私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

信仰心と依存心

2015年04月24日 17時21分01秒 | 悟り
◇信仰心と依存心◇

ちょっと厳しいことを書きます(基本的にいつもそうですが、笑)。

信仰心と依存心は同じです。
自分の主体性や責任を投げ捨てて、何かに救ってもらおうなんて、虫が良すぎるのです。
そんな都合の良い話がどこにあるでしょう。
それこそエゴのなせる業です。

それに、あなたが縋り付こうとしているその存在は、本当にあなたを救ってくれるのでしょうか。
その存在は、本当に確固たる存在なのでしょうか。
その存在に縋り付いても大丈夫だという、何か確信か根拠がおありなのでしょうか。

盲目的にその存在に縋り付くのではなく、その存在が本当に確かなものなのかどうか、自分の目で確かめてください。

その存在に対する根拠は見つかりそうですか?

根拠や確証もないのに、あなたはその存在に縋り付いておられるのですか?

あなたのその姿は、ほらこれが大変有り難い仏様ですよ、どうぞ触ってくださいと言われ、有り難がって象の体をさすっている盲者の姿と同じです。

しっかりとしてください。
目を開けて、その対象をしっかりと見てください。

誰がその存在を認識しているのですか?
誰がその存在を絶対的で崇高なものとして奉っているのですか?

訳の分からないものに頼らないでください。
自分の責任を何か他のものに委ねようとしないでください。
自分の足でしっかりと立ってください。
自分の責任は自分が引き受けるという自覚と覚悟を持ってください。

何かに頼っているうちはどうにもなりません。


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自らの主張に気づく

2015年04月24日 13時22分07秒 | 悟り
◇自らの主張に気づく◇

私という自我(エゴ)は、直ぐに何かの考えを外に向かって主張しようとします。
実際に口に出して言わないまでも、心の中ではそう言った自我の主張がひっきりなしに続いています。
そして、その自分の主張(考え)が受け入れられたり、評価されると喜び、否定されると怒ったり、イライラしたり、落ち込んだりします。
延々とそのようなことを繰り返しています。

何か考えが起こってきたとき、衝動的にそれを掴んで主張するのではなく、一旦踏み止まって、その主張(考え)をよく観て頂きたいと思います。
また、その主張(考え)が自分の考えであることを自覚して頂きたいと思います。

そして、その主張(考え)や、その主張に至る自分の判断にどういう根拠があるのかを確かめて頂きたいと思います。
その主張にどれほどの根拠があるのか、確証があるのかを確かめてください。

「こうだ!」とか、「これに間違いない」とか、「これが正しい」とか、「それはダメだ」とか、「こっちがいい」とか、そういった主張のどこに根拠があるのかを確かめてください。

私たちは、ろくに確かめもせずに、また根拠もないのに、安易な主張ばかりをやっています。
そして、その主張に対する周りの反応に一喜一憂し、翻弄される始末です。

いつまで続ければ気が済むのでしょう。
いつまで翻弄されれば、気づくことができるのでしょう。

ただ衝動的に主張を続けるのではなく、一度立ち止まってください。
そして、その自らの愚かさに気づいてください。


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自分の本心と逃げずに向き合う

2015年04月23日 10時47分06秒 | エッセイ
◇自分の本心と逃げずに向き合う◇

自分は何をやりたいのか、これは生きる上での最大のテーマです。
しかし、自分のやりたいことを分かっている人はどれくらいいるのでしょうか。
実際には余り多くはないのかもしれないと、私は思っています。

そんなことはない、自分は自分のやりたいことをちゃんと分かってるよと仰るかもしれません。
そう仰る方に、私はさらに申し上げたい。
本当にあなたは、それをやりたいと思っておられますか、と。
あなたは本当に、自分の本心をちゃんと見ておられますか、と。
本心からそれがやりたいと思っておられるのですか、と。

多くの方は、自分の内面、本心がちゃんと見れていないのです。
自分の内面を真っ直ぐに直接見るのではなく、周りが自分を観る目、つまり人の評価ばかり気にしています。
そのような方は、自分がやろうといしていることやその方向性を決めるき、自分の本心ではなく、周りの目である、社会的な価値観等の方を優先して、それを基準にして決めてしまいます。

本当にそれでいいのでしょうか?

