私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

変わろうとする心

2014年04月30日 09時48分37秒 | 悟り
◇変わろうとする心◇

悟りの道を歩まれてる方によくある例として、変わらない自分について苛立ちや落胆等の否定的な考えを起こす方がおられます。
そのような方は、ちゃんと自覚をしているのに、見性したのに、真我に目覚めたのにと言って、いまの自分の姿に対していろいろな否定的な考えを起こします。

どうして変わろうとするのでしょうか。
どうしていまの自分の姿に対して否定的な考えをつくってしまうのでしょうか。

こうあるべきとか、こうありたいという固定観念を盲目的に掴んでないか、ご自分の内面をよく観て頂きたいと思います。
自分と誰かを盲目的に比較してないか、よく観て頂きたいと思います。

そうすれば、変わろうとするその衝動に確かな根拠など何ら存在しないことが分かると思います。
だって、すべては私という存在がつくった考えであり、幻なのですから。

変わろうとか、何かに成ろうとする衝動に盲目的に動かされると堂々巡りになります。

変わろうとするのではなく、変わろうとしている私自身や、私自身に起こっているその考えを観て頂きたいのです。

そうやって私自身の内面を見つめていくうち、自ずと変わっていきます。
変わらざるを得ないのです。
例えあなたの行動やあなたが置かれている状況が変わらなくても、あなたの内面は大きく変わっていきます。


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社会って

2014年04月25日 15時13分48秒 | エッセイ
◇社会って◇

社会って、不思議ですね。
私たち存在が自らつくったものであり、みなで経験しているものなのですが。

今朝、長男(自閉くん)を車で病院に連れていった帰りに改めてそう思いました。

私にはまだ家族に対する執着がありますから、その家族を通じて社会との縁がまだ続いています。

社会はまさに縁という執着の集合であり、うまく表現できませが、そこを源泉として、多種多様な執着というか、固定観念というか、枠というか、そういう類の考えが生じてきます。
そして、恐れや苦しみを誘発します。

すべては考えであり、幻なのに。

かく言う私自身にも、社会との関係によりそのような執着や恐れがまだ時折起こってきます。
そのような考えが起こってきても、もうそれを掴んだりしないので、長くても2、3分もすれば消えていくのですが。

ここまで書いて、自分で何が言いたいのかよく分からないのですが(笑)、
出来事に関連して反射的に起こってくる恐れ等の考えに対して盲目的に反応されるのではなく、
一歩引いた感じで、出来事や起こってくる考えを冷静に見つめてみて頂きたいと思います。

まずは、自分が恐れていること、あるいは苦しんでいることを自覚していただきたいと思います。
「ああ、いま私は恐れているんだな」と。

次に、自分が何に対して恐れを感じているのかをよく観て頂きたいと思います。
本当にそこまで恐れ、苦しむ必要があるのかよくよく観て頂きたいと思います。

そうやって出来事やご自分の内面に向き合われると、恐れや苦しみの感覚が無くなっているか、大きく軽減されていることに気づかれると思います。
中には、その恐れや苦しみが自分がつくった考えであることを実感される方がおられるかもしれません。
あるいは、自分にまだ余裕があることを理解されるかもしれません。
出来事に対して右往左往している自分が可笑しく思う方がおられるかもしれません。

ますます何が言いたいのか分からなくなって来ました(笑)。

どうやら、これはこれを読まれる方々と、私自身への応援のようなものなのかもしれません。


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個人的なこと(変化の兆し)

2014年04月24日 10時00分58秒 | 個人的なこと
今日は簡単に近況などを書きたいと思います。
少し身辺がバタバタしてきそうなのもありまして。
久し振りに、身体を動かして何かをするのかも知れないという感じです。

もう直ぐ私の48歳の誕生日なのですが、私にとって、47歳から48歳にかけての時期は人生の節目になっているようで、いろいろ大きな変化が起きています。
精神面はもちろん、家族や仕事も含めてです。
おまけに、この現実世界もいろいろな面で転換期になっているみたいで、世界でもいろいろなことが起きています。

いま私に起きようとしている変化は、些細なものです。
ここまでけじめを付けずにずるずると引き延ばしてきた私の仕事(私一人の自営業です)に、そろそろ終止符を打つべきタイミングに来ているようなのです。
もう4ヶ月くらい前からほぼ全く仕事はしていないのですが、仕事を完全にやめてしまうためには、お客さんや取引先との間に残った残務処理をしないといけないのです。
その残務処理をやるべき時期が来たのかもしれないと思っています。

