◇もう一度悟りの階梯についてー自我を捉えることの意義ー◇
悟りの階梯には小悟、大悟、解脱と三つの階層がありますが、どの階層に至るときも、私に意識を向け、自我を捉えることが重要な要になっているのだということが、なぜかここ1、2年くらいでより明確になってきました。
今日は、その周辺のことをまとめてみようと思います。
まず、小悟について。
小悟に至る際には、まずはその下準備として良い悪い等の二元的な囚われの手放しが済み、思考や感情が減っている必要があります。
この囚われの手放しは、明け渡しや禅の頓悟のような体験によって一気に生じることがあります(私自身は、明け渡し体験に伴って手放しが生じました)。
しかし、多くの場合、これだけでは小悟には至り切れないのだろうと考えています。
小悟に至るには、日常的な私という自我のもう一つ深層にある意識要素である観照意識に気づく、あるいは観照意識を捉える必要があります。
観照意識とは、日常的な私という自我意識のもう一つ深い層にある意識要素で、ただ観ている意識です。
アドヴァイタの覚者たちは、これを真我と言ったりしています。
観照意識に気づくためには、私に意識を向け、私という自我を捉える必要があります。
その際に、自覚が大変役に立ちます。
自覚は、二元的な囚われに気づいて手放していく際にも非常に役に立ちます。
次に、大悟について。
大悟に至る際には、その下準備として握りしめた囚われの大半の手放しを終え、思考や感情が十分に減り、意識の集中度が十分に高まっている必要があります。
囚われの手放しは、主に外側に向けた囚われから順に生じていきます。
つまり、小悟階層に至る際は外側に向けた囚われ(他者や外側のものごとに対する囚われ)の手放しが主に生じ、大悟階層に至る際は内側に向けた囚われ(自分自身に対する囚われ)の手放しが主に生じます。
この内側に向けた囚われの手放しも、明け渡しや禅の頓悟のような体験によって一気に生じることがあるのだろうと思います(私自身は自覚を行う中で手放が生じていきました)。
大悟の場合にも、このような囚われの手放しだけでは、多くの場合大悟に至り切れないのだろうと考えています。
大悟に至るためには、私という意識要素の本質的な部分に意識を向け、私という存在とは何かを捉え、知る必要があります。
これによって、私とは意識であり、世界そのものであると納得することとなります。
この大悟に至る際にも、自覚が大変役に立ちます。
最後に、解脱について。
解脱に至る際には、その下準備として握りしめた囚われのほぼ全ての手放しを終え、何かの考えを掴もうとする、縋り付こうとする衝動が十分に小さくなっている必要があります。
囚われは大悟に至った後でもいくらかは残っているもので、解脱に向かう際にそれらのほぼ全てを手放し切る必要があります。
なぜ、ほぼ全ての囚われの手放しが必要なのかと言うと、何かの考えを掴んでいる間(あるいは、何かの考えに縋り付こうとしている間)はまだ厳密な意味で意識が外向きであり、私という存在の根本に意識を向けられないからです。
何かの考えを掴んでいる、あるいは考えに縋り付こうとしているということは、その考えに依存しているということであり、まだ根本苦に向き合える段階ではないのです。
解脱に至るには、私という存在の根本に意識を向け、根本苦と向き合い、根本苦に七転八倒している自らの姿に気づく必要があります。
それに気づけば、根本苦をどうにかしようとして常に右往左往していた衝動がすっと収まります。
この解脱に至る際にも、自覚が大変役に立ちます。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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悟りの階梯には小悟、大悟、解脱と三つの階層がありますが、どの階層に至るときも、私に意識を向け、自我を捉えることが重要な要になっているのだということが、なぜかここ1、2年くらいでより明確になってきました。
今日は、その周辺のことをまとめてみようと思います。
まず、小悟について。
小悟に至る際には、まずはその下準備として良い悪い等の二元的な囚われの手放しが済み、思考や感情が減っている必要があります。
この囚われの手放しは、明け渡しや禅の頓悟のような体験によって一気に生じることがあります(私自身は、明け渡し体験に伴って手放しが生じました)。
しかし、多くの場合、これだけでは小悟には至り切れないのだろうと考えています。
小悟に至るには、日常的な私という自我のもう一つ深層にある意識要素である観照意識に気づく、あるいは観照意識を捉える必要があります。
観照意識とは、日常的な私という自我意識のもう一つ深い層にある意識要素で、ただ観ている意識です。
アドヴァイタの覚者たちは、これを真我と言ったりしています。
観照意識に気づくためには、私に意識を向け、私という自我を捉える必要があります。
その際に、自覚が大変役に立ちます。
自覚は、二元的な囚われに気づいて手放していく際にも非常に役に立ちます。
次に、大悟について。
大悟に至る際には、その下準備として握りしめた囚われの大半の手放しを終え、思考や感情が十分に減り、意識の集中度が十分に高まっている必要があります。
囚われの手放しは、主に外側に向けた囚われから順に生じていきます。
つまり、小悟階層に至る際は外側に向けた囚われ(他者や外側のものごとに対する囚われ)の手放しが主に生じ、大悟階層に至る際は内側に向けた囚われ(自分自身に対する囚われ)の手放しが主に生じます。
この内側に向けた囚われの手放しも、明け渡しや禅の頓悟のような体験によって一気に生じることがあるのだろうと思います(私自身は自覚を行う中で手放が生じていきました)。
大悟の場合にも、このような囚われの手放しだけでは、多くの場合大悟に至り切れないのだろうと考えています。
大悟に至るためには、私という意識要素の本質的な部分に意識を向け、私という存在とは何かを捉え、知る必要があります。
これによって、私とは意識であり、世界そのものであると納得することとなります。
この大悟に至る際にも、自覚が大変役に立ちます。
最後に、解脱について。
解脱に至る際には、その下準備として握りしめた囚われのほぼ全ての手放しを終え、何かの考えを掴もうとする、縋り付こうとする衝動が十分に小さくなっている必要があります。
囚われは大悟に至った後でもいくらかは残っているもので、解脱に向かう際にそれらのほぼ全てを手放し切る必要があります。
なぜ、ほぼ全ての囚われの手放しが必要なのかと言うと、何かの考えを掴んでいる間(あるいは、何かの考えに縋り付こうとしている間)はまだ厳密な意味で意識が外向きであり、私という存在の根本に意識を向けられないからです。
何かの考えを掴んでいる、あるいは考えに縋り付こうとしているということは、その考えに依存しているということであり、まだ根本苦に向き合える段階ではないのです。
解脱に至るには、私という存在の根本に意識を向け、根本苦と向き合い、根本苦に七転八倒している自らの姿に気づく必要があります。
それに気づけば、根本苦をどうにかしようとして常に右往左往していた衝動がすっと収まります。
この解脱に至る際にも、自覚が大変役に立ちます。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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