私はそれでは嫌だったのです。
私は、もちろん社会的な価値観等も考慮しますが、あくまでも自分の本心の方を大切にして自分のやろうとしていることを決めてきました。
だから私は、生きることに納得できたんだと思っています。

周りの目、つまり外ではなく、もっと「私」に目を向けて頂きたいと思います。
そして、自分は何をやりたいのかという自分の本心をもっとよく知って頂きたいと思います。
本心を知り、それに向き合うことが大切なのです。

本心を知り、それに向き合っていれば、それだけでいいんです。
例え、その本心である自分のやりたいことができなくてもいいんです。
それに挑戦したけど、その結果が目標に届かなくてもいいんです。
本心を知り、それに向き合っていれさえすれば、それだけでいいんです。

本心を知れば、それを叶えたいという欲求や衝動、そしてそれに伴う苦しみが生じます。
その苦しみから逃げないで頂きたいと思います。
苦しみから逃げずに、あなたの本心と向き合い続けて頂きたいと思います。

そうすればいずれ、その苦しみが納得に変わっていきます。
あなたがどう行動したか、またどういう結果が得られたかは関係ありません。

あなたの本心から逃げないでください。
苦しみから逃げないでください。
向き合ってください。


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セッションを検討中です

2015年04月17日 23時18分22秒 | その他
◇セッションを検討中です◇

現在、セッションについて検討しております。
いろいろ考えた結果、私は少なくとも当分の間は社会の中で生きたいのです。
そのためには、どうしてもある程度の収入が必要なのです。
収入が必要だという、至極当たり前の結論にやっとたどり着いたという感じです。

正直なところ、悟りを伝えることで収入を得るということに抵抗を感じています。
なぜそこまで抵抗を感じるのか自分でもよく分からないのですが、私の場合は感じてしまうのです。
抵抗は感じるのですが、現実問題としてやむなしという感じです。
自分のやれることは限られているのだから、選り好みしている余裕なんてないのであって、やれそうなものは取りあえず試してみるしかないんだ、という感じです。

自分に収入が得られそうなものは、取りあえず何でも試してみるぞ、という覚悟のもと、今年はやってみようと思っています。

と言う訳で、悟り(特に自覚)をお伝えするセッションを検討しております。

検討中のセッションは、以下の3タイプです。
・インターネット(スカイプ)等を使った個人セッション
・複数の方を対象とした講話形式のセッション
・対面での個人セッション
講話セッションと対面個人セッションの場所は、東京都内や神奈川県内の小さな会場を借りようと思っています。

近いうちに、具体的な内容についてここに発表したいと思います。

なお、何で収入を得るかについては、セッション収入だけではなく、普通に働くことも含めて検討、模索しております。


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考えに対する主導権を取り戻す

2015年04月14日 16時05分33秒 | 悟り
◇考えに対する主導権を取り戻す◇

多くの方は、起こってきた感覚や感情、思考、衝動等の考えに同化し、ほぼ常に考えに呑み込まれたまま生きています。
その姿はまるで、動物かロボットのようです。
自分には理性があると思っているのかもしれませんが、考えに呑み込まれ、ただただ盲目的かつ衝動的に思考し、行動するその姿にどれ程の理性があると言うのでしょう。

自分自身を振り返ってみてください。
多くの方は外側ばかりに意識がいっていて、自分自身を振り返ったことがありません。
繰り返し、繰り返し、延々とただただ考えに呑み込まれている自分自身の姿をよく見てください。
そして、考えに翻弄され、考えに溺れている自分自身を救い出してください。

考えに対する主導権(主体性)を取り戻してください。
もうそれ以上、考えの言いなりにならないでください。

自分はどうしたいのか、自分の真意に気づいてください。
そのように、考えに溺れ続けたままでいいのですか?

その選択権は、常にあなたの手元にあります。
そのことに気づいてください。


私の上に考えを掲げ、その考えを崇め奉る人はその考えの奴隷です。
その考えがどのような崇高なものでも、それを崇める人は奴隷です。

神を奉る人は神の奴隷です。
真理や法に縋る人も、真理や法の奴隷です。

私たちは直ぐに、何か絶対的なものをつくりだし、あるいは見つけ出し、それに縋り付き、頼ろうとします。
そのような考えのどこに絶対性があるというのでしょう。
絶対だという確証もないまま縋り付くのはどうしてでしょう。