私としては、その時期を待っていたような感じでして、やっと来たかという感じです。
理由は分かりませんが、私の場合、仕事との縁を一旦は完全に切ってしまう必要があるようなのです。
必要があるというより、そう成らざるを得ないと言った方がいいのだと思いますが、そんな感じなのです。

まだ何らかの展開があるとしたら、その後に訪れるのかも知れないと思っています。

できるだけ、その変化や展開を楽しみたいと思っています。


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真理に対する二つの感覚

2014年04月23日 09時20分48秒 | エッセイ
◇真理に対する二つの感覚◇

「真理」という言葉に対し、二つの違った感覚を持つ方がおられるのだろうと思っています。

一方は、「真理」は在るという感覚を持たれる方です。

もう一方は、「真理」は無いという感覚を持たれる方です。

ザックリと申し上げて、「真理」は無いという感覚を持たれる方は、私という存在の経験の終わりが近づいている方かも知れません。

そうです、何かピンときたあなたのことです。(^^)


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自我を捉える二つの段階

2014年04月22日 10時11分01秒 | 悟り
◇自我を捉える二つの段階◇

もうここで何度も言っていますが、私という存在には個の意識(自我)と全体意識(真我)の二面性があります。
そして、個の意識である創造主としての私、つまり自我を捉えるのが見性という悟りです。

実はこの自我を捉える段階には、二つの段階があります。

第一の段階は見性であり、それは私が創造主であり、考えを起こしているんだ、考えの主導権は私にあるんだということを気づくことです。

第二の段階は、私という自我の意識の中心を捉えることです。
その中心には、私という意識というか感覚のコア(芯)のようなものがあります。
多くの場合、そのコアのようなものはハートの中心にあります。
強く感動したときなどに胸がキュンとなると思いますが、そのキュンとなるところがそれです。
それを魂と言ってもいいです。

多くの方の場合、まず第一段階に進まれた後、暫くしてから第二段階に進まれるのだと思います。
私(慧空)も、見性直後はコアの存在に対する実感はなく、見性から暫くした後、自分で気がつかないうちに、コアを捉えていました。

コアは私に意識を向け続けていれば、いずれ必ず捉えられます。

コアを捉えられた方は、そのコアに意識を向けて頂きたいと思います。
意識を向けるほどに、そのコアが緩み、解けていきます。
それに連れて、私という自我の意識も拡大していきます。


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考えに囚われていることに気づく

2014年04月21日 10時04分19秒 | 悟り
◇考えに囚われていることに気づく◇

今日は、師匠であるマスターゲートさんの講話の中から私のお気に入りのお話しを使って、記事を書いてみたいと思います。

以下、ゲートさんの講話です。
(うろ覚えですから、私のアレンジがかなり入っています、笑)


みなさんも神社やお寺に行かれることがあるでしょ。
そういったところには、境内に入ると本殿までの両側に、石や木でできた複数の彫り物が置かれていますよ。
そして、信心深い方などはその彫り物の一つ一つを丁寧に拝んでいかれますよ。
さらに、本殿にはまたいくつもの彫り物が置かれていて、みなさんその一つ一つに対して丁寧に拝まれます。

変だと思われませんか?
それらの彫り物は単なる物質です。
なのに、みんさんどうしてその単なる物質である彫り物を拝むのでしょう。
彫り物をいくら拝んでも何も起きないですよ。
彫り物なのですから。

それらの彫り物は形良く上手に出来てますから、彫り物の作り手を尊敬して拝むのならまだ話は分かりますが、単なる物質である彫り物を拝むのは道理に合わないでしょ。
そう思いませんか、みなさん。

私たち人間が作った作り物に対し、どうして頭を下げるのですか。
あたかも作り物の方が私たち人間よりも上にあるかのようじゃないですか。
それはどう考えても道理に合うことじゃないですよ。
そこのところをよく考えてみる必要がありますよ。



ちなみに私は、上のゲートさんの講話を聴いていて、これがまさに、私たち人間の姿なんだと強く納得したのでした。
本当に強く納得したのでした。
私たち人間は、創造主としていろいろな考えをつくっておきながら、その自らがつくった考えに囚われ、翻弄されているのだと。
それが私たち人間の姿なんだと。


