◇私の体験談(解脱の悟り後のこと)(3)ー幸せに気づくー◇
昨日このブログに「幸せについて」という記事を書いたのですが、実はそれは私自身に起こったちょっとした気づきだったのです。
その気づきを体験談として記事にしてみたいと思います。
約12年前に明け渡しが起こったのですが、その当時は重度の自閉症で世話がとても大変な息子を抱え、家庭と仕事の負担に押しつぶされそうになりながら生きていました。
一般的な幸福からは程遠い、厳しく辛い状況にありました。
そのような中、明け渡しが起こり、その後暫くの間、頭の中が何が起こっても有難く思えてしまうという超おめでたい状態になり、このときおそらく、幸福感に関する感覚がかなりの部分吹き飛んでしまったようです。
その後に出会った自覚を通じて、一般的な幸せというものが囚われや執着にまみれた迷いの中にあることがわかったこともあり、幸せを求めなくなったというか、幸せを全くという程意識しなくなってしまいました。
それからの私は、自分のやりたいことにただ取り組み続けるだけで、自分の幸せ意識することなく生きてきました。
そして、昨日(10月18日)です。
ネットである方の動画を観ていて、自分の幸せに気づいたのです。
幸せとは、本心に取り組み、生きる、その営みそのものであることにと気づいたのです。
19歳の頃、全てが無意味に思え、虚無感に苛まれ苦しむ中、「生きよう」と思い立ったときから、私はいつも幸せだったのです。
どんなに辛く、大変なときも、ずっと幸せだったのです。
自分が幸せのど真ん中にずっといたとは、盲点だったというか、気づきませんでした。
これからは、この幸せを味わいながら生きていきたいと思っています。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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◇幸せについて◇
私たちは皆、幸せを求めています。
そして、多くの方は幸せになろうとして、外側に向けて幸せを求めてしまいます。
しかし、そうした取り組みによって本当に幸せになれるのでしょうか。
私は大いに疑問を感じます。
では、幸せは何処にあるのか。
私の答えは、こうです。
人が自身の本心に取り組み、生きるとき、その営みそのものが幸福になる。
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一切皆苦とは、一切が苦ということですが、わかりやすく言えばその中身の多くは存在苦です。
存在苦とは、存在していることそのものが苦、あるいは存在そのものが苦であるということです。
とは言っても、多くの方々はこの存在苦に意識が向くことはありません。
まだまだ経験したいことが沢山あり、経験すること、存在することへの執着が強いからです。
存在苦を感じるようになるのは、おそらく前世で一度あるいは何度か大悟を経験してからだろうと考えています。
なぜなら、小悟者の多くは何らかの絶対的あるいは恒久的なものに対する囚われがあり、そのことが存在への執着を物語っているからです。
また、大悟者についても、一度目の大悟では一切のことがらに対してフラットになり、楽になるだけなのだろうと思うのです。
存在苦を感じ始めるのは、おそらく、大悟後の営みにより虚無が身に染みてきてからのことだと思うのです。
例えば、幼少の頃から深い虚無を感じているような方は、ここで言う存在苦がわかるかも知れません。
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◇仏教における縁起をめぐる誤りについて◇
先日、釈迦が縁起をどう捉えていたかについて調べていたのですが、その過程で南伝系も大乗系も含めて仏教の大半というか、おそらくほぼ全ての系統において、縁起の捉え方を間違っていることがわかりました。
余りの状況に愕然とし、どうでもよくなり、仏教に言及する気も無くなったのですが、気を取り直して最後に、縁起をめぐる仏教が抱えている問題点について書いておこうと思います。
まずは、仏教の縁起に関する誤解について。
先日の記事「龍樹は縁起を誤解している」の中で書いた通り、私という存在は意識であり、その意識は、微細に見ると識が映画フィルムのコマのようにパッ、パッ、パッと連鎖的に連なって生滅することで展開しています。
識は、各瞬間における認識であり、五感に思考や感情を含めた六根を通じて起こってくる現象と、その現象を認識する認識作用が一体不可分に結合したものです。
縁起という言葉、あるいは概念は、おそらく釈迦よりも前からあったのだろうと私は考えています。
そして、先人たちは、連鎖的に生滅する識の連鎖を縁起と言っていたのではないかと私は考えています。