根拠も無い曖昧な考えに縋り付き、奴隷のように従属している自らの姿に気づいてください。

その姿は、人間の形に成形された彫刻を崇め奉り、熱心に拝んでいる姿とまったく同じです。

彫刻も神も、考えに過ぎないということに気づいてください。

彫刻にあなたの主導権を渡さないでください。


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個人的なこと(近況など)

2015年04月14日 13時03分59秒 | 個人的なこと
◇個人的なこと(近況など)◇

最近の私の様子などについて少し書いてみたいと思います。
ちょっと変化しているところがありますので。
でも、家族のことは書けません(家内が絶対に書くなと怒るので、笑)。

最近、愛が溢れ出すんです。
こんなこと言うのはちょっと気恥ずかしいのですが、そうなんです。
毎日のように溢れ出してしまうんです。
自分の愛はもう枯れた、あるいは枯れていくのかと思ったりもしてたので、ちょっと意外に思っています。

どういう感じかと言いますと、溢れっぱなしという訳ではなく、ちょっとした切っ掛けで暫くの間そうなるという感じです。
そうなると、愛と一緒に涙も溢れますので、暫く泣きます(笑)。
私にはハートがもう無いので、ハートが共鳴するという感じではなく、その愛がどこから湧いてきているのか自分でもよく分からないのですが、内面のどこかから沸き上がってくるんです。

愛が溢れるようになってきたことと関連しているのかもしれませんが、最近改めて分かってきたことがあるんです。
それは、自分がこの社会を含めたこの世界を結構好きなんだということが分かってきたんです。
社会は煩わしいのでできればもう勘弁と思っていたので、これもちょっと意外な感じです。

自分でも本当に意外なのですが、人も結構好きみたいなのです。
思わず愛おしく思ったりしてしまうんです。

さらにそれと関連してなのか、ちょっと働いてみようかと思ったりしています。
近いうちに福祉現場か何かの仕事をちょっとやってみようかと思っています。
この件はまたここで報告したいと思っています。

こう書いているとまた愛が溢れてしまい、泣いています。(^o^)、(T_T)
なんなんでしょうね。(^o^)、(T_T)

また書きますね。(^^)/


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どうして自分はそれをするのか

2015年04月13日 14時41分11秒 | 悟り
◇どうして自分はそれをするのか◇

多くの方々は、自分自身の行為について余りに無自覚です。
どうして自分がそれをしているのか、全くと言っていい程自覚がありません。

そのような方々は、自分がやっている行為について、いつも何かのせいにします。
本当は自分はやりたくないのだけど、それをやらないと大変なことになりそうだからしょうがなくやるんだ、とか。
やらなきゃいけないからやるんだ、とか。
やるのが当然だからやるんだ、とか。
みんなやってるから自分もやるんだ、とか。
誰かにやれと言われたからやるんだ、とか。

それが嫌なら、今すぐやめればいいんです。
学校も、仕事も、家族も、生きることだって、嫌なら今すぐやめたらいいんです。
やめたって何一つ問題なんてありません。
ほっぽり出せばいいんです。

でも、実際にはやめられないでそれをやってしまう。
これが多くの現実です。

どうしてやめられないのでしょう?
それが嫌なのでしょ?

どうしてもやめられないでそれをやっている自分自身に意識を向け、自分自身をしっかり観てください。

何か気づきませんか?


ある方は、こうあるべきとか、これが正しい等の固定観念に縛られ、ただ盲目的にそれをやっている自らの姿に気づくかもしれません。

またある方は、何かを失うことや、何かが変わってしまうことを恐れる余り、何かを守ろうとして衝動的にそれをやっている自らの姿に気づくかもしれません。

またある方は、自分がそれを嫌々やっていると思っていたが、それは表面的なことで、本当は自分がまさにそれをやりたくてやっていることに気づくかもしれません。

あるいは、さらに他の気づきが生じる方もおられるかもしれません。


あなたは、どうしてその行為をやっているのですか?