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悟りは逃げ道ではありません

2014年04月18日 10時07分25秒 | 悟り
◇悟りは逃げ道ではありません◇

意図して悟りの道に入られる方のその動機には、多かれ少なかれ何らかの苦しみやもどかしさがあり、それらから逃れたいという衝動があります。
その苦しみ等の内容は、何らかの困難に直面し、苦しみを抱えてしまい、それから逃れようとして悟りを求められる方や、自分自身やその心に対する何らかの不足感やもどかしさや等を抱えて悟りを求められる方など様々だと思います。
このように、意図して悟りを求める心には何らかの苦があり、それから逃れようとする衝動があります。
そうやって悟りの道に入られること自体は当たり前のことなのです。

しかし、そうやって悟りを求められる心に、微妙で根深い問題が潜んでいることがよくあるのです。
とても微妙なところなので、私(慧空)自身どこまでうまくそれを表現できるか分かりませんが、今日はそれについて書いてみたいと思います。

その問題点の一つの切り口として、意識的か無意識かは別として、悟りの道を苦しみからの逃げ道として捉えてしまわれている方が多いのではないかと思うのです。
苦や、苦から逃れたいという衝動から悟りの道に入られる方が大半でしょうから、悟りを逃げ道として捉えてしまうのは普通の感覚であり無理のないことなのですが、悟りに対するその心持ちが悟りの道を歩む上での微妙かつ根深い障害となり兼ねないのです。

それはどうしてかと言いますと、まずひとつとして、悟りを逃げ道として捉えられている方は、悟りや悟りを教えるマスターへの過剰な依存心(期待も含みます)を生じさせてしまうのです。
過剰な依存心は、悟りの道を進む際の大きな障害になるのです。
真っ直ぐに立ち、自立した心こそが、悟りの道をどこまでも進んでいけるのです。

悟りの道は、楽になるための逃げ道でもなく、何かを得るためのものでもありません。
私という存在の本質に向かう入り口なのです。
入り口ですから、逃げの姿勢や何かに頼ってしまう弱腰の姿勢ではなく、むしろ進んでいくんだ、追求していくんだという攻めの姿勢が必要なのです。

また、悟りの道を逃げ道として捉えている方の中には、その方が本当に直面すべきは悟りではなく、その方の目の前にある現実の課題であり、そこで生じるその方の心の動きである場合があるのです。
安易に現実から逃れようとするのではなく、その現実の状況と向き合い、またその状況に関連して私の中に起こってくる感情や考えと向き合っていただきたいと思います。
それこそが、本当の、本当の悟りの道なのです。

逃げ道から入り口へと考え方を180度転換してください!(^o^)


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誰がどう悟ろうと理解は同じ

2014年04月17日 09時35分03秒 | エッセイ
◇誰がどう悟ろうと理解は同じ◇

悟りとは、私という存在について知っていくことです。
そして、その悟りの道にはいくつかの節目というか段階があります。
その段階の進み方は、一つずつ順番に進まれる方や、最初の段階を一つ、二つ飛ばして一気にさらに上の段階に到達される方など様々だと思います。

しかし、ハッキリしていることがあります。
どの段階で得られる私に対する理解も、誰がどういうルートでその段階に至ろうと、得られる理解の内容は全くと言っていいほど同じなのです。
各自の表現が微妙に違うだけで、理解の本質部分は全く同じなのです。
これは、最後の解脱の悟りについても全くそうなのです。

だから、理解を共有できるのです。

また、先人の理解が助けになるのです。
先人の理解が各自の理解の呼び水になるのです。
そして各自の理解の確認になるのです。

また、だから到達した人は、そして発信できる言葉を持つ人は発信し、伝えようとするのです。


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無明の迷いを絶つ

2014年04月16日 10時28分25秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇無明の迷いを絶つ◇

私が最近考えていることですが、私という存在を延々と展開させている迷いの衝動を「自覚」により直接的に抑制し、沈静化していくことにより、言わば直接的に解脱に至れないかと考えています。

