私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

近況など

2022年04月23日 20時11分42秒 | 個人的なこと
久しぶりに近況など書いてみたいと思います。

日々の生活など
頑張って農業やっています。
まだ2年目というのもあり、上手くいかないことが多くて、収入的にもまだ全然で、まあ大変です。
ですが、面白くもあり、がむしゃらにやっています。

悟り関連
ここ1カ月ほど、なぜか私の中で悟り関係に意識が向くようで、ユーチューブでAIが挙げてくる動画を観たり、ブログ記事を書いたりしています。
こんなに悟り関連に意識を向けたのは、何年ぶりだろうというくらいです。
その勢いで、このgooブログに書いた記事を再構成してnoteにまとめてみようかと思っています。
で早速、慧空でnoteを登録し、少し書き始めたのですが、思ったより大変で時間がかかることがわかり、農業が大変で時間もないし、どうしようかと思案、停滞中です。
収入も困っているので、売れるものは何でも売ってみようと思い(w)、有料記事も書いてみようと考えたりもしているのですが、何分時間も無くて進みません。
noteの決済システムを使って、スカイプセッションを有料にすることも考えたりしているのですが(無料でも閑古鳥状態なのですがw)、進んでいません。

世界経済
いろいろあって、諸外国を中心にインフレが進行しつつありますね。
食料問題も起こりそうで、注意が必要だと思っています。

その他
実は、隅角狭窄型の緑内障を患ってまして、右目は視野欠損がかなりヤバいです^^;
白内障が起こり始めていて(右目の方で特に)、水晶体が厚くなり、隅角狭窄を悪化させてしまっているようです。
そんなこんなで、右目はしょうがないので、1年ちょっと前に人工レンズ置換をしました(T_T)
それでも、緑内障の進行を止められていないようで困ったものです(薬は嫌いなので、緑内障の目薬等はやっていません)。
左目の白内障も徐々に進行していて、そろそろ緑内障が始まる頃なのかと思っています。
最悪、右目があと何年かで失明して、その後数年で左目も失明かと腹は括っています。
農業することも、こうやって文章を読み書きするのも、貴重な時間なんだなと思ったりしています(大げさですがw)。

いろいろありますが、私は自分のやりたいことにがむしゃらに取り組んでいます(#^^#)
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最後は私に戻る

2022年04月17日 20時31分55秒 | 悟り
◇最後は私に戻る◇

どんなに深く悟ろうと、最後は日常の私に戻っていきます。
私についてどんな観点から悟ろうと、日常の私は大した変化のないままあり続けます。
私というものに付き合っていくしかないのです。

大人しくなることはあっても、思考や感情はやっぱりあるし、何かを考えようとしたり、しようとする発意も相変わらず残っています。
心の動きにまとわりつくように生じるわずらわしさというか、苦の感覚もやっぱり残ります。
私とは何なのか、なぜ私があるのかも、やっぱり分からないままです。
日常の素直な観点から私を観たとき、これが私に関する素直な感覚というか、実感です。

この私に関する日常的な実感は、悟る過程、あるいは悟りの行程を歩む過程では邪魔になることがありますが(注:悟りの行程の歩み方によっては邪魔にはならず、むしろ中心的な道しるべになります)、最後は否応なく、またここに戻ってくるという意味でも、より本質的な私観と言えるかも知れません。

各方面の覚者の皆さんは、いつまでも自分の悟りにしがみ付いていないで、改めてこの現実に向き合うべきではないかと思います。

何が言いたかったのか、自分でもいまひとつまとまらず不満なのですが、このままアップしてしまいますw


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
※現在は講話会や対面セッションはやっておりません。
スカイプを使った無料の30分程度(最大1時間)のセッションのみ行っています。
ご希望の方は、suiku2013☆yahoo.co.jp(☆を@に替えて下さい)へご連絡ください。

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

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自我の本質と自己認識

2022年04月15日 08時45分13秒 | 私の成り立ち
◇自我の本質と自己認識◇

私という自我は本当に不思議なものなのですが、その仕組みや、それが何故起こったのかについては誰も知り得ません。
これは間違いありません。
さらに、一切のことがらに実体がありませんから、私という自我にも実体はありません。
私という幻のような現象が起こっているに過ぎません。