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涅槃体験の効用など

2015年04月13日 09時23分24秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇涅槃体験の効用など◇

先日「涅槃を体験する方法」という記事を書きましたが、今日はその体験の効用などについて書いてみたいと思います。

先日の記事の中でも書きましたが、基本的には、涅槃の体験は他の禅定体験と同様に、それ自体は悟りとは関係がなく、それを体験したからといって悟れる訳ではありません。
しかし、全く何の役にも立たないという訳ではなく、人によっては悟りを進める上で大変役に立ちます。
今日は、どのような点でその体験が役に立つのかを書いてみたいと思います。

私は、その体験には主に二つの効用がると思っています。
一つ目の効用として、一切は幻であるという理解の助けになります。
悟りの階梯を進み、「観るものは観られるもの」の悟りである大悟まで至り、さらに進んでいくと、私とは意識、あるいは意識の連鎖そのものであるという理解が生じます。
ここまで来ると、その意識であると言っているものも幻だろうということは一応は理解できているのだろうと思うのですが、それがどこまで腑に落ちているのかというとちょっと怪しいというか、まだ少しモヤモヤとした曖昧なところが残っている人もいるのではないかと思うのです(私(慧空)自身、そうでした)。

それが、涅槃を体験することで、私そのものである意識も幻であることが腑に落ちるんです(私の場合は腑に落ちました)。
どういう具合に腑に落ちるのかと言いますと、私は意識そもものだという理解が得られている人は、意識である私がこの世界そのものだと理解しているはずなのです。
そのような理解を得ている人が、涅槃に落ちると、意識が完全に断絶しますから、それと同時に世界も完全に消失する訳なのです。
それを目の当たりすると、否応無しに、一切が幻であるということが附に落ちてしまうのです。
もちろん、涅槃に落ちて意識が断絶しているときは、自分の意識が断絶していることも、世界が消失していることも認識できません。
涅槃から通常の意識に戻って来たときに、それを認識するのです。

この一つ目の効用と関連して、人によっては涅槃の体験を切っ掛けに大悟を得る方がいるのだろうと思っています。
どういうことかと言いますと、大悟を得る直前の人は、既に大分思考が抑制され、意識の集中が進んでいます。
そういう人が涅槃に落ち、涅槃から通常の意識に戻ってくるときは、高い意識の集中を保った状態で通常の意識に戻ってきます。
涅槃から通常の意識の戻ってくるときは、五感の認識(音の認識が多いです)に対する認識に伴って戻ってくるときが多いのですが、そのような意識の集中が高い人は、涅槃から戻って来た瞬間に、自分の意識が音そのもの、あるいは音に対する認識そのものであることを実感し、それに気づくことがあるのです。

余談ですが、大悟は、このような涅槃の体験に限らず、高い意識の集中が生じているときに、ストンとその理解が生じることがあります。
例えば、瞑想や座禅中に、何かの音を聞いて、あるいは何かを見て、その音や対象と自分の意識の統合(主客の統合)を実感し、理解するという体験例は、以前から複数あるようです。

二つ目の効用としては、その体験が一切皆苦に対する気づきの助けになることです。
涅槃に落ちているときは、意識が完全に断絶していますから、世界もそれに対する認識もない訳です。
煩わされるものが一切無い訳です。
それに対し、通常の意識に戻ってくると、私という自我が起こり、この世界で起こる現象に付き合わされ、引きづり回される訳です。
そして、自分でも気づかない知らず知らずのうちに、いつもの状態と涅槃とを比べてしまうのです。
例えどんなに素晴らしい現象が起きようと、一切何も無い涅槃に比べれば煩わしく思えてしまうのです。

そのような人は、究極に覚めた目で世界を観るようになっていきます。
そして、どのような現象も一切苦であるということを理解することになります。

ただし、涅槃の体験は効用ばかりではありせん。
それはちゃんと他の影響ももたらします。

その他の影響とは、例えば涅槃に対する囚われ(執着)です。
中には、涅槃を究極で絶対的なものだと思い込んでしまう人もいるのだろうと思います。
また、涅槃に執着する余り、涅槃を求め、涅槃に入り浸る人もいるのだろうと思います。