それなりの準備ができている人なら可能なのだろうと思うのです。
また、おそらくですが、お釈迦さまはそういう直接的なやり方も教えていたのではないかと思うのです。

そのやり方とは、極めて単純なものです。

起こってくる出来事に対して自我がここがダメ、こっちがいい等の分別をし、考えや行動を起こすそのプロセスがまさに迷いの構造であり、衝動ですから、そのような衝動が起こってきたときに、「自覚」によりそれを抑えていけばいいのです。
自我の働きを徹底的に抑えていき、徹底的に滅していくのです。
また、自我が何か考えを掴んでいることや、掴もうとしていることに気づいたら、それを幻として手放していくのです。

ただそれだけなのです。
これを徹底的にやり続けられれば、その人は自ずと解脱してしまうのだと思います。

切実さを持たれた方、強い意志を持たれた方は、ぜひお試し頂きたいと思います。

一言申し上げるとすると、この方法の肝は「自覚」であり、強い切実さと意思です。


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しっかりと生きることが悟りの種を育む(2)

2014年04月15日 11時28分23秒 | 悟り
◇しっかりと生きることが悟りの種を育む(2)◇

昨日の記事の続きです。

悟りの道に入る前にどうしてしっかりとした自我をつくっておく必要があるのかについて補足したいと思います。
しっかりとした自我とは、内面に向けられた意識の強いベクトルを持った自我のことです。

どうしてかと言いますと、どれ程深い悟りが得られるかは、悟りの道に入るときの内面に向かう意識のベクトルの強さ(これを初速と言ってもいいです)と大きな関係があるのです。

意図して悟りの道を進む場合、自我の目覚めと真我の第一段階の目覚めを得る天界層の悟りまでは、自我の力(悟りへの意思)を使って悟りの道を進むため、まさに自我の意識の方向性とその強さが重要となります。
また、真我の第二段階の覚醒を得て梵天界層の悟りを得るときも、自我の力を使うことができ、ここでも自我の意識の方向性とその強さが重要となります。

ですが、真我の第二段階の覚醒を得たとき、それに伴って自我が滅せられてしまうため、そこからは自我の力(意思の力)を使えないのです。
最後の解脱の悟りを得るには、言わばそれまで推進してきた慣性により進むしかないのです。
ところが、最後の解脱の悟りに必要なだけの推進力が残っていないケースが多いのです。

このように、悟りの道を進む推進力が尽きると、その時点で満足が生じ、その段階の悟りを掴んでしまうのです。
悟りを掴んでしまうと、そこで悟りの行程が終わってしまうのです。

次に、しっかりとした自我をつくるには、どうして善行やしっかりと生きることが大切なのかについて書きます。

まず、なぜ善行なのかと言いますと、結果として悪行より善行の方が欲望や執着(カルマ)、そしてそれらの連鎖が薄くなりやすいからです。
欲望や執着は、主に外向きの意識の展開ですから、そのような外向きの意識の展開の比重が大きいと、強い内向きの意識のベクトルがつくられないのです。

次に、どうしてしっかりと生きることが大切なのかと言いますと、多くの場合、この地上に肉体を持って生まれてくる存在は、各自が前世から引き継いだ人生の課題(これも執着でありカルマです)を持って生まれてきているからです。
また、その課題の中には意思の力により変更できるものと変更が効かないものとがあるのです。
ですから、変更の効かない課題については、各自が納得できる程にしっかりと取り組む必要がどうしてもあるのです。
納得が得られないと、仮に悟りの道に入ったとしても、浅い悟りしか得られないのです。
なぜなら、納得できるまでまだ何回でもそれに取り組む必要があり、場合によっては何回でも生まれてくる必要があるからなのです。

課題をやり終えたときに、内面に向かう本当に強い意識のベクトルが自ずと生じてくるようになっています。

ですから、悪行よりは善行、そしてしっかりと生きることが大切なのです。


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しっかりと生きることが悟りの種を育む(1)

2014年04月14日 10時54分36秒 | 悟り
◇しっかりと生きることが悟りの種を育む(1)◇

多くの方の場合、その生でどの段階の悟りまで得られるかは、それまでにその方がつくり上げた、その方自身の本質に向けられた意識のベクトルの強さによって決まるのだろうと思っています。
つまり、存在の本質に向けられた意識のベクトルの強さが肝要なのです。
言い換えれば、それまでにつくり上げられた自我の方向性と強さによって決まるのです。