そんな捉えどころのない自我について、本来切れないものを私なりに無理やり切ってみたいと思いますw

自我の本質について一言に集約するなら、私は自己認識だと考えています。
自己認識とは、認識が認識を認識する、あるいは、あたかも私があるように感じる(自我感覚)ことです。
認識が認識を認識するとは、目が目を見る、あるいはカメラがカメラを撮影するようなものであり、理屈で説明しようとしても無理です。
しかし、自我という現象には本質的にそのような要素が含まれているようです(あるいは、含まれているように感じます)。

次に、自己認識とその機能要素について考えてみたいと思います。
自己認識が起こるために必要な機能要素は何かと、私なりに考えた訳です。

その機能要素は三つあると考えています。
一つ目は、持続性を有する観点。
二つ目は、その観点に基づく何らかの認識。
三つ目は、その観点と関連付けられた記憶。

しかし、このように要素に分解すると、大切な何かが抜け落ちしてしまうようです。
何かが足りないのですが、その何かを見つけようしてもおそらく無理なのでしょう。
残念ながら、私の刃では切れ味が足りなかったようですですw


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自我の二相性と主客の統合

2022年04月14日 21時37分04秒 | 私の成り立ち
◇自我の二相性と主客の統合◇

今回は、私という自我の二相性について書いてみたいと思います。

私という自我には、二つの相があります。

一つ目の相は、日常的に私たちが感じている自我の相です。
この相は、私という主体と、その主体の対象となる客体とが分離している相です。
つまり、音や光、感触と言った知覚の対象とは別に、それらを知覚する主体がある、正確にはあるように感じる相です。

二つ目の相は、私という主体と、その対象となる客体とが統合している、正確には統合しているように感じる相です。
この相は、悟りの行程を無常、無我を理解できる付近まで進むと経験するようになりますし、悟らずとも意識の集中が極まってくると経験することがあるのだろうと思います。
この相を経験すると、認識が無いとか、自我が無い等の誤解が生じやすいのですが、起こってきたことを認識しているのですから、認識も自我も消えずに残っています。
この相では、主体は起こってくること(客体)と一体化し、それそのものとなって起こってきます。
認識が無い等の誤解が生じやすいのは、この影響もあるかも知れません。

私がこのブログに書いている「私とは識の連鎖である」は、二つ目の相における観点によるものです。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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私は無いという誤解と涅槃

2022年04月14日 11時05分14秒 | 悟り
◇私は無いという誤解と涅槃◇

悟りの行程をそれなりに進むと、あたかも私が無いと感じるポイントに至ります。
これにはあたかも認識が無くなる、あるいは起こらなくなるという現象、あるいはそのような感覚を伴います。
認識主体の欠落、あるいは欠落感を伴う場合もあると思います。

皆さんここで、私は無いという考えに嵌まりこみ、それを掴んでしまいます。

認識が無い、あるいは起こらないと言うには、それを認識している意識が微弱でも起こっているはずなのですが、なぜか皆さんそこに気づけないというか、そこから目を背けてしまいます。
そして、認識が無いとか、私は無いという考えに嵌まりこんでしまう。
それはどうてしなのか。

私(慧空)の場合、認識が無い等の考えに嵌まり込むことはありませんでした。
それはなぜなのか。

改めて考えてみました。

要因の一つは、自覚ではないかと考えています。
私の場合、明け渡し体験後に始めた自覚の取り組みにより、私に意識を向けることが身についていましたので、あたかも認識が起こっていないかのような体験のときにも、認識が起こっていることに気づけたのかも知れません。

もう一つの要因は、涅槃の体験ではないかと考えています。
ここでいう涅槃とは、完全な意識の途絶状態のことで、眠っているのとも違いますし、気を失っているのとも違います。
眠っているときは必ず何らかの夢を見ており、意識の展開は続いています。
気を失っているときも、夢を見るような形で意識の展開は続いています。

私は、大悟に至る前に、認識を含めて意識が完全に無くなるということがどういうことかを涅槃の体験から分かっていたのです。
このため、「観る者は観られるもの」の体験に伴って認識主体の欠落(正確には欠落感)が生じたときにも、それを認識している微弱な意識、つまり認識が残っていることに気づけたのかも知れません。