ここで、また自覚が効力を発揮します。
涅槃もまた、私の考えであり、幻なのです。
ですから、涅槃にも囚われないようにして頂きたいのです。

涅槃を知り、苦を知り、その苦に対する反応として生じている自らの衝動を知ります。
そこまで知れば、終わります。


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一元という幻想

2015年04月12日 07時42分54秒 | 悟り
◇一元という幻想◇

どんなことがらも、それに囚われるとき、良い悪い等の二元性を帯びます。
一元もそうです。

一元も私が考えている考え(幻)なのです。
幻想です。
幻想ですから、それそのものには二元性はありません。

しかし、一元という考えを掴むとき、それは二元性を帯びます。
なぜなら、それが良いものと判断したから、それを掴んだ訳ですから。

真理もそうです。
愛もそうです。
どれもみな、幻想です。
それらは、それを掴まなければ二元性はありません。
ただ起こってくる考えであり、過ぎ去っていくだけです。

どんな尊い考えも、それを掴めば自我(エゴ)の肥やしになります。
掴んでいる本人には、それがなかなか分かりません。

一元も真理も、愛もそうですが、それらを掴んでしまう人は、それが考えであるということが分かっていないのです。

誰がそれを認識しているのしょう。

「私」です。
「私」が認識している考えであり、幻です。

では、「私」はどうでしょう。
今度は、あなたのその視線を「私」に向けてみてください。

一切は考えであり、幻想であると分かるはずです。


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メモ:生活費は月3万―5万円 自作の小屋で暮らす若者たち

2015年04月11日 19時34分39秒 | その他
◇メモ:生活費は月3万―5万円 自作の小屋で暮らす若者たち◇

いまさっき、ヤフーのニュースサイトで、面白い記事を見つけたのでメモしておきます。

記事の引用先サイトはここです。

◇以下、引用です◇

生活費は月3万―5万円 自作の小屋で暮らす若者たち
朝日新聞デジタル 4月11日(土)16時36分配信

 自作の小屋で暮らす若者が千葉県内で相次いでいる。郊外の手頃な土地を購入し、量販店で仕入れた建材でインターネットを見ながら自らで建築。普段の生活は井戸水を使い、電気も最低限の電流を契約する「エコ」な暮らしぶりだ。ネットでその輪も広がりつつある。

 九十九里浜にほど近い九十九里町作田。吉田克也さん(28)は一昨年11月に東京・世田谷から自転車でリヤカーを引いて移住してきた。

ネットで検索して見つけた140平方メートルの空き地を45万円で購入。業者に依頼して井戸を掘り、最低電流の電気も引いた。

テントで暮らしながら、近くのホームセンターで建材を買い、ネットに掲載された建築の方法を参考にして毎日少しずつ建設。約1カ月で4畳ワンルームの小屋を完成させた。ここまでの出費は計約90万円。

普段の生活も質素だ。水道代は無料だが、電気代は月約400円。日々かかるのは食費がほとんどだが、家庭菜園で野菜を作ったり、近所から食料品を分けてもらったりも。締めて月3万~5万円ほどの出費だ。「節約するつもりはないのだが」と吉田さん。

◇引用、ここまで◇


この生活はありですね。


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彷徨い人

2015年04月11日 08時30分14秒 | エッセイ
◇彷徨い人◇

私たちはつい、何かに拠り所を求め、それに縋り付こうとします。
その対象をよく確かめもせず、握り締め、それに頼ろうとします。
その姿は幼子のようでもあり、疲れ果てた旅人のようでもあります。

その道のりの中で時折何かを見つけ、「これだ!」、「ここだ!」という喜びが訪れます。
しかし、それらは一時的なものであり、過ぎ去ってしまいます。
そして、喪失感が残ります。

最初のうちは、それが幻であることさえ気づきません。
同じような行程を何度も何度も重ねるうち、印象が積み重ねられ、少しずつ分かっていきます。
「これじゃない」、「何か違う」と。

そして、信じられるものは何もない、どこにも拠り所は無いということが分かっていきます。
そうすると次は、虚無感に苦しめられるようになります。
それでも、彷徨い続けます。

彷徨い続けている自らの姿に気づくまで、それは続きます。


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内面のモヤモヤと自覚

2015年04月10日 08時12分28秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇内面のモヤモヤと自覚◇

私たちの内面には、何だかよく分からないモヤモヤとした何かがあります。
自分には無いと言う方がおられるでしょうが、それはあなたの誤解です。
必ずありますから、あなたの内面をしっかりと見つめてください。

そのモヤモヤが私という存在の根っ子です。
感覚や感情、思考、衝動など、私にかかわることはすべてそこから起こってきます。

また、そのモヤモヤは、私という存在の根っ子にある「苦」そのものであるということもできます。
あるいは、私という自我の衝動そのものだということもできます。

さらに、そのモヤモヤは、自我が握り締めた考え(囚われ)の集合ということもできます。
そのモヤモヤとした感覚は、それらの囚われとの関連で起こってくる不安や恐れ、衝動なのです。