つまり、縁起の本来の意味は、因果関係のことではなく、識の連鎖のことだったのではないかと考えています。
この点について、釈迦が縁起をどう捉えていたかは、今となってはわからないようです。
しかし、釈迦の後に編纂された縁起に関する仏典の多くは、縁起を因果関係として捉えてしまっています。
ここに、大きな誤解があるのです。
しかも、それらの仏典はその誤解のある縁起という考え方を、無常や無我等と同等か、それ以上の扱いをしてしまっており、間違いを深めてしまっています。
なぜなら、因果関係という考え方は無我(一切に実体が無い)という悟りと整合せず、反しているからなのです。
これをどうしたらわかりやすく説明できるのかと、ここ数日考えていたのですが、上手い説明が思い付きません。
これを理解するためには、無我の悟りに伴う不可知(知の限界)を知るしかないのですが、少し試してみます。
因果関係とは、ものごとには原因と結果があるという考え方です。
しかし、ものごとの原因を追究することは、根本的に不可能であり、不可知なのです。
例えば、この世界(宇宙)はなぜ生じたのかや、私という存在はなぜ生じたのかは不可知なのです。
そのような大きなことだけではなく、もっと身近な様々なことについて、実のところはすべて不可知なのです。
例えば、1+1がなぜ2なのかも、海の色をなぜ青と言うのかも、根本的なところでは不可知なのです。
つまり、因果関係はそもそも根本的に不可知であり、悟りの対象にもなり得ないのです。
そして、因果関係という意味での縁起が真理となることもあり得ないのです。
<追記(20241110)>
上の文章の一番最後の一文を追加しました。
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9年程前に見た夢の体験から、私たち存在に関する興味深い情報をいくつか読み取ることができますので、今回はそれを記事にしておこうと思います。
ひょっとすると、この情報がどなたかの役に立つかも知れないと思っています。
その夢の体験はブログ記事にしておりまして、リンクはこれです。
私は12年程前に明け渡しを体験した後から、身体の無い存在になっている夢を頻繁に見ます。
その身体の無い存在とは、本当に身体が無く、視覚だけがあり、意識としては薄っすらとした自我(思考や発意、感情等)があります。
存在の大きさはおそらく点のような小さいもので、透明です。
私は、そのような視点だけの存在になって、人々の様子や景色を眺めている夢を頻繁に見ます。
多くの夢は特筆するようなことは余りないのですが、上でリンクを貼った9年前の夢は、とても変わっているというか、面白いのです。
簡単にどんな夢かと言うと、
視点だけの存在になっている状態から、夢の中の身体のある他の人物と一体化し、その状態のまま暫く時間を過ごした後、再びその人物と分離したのです。
以下、その夢から読み取れる情報について書きます。
◇視点だけの存在があり得る
おそらく夢と現実は本質的な違いはありませんから、夢の中で起こることは現実でも起こり得ると考えています。
ですから、この現実世界でも、身体の無い視点だけの存在があり得るのだろうと考えています。
◇視点だけの存在が他の人物と一体化したり、離脱する可能性
この現実世界においても、視点だけの存在が肉体のある他の人物と一体化したり、離脱するという現象が起こり得ると考えています。
ちなみに、夢の中で、視点だけの存在である私(慧空)が他の人物と一体化したときは、それまでの慧空という認識は消失し、その人物になり切っていました。
しかし、その人物としての自我の働きは私が担っているという感覚でした。
つまり、その一体化している間、私は傍観者ではなく、その人物として主体的に活動していました。
そして、その人物から分離した後は、再び慧空としての感覚が甦りました。
◇一個の肉体に複数の意識存在が同居している可能性がある
夢の中で、その人物に私が一体化する前から、その人物は普通に活動していましたので、既に何らかの意識存在が入っていたのだろうと考えるのが妥当だと思います。
だとすると、私がその人物と一体化していた間は、その人物には複数の意識存在が入っていた可能性があると考えるのが妥当だろうと思います。
そして、これは現実世界においてもおそらく同じであり、私たちの肉体には複数の意識存在が入っている可能性があると思います。
ここで興味深く、かつ謎なのが、一つの肉体に複数の意識存在が入った場合、肉体のコントロール等の活動の主導権はどうなっているのだろうということです。
私は夢の中で、視点だけの存在のときも、他の人物と一体化しているときも、主体的な自我感覚(主導権)は自分にあったように思います。
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