これまでは、悟りの行程の進展に涅槃の体験は余り関係無いと考えていました。
しかし、多くの方が私は無いという考えに嵌まり込んでしまう状況を見ると、涅槃の体験の有無が悟りの進展に関係している可能性があるかも知れません。


<補足(2022年4月15日)>

涅槃について、意識が途絶した状態を認識しているのなら意識が完全に無くなっているとは言えないのではないかとのご質問を頂きましたので、説明を補足します。
涅槃が起こっている間は、意識が完全に途絶してますので涅槃という現象を認識することはありません。
涅槃が終わって再び意識が起こった瞬間に、意識が途絶していたことに気づくのです。
最初はそれが何なのかよく分からないだろうと思います。
何度か経験するうちに、寝ていたのとも違うし、気を失っているのとも違し、それに息も止まっているしということで、完全に意識が途絶していたことがなんとなく分かってきます。


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非二元の悟りと無常、無我の悟り

2022年04月11日 22時16分15秒 | 悟り
◇非二元の悟りと無常、無我の悟り◇

今回は、非二元の悟りと無常、無我の悟りについて、改めて書いてみたいと思います。

悟りも無常、無我まで来るとそれなりに絞られてくると言いますか、バラつきが減ってくるのですが、非二元は概念も人それぞれで、悟りのバラつきも大きいようです。
そこでここでは、良い悪い等の二元の囚われが大体無くなり、思考が減り、ただ観ている意識である観照意識がそれなりに確立した悟りを非二元の悟りと言うことにします。

まず言えることは、非二元の覚者はまだ囚われや思い込みがそれなりに残っており、言葉の端々にそれが容易に見て取れます。
例えば、「真我」、「全体」、「光」、「恒久」、「不滅」、「不変」などの言葉がそれです。
無常、無我まで悟ると、囚われや思い込みが大方無くなっているため、そのような言葉は決して出て来たりしません。

さらに、非二元の覚者は世界を観照している観照の視点と言いますか、認識の主体と言ってもいいですが、それがまだ残っています。
無常、無我まで悟ると、観照の視点が落ちると言いますか、認識主体の欠落が起こると言いますか、それらの質的変化が生じます。
無常、無我を悟る過程で、「観るものは観られるもの」の体験が起こる場合がありますが、非二元の覚者はそれも未だなのです。


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無常、無我と禅の悟り

2022年04月11日 20時34分53秒 | 悟り
◇無常、無我と禅の悟り◇

つい最近、ユーチューブの動画リストに自動的に挙がってきた動画を観ていると、その中に禅の覚者の動画があり、それについて思ったことを書いてみようと思います。
いつものように偉そうな感じで恐縮ですがw

禅者も、無常、無我を悟るようです。

しかし、まだ足りないのです。
禅系の悟りの型に嵌ってしまうのか、禅の意識の使い方の限界なのか、その先の進展がなく、そこに留まってしまうようです。

何が足りないのか言いますと、それは「私」への追及です。
ことが起こっているという気づきのところで止まってしまっていて、私への振り返りが無いのです。

禅でも自覚でも、私が無いことを悟るときは、自我の要素である何かを認識する認識主体が無いことに関する気づきや理解を伴います。
また、悟りに伴って自我感覚の急激な欠落感や質的な変化も生じます。
ここがややこしいところであり、難しいところで、無我を悟った者がそこで留まってしまったり、嵌ってしまうのも無理は無いのですが。

禅者は、そもそも私が無いのだから、振り返りようがないと言うでしょう。

しかし、本当にそれで終わりにしていいのでしょうか。
私は無いということで、片づけてしまっていいのでしょうか。

認識や意が起こらないと言うかもしれませんが、本当にそうでしょうか。

確認が足りないのです。
追及が甘いのです。

認識が起こらなくなるということがどういうことかを、もっとしっかりと追及して頂きたいと思うのです。
認識が起こらないなんてことは、軽はずみ言える筈がないのです。

本当に意が起こっていないか、もっとしっかりと確認して頂きたいのです。

確かに、無我の悟りの観点からは、意は有りません。
しかし、無我を悟ってもなお、相変わらず自分の手を動かしているのはあなた自身、あなたの自我ではありませんか?
本当に、ことが起こっているということで済ませてしまっていいのでしょうか。

私を振り返ることができれば、次の行程へ繋がっていきます。


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