どういうことかと言いますと、多くの方の場合で、内面に向けられた意識のベクトルに導かれるようにして悟りの道に入るのですが、最後まで行く前に途中の段階で一旦終了される方が多いのです。
その方がつくられた意識のベクトルの強さに応じた段階の悟りが得られると、満足感が生じてしまうのです。
その段階の悟りを掴んでしまい、そこで停滞してしまうのです。

別にそれが悪い訳ではなく、各自がやりたいようにやっているだけなのでそれでいいのですが、その方が本当にそれで納得できているのか大いに疑問を感じるのです。
なぜなら、まだ迷っており、殆どの例でまだ苦しんでいるのが分かるからです。
迷っている以上、やはり納得できてはいないのです。

ではどうしたらいいのでしょう。

悟りの道を歩まれ、それなりの悟りを得ておられる方に申し上げたいことは、まずは、それでご自身が本当に納得できているのかを深く深くご自分に問うていただきたいのです。
どこかで自分の心をごまかしてないか、深く深く確かめていただきたいのです。

深く深く問い、深く深く確かめていかれるうち、きっと新たな発心が起こってくるだろうと思うのです。
そうやって、最後の最後まで進んでいっていただきたいのです。

既に悟りの道を歩まれている方に申し上げるのは少し抵抗を感じるのですが、悟りについて云々される前に、しっかりとした自我をつくっていただきたいと思うのです。
なぜなら、内面に向かう強い意識のベクトルを持った自我をつくり上げること、それがすべてであると言っても過言ではないからです。
そういう意識を持った自我がつくられたなら、その時点でその後の展開はもう決まっていると言えるからです。
そのような自我は、いずれ自己の本質を解き明かそうとする強い衝動が生じ、その衝動に突き動かされるようにして自ずと進んでいくのです。
そして、行きつくところまで自ずといくのです。

では、そのような自我をつくり上げるためにはどうしたらいいのでしょう。

それは善行であり、しっかり生きることなのです。

しっかりと生きることが悟りの種を育むのです。


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迷いの構造について

2014年04月11日 11時27分05秒 | 私の成り立ち
◇迷いの構造について◇

以前から繰り返し書いているのですが、今日は私という存在の根本的な性について、少し具体的な例を挙げながら改めて書いてみようと思います。


私という存在は延々と考えを繰り広げているというか、繰り広げられている考えそのものが私というか、私とはそういうものです。
その延々と繰り広げられている考えの展開には、絶対的なあるパターンがあるのです。
絶対的というのは、常にそのパターン、つまり構造で考えの展開が起こっているのだということです。

そのパターンとは、私という存在が繰り広げる一連の考えは常に、苦や不足感等の負の感覚(考え)を起点として展開されているということです。
私がつくる考えの展開を数時間くらいの短いスケールで見た場合も、数ヶ月や数年、あるいはいくつかの人生に渡る長い期間で見た場合も、考えが展開される基本的な構造は負の感覚(考え)を起点としたものなのです。
そして、楽、喜び等の正の感覚(考え)は、起点となる負の感覚に対する一時的な反射としてあるものであり、それは苦等の負の感覚(考え)が解消されたときに一時的に得られる一過性のものに過ぎないのです。

これを具体例を挙げて説明してみます。

一番分かりやすい例は、空腹感です。
あなたが食事をする、あるいは食事をしようという考えや行動を起こすとき、その考えの起点には空腹感があるのです。
そして実際に食事をしたとき、あなたは満足感を得るでしょう。
しかし、その満足感は、食事を得るという行為そのものから直接的に得られる感覚ではなく、空腹感が解消されたことにより得られる反射であり、一過性の感覚なのです。
それは、空腹感はそれが満たされるまで持続されるのに対し、食事を得たときの満足感はさまに一時的なものである点からも理解できると思います。

また、あなたはよく、あなたを取り巻く状況について何かをしようとされると思います。
ここはこうした方がいいとか、こうあるべきだ等の考えや、それに基づく行動がそれです。
そうした考えや行動も、ここがダメだ、間違っている等の負の考えが起点となっています。

