苦、つまり根本的な苦なのです。
何かの考えを握り締めているときは、多くの場合、その苦は隠れています。
考えを掴んでいること、あるいは考えを掴もうとすることは、その苦から逃げていること、あるいは逃げようとしていることであり、考えを掴んでいると、その苦に目が向かないのです。

私たちは、その根本にある苦から逃れようと、藁に縋るようにして考えを必死に掴んでいるのです。
藁(考え)に縋り付いているうちは、その根源の苦に目が向かないのです。

この根源の苦を実感したとき、はじめは、ジタバタと悪あがきするかもしれません(私もそうでした)。
しかしいずれ、そういうものだと理解し、観念します。
つまり、一切皆苦を理解することとなります。
そして、それに伴い、その根本の苦から逃れようと、衝動的に延々と彷徨っていた自らの姿に気づくことになります。
その気づきが生じた瞬間、その根本の苦から逃れようと延々と続いていた衝動がうそのようにピタリと止まります。

これが最終的な悟りである解脱の悟りです。


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