あなたのその内面にあるモヤモヤを誤魔化さないでください。
それから目を背けないでください。
あなたの内面にはまだ、モヤモヤとした何かがあるはずです。
あなたの内面に目を向け、モヤモヤを捉えてください。

そして、自覚の目でそのモヤモヤを見つめてください。
モヤモヤを焼き払うくらいの強い気持ちを持って、見つめてください。

そうやってモヤモヤを見つめていれば、いずれモヤモヤが溶けるように小さくなっていきます。


<補足(2015年4月11日)>
モヤモヤについて、メールでご質問を頂きましたので、補足しておきたいと思います。

ご質問の内容は、モヤモヤについて、それは過去記事で私が書いている、ハートのコアと同じものか、というものでした。

モヤモヤは、ハートのコアと同じものではないです。
モヤモヤの大きさや感じ方等は、悟りの深さと関係しています。
ハートの付近に感じる人が多いのかもしれませんが、頭でそれを感じる人もいるのだろうと思います。
ハートのコアがまだ残っている人は、モヤモヤにはそのコアも含まれています。
コアが消えてもなお、モヤモヤは残ります。


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ハートの蛇口を開いてください

2015年04月09日 12時50分55秒 | 悟り
◇ハートの蛇口を開いてください◇

私たちはいつも、自分の愛を出し惜しみします。
いろいろ条件や制限を付けて、これじゃあ愛せない、愛する訳にはいかないと思い、愛を制限します。
もう習慣やクセのようになってしまっていて、自分が制限していることも分からなくなっています。

ただ習慣のように制限するのではなく、ちょっと立ち止まってみてください。
そして、なぜ制限したり拒絶するのか、どうして制限する必要があるのか、考えてみてください。
ちょっと視点を変えるだけで、その対象に対する印象は大きく違ってきます。

その対象は、本当に嫌なものですか?
拒絶しなければいけないものですか?

あなたの愛は、いつも溢れ出そうとしています。
それは、どんな対象に対してもです。

あなたがその制限を少し緩めるだけで、あなたの愛は溢れ出します。
そして、ハートが震え出します。

さあ、あなたのハートの蛇口を開いてください。


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安易に肯定しない

2015年04月09日 08時00分13秒 | 悟り
◇安易に肯定しない◇

悟りの行程で、肯定が使われることがあります。
肯定は、許しや受け入れを促すからです。

しかし、悟りの行程の後半になるにつれ、肯定よりも否定が有効になってきます。
肯定だと、意識が緩慢になり、甘えや依存に傾きやすく、悟りが停滞してしまうのです。
安易な肯定は、内面にまだ曖昧でモヤモヤとしたものがあるのにかかわらず、それを誤魔化してしまうのです。

それに対し、否定的な視線は厳しくシャープなものとなりやすく、また疑いの視線を伴います。
このため、否定の意識の方が、自分が掴んでしまっている曖昧な考えやモヤモヤに対する追求が進みやすく、また安易な妥協も生じにくいのです。

悟りの道を歩む過程で、多くの方が魅力的で特徴的ないくつかの考えに触れます。
それらの考えは確かに魅力的です。
しかし、どの考えも、それが真実であると肯定できるものは何一つありません。
そもそものところ、一切は考えであり、幻想なのですから。

安易に肯定に傾倒しないでください。
すべてを否定するくらいの厳しさを持って、歩んで頂きたいと思います。


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悟りの終着点はありません

2015年04月08日 20時51分09秒 | 悟り
◇悟りの終着点はありません◇

悟りの終着点について主張する方がおられますが、それは誤解です。
そもそものところ、終着点なんて存在しないのですから、それを語ること自体ナンセンスなのです。

それにどういう根拠があるというのでしょう。
根拠も無いのにそれを主張する、自らの愚かさ、幼さを省みて頂きたいと思います。

あなたが主張するそれは、あなたの考えであり、幻です。
誰がそう考えているのしょう。
それを考えているあなた自身を振り返って頂きたいと思います。
そして、その考えを掴んでいるあなた自身に気づいてください。

あなたが口にしているその終着点は、あなたの考えです。


しかし、悟りの行程には終わりがあります。
何かを求めている自らの衝動に気づけば、それで終わります。
それは、何処かに到達したということではなく、衝動そのものの停止です。


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