また比較的よくあるケースとして、ヒマだから何かしようという展開があります。
これもヒマという不足感を起点としています。

考えの一つ一つの展開をよく観察すればするほど、そこに同じパターンの構造があることが分かると思います。

それでも、そんなことはない、楽や幸せ等の正の感覚(考え)から始まる展開もあるはずだと思う方がおられるかも知れません。

確かに一定の期間、幸福感等の考えが連鎖的に展開されることがあります。
しかし、その展開は負の感覚(考え)の種を常に妊んでいるのです。
そこにはまず、幸福等の考えを失いたくない持続させたいという、それを失うことに対する恐れという負の考えが不可避的に潜んでいます。
そしていずれは、幸福等の考えが失われるときが到来し、喪失感という負の感覚(考え)をつくるのです。
また、幸福等の正の感覚は不可避的にいずれ必ず飽きがきて、自らそれを手放すことになるのです。
絶対そうなるのです。
これに対し、苦等の負の感覚(考え)は飽きがくることは決してないのです。
苦は楽と違って永久にそれを経験することも可能なのです。


ここまで書いといてアレですが、この題材は書いていてあまり気分がいいものではないです。(^_^;)
読まれる方もさぞ不快な気持ちになられるのではないかと思います。
しかし、これが私という存在が延々と続けている活動であり、私という存在の姿なのです。

ではどうしたらいいのでしょう。

そういう自分自身の姿を悟る、つまり理解するしかないのです。
これしかないのです。

そのためには、自分自身を観る自覚を続けていくしかないのです。
あるいは、すべてを受け入れてしまうしかないのです。

いずれ必ず、迷いから解放されるときが来ます。


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悟りの階梯と自我の関係

2014年04月10日 10時13分26秒 | 私の成り立ち
◇悟りの階梯と自我の関係◇

昨日の記事との関連で、悟りの階梯と自我の関係について書いてみたいと思います。
知識ばっかりを書いてもどうかなとは思うのですが、知識から悟りに入られる方もおられるのと、拙い私の理解でも他の方の理解の確認に役立つ例もあるのだろうと思ったりしています。
それに、自覚は自分を見てくださいと言えばそれだけですし、受容についても受け入れてくださいと言えばそれまでですから、それだけだと書くことがなくなってしまうのです。
私としてもまだ何かを書きたいのです。(^o^)


大凡のケースで、自我の軽さというか、自我がつくる、あるいは掴んでいる考えの少なさと、悟りの深さとは比例関係にあります。
自我がつくる考えの量が少なくなるほど、自我の顕在意識(ハートと言ってもいいです)が拡大し、得られる悟りも深くなっていきます。
なお、考えを殆どつくらない赤ちゃんは悟っているのかと思う方がおられるかも知れませんが、それは違います。
赤ちゃんには理解がないのです。
悟りとは理解なのです。

比較的オーソドックスな悟りのルートである見性ルートで悟りの道を歩まれる方を例として、少し具体的に説明してみたいと思います。

悟りにまったく興味を示さない一般の方の多くは、自我がつくる考えがとても多く、自我の周りが分厚い考えの層で覆われているような状態です。
その状態では、私という存在の本質的な2つの要素である自我も真我も、それらを垣間見ることさえできません。
自我の周りを覆う考えの層がある程度薄くなり、自我や真我が僅かでも垣間見えるようになるにつれて、小さな気づきが始まり、自ずと悟りに導かれるようになります。

そして、自我を覆う考えの層がさらに薄くなってくると、オーソドックスな例として、まず自我を捉える悟りである見性が可能となります。
このとき、内面を観る自覚が役に立ちます。

そしてさらに自覚を続けるることにより、自我を覆う考えの層がさらに薄くなり、それに連れて自我の顕在意識(ハート)が拡大していき、意識の大きさがある閾値を超えると、意識の圏内に真我の外縁が触れるときがきます。
これが真我の目覚めです(真我の第一段階の覚醒です)。

さらにまた自覚を続けることで、自我の中心にある私という感覚のコア(これを魂と言ってもいいです)が消失すると、真我を完全に捉えた状態となります。
これが真我の完全覚醒です(真我の第二段階の覚醒です)。
この状態までくると、自我が積極的に新たな考えをつくったり、それを掴んだりすることはほぼなくなります。
ですが、この段階はまだ真我という考えを掴んでおり、そこにまだ執着があります。

さらに自覚を極め、掴んでいるすべての考えを手放すと、無明の迷いからの解放が起こります。
そして、そこに到達した人は一切の考えを掴まなくなります。
すなわち、それはすべての終わりを意味します。


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私とはまるで自転車操業

2014年04月09日 12時26分23秒 | 私の成り立ち
◇私とはまるで自転車操業◇

私という存在は自我と真我の二面性を有しているのですが、その活動はまるで自転車操業のようです。
どういうことかと言いますと、常に自我が考えをつくりだし、それを握りしめていないと、私という存在が終わってしまうのです。
それはまさに、ペダルをこぐのを止めるとすぐに自転車が倒れてしまうのとよく似ています。

まず私という自我についてですが、自我は、私があるというコアの感覚(これも考えですが、魂と言ってもいいです)を中心にして、自我が握りしめた多数の考え(執着や固定観念のようなものです)がそのコアを何層にも取り巻くようにして出来ています。
このように、自我とは考えの固まりのようなものなのです。
コアとそれを取り巻く考えとは、互いを強め合うように、まるでジャングルジムのように互いに関連付けられています。
このジャングルジムのように組まれた考えは、固定的なものではなく、自我がつくる考えの傾向が変化してくると、その変化に応じてジャングルジムを構成する考えの一部が順次入れ替わっていくようになっています。

このような自我ですが、自我が常に考えをつくり、考えを握り直すようにしてエネルギーを注ぎ続けないと、ジャングルジムの構成が直ぐに崩壊し始めるのです。
そのように、私という自我の構成はとても崩れやすく脆いものなのです。
自我がつくる考えの量が減った場合でも、その減った分だけ崩壊が起こるようになっています。

もし、自我が何も考えをつくらなくなってしまったら、その瞬間、自我そのものがすべて崩壊してしまうのです。
自我とはそれくらい脆いものであり、直ぐに崩壊してしまうものなのです。

真我も自我と同様に自転車操業ではあるのですが、真我の操業はもっとゆっくとしています。
真我とは、自我がつくった考えそのものというか、自我がつくった考えを反映させる装置であるというか、私(自我)を中心としたこの世界そのものというか、そういうものなのですが、真我には考えを溜めておく機能があるのです。
この考えを溜めておく機能とは、例えば前世でつくった考え(執着)が今世で反映される等のことです。

この考えを溜めておく機能により、仮に自我が新たな考えをつくらなくなっても、その後一定期間の間(例えば、肉体が滅ぶまでの間)は、真我の活動(つまり、タンクに残っている執着の反映活動です)が続くようになっています。
そして、その真我の反映活動が続いている間は、その反映活動により起こってくる出来事に関連して、自我が顕在化し、その出来事を経験するとともに、その出来事に起因した種々の考えをつくるようになっています。
但し、この残りの執着(残りカルマ)に起因して自我がつくる考えは、残りカルマの消化のために起こるものであるため、新たな執着をつくりだすことはないのです。


最後に余談ですが、ここまで説明すると、悟りの手段としてなぜ自覚(自分に意識を向ける)や受容に大きな威力があるのかが分かると思います。
自覚をすると、考えをつくり続けている自我の活動が大きく抑制さるのです。
さらには、すべてを受け入れるほどの受容が起きてしまうと、その瞬間自我の活動がほぼ完全に止まってしまうのです。


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苦しみや恐れと向き合う

2014年04月08日 10時45分35秒 | 悟り
◇苦しみや恐れと向き合う◇

私たちは、苦しみや恐怖を感じると無意識のうちにそれから逃れようとします。
苦しみ等を感じるとそれから逃れ、また感じるとそれから逃れると言った繰り返しです。
苦しみ等を恐れる余り、苦しみを感じなくて済むようにと右往左往して取り越し苦労したりもします。
私たちは延々とこのような営みを繰り返しています。

苦しみや恐怖を感じたとき、衝動に任せて安易にそれから逃れようとするのではなく、その苦しみ等を引き起こしている状況と向き合って頂きたいと思います。
腹を括って、苦しみや恐怖の中にどっぷりと浸ってみてください。
起こってくる出来事に対し、とことん受けて立ってみてください。

殆どの場合、最悪でも大したことにはなりません。
多くの場合、とことん受けて立つ覚悟ができた時点で状況が好転するだろうと思います。
希に生死にかかわる状況になることもあるかも知れませんが、言ってしまえば、死ぬことだって大したことではありません。(^o^)

どんな苦しみや恐れに対してもそれを受けて立つ覚悟ができたなら、そのとき、あなたのあなたという経験が終わるでしょう。

そしてあなたは、あなたという存在の本質を知るでしょう。


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